老舎のこと
老舎の作品で私が読んだことがあったのは、『駱駝祥子』(立間祥介訳、岩波文庫、1980年)と『猫城記』(稲葉昭二訳、サンリオSF文庫、1980年)くらいか。思い立って再読。
『駱駝祥子』はあまりにも有名だから今さら言うまでもないだろうが、正直一徹の車引き祥子が社会の不条理に翻弄される中、生きていく希望というか拠り所を失って気持ちが荒んでいく姿が描かれる。市井の小狡く薄汚い風俗を活写する筆致は批判的なものである。庶民感情なるものへの美化はない。同時に、このどうにもならない泥沼にはまってしまった悲哀へのいとおしみが行間からにじみ出てくるところに、老舎という人の情がこもったリアリズムが感じられる。
『猫城記』は、宇宙船が大破して着陸した火星で猫人と遭遇するという設定。SF仕立てではあるけれど、猫人国にはこの作品が書かれた1930年代当時における中国が重ねあわされており、いわば政治諷刺小説である。老舎自身は失敗作と考えていたらしい。作中に馬祖主義なる革命思想が出てくるが、マルクス主義のカリカチュアか。開祖は迷信打破を主張していたのに、追随者はこの主義そのものを迷信にしてしまったという捉え方。老舎自身に党派性はなく、反共主義者ではなかったが、軽佻浮薄な革命騒ぎは好きではなかったようだ。どんなに進歩的な思想の主張者であっても、いざ権力を握ると堕落してしまう醜さは、例えば『駱駝祥子』でも阮明なる人物の挿話として描かれていた。こうした人間本来が抱える矛盾は政治的正しさの次元であっても例外ではないことを見切ってしまっているところに老舎の諷刺作家としての本領があったとも言える。決して御用作家にはなれない気質的な強さの点では、文化大革命で迫害を受けるのも不可避的な成り行きだったのかもしれない。
息子の舒乙による老舎の伝記が二冊翻訳されている。『北京の父 老舎』(中島晋訳、作品社、1988年)は彼の生涯を時系列に沿って描いている。『文豪老舎の生涯──義和団運動に生まれ、文革に死す』(林芳編訳、中公新書、1995年)は彼の人柄をしのばせるようなエピソード中心の伝記。一途な実直さとユーモアのセンスを兼ね備えたところが多くの人々から慕われたことがうかがえる。それだけに、紅衛兵から激しい暴行を受け、行方不明となった後に死体で発見されるくだりの痛々しさが印象付けられる。
老舎と面識のあった何人かの日本人作家が追悼的な文章を書いている。
開高健「玉、砕ける」。老舎の死を伝え聞いたとき、開高は香港で中国人の知人と会食をした。食事どきには「莫談国事」と注意されながらも、「ここに二つの椅子がある。真ん中はあり得ない。片方に座るよう迫られているけれど、座りたくない場合、どうしたらいいのだろう?」と解答困難な問いを投げかける。水上勉「こおろぎの壷」。老舎が来日したとき図らずも自宅に訪問を受け、何を話したらいいのか分からなかった水上は、むかし知人から見せてもらったこおろぎを入れておく木製の壷のことを話題にした。この壷にはこおろぎを二匹入れる。水上は夫婦つがいで入れるものと期待していたが、老舎の答えは「いえ、これはこおろぎを闘わせて楽しむものです」。いずれも暗喩的である。
井上靖「壷」。やはり老舎が来日した折の歓迎の宴席で、老舎がこんな話をした。むかし、ある人の持っている素晴らしい壷を金持ちが狙っていた。所有者が死んだのでようやく手に入ると思ったところ、その人は死ぬときに壷を砕いてしまっていた。老舎は笑い話のつもりだったが、列席していた広津和郎が「名器は公のものであって、死んだら他人のものになってもいいじゃないか」とムキになって反駁。自分のものだという執着は醜いと広津は受け止めたようだ。老舎死すとの報を受けた井上はこの時のことを回想しながら、老舎が壷を抱えてビルから飛び降りる姿を思い浮かべる。老舎死亡の真相が分からなかった当初、飛び降り自殺したという噂が伝わっていた。自分にとって命より大切なもの、通すべき筋に殉じたのではないか、という捉え方である。
有吉佐和子『有吉佐和子の中国レポート』(新潮社、1979年)は、文革の混乱がようやく終わり、まだ余燼がくすぶる中でも失脚した人々が名誉回復されつつある時期の中国訪問記である。有吉は老舎夫人・胡絜青とも面会している。公式には老舎は自殺したと発表されており、巴金をはじめとした文人たちもそうした前提で老舎のことを語っていたが、胡絜青たち家族は彼が決して自殺するはずはないと涙ながらに語っていたことを有吉は記している。
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