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2010年6月

2010年6月27日 (日)

「京都学派」についてとりあえず何冊か

 一般に「京都学派」というと、西田哲学を中心とした人的ネットワークをさす。竹田篤司『物語「京都学派」』(中公叢書、2001年)はその群像を描き出す。西田の門下生もそれぞれ独創的な研究を進めており必ずしも「学派」と言えるほど系統だった体系はないが、西田幾多郎のオーラに惹かれて集まった人々、西田哲学に対する内在的批判者としての田辺元、マルクス主義に向かいつつ西田への傾倒を隠さない三木清や戸坂潤、こうした人的厚みには互いに知的に啓発し合う独特な一体感があった。西田の西洋古典への「読み」の浅さについて田中美知太郎の批判は手厳しい。しかし、西欧文献の入手がままならないこと、西田自身の思索の表現が目的であって西洋哲学はそのヒントにすぎなかったこと、そして何よりも、急速な「近代化」=「西欧化」の中にあって田中の批判は正論ではあるが、同時に、目前に押し寄せつつある敵、すなわち西洋の「論理」に対して、東洋にも牢固として備わっている伝統的な「論理」の構築という使命感を西田は抱いていたことが指摘される。

 陸軍主導で開戦が間近となり危機感を抱いた海軍の一部グループが「京都学派」を中心とした知識人グループに接近、昭和17年2月から18年11月にかけて定期的に秘密会合が開かれていた。大橋良介『京都学派と日本海軍──新史料「大島メモ」をめぐって』(PHP新書、2001年)は、海軍側との連絡役を務めた大島康正(田辺元の弟子で当時は京都大学文学部副手)が記したメモを復刻、その時局的背景を解説する。出席者は、田辺元、高坂正顕、木村素衛、高山岩男、西谷啓治、鈴木成高、宮崎市定、日高第四郎、柳田謙十郎、高木惣吉(海軍)、天川勇(慶應)など。当初は戦争回避が意図されていたが、いったん開戦されてしまうと国策是正のため戦争の理念転換が話題の中心となり、「反体制」的な「戦争協力」という複雑な性格をはらんでいた(こうしたポジションは満鉄調査部にいた左翼系知識人も思わせる)。東条政権など陸軍に対する批判的意識が強く、彼らも海軍シンパとみなされて陸軍側からマークされていたらしい。復刻史料からいくつかメモすると、
・大東亜共栄圏の指導理念、「盟主」と「共栄」の論理的矛盾をどうするのか?→世界史的必然として日本の歴史的使命。
・自由主義のアウフヘーベン。
・「主権」概念の検討、指導権と干渉権の問題→「絶対矛盾的自己同一」として説明せよ。東洋における「主権」「国民」「民族」を近代ヨーロッパ的概念で説明はできない。しかし、東洋の特殊性を強調して済むのか?という疑問あり。発展段階の相違によって指導・服従の上下関係、同時に、帝国主義的搾取ではいけないという道義性、自発性を尊重しつつ統合。
・木村が大陸視察報告:狭量な日本主義者や一般日本人の優越意識に対して中国人に強い反感、汪兆銘政権に対する不信感があることを指摘。
・「万邦各々所を得さしめる」ことこそ真のデモクラシーである、アメリカン・デモクラシーの真理は日本の「八紘一宇」にあり。

 大橋良介「「近代の超克」と京都学派の哲学」(『岩波講座現代思想15 脱西欧の思想』岩波書店、1994年)は京都学派における「近代の超克」論を、政治的にではなく内在的な哲学の脈絡において捉えようとする。昭和17年の『文学界』誌上の有名な座談会「近代の超克」には日本浪漫派及び『文学界』同人の文学者たちと京都学派の学者たちとの間には始まったばかりの戦争を「思想戦」として捉える共通の問題意識があった一方で、前者は日本文化が西欧近代によって危機にさらされていると強調するのに対し、後者は西欧近代の世界性をまず認識する姿勢を持っていたという違いが認められる。それから、日本の戦争の侵略性の認識と、その倫理的性格転換の必要性。京都学派の思想は西田幾多郎・田辺元以来の「絶対無の哲学」が内在的に展開→「近代の超克」というテーマとシンクロした、その意味で政治性とは次元が異なる。久松真一・西谷啓治の「空」の哲学→「ニヒリズムを超克」する立場。大橋良介編『京都学派の思想──種々の像と思想のポテンシャル』(人文書院、2004年)は、第Ⅰ部で「京都学派」評価のあり方を概観、第Ⅱ部で科学思想、技術思想、美学思想、教育思想、言語思想、歴史思想、宗教思想といった諸相において西田哲学の可能性を探っている。

 植村和秀『「日本」への問いをめぐる闘争──京都学派と原理日本社』(柏書房、2007年)は、西欧主導の「近代」への挑戦、危機意識の中で日本の世界史的使命を主張した点で京都学派と蓑田胸喜たち原理日本社との共通性を指摘、ただし、京都学派が世界に向けて開かれた積極的な創造性を強調したのに対し、原理日本社の特徴は、自分たちは日本の「原理」を確信→他の論者に対する否定的態度。
・西田哲学は、生命の自覚的表現→万人がそれぞれに創造的に生きようとするならば自己を問い直し、日本人なら日本人として日本への問いによって、創造への意欲を喚起→日本が世界へと貢献、逆に日本への問いが人間の創造を妨害するなら本末転倒だという考え方。西田哲学の内面的理性の生き生きとした探求は、蓑田にとってかえって「日本」的なるもの、ひいては自分たちの立場への脅威だと映った。
・蓑田の『学術維新原理日本』:蓑田たちの主観ではすでに「近代」を「超克」済み→他の学者たちは何も分かっていないと否定的攻撃。美濃部達吉への攻撃:日本に内在的な自分たち「名も無き民」による、日本に外在的な特権階級的集団に対する闘いという位置付け。

 松本健一『「世界史のゲーム」を日本が超える』(文藝春秋、1990年)は、高度経済成長を遂げ国際化がキーワードとなる中、世界史の課題を担える新しい日本人をつくらねばならない、こういった議論は、実は「近代の超克」論と同じロジックをとっているのではないかと問題提起している。

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2010年6月26日 (土)

宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』

宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』岩波新書、2010年

・議論の前提として、アンソニー・ギデンズ、ウルリッヒ・ベック、ジグムント・バウマンたちが示した現代社会論を踏まえて問題の構図が描かれる。「近代」の目標は「家」「伝統」「聖なるもの」の拘束から個人を解放し、与えられた関係性に盲従するのではなく、自ら選んだ関係へと置き換えていくこと→〈私〉の価値基準を外的、超越的な何かに置くのではなく、他ならぬ〈私〉自身の中に求める。現代は「脱近代(ポストモダン)」ではなく、「近代」のプロジェクトが成功したからこそ新たな段階へと進んだ「後期近代」「再帰的近代」。
・〈私〉のかけがえのない固有性。同時に、本来ならば社会的・公共的に解決されるべき問題まで、すべて個人の処理すべき課題と見なされて、〈私〉の負担が大きい社会。
・本書はトクヴィルの「平等化」という概念を踏まえてこうした〈私〉の時代を考える。貴族性など不平等な時代には他者との相違は自明のことであったが、平等化→みんなが同等者であるべきだからこそ、他者との微妙な差異が気にかかる、言い換えれば現実の不平等に敏感になる→〈私〉意識をもとに社会的不合理について異議申し立て→社会を変えていく原動力にもなる。
・〈私〉の抱える不安や不満は下手すると他者への排除へと向かいかねないが、そうではなく〈私たち〉の問題として考えるためのデモクラシー→リスペクトの配分、つまり〈私〉の固有性にこだわりつつ、それを確認する相互承認の相手として他者が必要。

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吉澤誠一郎『清朝と近代世界』

吉澤誠一郎『シリーズ中国近現代史① 清朝と近代世界 19世紀』岩波新書、2010年

・欧米列強との接触により動揺を来たし、とりわけアヘン戦争、太平天国をはじめとした危機に直面した19世紀の清朝。本書は政治史ばかりでなく経済・社会など多面的な視点を交えて近代世界の中に置かれた清朝の矛盾と変容を描き出す。
・太平天国をはじめとした各地を鎮圧→①1860~70年代はイギリスをはじめ列強との関係が安定しており協力が得られた、②地方有力者を味方につけた、③外国貿易の展開や商品経済の活性化といった経済動向を生かした財政成立による税収→19世紀における清朝の動揺を衰退と捉えるのではなく、清朝が体制立て直しに成功してこうした危機の過程を通して統治体制が変容したと捉える。
・太平天国は儒教攻撃→鎮定後は社会復興の理念として儒教を強調→秩序再建に有用であった一方で、改革への制約ともなった。
・清朝は漢人、チベット、モンゴル、ムスリムなどが王朝権力と個別に結び付く形での多元的統治体制→20世紀初頭の国民国家をめぐる論争(梁啓超、汪精衛など)では、清朝の版図がそのまま国民形成の範囲となることについての説明が不十分だった。
・清朝は最末期になってようやく「帝国」を名乗り始めたのであって、18世紀以前の清朝を「帝国」と呼ぶのは誤解を招くと指摘。1908年の欽定憲法大綱に「万世一系」という表現があるが、皇帝権力によって国民統合を進める「大清帝国」という発想は、「大日本帝国」の近代化改革を意識。
・アメリカの圧迫を受けているハワイのカラカウア王が李鴻章や唐廷枢らと会った際、アジア連帯のため清・日本の連携を説いた。

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繁沢敦子『原爆と検閲──アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』

繁沢敦子『原爆と検閲──アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』中公新書、2010年

 日本の敗戦直後、まだ一ヶ月も経たないうちに相当数の連合国側ジャーナリストが被爆地へ訪れ、その惨状を目の当たりにしたが、彼らの書いた記事原稿はほとんど本国の媒体に載ることはなかった。何を見て、何が伝わらなかったのか、彼らの動きを検証し、アメリカ側の「検閲」の問題を考えていく。

 GHQが組織的な検閲をしていたことは周知の通りだろう。アメリカは戦争中から厭戦気分が生まれるのを警戒して人的災禍の悲惨さについての報道は抑制されていたし、核情報独占の思惑もあって、そうした意味で戦後の検閲は戦中から継続したものだったとも言える。

 しかし、検閲による情報不足から原爆への無知・無関心が生じたのか? 検閲やプロパガンダがなく被爆の実相が正確に伝えられたとしても、アメリカ本国世論は果たしてそれを受け入れたのか? 一つには、日本軍の残虐行為と相殺することで無差別爆撃や原爆投下を正当化するロジックが生まれ、これらの合法性・道徳性を問う議論が押さえ込まれてきたという問題がある。それ以上に、現地を目撃したアメリカ人ジャーナリストも、ジャーナリストである以前にアメリカ人であり、アメリカ人としての愛国心やプライドによって、目の当たりにした惨禍を正当化しようとする契機が現われたのではないか。外的圧力としての検閲よりも、内面的な自己検閲という問題が自ずと浮かび上がってくる。

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2010年6月25日 (金)

戸部良一『外務省革新派──世界新秩序の幻影』

戸部良一『外務省革新派──世界新秩序の幻影』中公新書、2010年

 戦間期東アジア国際秩序において大国間協調という形ながらも日本の強大化抑制が意図されたワシントン体制の打破、閉塞した日本国内のシステム変革への連動が期待された対外的危機──満洲事変をきっかけにこうした思惑から外務省の少壮官僚たちが従来の外交、すなわち幣原外交との訣別を主張し始めた。彼らを外務省革新派という。本書は、中でも精力的なパーソナリティーで注目を浴びた白鳥敏夫を軸として彼ら革新派の動向を描き出す。白鳥という人は日本政治外交史でよく名前を見かける割に(日独伊三国同盟の推進者であり、最近はいわゆる「富田メモ」に名前が出てきたことでも話題になった)、どんな人物なのかあまり知らなかったので興味深く読んだ。

 「革新派」と一言でいっても、当時の外務省におけるある種の「下剋上」的風潮で総称されているだけで、明確な派閥を形成したわけではない。一つには人事の停滞から不満がわだかまっており、そこに外交刷新、機構改革といった政論が相俟って若手の共感を集めたのだという。

 英米主導の旧体制からの脱却を目指し、「アジアに帰れ」、西洋「物質」文明批判といったスローガンが高唱されても次なる新体制というのが実は曖昧であり、帝国主義批判、アジア解放を戦争正当化の理由に持ってきても、では日本自身はどうなのかという矛盾にぶつかってしまう。革新派の主張する「皇道外交」なるものは抽象的な観念に過ぎず、結局、現実の権力政治を言葉で包み込むオブラートにしかならなかった。

 ただし、見方を変えれば、従来の実務派外交官とは異なり、彼ら革新派は「理念」を語ろうとしたところに特徴があったと指摘される。中国での戦争が泥沼化した鬱屈、欧州で始まった第二次世界大戦の衝撃、こうした事態に戸惑う国民の耳には、エリート外交官の専門的・高踏的な議論ではなく、革新派の単純化された世界観の方が分かりやすかった。つまり、外交が大衆化された時代において、国内世論に敏感に反応したところに革新派が外務省内で大きなプレッシャー・グループとなった理由があると考えられる。

 なお、戦後、白鳥が提唱した戦争放棄論が憲法第9条に取り入れられたという説があるが、戦中・戦後にかけての彼の言動はかなり神がかり的であり、かつ時局に応じて主張が180度展開してしまうところもあり、いまいち信用はできないようだ。

 西欧主導の世界観=「近代」を超える、と言っても、現実としての権力政治は何も変わらないわけで、下半身は彼らが批判した当の「近代」のままでありながら、観念だけで「近代」を「超えた」気分に浸りこむという矛盾。白鳥の外交論がそうだし、先日読んだばかりの牧野邦昭『戦時下の経済学者』(中公叢書、2010年)で取り上げられていた難波田春夫の「日本経済学」もそうだし、もっと広いコンテクストで言うと当時流行した「近代の超克」論がそうだろう。このあたりは、私自身もっと突き詰めて考えたいのだが、どうにも手に余る。

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2010年6月24日 (木)

梅田百合香『甦るリヴァイアサン』

梅田百合香『甦るリヴァイアサン』講談社選書メチエ、2010年

・ホッブズ思想の読み直しを踏まえて、彼の思想に対する現代の誤解を解きほぐし、現代思想との比較を試みる。社会契約説の前提として、利己心という通俗的理解ではなく、神の意志→必然としての自己保存という人間観が一つのポイント。
・ホッブズとアレントとの比較。第一に、ホッブズの言う神=自然によって強いられる「生命の自己保存」という必然に従属した存在としての人間理解→「生命を最高善」とする抽象的で実効性のない(普遍性を装いつつも国民国家の枠内でしか保障されない)近代的観念の祖としてアレントは批判。第二に、「自由意志」の独我論には「他者」の契機がないというアレントの問題意識→ホッブズは意志の自由と活動の自由とを区別(人間の内面は問わない→近代的国家論)し、「自由意志」を社会契約の基礎に置かなかった点で、二人の共通点を指摘。ただし、ホッブズは神に対する義務を強調したのに対し、アレントは「他者」との相互性を重視。
・レオ・シュトラウスのホッブズ論。実証主義・歴史主義に基づく社会科学はニヒリズムに陥ったというシュトラウスの近代批判の問題意識→ホッブズの中に絡まりあう法的原理、道徳的原理、自然主義的原理のうち、シュトラウスは無神論的自然主義を批判するあまり道徳的要素を探る方向へ向かった。(なお、レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』は以前に読んだことがある→こちら
・ネグり=ハートの近代批判としての〈帝国〉論との比較。リヴァイアサン=国民国家の影響力は依然として残っている点を指摘。
・国際関係論におけるリアリズムやネオコンが言及する「自然状態」はただの戦争状態なのか?→実際の国際関係ではすでに各国家が形成されている。国家間関係は「自然状態」だとしても、それぞれの国家内では自然法と平和が成立しているという重層構造になっており、「まったくの自然状態」とは言えない。
・情念に衝き動かされる人間の本性を善悪の価値判断ではなくあるがままに受け止めようとするがホッブズのリアリズム。彼の思想においては、恐怖=自然権=戦争、希望=自然法=平和、こうした二つの方向性が理論上対等に設定されている。

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2010年6月23日 (水)

牧野邦昭『戦時下の経済学者』

牧野邦昭『戦時下の経済学者』中公叢書、2010年

 戦時期における総力戦体制=統制経済が戦後日本の高度経済成長につながったという議論はいまや常識の観すらあるが、本書では当時のアカデミズムにおける経済学者たちの論争が具体的に検討される。

 序章で取り上げられる河上肇と終章の高橋亀吉との比較が興味深い。片やヨーロッパ留学中に第一次世界大戦を目撃、片や第二次世界大戦の最中にあって経済政策を提言、いずれも総力戦の衝撃を身を以て受けていた。二人とも基本的な目的としては奢侈の廃止→剰余資金を生産力拡充にまわす→貧困問題の解決というロジックにおいて総力戦体制に注目している。ただし、河上が利己主義→利他主義という人格的理想主義を強調したのに対し、リアリストである高橋は統制経済の枠内での利己主義を認める。さらに戦後、総力戦の経験は経済復興に役立つと説いた。

 陸軍の委嘱を受けた有沢広巳はドイツの事例を踏まえ、総力戦体制は長期化すれば国民生活を圧迫して経済の内部崩壊を引き起こしかねないが、短期的には可能と返答。名和統一は、日本経済の基盤は脆弱なので戦争が拡大すればするほど英米に依存せざるを得ない産業構造になっている点を指摘。しかし、軍部が求めているのは現状分析ではなく、それを踏まえた勝ち方のヒントであって、その点で経済学に対する過剰な期待があった。他方で、この時の戦力評価をもとに、戦後、有沢は「傾斜生産方式」を提唱、中山伊知郎は戦時経済研究の経験が戦後経済政策に役立ったと振り返っている。

 難波田春夫の「日本経済学」と大塚久雄の合理的態度重視、一見対照的に見える二人だが、国民固有のエートスに着目していた点で共通するという指摘が興味深い。経済や社会を説明するに際して日本の特殊性を取り上げるというパターンは戦後も続く。「近代の超克」的な風潮の中、西欧は行き詰ったから日本独自の経済学を作り上げるんだ、と難波田の鼻息は荒かったが、高田保馬は、まだ経済学知識を十全に吸収していないのに独自の経済学も何もないものだと慨嘆していた。また、総力戦体制下にあって、①統制経済を支持→「アカ」という批判を受け、②市場原理を支持→「自由主義者」「資本主義擁護」としてやはり批判を受け、いずれの場合でも「反国体」的とみなされてしまうダブルバインド。資本主義を肯定するか否定するかという政治図式は、戦後においてマルクス主義か否かという二者択一となり、マルクス主義以外の経済学を「近代経済学」と総称する日本特殊の表現が定着した。

 数理モデルを用いて客観性を標榜する経済学ではあるが、その実、時代的思考枠組みの影響から逃れることの出来ない様々な葛藤が見えてくる。具体的な論争の有様を整理して(上記の他にも柴田敬、作田荘一、山本勝市、大熊信行なども取り上げられる)そうした葛藤を浮かび上がらせ、それが経済政策においてもアカデミズムにおいても戦後につながっていることが確認される。昭和初期経済思想史として論点も豊かで興味深く読んだ。

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譚璐美『中国共産党を作った13人』

譚璐美『中国共産党を作った13人』新潮新書、2010年

 1921年7月22日、上海で中国共産党第一回全国代表大会が開催された。この時点を以て組織としての中国共産党が成立したわけだが、党史の正統的見解に抵触するタブーでもあるのか、成立当初の実態はあまり知られていない。本書は歴史の表舞台から消えていった中国共産党初期の人物群像に焦点を当てる。

 第一回大会参加者13人のうち1949年の中華人民共和国成立まで幹部として残ったのは毛沢東と後に副主席となる董必武の二人だけ。残りは国民党や軍閥の弾圧で落命したり、権力闘争に敗れるなど、様々な理由で脱落していった。周仏海と陳公博は汪兆銘政権に参加したため漢奸として獄死もしくは刑死している。13人のうちには日本留学経験者が多いのも目立つ。

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2010年6月22日 (火)

イーユン・リー『さすらう者たち』

イーユン・リー(篠森ゆりこ訳)『さすらう者たち』河出書房新社、2010年

 文化大革命末期の地方都市。紅衛兵のリーダーとして糾弾闘争の先頭に立っていた女性活動家自身が今度は反革命に問われ、処刑されることになった。紅衛兵だった女性の刑死への抗議が自由な社会を求める人々のシンボルとなり、さらに弾圧の口実ともなる逆説。この中で翻弄される町の人々が見せた反応を描き出した群像劇。

 モデルとなった事件は実際にあったらしく、それをもとにイマジネーションがふくらまされている。ただし、これはあくまでも小説であって、強い政治的メッセージが意図されているわけではない。それでも文革という政治事象に絡めて言うなら、「政治的正しさ」の基準に従って他人を糾弾することで自らの優位を確証しようとするルサンチマンにしても、あるいは面倒を避けようと無関心を決め込むのも、いずれもエゴと言ってしまえばエゴであるが、エゴがそのまま「良い」「悪い」という断案に結び付くわけではない。同情が偽善的においを放ったり、夫をつまらないお坊ちゃんだと思っていても一生懸命に愛情を訴える姿にいとおしさを感じる瞬間もあったり、好奇心半分の同棲生活に真情がこもったり、様々にヴァリエーションを帯びた屈折や葛藤、そうした感情的機微が一人一人について丁寧に描き出されているところにこの本の小説としての面白さがある。グロテスクなものに興味を寄せる青年の心理なども陰影を添える。訳文が微妙にぎこちないのが気になった。

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2010年6月20日 (日)

山室信一『思想課題としてのアジア──基軸・連鎖・投企』

 “アジア”なる言葉を我々は当たり前のように使っているが、地域呼称として示される対象は伸縮自在でよくよく考えてみると落ち着きがあまりよくない。西欧による規定であるにもかかわらず、この規定の中に含まれた我々がそれを他ならぬ西欧に対抗する原理として意識し、自分たちの存立根拠を求めようとして半ば後知恵的にこの概念の実体化を試みてきた。しかし、その西欧への対抗意識や、そもそも“アジア”内部の関係が時代に応じて変転してきたため、立場によって“アジア”なるものへの態度が全く異なったものにすら見えてきてしまう。

 山室信一『思想課題としてのアジア──基軸・連鎖・投企』(岩波書店、2001年)は、この“アジア”をめぐる膨大な言説を渉猟しながら、思想史的に検討可能な問いの視座を提示しようとする。第一に、“アジア”という一つの呼称を敢えて用いる場合、指し示された空間の中に一定の共通性・類似性があることを前提として他の地域との差異化が意図されているわけだが、政治的立場は異にしても基底において共有されている“アジア”的なものが認識される思想基軸はあるのか? 第二に、欧米と“アジア”との関係、“アジア”内諸社会同士の関係、いずれにおいても思想や制度の影響関係があったわけで、それらが互いに受容、反発、変容、さらには自己の逆規定など様々な相互反応を引き起こしてきた思想連鎖のダイナミズムをどのように捉えるのか? 第三に、こうした“アジア”なるものの認識や相互連鎖を踏まえて、いかに自分たち“アジア”を再編成していくかという政治的実践が図られたのか?

 19~20世紀、西欧によってもたらされた資本主義システム、主権・国民国家システム、すなわち“近代”世界へと“アジア”が組み込まれていった過程で、これらシステムを受容しつつ、いかに自分たちの独自性を維持、さらには自己顕示していくのかという抵抗の拠り所として“アジア”をめぐる言説が大きく浮上してくる。近代システムへ組み込まれること、すなわち西欧化=平準化に対して自分たちの固有性の探求→類同化という論点が提示されている。いちはやく“近代”を達成した“日本の衝撃”→日本を結節環として欧米の法政思想が継受されたが、その中国・台湾・朝鮮半島・ヴェトナムなどへのディストリビューターとしての役割を果たした梁啓超には関心がある。欧米との比較で“アジア”の停滞という認識をしつついち早く近代化=西欧化を進めた日本はアジアの指導者という自己認識を持ったアンビバレンス、日本のアジア主義の自己言及的・自己肥大的な観念はすなわち大日本主義そのものであったという矛盾、こうした問題は日本の近現代史の大きな蹉跌であろう。“東アジア共同体”が政治課題に上っている現在、開かれた地域主義をいかに構成するかという問題意識は“アジア”言説をめぐって継続中のテーマだと言える。

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「プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第3回 戦争に動員された人々~皇民化政策の時代~」

「プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第3回 戦争に動員された人々~皇民化政策の時代~」

 戦時下、日本が朝鮮半島において実施した皇民化政策について。特攻隊や女子挺身隊に志願した人や遺族へのインタビュー。日本側は朝鮮半島で徴兵制を実施するにあたり、銃を逆に向けるかもしれないと慎重論があった一方、兵力不足への懸念からの積極論は理解できるが、日本人ばかりが戦死して朝鮮人だけが生き残るのは由々しいことだ、朝鮮人にも戦死してもらおう、という意見は何だかなあ。特攻隊となった朝鮮人およびその遺族は、自分の国ではなく他国のために死んだ上、志願という建前→対日協力者として戦後は肩身の狭い思いをせざるを得なくなったという二重のつらさ。被害認定は、金銭的補償よりも名誉の問題として切実である。同様の問題は、裵淵弘『朝鮮人特攻隊―「日本人」として死んだ英霊たち』(新潮新書、2009年→こちらで取り上げた)でも取り上げられている。

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2010年6月19日 (土)

玉野井麻利子『記憶の地図:戦後日本における国家と満洲』

Mariko Asano Tamanoi, Memory Maps: The State and Manchuria in Postwar Japan, University of Hawai’i Press, 2009

 満蒙開拓団として大陸に渡った人々、現地での生活は過酷であり、その上、敗戦による引揚は凄惨を極めた。国策に従った開拓移民であった点でいわば日本という“国家”を背負って満洲に入り込んだわけだが、他方で“国家”によって裏切られたという思いをも抱いた。帰国できた人々は、満洲では植民者であったと同時に、帰国後は自分たちは犠牲者だという意識が強く残る。引揚時にレイプされた、子供を殺した、仲間を見捨てたなど、やむを得なかったにしても“不名誉”とされてしまう体験を迫られた人々はそもそも語ることすらできない。残留孤児となった人々はマージナルな立場を否応なく迫られた。日本に帰国しても、日本人として社会的に受け入れられるかどうか、それ以上に、かつて実の親と別れた上に、今度は中国の育ての親とも切れてしまう、二重の別れ。満洲国という形で日本の支配を受けた中国人、とりわけ残留孤児を引き取った親たちの思い。

 記憶というのは、語り手(及び聞き手)の置かれた歴史的、社会的、地理的、文化的コンテクストから離れて語られるものではない。戦争の記憶も、戦後社会というコンテクストの中に置かれる。記念碑、儀礼、物語、詩、音楽、写真、映画等々、様々な媒体を通して共有されたイメージがあり、一人の語りも間主観的な語りとして表われ、集合的記憶を構成すると言えるだろうか。それは“事実”に対するバイアスというのではなく、そうした語りのあり方そのものに、現在と過去とが絡まり合った複雑な機微が見出される。語り手の立場によって心象風景は異なるだろう。しかし、誰かの語りが特権的地位を持つのではない(公定史観に対する異議申し立てとしてサバルタンの語りを偏重するのも、これはこれで一方に代えて他方を上位に置くことになってしまう)。

 本書は、満蒙開拓からの帰国者の回想、悲惨な引揚体験、残留孤児のマージナルな困惑、現地の中国人が抱えた思い、それぞれに立体的な奥行きを持った語りの有様を“記憶の地図”として布置する。マージナルな記憶が交錯するところに、目にはもちろん見えないにもかかわらず戦前・戦後を通して厳然として立ちはだかる“国家”の姿が浮かび上がってくる。日本人の抱く満洲へのノスタルジーは、むかしの生活や風景への愛着という点では脱政治的な思い入れであるかのように見えても、それがかえって現地の人々に対するかつての権力的支配関係を忘却させてしまうという問題も指摘される。

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堀江則雄『ユーラシア胎動──ロシア・中国・中央アジア』

堀江則雄『ユーラシア胎動──ロシア・中国・中央アジア』岩波新書、2010年

 海のシルクロードが開けて以来、世界史の表舞台から遠ざかっていたユーラシア内陸部。清、ロシア、イギリスのグレート・ゲームでは客体として翻弄されるばかりだったこの地域の台頭に注目した現状報告。

 ポイントは、第一に、石油・天然ガスなど潤沢な埋蔵資源。第二に、ソ連邦崩壊によって誕生したチュルク系諸国家。この流れの中でウイグルの問題にも触れられる。国民国家への模索はナショナリズムの負の側面を引き起こしてもいるようなのが気にかかる。中央アジアの大国を目指すウズベキスタン。イラン系のタジク・ナショナリズムは反ウズベク感情をテコにしている。つい先日もキルギスでウズベク系住民との衝突が起こったばかりだ。それから、言語ナショナリズム。ネポティズムも国民国家形成を妨げる。

 資源輸出は外に需要があるから成立するという意味で他律的であるし(中国への輸出構造が経済的支配につながるのではないかという懸念もあるようだ)、国民国家形成も先行きが険しい。そうした点を考えると、本書が示す西欧近代に対する転換点としての「ユーラシア胎動」という問題意識は興味深いにせよ、あまり説得力は感じられなかった。本書の内容と直接には関係ないが、ロシアにおけるネオ・ユーラシア主義の高まりというのは、西欧近代へのアンチとナショナリズム感情が絡まりあっている点で、かつての日本における「近代の超克」論とイメージ的にダブってくる。

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2010年6月16日 (水)

坂部晶子『「満洲」経験の社会学──植民地の記憶のかたち』、玉野井麻利子編『満洲──交錯する歴史』

 坂部晶子『「満洲」経験の社会学──植民地の記憶のかたち』(世界思想社、2008年)は、「満洲」体験そのものよりも、その語られ方の分析を通して、ナショナル・ヒストリーへと包摂されたり、あるいは距離をとろうとしたり、いずれにしても記憶の語りがマスター・ナラティヴと絡まりあって再解釈されるときのメカニズムを描き出す。植民地主義的な旧満洲国の「建国理念」から距離を置くにしても、日本の場合には脱政治的なノスタルジー、対して中国の場合には抗日という形でそれぞれ別個の言説空間が成り立った。それを対立としてしまうのではない。本来、個人の語りとは決して一点には収斂できない多元的なものであって、硬い規範的枠組みをくぐり抜けてふと姿を見せる生の声を何とか聞き取りたいという模索が行間から浮かび上がっていて、とても良い本だと思った。

 玉野井麻利子編(山本武利監訳)『満洲──交錯する歴史』(藤原書店、2008年)は、“満洲”における出身背景の異なる人々に焦点を合わせた論文集。中国東北地方出身のジャーナリスト杜重运の抗日論説は他の地域の中国人にどのように受け止められたのか。白紙と見立てた満洲に実施されたユートピア的都市計画の国際比較。川島芳子の複雑なアイデンティティ。映画の中の“日満親善”ロジック。満洲のポーランド人。森崎湊を通して見た汎アジア主義。ソクジョン・ハン「植民者を模倣する人々:満洲国から韓国への統制国家の遺産」は、儀式、体操、イデオロギーなどの検討により、旧満洲国における様々な体験が戦後の南北朝鮮における国家形成に影響を及ぼしたことが指摘される。最近刊行された姜尚中・玄武岩『興亡の世界史18 大日本・満州帝国の遺産』(講談社、2010年)のテーマもこのあたりにある。

 なお、Mariko Asano Tamanoi, Memory Maps: The State and Manchuria in Postwar Japan, University of Hawai’i Press, 2009を取り寄せて手もとにあるが、未読。

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2010年6月14日 (月)

覚書(日台中トライアングルの人物群像)

 日台中トライアングル関係の中の人物群像に関心がある。思いつくままにメモ。

 ビッグネームから挙げると、林献堂が台湾議会設置請願運動に乗り出したのは、梁啓超のヒントによる。梁は林の招待で台湾訪問。章炳麟は日本への亡命途上、一時期台北に滞在、『台北日日新報』で論説を執筆。孫文も一時期台北に滞在、彼の逗留した旅館は現在、国父史蹟記念館、通称“梅屋敷”。もちろん蒋介石もこういう話題では外せない。

 日本統治下にあって日本語を知っていた台湾出身者の中には、「日中の架橋」という名目の下、日本の勢力圏に入った大陸地域へ渡っていった人々もいた。日本国籍保持→特権があったため、商売に利用したり官吏になったりした一方、現地中国人から嫌われたという話もある。

 旧満洲国初代外交部総長(外務大臣)となった謝介石は台湾出身。彼については許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》第57期、2007年)を参照のこと(→こちらで取り上げた)。それから、許雪姫主編《日治時期在「満洲」的臺灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)も手もとにあるが、まだ読みさしのまま。医学を学ぶため旧満洲国へ留学した人が多い。

 音楽家の江文也は日本軍占領下の北京で師範大学教授となっている。彼についてはこちらで触れたこともあるが、江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)所収の片山杜秀による解説論文「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」と、周婉窈〈想像的民族風──試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉(《臺大歷史學報》第35期、2005年6月→こちらで取り上げた)に詳しい。江文也を北京師範大学に招聘した同僚の柯政和も台湾出身の音楽家。

 抗日意識を持って大陸に向かった台湾人はたくさんいるが、戦後、国民党と一緒に台湾に戻って要職に就く人も多く、“半山”と呼ばれた。日本軍占領地域にいた人物としては、抗日意識を隠して大陸に渡った張我軍の名前を北京の周作人の周辺で見かけた覚えがある。作家の呉濁流は新聞記者として南京に赴任したことがある。汪兆銘政権と関係を持った人々も当然ながらいて、上海で映画人として活躍したが暗殺された劉吶鴎については田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年→こちらで取り上げた)に詳しい。それから、モダニズムの文学者、穆時英も汪兆銘政権の文化関係部局に勤務。台湾出身ではないが、汪兆銘政権で宣伝局次長を務めた文学者の胡蘭成(一時期、張愛玲と結婚)は戦後、台湾に行き、さらに日本に逃れて客死。侯孝賢映画の脚本で知られる朱天文たち姉妹は胡蘭成と家族ぐるみの付き合いがあって薫陶を受けている。

 戦後、共産主義者や国民党に対する反発から共産党にシンパシーを寄せた台湾人で大陸に渡った人々も多い。そうした自伝の一例としては楊威理『豚と対話ができたころ──文革から天安門事件へ』(岩波書店・同時代ライブラリー、1994年→こちらで取り上げた)がある。やはり代表的なのは謝雪紅か。なお、江文也は対台湾工作に利用できると判断されたのか戦後も北京に残り、彼女の詩をもとにした交響曲を書いたらしいが、聴いたことはない。中共が対日本工作を進めるにあたり台湾出身者は日本語がよく分かるので重用された。外交の裏舞台で活躍した人々については本田善彦『日・中・台 視えざる絆──中国首脳通訳のみた外交秘録』(日本経済新聞社、2006年)が当事者のインタビューも踏まえて詳しく描き出している。NHK中国語講座で顔なじみだった陳真も台湾出身(→こちらで取り上げた)。やはり台湾出身で日本語雑誌『人民中国』初代編集長となった康大川については水谷尚子『「反日以前」──中国対日工作者たちの回想』(文藝春秋、2006年)に詳しい聞き取りがある。

 軍属として徴用された台湾人が南方ばかりでなく大陸にも渡り、戦後、BC級戦犯として罪に問われたケースもあった。台湾の原住民族が高砂義勇隊として戦争に駆り出されたことはよく知られている。龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)に、戦後、国民党に徴用された原住民族の人が国共内戦に動員されて人民解放軍の捕虜となり、さらに朝鮮戦争にまで行ったという話があったのを思い出した。

 作家では邱永漢、陳舜臣といった人もいる。きりがないし、疲れてきたからこの辺で中止。

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2010年6月13日 (日)

「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」

「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」

 ビルの解体現場で働くケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は孤児院のときからの幼馴染み。現場の仕切り役からいつもバカと罵られ、賠償金と称して金を巻き上げられていた彼らは会社の事務所を滅茶苦茶にしてトラックを盗んで逃げ出す。ジュンからブスと怒鳴られても離れないカヨ(安藤サクラ)もついてきた。行き先は、兄貴のいる網走。その先に何があるのかは分からない──。

 「この世には自分の人生を選べる奴と選べない奴の二種類の人間がいる。俺たちは選べないんだ。」自分の手ではどうにもならない、目に見えない壁に取り囲まれたような鬱屈した感覚、抜け出せない絶望感。彼らが抱えた、ぶち壊したい!という攻撃的態度は、人生がうまくいかなくて気持ちが荒んでいるというのではないし、「自分の人生を選べる奴ら」に対するルサンチマンというのとも違う。この世に生まれてきても最初から自分の居場所がない、そのやり場のないパセティックな苛立ち。

 こういうタイプのロードムービーとしては岩井俊二監督「PiCNiC」も思い浮かべた。ただし、こちらの場合、ストーリーは寓話的かつ岩井独特の映像美もあってリリカルな感傷を呼び起こすのに対し、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」の方は現実にあり得る設定のようにも思えて、観ていてやりきれない苦さが感じられてきた。

【データ】
監督・脚本:大森立嗣
出演:松田翔太、高良健吾、安藤サクラ、新井浩文、宮崎将、柄本明、小林薫、他
2009年/131分
(2010年6月13日、新宿ピカデリーにて)

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「シーサイドモーテル」

「シーサイドモーテル」

 日本のど田舎なのになぜかウェスタン風、あたりは何もない山の中なのになぜか「シーサイドモーテル」。夜は断水し、不潔で蒸し暑い室内はいかにも不快指数が高そうで、舞台設定からしてすべてがうさんくさい。それぞれに思惑を持った宿泊客たち、互いに嘘か真か騙し合いの駆け引きを繰り広げる群像劇。チープなインチキくささは面白そうで嫌いではないのだが、どんでん返しが微妙にゆるくて私はいまいち入り込めなかった。麻生久美子のしたたかなコールガールぶりはなかなか板についているのだけど、ファンであるだけにこれもまた微妙な気分。

【データ】
監督:守屋健太郎
出演:生田斗真、麻生久美子、山田孝之、玉山鉄二、成海璃子、古田新太、温水洋一、小島聖、池田鉄洋、柄本時生、山崎真実
2010年/103分
(2010年6月13日、新宿ピカデリーにて)

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小林英夫『「日本株式会社」を創った男──宮崎正義の生涯』

 「満洲」体験がその後の日本経済システム再編に影響したという議論の中で登場する一人に宮崎正義がいる。小林英夫『「日本株式会社」を創った男──宮崎正義の生涯』(小学館、1995年)は彼の生涯を描き出している。ペテルブルク大学に留学、ロシア革命の混乱期に帰国した宮崎は満鉄に入社、ロシア問題や経済問題の専門家として頭角を現した。石原莞爾から信頼されて経済問題についてのアドバイザーとなったことから政策立案に関わり始める。自由放任経済の問題点を踏まえ、資本主義でも共産主義でもない統制経済、すなわち企業組織における「資本と経営の分離」を促してそれに対して官僚=テクノクラートが主導する経済システム構築というアイディアを出した。これがその後のいわゆる「日本株式会社」につながったと総括される。

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2010年6月12日 (土)

山室信一『キメラ──満洲国の肖像』、ルイーズ・ヤング『総動員帝国』、姜尚中・玄武岩『大日本・満州帝国の遺産』

 「満洲国」論のスタンダードはやはり山室信一『キメラ──満洲国の肖像』(増補版、中公新書、2004年)だろう。制度形成過程及びそこに作用した日本側の意図が描き出され、現地の人々との思惑のズレが浮き彫りにされる。現地の支持者でも、例えば于沖漢の保境安民主義は日本側の「満洲」独立構想と親和性があったが、それはもちろん日本の植民地化を受け入れるものではない。日本軍による安全保障を是認した不養兵主義には、これまでの軍閥割拠の戦乱状態を踏まえて軍事費負担軽減の意図があり、ある意味で戦後日本がアメリカに安全保障を委ねたのと同じロジックになっているのが興味深い(なお、保境安民主義などについては澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』[講談社選書メチエ、2008年]を参照のこと)。当初、満蒙領有論に立っていた石原莞爾たちは軍中央の説得もあって独立構想に転換、しかし間もなく日本本国から行政・経済のテクノクラートが流入、産業開発に乗り出すものの、「五族共和」「王道楽土」の建前とは裏腹に日本による植民地化が実質的に進む。「満洲国」は日本のエリート候補の人事研修室、政策実験場(日本本国のように議会のチェックを受けないで済む)となり、ここで実施された政策が日本本国に還流する関係が成立した。「王道楽土」などの夢想的ユートピアを目指したスローガンが多くの日本人の心をとらえた一方、それがどんなに美しい価値表明ではあっても現実の支配関係への自己欺瞞的正当化となってしまった矛盾、これをどのように捉えたらいいのかという問題は難しい。

 ルイーズ・ヤング(加藤陽子・川島真・高光佳絵・千葉功・古市大輔訳)『総動員帝国──満洲と戦時帝国主義の文化』(岩波書店、2001年)も日本が「満洲国」を作り上げていくプロセスそのものが日本側に与えた影響に注目する。サブタイトルにある「文化」というのは、様々な位相で国民が政治動員される際のロジックを指す。軍事的勝利のユーフォリアと経済危機への不安はマスメディアを通して大衆社会における対外意識の一体感を生み出した。社会的に対立関係にある様々な要因が「満洲」という契機によって奇妙な同盟関係を見せる。例えば、日本本国に居場所のなくて「満洲国」へ渡った左派系知識人は、主観的には日本の帝国主義政策を内部から掣肘しよう意図しつつも、彼らの提供した専門知識は帝国において制度化された暴力の中に取り込まれた。農村問題の危機意識から貧農を意図した農本主義は、牧歌的な反近代ヴィジョンを抱きつつ、満洲開拓移民と連動する中で帝国主義ヴィジョンと融合した。本書は軍事、経済開発、開拓移民、イデオロギー、政治機構、都市計画、観光等々、様々に多角的な諸相を検討しながら、社会的リソースが「総力戦」的システムへと巻き込まれ再編されていくプロセスを描き出す。近代特有のシステムとも言うべき国民国家は、国民動員によって社会領域へ深く浸透している。それぞれに複雑な対立や矛盾をはらみながら網の目のように張り巡らされたシステムが「満洲」というファクターを触媒としてあらゆる側面で相互反応を引き起こしていくダイナミズムが浮き彫りにされる。

 姜尚中・玄武岩『興亡の世界史18 大日本・満州帝国の遺産』(講談社、2010年)は新刊。「満洲国」がいわば「政策実験場」となり、そこでの経験が戦後日本経済の発展に寄与した、そのシンボルとして岸信介を取り上げるのはいまや定番的議論の観さえあるが、同様のことが韓国における朴正熙にも言えるという論点が本書の特色である。「満洲国」論そのものとしては特に目新しい知見はないが、朝鮮半島に視軸を置いているところが興味深い。植民地支配下にあった朝鮮半島でもやはり「満洲」ブームが起こった。日本からのしめつけも厳しくなる中、例えば社会主義系朝鮮知識人たちが公的イデオロギーの内在的読み替えによって自分たちの民族性を戦略的に保持しようと「東亜共同体」論に応答するなどの雰囲気の中、朴正熙は満洲国軍官学校に進む。朴正熙と岸信介、満洲人脈というばかりでなく(「満洲国」時代に二人の身分には開きがあって直接の面識はなかった)、岸は東条内閣の閣僚、朴は親日派、「満洲国の鬼胎」という暗い過去を引きずり、反米意識を抱きつつも現実的判断として対米依存を選択するなどの屈折で二人に共通点があるのも興味深い。

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2010年6月 9日 (水)

劉傑『漢奸裁判──対日協力者を襲った運命』

劉傑『漢奸裁判──対日協力者を襲った運命』(中公新書、2000年)

 中国や韓国で「親日派」という言葉にはネガティヴ・イメージが込められており、うかつには使えない。もちろん侵略戦争や植民地支配で日本のお先棒を担いだ人々とみなされているからで、それと区別するときは「知日派」という表現が使われる。東アジアにおける歴史認識問題を考える上で、この「親日派」=「漢奸」と指弾された人々の位置付けは下手すると政治的感情論を招き起こしかねないナーバスな難しさをはらんでいるが、避けて通ることはできないだろう。本書はいわゆる汪兆銘政権に参加した人々を具体例としてこのやっかいな問題に切り込んでいく。

 焦点となる漢奸裁判を検討する前提として、日中戦争時に日本側から仕掛けられた和平工作、とりわけ汪兆銘工作について前半で解説される。この箇所は基本的に劉傑『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、1995年)の要約となっている。日本側と汪兆銘側との認識のズレが致命的だった。重慶政権を脱出した汪兆銘たちとしては日本軍の早期撤退、不平等条約改定等の具体的成果がなければ単なる「漢奸」に成り下がってしまうという焦りがあった。ところが、日本側の主目的は蒋介石の重慶政権との交渉であり、汪兆銘の新政権はそのための手段に過ぎず、将来の重慶政権との交渉を見越して汪兆銘政権に対して厳しい条件を突きつけ続ける。彼我の実力差が歴然としているとき、妥協や和平を求めることは必ずしも裏切りとは言えないだろう。ただし、中国の歴史文化には敵への妥協を売国とみなす考え方があり、具体的成果をあげられなかった汪兆銘たちはこの伝統的考え方を上回るだけの正当性を示すことができなかった。日本の「和平工作」に謀略的色彩が強かったため、汪兆銘たちは自分たちの意図とは違う方向で「漢奸」へと追い込まれてしまった、つまり、和平の意図が日本側に利用された結果として中国内での「漢奸」イメージにつながってしまったことが指摘される。

 漢奸裁判は売国奴か否かを問うものであって、通例の戦争裁判とは性格が異なる。何が売国的なのかの基準は解釈に依存し、最終的には蒋介石の意志に委ねられる。「一面抗戦、一面和平」という考え方で実は汪兆銘の行動を蒋介石は了解していたのではないかという推測が当時も今も絶えない。また、汪兆銘政権の実力者・周仏海は当初から重慶政権側と連絡を取り続けていた。汪兆銘の墓所の不自然な爆破、周仏海の減刑、繆斌の早期処刑などからは、蒋介石自身もまたこうした「漢奸」イメージを取り扱う難しさに苦慮していたであろうことも窺える。汪兆銘死後に主席となり戦後は処刑された陳公博は、国共交渉が膠着して長引いたときは国民党内の幅広い勢力を味方につけるため自分たちは釈放されるだろう、しかし国共分裂が不可避なとき蒋介石は軍事独裁のため他勢力の粛清を進めるだろうから自分は助からない、と分析していたらしい。

 なお、漢奸裁判における個々の具体的な事例を知りたい場合には益井康一『漢奸裁判史』(みすず書房、1977年)が便利である。

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覚書(南方戦場体験の戦後精神史)

なぐり書きメモ。第二次世界大戦で南方から生還した人々は、その戦場体験があまりに過酷であったからこそ積極的には語りたがらない。語らなければ世間から注目されることはなく、彼らの抱えたうめきを置き去りにしていく形で戦後日本は経済繁栄を謳歌し、あるいは能天気な平和論がはびこった。朝、時間が合うとき「ゲゲゲの女房」を見ることがあるが、こうした人物の例として水木しげるがまっさきに思い浮かぶ。あのとぼけたような、達観したようなのっぺりとした表情。しかし、戦地で川を船で渡っていたとき、ちょっと身をかがめて起き上がったら戦友がワニに食べられて死んだ。紙一重の偶然で自分はいまここに生きているという感覚。それから、ダイエーの中内功。人肉食の噂も絶えないが、それはさておき、飢餓で戦友がバタバタ倒れ、自分も意識を失いそうになったとき、頭の中でグルグル回ったスキヤキの光景。生き残って開き直ったかのようなハングリー精神、自分たちをこんな不条理へと叩き込んだ国家に対する怨念、それらが絡まり合ったエネルギーが流通革命という形で戦後の高度経済成長を動かす要因の中に入り込んでいた。あるいは、大岡昇平。自分は捕虜になった身だからというのを文化勲章辞退の理由にしていたが、戦友がみんな死んでいった中、自分だけが生き残ったという負い目の意識。さらに、今すぐ論ずることはできないが山本七平にも色々とある。他にも南方での戦地体験で心に負った傷が戦後の人生に大きな影響を及ぼしている人々はいるはずだ。南方の過酷な戦場体験によるトラウマが戦後史の背景にひっそりと、しかし悲痛さを内に込めて伏流している。こういった怨念は、我々の気付かないところで、しかしよく目を凝らしてみれば明らかなところで戦後史に影響を与えている。そうしたあたりを精神史としてすくいとっていく作業に関心がある。そういった本はないものか。書いている人はいないものか。

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2010年6月 8日 (火)

ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』

ポール・ヴァレリー(恒川邦夫訳)『精神の危機 他十五篇』(岩波文庫、2010年)

・ヴァレリーの文明批評的なエッセイ16篇が一冊に集められている。表題作「精神(esprit)の危機」は「我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている」という一文から始まる。書かれたのは1919年、すなわち第一次世界大戦が終わった直後である。例えばシュペングラー『西洋の没落』をはじめ、大戦の破滅的な惨禍を目の当たりにして近代文明に対して芽生えた懐疑からペシミスティックな文明論が現われたが、ヴァレリーの警句もそうした危機意識漂う気分の中に位置付けられるだろうか。

・現代文明に対して彼が抱いた危機意識は、社会全体の組織化・平準化によって個人それぞれの精神的自由もが奪われていくところにあると言えるだろう。「方法的制覇」は経済的・軍事的大国として台頭しつつあるドイツに現代社会の一つのプロトタイプを見出している。偶然性を徹底的に排除する方法的合理化→一つの事業に向けて大衆組織化→みんな規律に従い、不服従はない→方法的規律化によって大きな成果を生み出すが、他方でそれは個人の平準化をもたらす。マックス・ヴェーバーが“官僚制”の理念型で近代社会を特徴付けた“鉄の檻”の議論などが想起される。
「機械が支配する。人間の生活は機械に厳しく隷属させられ、さまざまなメカニスムの恐ろしく厳密な意志に従わされている。人間が作り出したものだが、機械は厳しい。現在では機械が自分の生みの親たちに向かって規制を加え、彼らの意のままに支配しようとする。機械には訓練を受けた人間が必要である。機械によって、人間の個人差は消滅させられ、機械の規則正しい機能性と体制の画一性に応えられるように訓練される。機械は、したがって、人間を自分たちの用途に合わせ、ほとんど自分たちの似姿に変革するのである。」「機械が我々にとって有用に思われれば思われるほど、我々自身は不完全な存在となり、機会を手放せなくなる。」「最も恐るべき機械は回ったり、走ったり、物質やエネルギーを輸送したり、変形したりする機械ではない。銅や鋼で作られたのとは別の、厳密に専門化した個人からなる機械が存在する。すなわち諸々の組織、行政機械といったもので、非人格的であることにおいて精神の存在様式に範を取って作られたものである。」(「知性について」90~91ページ)
「結局、近代生活の条件は不可避的に、容赦なく、個人を平準化し、個性を均等化する方向にむかうだろう。平均値がむかうところは、残念ながら、必然的に最低水準の範疇に属するものである。悪貨が良貨を駆逐するのだ。」(「「精神」の政策」152ページ)

・近代社会はこうした合理的大量生産によって多大のエネルギーを活用しようとするが、他方で生み出していくものを消費する。必要があって消費するのではなく、浪費するために新しい何かを発明しようとする。
「我々が生きる現代世界は、自然エネルギーをより有効に、より広範囲に利用することに鎬を削っています。絶えざる生活の必要を満足させるために、自然エネルギーを探索し、消費するばかりでなく、浪費するのです。浪費することに夢中になって、新たな使い道(これまでに夢想だにしなかった用途まで)を創造し、かつて存在しなかった新しい欲求を満足させる手段を考え出すのです。」「したがって、我々は、産業の繁栄のために、我々の内面から沸き起こってくる生理的な欲求とは無関係な、意図的に外側から圧しつけられる心的・感覚的刺激に由来する様々な趣味や欲望を吹き込まれるのです。」「我々の感官は、力学的・物理学的な種々の実験にますます曝されるようになり、そうした外から圧しつけられる力や律動に対して、陰険な中毒症状に対するような反応をします。」(「知性の決算書」188~189ページ)

・社会的意思決定を行う際には、社会全体が前提としている人間観が考慮されねばならない。ところが、現代社会にあって、それぞれが拠って立つ理論的根拠に応じて人間観が全く分裂してしまっている。「どんな政治にも何らかの人間の観念がある。政治目標を限定し、できる限り単純化し、大雑把にしてみても、政治にはすべて人間や精神についての何らかの観念があり、世界観があることに変わりはない。ところで、すでに示唆してきたことだが、現代世界において、科学や哲学が提起する人間の観念と法律や政治・道徳・社会が適用される人間の観念との間には距離があり、その溝は深まりつつある。両者の間にはすでに深淵が口を開いている…。」(「「精神」の政策」138ページ)
「かくして精神活動は、猛然と、なりふりかまわず、強力な物質的手段を創造し、世界中で、とてつもない出来事を次々と将来するようになりました。そうしてもたらされた人間世界の変化が、きちんとしたプランも秩序もないままに、我が物顔にふるまいだし、生物としての本来の姿におかまいなく、適応力や進化の速度など、生来の条件の限界を越えて、一方的にふるまうようになったのです。我々が知っていること、すなわち我々がなし得ることの総体が、最終的に、我々の存在と対立するようになったというふうに言えるでしょう。」(「知性の決算書」183~184ページ)

・「我々は自由でないことを何かによって示されないかぎり、自分たちが自由であるなどと思うことはけしてない。自由という観念は、我々の存在の衝動、感覚の欲望、あるいは、反省意識による意志の行使に対立する何かしらの不如意感、束縛感、抵抗感、ないしはそうした状態を仮想したときに起こる反応である。」「私が自由なのは、私が自由だと感じるときだけである。しかし、私が自由だと感じるのは、私が制約されていると感じているとき、現在の私の状態と対照的な状態を考え始めるときだけである。」「自由とは、したがって、一つの対照効果によってのみ、感じられ、認知され、希求されるものだ。」→「自由の要求や自由の観念は不如意や束縛を感じない人には生まれないので、そうした制約を感じなければ感じないほど、自由という言葉も販社も生じることが少ないのである。」「精神的な事象に対する感受性が鈍化していて、精神的な作品にかけられている圧力に気づかないような人々においては、何の反応もない、少なくとも目に見える形では。」(「精神の自由」251~53ページ)

・「現代人は本を読む時間がない…これは致命的だが、我々にはどうすることもできない。こうしたことが、すべて、結果として、文化の実質的な衰退を招くのだ。そして、副次的に、真の精神の自由の実質的な衰退を招くのだ。なぜなら、精神の自由は、我々が刻々近代生活から受け取る混乱した、強烈な感覚の一切に対して、超然として、拒絶する態度を取ることを要求するからである。」(「精神の自由」245~246ページ)

・「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」「ペタン元帥頌」「独裁という観念」「独裁について」はちょっと異例な文章か。例えば、「要するに、精神が自分を見失い、──自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、──政治システムの変動や機能不全の中にもはや見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。」(「独裁という観念」390~391ページ)→つまり、様々な矛盾に引き裂かれて自分たちが何をしているのか自分自身でも分からない精神的混乱状況に対し、一つの方向性へとまとめ上げる精神的機能のアナロジーとして“独裁”観念を捉えている。しかしながら、それは、一人の人物が高度な精神的機能の一切を引き受けるということで、残りの人々は単なる道具に成り下がってしまうことを意味する。19世紀以来の合理的産業組織化の趨勢と、20世紀前半における政治的独裁体制とが親和性を持っていたことが指摘されていると解釈できるだろうか。

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2010年6月 7日 (月)

戸部良一『ピース・フィーラー──支那事変和平工作の群像』、劉傑『日中戦争下の外交』

 戸部良一『ピース・フィーラー──支那事変和平工作の群像』(論創社、1991年)。1937年の盧溝橋事件以降、戦火が拡大しつつある一方で和平工作も進められており、その大半が非公式・秘密裏の交渉であった。本書は主に日本側の政策決定過程との関連を踏まえながら、こうしたピース・フィーラーたちの動きを検証する。ドイツを仲介役としたトラウトマン工作失敗後、有名な近衛声明「国民政府ヲ相手トセス」→人気頼みで権力基盤が弱い近衛は戦勝気分に乗っかって世論対策→蒋介石政権を否認しても具体的方針は一定せず。重慶の国民政府を和平へと転換させる、具体的には蒋介石の下野を求めて汪兆銘工作に乗り出す(近衛声明と矛盾しないように苦慮→軍部や世論など国内要因による制約)→汪兆銘を中心とした和平派の圧力で蒋介石下野を期待→うまくいかず、成り行きの中で汪兆銘首班の政権樹立へと方針変化→ますます重慶政権側との和平は困難になってしまった。また、宇垣工作(宇垣は近衛声明の修正・撤回を意図したが、軍部の反対にあって外相辞任)をはじめ複数の和平工作が同時進行→混乱。

 劉傑『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、1995年)。対象とするテーマは上掲書と同じ。従来、「和平工作」について日本側の研究では事変終結の手段として、中国側の研究では誘降工作として捉えられてきたが、これに対して本書は、戦後の日中関係や世界秩序構想との関わりから把握する視点を示す。当時の日本の対中政策について武力行使派と外交交渉派とに分類するが、欧米依存から脱却し日本を東亜安定勢力として国民政府に認めさせるという方針では一致していたと捉える。ところが、トラウトマン工作や九カ国会議をめぐる応酬の中で、交渉相手として国民政府中心論、新政権中心論(蒋介石政権否認、親日新政権樹立)という対立図式に変化した。後者の流れの中で、親日政権づくりのため第一級の大物+三流の働き手の引き出し工作→北洋軍閥期の大物・呉佩孚擁立工作の失敗→汪兆銘の重慶脱出でこうした構想が再浮上。戸部書では汪兆銘工作は当初は和平工作だったのに途中で新政権樹立構想に変化したと指摘されていたが、本書では最初から新政権樹立構想で一貫していたと考える。ただし、汪兆銘に実力がなく思惑外れ→実力を備えた重慶政権との交渉が必要という認識、むしろこちらの方が「和平工作」と言える。

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金雄白『同生共死の実体──汪兆銘の悲劇』

金雄白(池田篤紀訳)『同生共死の実体──汪兆銘の悲劇』(時事通信社、1960年)

 原著は香港で刊行。著者は周仏海と懇意にしていたためいわゆる汪兆銘政権(1940年3月30日から1945年8月)に参加したジャーナリスト。汪兆銘工作の発端から戦後の漢奸裁判まで自身の見聞を踏まえて内情をまとめており、読み物的ではあっても事実関係に間違いはないと評価されているようだ。汪兆銘に関する本で言及されるエピソードには本書から採録されているものが多い。国民党脱出組の維新政府組への嫌悪感。重慶政権側との血で血を洗う特務同士のテロ合戦。日本側との様々な駆け引き。国旗問題ではだいぶもめたらしく、日本側は北洋政権期の五色旗を要求、対して国民党としての正統性を主張する周仏海たちは青天白日旗を頑として譲らず、結局、青天白日旗に「和平・反共・建国」というスローガンを縫い付けて重慶政権側と区別するということで妥協。著者は汪兆銘に関して主観的には決して売国奴ではなかったが、国際情勢の判断を誤ったと評価。政権発足後、日本側のごり押しで何事も裏目に出てしまう中、普段は温厚文雅な汪兆銘も苛立ちが隠せず周囲に当り散らしていたという。

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2010年6月 6日 (日)

汪精衛(兆銘)について

 汪精衛(兆銘)は、「革命いまだ成らず」で有名な孫文の遺言を書き留めるなど国民党の嫡流革命家というイメージがある一方、日中戦争が泥沼化する中で対日協力を行った「漢奸」というイメージもあり、この両極端な二つのイメージを整合的に理解するのが極めて難しい。「漢奸」イメージによってまとわりつく政治的な敏感さのため研究者からは敬遠され、研究上の空白も大きい。日本人からすれば、「親日」イメージを過度に作り上げてしまうことで歴史認識上のタブーに触れかねない、そうした腫れ物に触るような居心地の悪さも感じてしまう。日中関係を考える上で避けられない人物だと分かっていて興味がありつつも、敢えて触れるには色々とハードルは高い。

 汪兆銘について作家による評伝としては、杉森久英『人われを漢奸と呼ぶ──汪兆銘伝』(文藝春秋、1998年)と上坂冬子『我は苦難の道を行く──汪兆銘の真実』(上下、講談社、1999年)がある。杉森書は著者晩年の遺作。戦前の文献など依拠しているソースが古く、事実関係の誤認等は編集段階で手が入れられているようだ。

 上坂書は遺族へのインタビューを中心に汪兆銘、陳璧君夫妻の生涯を描き、遺族のその後についてもたどられている。タイトルは、汪兆銘が日本との和平工作に乗り出した際に蒋介石へ送った書簡の末尾をしめくくる「君為其易、我任其難」という一文に由来する。蒋介石を抗日の旗頭とする一方で、もし日本が勝利しても中国の生き残りを図る、つまり保険をかけたオルターナティヴとして汪兆銘自身は対日和平に踏み込んだという捉え方は史料的な裏付けが難しいが、本書は基本的にこうしたトーンをにじませている。南京国民政府設置にあたり、あくまでも「遷都」であって新政府樹立ではないという建前を取り、主席には重慶政権の林森の名前を掲げて汪兆銘自身は代理主席とするなど、一つの中国、一つの国民党という前提がうかがえる。いずれにせよ、中国側の強硬な抗日世論と日本側の自分勝手なゴリ押しとの板ばさみの中で「漢奸」とレッテル貼りされ、歴史のエアポケットに落ち込んでしまった彼を再評価しようというスタンスに両書とも立っている。

 杉森、上坂両書ともノンフィクション評伝として個々の描写が詳しく読みやすい一方で、情緒に流れやすいきらいもある。汪兆銘政権を客観的に概観するには小林英夫『日中戦争と汪兆銘』(吉川弘文館、2003年)が便利である。本書はこれまでの研究動向をレビューした上で、例えば清郷工作、法幣問題、民衆動員組織(東亜連盟が入り込んできたが、その理念的主張と実際の日本軍の振る舞いとのギャップから支持は得られず)、外交政策(日本の対米英開戦→租界回収、治外法権撤廃等を見返りに期待して参戦を打診。なお、こうした汪兆銘政権の動きに反応する形で重慶政権側も英米と交渉、香港問題を除き不平等条約改正へとつながる)、教育・文化をはじめ庶民生活など汪兆銘政権をめぐる様々な論点を簡潔に網羅している。

 劉傑「汪兆銘政権論」(『岩波講座 アジア・太平洋戦争7 支配と暴力』岩波書店、2006年)は、日本側の意図と汪兆銘政権側における対日協力の論理とのズレを浮き彫りにする。蒋介石の重慶政権や共産党は抗日→中国の独立という考え方であったのに対し、抗日戦争の先行きに悲観的であった汪兆銘たち和平派は「アジア解放」というロジックの中で中国の独立の可能性を探った。しかし、日本軍占領地において独立政権を果たしてつくれるのかというジレンマからは逃れられず、①正当性・正統性、②日本軍がつくった各地方政権(北京の臨時政府、南京の維新政府)との関係調整、③日本側の干渉に対する交渉、いずれもうまくいかないまま無力であり、結局、傀儡政権に成り下がってしまった(なお、周仏海は満洲の返還がなければ日中問題の解決はあり得ないと考えていたという)。日本側は重慶政権の切り崩しによる親日的かつ強力な中央政府を期待して汪兆銘を引っ張り出したが、思ったほどに波及効果もなく失望、戦争解決のためにはやはり重慶政権側との直接交渉が必要という認識を持ち、そのため自分たちで引っ張り出しておきながら汪兆銘政権の承認を遅らせるなど単なる一手段とみなして軽視していた。

 劉傑「汪兆銘と「南京国民政府」──協力と抵抗の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006年)は、日中間における歴史認識のズレというテーマの中で汪兆銘を位置付ける。汪兆銘をめぐってはやはり「漢奸」「傀儡政権」の評価という争点に帰着してしまうが、彼の前半生における「孫文後継の情熱的革命家」イメージと後半生における「漢奸」イメージとが結び付きづらいという難しさがある。日本側では「愛国かつ親日」、「アジアの協調」という観点からの再評価が見られる。中国側では大陸・台湾ともに「漢奸」イメージでは一致。ただし、以前ほどのタブーはなくなってきて、台湾では彼が重慶政権を抜けた1938年を、大陸では彼が反共に転じた1927年を分岐点として後半は否定、前半は一定の評価という研究動向が表われている様子である。「協力と衝突」アプローチによる研究も現われ、大陸での最近の研究は台湾での研究成果に触発されているものも多いらしい。しかし、研究そのもののタブーはなくなりつつあっても、日中戦争への根深い問題意識が背景に伏在しているため「漢奸」「傀儡」という基本的評価は今後も変わらないだろうと指摘、汪兆銘をめぐる日中の温度差は、戦時期ばかりでなく現代にも続いているのではないかと問いかける。

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2010年6月 5日 (土)

竹中治堅『参議院とは何か 1947~2010』

竹中治堅『参議院とは何か 1947~2010』(中公叢書、2010年)

 参議院の性格をめぐっては「強い参議院」論と「(衆議院の)カーボンコピー」論の二種類がある。ただし、それぞれ特定の政治状況に着目した議論という傾向が強いと本書は指摘、時系列的にも政治過程的にもこれまでの政局動向をトータルに検証しながら参議院が果してきた役割を考える。日本国憲法で規定された議院内閣制は衆議院と内閣との融合という形をとる。対して、解散のない参議院の独立性は比較的強く、本書では政権=内閣と参議院との緊張関係に的が絞られてくる。

 松野鶴平や重宗雄三が参議院議長だった時代、彼らは独自グループとしての参院自民党を掌握しており、政権側はこれへの対応に苦慮していた。ところが、参議院改革を唱える河野謙三が野党の支持を得て議長に就任、自民党の参院独自グループはなくなり、代わって派閥化→派閥をつなぎとめれば政権側の方針が通りやすくなった。また、河野以降、議長は党籍離脱の慣行(これは参院改革というよりも、河野が自民党主流派に反旗を翻したため自民党を出ざるを得なかったため)→議長職権による強引な議院運営ができなくなった→参院議長と内閣との緊張関係緩和。こうした成り行きで、「良識の府」を取り戻すというスローガンとは裏腹に、政権側の方針が通りやすくなったという逆説が興味深い。ところが、衆議院での選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制)→首相の指導力が高まり、自民党派閥の弱体化→参院自民党に独自行動の余地(村上正邦、青木幹雄)→小泉純一郎も参院には一定の配慮をせざるを得なかった。

 参院の審議で否決・修正が少ない点に着目すれば「カーボンコピー」論は成り立つ。しかし、政策決定過程をトータルで捉えると、事前の根回しや、通過する見込みのない法案は最初から提出を断念するという形で、参院側の意向は反映されていた。また、衆参ねじれの際、参院での過半数を目指して少数政党が連立政権入りするのも、見方を変えれば多角的民意の反映と言うこともできる。従って、憲法制定当初に想定されていた衆議院に対する抑制として立法活動の慎重化(参院は現状維持志向→内閣による新規提案を拒否する傾向がある)、二院制による多角的民意の反映といった機能を参議院はある程度まで果たしてきたと指摘される。ただし、だからと言って現状で十分というわけではない。例えば、自民党・民主党の二大政党化の趨勢が見られる現在、衆参のねじれはただちに政局停滞・混乱を招きかねず、参院の独自色としての多党化を促すために選挙制度改革なども提言される。

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「パーマネント野バラ」

「パーマネント野バラ」

 離婚して実家に子連れで出戻ったなおこ(菅野美穂)。母親(夏木マリ)は美容院・パーマネント野バラを切り盛りしている。男で失敗続きの友達(小池栄子、池脇千鶴)に、いつも猥談に興じてばかりいる常連のおばさんたち。なおこは人目を忍んで昔なじみの恋人に会いに行くが、何か事情がありそうな様子。

 西原理恵子原作の映画化が続いている。登場人物の性懲りないバカさ加減にあきれ果てつつ、そのみじめさには放っておけない人間くささがあっていとおしく感じさせる。ラフな絵柄と笑いというオブラートにくるまれてはいても、彼女たちを見据える視線はえげつないほど冷ややかであり、それなのに矛盾するようだが温かい。醜い猥雑さの中にもほのかに漂ってくるペーソスが西原作品の何とも言えない魅力だ。

 なおこの見る幻影は、淡いノスタルジックな恋心というだけでなく、このみじめな人生の中でも気丈さのよすがとなる何かを求める気持ちの表われと言えるのだろうか。菅野美穂のたたずまいに清潔感があってそうした印象を受けた。監督は吉田大八、以前、本谷有希子原作の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を観たことがあったが、美しい農漁村の風景の中でもジトジト湿っぽい田舎の人間関係みたいな設定は同様で、そういうテーマの志向性があるのか、たまたまなのか。

【データ】
監督:吉田大八
原作:西原理恵子
脚本:奥寺佐渡子
出演:菅野美穂、小池栄子、池脇千鶴、宇崎竜堂、夏木マリ、江口洋介、他
2010年/100分
(2010年6月4日、新宿ピカデリーにて)

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2010年6月 4日 (金)

篠原初枝『国際連盟──世界平和への夢と挫折』

篠原初枝『国際連盟──世界平和への夢と挫折』中公新書、2010年

 歴史的事象を振り返ってみたとき、往々にして成功は当たり前のようにみなされ、失敗の印象は強く残りやすい。国際連盟は第二次世界大戦の惨禍を防げなかった点でよく失敗したと言われる。しかし、仮に国際連盟がなかったとしたら現代の我々が果たして享受し得たのか分からない様々な成果もまた生み出していた。本書は、国際連盟が描いた26年の軌跡を当時の時代的コンテクストの中で位置付けながらたどっていく。

 保健衛生、難民問題、知的協力などについては現在につながる制度づくりが行われ(例えば、感染症の防止など。血液型の国際標準化も国際連盟の活動によるというのは初めて知った)、何よりも国際法的枠組みを確立したことはやはり大きい。例えば、常設国際司法裁判所が設立された。加盟国の投票権の平等は主権国家対等の原則を確立した。日本、イタリア、ドイツ、ソ連の侵略を防止できなかったが、少なくとも正邪の判断は下したことは国際法的認識のあり方との関わりで無視できない。

 むき出しのパワー・ポリティクスではなく、小国・弱国でもその存続が保障されねばならない、そうした集団安全保障を目的として国際連盟規約第10条で領土保全の原則が規定された。これは、被侵略国を守る義務が加盟国に課せられるということである(実際には機能しなかったにしても)。そもそも国際連盟はウィルソンの提起によるにもかかわらずアメリカは上院の反対で加盟できなかったのは、この連盟規約第10条により自国の利益に関わりのない問題で軍隊を派遣せざるを得なくなることが懸念されたからであった(見ようによっては、戦後日本の国内世論が憲法第9条をタテにとってPKO等の国際協力に反対してきたのと似ている)。一国の利益と普遍的原理との調和しがたい矛盾は依然として国際組織が抱え続けている問題であり、その困難に初めて原理的に直面した事例として国際連盟を検討する必要はあるのだろう。国際連盟についての概説書はありそうで意外となかったので、こうした読みやすくかつ情報量豊かな本はありがたい。

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2010年6月 3日 (木)

ジョシュア・A・フォーゲル『Articulating the Sinosphere:時空間における日中関係』

Joshua A. Fogel, Articulating the Sinospere: Sino-Japanese Relations in Space and Time, Harvard University Press, 2009

 タイトルのArticulating the Sinosphereをこなれた日本語に移しかえづらいのだが、中華圏(Sinosphere)を時期的に区切って明確化する、といった意味合いになるだろうか。文明圏の核として中国があり、日本、朝鮮半島、ヴェトナムその他の地域がその周りで軌道を描くモデルとして中華圏という捉え方を示す。図式的にはいわゆる朝貢システムと似ているが、ただし、そのように制度化された枠組みではなく、様々な要因が絡まりあって複雑な関係を具体的に取り上げていくための思考道具的な枠組みとしてモデルそのものは抽象化、この中で日中関係を古代から日清戦争直前(つまり、両国関係が険悪化する前)まで幅広いタイムスパンの中で俯瞰しようとしている。人的交流に関わるトピックが多い。

 第1章「日中関係:長期的概観」は日中間交流を古代から江戸時代まで大きく概観、とりわけ人的交流に焦点が合わされている。取り上げられているトピックは過不足なく簡潔。第2章「千歳丸の船旅と日中外交関係正常化への道程:ミクロ・ヒストリカルな視点」は1862年、江戸幕府が清と公的な接触を持とうとして上海に派遣したイギリス製軍艦・千歳丸をめぐるエピソードを細かく検証。上海での交渉で仲介したオランダ人商人のプロフィールなども調査している。その後、日本と中国は国際法的な関係として対等になり「中華圏」は終わるが、日中双方の記憶には残ったと指摘される。第3章「上海の日本人コミュニティ:第1世代、1862~1895年」は明治維新前から上海に来ていた日本人の動向、例えばからゆきさん、商売人、仏教徒、ジャーナリズムなどやはり具体的な人的つながりを取り上げている。近代に入ってからは中国人留学生が西洋の知識を吸収するため来日したが、この当時は上海が日本人にとって西洋への窓口であり、かつ西洋による抑圧をも目撃し、両方の意味で国民国家建設への駆動力となっていく。

 漂流民の果たした役割が興味深い。越前出身の竹内藤右衛門は満洲人に保護され、明朝滅亡、北京占領の際にも同行して、この動乱をじかに目撃した後に帰国したらしい。幕末期、尾張出身の音吉と仲間たちはアメリカに漂着、その後、貿易や伝道のため中国へ行く。音吉はペリーの日本遠征の際に通訳を頼まれたが断ったという。

 岸田吟香は横浜でヘボン(Hepburn)に眼病の治療をしてもらい、その縁でヘボンの日本語辞典編纂に協力。ところで、印刷しようにも維新前の時代であり、機械がない。そこで彼らは上海に行った。上海のキリスト教伝道所では開国したばかりの日本への布教を意図してかな文字の印刷機がすでにあったからだ。この設備を準備したのは、実は音吉と一緒に漂流した弟の久吉だったという。吟香はヘボンに処方を教えてもらった眼病薬を上海で売り込み、これが日中間で最初に行われた直接の民間交易だったとされる。吟香は眼病薬販売のため楽善堂という会社を設立、当時、陸軍の諜報員として中国に来ていた荒尾精はこの店員という身分をカモフラージュとした。荒尾は後に召還命令が来ても除隊して中国に留まり、日清貿易研究所を設立、これが後に東亜同文書院となる。なお、漂流民つながりで言うと、吟香はジョゼフ・ヒコと知り合って横浜で『海外新聞』を出したりもしている。

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松本健一『日本のナショナリズム』

松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年

 もともと、政権交代以前から民主党中堅議員向けに行われていた講義が本書のもとになっているらしい。東アジア共同体構想や憲法改正論などへの関心によるのだろう。ナショナリズム論を基本的な視座とした近代日本政治思想史概論といった体裁で、この方面について知りたいと思う人には手頃な入門書だと思う。齋藤隆夫と北一輝を取り上げ、一見対照的な二人に見えるが、それぞれのロジックをよく吟味してみると議会政治正常化等の目的のため天皇というシンボルを動員するというリアリズムの発想で共通性があるという指摘に興味を持った。

 ナショナリズムをめぐる困難の一つは、国民国家建設という課題はその当時においては正当であったにしても、それがある程度まで完成されると帝国主義へと向かいかねない危険をはらんだという二面性に求められる。あるいは、外をたたくことで内部の結束を固めようという発想。大隈重信内閣のポピュリズムが対華21か条要求をつきつけ、中国からの不信感を招き、さらにはその後の侵略戦争へつながったと把握される。こうした近代日本の教訓を踏まえ、「アジア共同の家」という著者自身の構想提言に向けて政治的アイデンティティの再定義という問題意識が示されている。

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2010年6月 2日 (水)

ジョゼフ・R・レヴェンソン『梁啓超と近代中国の精神』

Joseph R. Levenson, Liang Ch’i-ch’ao and the Mind of Modern China, University of California Press, 1967

・本書の初版刊行は1953年だから半世紀以上経っている。欧米における梁啓超研究の古典という位置付けになるだろうか。彼の生涯と思想的変遷のアウトラインが体系的に整理しながら描き出されている。①国民国家建設という課題にどう取り組むのか? ②近代化=西洋化と自分たちの伝統思想とは対立するのか、それとも折り合いがつけられるのか?というテーマがやはり中心となる。中国に限らず、日本をはじめ非西洋世界において近代思想史を描こうとすると、必ずと言っていいほどこうしたあたりに議論は収斂してくるわけだが。

・伝統的な中華思想においては中国=世界、つまり中国だけで自足的→他者という観念が薄い(“野蛮”はあったにせよ、ヒエラルキー的世界観の中に取り込まれるという意味で自足的)。清代のイエズス会は結局しめ出され、洋務運動は中体西用論に基づき技術だけの摂取を試みた。対して梁啓超は普遍的視野の中で中国を相対化する視点を示す。つまり、帝国主義列強をはじめ様々な国がこの世界に並立している→他者を認識→分割された世界における分割されざる一つの中国としてナショナリズム→生き残りのための国民国家建設という課題→近代化のため伝統思想克服という課題→「新民説」。
(※一つの中国という立場から革命派の滅満興漢的ナショナリズムを批判→満洲人を排除しようとしたら他の少数民族も追い出せという話になってしまって収拾がつかなくなる。ただし、一つの中国というロジックにおいては言語や習慣の同質性が前提→梁啓超の生きた当時は帝国主義に対する防御という発想だったが、このロジックがその後も受け継がれる中で中国=漢人という枠組みにすり替わって漢人文化への同化圧力→現在の民族問題につながっている点には留意しておく必要がある。)

・生存競争のロジックには当時流行していた社会ダーウィニズムの影響が濃厚。
・①中国伝統の文化主義において文人>武人というヒエラルキー→軟弱な平和主義では生き残れない→日本の武士道への関心。②秦以降の統一帝国の枠組みで儒教イデオロギー支配→社会的同質性のため競争や対立の契機が欠如→停滞の原因という問題意識。⇒梁啓超は先秦・戦国時代に注目→思想の複数性、競争の発想、中国の武士道があったと主張。

・梁啓超は第一次世界大戦直後のヨーロッパを見聞し、西欧の行き詰まりを目の当たりにした→かつて西洋を基準にした中国の改造を主張していたが、西洋の科学文明における唯物主義を批判するようになる。中国は確かに科学的先進性を西洋から学ぶ必要はある。しかし、価値観において西洋にも間違いがあるならば中国自身の伝統思想における価値観を見直していこう、その点で中国が世界に寄与できるところがあるかもしれない→科学/精神の二元論(dualism)における西洋/東洋のシンクレティズム(syncretism)。かつての中体西用論とは発想の契機が異なる点に注意。

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今日マチ子『センネン画報 その2』

 『センネン画報』(太田出版、2008年)を以前たまたま書店で見かけ、何となく良いなあと思って買って以来、今日マチ子作品のファン。第一弾ではカラーは3分の1くらいだったが、今回の『センネン画報 その2』(太田出版、2010年)はオールカラー。水色の情感がポイントだから嬉しい。最初は売れ行きを危ぶんでコスト抑制のため一部カラーとしたのだろうが、実績は好調、今回はオールカラーでも採算は十分とれると見込んだのだろう。

 青を基軸とした背景に繊細な線、水彩のさわやかな透明感が実に良い。高校生活のワンシーンを切り取るような題材、この水色の色合いからは思春期の感傷が静かに浮かび上がってくる。ストーリーものより、セリフのない一つ一つのカットの方が私は好き。学校の教室、白いカーテンがそよ風に揺れているところなどノスタルジーをかき立てられる。雨の日が多い。アパートの片隅のたたずまい。公園や川辺では草むらが風になびいている。夏は涼しげに、冬の夜は寒そうな仕草に叙情的なものが感じられてくる。

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2010年6月 1日 (火)

山口昌子『ドゴールのいるフランス──危機の時代のリーダーの条件』

山口昌子『ドゴールのいるフランス──危機の時代のリーダーの条件』(河出書房新社、2010年)

 第二次世界大戦とアルジェリア独立問題という二度の危機を乗り切ったカリスマ的存在感、米ソ超大国の狭間で埋没しかねない局面の中でたくみに自主外交を打ち出したしたたかさ。政治におけるリーダーシップをテーマとしたドゴールの評伝である。

 強力なリーダーシップを裏返せば“独裁者”というレッテル貼りもされかねないが、サルトルをはじめ左派系知識人によるそうしたドゴール批判の浅はかさに対する反論も大きな柱となっている。ドゴールの生涯を描くというよりもドゴールという人物に仮託して現代政治の不甲斐なさを叱咤するという感じの筆致であり、当時における国内政治・国際環境の力学的関係の中で彼の政治行動を位置付けるという視点でもない。結局、「ドゴールは偉大だった!」という結論になってしまう。著者の思い入れも過ぎると、かえって興醒めしてしまうのが残念なところだ。

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