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2010年5月12日 (水)

2010年5月4日 北京

【第四日:5月4日(火)】
・この日は北京市内をとにかく歩く。7:30頃に宿舎を出た。北京駅で地下鉄2号線乗車、前門駅で下車。昨日まで閉鎖されていたが、今日からは通常営業になったようだ。地上に出る。正陽門前(写真)。まだ8時過ぎの早朝だが、人出はたくさん。毛主席記念堂の前にはすでに長蛇の列ができている(写真)。毛沢東のミイラは見てみたい気もするが、並んでまで見ようという気力はない。
天安門広場に出た(写真)。おのぼりさん(私自身も含めて)がごった返して、歴史的事件の現場という感慨は意外とわかなかった。制服姿の左から武装警察、人民解放軍の兵士、公安たちがあたりに眼を光らせている(写真)。
・天安門をくぐって故宮博物院へ。午門(写真)。入場料は80元。日本語解説イヤホンを借りる場合には40元+デポジット(返却時に返してもらえる)100元。8:30に開門。私がたどり着いたのは8:40頃、まだ中はすいており、ちょうど良い頃合だった(写真)。
・太和殿前の広場(写真)。太和殿(写真)。太和殿脇から午門方向を見る(写真)。ベルトルッチ監督「ラスト・エンペラー」で即位式のシーンはここか。写真は玉座。もちろん、映画に出てきたバッタはいない。有名なのは、幼き日の溥儀がワーンと泣いてしまう場面。父親が「すぐに終わるから」とあやしたところ、清朝は本当にすぐ終わってしまったというエピソードは解説イヤホンでも紹介していた。歴代皇帝が後継者の名前を書いた紙片を裏に隠し置いたという「正大光明」の扁額(写真)。軍機処は意外と小さい(写真)。西太后の暮らしていた儲秀宮(写真)。珍妃の井戸(写真)。光緒帝の側室の珍妃は戊戌の変法を支持したため西太后に疎まれ、義和団事件で紫禁城を逃げ出すどさくさでこの井戸に投げ込まれて殺されたと言われている。内廷を歩き回っていると壁の高い迷路のようで、面積としては確かに広いのだが、狭苦しく息苦しくも感じられる(写真写真)。「ラスト・エンペラー」で溥儀・溥傑の兄弟が壁をよじのぼって外をうかがうシーンがあったが、そのように外の世界へのあこがれが高まる気持ちは想像できる。確かこのシーンでは袁世凱のパレードの最中だった。そう言えば、袁世凱が皇帝即位式を執り行ったとき、溥儀はどこで何をしていたのだろう?
・北側へ通り抜けたのが11:15頃。駆け足ではしょりながら回ったので所要2時間半といったところ。じっくり見て回ったら4時間くらいはかかるのではないか。北の出口は景山公園の前。明のラスト・エンペラー崇禎帝が首をくくったのがここだが、省略。
・人力車夫が寄ってきたが、お断り。今朝立てたプランとしてはここでタクシーを拾って北京魯迅博物館まで行く予定だったのだが、タクシーがなかなかつかまらない上に2回乗車拒否にあった。行先の名称を正確に発音したつもりだし、簡体字でアドレスを書いたメモも見せたのだが、場所が分かんねーよ、ってことか。仕方ない。歩く。北京という街の距離感、空気感、臭いや色合い、人の表情をじかに見るというのが本来の目論見だったから、これはこれでよし。地図を見ながらプランを変更。博物館等の施設はみな16:30頃で閉館だから予定していたところすべてを回るのは無理。優先順位を考えて梅蘭芳記念館を外す。
・地安門大街を西に向かって進み、西四大街に出た。ここはつい最近、地下鉄4号線が開通したばかり。西四駅で乗り込み、新街口駅で下車。
八道湾胡同写真写真)。周作人の居宅があったところであり、すなわち喧嘩別れする前までは魯迅も住み、エロシェンコが滞在したのもここである。最近読んだ中薗英助の小説でも、主人公(=中薗自身)がここを訪れるシーンがあった。周作人は漢奸として服役した後、釈放されてからはこの家に戻り、日本語・英語・古典ギリシア語作品の翻訳に従事。文化大革命で紅衛兵に家を荒らされ、台所の床で寝起きさせられた中、1967年に82歳でこの世を去った。胡同を往復してみたが、魯迅・周作人兄弟がここに暮らしていたことを示す標識等は何も見当たらなかった。この胡同でもやはりくしの歯が欠けるように家屋が一部崩されており、「折」のペンキ印も見かけた。すぐ目の前の通りに新しく地下鉄が開通したばかりだし、近いうちに更地にされて再開発の予定があるのだろう。
・新街口駅に戻り、地下鉄を乗り継いで2号線の阜成門駅で下車。北京魯迅博物館写真)。館前はちょっとした商店街で、魯博商店といった名前の店もあるが、普通の雑貨や食料品を扱っている程度で魯迅グッズのようなものはなし。観光地的なにぎわいはない。館内の庭にある魯迅の胸像(写真)。他にハンガリーの作家と、「藤野先生」で有名な藤野厳九郎の銅像があった(写真)。仙台の東北大学キャンパス内にある魯迅記念碑や、その近くに現存する魯迅の下宿先などはいずれも見に行ったことがある。博物館内では魯迅の生涯に関する紹介展示。仙台留学時に魯迅がとったノートが公開されており、藤野先生の赤字がびっしり。添削だけでなく、「注意」としてコメントが随所に書き込まれている。日清戦争に勝利し、一等国と酔いしれる当時の日本、国家建設・近代化という宿命を背負って成功しつつある日本の両極端な姿、つまり、勝った=日本はすごい!という単純バカの差別意識。他方で、日本の歩んだ苦難を同じ立場にあるアジアの国々と分かち合おうという素朴な善意。医学者としての藤野先生に特別な政治意識はなかっただろう、だからこそ留学生に向けた熱意。
・館内に八道湾の四合院の模型はあった。許広平のことは大きく取り上げられているが、魯迅の正妻のこと、周作人との不和などにはほとんど触れられていない。
・魯迅故居(写真写真)。こぢんまりと落ち着いた四合院。魯迅の書斎は外からガラス越しに見られる(写真)。魯迅が植えたというライラックの木が中庭にある(写真)。外の喧騒が遠くに聞こえる穏やかな空間。ハラハラとライラックの白い花びらが落ちる中、腰をおろし、涼風が体を通り抜ける心地よさにしばし身を委ねる。
・阜成門駅へ戻り、地下鉄2号線で雍和宮駅へ。一昨日も降りた駅だ。目的地の孔子廟は雍和宮のすぐ近くにある。同じ大通りの反対側の歩道を歩き、10分くらいか。
孔子廟写真)。中に入ると、孔子像(写真)。本殿と言うべき大成殿(写真写真)。境内には屋根付き建物の中に石碑が収納されている。学問を奨励する碑文だけでなく、異民族を征服するたびにそのことを記念する銘文が刻まれている。写真写真は乾隆帝の時代に回部平定を記念した石碑。すぐ近くに雍和宮があることも考え合わせると、各地方の軍事的征服と同時に、満洲人にとっては異民族の宗教文化である儒教やチベット仏教なども統制化に置く、そうした政治的統制と文化的統制との両方を意図した区域になっていると言えるのだろうか。境内に入って両側に展示室があった。儒教の概略と、その国際的広がりとして韓国、日本、ヴェトナム、さらに欧米への波及(例えば、ヴォルテールが儒学に言及)が紹介されている。世界の孔子廟の紹介→ハノイ、ソウルの成均館、日本では足利学校や閑谷学校が割りと大きく取り上げられる一方で、湯島聖堂の扱いは小さかった。科学的精神の萌芽として儒学を捉え、学術的伝統の古さという点から、そこに注目した外国人としてジョゼフ・二―ダムが大きく取り上げられていた。近代儒学の系譜として公羊学派の康有為・梁啓超まで。科挙に関する解説展示室では、実物大の試験室模型は初めて見た。「宮崎:日本科挙年表」なるパネルがあったが、この宮崎とは宮崎市定のことか? 出典明記されていないぞ。
・大成殿の中には王朝時代の礼楽で用いられた古楽器が並べられている(写真)。戦時中、北京に来ていた江文也はここ孔子廟に通って、孔子の時代の音楽について調べて『上代支那正楽考』(→こちら)を著し、「孔廟大成樂章」(1940年)というシンフォニーも作曲している。私はCDを持っていて、ゆったりとしたメロディーが特徴的だ。江文也についてはこちらを参照のこと。
・境内のベンチに腰掛けた。すでに4時過ぎ、陽光は夕方らしく淡く黄色っぽい色合いになってきている。日中の暑さで汗だくになった肌を、夕方の涼風が静かになでてくれる。歩き詰めの足を休める。足裏の痛みがしばし和らいだ。ほっと息をついて境内を見回す。ふと老舎の伝記での記述を思い出した。文化大革命のとき、ここ孔子廟の境内で京劇など伝統文化の衣装を火にくべる集会が行なわれた。近くにあった文学連盟に勤務していた老舎が何事かと見に来たところ、その姿を学生たちが目に止め、「造反有理」の怒号の中、老舎は激しい暴行を受けたという。周恩来の指示で慌てて駆けつけた文連の職員によって助け出されたものの、体に受けた傷よりも、精神的な打撃の方が大きかったようで、翌日、彼は湖に身を投げて死んだ。公式発表では自殺とされているが、真相はよく分からない。
・孔子廟のすぐ隣にある国子監写真)は中でつながっている。清朝時代の最高学府である。辟雍(写真写真)は皇帝が御進講を受けた建物である。日時計もあった(写真
・孔子廟、雍和宮のあたりは占いやチベット仏教関連のお見せが多く、ちょっと通俗神秘の感じ。
・南下して北新橋駅で地下鉄に乗車、張自忠路駅で下車。段祺瑞執政府跡写真写真写真写真)。もともとは清朝陸海軍の役所があったらしい。中に入って写真を撮りたかったが、門衛にダメと言われた。北洋軍閥政府の時期には政府庁舎となり、三・一八惨案というのはここに集まってきた学生デモ隊を武力で鎮圧して流血の事態となった事件である。
・この並びには孫文が一時期滞在した所があるはずだが、それらしいのは見当たらず。演劇関係の欧陽予倩故居(写真)。
后園恩寺胡同(説明板→写真)に入って、友好賓館(写真写真)。もともとは清朝皇族の邸宅だったが、その後、蒋介石の滞在所にもなった。この並びに茅盾故居もある(写真)。記念館になっているが、時間的にすでに閉館。この辺はもともと高級住宅街だったようだから、偉いさんには良いおうちがあてがわれたということか。
・この胡同をさらに進むと、南北に走る南羅鼓巷とぶつかる。胡同の街並を利用した若者向けのカフェやブティックが並んでいる。歩いている年齢層も若い。海外でも紹介されているらしく白人系の外国人観光客も多い(写真写真)。日本でいうと原宿のような感じか。楽器店で店員の女の子がオカリナで「天空の城ラピュタ」のテーマ曲を吹いているのが耳にとまった。
・南羅鼓巷を南のはじまで歩いてから西へと向かう。途中、京味麺大王というお店があったので入った。炒醤麺で有名なお店らしい。体が疲れて食欲があまりないとき、炒醤麺はさっぱりして食べやすい。
什刹海写真写真)。観光地図で場所を確認していたら、人力車夫たちがいかにも「カモが来た!」という感じで寄ってきて、「ドコ、イク? フートン、イクヨ」と片言の日本語でまくし立て、無視していたら、袖を引っ張り始めたので「我不去胡同」と!怒鳴りつけて振り払った。
・什刹海入口にあったスターバックス(写真)でカフェラテを買う。店の内装もラテの味も日本と全く変わらないが、店のにいちゃんの無愛想さはさすがに中国だな、と感じた。池の脇のベンチに座って休憩。雨模様の曇り空がどんよりと垂れ込めてきた。
・什刹海近くの郭沫若故居(写真)。豪壮な邸宅である。ここも記念館になっているが、時間的にすでに閉館。池沿いの通りは南羅鼓巷と同様にやはり古い建物を利用した若者向けの街並みとして整備されており、こちらはバーやライブハウスが並んでいる。夕方になってやおら開店し始めている。池を望む軒先に椅子やテーブルが並べられ、なかなか良い雰囲気だ。
・急に土砂降り。折り畳み傘を出す。いつもなら悪態をつくところだが、宿舎に戻って着替えればすむことだし、明日はもう帰ってしまうのだから、雨降りの時の北京のたたずまいを見るのも悪くない。急な雨に降られて人々がどんな表情で行動するのかを見るチャンス、と割り切ってゆうゆうと雨中を歩く。ばっちりオシャレした女の子は大変だ。お店の人たちは、客が来ない、商売あがったり、みたいな退屈そうな表情で雨を眺めている。宋慶齢故居まで歩くつもりだったが、切り上げて地下鉄の駅へと向かった。
・宿舎まで帰る前に国貿駅に寄った。最先端のビジネスエリアとのこと。地上に降りて建ち並ぶ摩天楼を眺める(写真)。地下のブティック街を歩いても、国籍はさっぱり分からないな。

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