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2010年1月19日 (火)

音楽で思いつくままに雑談

 気分が滅入っている時にはラフマニノフの交響曲第2番第3楽章を繰り返し聴いている。甘ったるいほどに感傷的でなめらかなメロディーがそっと優しく頭をなでてくれるようで、トゲトゲしい気分が不思議なほどに落ち着いてくる。

 逆に気分が落ち着いている時には刺戟の激しい曲を聴きたくもなる。例えば、ハチャトゥリヤン。組曲「ガイーヌ」の「剣の舞」は有名だし、最近は浅田真央が使った「仮面舞踏会」もよく聴かれているようだ。私は交響曲第3番が好き。特に後半、シンバルが激しく乱打されるリズムにのって金管楽器が狂ったように吼えたける。色彩豊かに感じられる激しさはコーカサスの特徴か。こうした激しさは、例えばイッポリトフ=イワーノフの組曲「コーカサスの風景」の「酋長の行進」でもメロディアスに洗練された形で表現されている。

 目を南に向けると、オスマン=トルコの軍楽曲。「ジェッディン・デデン」は日本でも知られている。さらに西に行って、バルカン半島のブラスバンド。エミール・クストリツァ監督の映画「アンダーグラウンド」、主人公の後ろにくっついて走り回るバンドが、どこかおどけた感じがする一方で、その奏でる響きが印象的だった。

 私は伊福部昭に興味があって、以前にこちらでも取り上げた。ゴジラのテーマ曲が有名だが、私が好きになったきっかけは彼のデビュー作「日本狂詩曲」の第2楽章「祭」。土俗的なリズムの力強さと音響の激しさとが絡み合って耳を引き裂かんばかりにわめきちらす。当時、伊福部はストラヴィンスキー「春の祭典」を意識していたらしい。洗練されてはいるがコンベンショナルに凝り固まった“近代”に対するアンチ、前衛として現われた「春の祭典」は、近代以前、キリスト教以前におけるロシアの土俗的な異教世界にインスピレーションを得ていた。“近代”を超えるために、体感に訴える“前近代”へと目を向ける発想。それは単なるファッションではない。伊福部は北海道出身で、幼少時からアイヌの文化になじみがあり、日本文化とも違う、欧化された近代社会とも違う文化へと目を向ける視点を持っていた。腹の奥底までズシンと響いてくる低音リズムのおどろおどろしさが特徴的な「ゴジラ」のテーマ曲から、核の放射能災害というこの怪獣映画の裏のテーマだけでなく、皮膚感覚に根ざした土俗性からする“近代”へのアンチを聴き取ることだって可能である。

 伊福部が世に出るきっかけを作ったのが、ロシアの亡命音楽家アレクサンドル・チェレプニンである。チェレプニンは日本と中国で若手音楽家を発掘しようとコンクールを企画、応募してきた伊福部の作品「日本狂詩曲」を見た当時の日本の楽壇の権威は、こんな野卑なものをヨーロッパの一流音楽家に見せるわけにはいかないと出し渋ったらしい。しかし、チェレプニンが探していたのはまさにその野卑さであった。彼は青年期、ロシア革命の混乱を避けてグルジアのチフリスで過ごしたことがあり、コーカサスのあの絢爛たるメロディーになじみがあった。そうした彼がわざわざ東アジアまでやって来て探していたのはヨーロッパ音楽のイミテーションなどではない。それぞれの文化的土壌に根ざした音感である。アイヌ文化も熟知して日本やアイヌの土俗性そのものを西洋音楽の語法を用いながら表現し得た伊福部をチェレプニンは見出した。

 そしてチェレプニンがもう一人見出したのが、台湾出身の江文也である。江文也の名前は侯孝賢監督の映画「珈琲時光」で初めて知った。一青窈演じるフリーライターは江文也の東京での足跡を探しているという設定だった。彼の著書『上代支那正楽考』(平凡社・東洋文庫、2008年)も以前にこちらで取り上げた。彼に台湾の、さらには漢族としての伝統文化へ関心を抱かせるきっかけを作ったのもチェレプニンだったという(このあたりのことは片山杜秀さんの論考で知った)。江文也作曲「台湾舞曲」をチェレプニンがピアノで弾いているのをCDで聴いたことがある。江はその後、戦時中に中国大陸へ渡ってそのまま留まり、文化大革命にも巻き込まれた。そうした彼の生涯を主軸にすると、音楽シーンを絡めた東アジア現代史として面白いストーリーが描けそうで興味を持っている。

 話は変わるが、平原綾香の歌声が好き。初めて聴いたのは「Jupiter」、どこのお店だったか有線放送で流れていたのが耳に残り、居合わせた友人に尋ねて平原綾香の名前を初めて知り、その後CDを買い求めた。先日、台湾の作家で日本統治期の世相史を掘り起こしている陳柔縉さんの《人人身上都是一個時代》(時報文化出版、2009年→こちら)という本を読んでいたら、まえがきの謝辞で平原綾香の名前が挙がっていた。面識はないけれど原稿を書くときはいつも「Jupiter」を聴いて気持ちが慰められていると記していた。親近感がわいた。

 エリック・サティのジムノペディ、ノクターン。キム・ギドク監督の映画「サマリア」のシーンが脳裡に浮かぶ。過酷な現実を目の当たりにした少女、まどろむ彼女のまぶたにそっと優しく手をそえるのは、彼女のつらさを我が身に引き受けて庇護しようとする父親。緊張感の冷たく張りつめた美しさが独特なキム・ギドクの映像世界と、そこにかぶさるジムノペディのけだるくゆったりとしたメロディーという取り合わせが印象的で、まどろむ少女の表情をなおさらいとしく感じさせた。

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