陳真『柳絮降る北京より──マイクとともに歩んだ半世紀』『北京暮らし今昔』、野田正彰『陳真──戦争と平和の旅路』
私はむかしNHKの中国語講座を視聴した覚えがなくて、陳真さんのことはよく知らなかった。陳真『柳絮降る北京より──マイクとともに歩んだ半世紀』(東方書店、2001年)は、北京の放送局に入ってから出会った人々、北京の風物をつづった自伝風エッセイ。敗戦後も中国にとどまった日本人のこと、文革時に受けた迫害なども触れている。陳真『北京暮らし今昔』(里文出版、2005年)は、急速に変貌していく北京のたたずまいを描く。昔の情緒への名残惜しさもどこか感じさせつつ、現在の変化への受け止め方は前向きだ。優しそうな人柄のしのばれる柔らかな筆致は、読んでいて心地良い。2005年1月に永眠。
野田正彰『陳真──戦争と平和の旅路』(岩波書店、2004年)は、著者自身のある種の政治的嗜好が先行して評伝としての質はあまり良くない本ではあるが、陳真の生涯には興味が引かれる。奥ゆかしい方で、自慢めいた話は上掲エッセイ集には出てこない。ところが、例えば16歳で書いた小説が絶賛されて賞を取るなど、実は大変な才媛であった。そうした彼女自身が書かなかった部分は野田書がきちんと調べてくれている。
陳真とご父君・陳文彬の二人をセットにして考えると、日本・台湾・中国の三角関係がある一つの形として見えてきて、そこに関心を持った。祖父は福建省の出身で台湾に移住、西来庵事件に連座して逮捕された時に受けた拷問がもとで亡くなった。陳文彬は台湾・高雄の生まれ、台中一中を経て上海の復旦大学で学んだ言語学者。他方で共産党員でもあり、汪精衛政権下の弾圧を逃れて来日。法政大学で教鞭をとり、藤堂明保、倉石武四郎、谷川徹三、野上豊一郎・弥生子夫妻などと交流、生活面では経済学者の堀江邑一の世話になったようだ。陳文彬は中国ナショナリズム意識が強く、また戦後は言語学者としてピンインの制度化に関わったらしい。
陳真は1932年、東京・荻窪に生まれた。谷川俊太郎とは幼馴染。学校では軍国主義下の差別的な風当たりを受けてつらい思いをしたことが野田書に見えるが、陳真自身のエッセイでは「日本にいたときにはイヤな思い出もあったけど…」という感じにサラッと書き流されている。日本の敗戦後、父・陳文彬が台湾大学教授として招聘されたので同行したが、二・二八事件、引き続く国民党の白色テロの中、命からがら大陸へと脱出、北京に定住。ただし、反右派闘争、文化大革命と続く過程で台湾民主自治同盟など台湾出身者の多くが「反革命」のレッテルを貼られたが、陳真の家族も例外ではなく、父は下放され、家族は散り散り、彼女自身は放送局に日本語のできる最低限の人材は必要ということで北京に残された。文革中に放送局を表敬訪問した藤堂明保が「こちらに陳文彬の娘さんがいらっしゃると聞きましたが、どなたですか?」仕方なく名乗り出たところ「お父さんはどうなさっていますか?」「…病気です」というやり取りのあったことが上掲『柳絮降る北京より』に記されている。
若い頃の陳真さんの写真を見ると(→例えば、これ)、本当に愛くるしく純真無垢な美少女で、ブロマイドに欲しいくらい(たまにローラ・チャン目当てでNHKの中国語講座にテレビのチャンネルを合わせたことはあるが、あんなの目じゃない)。お年を召されてからは知的な気品が漂って、須賀敦子さんに似た印象がある。
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