ひと頃、『14歳からの~』というタイトルの本がはやった。きっかけは池田晶子『14歳からの哲学』(トランスビュー、2003年)である。14歳という年齢は、いろいろと疑問や悩みを抱え始めると同時に、まだ世間的にコンベンショナルな思考パターンにははまっていない、そうした端境期という位置づけになる。私が『荘子』を初めて読んだのがまさに14歳の時だった。これは私の乏しい読書遍歴の中では最も決定的な体験で、この頃に『荘子』を読んだ感覚、それは何かと問われても「曰く言い難し」なのだが、この漠然としながらも確信を持った感覚をテコにすると、単に東洋思想というだけでなく、西洋近代哲学も意外と身近な問題意識の中で読んでいけた。自分なりの勘所がおさえられた。その意味で『14歳からの哲学』に相当するものが、私の場合には『荘子』だったと言える。
「14歳」にはいろいろなシンクロがあった。例えば、神戸須磨区の酒鬼薔薇の少年。あるいは「新世紀エヴァンゲリオン」の少年少女たち。宮台真司『14歳からの社会学』(世界文化社、2008年)はそのあたりも意識したタイトルだろう。宮台真司『中学生からの愛の授業』(コアマガジン、2010年)は女子中学生相手の対談という形式(どうでもいいが、このタイトル、書店で買うときものすごく恥ずかしかった…)。いずれも宮台自身の私語りも交えた社会学的人生論といった趣である。好き嫌いはあるだろうし、私自身、こういう甘っちょろい系は本来好きではない。ただ、一見情緒的なようでいて、結構シビアな社会学的認識がしっかり踏まえられていることがかみくだかれた言葉の端々から見えてくる。その点で私は肯定的だ。
むかし、田原総一郎、西部邁、佐高信をホスト役にゲストを一人招いて討論するミニ「朝生」的な深夜番組をやっていた。宮台がゲストのとき、どんなやりとりがあったか正確には覚えていないのだが、西部が「こんな奴と話したって無駄だ」と言って番組途中(生放送)で帰ってしまった。共同体の空洞化について、西部が例によって伝統云々とやっているのに対し、宮台がそういう保守オヤジの説教は無意味だ、と批判していた。西部が帰ったあと、宮台が「問題意識は同じなんですけどねえ」とつぶやいていたのが妙に記憶に残っている。
上記『14歳からの社会学』『中学生からの愛の授業』では、自己決定の前提として「尊厳」が必要だというテーマで一貫している。「尊厳」と言っても人権論的正義として語られるものではなくて、自己信頼感と言ったらいいのだろうか。失敗しても自分の存在価値を毀損させず確信していける感覚と言えばいいのか。これがなければ試行錯誤的に自分で選択肢を切り開いていくことができない。そして、この「尊厳」は、家族、仲間、地域共同体などの直接的な人間関係の中でのコミュニケーションを通して育まれるものだ。親・教師などではなくて近所のおじさんから知恵を授かるナナメの関係とか、ミメーシス(感染的模倣)を引き起こしてしまうほど尊敬できる人物とか。しかし、一人一人が孤立化する傾向のある現在、ここのところがうまくいっていないという問題意識である。
共同体の回復をスローガンとして叫んだところで、社会学的認識からすればもう元には戻らないし、元に戻すことが必ずしも良いわけではない。ならば、そうした厳然たる現実を所与の前提とした上で、若い子たちに生き抜く知恵を語りかけるにはどうしたらいいのか。そこに宮台の問いかけがある。社会学的人生論と言ったのはそういう意味だ。
現代社会の特徴をポストモダンとするのか、それともモダンがむしろ強化された時代と考えるのか、いろいろと議論はあるが(私自身としては後者の方に説得力を感じている)、いずれにしてもバラバラになった個人が互いの差異をめぐってグルグル回るようにせめぎ合い続ける不安定な社会というイメージでは一致しているだろう。ジグムント・バウマンはそれを「リキッド・モダニティ」(液状化した近代)と表現した。頻々と否応なく突きつけられ続ける選択肢を前にしたとき、自己決定の主体として自己信頼感としての「尊厳」が重要になる。ところで、社会格差論というのも、経済的格差そのものの問題ではなく、こうした「尊厳」の育まれる場としての直接的コミュニケーションに入れる生育環境にあったか、なかったというレベルでの格差が実は大きい(そうした人的ネットワークは富裕層の方が恵まれているという点で経済格差の問題につながるのだが)。私は『反貧困』の湯浅誠を高く評価しているが、それは単に貧困問題に取り組む活動家という点ではなく、彼の主催するNPO「もやい」は社会的に孤立して「すべり台」のように底辺へと落ち込んでしまった人々へ、セーフティネットとしての過渡的・擬似的共同体をつくろうとしているからだ(「ため」と表現される)。その中で自己信頼感としての「尊厳」を立て直すことが、自律的な自己決定の主体として社会へと再参入するきっかけになり得る。
社会的認識と人生論とを結びつけた本として、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(新潮社・少国民文庫、1937年→岩波文庫、1982年)も思い浮かべた。吉野という人への政治的評価はいろいろとあるだろうが、作品そのものとしてこれはやはり良い本だと思っている。『君たちはどう生きるか』の場合、コペル君という一人の少年を主体として客体としての世の中を広く見ていくという方向性をとるが、対して『14歳からの社会学』『中学生からの愛の授業』では身近な人間関係の中での「私」の態度のとり方についての話題が大きなウェイトを占める。どちらが良いか悪いかという話ではなく、時代背景の違いがはっきりと見えて、そうした視点で両方を読み比べてみても面白いかもしれない。
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