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2010年4月

2010年4月30日 (金)

「胡同のひまわり」

「胡同のひまわり」

 ひまわりが咲く季節に生まれ、向陽と名付けられた少年。文化大革命のとき農村で強制労働に従事していた父が帰ってきたが、初めて会った父とどのように接したらいいのか戸惑う。画家であった父は苛酷な労働環境の中で手をいため、筆を握れなくなっていた。人生が台無しにされたという思いを、息子への期待に注ぐ父。そうした押し付けがましさに反発する向陽。1960年代から現代まで変貌する北京の街並みを背景に親子の葛藤が描かれる。

 細かく見ていけば様々なテーマが描きこまれている。例えば、世代間の価値観のギャップ。老後の生きがい。住宅事情。何よりも、文革の傷痕が大きい。文革で密告した隣人は贖罪意識から厚意を示すが、父は拒絶する。自分の画家としての人生はもう取り戻せないという意識は父の態度をかたくなにしてしまっていた。過去を受け容れるには時間がかかる。仲直りしたいと思いつつ果せないまま、隣人は亡くなった。後悔に苛まれる父は息子に、そして自身の新しい人生に改めて向き合おうとする。その表情は何かが吹っ切れたように明るい。

 胡同の古い家屋が崩される際につけられた「折」というペンキ印はハスチェロー監督「胡同の理髪師」(→こちら)でも観た覚えがある。その後に林立する高層ビルは味気ない気もする。こうした街並みが崩されゆくたたずまいには、ここで悲喜こもごもの葛藤が織り成されてきた時間の厚みをいっそう強く感じさせて、暮らしたこともない場所なのに感傷的なノスタルジーがかき立てられてくる。

【データ】
原題:向日葵
監督:張楊
2005年/中国/132分
(DVDにて)

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2010年4月29日 (木)

老舎のこと

 老舎の作品で私が読んだことがあったのは、『駱駝祥子』(立間祥介訳、岩波文庫、1980年)と『猫城記』(稲葉昭二訳、サンリオSF文庫、1980年)くらいか。思い立って再読。

 『駱駝祥子』はあまりにも有名だから今さら言うまでもないだろうが、正直一徹の車引き祥子が社会の不条理に翻弄される中、生きていく希望というか拠り所を失って気持ちが荒んでいく姿が描かれる。市井の小狡く薄汚い風俗を活写する筆致は批判的なものである。庶民感情なるものへの美化はない。同時に、このどうにもならない泥沼にはまってしまった悲哀へのいとおしみが行間からにじみ出てくるところに、老舎という人の情がこもったリアリズムが感じられる。

 『猫城記』は、宇宙船が大破して着陸した火星で猫人と遭遇するという設定。SF仕立てではあるけれど、猫人国にはこの作品が書かれた1930年代当時における中国が重ねあわされており、いわば政治諷刺小説である。老舎自身は失敗作と考えていたらしい。作中に馬祖主義なる革命思想が出てくるが、マルクス主義のカリカチュアか。開祖は迷信打破を主張していたのに、追随者はこの主義そのものを迷信にしてしまったという捉え方。老舎自身に党派性はなく、反共主義者ではなかったが、軽佻浮薄な革命騒ぎは好きではなかったようだ。どんなに進歩的な思想の主張者であっても、いざ権力を握ると堕落してしまう醜さは、例えば『駱駝祥子』でも阮明なる人物の挿話として描かれていた。こうした人間本来が抱える矛盾は政治的正しさの次元であっても例外ではないことを見切ってしまっているところに老舎の諷刺作家としての本領があったとも言える。決して御用作家にはなれない気質的な強さの点では、文化大革命で迫害を受けるのも不可避的な成り行きだったのかもしれない。

 息子の舒乙による老舎の伝記が二冊翻訳されている。『北京の父 老舎』(中島晋訳、作品社、1988年)は彼の生涯を時系列に沿って描いている。『文豪老舎の生涯──義和団運動に生まれ、文革に死す』(林芳編訳、中公新書、1995年)は彼の人柄をしのばせるようなエピソード中心の伝記。一途な実直さとユーモアのセンスを兼ね備えたところが多くの人々から慕われたことがうかがえる。それだけに、紅衛兵から激しい暴行を受け、行方不明となった後に死体で発見されるくだりの痛々しさが印象付けられる。

 老舎と面識のあった何人かの日本人作家が追悼的な文章を書いている。

 開高健「玉、砕ける」。老舎の死を伝え聞いたとき、開高は香港で中国人の知人と会食をした。食事どきには「莫談国事」と注意されながらも、「ここに二つの椅子がある。真ん中はあり得ない。片方に座るよう迫られているけれど、座りたくない場合、どうしたらいいのだろう?」と解答困難な問いを投げかける。水上勉「こおろぎの壷」。老舎が来日したとき図らずも自宅に訪問を受け、何を話したらいいのか分からなかった水上は、むかし知人から見せてもらったこおろぎを入れておく木製の壷のことを話題にした。この壷にはこおろぎを二匹入れる。水上は夫婦つがいで入れるものと期待していたが、老舎の答えは「いえ、これはこおろぎを闘わせて楽しむものです」。いずれも暗喩的である。

 井上靖「壷」。やはり老舎が来日した折の歓迎の宴席で、老舎がこんな話をした。むかし、ある人の持っている素晴らしい壷を金持ちが狙っていた。所有者が死んだのでようやく手に入ると思ったところ、その人は死ぬときに壷を砕いてしまっていた。老舎は笑い話のつもりだったが、列席していた広津和郎が「名器は公のものであって、死んだら他人のものになってもいいじゃないか」とムキになって反駁。自分のものだという執着は醜いと広津は受け止めたようだ。老舎死すとの報を受けた井上はこの時のことを回想しながら、老舎が壷を抱えてビルから飛び降りる姿を思い浮かべる。老舎死亡の真相が分からなかった当初、飛び降り自殺したという噂が伝わっていた。自分にとって命より大切なもの、通すべき筋に殉じたのではないか、という捉え方である。

 有吉佐和子『有吉佐和子の中国レポート』(新潮社、1979年)は、文革の混乱がようやく終わり、まだ余燼がくすぶる中でも失脚した人々が名誉回復されつつある時期の中国訪問記である。有吉は老舎夫人・胡絜青とも面会している。公式には老舎は自殺したと発表されており、巴金をはじめとした文人たちもそうした前提で老舎のことを語っていたが、胡絜青たち家族は彼が決して自殺するはずはないと涙ながらに語っていたことを有吉は記している。

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2010年4月28日 (水)

酒井充子『台湾人生』

酒井充子『台湾人生』(文藝春秋、2010年)

 本書のもとになった映画「台湾人生」は去年、ポレポレ東中野で観た(→こちらで取り上げた)。日本語世代の台湾人にインタビューしたドキュメンタリーである。最近、NHKの某番組が編集方針をめぐって無用の混乱を引き起こしたこともあったが、こちらの方はとにかく淡々と話を聞く構成なので安心して観られた。

 「祖国」=日本のために命をかけるつもりだった、という話には、戦後世代である私はやはり戸惑いを覚えてしまう。しかし、中華民国籍に入ってからは、日本のために戦ったことは敵対行為であったとみなされてしまい、逆に日本政府は、すでに中華民国籍に入ったのだから関係ないという態度を取った。両国政府から棄てられてしまったようなものである。日本政府からせめてねぎらいの言葉でもいいから欲しかった、と言う。彼らは日本への親しみを語ってくれるだけに、いっそう、こうした形での戦争責任が果されてこなかったことには本当に申し訳ない気持ちになる。

 本書(もしくは映画)が、単に彼らの日本に対するノスタルジーに終わらせてしまうのではなく、原住民や客家など台湾内マイノリティーの存在も大きくクローズアップしているところに興味を持った。戦後、中華民国軍に入ったパイワン族のタリグ・プジャスヤンさんは(白団の軍事教練を受けたらしい)、日本のためとか、中華民国のためとかいう以前に、原住民の地位向上のためという意識を強く持っていたようだ。客家人の楊足妹さんは、母語としての客家語以外にも台湾語、北京語、日本語を操る。

 日本では台湾通を除いて意外と認識されていないが、台湾は多民族・多言語社会である。公定言語として外から押しつけられたかつての日本語、現在の北京語とも、この多言語性の中に位置付けられる。幼少時から日常的に使い慣れた言語的習慣はほとんど身体感覚の一部ともなり、その人のアイデンティティー形成に決定的な影響を及ぼす。1945年を境に公定言語が日本語から北京語へと切り換えられたとき、その転換に皮膚感覚レベルでついていけず、やるせない心情を表現できなくなった宙吊り状態。さらに、二・二八事件をはじめとする国民党の恐怖政治によって強いられた沈黙は、この心情的宙吊り状態を40年以上にもわたって継続させられた。思いのたけを語ることができるようになったのは、ようやく李登輝政権による民主化以降のことである。映画出演者はすでに相当のご高齢で、中にはすでに亡くなられた方もおられる。戦後歴史教育の違いで子供や孫の世代とのギャップを感じてもいるようだ。

 日本語世代の台湾人に焦点を合せた研究として、周婉窈《海行兮的年代──日本殖民統治末期臺灣史論集》(允晨文化出版、2003年。日本語なら『「海ゆかば」の時代』)を以前に読んだことがある(→こちらで取り上げた)。この本では彼らを「ロスト・ジェネレーション」と呼ぶ。彼らが生きざるを得なかった時代経験というのは一つの厳粛な歴史的事実であって、それについて後世の価値判断から良い悪いと決め付けるのはおこがましいことであり、ある意味残酷なことですらある。そうした後知恵ではなく、虚心坦懐に彼らの心情に迫ろうと努力する姿勢に説得力があってとても良い本だった。日本語訳をどこかの出版社で出して欲しいものである。

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2010年4月27日 (火)

中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』

中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』(福武文庫、1986年)

 現地採用の新聞記者となった主人公が目撃した、日本軍占領下、いわゆる淪陥時期における北京の光景。『北京飯店旧館にて』『北京の貝殻』が回想録的、私小説的な形を取るのに対し、『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は著者自身の実体験をにじませつつ、謀略サスペンス的なフィクションを絡ませた小説に仕立て上げられている。

 左翼くずれに大陸浪人。抗日意識を胸に秘めた中国の知識青年や、大東亜共栄圏のスローガンを叫ぶ中国人。日本軍の謀略に利用された東トルキスタン独立運動のウイグル人マームード・ムヒイテ将軍。魯迅夫人・許広平がひそかに北京へ戻っているという噂。消えた北京原人の標本の行方。大東亜文学者会議への出席をやんわりと拒絶した周作人(その説得のため文学報国会から派遣された九重由夫こと久米正雄や葉柴勇こと林房雄たちの鼻息の荒さが北京で顰蹙をかっていたことは別の本でも読んだ)。京城日日新聞特派員として北京へ来ていた白哲(=白鉄、本名は白世哲)や金史良は朝鮮人の思いを語る。多彩な人物群像がうごめくスケールの大きさは圧巻で、読みながらグイグイとこの世界へと引き込まれていった。

 占領者たる日本人と被占領者たる中国人。生身の人間同士として付き合った点では友情もあり得た一方で、必ずしも全面的な信頼までは置けないわだかまり。この微妙な関係は、抗日/親日といった単純なロジックで裁断できるものではなく、第三の道はあり得ないのか、そうした模索へと主人公を駆り立てていく。それは、他ならぬ著者自身の青春期から一貫したテーマであったと言える。

 タイプは異なるが、占領者としての日本人の負い目意識をテーマにしている点で、日本植民地支配下のソウル文壇を舞台とした田中英光『酔いどれ船』も思い浮かべた。やはり大東亜文学者会議の準備に駆り出された青年文士(=田中自身)が目撃した、抗日と体制順応、陰謀と狂騒の混濁したファルスを、実在の人物をカリカチュアライズしながら描き出していた。田中が太宰治に私淑していたという感性が理由かどうかは何とも言えないが、『酔いどれ船』では主人公の内面的にウジウジしたところを暴露的に描く形で彼自身の青春の暗さが表現されていたという印象があった。これに対して『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は、政治意識の強さを明確に打ち出したことで青春期特有の一種ロマン的な清冽さが印象付けられる。

 『夜よ シンバルをうち鳴らせ』というタイトルはロルカの詩によるらしい。作中にはランボーの詩を使ったセリフもあった。そう言えば、ランボーには「酔いどれ船」という詩もあった。

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2010年4月25日 (日)

吉澤誠一郎『天津の近代──清末都市における政治文化と社会統合』

吉澤誠一郎『天津の近代──清末都市における政治文化と社会統合』(名古屋大学出版会、2002年)

・「近代世界システム」への包摂=近代化という視点ではなく、中国における伝統の連続性を強調して西洋中心主義から脱しようという志向でもなく→理念化された「西洋近代」を世界標準とみなしつつ、相互作用的に「類似する趨勢」に向かったという意味で「近代性」を捉える。こうした視点によるケース・スタディとして天津という都市における具体的な歴史に注目する。
・団練の結成、天津教案(反キリスト教暴動等)への火会(消防団)の関わり、善堂(社会福祉・慈善施設)、巡警組織、反アメリカ運動、市内交通をめぐる混乱、軍事的危機意識による「尚武」の理念→体育社、などのトピックが検討される。
・①政治参加と公共性(自治組織やジャーナリズムの成立)、②社会管理の進展(社会統制の手段としての団練の編成において排外的心情が動員された→開港場では危険→義和団事件後は巡警組織の導入)、③国家意識の深化と帰属意識(1905年の反アメリカ運動→「中国人」としての団結意識→出身地をこえた都市社会の共生という論理をとる側面もあった)、④啓蒙と民衆文化、などの問題意識が示される。

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郭沫若『歴史小品』

 郭沫若(平岡武夫訳)『歴史小品』(岩波文庫、1981年)を初めて読んだのは大学一年生のときだったか。あまり良い印象はなかった。思い立って久しぶりに再読してみたが、やっぱりつまらない。老子、荘子、孔子、孟子、始皇帝、項羽、司馬遷、賈誼のエピソードをもとにした短編八本。文章としては読みやすいが、偶像破壊的な筆法がわざとらしくて嫌味に感じられる。これらの作品が書かれた1920~30年代において、伝統拘束的な思想傾向に対して啓蒙しなければならない、そうした政治的手段としての文学という問題意識があったであろうことは理解する。ただし、当時の時代思潮を知る資料としてならばともかく、現代の人間が読んで何か感じ入るような深みがあるわけではない。

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「カケラ」

「カケラ」

 大学の授業が休講となってカフェで時間をつぶしていたハル(満島ひかり)は、突然、見知らぬ女性から声をかけられた。「あなただって街で素敵だなあって思う人とすれ違うことがあるでしょ。私は後悔したくないの。私は声をかけた。そして出会いに変えた」──はっきりした物言いのリコ(中村映里子)にハルは戸惑いながらも興味がひかれる。彼氏とのズルズル、ダラダラの関係に嫌気がさしていたハルはリコと連絡をとった。「友達」ではなく「恋人」同士となった二人。しかしハルは、リコの直截に過ぎる愛情表現に鬱陶しい押し付けがましさも感じ始める。

 レズの話、と言ってしまったら身も蓋もないが、そういう際どいどぎつさは全くない。都電沿線の下町、居酒屋に八百屋、リコの実家であるクリーニング屋、ハルの暮らすアパートの畳敷きの部屋。こういった舞台設定は、ストーリーにやわらかな温もりを添えてくれる。このチョイスは重要だ。もしオシャレでモダンな都市生活だったら、「同性愛のどこが悪い!」と言わんばかりにツンツンしたフェミニズム映画にもなりかねない(それこそクィア理論とか駆使して分析されそうな)。

 この映画の場合、同性愛というはあくまでもネタで、むしろそれを一つのきっかけとして出会った性格の全く異なる二人の女の子が自分に欠けているものをそれぞれ自覚していく、そうした感情的機微をうまく描き出しているところにこの映画の面白さがあるように思った。ストーリーの大枠は原作と共通しているにしても、換骨奪胎されて雰囲気はだいぶ違っている。ハルのどんくさいかわいらしさ、リコのエキセントリックな生真面目さ、対照的な性格を満島ひかりと中村映里子はよく演じている。二人のぎこちなくも感じられる掛け合いのわざとらしくない素直さが良い。セリフとしては表現しづらいモヤモヤした感じが浮かび上がってくる。

【データ】
監督・脚本:安藤モモ子
原作:桜沢エリカ「ラブ・ヴァイブス」(『シーツの隙間/ラブ・ヴァイブス』祥伝社コミック文庫)
出演:満島ひかり、中村映里子、かたせ梨乃、永岡佑、津川雅彦、光石研、根岸季衣、志茂田景樹、他
2009年/107分
(2010年4月24日、渋谷・ユーロスペースにて)

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「クロッシング」

「クロッシング」

 ヨンスはかつて花形のサッカー選手だったが、いまは炭鉱で働いている。結核で倒れた妻のために治療薬が必要となったが、頼みの綱としていた中国との密貿易に従事している友人はスパイ容疑で逮捕されてしまい、結局、ヨンス自身が豆満江を渡った。中国では公安に追われ、せっかく稼いだ金も失ってどうにもならない中、金をくれるという話で脱北者支援組織にすがりついたのだが、成り行きで韓国へ行く羽目になってしまう。残された妻は死に、息子のジュニは一人さまよい、裏切り者の子供として強制収容所に送られる──。

 脱北者の苦境がドラマ仕立てで描かれている。実際の脱北者から協力も得ているとのことで、考証はしっかりなされているのだろう。ヨンスが目にしたソウルの繁栄ぶり、続いて映し出されるジュニがいる強制収容所内の光景、この落差は同時代のものとは思えない。ヨンスは妻の結核治療薬入手のため国を出たわけだが、ソウルで薬局に行くと、それなら保健所で無料で支給されると聞き、愕然とする。

 政治体制というのは人々の生活を保障する根元的なインフラである。そのインフラは、ものの考え方や行動様式、すなわち「思想」の集積であり、いびつな統制がこれほどまでにギャップを大きくしてしまった。ヨンスが国境の外から家族のことをいくら想っても、見えない壁はすべてをシャットアウトしてしまう。ヨンス一人が結果として生きのびた背後に横たわる何人もの惨めな死、その重みの一切を彼は背負って生きねばならない。ソウルで「自分ひとり助かりたいから脱北したんだろう」と陰口をたたかれるシーンがあるが、実際にそういう目で見ている人がいるのだろうか。この映画ではあからさまな体制批判のメッセージは抑えられており、実際にあったであろう出来事がより合わされて再構築されたストーリーを通して、「首領様」を上にいただく政治体制のブルータルな非人道性を浮かび上がらせていく。

 百歩譲って、国が違っても、イデオロギーが違っても構わない。それでも、映画の最後に映し出されるような、北朝鮮でもあり得たはずの牧歌的なむつみあいすらももはや見ることはできない哀しさ。終盤、ジュニがさまようモンゴルの砂漠、雄大に広がる空、この広い世界の中にあってもどうにもならない孤絶感がいっそう際立ち、そうした心情を重ね合わせると、残酷な美しさに胸がしめつけられてしまう。

【データ】
監督:キム・テギュン
2008年/107分/韓国
(2010年4月24日、渋谷・ユーロスペースにて)

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「掌の小説」

「掌の小説」

 川端康成が二十代の頃に書いたショート・ショートを集めた『掌の小説』(新潮文庫)、ここから選び取った作品を四人の若手監督が内容をふくらませながら映像化したオムニバス形式の連作映画である。第一話「笑わぬ男」(岸本司監督)、第二話「有難う」(三宅伸行監督)、第三話「日本人アンナ」(坪川拓史監督)、第四話「不死」(高橋雄哉監督)。舞台背景として大正期におけるモダンにもなりきれず泥臭さの残った風景を再現、その中で展開されるストーリーは特に不可思議なことが起こるわけでもないのに、全編を通して幻想性が漂う美しい映像構成で、どの作品も興味深く観た。地味だけど、なかなか良い。

 私がとりわけ印象的だったのは、第三話の楽団やチンドン屋が入り混じる中でロシア人少女が歌うシーン、それから第四話の少女(香椎由宇)と老人(奥村公延)が手をつないで歩み去るシーンにかぶさるもの悲しいメロディー。この飄々とのびやかに響くメロディーでそのままエンドクレジットへと流れ込み、良い感じに余韻にひたれると思っていたら、変なポップス調の歌が始まってぶち壊しなのが非常に残念。

 私が観に行ったのはちょうど最終日、上映後に監督3人によるトークがあった。第四話の高橋監督が奥村公延への思い入れを語っているのが印象的だった。奥村さんが昨年亡くなられていたのは知らなかった。脇役として頻繁に出演していたので、名前は知らなくても顔は意外と覚えられているのではないか。例えば笹野高史のようないぶし銀的バイプレーヤーという印象があって、最近、笹野さんは注目されているのに対し、奥村さんの存在感は一般にそれほど認知されていないように思う。いずれにしても、残念である。

【データ】
2010年/80分
(2010年4月23日レイトショー、渋谷・ユーロスペースにて)

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2010年4月24日 (土)

奥野信太郎『随筆北京』

奥野信太郎『随筆北京』(平凡社・東洋文庫、1990年)

 奥野は昭和11~13年まで外務省派遣の特別研究員として北京に滞在、その折の見聞から触発されるようにつづられた随筆集。街に行き交う人々の光景、小吃の風味、芝居のこと、そういった諸々の話題も、いつの間にか古典から現代文学まで幅広く引きながら一種風格のある文章にまとめ上げてしまうのは、やはり奥野の筆さばきのたくみさである。物売りの呼び声は東京ではもう聞けなくなったな、と言いつつ北京の呼び声を記して、それがちょっとした詩のようであるのも面白い。丁玲について好き嫌いこもごも感想を記しているのは、当時にあっては現代文学を論じていることになるのか。この随筆が中国論としてどこまで通用するのか私には判断しかねるが、むしろ奥野の話芸を堪能するという読み方になるのだろう。

 折しも盧溝橋事件が勃発、東交民巷での避難生活の描写が興味深い。周作人、銭稲孫など北京残留知識人との会見記もある。冀東防共自治政府の殷汝耕とも会っており、彼の日本語はたくみで豊かだと論評しているが、逆に、上から目線のようにも思えて気になった。中国滞在中の中国専門家が中国側要人と中国語で会話したわけではなかったのか。奥野に特別な意図はなかったろうが、日本軍占領下の雰囲気が、逆説的にではあるがうかがわれる。

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2010年4月23日 (金)

周作人のこと

 周作人をめぐっては、漢奸か否かという議論がどうしても避けて通れないようである。ところが、以前に読んだ劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年→こちら)は彼の文学性が話題の中心であり、江戸文化的エスプリへの共感という点で周作人と永井荷風とに共通した感性を見出す指摘がとても興味深かった一方で、対日協力の問題にはほとんど言及がなかった。読んだ当初はいぶかしく思ったが、中国におけるポリティカル・コレクトネスにひっかかると彼の内面的感性は形式的な鋳型に狭められてしまう、それを賢明に避けようとしたのかと今さらながら得心がいった次第である。

 木山英雄『周作人「対日協力」の顛末──補注『北京苦住庵記』ならびに後日編』(岩波書店、2004年)はこの問題に正面から向き合う。淪陥期、すなわち日本軍占領下の北京に残った周作人の動静が丹念にたどられる。彼は本来、政治から距離をおきたい文人気質の人間で、華北政務委員会で役職に就いたのも成り行きの中でという感じ、大東亜文学者会議には関わらないよう腐心しており(それどころか会議で片岡鉄兵は「老大家(=周作人)を打倒せよ」と呼号した)、積極的に対日協力したようには見えない。そもそも彼の動機については諸説とびかってよく分からないところが多く、そうした分からなさや矛盾もひっくるめて、考え考え進められる本書の筆致からは勉強させてもらった。当時の北京における人物群像も描かれる。日本国籍であることを利用して中国大陸にやって来た台湾出身者も少なからずいたが、周作人の身辺にも張深切の名前が出てくることをメモしておく。

 木山書で引用される、共に喜ぶ(共甘)よりも共苦の方が真実かもしれない、という趣旨の一文が目を引いた。圧倒的な西洋文明を前にして、中国も日本もどうにもならない困難を感じ取っている、その共通体験に周作人は「東洋人の悲哀」を見出した。

 『周作人随筆』(松枝茂夫訳、冨山房百科文庫、1996年)、『日本談義集』(木山英雄編訳、平凡社・東洋文庫、2002年)の2冊を読んだが(→こちら)、思想的透明感(こうした感覚をどうしても老荘思想と結ぶつけたくなるのが私の癖だが、周作人はそこまで言っていない)が自然とにじみ出てくる洗練された文人というのが私の周作人に対する印象である。

 さらに言うと、政治や人間関係がゴタゴタした渦中にあっても、そこから離れたところから自身を取り巻くあり様を俯瞰できる視点を持っていた人なのかな、そんな印象を持っている。トラブルに巻き込まれて、もちろん生きていくためにもがきもするだろうが、一方でそうした一切を冷静に見切ってしまっているというか。政治的に生硬なロジックが激しく鍔迫り合いを繰り広げる中で、彼はされるがままに翻弄されているという感じ。「弁解しない」というのが彼の処世態度であったが、それはいわゆる「潔さ」というのとはちょっと違って、弁解してもしなくても結果は変わるまい、どうでもいいし、大した問題でもない、そんな感じの一種の諦念のようにも思えてくる。

 魯迅(周樹人)や周作人たち周一家の家族的不和はよく知られているが、いさかいがあっても周作人は悠然と机に向かって書き物をしていたと魯迅は記しているらしい。許広平や弟の周建人は家族を北京に残して抗日戦に身を投じたわけだが、その彼らが残した家族も養わなければならなかったというのが周作人が北京に残った理由の一つである(許広平は後に周作人を漢奸として厳しく弾劾したが、そこには家族的不和が投影されている節もある)。例えば、同様に郭沫若も家族を日本に残して抗日戦に身を投じたことが美徳として称讃されたが、周作人は彼らのような政治最優先の生活態度とは明らかに対照的である。

 戦後、周作人は漢奸として有罪判決を受けて服役したが、獄中でも泰然と詩作する生活態度が尊敬されたようだ。間もなく釈放され、中華人民共和国成立後は北京・八道湾の自宅に戻り、日本やギリシアの古典翻訳を生業とした(ただし、本名での発表は許されなかったらしい)。文化大革命で自宅が荒らされ、屈辱と失意の中、1967年に82歳で世を去る。

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2010年4月20日 (火)

『周作人随筆』『日本談義集』

 『周作人随筆』(松枝茂夫訳、冨山房百科文庫、1996年)を読んだ。情景的雑感のつづられた文人気質の趣味的短文が集められている。素直に読みやすい、と言っても感想らしい感想になっていないじゃないかと叱られそうなのでもう少し言葉を補うと、近代中国で名のある人物の文章を読んでも、ジャンルや表現の問題という以前に、感性的に何か「硬い」という印象が強くて、なかなか感情移入できない戸惑いがいつもあった。周作人の随筆に見られる、中国、日本、ヨーロッパ、古今東西の典籍を踏まえた博引傍証は一見ペダンチックにも見える。しかし彼は、興を感じたなら素直に面白いと言い、不自然に格好つけた形式へと筆先を落とし込むようなことはしない。その筆先にこちらものっていくと、彼の感じた興趣がさもありなんと得心されてくる。そういう意味で素直に読めるということである。彼も多感な青春期には中国革命を夢見ていたわけで、政治意識がその後も完全消滅したわけではなかろうが、円熟した筆さばきはそうした無粋な「硬さ」を韜晦の中へと紛れ込ませてしまう。

 何よりも私は、ある種の達観めいた感性に共感を覚える。例えば、「風を捕える」という一文が好きだ。旧約聖書の『伝道の書』を引き、パスカルの『パンセ』を引き、「空はあるがままに空であらしめ、空なりと知りつつも、しかもまたひたすらこれを追跡し、見極めようとするならば、それははなはだ有意義なことであって、実際偉大なるかな風を捕うること、と言われるにふさわしい。」こういう感性を私は『荘子』を通して感じているのだが、いずれにしてもこのあたりの勘所が分かっている人の文章というのが私にはとてもしっくりと馴染む。

 周作人は日本文学に造詣が深く、『日本談義集』(木山英雄編訳、平凡社・東洋文庫、2002年)には知日派としての知見を披露した文章が集められている(上掲『周作人随筆』との重複もある)。目を引くのは、他国文化を見るとき、政治の次元と文化芸術の次元とは分けて考えねばならないという指摘だ。時あたかも日本軍が中国大陸へと侵略しつつある時期であった。周作人も日本軍の乱暴には憤りを隠さない。他方で、日本の政治レベルでの醜悪さだけを見て、文化レベルの繊細な美しさまで一括りに断罪してしまうのもおかしいとたしなめる。人生すべからく矛盾が混在しているもので、そこに性急に断案をつけることはできない。しかしながら、親日か抗日かと二者択一を迫られる中で第三の立場の余地はなく、結局、彼は日本に利用され、戦後は“漢奸”として断罪されることになる。

 私が周作人の名前を初めて意識したのは、学生の頃、図書館で益井康一『漢奸裁判史』(みすず書房、1977年)を読み、そこに彼の名前があるのを目にしたときだ。魯迅の弟ということは知っていたので、そのギャップが記憶に残った。その後、劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年)を読み(→こちらで取り上げた)、江戸文化的エスプリへの共感という点で周作人と永井荷風に共通したものを見出す指摘にいたく興味がそそられた。荷風については、その放蕩生活からほのめかされた自我の徹底、脱俗性=非政治性そのものが、当時における軍国主義的時代風潮に対する最もラディカルな異議申し立てであったと指摘されることがある。周作人は、彼自身の意向とはかかわりなく政治に巻き込まれてしまったところに一つの悲劇があったと言えるだろうか。

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2010年4月18日 (日)

李暁東『近代中国の立憲構想──厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』

李暁東『近代中国の立憲構想──厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』(法政大学出版局、2005年)

・国家統一・独立維持に肝要な立憲政治確立のため西洋・日本から近代思想を受容、同時に伝統思想としての儒教をどのように位置付けるか? こうした問題意識に向き合った思想家として厳復、楊度、梁啓超の三人に焦点を合わせ、彼らの構想を加藤弘之、福沢諭吉など明治期日本の啓蒙思想家たちと比較考察。西洋近代を基準とする「民度」ではなく、現実の社会状態としての「民情」という視点。伝統に立脚した上で西洋近代思想を受容、ウェスタン・インパクトはこの伝統をむしろ活性化=再解釈させる触媒として作用したと捉える。儒教の否定ではなく、相対化。
・厳復:法と道徳の分離は中国では成り立たないという問題意識。専制を抑えるため法治主義の導入、同時にそれを「民情」と合わせるため儒教伝統的な民本思想と結び付ける。礼治システムの中で民衆の法意識向上を目指す。
・楊度:ビスマルク的「鉄血主義」ではなく「金鉄主義」(富強のため自由のある人民、強国=対外的には責任のある政府が必要)は、西洋近代思想に触発されながら、伝統的な民本思想を磨き上げた。「仁」の担い手を為政者だけでなく人民すべてに拡大。「国会速開」論→まず国会を開いて、試行錯誤のプロセスそのもので人民を鍛えていく。全国民平等の必要→「満漢平等、蒙回(蔵)同化」→国家統一のため蒙回蔵をつなぎとめておくため清朝皇帝が必要→「虚君」論。
・梁啓超:「自己のもの」=伝統と西洋の「新理新学」とのぶつかり合いの中から普遍的なもの=真理を見出そうとした→「附会」論から質的に変化した上で中国伝統思想の中に可能性を探ろうと努力。
・加藤弘之は「民情」と「民度」を同一視→開化不全→君主専治=啓蒙専制という考え方。梁啓超には社会進化論へ転向した後の加藤弘之からの影響あり。ただし、加藤が「強者の権利」を以て天賦人権説から訣別したのに対し、梁啓超には両方が共存。「闘争のモチーフ」→自ら権利を勝ち取るものとしての「新民」の創出。
・福沢諭吉は独立の手段として西洋文明の摂取が唯一の方法とみなす→厳復や梁啓超らは伝統と西洋との結合の可能性を見出そうと努力した点で異なる。福沢が「私利」に基づく「公」として西洋近代の発想を理解したのに対し、厳復・梁啓超らは団体の利益優先、個人の利益制限という発想。
・「附会」の有無が日中の大きな相違点として挙げられる→日本は西洋思想をより正確に理解したのに対し、中国は儒教の重みから抜け出せず、むしろ伝統思想の活性化・再解釈という方向を取らざるを得なかった。
・袁世凱の帝政→楊度は帝政実行のため籌安会を組織 厳復は袁世凱個人の資質に疑問をつけていたが消極的に容認、梁啓超は袁世凱の帝政に反対して護国戦争の先頭に立った。ただし、梁啓超は一時期袁世凱政権を支持していたことがあり、帝政そのものにも必ずしも反対だったわけでもない(帝政が望ましいが、現状において共和制が成立しているのだから安易な国体変更は混乱のもと→既存事実を踏まえて構想するのが梁啓超の特徴。また、袁世凱即位の正当性に疑問という判断)。それぞれニュアンスが異なるとはいえ清末啓蒙思想家たちが基本的に帝政支持だったのはなぜか?→法や国会の枠組みに基づく立憲帝政ならば情勢安定化のために必要という考え方。

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2010年4月16日 (金)

陳立新『梁啓超とジャーナリズム』

・梁啓超の議論は一貫性がなかったとよく言われるし、彼の『清代学術概論──中国のルネッサンス』(小野和子訳注、平凡社・東洋文庫、1974年)でも自らそれが欠点だと記している。ただし、『清代学術概論』では、彼の師匠にあたる康有為がせっかく孔子改制論を通して多元的議論の可能性を開いたにもかかわらず自分の断案に独善的に固執してしまったことを批判、それと対照させる形で梁自身の一貫性のなさを並べる構図となっている。極端はダメよ、というニュアンスで多様な立場を相対化させるため自分を敢えて戯画化したのではないかと私は解釈したのだが、深読みにすぎるか。

・明治期日本でもそうだが、近代初期の言論活動においては国民への啓蒙という問題意識が明確に打ち出されていた。陳立新『梁啓超とジャーナリズム』(芙蓉書房出版、2009年)は言論誌での活動を主軸として梁啓超の生涯と議論の変遷をあとづける。
・私は梁啓超のことを詳しく知らないので本書からは興味深く勉強させてもらったのだが、本のつくりとして読みづらいのは残念。博士論文ということで、出版義務があるから出した本なのかもしれないが、せめて日本語のチェックくらいしっかりやってあげても良かったのではないか。後半はまだしも、前半は赤字で添削したくなって腕がウズウズして、内容に集中できなかった。
・上海イギリス租界で『時務報』(1896~1898年)の主筆。
・1898年、戊戌の政変で日本へ亡命。横浜で『清議報』(横浜居留地139番。1898年12月23日~1901年12月21日停刊。社屋が火災で焼失したため)、『新民叢報』(横浜山下町152番、後に160番。1902年2月8日~1907年11月20日。保皇会の大同訳書局から資金援助)を創刊。学術思想に着目。国民国家の理念を主張。日本をはじめ外国の新聞記事の転載も多い。また、『新小説』に政治小説を執筆(ドイツ的国権派とフランス的立憲民主派とが議論する作品もあったらしいが、中江兆民『三酔人経綸問答』の豪傑君と洋学紳士を思い浮かべた。その作品を読んでないので何とも言えないが)。
・『民報』(主筆の章炳麟は排満の種族革命を鼓吹)との論争。革命派に対抗して1907年10月17日、神田錦輝館で政聞社を設立。
・『国風報』(上海、1910年2月20日から)。京都の島津製作所がスポンサーになっていたらしい。1911年3~4月まで林献堂の招きで台湾へ行き、その紀行文を『国風報』に連載。
・いわゆる「革命史観」の中では清朝の予備立憲は評価されない。しかし、梁啓超は民主共和への橋渡しとしての「開明専制論」を主張、これを清朝が採用した。リアルな政治的配慮が彼のジャーナリズムの特質として評価される。「開明専制論」を支持する立憲派は非暴力的に国会請願運動を展開。これは暴力路線も含まれる革命派とは異なる。辛亥革命勃発時には清朝の予備立憲段階として設立されていた地方諮議局(地方議会)の有力者(日本留学経験者も多く、政聞社のメンバーとも重なる)が動いた。辛亥革命後、梁は「虚君共和論」を主張。なお、本書では触れられていないが、日本植民地下の台湾で台湾議会設置請願運動を指導した林献堂はかつてこの方針を梁啓超から示唆されていた→以前に周婉窈《日據時代的臺灣議會設置請願運動》(自立報系文化出版部、1989年)を読んでこちらで取り上げた。
・1912年10月、約14年間にわたった亡命生活を終えて中国へ戻る。12月1日、天津日本租界旭街17号で『庸言』(奇妙なことは言わないという趣旨。英語名はThe Justice)を創刊(~1914年6月5日)。
・1913年9月、熊希齢内閣が成立して梁啓超は司法部長として入閣。
・1915年1月25日、『大中華』(~1916年12月20日)を創刊、政界離脱を宣言。感情論を克服するため学問に専念したい。日本の対華21か条要求に際しては対日批判。袁世凱の帝政に反対して護国戦争。
・その後、上海の『東方雑誌』(商務印書館)、『学灯』、北京の『晨鍾報』などに拠って論陣を張る。復辟論をめぐって師匠だった康有為と対立。
・1918年12月から欧州歴訪。1919年9月から上海で『解放与改造』(後に『改造』)。偏狭な愛国主義には賛同しないと明言。1920年、ベルグソン、ラッセル、ドリーシュ(ドイツの哲学者)、タゴールなどと会う。
・理智に関わることなら科学で解決するが、情感に関わることは科学では解決できない→唯物論派と論争。

・梁啓超を明治啓蒙思想、とりわけ福沢諭吉と思想史的に比較してみたら面白そうだという印象を持っている。例えば、議論の対象とした分野の多面性、ジャーナリスティックな政論でも学術的根拠を踏まえた議論を心がける態度、国民国家形成という問題意識、奥行きのある議論を平明な文章で表現したこと、などなど。あくまでも印象に過ぎないが。

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2010年4月15日 (木)

小野川秀美『清末政治思想研究』

小野川秀美『清末政治思想研究』(1・2、平凡社・東洋文庫、2009~2010年)

・1969年刊行のみすず書房版には、洋務運動、変法論(康有為、譚嗣同、戊戌変法)、義和団時期における革命論、厳復や梁啓超における進化論の影響、章炳麟の排満・漢族ナショナリズム、劉師培の無政府主義などをテーマとした論文があり、今回、東洋文庫の増訂版ではさらに孫文や中国革命同盟会の機関誌『民報』に関する解説が採録されている。それぞれ別個のテーマによる論文だが、アヘン戦争の衝撃から辛亥革命に至るまでの思想的反応を描いた通史として一貫した流れができている。洋務→変法→革命という見取り図は、近代化論的バイアスとしてその後批判にもさらされたようだが、少なくとも近代中国政治思想史研究のたたき台としての役割を本書が果たしたことは確かだろう。
・個人的な関心からメモ。梁啓超の「新民説」:彼は康有為の大同説から徐々に進化論へと軸足を移した。進化生存競争の理により、民族存続のため時勢に適応する必要という問題意識→そのために「国民」全体の変化が必要だとして、民主主義、公徳、国家意識などを強調→かつて洋務派が「技術」の変革を、変法派が「制度」の変革を模索したのに続き、この段階における梁啓超は「国民」の変革、つまり国民国家の形成を主張したと言えるようだ。彼は「自由」の先駆的主張者でもあったが、やがて自由平等の論が野放図に流行するのを目の当たりにして「開明専制」論を主張するようになる。
・康有為は「華夷の別」を文化的問題と把握→民族の問題は出てこない。対して、章炳麟は華夷思想の根底に排満意識としての民族主義を強烈に打ち出す。
・立憲か革命か? 当初、章炳麟は種族(漢族)の光復を第一に主張、それは政体の変更とは関係ない。ところが、鄒容『革命軍』などが現われる時代風潮の中、政体の変革=革命→共和政体の主張も加味するようになる。
・劉師培は張継を通して無政府主義に傾倒。張継は北一輝の紹介で幸徳秋水に敬服。また、章炳麟も北や幸徳たちと接点あり。中期『民報』での章の主張には排満と同時に虚無の主張も散見される。

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2010年4月12日 (月)

「ある子供」

「ある子供」

 かっぱらいでその日暮しをしているブリュノ。恋人のソニアが出産したが、あまり興味はない様子。赤ん坊を抱いて嬉々としているソニア、しかしブリュノはあろうことかその子を売り飛ばしてしまう。ソニアの激しい拒絶にあって何とか取り戻したものの、彼の中途半端にやくざな生活は変わらない。

 細かい額の金勘定のシーンがやたらと目立つ。金がなくて、希望の見えない刹那的な気分の中でのブリュノの無思慮。彼の表情に屈託がないだけ余計に痛々しい。タイトルを見ると、子供ができたにもかかわらず、大人になりきれない無鉄砲な青春という意味合いのようにも受け止められるが、むしろ社会格差的な背景を想定する方が彼の行動は納得しやすいような印象を受けた。

【データ】
原題:L'Enfant
監督・脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
2005年/ベルギー・フランス/95分
(DVDにて)

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「休暇」

「休暇」

 刑務官の平井(小林薫)は子連れの女性(大塚寧々)と再婚したばかり。ところが、新しい家族三人で温泉旅行に出かけたのにずっと上の空。その休暇は、絞首刑執行の介助役を務めた代償として与えられたものだった。彼の脳裡では死刑囚・金田(西島秀俊)のことが思い返されている。

 この映画では死刑執行に至るまでの一連のプロセスがたどられる。公的には死刑囚であっても、日常身近に接する刑務官にとっては一対一の生身の人間である。死にゆくことが定められた死刑囚と向き合うことは非常にセンシティブであり、しかも執行に立ち会うことのストレスは尋常なものではない。

 原作は吉村昭の短編(『蛍』[中公文庫]所収)。吉村の現代小説には受刑者や出所者など社会的に負の烙印を押された人間の葛藤を描いたものが多いが、この作品は刑務官の方に焦点が合わされている。歴史小説での史料渉猟には定評のある吉村のことだから刑務官にもしっかり取材しており、映画製作者も考証はしているはずだから、ここで描かれている心情はリアルに近いものなのだろう。

 死刑執行の場面を描いたアメリカ映画として、ティム・ロビンスが監督、死刑囚をショーン・ペンが演じた「デッドマン・ウォーキング」(1995年)、シャロン・ストーン主演の「ラストダンス」(1996年)などを観た覚えがある。これらでは死刑執行に至るまでの当事者の明らかに激しい感情の高ぶりが印象に強い。対して、こちらの「休暇」の場合には厳粛にしめやかな空気が一貫しており、その中での抑えられた表情そのものから間接的に感情的高ぶりがうかがえてくる。文化の違いか、視点が異なるからか。

【データ】
監督:門井肇
出演:小林薫、西島秀俊、柏原収治、大杉漣、大塚寧々、他
2007年/115分
(DVDにて)

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2010年4月11日 (日)

「第9地区」

「第9地区」

 南アフリカ、ヨハネスバーク上空に異星からの宇宙船が停止、中から下りてきたエイリアンたちは難民として地上で暮らし始め、スラム化したその区域は「第9地区」と呼ばれた。難民キャンプ収容のための強制排除の委託を受けた多国籍軍需企業MNUは傭兵組織を動員して作戦を発動、このとき業務責任者のヴィカスは正体不明の液体を浴びて体に異変が生じ始めた。エイリアンへと変異し始めた彼は生体解剖される危険を察知、「第9地区」へと逃げ込み、そこで出会ったエイリアンと共に戦い始める。

 難民問題が投影されていると話題になっているので観に行った。南アフリカのスラムを舞台にストーリーは展開。SFアクションではあるが、途中、当事者や識者のコメントが挿入されてドキュメンタリー風の構成も取られる。難民問題に実際に関わっている人々にも出演してもらって、その感覚を込めた上でセリフを語らせているらしい。言語や生活習慣の異なる彼らの存在は確かに「未知との遭遇」ではある。

 異質者に対する偏見から誘発された暴力。この映画では難民問題ばかりでなく、バイオテクノロジーにおける生命倫理(国境外の発展途上国における臓器売買まで連想を走らせるのは行き過ぎか?)、軍事組織の独断専行、虚偽報道による世論操作など様々なテーマも織り込まれ、それらを一貫したストーリーにまとめ上げている点で完成度は高いと思う。

 暴力的排除の対象となった彼らはどのような怨恨を抱えてしまうのだろうか。エイリアンへと変異が始まって追われる身となるヴィカスに焦点を合わせることにより途中で異なる視点へと切り替えが行なわれ、観客は、もし自分が排除される側だったらどう思うか、そうしたイマジネーションが迫られる。ヴィカスの尽力で地球外へ脱出したエイリアンは、3年経ったらお前を助けに来ると約束した。映画中の識者のコメントにもあったが、彼らはどのような形で戻ってくるのか、ひょっとして戦争準備を整えて再来するのか──。異質者への排除がテロなど思わぬ形ではねかえってきてしまう現実世界の不安が重ねあわされていると言えるだろう。

【データ】
監督:ニール・ブロムカンプ
製作:ピーター・ジャクソン
2009年/南アフリカ・アメリカ・ニュージーランド/111分
(2010年4月11日、新宿ピカデリーにて)

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「ソラニン」

「ソラニン」

 同棲生活が営まれているアパートの一室、射し込む光量や空気感が自然で、まったりとした雰囲気が伝わってくる。会社に嫌気がさしてやめてしまった芽衣子(宮崎あおい)。バイト生活で不安定な日々、焦燥感に一区切りつけようとした種田(高良健吾)は学生の頃からのバンド仲間とつくった新曲のデモテープをレコード会社に送るが、芳しい反応はない。先行きの見えない漠然とした不安の中、二人の間では別れ話も持ち上がる。しかし、事故死した種田のギターを芽衣子は手に取り、ステージに立つ。

 夢を追うのか、「まっとうな大人」として気持ちに一区切りつけるのか、そういうありきたりと言えばありきたりな青春ストーリー。確かに青臭いが、そんなに嫌いでもない。一つには宮崎あおい目当てで観に行ったからでもあるが、私自身もこういう葛藤をいまだにひきずっているからかもしれない。宮崎あおいの歌が下手なのは、素人が急ごしらえでステージに立ったというもともとの設定からすればリアルではあるのだが、映画的には盛り上がりに欠ける。

【データ】
監督:三木孝浩
原作:浅野いにお
2010年/126分
(2010年4月10日、新宿ピカデリーにて)

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「東南角部屋二階の女」

「東南角部屋二階の女」

 季節は秋だろうか、木々の葉は落ち始め、日差しは淡く穏やか。その中にたたずむ年季の入ったアパートには憂愁を帯びた表情を感じさせる。

 野上(西島秀俊)は父親が残した借金返済のためアパートを壊して土地を売ろうかと思い悩んでいるが、名義人である祖父(高橋昌也)は黙ったまま肯んじる気配はない。野上が会社を辞めた日にたまたまの縁でこのアパートに転がり込んできた三崎(加瀬亮)と涼子(竹花梓)。祖父の世話をしてくれている藤子(香川京子)。藤子が近所で営む小料理屋の常連(塩見三省)。このアパートの来歴を知る人、知らない青年たち、みんながアパートの行く末を案じ始める。

 このアパートで暮らした人々の様々な思い出の積み重ね、そこへの思い入れは単に年寄りのノスタルジーというわけではない。新たに入ってきた青年たちも、この中で織り成されてきた悲喜こもごもの歴史に参与することになる。去って行く者にとっては、アパートの空間によって媒介された想いの堆積と関わりあった経験そのものが、自分を見つめなおし、出発の足がかりともなる。そのように、他人同士ではあっても、世代が異なっても共有される情感。それが映画全体を通じて静かに浮かび上がってきて、地味ではあるけれど私はとても良い映画だと思う。

 西島秀俊は贔屓の俳優で、時に見せる苛立ちも、彼の涼しげな表情の中に吸収されると、不機嫌さより繊細さの方が際立ってくる。加瀬亮は真面目に無神経ないまどき青年を好演。

【データ】
監督:池田千尋
脚本:大石三知子
2008年/104分
(DVDにて)

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「ザ・マジックアワー」

「ザ・マジックアワー」

 守加護なるレトロなギャング映画の舞台となりそうな港町。マフィアのボス(西田敏行)の愛人(深津絵里)を寝取ったとしてにらまれた備後(妻夫木聡)は、伝説の殺し屋デラ富樫を連れてきたら許してやると言われたが、どうやって探せばいいのか分からない。そこで一計を案じて、売れない俳優(佐藤浩市)を自主映画の撮影だとだまして引っ張り出した。事情を知らない彼は大胆な「演技」を見せる。

 三谷幸喜お得意の群像劇的なシチュエーションコメディー。「こんにゃく問答」的と言って適切かどうか分からないけれど、マフィアの世界、映画の世界、二つの世界はそれぞれ異なる論理を持つわけだが、ズレていそうでいて意外とズレずに不思議にかみ合っていく間合いの巧みさ。三谷幸喜はこのあたりの構成が実にうまくて文句なく面白い。

【データ】
監督・脚本:三谷幸喜
2008年/136分

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「純喫茶磯辺」

 この土日、気分が落ち込んでいて小難しい本は読んでも頭に入らず、映画観たり、どうでもいい本を眺めたりしていた。

「純喫茶磯辺」

 だらしない父親(宮迫博之)が遺産相続で金が転がり込んでますますだらしなくなったところ、一念発起してダサい喫茶店を始めた。それを見ながら心中複雑な娘(仲里依紗)。コメディーにしては笑えないし、ヒューマンドラマにしては思い入れが持てないし、中途半端でつまらない映画だった。麻生久美子ファンなのでチェックしただけ。

【データ】
監督:吉田恵輔
2008年/113分
(DVDにて)

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2010年4月 9日 (金)

梁啓超『清代学術概論──中国のルネッサンス』

梁啓超(小野和子・訳注)『清代学術概論──中国のルネッサンス』(平凡社・東洋文庫、1974年)

 清代の主だった学者たちが展開した議論を通史的に概観。後半では梁啓超の師匠であった康有為、同時代人の譚嗣同、章炳麟、そして梁啓超自身も俎上にのせられる。とりわけページの大半を占めるのが考証学である。例えば、戴震を取り上げて、①仮説を立てる→証拠を集めて検証→帰納的に定理を導き出すという科学的方法論が見られること、②従来の儒学に見られたようなドグマに寄りかかって空虚な論理に走る「理性哲学」ではなく、真意は何だったのかを探求する「情感哲学」であった点でヨーロッパにおける文藝復興期の思潮と本質的に酷似していたと指摘する。師匠であった康有為については、孔子改制論は従来正統とされてきた経典を偽作だと断定→懐疑的批評の態度や比較研究の可能性をひらいたと評価。ただし、康有為自身が自らの断案に固執する傾向があったとして批判する。

 古人に仮託して自分の立論の正当化を図る中国伝来の思惟方法は、創造性を抑圧し、虚偽の混乱を招いてきたという問題意識が出発点にある。ただし、清代考証学には科学的思考の発想がすでに内在していたことを自覚化、それを受け継ぎながら今後の学問研究の発展を期するところに本書の眼目があった。

 過去の学者たちを単に批判するというのではない。色々な考え方があるわけで、そこに優劣をつけるのではなく、様々な議論を並列的に整理しながら、各学説のポイントを要約→問題点を指摘→自身の視点から根拠を挙げて批評するという手順を取る。かつて梁啓超自身が展開した議論のマイナス面も批判の例外とはしない(額面通りに受け止めるかどうかはともかく)。根拠に基づき手順に則った批判、比較の中での位置付け、こうした叙述方法を意図していること自体に、ドグマ的な抑圧から離れた言論・思想の多元的な自由、研究態度の自由が近代中国にとって肝要だという梁啓超自身の時代的問題意識がうかがわれる。

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2010年4月 8日 (木)

譚嗣同『仁学──清末の社会変革論』

譚嗣同(西順蔵・坂元ひろ子訳注)『仁学──清末の社会変革論』(岩波文庫、1989年)

 戊戌の政変で袁世凱に裏切られ、刑場の露と消えた譚嗣同の33年という短い生涯。自らの宿命に抗わず、従容として死についたという。そうした潔い悲劇性も相まってか、主著『仁学』はその後の中国革命の志士たちに強い影響を与えたと言われる。

 「網羅の衝決」、つまり人々のいのちにまとわりつく束縛を突き破って平等を求める革命を、個人の内面において動機付ける「仁」。それを支える科学としての「格致」=「学」。中国、西洋、様々な思想を取り込み、時に奔放な思い付きもめぐらしながら、伝統的儒学の枠を超えて展開した思索の記録。政治制度や産業政策などにも触れられる。

 自他の別を立てるこわばりを取り去り、存在一般としての一体感を回復することで世のあらゆる矛盾を我がこと同然と感じ取る共感=「仁」。この感覚を説明する便法として「以太」(エーテル)なる概念が使われる(似非科学的だが)。不生不滅、すべてが「我」なのに、その「我」を目先の事象へと狭く限定して捉えているところに人間の迷妄があると言う。思念に限界はなく、なすべきことに障碍はないという唯心論。なすべきという強い動機を抱いたなら、その時点が行動のチャンスだとされ、利害打算でことの成否を図るのとは発想の次元が異なる。革命のための死、こうした心性の具体的表現そのものが将来に向けた革命のタネとなる。

 存在論的認識では荘子や仏教の唯識に立脚。すべてを我がこととして共感するという発想では墨子の兼愛説と同様であり、イエスにも言及される。存在論的な一体感を行動のパッションへと昇華させている点では陽明学である。日本における幕末維新の志士たちへの共感も記されている。読みながら吉田松陰が想起された。

 譚嗣同の議論は雑駁だと章炳麟は批判していたらしい。しかし、戊戌変法から辛亥革命へとつながる中で、自らの死を捨石的に革命のタネとしていくという考え方では共通していたと高田淳『中国の近代と儒教──戊戌変法の思想』(精選復刻 紀伊國屋新書、1994年)では捉えられている。また、吉澤誠一郎『愛国主義の創成──ナショナリズムから近代中国をみる』(岩波書店、2003年)は、譚嗣同の死が政治的儀礼として顕彰されることで愛国主義の言説の中に組み込まれ、その後の政治的死を誘発していったと指摘している。

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梁啓超関連文献一覧メモ

 梁啓超について日本語で書かれた関連文献の一覧を現時点で分かる範囲内でメモ。検索は国会図書館ホームページのNDL-OPACを主に利用した。書評やシンポジウム報告、研究メモ的な短文等、修士論文レベルのものも含まれている。調べてみると随分たくさんあるので驚いた。
 以下に示したうち【単行本収録論文等】と【雑誌収録論文等】とを合せた刊行数を年代別にカウントしてみると、
・2000~2009年:100本
・1990~1999年:30本
・1980~1989年:9本
・1970~1979年:21本
・1960~1969年:12本
・1950~1959年:5本
となっている。1999年11月に狭間直樹編『共同研究梁啓超』(みすず書房)が出ているが、この前後から梁啓超関連の研究が急増している背景には彼に対する評価の転換があったのだろうか。1990年代後半から中国人によって日本語で執筆された梁啓超関連論文が目立つのも興味深い。梁啓超は日本との関わりがあり、かつ彼の多方面にわたる議論は、留学生にとって論文テーマと結び付けやすい題材なのか。

【翻訳】
・『新編 原典中国近代思想史』岩波書店、2010?
・「中国之武士道自叙」、宮崎市定『中国政治論集』中公クラシックス、2009.9(中公文庫、1990)
・『先秦政治思想史』(重澤俊郎訳)、大空社、1998.2(創元社、昭和16年刊行の複製)
・『李鴻章 : 清末政治家悲劇の生涯』(張美慧訳)久保書店、1987.12
・「君主政治より民主政治への推移の道理について」、西順蔵編『原典中国近代思想史・第2冊』岩波書店, 1977.4
・『清代学術概論:中国のルネッサンス』(小野和子訳注)、平凡社・東洋文庫、1974
・「譚嗣同伝」(小野和子訳)、「新中国未来記」(島田虔次訳)、「開明専制論(抄)」(藤田敬一訳)、西順蔵,島田虔次編『中国古典文学大系58巻 清末民国初政治評論集』平凡社, 1971
・「所謂大隈主義」(細野浩二訳註)『早稲田大学史記要』(通号 7) [1974.03.00]
・「小説と政治との関係」(増田渉訳)、『中国現代文学選集第1』平凡社, 1963
・「学問の趣味」、土井彦一郎訳注『西湖の夜:白話文学二十編』白水社, 昭14
・『支那歴史研究法』(小長谷達吉訳)改造社、1938
・「対露問題」、南満洲鉄道株式会社北京公所研究室『聯露か排露か』(北京満鉄月報特刊第1)南満洲鉄道北京公所研究室、1926
・「支那革命の特色」(中村久四郎訳)、大類伸編『史論叢録 上下』興亡史論刊行会, 1918

【単行本収録論文等】
・陳立新『梁啓超とジャーナリズム』芙蓉書房出版、2009.6
・張軍著・平林宣和訳「梁啓超と演劇」、飯塚容,瀬戸宏,平林宣和,松浦恆雄編『文明戯研究の現在』東方書店, 2009.2
・牛林杰「梁啓超と韓国近代啓蒙思想」、武庫川女子大学関西文化研究センター編『東アジアにおける文化交流の諸相』武庫川女子大学関西文化研究センター, 2008.11
・陳力衛「梁啓超の『和文漢讀法』とその「和漢異義字」について」、沈国威編『漢字文化圏諸言語の近代語彙の形成』関西大学東西学術研究所, 2008.9
・川尻文彦「「進化」と加藤弘之、厳復、梁啓超」、鈴木貞美,劉建輝編『東アジアにおける知的システムの近代的再編をめぐって』人間文化研究機構国際日本文化研究センター, 2008.3
・狭間直樹「清末の知識人と明治日本 梁啓超研究について思うこと」、陶徳民,藤田高夫編『近代日中関係人物史研究の新しい地平』雄松堂出版, 2008.2
・竹内弘行「康有為から梁啓超へ」『康有為と近代大同思想の研究』汲古書院, 2008.1
・高柳信夫「梁啓超の「孔子」像とその意味」、高柳信夫編『中国における「近代知」の生成』東方書店, 2007.12
・李暁東『近代中国の立憲構想』法政大学出版局, 2005.5
・齋藤希史『漢文脈の近代』名古屋大学出版会, 2005.2
・丁文江・趙豊田編、島田虔次編訳『梁啓超年譜長編』(第1~5巻)岩波書店、2004年
・吉澤誠一郎『愛国主義の創成』岩波書店、2003年
・狭間直樹編『共同研究梁啓超』みすず書房, 1999.11
・佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』東京大学出版会、1996年
・佐藤一郎「梁啓超における湖南-とくに蔡鍔との関係をめぐって」、山田辰雄編『近代中国人物研究』慶応通信, 1989.2
・阿部賢一「梁啓超の啓蒙活動の一端について」、野口鉄郎編『中国史における乱の構図』雄山閣出版, 1986.12
・木原勝治「清末における梁啓超の近代国家論」、『東洋史論叢』立命館大学人文学会, 1980.8
・木原勝治「梁啓超における「開明専制論」の成立」、『芦屋女子短期大学開学二十周年記念論文集』文雅堂銀行研究社, 1979.7
・青木功一「福沢諭吉・朴泳孝・梁啓超の新民論-東アジア近代思想の相互関連性」、『福沢諭吉年鑑』3、福沢諭吉協会, 1976
・麦生登美江「梁啓超の詩論と"詩界革命"-杜甫と黄遵憲評を中心に」、目加田誠博士古稀記念中国文学論集編集委員会『中国文学論集』竜渓書舎, 1974
・彭沢周「梁啓超の明治維新観と中国変革論」、坂田吉雄,吉田光邦編『世界史のなかの明治維新』京都大学人文科学研究所, 1973
・桑原隲蔵「梁啓超氏の「中国歴史研究法」を読む」『桑原隲蔵全集・第2巻』岩波書店, 1968
・佐藤震二「梁啓超」、東京大学文学部中国哲学研究室『中国の思想家・下巻』勁草書房, 1963
・板野長八「梁啓超の大同思想」、和田博士還暦記念東洋史論叢編纂委員会『東洋史論叢』大日本雄弁会講談社, 1951

【雑誌収録論文等】
・小林武「清末におけるutilityと功利観」『京都産業大学論集 人文科学系列』41、[2010.3]
・吉澤誠一郎「中国における近代史学の形成--梁啓超「新史学」再読 (小特集 近代史学史再考--アジアの事例から)」『歴史学研究』(863) [2010.2]
・王閏梅「植民地的近代と詩社的伝統意識の乖離--梁啓超の台湾訪問をめぐって」『中国研究月報』63(12) (通号 742) [2009.12]
・王閏梅「政治と文化の間--小説における梁啓超の近代意識をめぐって」『現代中国研究』(25) [2009.10.10]
・劉晏宏「儒家思想家としての梁啓超」『哲学論文集』(九州大学)45 [2009.9]
・錢鴎「學・智・人的理念--試論王國維與晩清興學育才的思想契機」『言語文化』(同志社大学)12(1) [2009.8]
・穐山新「アメリカ体験と中国の近代--梁啓超『新大陸游記』と中国における「自由」の条件」『社会学ジャーナル』(筑波大学)(34) [2009.3]
・王青「梁啓超と明治啓蒙思想 (特集 北東アジアにおける「読み換え」の可能性)」『北東アジア研究』(島根県立大学)(17) [2009.3]
・寇振鋒「梁啓超的"理想派""寫實派"與明治日本文壇」『多元文化』(名古屋大学)(9) [2009.3]
・沈国威「日本発近代知への接近:梁啓超の場合」『東アジア文化交渉研究』(関西大学外国語教育研究機構)2[2009.3]
・李海「梁啓超は『墓中呼声』を訳したか--リサールの絶命詞をめぐって」『名古屋大學中國語學文學論集』21 [2009]
・平野和彦「日中近代における伝統芸術解釈の二面性(上)「画」と「美術」の認識をめぐって」『山梨国際研究』(4) [2009]
・川尻文彦「梁啓超の政治学--明治日本の国家学とブルンチュリの受容を中心に」『中国哲学研究』(東京大学)(24) [2009]
・高柳信夫「「清末啓蒙思想」の"その後"--厳復・梁啓超を中心として」『中国哲学研究』(24) [2009]
・藤井隆「梁啓超の〈自由〉観再考」『中国哲学研究』(24) [2009]
・王閏梅「梁啓超の『新中国未来記』について--兆民の『三酔人経綸問答』と対照させて」『言葉と文化』(名古屋大学)(9) [2008.3]
・李暁東「西周における儒教の「読み換え」--梁啓超との比較を兼ねて (特集 西周と東西思想の出会い)」『北東アジア研究』(14・15) [2008.3]
・盧守助「梁啓超と国家主義思想」『環日本海研究年報』(新潟大学)(15) [2008.2]
・寇振鋒「進化論與梁啓超的"小説界革命"--從日本明治文壇的影響談起」『名古屋大學中國語學文學論集』20 [2008]
・中村俊也「Comparative study: concerning Russian author's translation on Liang Qi-chao」『研究紀要』(つくば国際大学)(14) [2008]
・桂燕玉「梁啓超の家庭教育論--「趣味」による素質の開発を中心に」『東京大学大学院教育学研究科紀要』48 [2008年]
・古田島洋介「梁啓超『和文漢読法』(盧本)簡注--復文を説いた日本語速習書」『明星大学研究紀要』(16) [2008]
・森川裕貫「君子と制度--第三革命前後における梁啓超と章士釗の政治論」『現代中国』(82) [2008]
・佐藤慎一「書評 李暁東著 法政大学出版局『近代中国の立憲構想--厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』」『中国研究月報』61(12) (通号 718) [2007.12]
・高柳信夫「「中国学術思想史」における仏教の位置--梁啓超の場合」『言語・文化・社会』(学習院大学)(5) [2007.3]
・陳毅立「文明・国民・儒学--福澤諭吉と梁啓超を中心に」『法政大学大学院紀要』(58) [2007]
・李慶國「梁啓超的屈原與《楚辭》研究」『追手門学院大学国際教養学部紀要』([1]) (通号 43) [2007]
・盧守助「梁啓超の日本観--新語彙と新文体を中心に」『現代社会文化研究』(新潟大学)(35) [2006.3]
・王閏梅「近代化の過程に見る中国・日本の言論界--梁啓超と福沢諭吉を中心に」『言葉と文化』(名古屋大学)(7) [2006.3]
・Jing Gao「『新民叢報』に見る音楽教育論--梁啓超と曽志〔ビン〕の音楽教育思想の比較を中心に (特集:教育研究の現在--教育の統合的理解を目指して)」『哲学』(三田哲学会)115 [2006.2]
・光田剛「書評 李暁東 著『近代中国の立憲構想--厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』法政大学出版局、2005年」『成蹊法学』(63) [2006]
・山口るみ子「明治知識人と梁啓超」『東洋大学大学院紀要』43 (文学(哲学・仏教)) [2006]
・杜鋼建(鈴木敬夫訳)「翻訳 梁啓超の人権思想--杜鋼建著『中国近百年人権思想』(香港・2004年)」『札幌学院法学』22(1) [2005.11]
・湯志鈞(田邉章秀訳)「Book Review 日本における梁啓超研究の精華--丁文江・趙豊田編/島田虔次編訳『梁啓超年譜長編』(全五巻)」『東方』(297) [2005.11]
・盧守助「梁啓超の「新民」の理念」『現代社会文化研究』(33) [2005.7]
・「新刊紹介 丁文江・趙豊田編/島田虎次編訳『梁啓超年譜長編』全五巻」『史学雑誌』114(7) [2005.7]
・狹間直樹「譚嗣同『仁學』の刊行と梁啓超」『東方学』110 [2005.7]
・須藤瑞代「梁啓超と「宝貝」思順--父・娘と女性論」『中国』(中国社会文化学会)(20) [2005.6]
・川尻文彦「梁啓超と「アメリカ」--1904年の「新大陸遊記」をめぐって」『中国研究集刊』(大阪大学)(37) [2005.6]
・穐山新「ナショナリズムの「近代性」に関する一考察--梁啓超における「国民」と「専制」の対決と融合」『社会学ジャーナル』(30) [2005.3]
・高柳信夫「梁啓超「余之死生観」をめぐる一考察」『言語・文化・社会』(学習院大学)(3) [2005.3]
・山本忠士「日中間のコミュニケーション・ギャップ考(3)中国的"百科全書式"巨人・梁啓超と日本」『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』(5) [2005.2]
・山口るみ子「1904年の梁啓超」『東洋大学大学院紀要』42 (文学(哲学・仏教)) [2005]
・手代木有児「Book Review 大幅に価値を増した第一級の資料--丁文江・趙豊田編/島田虔次編訳『梁啓超年譜長編 第一巻』」『東方』(283) [2004.9]
・岡本隆司「時代と実証--民国・アグレン・梁啓超」『創文』(468) [2004.9]
・岡本隆司「紹介 丁文江・趙豐田編、島田虔次編譯『梁啓超年譜長編』」『東洋史研究』63(1) [2004.6]
・廣瀬玲子「革命 思潮 運動--梁啓超と胡適 (特集 東アジア思想における伝統と近代)」『中国』(19) [2004.6]
・高柳信夫「梁啓超と「中国思想」 (特集 東アジア思想における伝統と近代)」『中国』(19) [2004.6]
・石井剛「梁啓超の清代学術論における西学的要素の評価について (特集 東アジア思想における伝統と近代)」『中国』(19) [2004.6]
・宮村治雄「「書」と「書簡」のはざまで--『福澤諭吉書簡集』から『梁啓超年譜長編』へ」『図書』(岩波書店)(658) [2004.2]
・盧守助「1903年における梁啓超の思想の変化」『環日本海研究年報』(11) [2004.2]
・田村紀雄・陳立新「梁啓超の日本亡命直後の「受け皿」」『東京経済大学人文自然科学論集』(118) [2004]
・田村紀雄・陳立新「梁啓超と在日期の文筆活動」『コミュニケーション科学』(東京経済大学)(20) [2004]
・陳立新「梁啓超の評価問題について」『コミュニケーション科学』(21) [2004]
・山口るみ子「梁啓超「東籍月旦」に見る西洋近代思想受容の態度と倫理思想」『東洋大学中国哲学文学科紀要』(12) [2004]
・李運博「日本借用語の近代中国への移入--梁啓超の役割について」『国語国文研究』(北海道大学)(125) [2003.10]
・藤井隆「梁啓超の合群論とナショナリズム」『広島修大論集・人文編』(広島修道大学)44(1) (通号 83) [2003.9]
・馬場将三「東洋の學藝 梁啓超の『新史学』について--その「新」の考察を通して」『東洋文化』(無窮会)(91) [2003.9]
・高柳信夫「梁啓超「開明専制論」をめぐって」『言語・文化・社会』(1) [2003.03]
・范苓「梁啓超訳『十五小豪傑』に見られる森田思軒の影響と梁啓超の文体改革」『大阪大学言語文化学』12 [2003]
・穐山新「ナショナリスト知識人の歴史社会学--梁啓超におけるネーション観念の受容と展開 (特集 身体・他者・国家)」『現代社会理論研究』(13) [2003]
・鈴木正弘「清末の中国人に紹介された日本の歴史書--梁啓超撰「東籍月旦」記事の考察 附「東籍月旦」叙論・歴史の部訳註稿」『東洋史論集』(立正大学)(15) [2003]
・佐々充昭「韓末における「強権」的社会進化論の展開--梁啓超と朝鮮愛国啓蒙運動」『朝鮮史研究会論文集』(40) [2002.10]
・郭世佑「梁啓超と義和団運動二題 (特集 義和団百年と現在)」『中国21』(東方書店、愛知大学現代中国学会)13 [2002.4]
・高柳信夫「梁啓超の所謂「転身」について--『新民説』「論私徳」とその周辺」『東洋文化研究』(4) [2002.3]
・山口るみ子「梁啓超「中国道徳之大原」にみる"道徳"」『東洋大学大学院紀要』39 (文学(哲学・仏教)) [2002]
・李慶國「從森田思軒譯《十五少年》到梁啓超譯《十五小豪傑》」『追手門学院大学文学部紀要』(通号 38) [2002]
・周俊「中国における連邦論の実例研究--「分治」思想の起源と梁啓超の「地方自治」」『立命館東洋史學』(25) [2002]
・李運博「梁啓超と日本借用語との関わり--梁啓超に対する評価及び日本借用語の出現箇所」『北海道大学大学院文学研究科研究論集』(2) [2002]
・郭連友「梁啓超と吉田松陰 (特集 近代日本と東アジア)」『季刊日本思想史』(ぺりかん社、日本思想史懇話会)(60) [2002]
・森紀子「清末の啓蒙家梁啓超と「四聖画像」」『Satya』(東洋大学井上円了記念学術センター)(通号 43) [2001.夏季]
・李暁東「制度としての民本思想--梁啓超の立憲政治観を中心に」『思想』(岩波書店)(932) [2001.12]
・藤井隆「概念の革新--梁啓超「十種徳性相反相成義」を読む」『広島修大論集・人文編』42(1) (通号 79) [2001.9]
・須藤瑞代「梁啓超の民権・人権・女権--1922年「人権と女権」講演を中心に」『中国研究月報』55(5) (通号 639) [2001.5]
・李運博「近代中国に移入された日本漢字語彙--梁啓超の場合」『国語国文研究』(118) [2001.3]
・原聰介・日暮トモ子「中国の教育近代化における「発達」概念の初期展開--梁啓超の教育思想に着目して」『目白大学人間社会学部紀要』(1) [2001.02]
・劉迪「資料 梁啓超の連邦主義思想について」『比較法学』(早稲田大学比較法研究所)34(2) (通号 67) [2001]
・遠藤賢「梁啓超の変法論と張之洞の『勧学篇』」『東洋大学大学院紀要』38 (文学(哲学・仏教)) [2001]
・李運博「近代中国に移入された日本借用語--梁啓超の場合」『北海道大学大学院文学研究科研究論集』(1) [2001]
・石雲艶「日本における梁啓超」『國學院雜誌』101(9) (通号 1121) [2000.9]
・藤井隆「民権論の転換--戊戌前後の梁啓超」『広島修大論集・人文編』41(1(2)) (通号 77) [2000.9]
・石井剛「梁啓超における科学精神の発見--『清代学術概論』を論じる」『東アジア地域研究』(7) [2000.7]
・狭間直樹・佐藤慎一・宮村治雄「座談会 東アジアの近代と梁啓超(下)」『みすず』42(6) (通号 471) [2000.06]
・高柳信夫「「期待」を裏切らぬ本格的論集--『共同研究 梁啓超』狭間直樹編」『東方』(通号 231) [2000.05]
・狭間直樹・佐藤慎一・宮村治雄「座談会 東アジアの近代と梁啓超(上)」『みすず』42(5) (通号 470) [2000.05]
・石雲艶「梁啓超に関する研究の現状と問題点」『東瀛求索』(中国社会科学研究会)(通号 11) [2000.04]
・吉川次郎「梁啓超のアジア認識--地理学から殖民地構想へ (慶谷壽信先生記念論集)」『人文学報』(首都大学東京都市教養学部人文・社会系)(通号 311) [2000.03]
・川尻文彦「狭間直樹編『梁啓超--西洋近代思想受容と明治日本』」『現代中国研究』(通号 6) [2000.03]
・清水賢一郎「梁啓超と〈帝国漢文〉--「新文体」の誕生と明治東京のメディア文化 (特集:中国人作家の"帝都"東京体験)」『アジア遊学』(勉誠出版)(13) [2000.2]
・苑苓「清末におけるジュール・ヴェルヌの受容--梁啓超訳 『十五小豪傑』を中心に」『大阪大学言語文化学』(通号 9) [2000]
・班偉「清末における「権利」観念の受容--梁啓超の権利論を中心に」『山陽論叢』(山陽学園大学)6 [1999.12]
・平野和彦「梁啓超の絵画論」『中国近現代文化研究』(中国近現代文化研究会)(通号 2) [1999.12]
・大原信一「中国の近代用語事始め--フライヤーと梁啓超の訳書論」『東洋研究』(大東文化大学東洋研究所)(通号 134) [1999.12]
・藤井隆「梁啓超の変法論と三世説」『広島修大論集・人文編』40(1) (通号 75) [1999.09]
・趙英蘭「梁啓超と政聞社--日本における清末立憲派と立憲団体の一つ」『アジア文化研究』(国際アジア文化学会)(通号 6) [1999.06]
・李恵京「文明に至るための権道--梁啓超における宗教と専制」『中国思想史研究』(京都大学文学部中国哲学史研究会)(通号 21) [1998.12]
・佐藤豊「梁啓超と功利主義--加藤弘之『道徳法律進化の理』に関連して」『中国』(通号 13) [1998.06]
・清水賢一郎「<異邦>のなかの文学者たち(1)梁啓超--日本亡命と新中国の構想」『月刊しにか』(大修館書店)9(4) [1998.04]
・巴斯蒂「梁啓超与宗教問題」(中文)『東方学報』(京都大学人文科学研究所)(通号 70) [1998.03]
・李恵京「天下観の崩壊による人間観の動揺--梁啓超の「変法通議」から「徳育鑑」まで」『日本中国学会報』(日本中国学会)(通号 50) [1998]
・三浦滋子「梁啓超の対日認識--日本亡命から日露戦争まで」『史論』(東京女子大学史学研究室)51 [1998]
・森川登美江「梁啓超と彼の文学作品覚え書」『大分大学経済論集』49(3・4) [1997.11]
・中村哲夫「梁啓超と呉錦堂を結ぶもの」『人文学部紀要』(神戸学院大学人文学部)(通号 15) [1997.10]
・樽本照雄「梁啓超「群治」の読まれ方--附:中日英用例比較,関連論文一覧」『大阪経大論集』48(3) [1997.09]
・小松原伴子「梁啓超における「自由」と「国家」--加藤弘之との比較において」『学習院大学文学部研究年報』(通号 44) [1997]
・末岡宏「梁啓超にとってのルネッサンス」『中国思想史研究』(通号 19) [1996.12]
・手代木有児「近代中国の思索者たち-4-梁啓超--「史界革命」と明治の歴史学」『月刊しにか』7(7) [1996.07]
・肖朗「福沢諭吉と梁啓超--近代日本と中国の思想・文化交流史の一側面」『日本歴史』(吉川弘文館、日本歴史学会)(通号 576) [1996.05]
・佐藤慎一「梁啓超と社会進化論」『法学』(東北大学法学会)59(6) [1996.01]
・斉藤泰治「梁啓超「自由書」と「新民説」」『教養諸学研究』(早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会)(通号 97・98) [1995]
・大原信一「梁啓超と日本語」『東洋研究』(通号 114) [1994.12]
・楠瀬正明「中華民国初期の梁啓超と第1国会」『史学研究』(通号 206) [1994.10]
・若杉邦子「「過渡時代論」に見る梁啓超の"過渡"観」『中国文学論集』(九州大学中国文学会)(通号 22) [1993.12]
・有田和夫「辛亥革命後の梁啓超の思想--士人主導の運動から"国民運動"へ」『東京外国語大学論集』(通号 47) [1993]
・肖朗「福沢諭吉と中国の啓蒙思想--梁啓超との思想的関連を中心に」『名古屋大學教育學部紀要・教育学科』40(1) [1993]
・河村一夫「中国近代史資料叢刊「戊戌変法」掲載の梁啓超執筆新史料について」『政治経済史学』(日本政治経済史学研究所)(通号 315) [1992.09]
・大原信一「梁啓超の新文体と徳富蘇峰-1-」『東洋研究』(通号 97) [1991.01]
・佐藤一樹「厳復と梁啓超--その啓蒙観の比較」『二松学舎大学論集』(通号 34) [1991]
・許勢常安「梁啓超の現存する詩歌について」『専修商学論集』(通号 49) [1990.03]
・佐藤一郎「梁啓超における桐城派」『史學』(三田史学会)56(3) [1986.11]
・佐藤一樹「梁啓超における啓蒙思想の理念--その形成と問題」『中国文化』(中国文化学会)(通号 43) [1985]
・荘光茂樹「梁啓超について--新文体論と「東籍月旦」」『経済集志』(日本大学経済学部)53(別号1) [1983.04]
・永井算巳「丁巳復辟事件と梁啓超-3-」『人文科学論集』(信州大学人文学部)(通号 16) [1982.03]
・永井算巳「丁巳復辟事件と梁啓超」『人文科学論集』(通号 15) [1981.03]
・木原勝治「清末における梁啓超の近代国家論 (三田村博士古稀記念東洋史論叢)」『立命館文學』(通号 418~421) [1980.07]
・楠瀬正明「清末における立憲構想--梁啓超を中心として (近代アジアにおける国民統合構想<シンポジウム>)」『史学研究』(通号 143) [1979.06]
・坂出祥伸「梁啓超著述編年初稿-2-」『關西大學文學論集』28(4) [1979.03]
・永井算巳「丁巳復辟事件と梁啓超」『人文科学論集』(通号 13) [1979.03]
・坂出祥伸「梁啓超著述編年初稿-1-」『關西大學文學論集』27(4) [1978.03]
・宮内保「梁啓超の《文学評論》について--一九二〇年代を中心に (〔北海道教育大学語学文学会〕十五周年記念号)」『語学文学』(北海道教育大学語学文学会)(通号 15) [1977]
・竹内弘行「梁啓超と史界革命--「新史学」の背景をめぐって」『日本中国学会報』(通号 28) [1976.10]
・楠瀬正明「梁啓超の国家論の特質--群概念の分析を通して」『史学研究』(広島史学研究会)(通号 132) [1976.06]
・横山英「梁啓超の立憲政策論」『広島大学文学部紀要』(通号 35) [1976.01]
・陳舜臣「中国近代史ノートー7-追い越されるジャーナリスト=梁啓超」『朝日アジアレビュー』6(1) [1975.03]
・坂出祥伸「梁啓超の政治思想--日本亡命から革命派との論戦まで-承前完-」『關西大學文學論集』24(1) [1974.12]
・大竹鑑「梁啓超の教育論」『大谷学報』(大谷学会)54(2) [1974.09.00]
・楠瀬正明「梁啓超の国家構想 (歴史における「近代国家」論--その構想と史的前提(シンポジウム))」『史学研究』(通号 121・122) [1974.06.00]
・大村益夫「梁啓超および「佳人之奇遇」」『人文論集』(早稲田大学法学会)(通号 11) [1974.02.00]
・坂出祥伸「梁啓超の政治思想--日本亡命から革命派との論戦まで」『關西大學文學論集』23(1) [1973.12.00]
・横山英「脱出への苦悩--梁啓超とその時代 (社会と人間--とくに知識人の時代批判のあり方をめぐって(共同研究)) -- (はじめに〔共同研究の経緯〕)」『広島大学文学部紀要』31(2) [1972.02.00]
・横山英「脱出への苦悩--梁啓超とその時代(共同研究・社会と人間--近代における知識人の苦悩)」『広島大学文学部紀要』31(2) [1972.02.00]
・許常安「「時務報」に見える梁啓超の日本に関する言論」『斯文』(通号 62) [1970.08.00]
・佐藤一郎「梁啓超における「文学」」『藝文研究』(慶應義塾大學藝文學會)(通号 27) [1969.03.00]
・菊池貴晴「張朋園著「梁啓超与清季革命」」『東洋学報』50(3) [1967.12.00]
・和田博徳「アジアの近代化と慶応義塾--ベトナムの東京義塾・中国の梁啓超その他について」『慶応義塾大学商学部日吉論文集』(通号 創立十周年記念) [1967.09.00]
・増田渉「梁啓超の日本亡命について」『東京支那学報』(通号 13) [1967.06]
・永井算巳「清末における在日康梁派の政治動静(1)--康有為梁啓超の日本亡命とその後の動静」『人文科学論集』(信州大学人文学部)(通号 1) [1966.12.00]
・和田博徳「張朋園著「梁啓超与清季革命」」『史學』(三田史学会)38(3) [1966.01]
・中野美代子「小説界革命と梁啓超--清末小説研究-5-」『北海道大学外国語・外国文学研究』(通号 9) [1962.02]
・倉田貞美「飲冰室詩話について」『香川大学学芸学部研究報告・第1部』(通号 13) [1960.07]
・木原勝治「梁啓超の新民説について」『立命館文學』(通号 180) [1960.06]
・上田仲雄「梁啓超の歴史観--過渡期における思想の問題として」『岩手史学研究』(通号 32) [1960.01]
・阿部洋「梁啓超の教育思想とその活動」『九州大学教育学部紀要・教育学部門』(通号 6) [1959]
・島田虔次「梁啓超文三編(訳注)」『東洋史研究』17(3) [1958.12]
・増田渉「梁啓超について」『人文研究』(大阪市立大学文学研究科)
・佐藤震二「清朝末期における梁啓超の政治思想--その形成過程を中心として」『アカデミア』(南山大学出版部)(通号 3) [1952.10]

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2010年4月 7日 (水)

萩原朔太郎『猫町 他十七篇』

 萩原朔太郎(清岡卓行編)『猫町 他十七篇』(岩波文庫、1995年)は短編小説らしきものやエッセイを集めた小品集。「群集の中に居て」から抜粋。

「都会生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別別の人間が別別のことを考へながら、互に何の交渉もなく、一つの同じ空を見てゐる生活──群集としての生活──なのである。その同じ都会の空は、あの宿なしのルンペンや、無職者や、何処へ行くといふあてもない人間やが、てんでに自分のことを考へながら、ぼんやり並んで坐つてる、浅草公園のベンチの上にもひろがつて居て、灯ともし頃の都会の情趣を、無限に侘しげに見せるのである。」
「げに都会の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の単位であつて、しかも全体としての綜合した意志をもつてる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全体の動く意志の中で、私がまた物を考へ、為し、味ひ、人人と共に楽しんで居る。心のいたく疲れた人、重い悩みに苦しむ人、わけても孤独を寂しむ人、孤独を愛する人によつて、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。」

 文学者というのは意外とよく町をほっつき歩いている。例えば永井荷風については川本三郎さんが書いているが、萩原朔太郎もよく歩いていた。単に散歩好きというのではなく、退屈まぎれということもあろうし、当時、彼は家庭のトラブルを抱えていたから家にいたくなかったのかもしれない。ささくれ立って鬱屈を抱えた孤独。それでも都会は、あたかも居場所があるかのように思わせてくれる。そんな気分のとき、あたり前のときとは違って、行き交う人々の表情に自分自身の感傷を反射させて、そこに映し出された陰影あるひだを、より切実なものとして嗅ぎ取るのだろう。

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吉澤誠一郎『愛国主義の創成──ナショナリズムから近代中国をみる』

吉澤誠一郎『愛国主義の創成──ナショナリズムから近代中国をみる』(岩波書店、2003年)

・近代中国において具体的な形を取り始めた国家としての一体感=ナショナリズムをめぐる諸相が梁啓超を縦糸として検討される。清朝体制に対する批判から革命派のナショナリズムが現われたという構図ではなく、清朝官僚・革命派の双方が実は不可分一体の中国という発想を持つ点では同じであったことが示される。清朝による一定の政治的統合の実態、列強対峙の国際環境など所与の条件が素材として組み合わされる中で愛国主義の言説が当然視される風潮がすでに醸成されていたことがうかがわれる。
・アメリカでの中国人移民排斥→中国でボイコット運動、本籍地アイデンティティによる民衆の愛国運動。
・梁啓超:中国人は「朝廷あるを知って、国家を知らない」「個人あるを知って、群体あるを知らない」→中国史叙述の史学革命、紀年をめぐる議論。
・辮髪を剪る:①辮髪は不便であり、富国強兵のため身体的能動性に富んだ男性像=「尚武」の理想。②外国から軽蔑される。③満洲王朝による強制からの脱却(例えば、章炳麟が断髪により反満の意思表示)。→③に注目されることが多いが、これらの絡まりあいとして理解。
・「愛国ゆえに死す」という言説:戊戌の政変での譚嗣同の死を梁啓超や康有為らは政治的正当性の主張の中で顕彰→政治的宣伝、追悼の政治的操作性→国に殉じた者を祭ろうという発想は革命派・清朝官僚の双方に共通。政治的大義のために死を顕彰する言説・儀礼がこの頃から整備され、さらなる政治的死を誘発する。

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齋藤希史『漢文脈の近代──清末=明治の文学圏』

齋藤希史『漢文脈の近代──清末=明治の文学圏』(名古屋大学出版会、2005年)

・一方的な影響や受容という捉え方ではなく、日本・中国それぞれにおけるエクリチュールの変容を可能にした言語意識の重層性に着目しながら、東アジア近代における漢字を媒介とした文学的インタラクティブを読み解く。関心を持った点を以下にメモしておくと、
・「和漢」→「漢」は「和」に入り込んで境界が曖昧。しかし、Japan and Chinaと表記すれば両者は明確に区別されるという視点の転換→China=「支那」という表現は、西洋人と同じ目線に立って、外部から中国を指す→「和」に入り混じった中国経由の文化を外在化し、日本固有の「伝統」を創出しようという意識。
・梁啓超の母語は広東語であり、北京官話は苦手。しかし、科挙準備のため経学を学ぶ→文言による枠組みが漢民族=「中華文明」の一員としてのアイデンティティー。日本語は仮名を使って漢字を補うため識字率が向上したと梁は指摘。西洋の学術成果摂取の手段としての日本語→漢文訓読の逆のようにして日本語を読む方法を考える。洋学習得には時間と労力がかかるため中国の学問習得の余裕がなくなる→日本語経由が効率的という判断。小説の通俗的大衆性→啓蒙の手段として小説を利用する効用主義(文学としての価値ではなく)→矢野龍渓『経国美談』や東海散士『佳人之奇遇』など明治政治小説を翻訳紹介。
・森田思軒の翻訳テクスト→翻訳にあたり日常言語に埋没させないよう敢えて直訳体の異化作用。その国の言語にはそれぞれの「意趣精神」がある(→近代国民国家における国家としての固有性追求と親和的)ことを、小説の翻訳過程で意識された点が指摘される。森田は、頼山陽の漢文の分かりやすさは朗誦して耳に入りやすいところにあると評価→中国の規準に無理やり合せる必要はない→表現対象に即したリズム中心の文体として把握→森田はこうした漢文脈の把握を通して、翻訳の際に可塑性のあるものとして漢語、口語の使い分け、文体の自由を獲得。

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2010年4月 6日 (火)

坂野正高『中国近代化と馬建忠』、岡本隆司『馬建忠の中国近代』

坂野正高『中国近代化と馬建忠』(東京大学出版会、1985年)
・馬建忠(1845~1900)は天主教徒の生まれで、洗礼名はMatthias。西欧諸語に通ずると同時に、科挙の勉強もした。李鴻章の幕僚として洋務の現場に従事、1877~1880年初めまでフランス滞在。1890年代からは上海に隠棲。この頃、梁啓超は馬建忠およびその兄の馬相伯からラテン語を習っている。馬建忠は中国語の文法書『馬氏文通』の著者としても知られている。
・本書は馬建忠の意見書を検討。とりわけ、外交官、海軍などの人材育成システム、人事行政、訓練計画など、専門家集団の確立と合理的組織運営の必要性を提言→「近代化」との関連で注目される。インフラ整備の必要性→借款をしてでも鉄道建設を主張。海軍建設は失敗したが、鉄道技術者層の造出には成功。
・「擬設繙譯書院議」の訳文を収録。

岡本隆司『馬建忠の中国近代』(京都大学学術出版会、2007年)
・馬建忠は李鴻章の意を受けて朝鮮に派遣された。壬午軍乱の具体的経過について馬の「東行三録」を訳出。彼は西欧的知識に馴染んでいるが、同時に現実に応じて臨機応変の外交政策立案→「属国自主」の論法で朝鮮問題、ヴェトナム問題に対処。
・済物浦条約は手ぬるいと「清流」派からの弾劾、「洋務」派内の勢力争い、本人の性格的問題などで昇進できず。上海では盛宣懐とも対立。
・「富民論」を訳出→貿易、金鉱開発など経済政策の提言。これは経済思想というよりも、当人の就職目的の自己推薦書なのではないかと指摘。外交面では辣腕を振るった彼だが、企業経営家としてはパッとしないのはなぜか。この論文のテーマとしての「民」「富」と「国」「強」とを媒介する社会的・制度的条件が清末期には存在せず、彼のヨーロッパ体験や学知とそうした現実の社会構造とがかみ合ってなかったのではないかと指摘される。

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2010年4月 5日 (月)

松山巖『乱歩と東京 1920 都市の貌』

 本好きな小学生だった人は必ずと言っていいほど江戸川乱歩体験を共有しているのではなかろうか。私は少年探偵団の謎解きや冒険スリル的なストーリーよりも、舞台となっている東京のレトロモダンな風景の描写の方に印象が強い。自分が知っている東京とは全く違う世界が開けているような一種の幻想をかき立てられて好きだった。私の大正・昭和初期についての原型的イメージは乱歩によってつくられたと言っても過言ではない。

 ポプラ社の江戸川乱歩シリーズは今になって思うと不思議な構成で、前半の1~24巻までは子供向けの少年探偵団ものだが、後半は装丁のデザインや明智小五郎が登場する点では同じでも大人向けの小説が入っていた。子供には結構刺激の強い描写にドキドキした覚えがある。むしろ、この淫靡なエロティシズムやグロテスクな雰囲気の漂う際どさの方が乱歩の本領であろう。今さら私が言うまでもないが、そうした乱歩の作品は、近代社会へと変容する過程に対しての一種の精神分析として読むことも可能である。

 松山巖『乱歩と東京 1920 都市の貌』(ちくま学芸文庫、1994年)は、乱歩作品に内在する眼差しを通して、大都会へと変貌しつつある東京の変化やその中で息づく人々のメンタリティーを鮮やかに読み解いてくれる。示唆深い論点が豊かに提示され、乱歩論、東京論としてばかりでなく、近代日本思想史としても名著だと思っている。

 伝統社会の中で持続していた心性は近代化と共に徐々に変成しつつあったが、器はすぐ切り替えることはできても、その中身の熟成には時間がかかる。明治期において型としてのライフスタイルは一変しても、感性面での変化には世代交代が必要であり、私自身の印象としては、現代に生きる我々に直接つながるメンタリティーは大正期以降、とりわけ都市生活において具現化し始めたものと考えている。

 乱歩の猟奇的、グロテスクにも思える作品群。それらは必ずしも乱歩という独特な個性のイマジネーションによってのみ作り上げられたわけではない。乱歩作品の後景から垣間見える都会的匿名性、性の解放、「家」制度の解体と婚姻形態の変化、そういった個人主義的感性をつきつめたところに当然にして表われるライフスタイルの変化は、一方で残存している伝統的感性からすれば奇異なものでありながらも、他方において実はすでに了解可能な射程内に入りつつあった。両者の葛藤が先鋭であればあるほど奇妙にも昂揚する「罪」意識の愉悦。それを乱歩は目ざとくつかみ取り、小説的な面白さへと昇華させた。本来秘しておきたかったはずの欲望、しかしタブーを破ること自体に独特な快感が伴い、そうした行為をむしろひけらかしたいのではないかとすら思えてくる猟奇的な事件。読み手は、荒唐無稽な話と思いつつも、そうしたグロテスクな不思議にどこか一片のリアリティーをほのかに嗅ぎ取り、それは自分の中にも潜んでいるからではないかという疑いを禁じ得ず、目を離せない何かを感じ取った、もしくは現代においても感じ取られ続けているとも言える。

 なお、「芋虫」についての指摘に興味を持ったのでメモしておく。読んだ人なら分かるだろうが、戦争で四肢も声も失って「肉ゴム」と化した兵士を妻がいたぶる話。軍国主義的な風潮の中で発表するには危なっかしい話で、戦後、一部の人たちは反戦小説として読んだらしいが、乱歩自身のコメントを次に孫引き(本書、227ページ)。

「私はあの小説を左翼イディオロギーで書いたわけではない。私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば「なぜ神は人間を作ったか」というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ。それは抛っておいて、政治が人間最大の問題であるかの如く動いている文学者の気が知れない。(略)「芋虫」は探偵小説ではない。極端な苦痛と快楽と惨劇を描こうとした小説で、それだけのものである。強いていえば、あれには「物のあわれ」というようなものも含まれていた。反戦よりはその方がむしろ意識的であった。反戦的なものを取入れたのは、偶然、それがこの悲惨に好都合な材料だったからにすぎない。」

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2010年4月 4日 (日)

二・二六事件を題材にした小説

 日本現代史の中でも稀有な規模のクーデターであった二・二六事件。イマジネーションをかき立てやすいのか、硬軟様々におびただしい関連文献が量産されてきた状況を現代史家の秦郁彦は「二・二六産業」と呼んだ。以下、二・二六事件を題材とした小説作品でとりあえず思いつくのを適当に挙げていく。それぞれだいぶ以前に読んで再読していないので細かい内容には触れない。

 私自身の記憶として一番早いのは荒俣宏『帝都物語』。中学生のとき読んだ。二・二六事件が出てくるのは第五巻「魔王篇」だったか。「魔王」というのは北一輝のこと。北一輝に注目した作品としては久世光彦『陛下』(中公文庫、2003年)がある。久世作品を読むときは昭和の情景の描き方に興味が行ってしまって具体的なストーリーは忘れてしまったが、文庫版のカバー表紙に転がる目玉がなぜか思い浮かぶ。北の片目は義眼。

 宮部みゆき『蒲生邸事件』(毎日新聞社、1996年)は現代の受験生が事件前夜にタイムトリップ。「歴史ってよく知らない」世代を意識した書き方だ。恩田陸『ねじの回転』(集英社、2002年)はヘンリー・ジェイムズじゃないよ。未来の国際機関が日本の針路の分岐点は二・二六事件だと考えてコントロールしようという思惑が背景。「歴史は変えられるのか」的SFのパターン。山田正紀『マヂック・オペラ』(早川書房、2005年)は、二・二六事件前夜に起こった殺人事件の調査に当たっていた特高が背後の陰謀に気づいていく話。歴史を換骨奪胎して実在の人物を使いながら伝奇小説に仕立てあげようという意図では山田風太郎を意識しているらしい。去年ようやく直木賞を受賞した北村薫『鷺と雪』(文藝春秋、2009年)は個人的には好みに合っている。北村のほんわかやわらかミステリの筆致で二・二六事件につなげられていく。

 この人を挙げないわけにはいかないか。三島由紀夫「憂国」(『花ざかりの森・憂国』新潮文庫、1968年)。二・二六事件の際、新婚の身の上が仲間たちから配慮されて取り残された青年将校が夫婦揃って自刃。描こうとしているのは、至誠=純粋さ、エロス、死の三位一体的結びつきか。どうでもいいが、五・一五事件をメインに据えた作品が少ないのは、首相を殺害はしても、部隊を動員するなど絵になる劇的クライマックスがないからか。三島の『豊饒の海』四部作の第二部『奔馬』は血盟団事件、五・一五事件と続く世相の中、あくまでも純粋な「志」を以てテロリズムへと突っ走る青年が主人公。ちなみに、私はフィリップ・グラスの曲が好きで、彼はアメリカ映画「MISIMA」(日本では未公開)の音楽も担当しており、グラスのサントラ集にある「MISIMA」からの抜粋はこの『奔馬』のシーンだった。このメロディーは好き。五・一五事件では高橋和己『邪宗門』に、青年将校が犬養首相殺害直前「これでいいのか?」と自問自答するシーンがあったのを覚えている。

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「NHKスペシャル アフリカンドリーム 第1回 “悲劇の国”が奇跡を起こす」

「NHKスペシャル アフリカンドリーム 第1回 “悲劇の国”が奇跡を起こす」

・16年前におこったジェノサイドから何とか立ちなろうとしているルワンダの現状をリポート。大虐殺から逃れたツチ族の難民たち→ディアスポラ。海外のビジネスで成功した人々が国家再建のため帰国しつつあるという。他方で、周辺国に流出したフツ族難民も帰国しつつあるが、彼らは貧しいまま。帰国しても生計を立てる手段がない。虐殺の怨念に加えて、貧富の格差も新たな火種になりそうな様子である。
・焦点が当てられるのは、海外で成功して帰国したツチ族の実業家。故郷の村(そこで母と妹が殺害された)に戻って、フツ族の住民たちと一緒にコーヒーの栽培・加工・流通の共同事業を立ち上げようとしている。民族対立の怨念を乗り越えようと努力する姿が映し出される。相互の不信感は難しそうだが、「同じルワンダ人なのだから一緒にやっていけるはずだ」という母の残した言葉を心に抱いているという。
・アフリカではエスニック・グループ間の対立感情が相互に足を引っ張り合う方向で作用してしまうことが往々にしてある。国家建設において、物理的インフラだけでなく、一つの国家において民族感情の対立を超えたナショナル・アイデンティティーの確立そのものが心の内なるインフラとして重要であることは、例えばポール・コリアーなどが指摘していた。

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湯志鈞・近藤邦康『中国近代の思想家』

湯志鈞・近藤邦康『中国近代の思想家』(岩波書店、1985年)

・本書全体の3分の1を占める第一部は湯志鈞論文、第二部が近藤邦康論文等。
・第一部。戊戌変法はブルジョワ革命?単なる政治改良?→ブルジョワ改良主義と規定。マルクス・レーニン主義の階級闘争史観にそって康有為・章炳麟を位置付け。こういうのは、例えばかつて北朝鮮のアカデミーが金玉均を再評価したとき甲申事変=ブルジョワ革命と位置付けたのと同じ論法だし、日本なら明治維新をめぐって講座派と労農派の間で交わされた議論も想起される。もう魅力のない議論だが。
・民族的危機、腐敗した封建制度という状況下、西洋に学んだ康有為の今文経学→孔子をブルジョワ化して読み替え→しかし、儒教イデオロギーの限界性という理解。
・戊戌の政変で章炳麟は台湾へ逃れ、一時期、『台湾日日新報』に勤務。日本官憲の横暴と衝突して辞職したと言われていたらしいが、同紙を調査したところそうした証拠はなく、西太后攻撃の政治論文で居づらくなった(当時、日本政府は維新派をかくまっていると清朝から抗議を受けていた)。
・プロレタリア階級の支援を受けた孫文とは異なり、章炳麟には階級的制約があったという理解。
・第二部は日本人の視点から。清朝の一君万民体制において、康有為は上からの改良(一君)、章炳麟は下からの革命(万民)という捉え方。近藤による中国での在外研究報告は30年前の中国アカデミズムの空気がうかがわれて興味深く読んだ。特に、マルクス主義中心の認識という点で違和感を漏らしている。例えば、李大釗を中国では「揚棄」「質的転換」(ヘーゲル=マルクス用語だ)の思想的飛躍として高評価、対して近藤は連続性を重視。あるいは、唯心主義か唯物主義かという二者択一への疑問。中国の知識人とじかに接してみると、書かれた文章よりも生きた人々の方が奥行きが深いという感想が興味深い。言いたいことがあっても、論文に書くには制約が強いということか。

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陳真『柳絮降る北京より──マイクとともに歩んだ半世紀』『北京暮らし今昔』、野田正彰『陳真──戦争と平和の旅路』

 私はむかしNHKの中国語講座を視聴した覚えがなくて、陳真さんのことはよく知らなかった。陳真『柳絮降る北京より──マイクとともに歩んだ半世紀』(東方書店、2001年)は、北京の放送局に入ってから出会った人々、北京の風物をつづった自伝風エッセイ。敗戦後も中国にとどまった日本人のこと、文革時に受けた迫害なども触れている。陳真『北京暮らし今昔』(里文出版、2005年)は、急速に変貌していく北京のたたずまいを描く。昔の情緒への名残惜しさもどこか感じさせつつ、現在の変化への受け止め方は前向きだ。優しそうな人柄のしのばれる柔らかな筆致は、読んでいて心地良い。2005年1月に永眠。

 野田正彰『陳真──戦争と平和の旅路』(岩波書店、2004年)は、著者自身のある種の政治的嗜好が先行して評伝としての質はあまり良くない本ではあるが、陳真の生涯には興味が引かれる。奥ゆかしい方で、自慢めいた話は上掲エッセイ集には出てこない。ところが、例えば16歳で書いた小説が絶賛されて賞を取るなど、実は大変な才媛であった。そうした彼女自身が書かなかった部分は野田書がきちんと調べてくれている。

 陳真とご父君・陳文彬の二人をセットにして考えると、日本・台湾・中国の三角関係がある一つの形として見えてきて、そこに関心を持った。祖父は福建省の出身で台湾に移住、西来庵事件に連座して逮捕された時に受けた拷問がもとで亡くなった。陳文彬は台湾・高雄の生まれ、台中一中を経て上海の復旦大学で学んだ言語学者。他方で共産党員でもあり、汪精衛政権下の弾圧を逃れて来日。法政大学で教鞭をとり、藤堂明保、倉石武四郎、谷川徹三、野上豊一郎・弥生子夫妻などと交流、生活面では経済学者の堀江邑一の世話になったようだ。陳文彬は中国ナショナリズム意識が強く、また戦後は言語学者としてピンインの制度化に関わったらしい。

 陳真は1932年、東京・荻窪に生まれた。谷川俊太郎とは幼馴染。学校では軍国主義下の差別的な風当たりを受けてつらい思いをしたことが野田書に見えるが、陳真自身のエッセイでは「日本にいたときにはイヤな思い出もあったけど…」という感じにサラッと書き流されている。日本の敗戦後、父・陳文彬が台湾大学教授として招聘されたので同行したが、二・二八事件、引き続く国民党の白色テロの中、命からがら大陸へと脱出、北京に定住。ただし、反右派闘争、文化大革命と続く過程で台湾民主自治同盟など台湾出身者の多くが「反革命」のレッテルを貼られたが、陳真の家族も例外ではなく、父は下放され、家族は散り散り、彼女自身は放送局に日本語のできる最低限の人材は必要ということで北京に残された。文革中に放送局を表敬訪問した藤堂明保が「こちらに陳文彬の娘さんがいらっしゃると聞きましたが、どなたですか?」仕方なく名乗り出たところ「お父さんはどうなさっていますか?」「…病気です」というやり取りのあったことが上掲『柳絮降る北京より』に記されている。

 若い頃の陳真さんの写真を見ると(→例えば、これ)、本当に愛くるしく純真無垢な美少女で、ブロマイドに欲しいくらい(たまにローラ・チャン目当てでNHKの中国語講座にテレビのチャンネルを合わせたことはあるが、あんなの目じゃない)。お年を召されてからは知的な気品が漂って、須賀敦子さんに似た印象がある。

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2010年4月 3日 (土)

川本三郎『ミステリと東京』

川本三郎『ミステリと東京』(平凡社、2007年)

 文学作品というのは必ず舞台があるわけで、その舞台となっている生活空間、たとえば都市と作品内容との関わりは文学研究のテーマとしてよく取り上げられる。逆もまた然り。本書は、ミステリ小説の中の描写を通して東京という都市の街並や世相の変化を垣間見ていく。『東京人』連載がもとで、中にはすでに読んだ覚えのある章もあった。海野十三、久生十蘭、松本清張から京極夏彦、宮部みゆき、恩田陸まで幅広く取り上げられるが、肝心な江戸川乱歩がないのはすでに松山巌の名著『乱歩と東京』があるからか。

 郊外住宅地としての東京の生活圏の拡大。下町的人情と都会的匿名性。新宿歌舞伎町の多国籍化。ポイントを挙げれば読み手の関心に応じて色々と引き出せるだろうが、それらを分析というのではなく、小説中の描写を一つ一つ引きながら追体験していこうという筆致なので気軽に読める。全共闘世代的ノスタルジーが鼻につく箇所もたまにあるが著者自身の経歴による思い入れがにじみ出ているのだろう(このあたりに関して世代的に異なる私自身としては、感性的にも思想的にも共感の余地が全くないのだが)。高度経済成長直前期、地方からの上京者が抱えた哀歓には連載時(小杉健治の章)から興味が引かれていた。

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2010年4月 2日 (金)

坂出祥伸『康有為──ユートピアの開花』

坂出祥伸『康有為──ユートピアの開花』(中国の人と思想⑪、集英社、1985年)

・康有為の生涯と思想のアウトラインを平易にまとめた啓蒙的な伝記。書家としての横顔に注目したり、史料発掘の経緯から色々な人間関係が見えてきたりするのも興味深い。
・戊戌の政変で失脚・亡命後、とりわけ張勲の復辟事件の際の行動や思想的関わりなど民国期の彼の動静に私は興味があったのだが、民国期に入ってからの記述は私生活の描写が中心となり、公的活動、思想的展開にあまり触れられていないのがちょっと食い足りない感じがした。
・康有為は咸豊8(1858)年に広東省南海県銀塘郷(現・銀河郷)蘇村に生まれた。当初は朱子学を学んだが、他方で、静座や禅学で感得した天地万物の一体感→本当は陸象山・王陽明を好んでいたこととの関連を指摘。「人に忍びざる心」=仁としての万物一体感→わが身に引き受ける共感をもとにした社会改革志向→大同思想につながる。
・孔子改制論。距乱世→升平世→太平世へと進化(三世進化論)。孔子教→国民的な一体感を醸成、人々の間の垣根を取り払って愛国の一点へと集中させる。
・1895年の日清戦争・下関条約→科挙の会試受験のため北京に来ていた挙人たちが集まって対日講和反対、政治改革要求の上書(公車上書)→清朝はじまって以来の士大夫による集団的政治行動。
・日清戦争の敗北、黄遵憲から話を聞いた→日本観の変化→明治維新を変法の模範。
・1898年、保国会の設立。戊戌の変法→西太后派の巻き返し、袁世凱の裏切り→日本へ亡命。日本でも厄介者扱いされてカナダへ行く→華僑有志を集めて保皇会。光緒帝の師を以て任じていたのであくまでも立憲改革派→革命派とは一線を画す。
・日本亡命直後は牛込区早稲田42番(早稲田鶴巻町40番)の明夷閣。1911年月から2年半ばかり神戸や須磨に落ち着く。帰国後は上海の愚園路192号。

・そう言えば、以前、楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年)という回想録を読んだとき、著者の楊氏が日本統治期の台北帝国大学付属医学専門部に入学したところ、汪精衛政権派遣の留学生として女生徒が一人いて、彼女は康有為の孫娘・康保敏なる人だったという記述があったのを思い出したので、ここにメモしておく。

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2010年4月 1日 (木)

佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』

佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』(東京大学出版会、1996年)

・清朝末期から近代中国への転換期にあたって、国家のあり方とそれを支えるロジックを模索した知識人たちの言説を検討した政治思想史の論文3点を収録。取り上げられる思想家は絞り込まれている意味で点描的だが、その組み合わせによって通史的に俯瞰される。第1章「文明と万国公法」が本書の3分の2を占めて本論をなし、第2章「フランス革命と中国」、第3章「近代中国の体制構想」で論点を補う構成。
・「文明」の有無を指標とする華夷観念の枠組みにおいて中国文明の優越性は自明視されていた。洋務運動において西洋の機器や万国公法を受け容れはしたが、それはあくまでも中国の立場を強化することが目的。万国公法のような外の価値観によって逆に拘束されてしまうなら、中国の「礼」の秩序が乱されてしまうという反発があった。
・「真」であること(true→普遍性)と「自己のもの」であること(mine→中国文明に本来内在的なもの)とが「文明」受容の条件→「附会」:外来の事物を中国固有の事物と結び付けることで導入を正当化。この「附会」というロジックを契機として「文明」観念の読み替えが始まり、それが「近代」へと転換されていく思想史的な変容過程をたどるのが本書の趣旨となる。
・変法派は、中国を取り巻く国際環境のシステム転換を理解(列国並立の中におけるあくまでも一国としての中国の認識)→この中国の存続を図るために国家のあり方を変革しなければならない。この際、支配者の恣意的な権力を抑制、民意が反映される体制が必要であり、法の支配(西洋では実現されている)の確立を「文明」の基準とした。
・文明化の過程を儒教本来の理念の実現と捉えるロジック。康有為は、経書は古代の記録という体裁を取りつつも、実は孔子が自らの政治変革理念を託したのだと理解→理想社会は上古ではなく未来に存在する→「三世進化」と「大同」の理念、これらに万国公法は適合的だと判断。普遍的な理念であると同時に、すでに孔子が予見していることなのだから「自己のもの」でもある。
・「真なるもの」(普遍性)と「自己のもの」(中国固有)とに「附会」ができない場合にはどうするのか?という問題提起→梁啓超は社会進化論(すでに厳復が『天演論』で紹介)の枠組みで「三世進化」を捉えるが、普遍的な真実はそれ固有の価値を持つのだから、孔子の言説と一致するか否かは全く関係ない。梁啓超は儒教を否定も肯定もせず相対化(対して、後の新文化運動で儒教は「奴隷根性」として排撃される)。
・胡漢民は、危機的な国際環境の中でも国際法を遵守、文明のロジックに従って「正当な排外」を行なうべきことを主張(西洋への屈従も、野蛮な排外も不可)。しかし、清朝は異民族による専制支配体制であり、多数派の漢族は抑圧されている→国民の支持なし→「正当な排外」ができない清朝の構造的問題→変革のため排満革命。
・国際法を遵守したとしても、現実には帝国主義の圧迫→その後の民族主義、社会主義、不平等条約改正等の展開。
・第2章「フランス革命と中国」では、フランス革命認識を通して中国知識人の間での革命観念の相違を浮き彫りにする。フランス革命の積極的な意義とマイナス面との両方をみな理解していたが、康有為や梁啓超はマイナス面の方を憂慮、対して革命派はプラス面を高く評価。
・第3章「近代中国の体制構想」では、専制と自由をめぐる議論に関心を持った。梁啓超は「野蛮の自由」(事実上の野放図な自由)と「文明の自由」を区別。中国は自由を許容する温和な専制体制であったが、その自由とは「野蛮の自由」に過ぎなかった→権力者のへつらいなど「奴隷根性」という「内なる専制」の克服が必要だ→こうした問題意識は後に『新青年』に集った知識人に受け継がれていく。以上の「自由」観は孫文も共有、ただし、梁啓超が「内なる専制」の克服を重視したのに対し、孫文は自由の過剰を憂慮して開明専制を模索したと指摘される。

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