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2010年7月17日 (土)

【映画】「ぼくのエリ 200歳の少女」

「ぼくのエリ 200歳の少女」

 オスカーは12歳、学校でいじめられている。その鬱憤晴らしのように団地中庭の木に「この豚、殺してやる!」とナイフを突き立てていたある雪の夜、一人の少女と出会った。名前はエリ。最近隣に引っ越してきたばかりらしい。「君はいくつ?」「だいたい12歳くらい」「だいたい?」 表情は妙に青白くて不自然なところもあるが、彼女のどこか大人びたたたずまいに、孤独な気持ちをかこっていたオスカーはひかれ始めた。ちょうどその頃、謎の連続殺人事件で町は大騒ぎ──。

 単純なボーイ・ミーツ・ガールの青春ストーリーではない。なにしろ、エリはヴァンパイヤなのだから。もちろん彼女とて生きなければならない。そのためには生血をすすらなければならない。血をすする姿をオスカーに見られた。彼女のやるせないような切ない表情、そこに弦楽合奏の叙情的に美しいメロディーがかぶさる。胸にグッとくる。

 エリはオスカーにささやく、「私のこと、本当に好き?」「もちろんだよ」「私が女でなくても好きでいてくれる?」「そんなの関係ないよ」 どうやら「彼女」、生まれつきの女ではないが、男性器がないため男でもないらしい。オスカーに血をすする姿を見られた後、エリは哀願するように言う、「私を理解して!」 

 無条件に相手を受け入れ愛していくこと、それを人は「純愛」と呼ぶのであろう。それはただの思い込みかもしれないし、高尚な言い方をすれば「たら、れば」なしのカント的定言命法とも言えるだろうか。

 ここで視点を移動してみよう。エリと一緒に暮らしていた連続殺人犯のおっさんのことである。彼はエリに貢ぐため人を殺して血を集めていた。失敗したとき、エリに累を及ばさないため自分の身元を隠そうと顔に塩酸をかけた。最後はエリに自分の血を吸わせてから身を投げて死んだ。すべてエリへの愛のためである。

 映画の終盤、オスカーはすんでのところでエリによって助けられ、一緒に列車に乗って遠くへ行くシーンで終わる。青春の苦い思い出どころではない、恐ろしいバッド・エンドである。オスカーはやがてあのおっさんのように、無条件の愛であるがゆえにエリによって身も心も支配されることであろう。それは彼自身の主観としては幸福かもしれないが、第三者として見るとグロテスク極まりない。この作品はヴァンパイヤ映画だからホラーなのではない、「純愛」なる魔性の観念=イデオロギーこそがよほどおぞましいホラーなのである。

【データ】
英題:Let the Right One In
監督:トーマス・アルフレッドソン
原作・脚本:ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト
音楽:ヨハン・ゾーデルクヴィスト
2008年/スウェーデン/115分
(2010年7月17日、銀座テアトルシネマ)

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コメント

はじめてコメントさせていただきます。

オスカーの将来については原作者(=脚本)と監督とで解釈が微妙に違っているみたいです。脚本では、もっとハッピーエンドな印象を持てるラストを想定していたようです。
実際、原作ではエリと同居していた中年男性とオスカーとでは全く立場が違い、オスカーの未来にイメージをダブらすことができません。オスカーはエリにとって唯一無二の存在として描かれています。
もっとも、監督の方もインタビューの中で、オスカーも自らすすんでヴァンパイアとなる選択肢もある得ることを匂わせていますが。

投稿: esme | 2010年7月23日 (金) 18時13分

esmeさま、はじめまして。

私は映画を観ただけで原作は読んでないのですが、あの中年男性について映画ではだいぶ描写が省かれていましたね。人物的背景がよく見えない。そこに色々と解釈の余地が広がるのかな、と。

原作者と監督とでも微妙に解釈が違うのですか。でしたら、私が見当違いな解釈をしても許されますかね(笑) 

投稿: トゥルバドゥール | 2010年7月23日 (金) 18時47分

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