周作人のこと
周作人をめぐっては、漢奸か否かという議論がどうしても避けて通れないようである。ところが、以前に読んだ劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年→こちら)は彼の文学性が話題の中心であり、江戸文化的エスプリへの共感という点で周作人と永井荷風とに共通した感性を見出す指摘がとても興味深かった一方で、対日協力の問題にはほとんど言及がなかった。読んだ当初はいぶかしく思ったが、中国におけるポリティカル・コレクトネスにひっかかると彼の内面的感性は形式的な鋳型に狭められてしまう、それを賢明に避けようとしたのかと今さらながら得心がいった次第である。
木山英雄『周作人「対日協力」の顛末──補注『北京苦住庵記』ならびに後日編』(岩波書店、2004年)はこの問題に正面から向き合う。淪陥期、すなわち日本軍占領下の北京に残った周作人の動静が丹念にたどられる。彼は本来、政治から距離をおきたい文人気質の人間で、華北政務委員会で役職に就いたのも成り行きの中でという感じ、大東亜文学者会議には関わらないよう腐心しており(それどころか会議で片岡鉄兵は「老大家(=周作人)を打倒せよ」と呼号した)、積極的に対日協力したようには見えない。そもそも彼の動機については諸説とびかってよく分からないところが多く、そうした分からなさや矛盾もひっくるめて、考え考え進められる本書の筆致からは勉強させてもらった。当時の北京における人物群像も描かれる。日本国籍であることを利用して中国大陸にやって来た台湾出身者も少なからずいたが、周作人の身辺にも張深切の名前が出てくることをメモしておく。
木山書で引用される、共に喜ぶ(共甘)よりも共苦の方が真実かもしれない、という趣旨の一文が目を引いた。圧倒的な西洋文明を前にして、中国も日本もどうにもならない困難を感じ取っている、その共通体験に周作人は「東洋人の悲哀」を見出した。
『周作人随筆』(松枝茂夫訳、冨山房百科文庫、1996年)、『日本談義集』(木山英雄編訳、平凡社・東洋文庫、2002年)の2冊を読んだが(→こちら)、思想的透明感(こうした感覚をどうしても老荘思想と結ぶつけたくなるのが私の癖だが、周作人はそこまで言っていない)が自然とにじみ出てくる洗練された文人というのが私の周作人に対する印象である。
さらに言うと、政治や人間関係がゴタゴタした渦中にあっても、そこから離れたところから自身を取り巻くあり様を俯瞰できる視点を持っていた人なのかな、そんな印象を持っている。トラブルに巻き込まれて、もちろん生きていくためにもがきもするだろうが、一方でそうした一切を冷静に見切ってしまっているというか。政治的に生硬なロジックが激しく鍔迫り合いを繰り広げる中で、彼はされるがままに翻弄されているという感じ。「弁解しない」というのが彼の処世態度であったが、それはいわゆる「潔さ」というのとはちょっと違って、弁解してもしなくても結果は変わるまい、どうでもいいし、大した問題でもない、そんな感じの一種の諦念のようにも思えてくる。
魯迅(周樹人)や周作人たち周一家の家族的不和はよく知られているが、いさかいがあっても周作人は悠然と机に向かって書き物をしていたと魯迅は記しているらしい。許広平や弟の周建人は家族を北京に残して抗日戦に身を投じたわけだが、その彼らが残した家族も養わなければならなかったというのが周作人が北京に残った理由の一つである(許広平は後に周作人を漢奸として厳しく弾劾したが、そこには家族的不和が投影されている節もある)。例えば、同様に郭沫若も家族を日本に残して抗日戦に身を投じたことが美徳として称讃されたが、周作人は彼らのような政治最優先の生活態度とは明らかに対照的である。
戦後、周作人は漢奸として有罪判決を受けて服役したが、獄中でも泰然と詩作する生活態度が尊敬されたようだ。間もなく釈放され、中華人民共和国成立後は北京・八道湾の自宅に戻り、日本やギリシアの古典翻訳を生業とした(ただし、本名での発表は許されなかったらしい)。文化大革命で自宅が荒らされ、屈辱と失意の中、1967年に82歳で世を去る。
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