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2010年5月

2010年5月29日 (土)

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう──いまを生き延びるための哲学』

マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう──いまを生き延びるための哲学』(早川書房、2010年)

 「正義」なんて言うと事情を知らない人は陳腐だと誤解してしまうかもしれないが、そういう本ではない。現代社会において何らかの政治的意思決定が行われる際、その社会の構成メンバーから一定のコンセンサスを得なければならない。この合意形成に当たって必要な根拠と論理のあり方を根源まで突き詰めて問い直そうという試み、これが政治哲学ではJustice=「正義」論と呼ばれている。本書はタイムリーな具体的話題を取り上げながらこうした政治哲学的思索を応用、その中に先哲の議論を手際よく織り込んだ語り口は柔らかでありつつ鮮やかだ。政治哲学の入門書としてとても良い。是非おすすめしたい。

 サンデルはコミュニタリアニズムの論客として一般に認知されており、本書でもそうした立場から功利主義やリバタリアニズムに対する批判が大きな焦点となっている。例えば、すべてを数字換算可能としたベンサムの幸福計算は、経済学的思考ではありふれたものである。しかし、質的に数字換算できないものをどう捉えるのか? 功利主義に立脚しつつ人間性の尊厳をも調和させようとしたJ・S・ミルは結果として功利主義の枠から外れていく。あるいは、リバタリアニズム。我々にとって自由は人格としての尊厳とも結び付き何にも代えがたく貴重である。しかし、表面的な行為として自由を尊重しているように見えても、社会的・経済的不公正によって実際には選択肢が狭められてしまっているとき、それでも自由と呼べるのか? すべての人間に完全な機会均等が保障された社会は実在していない。さらにカントは、没価値的な自由は単なる欲望の肯定であって、欲望そのものは自分の意志で生み出したものではないのだから、その意味で他律的だと指摘、対して理性重視の定言命法によって自律=自由を提起した。同じ「自由」というキーワードでも、リバタリアンとカントとではその意味するところが全く対照的である。

 カントにしても、あるいはロールズにしても、完全に抽象化された中で個人のあり方を模索した。サンデルも含め、ロールズの「公正としての正義」論に対して「負荷なき個人」はあり得ないという批判を提起した人々が一般にコミュニタリアンと呼ばれている。本書でも、契約に当たっては自発的同意だけでなく互恵性も必要、コミュニティの価値意識などの論点から、自分の自発的意志以外の要因によっても道徳的制約を受けざるを得ない存在として個人を捉える視点が示されている。コミュニティ重視と言っても、それは「負荷なき個人」というフィクションに対する批判による論点であって保守派の言説とは異なる。むしろ、コミュニティによる個人抑圧の可能性と個人の自由とをどのように両立させるか?という問題意識も強く示されている。

 問題は輻輳しており、絶対的な解決策はない。功利主義やリバタリアニズムを批判したからといって、ことはそれで済むような単純なものではない。それぞれの理論的立場にも一定の説得力がある。ただし、一つの立場の全面的な適用は、必ずどこかで受け入れがたいという違和感を我々の心中に生じさせ、そのわだかまりにこそ更なる思索を促す契機がある。むしろ本書の目的は、具体的な社会問題の背後に伏在する様々な考え方それぞれの論理的根拠及び展開の帰結を整理、対立点を浮き彫りにすることによって、改めて考え直すための思考上の材料を準備するところにある。それをもとに社会のみんなが対話を繰り返す中で徐々にではあっても合意形成をめざしていくことを本書は求めている。違う理論的立場から議論を行っても、対話という営みそのものに共通善を目指す努力がある、そうした態度にこそコミュニタリアニズムの本領があると言えるだろう。

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2010年5月27日 (木)

シャオビン・タン『グローバル・スペースとナショナリストの「近代」言説:梁啓超の歴史的思考』

Xiaobing Tang, Global Space and the Nationalist Discourse of Modernity: The Historical Thinking of Liang Qichao, Stanford University Press, 1996

 19~20世紀、帝国主義列強によって蚕食されつつあった近代中国が追い求めた対外的に独立、国内的に社会革命、すなわち国民国家建設と近代化という課題。本書は、これに取り組んだ梁啓超のとりわけ歴史的思考のあり方に着目して、彼の思想上の変遷に対する理解を試みる。

 梁啓超の初期の歴史論をみると、空間的・時間的に政治的統一体としての「中国」を定位しようという志向、国民国家形成を意図した歴史叙述がうかがえる。人物論では社会革命のあり方を模索。民族運動革命家としてハンガリーのコッシュート。イタリア統一革命は、マッツィーニの情熱を媒介としながら、カヴールの政治力によって成功したと把握。フランス革命ではジャコバン派によって処刑されたジロンド派の指導者ローラン夫人を取り上げて、革命を動かしたラディカリズムの負の側面に着目。

 梁啓超は民主主義への高い期待を抱いて理念としては主張したが、それが中国の現実に可能かどうかに頭を悩ませた。外遊時に北米と南米を比較→北米に移住したピューリタンのように民主主義的な理念を予め持っていた場合には独立革命を通して民主政体の形成は可能であったのに対し、南米のようにそうした理念が国民全体に浸透してない場合には革命は混乱をもたらすだけと認識。一人ひとりに自由意志的なものが実質的に完備・保障されていない限り、民主政体は混乱と専制をもたらす→近代的市民確立のため「新民説」と同時に、中国について悲観的な現状認識から「開明専制論」をしぶしぶながら主張せざるを得なかった。

 こうした態度は革命的情熱に燃える若手の目には裏切りとしか映らない。梁啓超は、感情論で現状の欠陥から目を背けるのではなく、歴史的展開の中で目的達成を考えるというリアリズムの立場から感情論に突っ走りかねない彼らと論戦。梁啓超の「新民報」と革命派の「明報」との相違(彼は政治小説『新中国未来記』の登場人物によって立憲派と革命派の議論を再現させているが、中江兆民『三酔人経綸問答』を思わせる)→後者に見られるラディカルなユートピア主義という遺産はその後も国民動員における政治イデオロギーとして影響し続けたと指摘される。梁啓超は立憲君主論者であったが、辛亥革命が起こると、この現状を所与の前提として混乱回避と国家建設のため積極的に政権参加。

 梁啓超は「新民説」を唱えた当初、国民国家建設と近代化のため中国の伝統的価値に対しては否定的見解を取っていた。しかし、第一次世界大戦直後のヨーロッパ歴訪→近代の物質文明の行き詰まりと認識→中国の伝統的価値への再評価の契機。このとき梁啓超は、地球という同じ空間の中で異質なものが相互補完的に展開する、いわば弁証法的なダイナミズムとして歴史を把握、こうした人類史的視野の中で近代文明と中国との関係を位置付ける。従って、中国の伝統的価値の見直しは単なるナショナリズム回帰ではなく、それを西欧近代文明と相互補完的に関係付けることで広く世界文明に寄与すべきという普遍主義の主張であったと解釈(私は明治日本における陸羯南や三宅雪嶺など政教社ナショナリズムを想起した)。本書ではこの時点での梁啓超の普遍主義的歴史観について、近代言説にまとわりつく発展段階説的な時間意識とは異なる視点を出しているとしてポストモダン思想と比較しながら評価されている。

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2010年5月26日 (水)

永井荷風『下谷叢話』

永井荷風『下谷叢話』(岩波文庫、2000年)

 荷風の母方の祖父で漢学者であった鷲津毅堂及びその周辺人物について調べた史伝的作品。尊敬する森鴎外の『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』を意識したらしいが、漢籍史料の引用もふんだんな生硬な文体は荷風作品としては珍しい。時代に背を向けた漢学者たちを共感を持って描く、といううたい文句が文庫版表紙にあって、黄昏の中の反時代的反骨のようなものを何となく期待して手に取ったのだが、それほど感じ入るところもなかった。私の鑑賞力不足か。岩波文庫版解説(成瀬哲生)によると、刊行当時に正宗白鳥が、史伝としては鴎外に及ばず、花柳界を描いた荷風ならではの鮮やかな筆致も見られず失敗作だとこき下ろしたらしい。

 毅堂の弟子の中に、森槐南という名前があった。日本が台湾の植民地支配に乗り出した当初、台湾在来の読書人から軽侮を受けないようにと漢学に秀でた者が台湾に送り込まれたが、その中の一人として槐南の名前に覚えがあった(他に、尾崎秀実・秀樹兄弟の父親である尾崎秀眞などもいた。台北の龍山寺で秀眞による揮毫を見たことがある)。手もとにある島田謹二『華麗島文学志──日本詩人の台湾体験』(明治書院、1995年)をめくるとやはり槐南の名前が出てきた。正確に言うと、槐南自身が台湾に長期間滞在したわけではなく、槐南の弟子が台湾に赴任したこと、伊藤博文に随行して台湾を訪問した際の槐南の詩をこの本で見かけたことで私の記憶に残っていたようだ。『下谷叢話』では、槐南は伊藤博文に見出されて官界へと引き立てられ、伊藤のハルビン訪問にも随行、伊藤が安重根に狙撃された際、槐南もそばにいたため同様に銃弾を受け、帰国後に死去したという事情が紹介されていたのでここにメモしておく。

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2010年5月25日 (火)

永井荷風『雨瀟瀟』ほか

 ここのところ何となく気が向いて永井荷風を読んでいる。『雨瀟瀟』を読んだ。漢詩やフランス詩も引用されたペダンチックな文人趣味。しかし、一人住まい、悠々自適の素振りを見せつつも、この小難しそうな筆致にひそむ孤影悄然たる哀感というか、枯淡の心境が、雨音響く情景の中でいっそう際立たされてくる。

 荷風の作品には、滅びゆく古き情緒への哀惜の念、社会が開けゆくに従って人情がドライになっていく世知辛さへの違和感が浮き彫りにされていることが多い。例えば、『雨瀟瀟』でメインとなる知人の成功した実業家から聞いた話。彼は、世話してやった書生たちが小利口に立ち回って立身出世するのを内心不愉快に感じていた。打算のないものとして芸者を身請けして芸をみっちり仕込もうとするが、この思惑も同様に外れてしまう。

 個人本位を一切の価値基準とするのが近代なる時代の成り行きだとするなら、それについて『濹東綺譚』に友人の神代箒葉の話としてこんなことが記されていた。

「然し今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけには行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうとさほど眉を顰めるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは慾望を追求する熱情と云う意味なんです。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他博奕の流行、みんな慾望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている──その心持です。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。」(『濹東綺譚』新潮文庫、102~103ページ)

 荷風の作品に漂っている気風は、単に古き時代へのノスタルジー、功利的・打算的処世知に対する道徳的批判、というに限られるわけではない。曰く云いがたく、単純な言説にまとめようとすると、余韻としてほのめかされる含蓄がこぼれおちてしまう。近代化と言えば聞こえはいいが、物事がますます平板になりつつある中で、良い悪い白黒明確に割り切ることのできない何かへの哀惜。古さというのは時間の堆積であり、これまで悲喜こもごも様々に人々がおりなしてきた矛盾が、その矛盾のあるがままに渾然一体となって融け込んでいる。そうした中からほの輝くように情に訴えてくる何か、それを受け止める眼差しが失われつつあることへの一抹の寂しさ。

 荷風が好んで立ち寄った遊郭、それは決して健全な空間ではないが、道徳と悪徳のパラドックスからこそ見えてくる哀歓に荷風は一つの真実を感じ取っていた。たまたま読んだ『新橋夜話』にあったこんな表現が印象に残っている。表面潔癖、内面偽善の妻に嫌気がさして離縁して遊郭に出入りした男の述懐。

「…つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い様々な汚点を見るよりも、投捨てられた襤褸の片に美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実がかえって沢山に摘み集められる…。」(『すみだ川・新橋夜話』岩波文庫、283ページ)

 岩波文庫版『花火・雨瀟瀟』の解説を書いている奥野信太郎が、かつて北京八道湾胡同の苦茶齋を訪れたとき、周作人がこの『雨瀟瀟』を激賞していたと回想している。周作人はもとより日本語に堪能ではあったが、たびたび引用される漢詩によってこの作品に漂う情趣がいっそう理解せられたのであろうという趣旨のことを奥野は記している。荷風と周作人の共通性については劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年)で指摘されており、興味深く読んだ覚えがある。世の騒がしさを尻目に枯淡の境地を味わう文人趣味という点で私もこの二人にどこか似た雰囲気を感じ、いたく興をそそられているところである。

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2010年5月24日 (月)

狭間直樹編『共同研究 梁啓超──西洋近代思想受容と明治日本』

 梁啓超の思想や生涯の全体像を把握できる本はないかと探しているのだが、手頃なのがなかなか見つからない。彼の活躍したジャンルはあまりに幅広く、かつ時期によって発言の変遷も大きいので、一つの視点による単著は難しいのか。

 狭間直樹編『共同研究 梁啓超──西洋近代思想受容と明治日本』(みすず書房、1999年)は13人の研究者の論文によって構成された共同研究。主に日本との関わりに焦点が合わされている。変法自強運動は明治維新を範にとっていたこと、戊戌の政変(1898年)で亡命して以来、14年近くにわたって日本に滞在していたことから、梁啓超の思想形成を検討する上で日本ファクターは無視できない。論点は多岐にわたってすべてをフォローするのは難しいので、興味を持った点だけメモ。

 国民の集積として国家を把握、国を支える新しい国民像の創出→「新民」説。福沢諭吉の有名なテーゼ「一身独立して一国独立す」なども想起される。対外関係を論ずるときには国権論的、個人の権利関係を論ずるときには民権論的、両者が対立するのではなく楕円系的な議論構図、民度が低いという自己認識を持ったときには「開明専制」論が全面に出てくるが、国権か、民権か、このブレが大きいように見える中でも、両者を相補的に捉える基本線は一貫している。梁啓超は福沢諭吉「独立自尊」にも言及しているが、ただし梁が滞在していた当時の日本では、すでに明治初期啓蒙思想の時代は過ぎて国権論が隆盛となっており、そうした議論の方向に梁も引っ張られたのではないかという指摘があった。また、日本では「尚武の精神」にも注目→「中国之武士道」を著す。当時、章炳麟、譚嗣同をはじめとした中国近代の思想家たちの仏教への関心はよく指摘される。戊戌の政変で譚嗣同たちは処刑された→政治変革に伴う死と思想的にどのように向き合うのか、さらには無私の覚悟、殉教の精神、こういったものを涵養する上でも梁啓超は仏教思想への関心を踏まえていた。梁啓超の海外思潮摂取を理解する際、日文を通して多くの知識を吸収していたので、欧米思想と直接比較するだけでなく、日本経由のバイアスも考慮する必要あり。戊戌の政変で日本へ亡命する船の中で東海散士『佳人之奇遇』を読みふけったらしい。また、フランス革命の指導者ローラン夫人の伝記→徳富蘆花の史伝で読んで再解釈→梁啓超が中文で書いたローラン夫人伝をさらに朝鮮の民族史家・申采浩が読んで影響を受けたらしい。東アジアにおける思想連鎖のあり方として梁啓超は興味深い。

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2010年5月23日 (日)

「トロッコ」

「トロッコ」

 死んだ台湾人の夫の故郷、花蓮近くの山あいの村へ遺骨を持って訪れた夕美子(尾野真千子)。連れてきた二人の子供、敦と凱の兄弟はニンテンドーDSに夢中、時折注意する夕美子の声には疲れたような険もこもっている。兄の敦が時に反抗的な態度をとるのは、父がいなくなった寂しさと母の疲れ、そうしたプレッシャーを感じているからなのか。台湾のおじいちゃん(洪流)は、若い頃に覚えた日本語も交えながら、初めて会う嫁と孫たちを暖かく迎え入れてくれた。孫が持ってきた、トロッコと少年が写った古い写真。父だとばかり思っていたその少年は、実はおじいちゃんだった。敦と凱はトロッコを探しに行く。

 原案は一応、芥川龍之介「トロッコ」となってはいる。しかし、トロッコに乗って遠くまで行ってしまったときの不安感は確かに芥川作品をうかがわせるにしても、これ以外は完全にオリジナル・ストーリーである。監督が「トロッコ」映画化を思い立った際、台湾にはまだトロッコがあるという話を聞いて、最初はロケだけ台湾でやろうと思っていたが、結局台湾を舞台にしてしまおうという方針に落ち着いたのだという。

 日本語世代の老人たちが登場する。おじいちゃんは日本への親しみを語るが、他方で日本政府から恩給支給資格なしの通知を受けるシーンも挿入される。日本人として戦ったのに、その見返りはない。お金が欲しいのではない、「ありがとう」の一言すらないことに、自分たちは日本から捨てられたのだという憤りが抑えられないのである。エンドクレジットの特別感謝のところで酒井充子監督のドキュメンタリー「台湾人生」でインタビューを受けていた人々の名前があったから、この人たちから聞き取った話を脚本に取り入れたのだろう。

 台湾の深い森林に覆われた風景、その中で過ごした少年たちのひと夏の思い出。とりわけトロッコの線路が通る霧が煙るような木立が印象的だ。緑の色合いに潤いがあって、それが目にやさしく馴染み、見ているとホッとした気持ちにしてくれる。ストーリーを包み込んでいる、こうした映像からにじみ出てくる雰囲気そのものに身を委ねたい、そんな感じの映画だ。

【データ】
監督:川口浩史
脚本:川口浩史・黄世鳴
撮影監督:李屏賓
音楽:川井郁子
2009年/116分
(2010年5月23日、シネスイッチ銀座にて)

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「川の底からこんにちは」

「川の底からこんにちは」

 ワケあって東京に出てきて5年目、パッとしない仕事で転職5回目、男にはたびたび捨てられて今のは5人目、子連れの上司、ダメ男。あきらめ、と言うにはあっけらかんとしているが、「しょうがない、あたしなんてどうせ中の下、ダメな女だから」と佐和子(満島ひかり)は口癖のようにつぶやく。ある日、実家でシジミ工場を経営する父が入院し、田舎へ呼び戻された。工場の先行きは暗い。田舎=自然豊か=エコと勘違いしたダメ男もついて来るし、工場で働くおばさんたちの冷たい視線が身にささる。

 ゆるい笑い、微妙に毒気の混じったちゃかしが全体的なトーン。佐和子の口癖「しょうがない」、これが映画の前半と後半とでその意味合いを全く対照的なものに転換させているのが鮮やかで目を引いた。東京でOLをしていたときは、つまらない仕事、つまらない男、夢もやりたいことも特にない、というまったりとしたあきらめ。しかし、どん詰まりになって気持ちがふっきれた。会社再建で躍起になっているときの「しょうがない」には、どうせダメなら全部ひっくるめて頑張るしかない、そうした前向きの凛々しさすらうかがえる。

 満島ひかりは、最近観た「カケラ」でも印象的だったが、この「川の底からこんにちは」でも主人公の不器用さが自然体として浮かび上がってくる。そのおかげで「しょうがない」の意味合いの転換が説得的に感じられる。とても良い。

【データ】
監督・脚本:石井裕也
2009年/112分
(2010年5月23日、渋谷・ユーロスペースにて)

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2010年5月22日 (土)

丸川哲史『台湾ナショナリズム──東アジア近代のアポリア』、本多周爾『台湾──メディア・政治・アイデンティティ』

 台湾におけるナショナル・アイデンティティをどのように捉えるかというテーマは、台湾問題としてのみ自己完結することはなく、中国や日本など周辺のナショナリズムとも絡み合い、どの立場・視点に立つかによって議論の性質も大きく変わってくるという難しさをはらんでいる。台湾ナショナリズムと中国ナショナリズムとは両岸の政治経済関係に応じて変化し得るし、台湾における親日感情は日本の右翼的な人々のナショナリズム感情と共鳴するケースが見られる。そして、それらの立場が複雑に対立する。言い換えれば、一つの立場に固執する硬いナショナリズム言説は、現状にそぐわないズレをどうしても露呈してしまうと言える。

 そうした複雑な問題背景を念頭に置くと、丸川哲史『台湾ナショナリズム──東アジア近代のアポリア』(講談社選書メチエ、2010年)が議論の拠り所としている、台湾における近代について「複数のプロセス」として捉える脱「国民国家」論的視点は一定の説得力を持つ。ただし、本書では1920年代における中国革命への関心、福建との土着的連続性など漢族・中国文明としての大陸との接点に注目される一方で、台湾の原住民族の存在については軽く言及される程度なのが気にかかった。漢族系と原住民族系との混血を論拠としたDNA論による台湾ナショナリズムの主張に対する批判は正当であろう。しかし、政治的マイノリティーとしての原住民族の位置付けをナショナリズム論の観点でどのように捉えるのか? これは無視できない論点だと思う。例えば、周婉窈『図説 台湾の歴史』(濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴訳、平凡社、2007年→こちらで取り上げた)は原住民族に配慮した脱漢族中心史観に立って台湾史を叙述しているが、本書では参考文献にも取り上げられていない。議論の流れに入らないから省略したのか、それとも意図的に無視したのか?

 本多周爾『台湾──メディア・政治・アイデンティティ』(春風社、2010年)は、現代台湾における政治とマスメディアとの関係を分析した論文集である。新聞については、聯合報、中国時報、自由時報の三大紙に加え、香港資本の蘋果日報がワイドショー的な誌面構成で参入。台湾では民主化が進展する一方で、各紙はそれぞれに政治主張を明確化、読者も自分の思想傾向に合わせて選択的に購読するため、自らの政治イデオロギーを強化、ナショナル・アイデンティティをめぐる議論でイデオロギー対立が助長されてしまっているという指摘に興味を持った。

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後藤致人『内奏──天皇と政治の近現代』

後藤致人『内奏──天皇と政治の近現代』(中公新書、2010年)

 昔も今も日本政治における天皇の位置付けというのは非常にナーバスな問題をはらんでいるが、本書は、臣下が天皇に対して報告・意見具申を行う「奏上」に注目する。奏上、言上、上奏、密奏、内奏etc.と様々な表現があるが、明治憲法下で政治システムが整備された際、制度化されたものを「上奏」、成文化されていない政治的慣習として行われるものを「内奏」と言う。ただし、実際にはだいぶ混乱していたらしい。太平洋戦争末期、終戦の意見具申を行った「近衛上奏文」は、近衛個人が行った点では「内奏」だが、政治的な意図を込めて「上奏」と表現されたと考えられる。

 戦後、天皇が象徴に祭り上げられたことで「上奏」はなくなったが、「内奏」は慣習として続いている。「内奏」の内容が漏洩すると、場合によっては天皇の政治利用として問題化されることもあった。憲法は変わっても昭和天皇は政治への関心が強かったため、吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘など保守系政治家は折に触れて内奏していた。もちろん昭和天皇が政治的意思決定に関与することはなかったが、天皇の「御下問」が政治家個人の心情に響くシチュエーションもあったようだ。ただし、政治家の世代交代につれて天皇との心情的距離感も開いていく。非制度的な慣習の中に残った政治的関係を窺う視点として興味深く読んだ。

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2010年5月20日 (木)

タイの政治情勢について再掲

 タイで政治的混乱が起きると土壇場で国王が出てきて双方を調停するという場面がいつも見られたが、今回の一連の混乱では国王の出番がない。高齢というのも理由の一つだろうが、それ以前に国王周辺がそもそもタクシン派に反感を抱いているからだろうか。タイの王制そのものが実は行き詰まりつつあるという趣旨の雑誌記事を以前に読んで興味を持った覚えがある。表沙汰にはならないが、皇太子の評判も悪い。この記事の内容については2008年12月17日付「タイの政治情勢のこと」でメモしておいた。

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2010年5月19日 (水)

「プロジェクトJAPAN シリーズ 日本と朝鮮半島 第2回 三・一独立運動と“親日派”」

「プロジェクトJAPAN シリーズ 日本と朝鮮半島 第2回 三・一独立運動と“親日派”」

 日本の植民地支配と親日派というかなりナーバスなテーマである。前回の台湾編ではトラブルがあったが、今回は50分という時間枠を考えるバランスよくまとめられていたように思う。李光洙についてはこちらで取り上げたことがある。番組中でコメントしていた長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』(平凡社、2005年)は以前に読んでこちらにメモしてある。

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2010年5月12日 (水)

2010年5月5日 北京

【五日目:5月5日(水)】
・6:30起床、7:00頃からホテル内食堂で食事を摂り、コーヒーを飲みながら最終日のプランを練る。7:40頃に出発。
・北京駅の北側を歩き、朝陽門南小街から北総府胡同に入る。李鴻章の邸宅がこの並びにあったことは事前に調べてあったのだが、それらしい標識などは見当たらず。大規模造成している場所があったので、ひょっとしたらそこだったのだろうか。
写真蔡元培故居
・東単北大街を南下して東交民巷まで歩く。かつて欧米・日本など列強の公使館が並んでいた区域である(写真)。東交民巷天主堂(写真)。旧フランス公使館写真写真)。官庁が入っているので警備がものものしい。旧フランス郵便局写真写真)。レストランが入っている様子。旧日本公使館写真写真)。旧横浜正金銀行写真写真写真)など。横浜正金銀行脇の通りは明治街といったらしい。現在は閑静な官庁街という感じで、天安門広場に近い側は北京到着初日の夕方に歩いたが、検察・警察関係の役所が構えられている。むかしチャールトン・ヘストンや伊丹十三(柴五郎役)が出演していた「北京の55日」なるオリエンタリズム的偏見丸出しのトンデモ映画があったが、あれはここを舞台に攻防戦を繰り広げたという設定である。義和団事件をきっかけに結ばれた北京議定書(1901年)によって列強各国は北京駐兵権を獲得、それが1937年における盧溝橋事件へとつながっていく。盧溝橋事件当時に奥野信太郎は北京で暮らしていた。最近、奥野の『随筆北京』(平凡社・東洋文庫、1990年)を読んだら、混乱の中で北京在住日本人に東交民巷への退避命令が出され、日本公使館や横浜正金銀行での避難生活の光景がつづられていた。
・故宮と王府井との間で南北に走る南河沿大街を歩く。脇の胡同に入って陳独秀故居、康有為故居(戊戌の変法当時)があったはずの場所を歩いたが、それらしい標識等はなく分からなかった。事前に調べた地図とは道路も微妙に変わっている。例えば、康有為故居のあった胡同は王府井の繁華街のすぐ裏手であり、再開発で大型商業施設でも建てるのだろうか、あたり一帯は完全に更地となっていた。
・康有為故居があったであろう所から少し北へ行った所に老舎記念館がある。大きめの通りから脇に入る細い胡同で、案内看板がなければ分からず通り過ぎてしまうところだった(写真写真写真)。本当にさり気ないたたずまいである。彼が住んでいた家が記念館として一般開放されている。門があいているので覗いてみたら、管理人室でおじさんたちが談笑していた。「こんにちは。入ってもいいですか?」とおそるおそる尋ねたら、「いいとも! 免費だよ!」と笑顔で大きくうなずいて入場券をくれた。片言の中国語だったから外国人だとすぐ分かったのだろう、一言ずつ簡潔な返答。大きな笑顔は「遠いところからわざわざようこそ」という暖かい歓迎のように思えた。中に入ると、小ぶりの四合院(写真)。中庭には老舎が植えたという柿の木があり(写真)、これにちなんで夫人の胡絜青は居宅を丹柿院子と名付けたらしい。老舎の銅像(写真)。入って正面には応接室があり(事前予習のつもりで目を通した『有吉佐和子の中国レポート』に故老舎宅を訪ねて胡絜青夫人から話を聞く場面があり、応接間で二人がソファに並んで座っている写真が掲載されていたが、この部屋だろう)、右側の部屋は画家である胡絜青のアトリエ、左側の部屋が老舎の書斎となっていた。生前の雰囲気が残されている。老舎の机にあった卓上日めくりカレンダーは、彼が亡くなった翌日の8月24日となっていた。他の部屋では老舎の生涯や文学について紹介する展示。世界各国語訳された本も展示されており、私が読んだことのあった立間祥介訳『駱駝祥子』や稲葉昭二訳『猫城記』、それから古い訳本だが奥野信太郎訳『ちゃお つうゆえ』も目についた。
王府井の繁華街に出た(写真)。並びには王府井教会もある(写真写真)。起源を遡れば康熙年間からこの地にあったらしい。ウェディングドレスを着た新婚夫婦が記念撮影をしていた。平日の午前中なので人手はそんなに多くはないが、明らかに観光客の風体の人々、とりわけ白人系が目立つ。歩行者天国となっており、東京の銀座にそっくりな雰囲気の通りである。
・王府井駅で地下鉄1号線に乗り込み、建国門駅で2号線に乗り換え、北京駅で下車。ホテルは出てすぐ。荷物の整理をして、11:15頃にチェックアウト。フロントの人から「タクシーを呼びましょうか? 渋滞しているので時間がかかりますが、どうしますか?」と尋ねられたが、地下鉄で飛行場まで行くと答えた。北京駅から地下鉄2号線東直門駅まで10分くらい。機場快軌に乗り換え(25元)。飛行場の3つのターミナルがループ状に結ばれ、本数は20分間隔くらい。日本往き飛行機の大半が発着する第3ターミナルまでは15分くらいか。12時過ぎに北京首都国際空港第3ターミナルに到着。16:30離陸の飛行機で日本へ帰国。

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2010年5月4日 北京

【第四日:5月4日(火)】
・この日は北京市内をとにかく歩く。7:30頃に宿舎を出た。北京駅で地下鉄2号線乗車、前門駅で下車。昨日まで閉鎖されていたが、今日からは通常営業になったようだ。地上に出る。正陽門前(写真)。まだ8時過ぎの早朝だが、人出はたくさん。毛主席記念堂の前にはすでに長蛇の列ができている(写真)。毛沢東のミイラは見てみたい気もするが、並んでまで見ようという気力はない。
天安門広場に出た(写真)。おのぼりさん(私自身も含めて)がごった返して、歴史的事件の現場という感慨は意外とわかなかった。制服姿の左から武装警察、人民解放軍の兵士、公安たちがあたりに眼を光らせている(写真)。
・天安門をくぐって故宮博物院へ。午門(写真)。入場料は80元。日本語解説イヤホンを借りる場合には40元+デポジット(返却時に返してもらえる)100元。8:30に開門。私がたどり着いたのは8:40頃、まだ中はすいており、ちょうど良い頃合だった(写真)。
・太和殿前の広場(写真)。太和殿(写真)。太和殿脇から午門方向を見る(写真)。ベルトルッチ監督「ラスト・エンペラー」で即位式のシーンはここか。写真は玉座。もちろん、映画に出てきたバッタはいない。有名なのは、幼き日の溥儀がワーンと泣いてしまう場面。父親が「すぐに終わるから」とあやしたところ、清朝は本当にすぐ終わってしまったというエピソードは解説イヤホンでも紹介していた。歴代皇帝が後継者の名前を書いた紙片を裏に隠し置いたという「正大光明」の扁額(写真)。軍機処は意外と小さい(写真)。西太后の暮らしていた儲秀宮(写真)。珍妃の井戸(写真)。光緒帝の側室の珍妃は戊戌の変法を支持したため西太后に疎まれ、義和団事件で紫禁城を逃げ出すどさくさでこの井戸に投げ込まれて殺されたと言われている。内廷を歩き回っていると壁の高い迷路のようで、面積としては確かに広いのだが、狭苦しく息苦しくも感じられる(写真写真)。「ラスト・エンペラー」で溥儀・溥傑の兄弟が壁をよじのぼって外をうかがうシーンがあったが、そのように外の世界へのあこがれが高まる気持ちは想像できる。確かこのシーンでは袁世凱のパレードの最中だった。そう言えば、袁世凱が皇帝即位式を執り行ったとき、溥儀はどこで何をしていたのだろう?
・北側へ通り抜けたのが11:15頃。駆け足ではしょりながら回ったので所要2時間半といったところ。じっくり見て回ったら4時間くらいはかかるのではないか。北の出口は景山公園の前。明のラスト・エンペラー崇禎帝が首をくくったのがここだが、省略。
・人力車夫が寄ってきたが、お断り。今朝立てたプランとしてはここでタクシーを拾って北京魯迅博物館まで行く予定だったのだが、タクシーがなかなかつかまらない上に2回乗車拒否にあった。行先の名称を正確に発音したつもりだし、簡体字でアドレスを書いたメモも見せたのだが、場所が分かんねーよ、ってことか。仕方ない。歩く。北京という街の距離感、空気感、臭いや色合い、人の表情をじかに見るというのが本来の目論見だったから、これはこれでよし。地図を見ながらプランを変更。博物館等の施設はみな16:30頃で閉館だから予定していたところすべてを回るのは無理。優先順位を考えて梅蘭芳記念館を外す。
・地安門大街を西に向かって進み、西四大街に出た。ここはつい最近、地下鉄4号線が開通したばかり。西四駅で乗り込み、新街口駅で下車。
八道湾胡同写真写真)。周作人の居宅があったところであり、すなわち喧嘩別れする前までは魯迅も住み、エロシェンコが滞在したのもここである。最近読んだ中薗英助の小説でも、主人公(=中薗自身)がここを訪れるシーンがあった。周作人は漢奸として服役した後、釈放されてからはこの家に戻り、日本語・英語・古典ギリシア語作品の翻訳に従事。文化大革命で紅衛兵に家を荒らされ、台所の床で寝起きさせられた中、1967年に82歳でこの世を去った。胡同を往復してみたが、魯迅・周作人兄弟がここに暮らしていたことを示す標識等は何も見当たらなかった。この胡同でもやはりくしの歯が欠けるように家屋が一部崩されており、「折」のペンキ印も見かけた。すぐ目の前の通りに新しく地下鉄が開通したばかりだし、近いうちに更地にされて再開発の予定があるのだろう。
・新街口駅に戻り、地下鉄を乗り継いで2号線の阜成門駅で下車。北京魯迅博物館写真)。館前はちょっとした商店街で、魯博商店といった名前の店もあるが、普通の雑貨や食料品を扱っている程度で魯迅グッズのようなものはなし。観光地的なにぎわいはない。館内の庭にある魯迅の胸像(写真)。他にハンガリーの作家と、「藤野先生」で有名な藤野厳九郎の銅像があった(写真)。仙台の東北大学キャンパス内にある魯迅記念碑や、その近くに現存する魯迅の下宿先などはいずれも見に行ったことがある。博物館内では魯迅の生涯に関する紹介展示。仙台留学時に魯迅がとったノートが公開されており、藤野先生の赤字がびっしり。添削だけでなく、「注意」としてコメントが随所に書き込まれている。日清戦争に勝利し、一等国と酔いしれる当時の日本、国家建設・近代化という宿命を背負って成功しつつある日本の両極端な姿、つまり、勝った=日本はすごい!という単純バカの差別意識。他方で、日本の歩んだ苦難を同じ立場にあるアジアの国々と分かち合おうという素朴な善意。医学者としての藤野先生に特別な政治意識はなかっただろう、だからこそ留学生に向けた熱意。
・館内に八道湾の四合院の模型はあった。許広平のことは大きく取り上げられているが、魯迅の正妻のこと、周作人との不和などにはほとんど触れられていない。
・魯迅故居(写真写真)。こぢんまりと落ち着いた四合院。魯迅の書斎は外からガラス越しに見られる(写真)。魯迅が植えたというライラックの木が中庭にある(写真)。外の喧騒が遠くに聞こえる穏やかな空間。ハラハラとライラックの白い花びらが落ちる中、腰をおろし、涼風が体を通り抜ける心地よさにしばし身を委ねる。
・阜成門駅へ戻り、地下鉄2号線で雍和宮駅へ。一昨日も降りた駅だ。目的地の孔子廟は雍和宮のすぐ近くにある。同じ大通りの反対側の歩道を歩き、10分くらいか。
孔子廟写真)。中に入ると、孔子像(写真)。本殿と言うべき大成殿(写真写真)。境内には屋根付き建物の中に石碑が収納されている。学問を奨励する碑文だけでなく、異民族を征服するたびにそのことを記念する銘文が刻まれている。写真写真は乾隆帝の時代に回部平定を記念した石碑。すぐ近くに雍和宮があることも考え合わせると、各地方の軍事的征服と同時に、満洲人にとっては異民族の宗教文化である儒教やチベット仏教なども統制化に置く、そうした政治的統制と文化的統制との両方を意図した区域になっていると言えるのだろうか。境内に入って両側に展示室があった。儒教の概略と、その国際的広がりとして韓国、日本、ヴェトナム、さらに欧米への波及(例えば、ヴォルテールが儒学に言及)が紹介されている。世界の孔子廟の紹介→ハノイ、ソウルの成均館、日本では足利学校や閑谷学校が割りと大きく取り上げられる一方で、湯島聖堂の扱いは小さかった。科学的精神の萌芽として儒学を捉え、学術的伝統の古さという点から、そこに注目した外国人としてジョゼフ・二―ダムが大きく取り上げられていた。近代儒学の系譜として公羊学派の康有為・梁啓超まで。科挙に関する解説展示室では、実物大の試験室模型は初めて見た。「宮崎:日本科挙年表」なるパネルがあったが、この宮崎とは宮崎市定のことか? 出典明記されていないぞ。
・大成殿の中には王朝時代の礼楽で用いられた古楽器が並べられている(写真)。戦時中、北京に来ていた江文也はここ孔子廟に通って、孔子の時代の音楽について調べて『上代支那正楽考』(→こちら)を著し、「孔廟大成樂章」(1940年)というシンフォニーも作曲している。私はCDを持っていて、ゆったりとしたメロディーが特徴的だ。江文也についてはこちらを参照のこと。
・境内のベンチに腰掛けた。すでに4時過ぎ、陽光は夕方らしく淡く黄色っぽい色合いになってきている。日中の暑さで汗だくになった肌を、夕方の涼風が静かになでてくれる。歩き詰めの足を休める。足裏の痛みがしばし和らいだ。ほっと息をついて境内を見回す。ふと老舎の伝記での記述を思い出した。文化大革命のとき、ここ孔子廟の境内で京劇など伝統文化の衣装を火にくべる集会が行なわれた。近くにあった文学連盟に勤務していた老舎が何事かと見に来たところ、その姿を学生たちが目に止め、「造反有理」の怒号の中、老舎は激しい暴行を受けたという。周恩来の指示で慌てて駆けつけた文連の職員によって助け出されたものの、体に受けた傷よりも、精神的な打撃の方が大きかったようで、翌日、彼は湖に身を投げて死んだ。公式発表では自殺とされているが、真相はよく分からない。
・孔子廟のすぐ隣にある国子監写真)は中でつながっている。清朝時代の最高学府である。辟雍(写真写真)は皇帝が御進講を受けた建物である。日時計もあった(写真
・孔子廟、雍和宮のあたりは占いやチベット仏教関連のお見せが多く、ちょっと通俗神秘の感じ。
・南下して北新橋駅で地下鉄に乗車、張自忠路駅で下車。段祺瑞執政府跡写真写真写真写真)。もともとは清朝陸海軍の役所があったらしい。中に入って写真を撮りたかったが、門衛にダメと言われた。北洋軍閥政府の時期には政府庁舎となり、三・一八惨案というのはここに集まってきた学生デモ隊を武力で鎮圧して流血の事態となった事件である。
・この並びには孫文が一時期滞在した所があるはずだが、それらしいのは見当たらず。演劇関係の欧陽予倩故居(写真)。
后園恩寺胡同(説明板→写真)に入って、友好賓館(写真写真)。もともとは清朝皇族の邸宅だったが、その後、蒋介石の滞在所にもなった。この並びに茅盾故居もある(写真)。記念館になっているが、時間的にすでに閉館。この辺はもともと高級住宅街だったようだから、偉いさんには良いおうちがあてがわれたということか。
・この胡同をさらに進むと、南北に走る南羅鼓巷とぶつかる。胡同の街並を利用した若者向けのカフェやブティックが並んでいる。歩いている年齢層も若い。海外でも紹介されているらしく白人系の外国人観光客も多い(写真写真)。日本でいうと原宿のような感じか。楽器店で店員の女の子がオカリナで「天空の城ラピュタ」のテーマ曲を吹いているのが耳にとまった。
・南羅鼓巷を南のはじまで歩いてから西へと向かう。途中、京味麺大王というお店があったので入った。炒醤麺で有名なお店らしい。体が疲れて食欲があまりないとき、炒醤麺はさっぱりして食べやすい。
什刹海写真写真)。観光地図で場所を確認していたら、人力車夫たちがいかにも「カモが来た!」という感じで寄ってきて、「ドコ、イク? フートン、イクヨ」と片言の日本語でまくし立て、無視していたら、袖を引っ張り始めたので「我不去胡同」と!怒鳴りつけて振り払った。
・什刹海入口にあったスターバックス(写真)でカフェラテを買う。店の内装もラテの味も日本と全く変わらないが、店のにいちゃんの無愛想さはさすがに中国だな、と感じた。池の脇のベンチに座って休憩。雨模様の曇り空がどんよりと垂れ込めてきた。
・什刹海近くの郭沫若故居(写真)。豪壮な邸宅である。ここも記念館になっているが、時間的にすでに閉館。池沿いの通りは南羅鼓巷と同様にやはり古い建物を利用した若者向けの街並みとして整備されており、こちらはバーやライブハウスが並んでいる。夕方になってやおら開店し始めている。池を望む軒先に椅子やテーブルが並べられ、なかなか良い雰囲気だ。
・急に土砂降り。折り畳み傘を出す。いつもなら悪態をつくところだが、宿舎に戻って着替えればすむことだし、明日はもう帰ってしまうのだから、雨降りの時の北京のたたずまいを見るのも悪くない。急な雨に降られて人々がどんな表情で行動するのかを見るチャンス、と割り切ってゆうゆうと雨中を歩く。ばっちりオシャレした女の子は大変だ。お店の人たちは、客が来ない、商売あがったり、みたいな退屈そうな表情で雨を眺めている。宋慶齢故居まで歩くつもりだったが、切り上げて地下鉄の駅へと向かった。
・宿舎まで帰る前に国貿駅に寄った。最先端のビジネスエリアとのこと。地上に降りて建ち並ぶ摩天楼を眺める(写真)。地下のブティック街を歩いても、国籍はさっぱり分からないな。

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2010年5月3日 天津

【第三日:5月3日(月)】
・北京駅から地下鉄2号線で宣武門駅、4号線に乗り換えて北京南駅。京津城際鉄路に乗る。地下の窓口で切符を買ったのだが、改札口がどこにあるのか分からない。とりあえず人の流れについていくと、地上2階にあった。天津まで所要30分ほど。車窓の風景を眺めていてもずっと平野が広がるばかり。畑の周囲には防風林があるのが目に付いた。
写真は天津駅。天津駅構内でおばさんが売っていた市街地図を購入。駅近くの世界時計なるランドマークで方向感覚の見当をつけて、まず旧イタリア租界へと歩く。イタリア風趣区として当時の建築を利用した観光スポットに整備されている(写真写真写真)。
・目的地は梁啓超記念館。大きな洋館が二棟ある(写真写真)。豪勢なものだ。一つが居宅(写真)、もう一つが仕事場で「飲冰室」と名づけられている(写真写真)。彼の文章を集めた『飲冰室合集』はここにちなむ。両方とも一般公開されており、中では梁啓超の生涯に関する解説展示。飲冰室の洋風の書斎の本棚には漢籍がびっしりと詰め込まれていた。科挙にパスした挙人であり、同時に中国の近代化を模索した啓蒙思想家としての教養の幅広さが具体的な形で垣間見えてくるようで興味深い。彼の銅像を背景に邸宅をもう一度(写真写真)北京の胡同での住まいとここ天津の洋風の住まいと生活環境が全く異なるが、こうした極端に異なる生活環境の往復は感性面で何か影響があったのかどうかなどと思いをめぐらせた。
写真は曹禹旧居。劇作家、教育者として知られる。写真はやはり旧イタリア租界で通りかかった建物。馮国璋旧居(写真写真)。北洋軍閥重鎮の一人である。現在、改装工事中。袁世凱旧居(写真写真)は高級レストランになっている。
・海河にかかる解放橋を渡って対岸へ移動。写真は橋上からイタリア租界方面を望む。写真は橋を渡った先の古文化街。中国風の商店街に行楽客がごったがえしている(写真写真)。食べ物屋のほか書画骨董のお店が目立った。楼閣上で京劇を上演している戯楼(写真写真)。脇道に入ってこのように壁が両脇に迫った路地もあった(写真)。
天后宮写真写真写真写真)。本殿では媽祖(天后娘娘)が祀られていた。福建起源の航海の女神で、台湾の寺院などでは最もポピュラーな神様だ。天津でお目にかかるとは思っていなかった。海外交易でのつながりがうかがえる。他に関帝なども祀られていた。
・古文化街を歩いていたら厳復の銅像もあった(写真)。梁啓超と同様、中国近代の啓蒙思想家として大きな影響力を持った一人である。
・古文化街は川沿いに栄えた商業区域であり、西へ少し進むと旧天津城がある。こちらも行楽客が行き交う繁華街とはなっているが、古文化街に比べるとやや閑散としている。なぜか手品用品の店が目についた。写真は城門。写真は城内の中心に位置する鼓楼。この脇に、一昔前の日本のデパートでも見かけたような子供用の乗り物があって、チープな行楽地風情がまた何とも言えない。ミニスカート姿のキャンペーン・ガールが飲料の試供品を配っていたが、肌色のタイツをはいている。肌を露出するのに抵抗感があるのか、タブーがあるのか。
・旧天津城から東南方向へ歩いていくと、やがて旧日本租界にたどり着いた。海河は蛇行しており、旧イタリア租界からは南の対岸に位置する。写真は鞍山路、戦前は宮島街と呼ばれていた。
段祺瑞旧居写真写真)。北洋軍閥の重鎮、袁世凱死後は北京政権の実質的な指導者となり、西原借款などで歴史の教科書にも出てくる。日本租界にこれほど大きな邸宅を構えていたということからは日本との密接な関係もうかがえる。近くに閻錫山の邸宅もあったらしいが、どこだか分からず。
・鞍山路をもうしばらく歩いていくと、大きな洋館が目に入った(写真)。張彪という人物の邸宅だったことから張園を呼ばれている。現在は教育関連の施設となっているようだ。張彪というのは洋務派の大物・張之洞の配下だった軍人、辛亥革命の発端となった武昌蜂起のときに政府軍を指揮していたが、日本へ亡命、その後、商売で成功して天津に拠点を置いて活躍したらしい。この張園が面している十字路の斜め向かい側、すぐ目と鼻の先にはかつて日本総領事館があった(写真のあたり。なお、総領事館の隣には天津神社があったらしい)。日本租界のど真ん中にこのような豪邸を構えていたということは、やはり日本と利権的なつながりがあったのだろうか。張園には孫文が一時期滞在していた。門前の表示板は「孫中山北上在津期間居住遺址」となっている(写真)。戴季陶と山田純三郎が在天津日本総領事に頼み込んで斡旋してもらったという。それから、1924年の馮玉祥軍による北京占領で紫禁城を追放された溥儀がやはりここに身を寄せ(辛亥革命後も溥儀は紫禁城に住み続けることが許されていた)、すぐ近くの静園に引っ越すまでの間ここで暮らしていた。
・特にチケット売場があるわけではなかったが、玄関から中をのぞいていたら係の人が出てきて、入館料20元だという。中ではゆかりの張彪、孫文、とりわけ溥儀にまつわる紹介展示。溥儀の二人目の夫人・文繍と離婚したことが取り上げられ、中国史上唯一の皇帝の離婚であったと強調されているのが目を引いた。
・張園から鞍山路を歩いて5分ほどのところに静園がある。ここも溥儀の記念館として一般開放されている(写真)。入って右手の建物(写真)で溥儀の生涯に関する解説展示。天津で外国人と付き合う仲、彼のいでたちは完全にウェスタナイズされている。外国人たちとの集合写真のうちの一枚には天津総領事だった吉田茂も写っていた。戦後、戦犯として服役後に一般市民として生活するようになってからの時期の写真では、周恩来と老舎を真ん中に、弟・溥傑など旧皇族、嵯峨浩とその母親が一緒に写った集合写真もあった。この写真は老舎の伝記でも見た覚えがある。老舎の祖先は満洲旗人であり、明治日本でたとえると没落旗本の息子といった境遇であった。満洲人つながりの会合があったのだろう。静園の本館(写真)は溥儀が暮らしていた当時の雰囲気を修復の上で再現されている。皇后・婉容の書斎には彼女が読書している写真が飾られていた。皇后というしきたりに縛られた立場にある一方で、天津租界の開放性、自我に目覚めた女性の葛藤という位置付けになるようだ。予習のつもりで読んだ八木哲郎『天津の日本少年』(草思社、1997年)では、著者の両親から聞いた話として、溥儀・婉容夫妻はイギリス租界のテニスコートによく姿を見せて、特に婉容が外国人たちと談笑する堂々とした姿が目立ったということが記されていた。婉容はその後、アヘン中毒になって死ぬ。1931年の満州事変後、土肥原賢二らの工作で溥儀は満洲へと向かうことに同意、日本の外務省は溥儀擁立構想に反対していたため、極秘裏に行動する必要から、自動車のトランクに隠れて静園から脱け出したことはむかし溥儀の自伝『我が半生』で読んだ記憶が残っていた。
・張園、静園とも文繍、婉容という二人の女性の自我の目覚め的な側面が強調されているのが印象的だった。美人の誉れ高い婉容、張園ではタバコを吸っている写真もあった。溥儀は皇帝、かつ日本軍協力者=漢奸の最高権威者であったという二重にマイナスの存在ではあったが、溥儀個人に対する非難もない。一つには、溥儀を更生の模範例として体制内に取り込んだ周恩来たちの配慮もあったのだろう。一般庶民感情としても、封建遺物かつ漢奸という以前に、王朝時代から現代社会へと転変目まぐるしい運命に翻弄された彼の生涯そのものがドラマとして面白さが感じられるのだろうか。
・鞍山路をまっすぐ歩き、南京路とぶつかる交差点に旧・武徳殿写真写真写真)。現在は大学図書館として利用されているようだ。日本が建てた帝冠様式の建築物は、台湾ではいくつか見かけるが、中国大陸に残っているのは珍しい。
・武徳殿前でデジカメの調整をしていたら、自転車に乗ったおばさんが立ち止まり、私に向かって不機嫌な表情で何か怒鳴ってきた。このババア、なにを怒っているんだ?とムカッときたのだが、耳をよく反芻してみると、「いま何時?」と時間を尋ねていたみたいだ。別に不機嫌というわけではなかったのだろうが、無愛想な表情と怒鳴り声、これも文化の違いか。
・さらに旧日本租界を歩く。写真写真王揖唐旧宅。北洋政権期の大物政治家で、後に日本軍の傀儡政権であった王克敏の中華民国臨時政府に参加、さらに汪兆銘の維新政府に合流。戦後は漢奸として銃殺刑となった。やはり親日派であった曹汝霖、旧満州国初代国務総理となった鄭孝胥の旧宅のあったあたりも歩いたが、それらしい標識などは見つからなかった。
・旧日本租界の隣だった旧フランス租界に入る。写真写真写真張学良旧宅
・さらに歩いて旧イギリス租界。解放路はかつて金融街だったようで、銀行や商社などの重厚な洋式建築が整然と並んでいる。写真はいま西洋美術館になっている。写真は未確認。現在は中国工商銀行となっているから、戦前も銀行関係だったのだろう。写真写真旧アメリカ海軍クラブ写真写真旧中法商工銀行。法国は中国語でフランスのこと。日本の金融機関もいくつかあり、写真写真写真旧朝鮮銀行写真写真旧横浜正金銀行写真写真旧ベルギー領事館写真写真旧恰和洋行、すなわちジャーディン・マセソン商会。いずれも現在は中国の金融機関や行政官庁が入っており、看板はもちろん中国語だが、街並の雰囲気はタイム・トリップしたような不思議な気分(写真写真写真)。
・雲がたれこめてきて雨が降りそうな気配になってきたのでタクシーを拾った。途中、馬車路というやはり旧イギリス租界の観光スポットを通る。当時の建物をそのまま利用したカフェやブティックなどが並んでいる。周恩来鄧穎超記念館(写真)へ行ったが、改装工事中。再びタクシーを拾って天津駅まで戻った。京津城際鉄路の和諧号写真)。
・いったんホテルに戻った。19:00頃。食事をしようと再び外出。地下鉄4号線で磁器口駅まで出て、天壇公園近くの老北京炒醤麺大王なる店へ行く。混んでいたが、一人だったのでレジ近くの皿置き場のような机に案内された。他の客たちがワイワイ食べているのを睥睨するようなポジション。炒醤麺で有名な店なので、おかず数皿とこれを頼むべきなのだろうが、体が疲れていて食欲なし、しかし食べたいみたいな状態。中華料理は複数人で複数の皿をつつくのが普通だから一人旅はこういう時につらい。メニューを見ていたら、炒醤麺に使う麺に具を絡めた焼きそばのようなのがあったので、これにした。
・駅まで戻る途中、大通りと並行する裏道に煌々とした明るさが見えたので行ってみた。ちょっとした屋台街になっているが、それほどにぎわいはない。台湾など南方ならば夜がふければふけるほどそこかしこで夜市のにぎわいに出くわすものだが、北京の夜は早い。リュックを背負った白人青年が一人ぼんやり歩いていた。私と同様にものめずらしさで入り込んだのだろう。

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2010年5月2日 北京

【二日目:5月2日(日)】
・北京近郊で交通の便があまりよくない場所をタクシーで移動する予定。予めネット上で評判の良さそうな日本人観光客向け現地代理店を調べ、タクシーをチャーターしてあった。約束の8時にホテルの玄関ロビーでちゃんと待っていてくれた。日本語を勉強中という運転手さん。車中で私が日本語を教え、運転手さんが中国語を教えてくれた。
・まず、盧溝橋へ。北京中心部から西南方向へ車で30分ほど。明代の延平県城の城門をくぐり、ちょっとした商店街を通過。奇石の売店が目立つ。中国人民抗日戦争記念館の前で停めてくれたが、開館時間は9:00でまだ30分ほど時間がある。
・永定河にかかる盧溝橋を見に行った(写真写真)。橋の両端は柵で囲われていて、入るのに20元取られる。もとは金の時代に造営されたらしい。元の時代にマルコ・ポーロが『世界の記述』(東方見聞録)に記したことからヨーロッパ諸語ではマルコ・ポーロ・ブリッジと呼ばれていることは周知の通り。たびたび修築が繰り返されてきたが、一部に昔ながらの石畳も保存されている(写真)。欄干には獅子の像が並ぶ(写真)。乾隆帝がここで見た月の美しさに感動、「盧溝暁月」の石碑(写真)の筆跡は乾隆帝のものだという。
・盧溝橋事件が起こったのはこの辺りである。中国人民抗日戦争記念館を観に行く(写真)。自動券売機があるが、その前で軍服を着た少女がチケットを配っていた。無料のようだ。抗日戦争に関する解説展示。日本軍の残虐さを強調するような蝋人形でもあるかと期待していたが、それは南京の方か。虐殺現場の写真の展示室で、中高生くらいの少年グループがわらわらと入ってきて、なぜか日本軍発行の軍票の前で交互に記念撮影をして移動して行った。他の展示には目もくれず。貨幣マニアなのか? 戦争そのものには興味なさそうだった。
・解説展示は共産党を中心として各勢力が一致協力して戦ったというストーリーが組み立てられている。共産党中心の愛国主義「神話」。抗日戦争の英雄たちの紹介はもちろん共産党が中心で、それ以外で大きく取り上げられているのは張自忠くらい。蒋介石はカイロ会談など資料写真に顔が出てくるから仕方なく出してやっているという感じで特別な言及はない。港澳台、海外華僑同胞の結節点としての中国共産党という位置づけ。このコンテクストの中で台湾抗日闘争50年という趣旨の展示室も設けられており、林献堂、蒋渭水、霧社事件の莫那魯道(モーナルダオ)、李友邦、謝雪紅などの名前が挙げられている。李友邦と謝雪紅以外は共産党とは全く関係ないと思うのだが。いずれにしても、台湾問題への執着がうかがわれる。地下の特別展示室では、戦時下に北京大学・清華大学・南開大学が疎開先で組織した西南連合大学に関する特集展示が行なわれていた。知識人も抗日戦争で一致団結したというストーリー。展示の最後は日中友好という締め括りで、周恩来と田中角栄、鄧小平と昭和天皇、江沢民と今上天皇との写真などがあった。総じて想定の範囲内で、特に意外性もなし。もっとガチガチの反日を期待していたので、肩透かし。
・次は香山の北京植物園へ。高速道路を通ったところ、休日なので渋滞に巻き込まれなかなか動かない。事前に立ててあった予定通りに行動できるか微妙な情勢になってきた。
・北京植物園内は家族連れやカップルなどでにぎわい、花見よろしくビニールシートを広げて昼食を摂っている姿もあちこちで見かけられた。植物園内にある梁啓超墓苑が目的地(写真写真)。梁啓超の墓は、息子で著名な建築家であった梁思成の設計による(写真、横から見た写真)。植物園内には他に曹雪芹記念館もある(写真)。『紅楼夢』の作者である。植物園は広くて出入口もいくつかあり、タクシーをどこに待たせたのか迷ってしまった。ますます時間のロス。
・次の目的地は頤和園。西太后がつくらせた巨大庭園であり、ここにつぎ込んだ莫大な金額は本来ならば軍備増強のための資金で、結果、軍隊の弱体化→日清戦争の敗北につながったとも言われる。北宮門でタクシーを停めてもらった。到着したのは午後1時過ぎ。中国人に外国人、とにかく観光客でごった返している。今日も気温は30度まで上昇する夏日で、アイスキャンディーの売り子が要所要所で待機、地元観光客は思い思いに買ってなめており、頤和園内のあちこちにビニール袋が散乱していた。のどが渇くのは確かで、私はミネラルウォーターを買う(3元)。写真は北宮門から入ったところ。万寿山を階段でよじ登るのだが、これが一苦労。上から昆明湖を見下ろす。時間もないし、人ごみで疲れてきたので、すぐにタクシーまで戻った。
・次の目的地は円明園。途中、清華大学の横を通った。着いたのは2時半頃。ここでタクシーの運転手さんとはお別れすることにした。この後も車で北京市内を移動するとなると、渋滞の中ではかえって時間的ロスが大きい。さいわい、つい最近この辺りにも地下鉄が開通したばかりなので、そちらを利用することにした。ここまでの費用は650元+駐車場代の実費、ちゃんとレシートも渡してくれた。運転手さんには昼飯も食わずに強行軍につき合わせてしまったので、食事代込みのチップを上乗せしてあげた。
・円明園は清代に造営された離宮、カスティリョーネなどが設計に携わった西洋風建築があったことで知られる。19世紀のアロー戦争で北京が英仏軍の攻撃を受けた際、この円明園は破壊され、略奪された。それ以来の廃墟が公園として保存されている。頤和園ほどではないがこちらも観光客は多い。ロマネスク調の巨大な列柱が折れたり倒れたりしているいかにも廃墟という風情そのものが面白い。何か建物がたっているよりも、もっとイマジネーションがかき立てられて、大きさと時間的悠久感覚を実際以上に感じさせるというか(写真写真写真写真写真写真写真)。なお、再建のための募金活動が行なわれていた。
・最近開通したばかりの地下鉄4号線に円明園駅で乗車。西直門駅で2号線に乗り換え、雍和宮駅で下車。雍和宮まで徒歩10分ほど。たどり着いたのは16時ちょっと前、ちょうど入場券販売終了間際で駆け込みセーフ。
雍和宮写真写真)はチベット仏教の寺院だが、建物は完全に中国風(写真写真写真写真)。見ていると、長い線香を振りながら行なう参拝方法も中国寺院でよく見かけるのと同じやり方で、知らなければここがチベット仏教の寺院だとは気づかないかもしれない。廟堂にかかる扁額の青地は、例えば故宮で見かけるのと同じ様式(写真)。漢字、チベット文字、満洲文字、モンゴル文字と4種類の文字が並ぶ(満洲文字とモンゴル文字の区別が私にはつかないのだが)。マニ車があった。実物を見たのは初めてだ。思いっきりグルグル回してきた。功徳たっぷりだ、わーい。
・清朝の皇帝は、まず満洲人の王であるのと同時に、漢人に対して皇帝としての地位を持ち、モンゴル人にとってのハンを兼ねる。そのように、各民族のトップとしての地位を持つことで、それぞれの文化的・宗教的伝統を、清朝の権威に逆らわないという限定内で容認するという方針で臨んでいた。同様の方針がチベットに対しても取られ、皇帝からはチベット仏教に対しても特別の配慮がなされていた。清朝支配下で準貴族的地位を与えられていたモンゴル人にチベット仏教の信奉者が多いことも考慮されていたのだろうか。同時代、ハプスブルク家が、ドイツ人出身の王であると同時にハンガリー王、ベーメン王などを兼ねることでゆるやかな帝国支配という形式を取ったり、またオスマン帝国にしても、ゆるやかな専制統治の範囲内での文化的多元性の保証という帝国支配のあり方の世界史的同時代性には興味深く感じている。
・雍和宮のチベット仏教には中国的色彩がかなり濃厚である一方で、展示されているチベット仏教美術の強烈な迫力にはおのずと目が奪われてしまう。憤怒の形相には本当におどろおどろしいエネルギーが発散されているようで圧倒されるし、それから歓喜天のエロティシズム。男女の交わりを仏像で表現するなんて、道学者的視野狭窄のリゴリズムでは考えられないことだろう。人間の持ち得る感情的高まりを素直に表現していく。様式はあるのだが、それがコンベンショナルには感じられない。近代的美意識というものが人間感情の正直な表出を肯定するところに特徴があるとするならば、こうしたチベット仏教美術のエネルギッシュな表現は、他の伝統芸術に比べるといっそう近代人の視覚に訴えるところがあると言えるだろうか。もちろん、当時の信徒たちとは受け止め方が違うにしても。戦時下の北京で近くの孔子廟に通っていた江文也が詩集『北京銘』の中で、雍和宮で見た歓喜天のエロティシズムに触れていたのをふと思い出した。
・いったん雍和宮駅まで戻って地下鉄5号線に乗車次の北新橋駅で下車。事前に調べて印をつけておいた北京市街地図を見ながら胡同にもぐりこむ。次の目的地は梁啓超故居写真写真)。細い通りを挟んだ反対側には梁啓超書斎とある(写真)。北京在住時だから、熊希齢内閣で司法部長、段祺瑞内閣で財政部長を務めていた頃の居宅か。
・歴史上の人物の故居を訪ねて場所的感覚を一つ一つ確認するのももちろん目的ではあるが、それ以上に、オリエンテーリング的な目標地点を設定して歩く機会を意図的につくることによって、普段なら決して来ないであろう街並をじっくり眺めたい、感じ取りたいという動機の方が実は大きい。
・北京の気候は乾燥しており、街はほこりっぽい。風が吹くと砂ぼこりが目に入ってくる。それから、宙に舞う柳絮を見たのも初めて。北京在住者には当たり前のことなのだろうが、以前、何の映画だったか、この柳絮が舞うのを叙情的なシーンで使われるのを見て美しく感じたことがあって、それを思い出して少々感慨深い。
・歩いていたら、若者向け風の店。看板にひらがなで「の」の字が入っている(写真)。こういう使い方は台湾ではよく見かけるが、大陸では珍しいのではないか。
・いったんホテルに戻ってシャワーを浴び、改めて湖広会館に出かけ、京劇を鑑賞。19:30開演で終わるのは20:30頃。280元。主に外国人観光客向けに京劇のさわりだけを紹介するという感じ。日本語解説イヤホンを借りたが、邪魔なのですぐに外した。舞台上に中文と英文の電光字幕があるので(写真)、こちらを見ていれば問題ない。全くの素人として見る場合、歌舞伎よりも京劇の方が動きがあって入り込みやすいかもしれない。

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2010年5月1日 北京

・5月1日から5日まで北京と天津を歩き回った。
・基本的な関心事としては、近現代史に関わる事件や人物にゆかりのある場所を一つ一つ訪ねて回ること。都市の距離感や街並みの色合い、におい、音、そういったものを体感すること。そのため、時間の許す限り自分の足を使って歩く。
・中国大陸に足を踏み入れるのは初めてで、連絡の取れる知人もいない→不測の事態に備えて現地ガイドの人と連のつく態勢を取るという意味で旅行代理店を通して飛行機・宿泊先の予約をした。歩き回ったのは都市部だけなので、一人旅でも治安上のトラブルには遭遇しなかった。

【一日目:5月1日(土)】
・午前10:30羽田空港発→(現地時間)午後13:30頃北京首都国際空港着のANA便NH1285。
・旅行会社の現地案内の方が出迎えに来てくれていた→宿舎までの車中で基本的な説明。明日の夜の京劇鑑賞の予約だけ頼み、あとは帰国まで一人で自由行動。
・空港から宿泊先まで車で40分くらいかかったろうか。高速道路で北京市内に入る。北京の自動車の渋滞はひどくて、平日はナンバープレートごとに規制、休日は規制なし、とのこと。
・午後15:30頃に宿泊先の北京宝辰飯店(Howard Johnson Paragon Hotel)に到着。アメリカ資本との合弁のようだ。北京駅(写真)のすぐ目の前で立地は便利。部屋の居心地はとても良い。
・荷物を置いて、すぐ外出。もう夕方だが、外気は暑い。今日は30度くらいまで気温は上昇したらしい。つい先日まで北京はむしろ寒くて季節の植物の開花が遅れていたくらいと現地ガイドの方から聞いた。異常気象。この暑さは予想外だった。
・宿泊先のすぐ目の前にある北京駅から地下鉄2号線に乗る。地下鉄は一律2元ということは事前に調べてあったので、乗車券の窓口へ行き、人の流れに沿って並んで買う。それから地下に降りる。セキュリティ・チェック。制服を着た少年少女(ボランティア? 見習い兵?)が荷物を通すよう乗客に指示している。バックやリュックなど大きめの荷物を持っている人はそれをベルトコンベアーに乗せて検査台を通す。ボディー・チェックまではされないから、腹巻に爆弾でも巻き込んでいても分からないのではないか。北京の街中では公安や武装警察などの制服姿をよく見かける。人民解放軍も含めて30万人の治安担当要員が北京にはいるらしい。
・地下鉄2号線の長椿街站で下車。長椿街を南下。中国の交通マナーの悪さに慣れないと命にかかわる。十字路で自動車は人がいようと関係なく平気で右折してくるし、赤信号でも歩行者は堂々と横断する。この辺のタイミングはすでに台湾で慣れている。どうしても恐い場合は地元の人が渡るのについていく。
・北京の街中では台湾資本のチェーン店を時折見かけた。例えば、ドラッグ・ストアの屈臣氏(ワトソンズ)、メガネの寶島眼鏡、コーヒー・ショップの上島珈琲など。
・長椿街站から歩いて30分ほどで牛街礼拝寺に到着(写真写真)。中国イスラムのモスク、いわゆる清真寺である。辺りには白い帽子を被った人を見かける。回族の人か。
・礼拝寺に入る。おそるおそる中をのぞいてみたら、入口管理室前で白衣に白帽、髭面のおじさんが地元観光客相手に何か説明をしている最中。脇にあった説明板(中文+英文)を読んでいたら、後ろから「何か御用ですか?」と声をかけられた。私に話しかけられているとは思わなかったので反応が遅れたら、「コンニチハ」と日本語であいさつを受けた。拝観料は10元。ポケットを探って、取りあえず出てきた100元札を出したら「額が大きすぎるよ」と笑われたので、さらにポケットを探して10元札を渡す。解説パンフレットをもらった。
・牛街礼拝寺は北京で最も古いモスクで、10世紀まで起源はさかのぼる。建物は中国風。中庭にある鐘楼は邦克楼、説明板を見るとミナレットとなっている(写真)。この中に来賓の記念写真が貼られていて、ハタミの訪問も受けたようだ。礼拝堂の本殿に非ムスリムは入れない。裏手には聖者のお墓(写真)。歩いていたら、彫りの深い顔立ちの青年とすれ違い、目があったのでお互いに会釈。ウイグルの人か。本殿前のベンチに腰掛ける。外の自動車の喧騒は遠くに聞こえる。夕方の涼風の中、鳥のさえずる声。
・礼拝寺横の路地を東に向かって歩く。途中、牛街清真牛羊肉市場という看板を見かけた。地下1階まで大きく入口が開いており、そこからカレーのようなきつい臭いが路上まで漂ってくる。香辛料か。故障したエスカレーターを降りていった。明かりが暗めの市場、さばかれた牛や羊の肉がぶらさげられ、時間はずれだからかお客はまばら。香辛料と羊肉の入り混じった臭いがちょっと苦手なので、すぐ外に出た。
・ちょっとした商店街風の大きめの通りが、やがて細い胡同に変わった。地図を確認しながら進む。所々くしの歯が欠けたように家屋が崩されている。残された家屋も崩れかかって荒涼としているが、その中に人々が暮らし、家族で食事している姿も開いた門から見えた。殺風景のようではあるが、中からばっちりオシャレした女の子が出てきたりもする。壁に「折」のペンキ印も見かけたから、この辺一帯の胡同はすべて更地にされる予定があるのだろう。10分くらい歩いたろうか、大通りに出た。菜市口大街である。この通りに沿った一帯にはすでに新しい高層マンションが建ち、脇につけられた道路もきれいに舗装されている。菜市口大街にはつい最近地下鉄4号線が開通したばかりである。新路線に合わせて胡同をつぶし、マンション等造成の再開発という形で北京の街並は変わりつつあるということだろう。
・牛街の方から抜けてきた胡同が菜市口大街とぶつかるところに譚嗣同故居写真写真)。ここから菜市口大街と並行する胡同をぶらぶら歩いていたら紹興会館もあった。
・菜市口大街と交差する大通りの広安大街を東に進む。少しして米市胡同に入る。康有為故居写真写真)。ここに康有為の出身地の南海会館があったらしい。当時、地方出身者ごとに同郷互助組織のような形で建てられた会館に上京者は暮らすケースが多かった。北京の城外南部には会館が集中していたという。この区域から牛街までも歩いて一続きとなっているが、イスラム系の人々がやはり同胞意識を持って集まり住んだから礼拝寺も整備されたということか。
・なお、広安大街から康有為故居のある胡同に入ってすぐのところはすでに崩され(写真)、くず拾いしている人の姿がみえた。北京の街中を歩いていると、三輪自転車の後ろのカゴに廃品を載せたくず拾いと時々行きあう。その呼び声には節がかかっていて、ちょっとした歌のようだ。日本の廃品回収車と同様か。
・湖広会館に出た(写真写真)。同郷者を集めて故郷の演劇を催す舞台があり、現在は観光客向けに京劇を上演している。なお、孫文が一時期この会館に滞在していた。
・南新華街を北上、瑠璃廠へ。書画骨董のお店が並ぶ通りである。北京に滞在した学者・文人の随筆などを読むとここで何々を見つけた、何々を買ったというような記述をよく見かける。写真は夕暮れの中の瑠璃廠の街並み。
・東へ向かい、細い胡同をしばらく分け入って、大柵欄に出た。繁華街である。今日はメーデー、建前上は社会主義を標榜する中国では祝日であり、人々でごった返している。まっすぐ歩くと前門大街とぶつかる。ここは歩行者天国のようで自動車が入ってこないので、大通りというよりは広場という感じだ(写真写真)。
・焼売で知られる都一処が目に入った。かつて乾隆帝がお忍びで食べに来たという逸話がある。夕飯でも摂ろうと思って入ったが、ただし、体調としては疲れていて、あまり食欲はない。少々無理する感じではあったが、焼売と、五穀粥のようなのを注文。焼売は、上の皮がヒラヒラとしたフリル状に飾りつけられていた。
・前門大街はレトロな雰囲気の漂う繁華街として整備されており、観光用の路面電車も走っている。写真はユニクロ。写真は路面電車と星巴克(スターバックス)。写真は路面電車と正陽門(前門)。この正陽門の北側に天安門があり、さらにその向うが故宮である。正陽門脇には1901年に建てられた北京駅がある。現在の北京駅は東へ2~3kmくらいの所に移転されているが、正陽門前の旧駅は改修保存して北京鉄路博物館となっている(写真)。写真の向うに見えるのは旧アメリカ公使館。東交民巷である。
・もう暗くなってきたが東交民巷をぶらぶら歩き、天安門広場の方に出た。お上りさんでごったがえし、その中に混じるように公安、武装警察がうようよ、人民解放軍兵士が小走りに行進。初年兵の訓練か。武器は持っていない。歩哨に立つ兵隊さんに観光客が道を尋ねると、直立不動で返事していた。天安門広場に入るだけでもセキュリティ・チェックを受けねばならず、面倒くさかったから帰る。上海万博開幕に合わせた記念行事でもやっていたのだろうか。天安門広場で公的行事があるとき、天安門近くの地下鉄駅(1号線の天安門東、天安門西、2号線の前門)は閉鎖され、電車は通過する。今回も5/1~5/3まで閉鎖されていた。写真はライトアップされた天安門。
・北京で最大規模の書店、王府井書店をひやかす。開店60周年記念ということで著名な作家や学者に講演してもらったという趣旨のポスターがエスカレーター脇にぶらさがっていた。ロケット工学専門家の院士(ドクター)の梁思礼の名前が中にあったが、たしか梁啓超の息子のはずだ。私は台湾へ行ったときには書店でいつも本をごっそり買い込むが、言論統制下にある中国ではあまり買い込もうという気力がわいてこない。
・夜はホテルでテレビ。ニュースは上海万博関連一色。テレビドラマは、共産党による建国物語みたいな現代史ものが結構多い。真ん中横分けヘアは若き日の毛沢東、眉が太くてテキパキ動くのは周恩来、ハゲ頭で偉そうなのが蒋介石、蝦蟇ガエルみたいな顔しているのは蒋経国か。すぐ分かる。音楽チャンネルのMTVをつけたら、繁体字の字幕が出る番組をやっていた。萌え系ロリータ・アイドルにセーラー服を着せたりして、日本の芸能番組風の演出。明らかに台湾制作番組だ。日本の“萌え”文化は台湾経由で中国に流入しているのか。中国の芸能番組等は実質的に台湾人がプロデュースしているというのを何かで読んだか聞いたかした覚えがある。

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2010年5月 8日 (土)

北京・天津旅行

 5月1日から5日まで北京と天津を歩きまわった。とりあえず写真だけアップ(→2010年5月 北京・天津旅行)。旅行時のメモはまだ整理できていないので、また後日。

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