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2010年5月12日 (水)

2010年5月3日 天津

【第三日:5月3日(月)】
・北京駅から地下鉄2号線で宣武門駅、4号線に乗り換えて北京南駅。京津城際鉄路に乗る。地下の窓口で切符を買ったのだが、改札口がどこにあるのか分からない。とりあえず人の流れについていくと、地上2階にあった。天津まで所要30分ほど。車窓の風景を眺めていてもずっと平野が広がるばかり。畑の周囲には防風林があるのが目に付いた。
写真は天津駅。天津駅構内でおばさんが売っていた市街地図を購入。駅近くの世界時計なるランドマークで方向感覚の見当をつけて、まず旧イタリア租界へと歩く。イタリア風趣区として当時の建築を利用した観光スポットに整備されている(写真写真写真)。
・目的地は梁啓超記念館。大きな洋館が二棟ある(写真写真)。豪勢なものだ。一つが居宅(写真)、もう一つが仕事場で「飲冰室」と名づけられている(写真写真)。彼の文章を集めた『飲冰室合集』はここにちなむ。両方とも一般公開されており、中では梁啓超の生涯に関する解説展示。飲冰室の洋風の書斎の本棚には漢籍がびっしりと詰め込まれていた。科挙にパスした挙人であり、同時に中国の近代化を模索した啓蒙思想家としての教養の幅広さが具体的な形で垣間見えてくるようで興味深い。彼の銅像を背景に邸宅をもう一度(写真写真)北京の胡同での住まいとここ天津の洋風の住まいと生活環境が全く異なるが、こうした極端に異なる生活環境の往復は感性面で何か影響があったのかどうかなどと思いをめぐらせた。
写真は曹禹旧居。劇作家、教育者として知られる。写真はやはり旧イタリア租界で通りかかった建物。馮国璋旧居(写真写真)。北洋軍閥重鎮の一人である。現在、改装工事中。袁世凱旧居(写真写真)は高級レストランになっている。
・海河にかかる解放橋を渡って対岸へ移動。写真は橋上からイタリア租界方面を望む。写真は橋を渡った先の古文化街。中国風の商店街に行楽客がごったがえしている(写真写真)。食べ物屋のほか書画骨董のお店が目立った。楼閣上で京劇を上演している戯楼(写真写真)。脇道に入ってこのように壁が両脇に迫った路地もあった(写真)。
天后宮写真写真写真写真)。本殿では媽祖(天后娘娘)が祀られていた。福建起源の航海の女神で、台湾の寺院などでは最もポピュラーな神様だ。天津でお目にかかるとは思っていなかった。海外交易でのつながりがうかがえる。他に関帝なども祀られていた。
・古文化街を歩いていたら厳復の銅像もあった(写真)。梁啓超と同様、中国近代の啓蒙思想家として大きな影響力を持った一人である。
・古文化街は川沿いに栄えた商業区域であり、西へ少し進むと旧天津城がある。こちらも行楽客が行き交う繁華街とはなっているが、古文化街に比べるとやや閑散としている。なぜか手品用品の店が目についた。写真は城門。写真は城内の中心に位置する鼓楼。この脇に、一昔前の日本のデパートでも見かけたような子供用の乗り物があって、チープな行楽地風情がまた何とも言えない。ミニスカート姿のキャンペーン・ガールが飲料の試供品を配っていたが、肌色のタイツをはいている。肌を露出するのに抵抗感があるのか、タブーがあるのか。
・旧天津城から東南方向へ歩いていくと、やがて旧日本租界にたどり着いた。海河は蛇行しており、旧イタリア租界からは南の対岸に位置する。写真は鞍山路、戦前は宮島街と呼ばれていた。
段祺瑞旧居写真写真)。北洋軍閥の重鎮、袁世凱死後は北京政権の実質的な指導者となり、西原借款などで歴史の教科書にも出てくる。日本租界にこれほど大きな邸宅を構えていたということからは日本との密接な関係もうかがえる。近くに閻錫山の邸宅もあったらしいが、どこだか分からず。
・鞍山路をもうしばらく歩いていくと、大きな洋館が目に入った(写真)。張彪という人物の邸宅だったことから張園を呼ばれている。現在は教育関連の施設となっているようだ。張彪というのは洋務派の大物・張之洞の配下だった軍人、辛亥革命の発端となった武昌蜂起のときに政府軍を指揮していたが、日本へ亡命、その後、商売で成功して天津に拠点を置いて活躍したらしい。この張園が面している十字路の斜め向かい側、すぐ目と鼻の先にはかつて日本総領事館があった(写真のあたり。なお、総領事館の隣には天津神社があったらしい)。日本租界のど真ん中にこのような豪邸を構えていたということは、やはり日本と利権的なつながりがあったのだろうか。張園には孫文が一時期滞在していた。門前の表示板は「孫中山北上在津期間居住遺址」となっている(写真)。戴季陶と山田純三郎が在天津日本総領事に頼み込んで斡旋してもらったという。それから、1924年の馮玉祥軍による北京占領で紫禁城を追放された溥儀がやはりここに身を寄せ(辛亥革命後も溥儀は紫禁城に住み続けることが許されていた)、すぐ近くの静園に引っ越すまでの間ここで暮らしていた。
・特にチケット売場があるわけではなかったが、玄関から中をのぞいていたら係の人が出てきて、入館料20元だという。中ではゆかりの張彪、孫文、とりわけ溥儀にまつわる紹介展示。溥儀の二人目の夫人・文繍と離婚したことが取り上げられ、中国史上唯一の皇帝の離婚であったと強調されているのが目を引いた。
・張園から鞍山路を歩いて5分ほどのところに静園がある。ここも溥儀の記念館として一般開放されている(写真)。入って右手の建物(写真)で溥儀の生涯に関する解説展示。天津で外国人と付き合う仲、彼のいでたちは完全にウェスタナイズされている。外国人たちとの集合写真のうちの一枚には天津総領事だった吉田茂も写っていた。戦後、戦犯として服役後に一般市民として生活するようになってからの時期の写真では、周恩来と老舎を真ん中に、弟・溥傑など旧皇族、嵯峨浩とその母親が一緒に写った集合写真もあった。この写真は老舎の伝記でも見た覚えがある。老舎の祖先は満洲旗人であり、明治日本でたとえると没落旗本の息子といった境遇であった。満洲人つながりの会合があったのだろう。静園の本館(写真)は溥儀が暮らしていた当時の雰囲気を修復の上で再現されている。皇后・婉容の書斎には彼女が読書している写真が飾られていた。皇后というしきたりに縛られた立場にある一方で、天津租界の開放性、自我に目覚めた女性の葛藤という位置付けになるようだ。予習のつもりで読んだ八木哲郎『天津の日本少年』(草思社、1997年)では、著者の両親から聞いた話として、溥儀・婉容夫妻はイギリス租界のテニスコートによく姿を見せて、特に婉容が外国人たちと談笑する堂々とした姿が目立ったということが記されていた。婉容はその後、アヘン中毒になって死ぬ。1931年の満州事変後、土肥原賢二らの工作で溥儀は満洲へと向かうことに同意、日本の外務省は溥儀擁立構想に反対していたため、極秘裏に行動する必要から、自動車のトランクに隠れて静園から脱け出したことはむかし溥儀の自伝『我が半生』で読んだ記憶が残っていた。
・張園、静園とも文繍、婉容という二人の女性の自我の目覚め的な側面が強調されているのが印象的だった。美人の誉れ高い婉容、張園ではタバコを吸っている写真もあった。溥儀は皇帝、かつ日本軍協力者=漢奸の最高権威者であったという二重にマイナスの存在ではあったが、溥儀個人に対する非難もない。一つには、溥儀を更生の模範例として体制内に取り込んだ周恩来たちの配慮もあったのだろう。一般庶民感情としても、封建遺物かつ漢奸という以前に、王朝時代から現代社会へと転変目まぐるしい運命に翻弄された彼の生涯そのものがドラマとして面白さが感じられるのだろうか。
・鞍山路をまっすぐ歩き、南京路とぶつかる交差点に旧・武徳殿写真写真写真)。現在は大学図書館として利用されているようだ。日本が建てた帝冠様式の建築物は、台湾ではいくつか見かけるが、中国大陸に残っているのは珍しい。
・武徳殿前でデジカメの調整をしていたら、自転車に乗ったおばさんが立ち止まり、私に向かって不機嫌な表情で何か怒鳴ってきた。このババア、なにを怒っているんだ?とムカッときたのだが、耳をよく反芻してみると、「いま何時?」と時間を尋ねていたみたいだ。別に不機嫌というわけではなかったのだろうが、無愛想な表情と怒鳴り声、これも文化の違いか。
・さらに旧日本租界を歩く。写真写真王揖唐旧宅。北洋政権期の大物政治家で、後に日本軍の傀儡政権であった王克敏の中華民国臨時政府に参加、さらに汪兆銘の維新政府に合流。戦後は漢奸として銃殺刑となった。やはり親日派であった曹汝霖、旧満州国初代国務総理となった鄭孝胥の旧宅のあったあたりも歩いたが、それらしい標識などは見つからなかった。
・旧日本租界の隣だった旧フランス租界に入る。写真写真写真張学良旧宅
・さらに歩いて旧イギリス租界。解放路はかつて金融街だったようで、銀行や商社などの重厚な洋式建築が整然と並んでいる。写真はいま西洋美術館になっている。写真は未確認。現在は中国工商銀行となっているから、戦前も銀行関係だったのだろう。写真写真旧アメリカ海軍クラブ写真写真旧中法商工銀行。法国は中国語でフランスのこと。日本の金融機関もいくつかあり、写真写真写真旧朝鮮銀行写真写真旧横浜正金銀行写真写真旧ベルギー領事館写真写真旧恰和洋行、すなわちジャーディン・マセソン商会。いずれも現在は中国の金融機関や行政官庁が入っており、看板はもちろん中国語だが、街並の雰囲気はタイム・トリップしたような不思議な気分(写真写真写真)。
・雲がたれこめてきて雨が降りそうな気配になってきたのでタクシーを拾った。途中、馬車路というやはり旧イギリス租界の観光スポットを通る。当時の建物をそのまま利用したカフェやブティックなどが並んでいる。周恩来鄧穎超記念館(写真)へ行ったが、改装工事中。再びタクシーを拾って天津駅まで戻った。京津城際鉄路の和諧号写真)。
・いったんホテルに戻った。19:00頃。食事をしようと再び外出。地下鉄4号線で磁器口駅まで出て、天壇公園近くの老北京炒醤麺大王なる店へ行く。混んでいたが、一人だったのでレジ近くの皿置き場のような机に案内された。他の客たちがワイワイ食べているのを睥睨するようなポジション。炒醤麺で有名な店なので、おかず数皿とこれを頼むべきなのだろうが、体が疲れていて食欲なし、しかし食べたいみたいな状態。中華料理は複数人で複数の皿をつつくのが普通だから一人旅はこういう時につらい。メニューを見ていたら、炒醤麺に使う麺に具を絡めた焼きそばのようなのがあったので、これにした。
・駅まで戻る途中、大通りと並行する裏道に煌々とした明るさが見えたので行ってみた。ちょっとした屋台街になっているが、それほどにぎわいはない。台湾など南方ならば夜がふければふけるほどそこかしこで夜市のにぎわいに出くわすものだが、北京の夜は早い。リュックを背負った白人青年が一人ぼんやり歩いていた。私と同様にものめずらしさで入り込んだのだろう。

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