ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』
ポール・ヴァレリー(恒川邦夫訳)『精神の危機 他十五篇』(岩波文庫、2010年)
・ヴァレリーの文明批評的なエッセイ16篇が一冊に集められている。表題作「精神(esprit)の危機」は「我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている」という一文から始まる。書かれたのは1919年、すなわち第一次世界大戦が終わった直後である。例えばシュペングラー『西洋の没落』をはじめ、大戦の破滅的な惨禍を目の当たりにして近代文明に対して芽生えた懐疑からペシミスティックな文明論が現われたが、ヴァレリーの警句もそうした危機意識漂う気分の中に位置付けられるだろうか。
・現代文明に対して彼が抱いた危機意識は、社会全体の組織化・平準化によって個人それぞれの精神的自由もが奪われていくところにあると言えるだろう。「方法的制覇」は経済的・軍事的大国として台頭しつつあるドイツに現代社会の一つのプロトタイプを見出している。偶然性を徹底的に排除する方法的合理化→一つの事業に向けて大衆組織化→みんな規律に従い、不服従はない→方法的規律化によって大きな成果を生み出すが、他方でそれは個人の平準化をもたらす。マックス・ヴェーバーが“官僚制”の理念型で近代社会を特徴付けた“鉄の檻”の議論などが想起される。
「機械が支配する。人間の生活は機械に厳しく隷属させられ、さまざまなメカニスムの恐ろしく厳密な意志に従わされている。人間が作り出したものだが、機械は厳しい。現在では機械が自分の生みの親たちに向かって規制を加え、彼らの意のままに支配しようとする。機械には訓練を受けた人間が必要である。機械によって、人間の個人差は消滅させられ、機械の規則正しい機能性と体制の画一性に応えられるように訓練される。機械は、したがって、人間を自分たちの用途に合わせ、ほとんど自分たちの似姿に変革するのである。」「機械が我々にとって有用に思われれば思われるほど、我々自身は不完全な存在となり、機会を手放せなくなる。」「最も恐るべき機械は回ったり、走ったり、物質やエネルギーを輸送したり、変形したりする機械ではない。銅や鋼で作られたのとは別の、厳密に専門化した個人からなる機械が存在する。すなわち諸々の組織、行政機械といったもので、非人格的であることにおいて精神の存在様式に範を取って作られたものである。」(「知性について」90~91ページ)
「結局、近代生活の条件は不可避的に、容赦なく、個人を平準化し、個性を均等化する方向にむかうだろう。平均値がむかうところは、残念ながら、必然的に最低水準の範疇に属するものである。悪貨が良貨を駆逐するのだ。」(「「精神」の政策」152ページ)
・近代社会はこうした合理的大量生産によって多大のエネルギーを活用しようとするが、他方で生み出していくものを消費する。必要があって消費するのではなく、浪費するために新しい何かを発明しようとする。
「我々が生きる現代世界は、自然エネルギーをより有効に、より広範囲に利用することに鎬を削っています。絶えざる生活の必要を満足させるために、自然エネルギーを探索し、消費するばかりでなく、浪費するのです。浪費することに夢中になって、新たな使い道(これまでに夢想だにしなかった用途まで)を創造し、かつて存在しなかった新しい欲求を満足させる手段を考え出すのです。」「したがって、我々は、産業の繁栄のために、我々の内面から沸き起こってくる生理的な欲求とは無関係な、意図的に外側から圧しつけられる心的・感覚的刺激に由来する様々な趣味や欲望を吹き込まれるのです。」「我々の感官は、力学的・物理学的な種々の実験にますます曝されるようになり、そうした外から圧しつけられる力や律動に対して、陰険な中毒症状に対するような反応をします。」(「知性の決算書」188~189ページ)
・社会的意思決定を行う際には、社会全体が前提としている人間観が考慮されねばならない。ところが、現代社会にあって、それぞれが拠って立つ理論的根拠に応じて人間観が全く分裂してしまっている。「どんな政治にも何らかの人間の観念がある。政治目標を限定し、できる限り単純化し、大雑把にしてみても、政治にはすべて人間や精神についての何らかの観念があり、世界観があることに変わりはない。ところで、すでに示唆してきたことだが、現代世界において、科学や哲学が提起する人間の観念と法律や政治・道徳・社会が適用される人間の観念との間には距離があり、その溝は深まりつつある。両者の間にはすでに深淵が口を開いている…。」(「「精神」の政策」138ページ)
「かくして精神活動は、猛然と、なりふりかまわず、強力な物質的手段を創造し、世界中で、とてつもない出来事を次々と将来するようになりました。そうしてもたらされた人間世界の変化が、きちんとしたプランも秩序もないままに、我が物顔にふるまいだし、生物としての本来の姿におかまいなく、適応力や進化の速度など、生来の条件の限界を越えて、一方的にふるまうようになったのです。我々が知っていること、すなわち我々がなし得ることの総体が、最終的に、我々の存在と対立するようになったというふうに言えるでしょう。」(「知性の決算書」183~184ページ)
・「我々は自由でないことを何かによって示されないかぎり、自分たちが自由であるなどと思うことはけしてない。自由という観念は、我々の存在の衝動、感覚の欲望、あるいは、反省意識による意志の行使に対立する何かしらの不如意感、束縛感、抵抗感、ないしはそうした状態を仮想したときに起こる反応である。」「私が自由なのは、私が自由だと感じるときだけである。しかし、私が自由だと感じるのは、私が制約されていると感じているとき、現在の私の状態と対照的な状態を考え始めるときだけである。」「自由とは、したがって、一つの対照効果によってのみ、感じられ、認知され、希求されるものだ。」→「自由の要求や自由の観念は不如意や束縛を感じない人には生まれないので、そうした制約を感じなければ感じないほど、自由という言葉も販社も生じることが少ないのである。」「精神的な事象に対する感受性が鈍化していて、精神的な作品にかけられている圧力に気づかないような人々においては、何の反応もない、少なくとも目に見える形では。」(「精神の自由」251~53ページ)
・「現代人は本を読む時間がない…これは致命的だが、我々にはどうすることもできない。こうしたことが、すべて、結果として、文化の実質的な衰退を招くのだ。そして、副次的に、真の精神の自由の実質的な衰退を招くのだ。なぜなら、精神の自由は、我々が刻々近代生活から受け取る混乱した、強烈な感覚の一切に対して、超然として、拒絶する態度を取ることを要求するからである。」(「精神の自由」245~246ページ)
・「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」「ペタン元帥頌」「独裁という観念」「独裁について」はちょっと異例な文章か。例えば、「要するに、精神が自分を見失い、──自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、──政治システムの変動や機能不全の中にもはや見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。」(「独裁という観念」390~391ページ)→つまり、様々な矛盾に引き裂かれて自分たちが何をしているのか自分自身でも分からない精神的混乱状況に対し、一つの方向性へとまとめ上げる精神的機能のアナロジーとして“独裁”観念を捉えている。しかしながら、それは、一人の人物が高度な精神的機能の一切を引き受けるということで、残りの人々は単なる道具に成り下がってしまうことを意味する。19世紀以来の合理的産業組織化の趨勢と、20世紀前半における政治的独裁体制とが親和性を持っていたことが指摘されていると解釈できるだろうか。
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