楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』
楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上下、岩波書店、2009年)
民族性の超克という麗しく響く理念が、思想としてではなくある民族の物理的消滅を意味するとしたら、これほどおぞましい戯画もないだろう。文化大革命が中国社会に残した傷痕はいまだに引きずられているが、それは中国社会全体の経験として一般化できるものではなく、内モンゴルでは別のコンテクストを伴っていた。多数派たる漢人が階級闘争という大義名分の下でモンゴル人に対して行なった残忍な虐殺──。本書は、その凄惨な嵐を生きのびた人々から聞き取った証言をもとに、殺戮がエスカレートしていった実態を克明に描き出す。著者自身がモンゴル人で、証言者の中には親族も含まれている。
日本の敗戦直後、内モンゴルの指導者たちはモンゴル人民共和国との統一合併に向けて動いたが、当時の国際情勢はそれを許さない。やむを得ず、中国内部での高度な自治を目指した。内モンゴル東部はかつて旧満州国に編入されていたため、モンゴル人の間には建国大学、興安陸軍軍官学校、医科大学、さらに日本留学などで近代教育を受けた軍人・知識人が育っており、「日本刀をぶら下げた者たち」と呼ばれていたという。彼らの知的に洗練された振る舞いは、人民解放軍の無学で乱暴な漢人軍人たちと際立った対照を見せ、当初は利用価値ありとされていたものの、「対日協力者」として危うい立場は免れなかった。文化大革命では、彼ら「日本刀をぶら下げた」東部出身者と延安派モンゴル人との抗争が共産党上層部によってたくみに仕組まれ、共倒れすることになる。
遊牧を生業とするモンゴル人にとって大切な牧草地を、後からやって来た漢人入植者が開墾、モンゴル人の生活は打撃を受ける。モンゴル人は広い牧草地を利用=地主階級、対して漢人は土地を持たない=無産階級という構図が強引に引き出され、モンゴル人に対する民族的圧迫が階級闘争のロジックにすり替えられた。中ソ論争の激化によって内モンゴルはソ連及びモンゴル人民共和国に対する最前線と位置付けられ、大漢族主義と少数民族への不信感からモンゴル人に対する粛清が正当化された。文革が終わり、「行き過ぎがあった」と総括はされても、殺戮を重ねた漢人は誰一人として罪に問われることはなかった。高名なモンゴル人作家一人がスケープゴートとして有罪判決を受けただけである。すべてはモンゴル人同士の内輪もめで漢人は関係ない、というわけだ。
一見もっともらしい革命イデオロギーがそのロジックを恣意的に操作して、裏に潜む民族的偏見を隠蔽、結果として多数者による少数者への抑圧・抹殺が正当化された危うさ。本書では、毛沢東・共産党・漢人に対する憎悪に近い筆致に驚くこともある。ただし、著者自身が冷静になれないところを自分の限界だと認めているし、それだけ激しい口調をせねばならないほどの受難にモンゴル人がさらされてきたことは銘記しておかねばならない。チベットやウイグルの問題については比較的知られている。対して内モンゴルの問題が海外の注目を浴びないのは、平和だからではない、声をあげるべき知識階級がすべて抹殺されてしまったからだという。
本書は日本語で書かれている。漢人による少数民族圧迫の現実を訴える本を言論統制下にある中国本土で刊行することは難しい。こうした事実は一般の漢人にどれだけ知られているのだろうか。悪意はなくても、知らない=なかったと思い込まれ、場合によっては言われなき中傷だという反発すら招き、議論の前提が共有されていないのでそもそも話が通じないかもしれない。オープンな議論ができない社会では、加害者も被害者も双方が不満や恨みを内にため込んでしまい、和解がどれだけ可能なのか、心もとなく感じてしまう。
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