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2010年2月

2010年2月28日 (日)

ゲイリー・ウィルス『ボム・パワー:現代の大統領と安全保障国家』

Garry Wills, Bomb Power: The Modern Presidency and the National Security State, The Penguin Press, 2010

 核弾頭の発射ボタンを押す最終的な権限を握るアメリカ大統領。核兵器は、それがもたらす惨禍が破滅的であるだけでなく、その威力をどのように扱うかという思惑そのものが一定の政治システムを生み出した。本書は、核兵器の出現によって駆り立てられた行動パターンがいかにアメリカ政治を変容させてきたのか、第二次世界大戦における核兵器開発のエピソードからブッシュ政権のイラク戦争まで検討していく。タイトルをこなれた日本語にうまく置き換えられないのだが、つまり核弾頭の存在がもたらす影響力(Bomb Power)によって、アメリカが立憲主義に反する形で安全保障体制最優先のシステムに陥ってしまったという問題意識が示されている。

 そもそもの出発点であるマンハッタン計画自体が隠密裏の活動で、副大統領だったトルーマンもF・D・ローズヴェルトの死去によって大統領に昇格するまで知らなかった。核開発知識の漏洩を防ぐため計画参与者以外には情報を完全にシャットアウトして大統領に直結。ソ連に対する対抗意識から計画推進のための膨大な予算を要求するが、議会のチェックは許さない。核の絶対性は、発射ボタンを握る大統領をして「我々の最高司令官」たらしめる(しかし、憲法上、軍隊の最高指揮官ではあっても、一般国民の最高指揮官ではない)。こうした秘密主義、大統領への権限の集中、議会へのアカウンタビリティーの無視といった政治文化が、冷戦から「テロとの戦い」まで一貫して続いているとするのが本書の趣旨である。例えば、ヴェトナム戦争のような宣戦布告なき戦争、CIAやNSAの独走による他国の政権転覆工作(Stephen Kinzer, Overthrow: America’s Century of Regime Change from Hawaii to Iraqが参照されている→以前にこちらで取り上げた)、情報公開への拒否(一つの情報は他の情報とモザイク状に絡まりあっているので、それを出してしまうと最高機密まで危ういというロジック)などの具体例を挙げていく。

 すべての始まりが核開発計画だったとするのはあまりに単純化しすぎているような印象も受けるが、一つの視点としては興味深い。

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北博昭『戒厳──その歴史とシステム』

北博昭『戒厳──その歴史とシステム』朝日選書、2010年

 日本近代史における「戒厳」の歴史を法的側面から整理した研究。「戒厳」などと言うとおどろおどろしいイメージも浮かぶが、本書は無味乾燥なまでに抑えた客観的な筆致で安心して読める。

 同じ暴力行使に基づく活動であっても、軍隊は外敵を対象とするのに対し、警察は治安目的で国内の市民を対象とする。軍隊が国内における治安活動を行う場合には非常警察と呼ばれ、①戦時における真正戒厳、②平時において警察の手に負えなくなった事態に対処する行政戒厳(法令上の根拠はないが、緊急勅令によって戒厳令の一部を適用。日比谷焼き打ち事件、関東大震災、二・二六事件の3例がある)、③治安出兵、の3つに大別され、治安出兵に関しては、a.地方長官の請求による出動(米騒動、朝鮮半島における三・一独立運動など7例)、b.軍隊指揮官の自発的裁量(東京砲兵工廠のストライキの例、ただし、軍専横の可能性があるためこのケースは少ない)、c.法律執行目的(訴状の強制執行で抵抗があった場合、密漁対策の漁業警察など)に分けられる。太平洋戦争のときは軍の行政責任回避のため戦時立法が事実上「戒厳」的な性格を帯びた。

 国家緊急権を欠く現行憲法体制下において「戒厳」の位置づけに関してはグレーゾーンである。一部の人々にはこうした議論に忌避感があるようだ。しかし、何らかの事態によって法的空白が生じてしまったら、それこそ何でもありの恣意的な運用を許してしまいかねないわけで、あくまでも人権擁護を第一目的とした軍隊出動・私権制限のあり方について議論を深めておく必要はあるのだろう。

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2010年2月27日 (土)

浜渦哲雄『イギリス東インド会社──軍隊・官僚・総督』

浜渦哲雄『イギリス東インド会社──軍隊・官僚・総督』中央公論新社、2009年

 イギリス東インド会社の組織システムに注目してその変遷をたどった概説書。むかし世界史の授業では、東インド会社の失政→セポイの反乱→イギリス政府が直接統治に乗り出した、と習った覚えがあるが、実際には反乱が起こった時点ではすでにイギリス本国政府との共同統治方式になっており、会社は失政の責任を負わされる形で解散させられたらしい。

 東インド会社はもともとエリザベス女王時代の特許状によりアジア交易を独占的に行う商人たちの組合として出発、航路独占を自力で確保するため軍隊を持ち、プラッシーの戦い以降は領域支配まで担った特異な株式会社であった。株主対策として社員の給与水準が低く抑えられていたため不正蓄財が横行、本国議会で問題視されて規制のため本国政府が介入、会社の権限は徐々に縮小されていく。商業組織と政治組織、二つの性格が重なり合っていた点にこの会社の分かりにくさがあるが、その比重の移り変わっていく過程を本書は整理してくれる。見方を変えれば、商業目的として始まった制度が長い時間的経過の中で政治組織として換骨奪胎され、現在のインド政府に至っているとも言える。東インド会社のモダナイザーとしての役割が現在のインドの経済的発展にもつながっていると指摘されるが、その根拠について明示的な議論がないのが気になった。

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2010年2月25日 (木)

ドミトリー・V・トレーニン『ロシアを正しく理解する』

Dmitri V. Trenin, Getting Russia Right, Carnegie Endowment for International Peace, 2007

 本書は、ロシアの今後の動向を考える前提として、現代ロシアの社会経済的状況を概観(価値観は良くも悪くもソ連時代とは異なって個人主義的傾向が強まっているという)、さらに正教会分立からソ連崩壊に至るまでの歴史を西欧との関係を軸にして簡潔に分析。その視点の背景には、そもそもロシアはヨーロッパなのか?という問いが伏在している。ページ数としては薄い本だが、内容的には濃密に充実している。著者はカーネギー国際平和財団モスクワセンター所長。

 ソ連崩壊後、NATOの拡大傾向は東欧にまで及び、旧ソ連圏のウクライナやグルジアでも加盟への期待感が高まったが、こうした動きはどんなに最大限見積もってもロシア国境で止まる(欧米側にはロシアに対する敵意はないが、ロシア側は過剰反応してしまっているというギャップが指摘される)。東方正教会の分立によるキリスト教世界の分裂、19世紀におけるヨーロッパの憲兵、20世紀における共産主義の旗頭、いずれにしてもロシアは歴史的にヨーロッパの一員というよりは対抗関係にある大国として自己規定してきた。

 本書は地理的・文化的アイデンティティーとしての「ヨーロッパ」と文明としての「西洋」(the West)とを使い分けている。ここで言う「西洋」については、ヨーロッパに起源を持つ資本主義及びこれを成り立たせる要因としての私有財産、法の支配、政府のアカウンティビリティーなど近代的制度が念頭に置かれており、非「ヨーロッパ」でも自分たちの文化的特徴を維持しながらこうした意味での「西洋」にはなれると言う。明治維新以降の日本、ケマル・アタチュルクによって世俗的近代化が進められたトルコ、現在経済的に台頭しつつある中国やインドを具体例として挙げ、著者は「新しい西洋」(the New West)と呼ぶ。そして、経済発展の後に民主化はついてくるという発展段階説的な立場を取る。

 以上を踏まえて、ロシアは「ヨーロッパ」には入らないが、ただし「西洋」にはなりつつあるという主張に本書のポイントがある。欧米はロシアの権威主義的政治体制への悲観論から民主主義に失敗した国とみなしがちであるが、むしろ台頭しつつある資本主義国としての側面に注目し、ロシアを脅威視するのではなく国際政治経済の枠組みの中に組み込んでいくことで、しばらくは試行錯誤が続くにしても将来的には国内の民主化も進むはずだという展望を示す。

 なお、トレーニンは“Russia Reborn,”Foreign Affairs, vol.88 no.6,(Nov/Dec 2009)という最近の論文でロシアがキャッチ・アップすべき目標としてヨーロッパではなく中国、日本、韓国など東アジア諸国を挙げ、「もしピョートル大帝が生きていたら、バルト海(つまり、ペテルブルク)ではなく日本海側に遷都するだろう」という面白い言い回しをしていた。

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2010年2月24日 (水)

ニコラス・トンプソン『タカ派とハト派:ポール・ニッツェ、ジョージ・ケナンと冷戦史』

Nicholas Thompson, The Hawk and the Dove: Paul Nitze, George Kennan, and the History of the Cold War, Henry Holt, 2009

 核抑止論に立脚して軍備増強を主導したポール・ニッツェ(Paul Nitze)と、それは際限なき軍拡競争を招いてしまうと批判したジョージ・ケナン(George Kennan)。方やウォール街出身の実務家としてトルーマンからレーガンまで歴代政権のスタッフとして活躍、方や外交官出身の歴史家。考え方も身の処し方も相異なる二人だが、個人的には非常に緊密な親友同士であったという。

 本書は、冷戦期におけるアメリカ外交政策の基本方針を理論的に基礎付けたこの二人の交友関係を軸として、第二次世界大戦の終結からソ連崩壊に至るまでのアメリカ外交史を描き出す。二人の考え方に代表させる形で核戦略をめぐる議論の構図が明瞭に浮き彫りにされるだけでなく、多彩な人物群像のエピソードも活写されてとても面白い歴史書だ。著者はニッツェの孫にあたるが、二人には等距離から向き合う(どちらかといえばケナンの方に肩入れしているような印象すら受ける)。ニッツェと同様の核抑止論で華々しく注目された若僧のキッシンジャーにニッツェは嫉妬していたらしい。親父もソ連も大嫌いでアメリカに亡命したスターリンの娘スヴェトラーナがケナンのもとに身を寄せていたのは初めて知った。

 ケナンはソ連問題の専門家であり、有名なX論文ではソ連=ロシア帝国の内在的ロジックが共産主義イデオロギーと結び付いた膨脹主義を指摘、「封じ込め」(containment)政策を提唱して注目された。ただし、それはプロパガンダ合戦や周辺国への援助などの政治的意味合いが強かったにもかかわらず、ケナンの当初の意図から外れてこの「封じ込め」という言葉だけが独り歩きを始め、軍事的意味合いが強くなってしまったことに彼は不満を抱いていた。

 ニッツェはフォレスタルの推挙で政権入り、日本敗戦後に戦略爆撃調査団の一員として来日、広島の惨禍は彼の脳裡に強くこびりついた(なお、彼は近衛文麿の尋問も行なった。報告書では、戦争末期の日本の政治指導層は分裂しており、いずれ降伏せざるを得ない状態にあった、従って原爆投下は不要であったと結論付けたが、国務省には無視されたらしい)。他方で、ソ連が核開発に成功、これが核兵器の威力そのものへの恐怖心と結び付き、アメリカへの核攻撃を回避するためには常にソ連に対して軍事的に優位に立っていなければならないと考える(核抑止論)。この場合、アメリカは核兵器をうまくハンドリングできるし、ソ連の野心を抑えるのが目的で先制攻撃には使わないから大丈夫というのがニッツェの前提だが、これに対してケナンは、そんな保証はあり得ないし、そもそもアメリカの核兵器における優位はソ連側にアメリカが先制攻撃をしかけるのではないかという猜疑心を煽って軍拡競争が激化してしまうと批判することになる。ただし、ニッツェにしても核攻撃の回避が基本動機なのでソ連との軍縮交渉も積極的に進めた。ABM条約、SALTⅠ協定の実質的な準備はニッツェが行なったし、レーガン政権でのSTART交渉には彼自身を長年呪縛してきた「ゴルディウスの結び目」を解こうという意気込みで取り組んだ(ただし、彼の在任中には成功せず)。

 キッシンジャーによるデタントはケナンが意図した「封じ込め」の考え方に近いという指摘が目を引いた。ニッツェにとっての「平和」とは、アメリカの力を全世界にのばすことで攻撃回避を目指すものであったのに対し、ケナンやキッシンジャーにとって「平和」は、アメリカ自身のもろさを前提としてバランス・オブ・パワーを注意深く扱うところに求められた。言い換えると、ニッツェのような「タカ派」(the hawk)は自国の強さを追求する理想主義者としての側面が強く、対して(キッシンジャーはともかく)ケナンのような「ハト派」(the dove)は自国の弱さの自覚から出発するリアリストであったところに二人の相違が見出される。

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2010年2月21日 (日)

ティモシー・ライバック『ヒトラーの秘密図書館』

ティモシー・ライバック(赤根洋子訳)『ヒトラーの秘密図書館』文藝春秋、2010年

 ヒトラーが独学で系統立ってなかったとはいえ読書家だったことはよく知られている。本書はドイツ敗戦後に持ち去られて世界各地に散らばっているヒトラーの蔵書を調べ上げて彼の読書傾向を再構成、余白の書き込みやアンダーラインまで目を通し、時には手垢のつき具合まで確認したりして、読書というアングルから彼の人物像を描き出したノンフィクション作品。

 有名な話ではあるがやはりエセ科学やオカルトの本が多いな。ナチズムのイデオローグとして悪名高いアルフレート・ローゼンベルク『二十世紀の神話』をヒトラーは嫌っていたらしい。ペダンチックで何を言いたいのか理解不能だから。そのヒトラーの『わが闘争』も、ナチスの幹部たちは実は読んでいなかった。ヴァチカンはナチスの反キリスト教的性格を憂慮しており、ナチスにカトリックの要素を注入して「善導」しようと画策してカトリックの司教アロイス・フーダル『国家社会主義の基礎』なる本を出したというのは初めて知った。色々な意味でオカルト的思想闘争が繰り広げられていたのが窺えて興味深い。

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サラ・レイン『中国のアフリカ挑戦』

Sarah Raine, China’s African Challenges, Routledge, 2009

 国際戦略研究所(IISS)Adelphisシリーズの一冊。アフリカの資源獲得を目的とした中国の経済活動はこれまで欧米企業が行なってきたのと基本的な構図は同じであるにもかかわらず、欧米のマスメディアを中心に中国非難の声がこれほどまでに高いのは、中国の存在感の高まりがあまりに急激だからであろうか。本書はそうした中国非難はもはや時代遅れだという。中国が現実としてアフリカでのインフラ整備をはじめ具体的な成果をあげていることは否定しようのない事実であり、それに代わる方法を西欧は持ち合わせていない。むしろ、この中国が果たしている積極的な役割を受け止めた上で、そのプラス面・マイナス面の両方から教訓を引き出し、将来的に持続可能なフレームワークをいかに形成し、その中に中国をいかに組み込んでいくかというのが本書の問題意識である。

 中国政府の権威主義的性格から対アフリカ政策も一元的に遂行されているかのように思われやすいが、実際には政府・国営企業と民間企業との間、さらには政府機関同士、国営企業同士、民間企業同士の対立・競合があって多面的であり(競争→コストカットという側面もある)、政府のコントロールが行き届いてないという。アフリカで中国企業が引き起こしているトラブルが中国の対外的イメージダウンにつながっていることに政府上層部や知識エリートは気づいているが、労働待遇の悪さや環境問題は対アフリカ問題以前に中国自身の国内問題でもあり、中国自身が問題の複雑さになかなか身動きが取れていないという印象も受ける。

 アフリカで展開する中国の経済活動のプラス面としては、①援助依存よりも貿易の方がアフリカの発展に適合的である具体例を示したこと、②世界銀行・IMFによる自由化改革圧力の失敗を受けて、政府機関主導の経済活動の有効性(北京コンセンサス)、③中国自身の「グローバル・サウス」(Global South)としての自己規定→イコール・パートナーシップとして信頼を得やすかったことなどが挙げられる。また、中国の非干渉主義の態度は、一面においてアフリカの独裁国家の延命を助けているという批判もあるが、他方で、そうした独裁者は西欧が何を言おうとも反発するばかりで、そこに中国が仲介役を果たす余地もあり得る(スーダンやジンバブエの問題で中国は、少なくとも以前よりは協力的になりつつあるらしい)。西欧はアフリカ問題で中国と対立するのではなく協調関係を取ることで共通のフレームワークをつくって利害問題ばかりでなく地域紛争、崩壊国家、テロリズムなどグローバルな課題にも取り組み、さらにこのアフリカを舞台とした話し合いの中でグッド・ガバナンス、人権、民主化などのテーマに関しても中国を巻き込んでいくべきだという方向性が示される。

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2010年2月19日 (金)

セルジュ・ミッシェル、ミッシェル・ブーレ『アフリカを食い荒らす中国』、デボラ・ブラウティガム『ザ・ドラゴンズ・ギフト:アフリカにおける中国の真実』

 アフリカでの中国の存在感の高まりを私が初めて意識したのは、確かポール・コリアー『最底辺の10億人』だったろうか。最近のアフリカ関連の本を読むと必ずと言ってもいいほどこの問題が取り上げられている。ダルフール問題でも中国批判の国際世論が盛り上がっていた。

 セルジュ・ミッシェル、ミッシェル・ブーレ(パオロ・ウッズ写真、中平信也訳)『アフリカを食い荒らす中国』(河出書房新社、2009年)はアフリカ諸国を回って中国企業の旺盛な活動を取材したルポルタージュである。「欧米人は説教をたれるが、中国人は目に見える成果をもたらしてくれる」と政府関係者は歓迎的。他方で、天然資源の奪い取り、中国資本の工場で使い捨てにされる労働者たちの問題にも目は向けられる。ワーカホリックの中国人労働者にスローペースのアフリカの人々は追いつけないようだ。現地に溶け込まないのでコミュニケーションがとれておらず、経済摩擦以上に文化摩擦の方が大きいような印象を受けた。

 このようにアフリカに進出した中国の経済活動を脅威視する国際世論が高まっているが、Deborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009)は、それは果たして事実なのか?と疑問を投げかける。誇張された中国脅威論の「神話」をデータや実地調査に基づいて解きほぐしていくのが本書の趣旨である(2010年1月発行らしいが、手持ちの本の書誌事項は2009年になっている)。

 経済関連の細かい議論は私にはよく分からないのでななめ読みだが、おおまかに読み取ったところから言うと、1960年代以降、アフリカ諸国が次々と独立していく流れの中で、イデオロギー的な動機から第三世界に広くウィングを広げようと毛沢東の主唱でアフリカ諸国に積極的な援助活動を開始、とりわけ台湾との外交合戦では多額の金もばらまかれた。こうした活動によって早くから中国はアフリカ諸国とのつながりを持っていた。1980年代以降、改革開放に伴って鄧小平は中国企業の海外進出を奨励、援助を通してつながりのあったアフリカが注目された。それまで政府主体だった援助も、企業を主体とする活動へと変化(ただし、国有銀行を通して政府のバックアップ)。世界銀行等がアフリカ諸国に自由化圧力をかけるがかえって経済環境の混乱、労働効率の悪さなどで欧米企業は撤退、そうした中で中国の存在感が際立つことになる。

 現在の中国のアフリカでの活動は援助とビジネスとを融合させた形が中心であるが、これは日本をモデルにしていると指摘される。かつて中国市場に入ってきた日本や欧米は援助をテコに市場開拓→中国はこの受け手としての経験を今度は供給側としてアフリカに対して応用しているのだという。例えば、財政状況が最悪でも、天然資源を担保にしてインフラ整備、つまり、中国がアフリカの資源を奪おうとしているのではなく、資源の裏づけで信用供与→経済発展に必要な初発条件の準備を可能にしていると捉える。また、借款→中国のモノやサービスを導入するのに使わせる→アフリカの独裁者に金を直接渡して他の目的(政治腐敗)に流用されてしまうのを回避。農業指導ではグリーン革命への寄与も指摘される。欧米とは異なってヒモなし援助→ダルフール問題を抱えるスーダンなど独裁国家の延命に手を貸しているという批判もあるが、近年は中国も仲介者としての役割にシフトしようと方針を変えつつあるという。

 中国側が現地の慣習を無視して軋轢を生み、秘密主義的な態度によって誤解が増幅されているとも指摘される。経済活動というのはプラス・マイナス様々な要因が複雑に絡まりあっており、どの側面に注目するかによって違ったイメージが生み出され、何が「真実」なのか黒白はっきりと断定するのは難しい(著者は黒澤明「羅生門」をたとえとして挙げる)。分かりやすく単純化された図式的批判はかえって問題解決の芽を摘んでしまうことにもなりかねない。もちろん中国の行動にも問題が多々あるわけで、それは当然批判されるべきにしても、現実に何が実効性を持っているのか、違う視点から考えていくことも必要だろう。

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2010年2月18日 (木)

ケネス・ポラック『ザ・パージァン・パズル──アメリカを挑発し続けるイランの謎』、マーク・ボウデン『ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克』

 イラン情勢についての本としては、Ray Takeyh, Hidden Iran: Paradox and Power in the Islamic Republic(Holt Paperbacks, 2007→こちら)、Stephen Kinzer, All the Shah’s Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror(John Wiley & Sons, 2008→こちら)、Ray Takeyh, Guardians of the Revolution: Iran and the World in the Age of the Ayatollahs(Oxford University Press, 2009→こちら)、John W. Limbert, Negotiating with Iran: Wrestling the Ghosts of History(United States Institute of Peace Press, 2009→こちら)を今までに取り上げた。いずれも現代史におけるイランと欧米(特にアメリカ)との関係を捉え返す中で、双方の敵意のため相手認識をマイナスの方向へ増幅させた結果として政権担当者の身動きが取れなくなってしまっているという問題意識が共有されている。

 ケネス・ポラック(佐藤陸雄訳)『ザ・パージァン・パズル──アメリカを挑発し続けるイランの謎』(上下、小学館、2006年)の問題意識もやはり同様である。アメリカの政策的失敗にもきちんと目配りされているが、イラン・コントラ事件への言及が少ないのは著者自身がCIAの出身(年齢的に事件後の入局とはいえ)だから何か慮りでもあるのか、守秘義務でもあるのか。モサデクについては、反米感情→彼の存在感が実際以上に神話化されたとも指摘される。

 マーク・ボウデン(伏見威蕃訳)『ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克』(上下、早川書房、2007年)は1979年におこったテヘランのアメリカ大使館人質事件の経過を描き出したノンフィクション。読み物として面白いだけでなく、大使館内部に拘束された人質たちの情況(上掲書のうちの一冊の著者ジョン・W・リンバートも当事者として登場)、カーター政権の迷走、イラン側の複雑な背景事情についてもポイントはきちんとおさえられている。占拠した過激派学生たちの「アメリカ=CIA=悪魔」という思い込みは一種戯画的ですらあるが、そうしたお互いの認識ギャップが深まったことには複雑な歴史的背景があったことを考えねばならないだろう。なお、ソマリアでの米軍の失敗を描いた『ブラックホークダウン』もこの著者による。

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2010年2月16日 (火)

アイヴォ・H・ダールダー、I・M・デストラー『大統領執務室の影で』

Ivo H. Daalder and I. M. Destler, In the Shadow of the Oval Office: Profiles of the National Security Advisers and the Presidents They Served─From JFK to George W. Bush, Simon & Schuster, 2009

 アメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官(Assistant to the President for National Security Affairs)は常に大統領の相談相手として外交政策の形成を主導し、大統領の意向を受けて根回しを行う。そのため、政権運営の成否を左右してしまうほどの影響力を持ち、正規のポストではないにもかかわらず、時には閣僚をしのぐ存在感すら見せる。本書は、ケネディ政権のマクジョージ・バンディ(McGeorge Bundy)からブッシュ(ジュニア)政権のコンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice)、スティーヴン・ハドリー(Stephen Hadley)まで15人の歴代補佐官の活動ぶりを検証、これらの具体例を通して効果的な意思決定プロセスのあり方について考える。一癖も二癖もある個性強烈なプレイヤーたちをチームプレイに組み込む難しさが浮かび上がり、組織論的な観点から読んでも面白いだろう。

 ケネディはあらゆる選択肢を自分の眼で検討しないと気がすまず、異論も含めて幅広い情報を求めていた。ハーヴァード大学教授出身のバンディは各省庁とのコミュニケーションをうまく図りながら情報を集約、ケネディの要望にうまく応えた。ところが、ケネディ暗殺後に大統領へ昇格したジョンソンは政界寝業師的なタイプで知的な議論など興味がない。ウマが合わなかったバンディは政権を去る。代わったウォルト・ロストウ(Walt Rostow、発展段階論で有名な経済学者)はジョンソンとは個人的に仲が良かったが、政策決定プロセスの運営には失敗、ヴェトナム戦争の泥沼に引きずり込まれてしまう。

 ニクソン政権のヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)は自らが表舞台に立って米中和解、ヴェトナム戦争終結、ソ連とのデタントなど華々しい外交成果を挙げた。しかし、それはあくまでも個人プレイであって、秘密主義的な態度から根回しは行なわれず、政権内部にはきしみが生じていた。カーター政権のズビグニュー・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski)も同様の独断専行型、ハト派色が強い政権の中で彼のタカ派的立場は浮き上がって政策調整はうまくいかず、政権内部の亀裂を深めてしまった(ヴァンス国務長官を追い出してしまうほどだ)。

 キッシンジャー、ブレジンスキーといった強力な補佐官の存在による政権運営不全を教訓として、レーガン政権は補佐官の役割を縮小、軽量級の人材を配置した。ところが、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官という大物政治家が互いにいがみ合う中で補佐官による根回しは難しく、しかもレーガンはこれを放置していた。結局、政策調整がうまくいかないため、補佐官たちは独断で秘密工作に手を出してしまい、イラン・コントラ事件という一大スキャンダルを招いてしまった。

 大統領や閣僚たちとの個人的な相性、国際情勢の変化などそれぞれの事情から一般化できない要因が多いため、どの補佐官が優れていたかという一律な評価は難しい。それでも、政策調整の根回しとリーダーシップとを両立できた点で、本書ではブッシュ(シニア)政権のブレント・スコウクロフト(Brent Scowcroft)が最も高く評価されている。彼の控えめだが芯の強い人柄は「公正な仲買人」(honest broker)として各省庁の根回しを円滑にし、同時に政策目標を一定の方向性へと主導していく。情報の共有によって相互の信頼を確立することが大切だったと指摘される。ちょうど東欧革命、ソ連崩壊、湾岸戦争と続く激動の時代であったが、政権内部の意見をまとめ上げて的確な反応をかえし(中にはもちろん判断ミスもあったにせよ)、難局をうまくソフトランディングさせることに成功した。次のクリントン政権でもアンソニー・レイク(Anthony Lake)はスコウクロフトを模範にする。

 意思決定システムの不全と大統領の個性とが合わさってマイナスに作用して最悪の結果をもたらしたのがブッシュ(ジュニア)政権である。チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、パウエル国務長官と超重量級が居並ぶ中、まだキャリアの浅いライスが主導権を持って政策調整を行なうのは不可能だった(それどころか、チェイニーやラムズフェルドは彼女の権限を奪おうとしていた。尋問のため戦争捕虜に関するジュネーヴ協定を無視した決定はチェイニーの独断で、ライスやパウエルは報道で知って驚愕する。戦後イラクでの軍政は国防総省主導となったが、ラムズフェルドが情報提供を拒んで他省庁との連携はうまくいかず、ライスはイギリス軍からの情報に頼ったほど)。そうした大物を相手にわたりあうため彼女がとった手段は、ブッシュという最高権威者の意思の忠実な実行者として自らの役割を規定することであった。しかし、ブッシュは直観で政策決定しており、外交など全く知らない。イラク戦争開始にあたって政策失敗の可能性に関しても大統領に建言するのも彼女の役割だったはずだが、彼女自身がブッシュの語る「価値観」に取り込まれていたと後に証言している。イラク戦争の誤りが明らかになるにつれて、パウエルが去り、ラムズフェルドが去り、チェイニーは発言力を失って、国務長官に横滑りしたライスはようやく実力を発揮できるようになった。彼女は「調整するよりも、調整される方が本当に楽」と漏らしたらしい。

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2010年2月15日 (月)

何冊かピックアップ

 去年、原著で読んだ本の翻訳が新刊でいくつか出ていたのでピックアップ。Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places(HarperCollins, 2009→こちら)はポール・コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実』(甘糟智子訳、日経BP社、2010年)。タイトルは内容から外れてはいないにしても、ミスリードの恐れもありそう。まあ、目立たないと売れないから仕方ないか。発展途上国支援のアキュメンファンド創立者のJacqueline Novogratz, The Blue Sweater: Bridging the Gap between Rich and Poor in an Interconnected World(Rodale, 2009→こちら)はジャクリーン・ノヴォグラッツ『ブルー・セーター──引き裂かれた世界をつなぐ起業家たちの物語』(北村陽子訳、英治出版、2010年)。それから、Leslie T. Chang, Factory Girls: From Village to City in a Changing China (Spiegel & Grau, 2009→こちら)もレスリー・T・チャン『現代中国女工哀史』(栗原泉訳、白水社、2010年)として近いうちに出るみたい。

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2010年2月14日 (日)

ズビグニュー・ブレジンスキー、ブレント・スコウクロフト『アメリカと世界:アメリカ外交の将来を語る』

Zbigniew Brzezinski, Brent Scowcroft, moderated by David Ignatius, America and the World: Conversations on the Future of American Foreign Policy, Basic Books, 2008

 かつて安全保障問題担当大統領補佐官を務めた経験のあるブレジンスキー(民主党のカーター政権)とスコウクロフト(共和党のフォード、ブッシュ・シニア政権)、この二人がブッシュ・ジュニア政権によるイラク攻撃を批判したことは注目を浴びた。本書は2008年2~4月にかけて行なわれた対談である。2009年に就任する新大統領(対談時はまだ選挙戦の最中)にどんなアドバイスをするか?という問いをきっかけとして、イラク、イラン、パレスチナ問題(以上、中東紛争で本書全体の3分の1以上を占める)、東アジア情勢(中国の台頭がメインテーマとなり、北朝鮮問題やインドについては軽く触れる程度)、ロシアとNATOの関係、ヨーロッパとの大西洋同盟のあり方など国際情勢への向き合い方について語り合う(アフリカには言及なし)。具体的にこうせよ、という処方箋などもちろん出てこないが(そんなのはかえって眉唾物だ)、おおむねこうした方向性を取るべきだという指針は示される。話題が多岐にわたって散漫な印象もあるが、アメリカ外交政策の関心事項はどこにあるのかを全体としてレビューする上で参考になるだろう。

 個々の論点では二人に相違も見られるものの、議論の大前提として、①地球上のあらゆる人々の政治意識がこれまでにないほど覚醒しつつあり、冷戦期にキッシンジャーが活躍したような国家単位のパワー・ポリティクスの論理が通用しない現実にアメリカは直面している、こうした状況下での武力行使は情勢を悪化させるだけ、②環境問題や核拡散をはじめグローバルな課題にアメリカ単独で取り組めるはずがなく、世界の他の国々に協力を呼びかける中でアメリカのリーダーシップを発揮すべき、以上の認識で二人の考え方は一致している。

 司会者が「退任するブッシュ(ジュニア)大統領に会う機会があったら何と言葉をかけるか」と問いかけると、ブレジンスキーは「大統領、本当にありがとう、イランまで攻撃しないでくれて」と皮肉たっぷり。総じてブレジンスキーの口調は歯切れが良いのに対し、スコウクロフトは慎重で抑制的な物言いをするというパーソナリティーの違いも目立つ。

 イラク問題について二人ともアメリカは早期に撤退すべきという点では一致。ただし、ブレジンスキーは、アメリカ軍の駐留そのものが反米感情を高めてトラブルの原因になっているのだから即時撤退を主張するのに対し、スコウクロフトは、いったんイラクに入ってしまった以上、イラク軍の秩序維持能力を再建してから撤退するのでなければ無責任だと反論。

 二人とも中東情勢では悲観的なのに対し、東アジア情勢、とりわけ中国の台頭については楽観的だ。中国・日本と等距離を置いたバランシングの考え方はキッシンジャーの時と同じに見える。ブレジンスキーは日中の軍拡競争は賢明にも衝突を避けていると指摘。他方で、中国は北朝鮮問題で役割を果たしていないと不満も漏らす。

 「民主化」の問題については、それぞれの国の歴史的・社会的背景によって事情が異なるのだから押し付けには批判的。ただし、内発的な動きがあれば助けるべきだとする。アメリカは東欧革命では社会全体の大きな流れがあったので積極的に関与、しかし中国の天安門事件では、流血の事態は避けるよう警告は発したものの、中国社会全体の広範な支持が見られなかったので関与は控えたと指摘される。ネオコンの中東民主化構想については、アラブ社会に根付く反植民地主義感情を無視、概念的には曖昧だし、歴史的な根拠付けもなかったとして批判する。

 司会者が「西欧から東アジアに重心が移っているのではないか?」と水を向けると、スコウクロフトはそうした質問自体が古い発想だ、現在の国際的潮流はnational powerとは異なる性質になっていると返答。グローバルな課題についてアメリカは押し付けをするのではなく、この課題をみんなで考えようと呼びかける形でリーダーシップを図るべきだと主張する(ジョゼフ・ナイの「ソフト・パワー」に近い考え方だ)。これを受けてブレジンスキーは、アメリカは国内の議会や世論の支持がなければ重大な課題にコミットできない、国際社会に現実に起こっていることについてアメリカ国民を教育するのも新大統領の役目だと主張(「ネオコンがはびこるようなアメリカ自身をregime changeしなければならない」という発言もあった)。不公正な政治経済システムによって世界中の多くの人々が尊厳を奪われていると感じていることからボーダーレスな政治意識が高まっているという現状認識を踏まえて「人間の尊厳」(human dignity)というキーワードに二人とも同意する(ブレジンスキーは、もしオバマが当選したら、彼の出自そのものが他者の尊厳に敬意を払うことのシンボルになると言う)。

 司会者が「国益第一のリアリストと思っていたお二方が普遍的価値について語るのに驚いた」と言うと、二人ともリアリストともイデアリストとも自己規定していないと返答。ブレジンスキーは、パワーは脅威にも道具にもなり得る、それを使いこなすには何のためかという原理原則が必要で、そこに理想主義の要素も入り込んでくると語る。この発言に補足する形でスコウクロフトは、リアリズムとは出来ることと出来ないこととの明確な峻別から出発する考え方で、要は目的と手段とのバランスにあると語る。

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2010年2月13日 (土)

飯島渉『感染症の中国史──公衆衛生と東アジア』

飯島渉『感染症の中国史──公衆衛生と東アジア』中公新書、2009年

 ペスト、コレラ、マラリアなど感染症の流行に対する取り組みが東アジアの政治・社会にもたらした変容が描かれる。単なる疾病対策というのではなく、統治技術でもあるという二面性に焦点が合わせながら、個々の具体的な動きが整理されており、興味深く読んだ。日本が植民地台湾で実施した西洋医学に基づく公衆衛生制度(公医制度・保甲制度→警察との結びつき、医学校設置→台湾人エリートの誕生)は、台湾人社会への権力的介入をもたらした(→社会システムの再編)。この制度は他の植民地に応用されたばかりでなく、中華民国もモデルとして積極的に導入した。中国にとってはナショナリズム→主権国家として検疫権の回収という問題でもあった。文明/野蛮に二項対立に衛生/非衛生という差別意識も加わったことも指摘される。

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2010年2月12日 (金)

ポール・ジョンソン『チャーチル』

Paul Johnson, Churchill, Viking, 2009

 ウィンストン・チャーチルのエネルギッシュな生涯を描いた伝記。イギリスの歴史家の書く伝記というのは微に入り細を穿って浩瀚なボリュームに圧倒されることもあるが、本書はポイントを絞って叙述の流れをつくり、ストーリーテリングもうまいので気軽に読める。第二次世界大戦におけるリーダーシップを山場に、そこに至るまでの紆余曲折をたどる構成。戦間期、議席を失い、株価大暴落で資産も失い、平和主義世論の中で彼の強硬論はエキセントリック扱いされるという逆境にあった。ヒトラーの台頭に伴って再び注目を集めて強力な戦争指導者として表舞台に返り咲くあたりの描写はグイグイと引き込まれる。ただし、あまりにチャーチル大絶賛なので若干興醒めもした。ポール・ジョンソンは日本でも知られた歴史家だし、分量的にも手頃なので、日本語訳も出るのではないか。

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2010年2月11日 (木)

金賢娥『戦争の記憶 記憶の戦争──韓国人のベトナム戦争』

金賢娥(安田敏朗訳)『戦争の記憶 記憶の戦争──韓国人のベトナム戦争』(三元社、2009年)

 ベトナム戦争といえばまずソンミ村の虐殺事件が印象に強いが、同様に韓国軍によって行なわれた民間人虐殺について現地で遺族から聞き取りをした記録である。韓国の参戦は李承晩政権の時から検討されていたらしいが(当時はインドシナ戦争)、朴正熙政権はクーデターで成立したという正統性の欠如を意識して、アメリカの支持を得るため積極的だったという。

 韓国軍があくまでも戦闘行為の過程での事故だったという状況論理で逃げるのは当然予想されたにしても、他方でベトナム政府も「過去に蓋をして未来を見よう」という方針を出しており、その狭間でかき消されかねない記憶を一つ一つ聞き取っていく。著者も最初は「本当に民間人だったのか? ベトコンだったのでは?」と疑問を投げかけたが、やがてその質問そのものがはらむ残酷さに自ら戸惑う。事実を事実として認めることを拒む何か、当時における「反共聖戦」プロパガンダは否定したとしても、朝鮮民族は他国を侵略したことなどないという「神話」が自分の中にもあったことに気づく。参戦軍人たちのPTSDとも言うべき苦悩にも目は向けられる。

 著者は日韓関係にわだかまる従軍慰安婦問題でも聞き取りを行なっている。彼女たちがつらい過去を語ることの困難に悩む姿をベトナムの遺族たちにも重ね合わせ、歴史の真実を本当に考えようとするなら、韓国自身の問題も直視しなければならないと真摯に問いかける。

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2010年2月10日 (水)

ジャック・プレヴォタ『アクシオン・フランセーズ:フランスの右翼同盟の足跡』

ジャック・プレヴォタ(斎藤かぐみ訳)『アクシオン・フランセーズ:フランスの右翼同盟の足跡』(白水社・文庫クセジュ、2009年)

 普仏戦争に敗れた結果として生まれたフランス第三共和政、政教分離政策、ドレフュス事件、こうして伝統主義勢力が劣勢に立たされる中、アクティブな活動を展開した雑誌『アクシオン・フランセーズ』(1908年創刊)。政治的には傍流だったが、知的活動は活発だった。シャルル・モーラスを中心に、この活動の後世への影響も含めて簡潔にまとめられている。

 モーラスは教権擁護だったが、彼の政治第一主義はかえってローマ法皇ピウス11世との齟齬を来たしたというのが興味深い。ナチス占領下ではフランス国家のひたすらな回復を求める考え方からヴィシー政権のペタン元帥を支持。戦後は裁判にかけられ、有罪判決を受けたとき、「ドレフュスの復讐だ!」と叫んだという。モーラスの本領は文芸批評にあったこと、民主政体における国家の権威という難問を突きつけたこと、フランス社会に沈潜していた不安に応えていたことなどが指摘される。

 フランス右翼関係では、以前に剣持久木『記憶の中のファシズム──「火の十字団」とフランス現代史』(講談社選書メチエ、2008年)を取り上げたことがある(→こちら)。福田和也『奇妙な廃墟』(ちくま学芸文庫、2002年)は、読もう読もうと思いつつ、まだ手に取っていなかった。

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2010年2月 9日 (火)

ヴァーリ・ナスル『ザ・シーア・リヴァイバル:イスラム内部の衝突がいかに未来を決めるか』

Vali Nasr, The Shia Revival: How Conflicts within Islam Will Shape the Future, Norton, 2007

 全世界ムスリム人口のうちスンニ派が9割を占めるのに対してシーア派は1割ほど。本書は、両者の対立の歴史的起源から説き起こし、その経緯を政治史的・思想史的に整理した上で現代における中東紛争の構図を提示する。宗教的教義だけでなく、文化、民族、国家、欧米への態度(とりわけ反米)、様々な要因が複雑に絡まりあい、しばしばシンボル操作も伴って、そこから生じるダイナミズムが中東を舞台とした壮大なアイデンティティ・ポリティクスを展開していると言えるだろうか。イラン・イスラム革命とイラクのサダム・フセイン政権崩壊によって、これまでスンニ派によって押さえつけられてきたシーア派が台頭、こうした事態をスンニ派は脅威と受け止め、両者の対立がこれまでにないほど高まりつつあるというのが本書の示す見通しである。

 第4代カリフ、アリの一族がウマイヤ朝によって殺害され、前者をしのび続けたのがシーア派、後者の世俗的権威を承認したのがスンニ派というのは高校世界史レベルの知識だろう。アリの息子フセインの殉教は自己犠牲の美徳としてシーア派の精神的源泉となった。それはキリストの受難(passion)と同様の意味を持ち、フセインの殺されたカルバラ(Karbala)はシーア派の聖地となっている。建前としては信徒の平等、しかし実際にはアラブ人の優位→イラン人がシーア派にひかれた一因のようだ。スンニ派がイスラム法の解釈に重きを置くのに対して、シーア派は信仰の外的意味と内的スピリチュアリティとを分けて後者を重んずる。それは、アシュラ(Ashura)の熱狂的祭礼に具体化。スンニ派の中でも心理的バランスをとるかのように内的スピリチュアリティへの探求はスーフィズムという形を取った。スンニ派のうち最も厳格な立場を取るワッハーブ派はシーア派とスーフィズムの両方を否定(なお、イラン革命後のアヤトラたちも教義の純粋化を求めて敬虔主義的な志向性を軽視→シーア派の「スンニ」化が指摘される)。第12代イマーム、ムハンマド・アル・マフディ(Muhammmad al-Mahdi)が夭逝→「お隠れ」になった→その再臨待望がシーア派の教義となっており(十二イマーム派)、ユダヤ・キリスト教のメシアニズムに近いという指摘が興味深い。再臨待望思想は現世の苦難を耐える受身の態度につながり、スンニ派支配にも甘んじることになる。また、シーア派には階層的ヒエラルキーはなく、宗教的権威の多元性も特徴である(この点でホメイニは例外的)。

 ホメイニは哲学的にはシーア派的神秘主義による二元論→超越的な真理を知り得るのは「法の守護者」たるウラマーだけ→「ヴェラーヤテ・ファギーフ」(イスラム法学者の支配)はプラトン的哲人政治の形をとった。同時に、シーア派アイデンティティに訴える一方で、その精神的伝統としての敬虔主義的なスピリチュアリティ(例えば、アシュラ)は軽視した(つまり、シーア派の「スンニ」化)。イラン・イスラム革命の大衆動員にあたって「赤いシーア派」(Red Shia)「イスラム的マルクス主義」(Islamic Marxism)が大きな役割を果たしたというのが興味深い。イスラム革命直前に死んだアリ・シャリアティ(Ali Shariati)は獄中で左翼活動家と議論、彼らの唯物的無神論は承服しかねるが、『共産党宣言』を読み、社会的正義を求めて行動すべきという点ではシーア派の教義に通ずるものを見出す→イマームの再来を待つのではなく、積極的に行動をおこせ!→立場的にラテンアメリカにおけるカトリック神父たちの「解放の神学」と同様で、若手の支持を得た。つまり、ホメイニに体現された宗教的価値と、シャリアティが示したシーア派的マルクス主義における大衆動員の組織化、第三世界論、貧困の解消、中央集権体制など左翼イデオロギーとが結びついて革命運動が形成された。ホメイニは革命の輸出を目指す→しかし、イラン革命はシーア派がおこしたものであり、スンニ派にはアピールできない→論点を宗教的問題から外して、反帝国主義、反イスラエルなど世俗的テーマに訴えた。こうした流れの中でレバノンにヒズボラを創設。

 ワッハーブ派を国是とするサウジアラビアはイランの台頭を脅威と受け止め、まず、イラン・イラク戦争ではサダム・フセインを支援。また、潤沢なオイルダラーをつぎこんで世界各地のスンニ派の学校を支援、それは資金的と同時に思想的な影響→シーア派台頭への対抗戦略としてファンダメンタリズムを拡散させた。そうした流れの中からアル・カイダやタリバンが現われた。シーア派人口が一定数以上存在するレバノン、バーレーン、パキスタン、アフガニスタン、そしてサウジアラビアのお膝元でもスンニ派・シーア派の対立から政治的地殻変動が生じ始める。

 シーア派台頭の第二段階がアメリカによるイラクのサダム・フセイン政権崩壊である。バース党は世俗的ナショナリズムに立脚するが、実質的には少数派のスンニ派がシーア派を支配する構図だった(イラクの人口はシーア派が多数を占める)→フセイン政権崩壊でシーア派が勢いづき、スンニ派はますます警戒心を強める。この時も1980年代と同様にイランは反米・反イスラエルを呼びかけたが、スンニ派の反シーア派感情は拭えない→スンニ派はシーア派に対してテロ活動。

 こうしたイラク情勢の中で、本書はシーア派の宗教指導者シスタニ(Sistani)の存在感に注目する。彼は宗教的には保守派だが、シーア派本来の非政治性(静寂主義と批判された立場)からアメリカ・反米活動の双方から距離を置き、あくまでも自分は仲介役というスタンスをとった。また、イラクではシーア派が人口的に多数→多元的民主政は悪くない選択肢→一人一票の選挙を通した合意によって新しい体制をつくるべきことを主張(この主張はレバノンやバーレーンのシーア派にも影響→ヒズボラが選挙に参加、バーレーンでは民主化要求)、女性にも積極的な政治参加を呼びかけた。また、スンニ派のテロがあっても内戦回避のため抑制をシーア派に呼びかけた。シスタニを例にとって、ホメイニとは違ったタイプのリーダーシップもシーア派にはあり得ることが指摘される。

 イラン内部の多元性の指摘も興味深い。支配者層は宗教者である一方で、若者や中産階級は近代志向(→イラクとの交流が深まれば、この層が影響を及ぼす可能性もある)。また、ホメイニ体制ではシーア派伝統の敬虔主義は軽視されていたが、近年は敬虔主義への回帰現象も見られるという。近代志向の人々が選挙でハタミを支持して現体制への異議申し立てを示したのとは別の形による伝統派からの異議申し立てと指摘される。他方で、イランの地域大国意識は核保有を目指す強硬姿勢にもつながっているし、何よりもスンニ派との緊張は楽観的な見通しを許さない。

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2010年2月 8日 (月)

上原善広『日本の路地を旅する』

上原善広『日本の路地を旅する』(文藝春秋、2009年)

 もう十年近く前になるか、熊野の新宮に行ったことがある。中上健次に特に思い入れがあるわけでもなかったが、せっかくここまで来たのだから彼ゆかりの地を歩いておこうと思い立った。すでに夕方五時過ぎ、薄暗くなり始めた頃合だった。中上作品に登場する「路地」だったとおぼしき場所へ行くと、真新しい公営住宅が整然と並んでいる。一角に社会教育会館があり、中に入ると玄関ホールに中上に関する展示があった。時間も時間だから職員らしき人は見当たらず、警備員の方に中上の生家はどこか尋ねてみたら、だいたいの場所を教えてくれたが、「記念碑とかそういうのは何もありませんよ」と付け加えられた。

 本書の「路地」とは、中上の表現による被差別部落のことである。北海道から沖縄まで日本全国の路地を旅して、それぞれの歴史的由来と、そこで出会った人々との語らいがつづられている。彦根藩では藩をあげて牛屠が行なわれていて、明治になって東京に進出、近江牛ブランドが有名になったこと、沖縄のエイサーと遊行芸人としての京太郎とのことなどは初めて知った。吉田松陰に身分解放の思想を見出す指摘にも興味を持った。

 著者自身も同様の出自であることを明かすと胸襟を開いて話してくれる人々がいる一方で、それでも堅く口を閉ざす人がいるのはやむを得ない。人の傷口に塩を塗りつけるような取材が果たして良いのかと悩むこともある。しかし、他ならぬ著者自身にとって自らの生い立ちに向き合う気持ちを整理する旅でもあり、そうした思い入れが行間からにじみ出ている。その点では政治的に生硬な気負いは感じさせず、素直に被差別部落の歴史を考えさせてくれる。

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2010年2月 7日 (日)

佐藤千歳『インターネットと中国共産党──「人民網」体験記』

佐藤千歳『インターネットと中国共産党──「人民網」体験記』(講談社文庫、2009年)

 著者は新聞記者で、「人民日報」のインターネット部門「人民網」で日本語翻訳のため出向、先方の内情や出くわしたトラブルをつづった体験記。翻訳にあたっては中国なりのポリティカル・コレクトネスがあり、先方のロジックと日本人記者としての考え方、そこに漂うセンシティブな「温度差」が実体験を通してうかがえて興味深い。

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2010年2月 6日 (土)

スティーヴン・キンザー『すべてシャーの臣:アメリカによるクーデターと中東テロの起源』

Stephen Kinzer, All the Shah’s Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror, John Wiley & Sons, 2008

 1953年に起こったイランのモサデク政権転覆クーデターは、CIA主導の秘密工作のうち最も有名な事件の一つであり、現在に至るもその悪影響を引きずっている。本書はモサデク(Mossadegh)の人物像を中心に、イラン現代史、とりわけクーデターに至る経緯を描き出した歴史ノンフィクションである。初版は2003年だが、2008年ペーパーバック版には“The Folly of Attacking Iran”(イラン攻撃の愚かさ)という一文が追加されている。タイトルは昔のアメリカ映画「オール・ザ・キングスメン」を思い起こさせる(ショーン・ペン主演のリメイク版は以前にこちらで取り上げた)。すべてはシャーの背後にいたアメリカの思うままに見えたが、しかし…という意味合いでも込められているのだろうか。この映画の原作は『すべて王の臣』(ロバート・ベン・オーウェン、鈴木重吉訳、白水社、1966年)として邦訳されているので掲題訳はそれにならった。なお、Stephen Kinzer, Overthrow: America’s Century of Regime Change from Hawaii to Iraq(Henry Holt and Company, 2007)は前回取り上げた(→こちら)。

 まず、古代以来のイランの歴史を簡潔に概観。19世紀以降の帝国主義ゲームでイギリスとロシアの干渉を受け、とりわけ石油の発見はイランの運命を大きく変えた。カージャール(Qajar)朝の弱体化、1905年の立憲革命、政治的混乱の中から軍人のレザー・ハーン(Reza Khan)が台頭→1925年、シャーに即位してパフレヴィー(Pahlavi)朝が成立。レザー・シャーは世俗的近代化を推進(トルコのケマル・アタチュルクに触発された)する一方で、暴力的な専制支配は反発を受け、近代的価値観は一般レベルで共有されることがなかった。外国の影響を排除しようしたが、第二次世界大戦でナチス・ドイツと同盟→英ソの干渉→退位を迫られ、息子のモハンマド・レザー・シャー(Mohammad Reza Shah)が擁立される→イギリスの支配が再び始まった。

 イギリスの手中にある石油会社の国有化を主張して人々の支持を集めたのがモサデクである。彼は名門貴族の出身、ヨーロッパに留学して国際法を専攻、イラン人として初めて博士号を取得した知識人であり、外国の内政干渉からの脱却という民族主義と同時に、民主主義や言論の自由など近代的価値観をも信奉していた。1951年、国会(majles)の圧倒的な支持を集めて首相に就任、シャーは彼を反王政的だとして嫌っていたが、彼の首相就任を阻む権限はない。モサデクは石油会社国有化を宣言、すでに70歳近い高齢であったが、病躯をおしてイギリスと全面対決する。

 イギリスのアトリー政権(当時、労働党政権は産業国有化政策を進めていたので、モサデクは、自分たちが石油会社を国有化することのどこがいけないのか、と反論)は石油収入の分け前で妥協しようと交渉に臨んだが、モサデクにとっては利権以前に民族的尊厳の問題であり、一切の妥協には応じない。交渉は行き詰まり、業を煮やしたモリソン外相は武力によるモサデク政権打倒を検討、準備を始めたが、仲介役に立ったアメリカのトルーマン政権は暴走しかねないイギリスにブレーキをかけていた。ところが、イギリスでは保守党のチャーチルが政権に復帰、アメリカでも共和党のアイゼンハウアー政権が成立、イランに対する態度は一層強硬となる。イギリスは諸外国に圧力をかけて事実上の経済制裁を課し、イラン経済は混乱、そこに乗じて金銭や人脈を使ってイラン国内のモサデク支持勢力の切り崩しを進めた。アイゼンハウアー政権も、モサデクがいる限りイラン崩壊を食い止めることはできないと判断、またイラン問題でイギリスとの大西洋同盟に亀裂が走ることへの懸念もあり、政権転覆工作にゴーサインを出した。

 CIAの工作員カーミット・ローズヴェルト(Kermit Roosvelt、セオドアの孫)が暗躍。モサデクは言論の自由を抑圧してはならないと考えていたのに乗じて新聞の買収による世論工作も進めた。反モサデク勢力を結集して軍事クーデターを画策、一度はモサデク側に先手を打たれて失敗したものの、カーミットの執拗な活動により、1953年、モサデクたちを逮捕。モサデク自身はこうした動きを察知していたものの、もはや打つ手はなく、内戦を避けるため自分の支持者には平静を呼びかけていた。国外逃亡していたシャーは帰国、ザへディ(Zahedi)将軍の新政権はモサデク派の主要人物を処刑、モサデク自身は3年間の刑務所生活の後、秘密警察Savakの監視下で自宅軟禁され、1967年に84歳で逝去。石油会社は新たにアメリカ企業も含めて国際メジャーが勢ぞろいするコンソーシアムの形を取った。

 トルーマン政権、アイゼンハウアー政権ともに反共という点では同じだったが、トルーマン大統領やアチソン国務長官は第三世界におけるナショナリズムを味方につけようと考え、政権転覆工作はかえって悪影響を残すという見通しを持っていた。これに対して次の共和党政権では、アイゼンハウアー自身は交渉による妥協を求めたものの、第三世界への対応はジョン・フォスター・ダレス国務長官に一任、彼と弟のアレン・ダレスCIA長官は反共十字軍の手段として政権転覆工作を積極的に進めたという相違が指摘される。アメリカはシャーの専制政治に肩入れした結果、イラン国民の反米感情を高めてイスラム革命を招き、さらには中東全体を不安定化させてしまったという歴史の連鎖を見出すのも決して的外れなことではない。

 イスラム革命初期段階における暫定政権には、バニサドル(Bani-Sadr)大統領、バザルガン(Bazargan)首相、ヤズディ(Yazdi)外相などかつてモサデクを支持した人々が多数存在したが、急進派聖職者が実権を掌握するにつれて彼らのような世俗的リベラル派はすべて失脚もしくは国外亡命せざるを得なくなった。そもそも、モサデク政権成立時に聖職者たちの多くもその支持に回った中でホメイニ(Khomeini)はモサデクをイスラムへの裏切り者と非難し続けていた。モサデクの名前は民主主義や言論の自由と結びついているため、現行イスラム体制の中ではタブー視されているという。

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2010年2月 4日 (木)

スティーヴン・キンザー『政権転覆:ハワイからイラクまで「体制転換」のアメリカ百年史』

Stephen Kinzer, Overthrow: America’s Century of Regime Change from Hawaii to Iraq, Henry Holt and Company, 2007

 ブッシュ政権がイラク戦争を開始した際、「体制転換」(regime change)という言葉がよく使われた。本書は、この「体制転換」をキーワードに、アメリカが海外における影響力保持のため自らに刃向かう政権をいかに実力行使で倒してきたのかを描き出す。エピソード豊富で読みやすい歴史ノンフィクションである。

 ハワイ王国では、リリウオカラニ(Liliuokalani)女王の政治改革によって利権を失うのを恐れた現地の白人たちがクーデター→ハワイ共和国をでっちあげ→米西戦争でフィリピンを得たときアジア進出の足がかりとしてハワイもアメリカに併合。その米西戦争は、スペインの過酷な植民地支配からの解放という大義名分→しかし、スペインで新たに首相に就任したばかりのリベラル派・サガスタ(Sagasta)首相はキューバやプエルトリコに自治権を与えようと交渉中→うまくいったらアメリカの出番はなくなる→メイン号事件を口実に開戦。背景としては、マニフェスト・デスティニー(フロンティアが消滅し、海外に目を向けた)やマハン提督の海上権力論に影響を受けたマッキンリー、セオドア=ローズヴェルトたちの帝国主義があった。キューバやフィリピンの独立運動に対しては弾圧。アメリカのドル外交(ラテンアメリカ諸国に無理やり金を貸し付けて影響力保持)を受け入れなかったニカラグアのセラヤ(Zelaya)大統領はアメリカが唆したクーデターによる最初の犠牲者である。ニカラグアではその後も反米運動が続き、とりわけサンディーノ(Sandino)がシンボル的存在となった。

 戦後はアメリカの利権を脅かした政治指導者を「反共」の論理で打倒した例が目立つ。石油会社国有化を宣言したイランのモサデク(Mossadegh)首相(パフレヴィー国王による専制政治への肩入れはイランで反米の気運を強めて後にイスラム革命を招いた)、農地改革を進めようとしたグァテマラのアルベンス(Arbenz)大統領(グァテマラにはユナイテッド・フルーツ社の利権があった。アルベンスに対するクーデターを目撃したゲバラやカストロたちはキューバ革命で急進的な反米主義をとる)、そしてチリのアジェンデ(Allende)大統領が、それぞれアメリカの策謀によるクーデターで倒された。南ヴェトナムのゴ=ジン=ジェム(Ngo Dinh Diem)の場合は、その強権的な政治手法がかえって共産主義勢力への人気を高めてしまっているという動機があった点でタイプが異なる。さらに時代をくだって、パナマのノリエガ将軍、グレナダ侵攻(親キューバ政権の内部抗争に介入)、アフガニスタン、そしてイラクへと現代に至る。

 アメリカの動機は、第一に国益(天然資源、アメリカ企業の擁護、パナマ運河のような戦略的拠点の確保)であるが、もちろんそれを表には出さず「正義」を大義名分に立て、むしろそれを自分たちで信じ込んでしまっていた節もある。それは、第二の動機としてのイデオロギー性の問題にもつながる。マッキンリーやセオドア=ローズヴェルトたちの帝国主義の背景にはマニフェスト・デスティニー、さらには後進国を「指導」する責務という考え方があった。ジョン・フォスター・ダレスたちは反共主義を信奉、非西欧世界におけるナショナリズムの動向を理解できなかったため、例えばモサデクやアルベンスは共産主義者ではないにもかかわらず、アメリカに楯突く=ナショナリズムは共産主義の隠れ蓑になっていると単純化された世界観によって彼らを邪魔者と断定した。そして、ブッシュ(息子)政権がネオコンの思い込みで戦争を引き起こしたことは記憶に新しい。こうした思い込みによって、現地の情報部員による分析は無視して政策判断が行なわれた誤りも指摘される。

 「体制転換」においては「自由」や「民主主義」といった価値観の普及も大義名分として掲げられた。ところが、イランのモサデク、グァテマラのアルベンス、チリのアジェンデ、いずれも民主的に選出された政治指導者であったにもかかわらず、彼らをクーデターで倒して抑圧的な政治手法を取る独裁者を後釜に据えた。こうした矛盾がこれらの国々をその後も混乱に陥れ、反米の気運を高め、長期的にはアメリカの「国益」に反する結果となってしまった誤謬も指摘される。

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