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2010年3月14日 (日)

坂野潤治『近代日本の国家構想1871─1936』『日本政治「失敗」の研究』、井上寿一『昭和史の逆説』、他

 19世紀以来、(日本に限らず)新興国家が直面した課題は、国家建設のため上からの権力的リーダーシップを確立する一方で、下からの民主化要求をどのように両立させるかという問題であり、そうした葛藤の中から憲法に基づく議会制度整備としての立憲主義が求められたと言える。

 坂野潤治『近代日本の国家構想1871─1936』(岩波現代文庫、2009年)は、廃藩置県により軍事・租税を手中に収めて中央集権政府として緒についた1871年から二・二六事件で岡田啓介内閣が退陣する1936年までのタイムスパンにわたり、立憲政体構想をめぐって政治史の焦点となった対立軸を浮き彫りにする。左右の二項対立ではなく、実効性あるシステムを模索した中道派に着目しているのが本書の特色である。明治憲法にある天皇大権の規定は大きな障碍ではあったが、穂積八束の天皇主権説はともかく、内務官僚・都築馨六の超然主義で示されていた政党政治家のアマチュアリズムが党利党略に走って国家的事業を妨げかねないという懸念はいつの時代でも一つの議論としてあり得る考え方で、必ずしも当時の時代的制約とは言えないだろう。明治憲法に現在の観点からすれば大きな欠陥があったのは確かにしても、憲法正文と現実の社会的変化とのせめぎ合いで政治過程の変容も進んでおり、事実上の解釈改憲や政治的運用を通して政権交代可能な立憲政治への道は開けていた。本書では、憲法制定に先立って福沢諭吉『民情一新』ですでにイギリス・モデルの議院内閣制が広く知られていたこと、さらに吉野作造の民本主義の実現勢力としてリベラル派の憲政会=民政党や社会民主主義の社会大衆党右派に注目される(二・二六事件直前の総選挙では民政党が第一党、社会大衆党も5→18議席と躍進しており、社会民主主義的政治枠組みへの期待があったことが指摘される)。政友会に対する評価は辛い。

 戦前期日本政治について、侵略戦争への反省の行き過ぎからすべてを国家主義・軍国主義として断罪してしまう傾向がかつての戦後アカデミズムには強かった。しかしながら、紆余曲折があったとはいえ、日本のデモクラシー経験はすでに百歳を超えているという事実は重い。坂野潤治『日本政治「失敗」の研究』(講談社学術文庫、2010年)は、美濃部達吉の「解釈改憲」としての天皇主権説、吉野作造の政治的運用としての「民本主義」(明治憲法の規定には矛盾するが、民意→運用で正当化→現在の自衛隊合憲論にも比較すべき拡大解釈)、民政党の民主的リーダーシップ、社会民主主義政党としての社会大衆党の総選挙における勢力拡大などを検討する。戦前の自由主義、民主主義、社会民主主義も結構いい線まで行っていた。ところが、戦前を否定するあまりそうした良質な部分まで無視されてしまい、明治以来の蓄積があるデモクラシーが思想的伝統として受け継がれなかったという問題意識が本書の動機となっている。

 デモクラシーは明治期には借り物思想だったかもしれないが、昭和・平成に入ってからはもはや借り物ではない。すでに自前の思想的伝統を持っていた。明治、戦前、戦後をそれぞれ線引きして別個に分けて論ずるのではなく、明治から現代に至るまでデモクラシー確立に向けた流れが連綿として続いていることを一つの総体として捉える議論がもっと出てきてもいいのではないか。

 井上寿一『昭和史の逆説』(新潮新書、2008年)は、思惑のすれ違いや誤算の連続で戦争の泥沼へと引きずり込まれてしまった当時の政治状況を描き出す。読み物的なスタイルだが、最近の学術的成果をしっかり取り込んで昭和初期政治史のポイントを簡潔に提示してくれる。オビには「民主主義が戦争を生んだ」とあるが、五・一五事件、二・二六事件とキナ臭いテロが頻発する一方で、総選挙の結果から見ると政友会は凋落、民政党・社会大衆党による社会民主主義的な政治枠組みへの期待があった(二・二六事件直前の1936年及び翌37年の総選挙ではいずれも民政党が第一党、社会大衆党は5→18→37議席と大躍進)。具体的には、国民一般レベルにおける経済問題、とりわけ格差是正への関心である。戦争景気は国民を沸き立たせ、電力国家管理法案・国家総動員法案は軍部主導によるが、国民の意向を汲み取った社大党はこれを社会改革として支持した。

 以下、社会大衆党について蛇足。同時代のイギリス政治を見ると、①保守党・自由党の二大政党制における第三勢力として労働党が議席数を拡大→②自由党・労働党連立政権として政権参加→③戦後は労働党が二大政党制の一翼として単独政権(自由党が第三勢力に転落)という流れがあった。日本の社大党の場合、1936・37年総選挙における躍進は①にあたるし、民政党との協力の可能性があった点では②まで手をのばしていた。その後、近衛文麿の新体制運動に社大党は率先に立って参加、近衛も政友・民政両党に代わる新興勢力として期待を寄せていた。当時、政友・民政二大政党への幻滅感から革新勢力として国民の注目を浴びていたのが軍部と社大党であり、中野正剛の東方会が社大党との合併を目論んだのもこうしたブームに乗ろうという思惑があったからだ。つまり、戦争協力の是非というフィルターを外して考えてみると、社会民主主義勢力の着実な拡大傾向も当時の政治要因として織り込まれていたことが分かる。ただし、新体制運動に走った右派は戦争協力の負い目に縛られ、戦争批判をした左派は戦後になってスターとなった。戦後の日本社会党において、現実柔軟性のある右派が発言権を喪失、イデオロギー硬直的な左派が看板となり、結果として社会党が国民政党に脱皮できない体質へとつながってしまった。

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