マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう──いまを生き延びるための哲学』
マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう──いまを生き延びるための哲学』(早川書房、2010年)
「正義」なんて言うと事情を知らない人は陳腐だと誤解してしまうかもしれないが、そういう本ではない。現代社会において何らかの政治的意思決定が行われる際、その社会の構成メンバーから一定のコンセンサスを得なければならない。この合意形成に当たって必要な根拠と論理のあり方を根源まで突き詰めて問い直そうという試み、これが政治哲学ではJustice=「正義」論と呼ばれている。本書はタイムリーな具体的話題を取り上げながらこうした政治哲学的思索を応用、その中に先哲の議論を手際よく織り込んだ語り口は柔らかでありつつ鮮やかだ。政治哲学の入門書としてとても良い。是非おすすめしたい。
サンデルはコミュニタリアニズムの論客として一般に認知されており、本書でもそうした立場から功利主義やリバタリアニズムに対する批判が大きな焦点となっている。例えば、すべてを数字換算可能としたベンサムの幸福計算は、経済学的思考ではありふれたものである。しかし、質的に数字換算できないものをどう捉えるのか? 功利主義に立脚しつつ人間性の尊厳をも調和させようとしたJ・S・ミルは結果として功利主義の枠から外れていく。あるいは、リバタリアニズム。我々にとって自由は人格としての尊厳とも結び付き何にも代えがたく貴重である。しかし、表面的な行為として自由を尊重しているように見えても、社会的・経済的不公正によって実際には選択肢が狭められてしまっているとき、それでも自由と呼べるのか? すべての人間に完全な機会均等が保障された社会は実在していない。さらにカントは、没価値的な自由は単なる欲望の肯定であって、欲望そのものは自分の意志で生み出したものではないのだから、その意味で他律的だと指摘、対して理性重視の定言命法によって自律=自由を提起した。同じ「自由」というキーワードでも、リバタリアンとカントとではその意味するところが全く対照的である。
カントにしても、あるいはロールズにしても、完全に抽象化された中で個人のあり方を模索した。サンデルも含め、ロールズの「公正としての正義」論に対して「負荷なき個人」はあり得ないという批判を提起した人々が一般にコミュニタリアンと呼ばれている。本書でも、契約に当たっては自発的同意だけでなく互恵性も必要、コミュニティの価値意識などの論点から、自分の自発的意志以外の要因によっても道徳的制約を受けざるを得ない存在として個人を捉える視点が示されている。コミュニティ重視と言っても、それは「負荷なき個人」というフィクションに対する批判による論点であって保守派の言説とは異なる。むしろ、コミュニティによる個人抑圧の可能性と個人の自由とをどのように両立させるか?という問題意識も強く示されている。
問題は輻輳しており、絶対的な解決策はない。功利主義やリバタリアニズムを批判したからといって、ことはそれで済むような単純なものではない。それぞれの理論的立場にも一定の説得力がある。ただし、一つの立場の全面的な適用は、必ずどこかで受け入れがたいという違和感を我々の心中に生じさせ、そのわだかまりにこそ更なる思索を促す契機がある。むしろ本書の目的は、具体的な社会問題の背後に伏在する様々な考え方それぞれの論理的根拠及び展開の帰結を整理、対立点を浮き彫りにすることによって、改めて考え直すための思考上の材料を準備するところにある。それをもとに社会のみんなが対話を繰り返す中で徐々にではあっても合意形成をめざしていくことを本書は求めている。違う理論的立場から議論を行っても、対話という営みそのものに共通善を目指す努力がある、そうした態度にこそコミュニタリアニズムの本領があると言えるだろう。
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コメント
お久しぶりです。ブログ、時折拝見しています。
参考に2つばかり。
サンデル教授の「ハーバード白熱教室」がNHK教育で放送中です。http://www.nhk.or.jp/harvard/
麻生久美子さんが出演していたNHKドラマ「チェイス~国税査察官」はご覧になりましたか? 素晴らしかったです。再放送が6月2日(水)午前0:15~(=(火)深夜)と翌日にあります。
投稿: sasuke | 2010年5月30日 (日) 22時02分
sasuke様、情報をありがとうございます。
サンデルの「ハーバード白熱教室」が放映されていることは知っていたのですが、いつもその時間は家にいないんです…。夜にでも再放送をやってくれないものか。
「チェイス~国税査察官」に麻生久美子さんが出ているのは知りませんでした。再放送をチェックしないと。
投稿: トゥルバドゥール | 2010年5月30日 (日) 23時15分