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2010年6月 9日 (水)

劉傑『漢奸裁判──対日協力者を襲った運命』

劉傑『漢奸裁判──対日協力者を襲った運命』(中公新書、2000年)

 中国や韓国で「親日派」という言葉にはネガティヴ・イメージが込められており、うかつには使えない。もちろん侵略戦争や植民地支配で日本のお先棒を担いだ人々とみなされているからで、それと区別するときは「知日派」という表現が使われる。東アジアにおける歴史認識問題を考える上で、この「親日派」=「漢奸」と指弾された人々の位置付けは下手すると政治的感情論を招き起こしかねないナーバスな難しさをはらんでいるが、避けて通ることはできないだろう。本書はいわゆる汪兆銘政権に参加した人々を具体例としてこのやっかいな問題に切り込んでいく。

 焦点となる漢奸裁判を検討する前提として、日中戦争時に日本側から仕掛けられた和平工作、とりわけ汪兆銘工作について前半で解説される。この箇所は基本的に劉傑『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、1995年)の要約となっている。日本側と汪兆銘側との認識のズレが致命的だった。重慶政権を脱出した汪兆銘たちとしては日本軍の早期撤退、不平等条約改定等の具体的成果がなければ単なる「漢奸」に成り下がってしまうという焦りがあった。ところが、日本側の主目的は蒋介石の重慶政権との交渉であり、汪兆銘の新政権はそのための手段に過ぎず、将来の重慶政権との交渉を見越して汪兆銘政権に対して厳しい条件を突きつけ続ける。彼我の実力差が歴然としているとき、妥協や和平を求めることは必ずしも裏切りとは言えないだろう。ただし、中国の歴史文化には敵への妥協を売国とみなす考え方があり、具体的成果をあげられなかった汪兆銘たちはこの伝統的考え方を上回るだけの正当性を示すことができなかった。日本の「和平工作」に謀略的色彩が強かったため、汪兆銘たちは自分たちの意図とは違う方向で「漢奸」へと追い込まれてしまった、つまり、和平の意図が日本側に利用された結果として中国内での「漢奸」イメージにつながってしまったことが指摘される。

 漢奸裁判は売国奴か否かを問うものであって、通例の戦争裁判とは性格が異なる。何が売国的なのかの基準は解釈に依存し、最終的には蒋介石の意志に委ねられる。「一面抗戦、一面和平」という考え方で実は汪兆銘の行動を蒋介石は了解していたのではないかという推測が当時も今も絶えない。また、汪兆銘政権の実力者・周仏海は当初から重慶政権側と連絡を取り続けていた。汪兆銘の墓所の不自然な爆破、周仏海の減刑、繆斌の早期処刑などからは、蒋介石自身もまたこうした「漢奸」イメージを取り扱う難しさに苦慮していたであろうことも窺える。汪兆銘死後に主席となり戦後は処刑された陳公博は、国共交渉が膠着して長引いたときは国民党内の幅広い勢力を味方につけるため自分たちは釈放されるだろう、しかし国共分裂が不可避なとき蒋介石は軍事独裁のため他勢力の粛清を進めるだろうから自分は助からない、と分析していたらしい。

 なお、漢奸裁判における個々の具体的な事例を知りたい場合には益井康一『漢奸裁判史』(みすず書房、1977年)が便利である。

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