« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010年1月

2010年1月31日 (日)

ジョン・W・リンバート『イランとの交渉:歴史の亡霊に取り組む』

John W. Limbert, Negotiating with Iran: Wrestling the Ghosts of History, United States Institute of Peace Press, 2009

 本書はイラン現代史における4つの事件の分析を踏まえて、膠着状態にある対イラン交渉打開のための提言を行なう。そもそも敵対し合う国同士が「交渉」を進めるに当たってその成否を分ける要因は何か? そうしたケース・スタディとして興味深く読んだ。著者はイラン問題の専門家で、1979年のアメリカ大使館人質事件で拘束された当事者の一人でもある。

 1945年に第二次世界大戦が終わった時点で、イラン北部はソ連軍に、南部はイギリス軍に占領されており、ソ連はイラン領内アゼルバイジャン独立派やトゥーデ党(共産党)を支援していた。当時のカヴァム(Qavam)首相は、ソ連の目的は石油利権にあると正確に把握して交渉を進め、石油利権と引き換えにイラン領アゼルバイジャンから撤退させる。他方で、国会(majles)ではモサデク(Mosaddegh)たちナショナリストの主導で外国の占領中は石油の件で交渉をしてはならないとする法律が制定されており、結果として、まんまとソ連軍を追い払うことに成功した。

 1951年にモサデク首相はイギリス資本の石油会社の国有化を宣言。英米側は利権問題としての妥協を図ろうと交渉を進めるが、モサデク側としては利権問題以前にイギリス支配からの脱却という民族的尊厳の問題であった。何が「公正」なのか、妥協の基準が出発点から異なるため交渉そのものが成り立たない。モサデクの主張の背景を理解できなかった英米側は、パーセプション・ギャップの連鎖から感情的な応酬に陥る中で、彼を「非理性的」であるとみなす(懸案全体を彼個人の問題としてすりかえられた誤りが指摘される)。結局、1953年、CIA主導のクーデターでモサデクは引きずりおろされた。こうした一連の経過は外国の干渉という汚辱としてイランの人々に印象付けられた。とりわけ、英ソと違ってアメリカはイランに好意的だと期待を寄せていただけに裏切られたという思いが強まり、以降、反米感情が定着してしまった。

 反米感情の噴出したクライマックスの1つが1979~81年のアメリカ大使館人質事件である。革命後の暫定政府はすでに実質的な力を失っており、事態を収拾できる人物として交渉すべき相手はホメイニだけであった。しかし、肝心のホメイニ自身は交渉にまったく関心がないという困難があった。この時、ホメイニは一連の混乱を通して世俗派を追い落とし自らの権威を確立しようと図っており、情勢の落着が人質解放の交渉に取り掛かるタイミングであった。また、仲介役に立ったアルジェリアの適切なアドバイスが役に立ち、よい仲介者を見つけることの大切さが指摘される。

 1980年代、レバノンのシーア派民兵によるアメリカ人人質事件をめぐっての交渉において、イラン側はアメリカ製最新兵器の入手が目的であったのに対し、アメリカ側には人質解放だけでなくこの取引をきっかけにイラン体制内の穏健派に働きかけて対米姿勢の軟化を引き出そうという思惑があった。ところが、イラン側の体制内穏健派はこの取引に関与しておらず、むしろイラン側交渉当事者は人質は取引に使えると判断、そうした内情をアメリカ側は把握していなかった。結局、単なる人質と武器との取引にすぎなかったのだが、体制内穏健派に働きかけているつもりのアメリカ側は認識のギャップから泥沼にはまり込んでしまった。これがレーガン政権の一大スキャンダル、イラン・コントラ事件である。当時、アメリカ国内では大使館人質事件の悪印象から世論も大物政治家(シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官)もイランとの交渉に拒否感が強く、レーガン政権の補佐官たち(マクファーレン、オリヴァー・ノースなど)は秘密裏に行動、怪しげなブローカーに頼らざるを得なかったという背景がある(同時に、強硬な空気の中で身動きがとれなかったのはイラン側のラフサンジャニも同様で、対米交渉の話を切り出したら失脚のおそれがあった)。これに対して、次のブッシュ(父)政権、具体的にはスコウクロフト補佐官は賢明にも交渉チャネルを国連にしぼった。デクエヤル事務総長はイラン・イラク戦争終結の仲介によってイラン側から信頼されていたため交渉はうまくいった(ここでも適切な仲介者の大切さが指摘される)。

 イランには、古代文明にルーツを持つという大国意識があると同時に、列強の侵略を受けてきたという被害者意識も複雑に絡み合ったナショナリズム感情が強い。1953年のモサデク政権転覆クーデターは反米感情を強め、他方で1979年のアメリカ大使館人質事件はイランを狂信的とみなす印象をアメリカ側に刻み付けてしまった。双方が相手を「悪」と決め付ける「神話」が形成され、相互不信のスパイラルは現在に至るも交渉を阻む障碍となっている。そうした「神話」形成の歴史的経緯を解きほぐすことが本書の大きなテーマである。交渉相手を「悪」「非理性的」と決め付けると、それはかえって相手側を「予言の自己成就」へと追いやってしまう結果をもたらしかねず、相手側の内在的ロジックを(受け入れないまでも)理解した上で交渉のきっかけをつかむことが必要である。

 なお、イラン情勢に関しては、Ray Takeyh, Hidden Iran: Paradox and Power in the Islamic Republic( Holt Paperbacks, 2007→こちら)、Ray Takeyh, Guardians of the Revolution: Iran and the World in the Age of the Ayatollahs(Oxford University Press, 2009→こちら)も最近読んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月28日 (木)

クリストファー・W・ヒューズ『日本の再軍事化』

Christopher W. Hughes, Japan’s Remilitarisation, Routledge, 2009

・日本の安全保障政策は近年どのように変化しているのか? その背景と要因をデータに基づいて現状分析したモノグラフ。掲題訳はちょっとこなれていないが、要するに、日本の軍事的存在感が再び高まりつつあるという趣旨。
・まず、戦後における抑制的なシステム(例えば、内閣法制局による抑制的憲法解釈や文官優位という形の官僚制度におけるシヴィリアン・コントロール、防衛費のGNP比1%枠、非核原則など)を振り返り、その上で、①防衛費支出、②軍事力の規模や展開能力、③市民との関係(かつてのような自衛隊アレルギーはなくなった)、④防衛産業との関係(軍産複合体はアメリカとのクロス・ナショナルな形を取りつつある。ミサイル防衛システムの導入はアメリカの軍事戦略に組み込まれることを意味する)、⑤国連やアメリカとの対外的協力活動、⑥国内的なコンセンサス(世論の変化→タブーはなくなりつつある)、など様々な論点から近年の変化が検討される。
・北朝鮮問題(不審船事件→海上保安庁により戦後初めての武力行使→世論の反対もなく、一つのメルクマールとなる)や中国の台頭(東アジアにおいて日中の静かな軍拡競争が進行中と指摘。ソマリア沖への日本の艦船派遣にあたっては、中国が先に派遣を決めたことが決定的だった)が背景として大きい。
・日本の軍事的存在感は高まりつつあり、政権交代があってもこの長期的な傾向は変わらないと結論付けられる。ただし、日本は民主主義国家であり、戦前のような軍国主義に後戻りすることはない。日本国内でも自主防衛論はなりをひそめ、むしろアメリカのグローバル戦略と結びついたものになる(日本は北朝鮮や中国と単独でわたり合うつもりはないし、アメリカは日本を中国に対するカウンター・パワーとして利用できる)。従来の日米同盟において、日本は憲法上の制約から財政支援・基地提供等にとどまる事実上片務的に近い形を取り、同時に、中国・韓国など周辺諸国に向けては日本の軍国主義復活への重石という説明がなされていた。今後、日米同盟は日本の能動的な役割分担を見込んだ双務的なものへと変質していくだろうし、国際社会も日本の軍事的存在感の高まりを一つの前提として考慮しなければならない。他方で、こうした情勢が周辺諸国に懸念をもたらすことを日本自身も認識しておかねばならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月27日 (水)

頼明珠《流轉的符號女性:戰前台灣女性圖像藝術》

頼明珠《流轉的符號女性:戰前台灣女性圖像藝術》藝術家出版社、2009年

 著者は村上春樹作品の翻訳者とは同姓同名の別人のようだ。戦前の台湾美術史に表われた“女性”像の後景にひそむロジックを析出し、“女性”を取り巻いてきた抑圧的な言説を読み解こうとする趣旨の論文集である。分析手法にはカルチュラル・スタディーズやフェミニズムの色合いが濃厚。表題ともなっている第6章はこの観点からの図像分析に基づく、清代及び日本統治期における台湾美術史の簡潔な通史ともなっている。

 日本統治期に画家を志した女性の大半は日本画(戦後は“膠彩画”と呼ばれた)を学んだ。台北第三高等女学校の美術教師だった日本画家の郷原古統によって彼女たちの才能が見出されたからだが、郷原のもと以外で女性が美術を学べる場所がなかったからだとも言える。

 本書の全体的な論点としては、第一に、伝統的な儒教道徳における男尊女卑の父権制によって女性は家庭に縛られていたこと。幸運にも社会へ出るチャンスがあったとしても、第二に、植民地支配下の政治・社会環境では何を描くかということ自体に時局的な制約があったこと、以上が指摘される。男性優位の権力と政治の権力。近代化はすでに胎動し始め、知識階層には女性解放の思潮が芽生えてはいても、こうした二重の権力の壁にぶつかって立ちすくみ、自由に絵画表現の才能をのばせなかった女性たちに焦点が当てられる。中には、陳碧女のような例もある(第3章「父権與政権在女性畫家作品中的効用」)。彼女は父・陳澄波からじかに西洋画の手ほどきを受けたが、裏返せば父の模倣に過ぎない=父の束縛から逃れられなかった。その父は二・二八事件で処刑された=政治の圧迫を目のあたりにして、彼女は絵筆を折ってしまった。

 以上のような二重の制約に圧倒された中でも、陳進の存在感が特筆される。台湾第一の女性画家として著名な彼女だが、単に才能が注目されたというだけではない。第一に、自分の能力を確信して、思うものを表現するために旧社会の伝統を打ち破って自ら進んだこと。第二に、技法として日本画を学んでも(郷原の勧めで日本へ留学し、鏑木清方門下の伊東深水と山川秀峰に師事)、それを通して自分自身の境地を切り開き、原住民を含めた台湾の女性を描いてエキゾティシズムではなく自身の郷土としての台湾を表現したことが評価される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月26日 (火)

李欽賢《追尋台灣的風景圖像》

李欽賢《追尋台灣的風景圖像》台灣書房、2009年

 著者の《台灣美術之旅》(雄獅図書、2007年→こちら)は、美術家たちそれぞれゆかりの土地でのエピソードと、彼らの時系列的な位置付けとを組み合わせる構成がよく出来ていて、台湾を旅しながら台湾美術史の流れを把握できるという面白い本だった。恰好な入門書だと思う。

 本書《追尋台灣的風景圖像》も、台湾の風土とそこに向けられる眼差しとしての美術という取り合わせは同じだが、むしろ前者の風土の方に重きが置かれている。眼差しのあり方としては美術ばかりでなく、絵葉書とスタンプ、鉄道やバスと観光、近代建築の出現と街並みの変化など様々な視点を取り上げ、当時におけるエピソードも合わせてつづった歴史エッセイ集に仕上がっている。台湾人の美意識を掘り起こすというコンセプトは、民主化以降の本土化の流れを体現していると言える。

 近代化へと向けて風景が大きく変わり始めた日本統治期の話題が多い。近代西洋画の技法を身に付けた台湾人の画家たちはこの時代から輩出したという事情がある。それから、台湾人が当たり前に思っていた目前の風景に、外来者である日本人がエキゾチックな美を見出し、そうした眼差しに今度は台湾人も触発されたという側面もあったのだろうか。台湾で多くの弟子を育てた石川欽一郎は水彩画で南国的な田園風景を描いた。フォービズムの鹽月桃甫は原住民に関心を寄せたらしい(霧社事件の報復爆撃で逃げ惑う原住民の母と幼な児を描いた「母」という作品が目を引く)。立石鐵臣は生活光景や民具をシンプルな版画のカットで表現した(立石は『民俗台湾』の主力メンバー。彼については以前にこちらで取り上げた)。

 話が脱線するが、梅原龍三郎が台展(台湾美術展覧会)の審査員として来るなど意外と台湾と縁がある。以前、三峡の李梅樹美術館に行ったら、李宛ての梅原の葉書が展示されていた。梅原は李が東京美術学校で学んでいた時の恩師で、三峡の実家まで案内したらしく、その時のお礼状だった。それから、師範大学教授として北京へ行った郭柏川はやはり北京訪問中の梅原と交流があり、郭の作品には梅原の影響が濃厚に表われているという。別の関心事だが、江文也も当時北京師範大学の教授で郭の同僚だったし、梅原とも知っていたはずだから、この辺の交友関係もどんなものだったのかという興味がわいた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年1月24日 (日)

ジグムント・バウマン『幸福論──“生きづらい”時代の社会学』

ジグムント・バウマン(高橋良輔・開内文乃訳)『幸福論──“生きづらい”時代の社会学』(作品社、2009年)

 原著タイトルはThe Art of Lifeである。邦訳タイトルも本の装丁も“やさしい”感じだが、バウマンの議論で示される現状分析は決して“やさしい”ものではない。内容的な方向性としては、『リキッド・モダニティ』(大月書店、2001年)をはじめ先行する一連の著作の延長線上にある。例えば、経済構造の変化によって常に個人のアイデンティティに変化が強要されている流動性、“ファッション”が社会的承認(→自己アイデンティティ形成)の基準となっている消費社会、等々の論点は最近の社会学的議論に慣れた人にとって特に目新しくはないかもしれない(こうした社会状況の中での“成功”感情が通俗的な意味での“幸福”だと言える)。

 後半では哲学者たちの思索が取り上げられ、最後はレヴィナスでしめくくられる。不確実性の中でこそ、内的な自発性に基づいて選択を行なうのが“道徳”であり、自分自身が確信している道徳感情によって後悔しない振る舞いを取るところに“幸福”なるものが見出される。例えば、ナチスに迫害されたユダヤ人を危険も顧みずに匿ったポーランド人の出身背景は様々で、彼らがなぜそのような行動を取ったのか、そこに社会的因果関係は何も見出せないのは魅力的な謎だという指摘が目を引いた(188~194ページ。なお、バウマン自身、ユダヤ系ポーランド人である)。

 バウマン言うところの“リキッド・モダニティ=液状化した近代”によって個人が目まぐるしく“変化”を迫られている中でも、個人の側にそうした強制に納得できない、従順にはなれない何かがある、それを様々な論点を提示しながら間接的に指し示し、読者自身に自分なりのあり方を考えさせようというところに本書の意図があると言えるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

裵淵弘『朝鮮人特攻隊』

裵淵弘『朝鮮人特攻隊―「日本人」として死んだ英霊たち』 (新潮新書、2009年)

 日本の植民地支配下にあった戦時下では“日本人”として死ぬことを強要され、戦後になると今度は“親日派”狩りの中で国賊とみなされてタブー視されてしまった朝鮮人の特攻隊員たち。民族差別を見返してやろうと軍人を志して、親友に「天皇のために死ぬわけにはいかない」ともらす人もいた。歴史のエアポケットの中にはまり込んでしまった彼らの死を、本書は手掛かりが乏しく遺族の戸惑った視線も受ける中で掘り起こしていく。

 朝鮮半島にしても、あるいは台湾にしても、“日本軍”として従軍した人々に関する研究には、戦後におけるイデオロギー的なものが否応なく政治的論争を引き起こしてしまう。外的な制約というばかりでなく、後世の後知恵で脈絡付けようとしたくなる我々自身の視点に絡みつく価値観というレベルも含めて。彼らが内面的に抱えていたものまで迫るのは本当に難しいが、それが面倒だからと言って目を背けてしまうわけにはいかない。

 韓国航空史という点でも興味深く読んだ。女性飛行士の先駆け・朴敬元は被支配民族、ましてや女性でも自分の夢をつかもうと懸命だったし、それに先行する韓国初の飛行士・安昌男という人物は独立運動のため閻錫山のもとに逃れていった(と言われている)という謎めいたところが興味深い。安昌男が飛行士になろうと志したきっかけはアメリカ人飛行士アート・スミスの曲芸飛行だったという。ちょうど同じ頃、台湾初の飛行士となる謝文達もやはりアート・スミスの曲芸飛行を見て触発されたということを陳柔縉『人人身上都是一個時代』(時報文化出版、2009年)で最近読んで知ったばかりだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

浜井浩一『2円で刑務所、5億で執行猶予』、浜井浩一編著『家族内殺人』、芹沢一也『暴走するセキュリティ』、他

 統計的に過去と比較すると凶悪犯罪は減少しているにも拘わらず、マスコミを中心に「治安が悪化している、それはモラルの低下に問題がある」といった趣旨の話が巷間流布している。浜井浩一『2円で刑務所、5億で執行猶予』(光文社新書、2009年)は、そうした“神話”を具体的な根拠に基づいて解きほぐしていく。タイトルからは何の本だかよく分からないが、犯罪学の知見から様々な論点を提起しており、犯罪・司法・更生という一連の流れを概観する上でとっかかりになる。犯罪抑止に関して経済学者と犯罪学者とでは同じ統計的手法を用いても想定する人間像が異なる(前者は合理的人間モデルを取るのに対し、後者は人間存在の不合理な側面を考慮に入れる)ので結論も違ってくること、判決以前に犯罪者と関わる警察官・検察官・裁判官と以後に関わる矯正職員・保護観察官とでは犯罪者へのイメージが異なること、といった論点に関心を持った。

 凶悪犯罪が減少しているにも拘わらず、なぜ体感治安が増加しているのかについては河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス──治安の法社会学』(岩波書店、2004年)が一つの試論を提示していた(→こちら)。社会に居場所がなく刑務所に入らざるを得ない触法障害者や「刑務所太郎」(刑務所生活では優等生なのに、社会的に適応できない人々)については、浜井浩一『刑務所の風景──社会を見つめる刑務所モノグラフ』(日本評論社、2006年)、山本譲司『獄窓記』(新潮文庫、2008年)、同『続 獄窓記』(ポプラ社、2008年)が具体的な状況を描いている。

 浜井浩一編著『家族内殺人』(洋泉社新書y、2009年)は親殺し、児童虐待、嬰児殺、高齢者の殺人、無理心中やDV、更生といった問題についてそれぞれ現場を知っている専門家が執筆。家族内殺人は昔からある。それは家族という濃密に閉じられた人間関係の中で生じた複雑なトラブルに起因する問題で、時代的なモラルとは次元が異なる。統計的にはむしろ減少傾向にあるにも拘わらず、やはり上掲書と同様に「家族の絆が崩れている」と通俗化されてしまった“神話”が実際の状況から乖離しており、かえってその実像がなかなか理解されないという問題が指摘される。

 芹沢一也『暴走するセキュリティ』(洋泉社新書y、2009年)は、廃刊された『論座』連載「犯罪季評 ホラーハウス社会を読む」を基にまとめられている。“犯罪”に向けられた社会的な眼差しの内在構造を腑分けしていく論点を示していく。江戸時代の死刑は見せしめのための公開処刑として権力誇示のセレモニーだったのに対し、現代の刑罰観は囚人の矯正→しかし、死刑=生命の剥奪は矛盾してしまう→死刑へのためらい、隠蔽、という論点に興味を持った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月20日 (水)

周婉窈「想像の民族性──江文也の文章作品における台湾と中国についての試論」

周婉窈〈想像的民族風──試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉,《臺大歷史學報》第35期(2005年6月)

 今年は江文也生誕百周年だ。私が江文也に関心を持っていることは前回こちらに書いたし、彼の著書『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)も以前に読んだ(→こちら)。

 最近、周婉窈さんの著作をいくつか読んで(→『図説 台湾の歴史』、『「海ゆかば」の時代』、『日本統治期の台湾議会設置請願運動』)、他にどんなものを書いておられるのかと台湾大学のホームページで著作目録を眺めていたら、上掲論文を見つけた。PDFをダウンロードできるので読んでみたら、これがまた私の興味関心のど真ん中。周婉窈さんは、江文也の理解にしても、あるいは『「海ゆかば」の時代』で言及された日本語世代の老人たちについても、彼らの意図とは関係なく妙な具合に絡み付いてしまった政治性を解きほぐし、彼ら自身が生きざるを得なかった時代状況そのもの中で内在的に抱えていたものへ虚心坦懐に迫っていく。そうした眼差しがひたむきで感心している。

 江文也は1910年、日本の植民地支配下にあった台湾で生まれた。父の商売に従って廈門の旭瀛書院に学んだ後、1923年から日本に留学。専門の音楽教育を受けていなかったが、声楽家・作曲家として認められ、1936年のベルリン・オリンピックの音楽部門で「台湾舞曲」が入選、国際的な名声を得た。1938年には日本占領下の北京で師範大学の教授となるが、日本の敗戦後は「漢奸」として拘束される。釈放はされたものの、その後も反右派闘争や文化大革命で迫害を受けた。1978年に名誉回復、1983年に北京で逝去。

 彼は台湾出身で初めて国際的な知名度を得た音楽家という位置付けになるが、戦後も中国大陸に留まり、それは国民党政権下ではタブーであったため、戦後世代の台湾人の間ではほとんど忘れ去られていたという。1980年代から江文也リバイバルが始まった。その際、中国アイデンティティー、もしくは台湾アイデンティティー、いずれにせよ彼を民族主義の観点から捉える風潮が強まった。しかしながら、それは非歴史的な決めつけに過ぎず、江文也自身に内在的な芸術的感性のロジックは無視されていると著者は批判する。彼が生きていた当時の歴史的脈絡の中で捉えなおそうとするのがこの論文の趣旨となる。

 江文也が過ごしていた当時の日本の音楽界では、とりわけアレクサンドル・チェレプニン(齋爾品)の存在が大きい(チェレプニンについても前回こちらで触れた)。チェレプニンは西洋とは異なる伝統的・土着的感性に根ざした音楽を求めて日本・中国で若手の発掘に努め、彼によって見出された清瀬保二、伊福部昭たちはその後、“日本民族楽派”と称されるようになる。そうした雰囲気の中で江文也もチェレプニンによって見出されたわけだが、ただし、彼は“純粋な日本人”ではない。清瀬保二は、江文也の音楽の中国的なものを賞賛、日本的なものがあることを残念がっていたそうだから、江に対して君自身のルーツを音楽にすべきだという意見もあったのかもしれない。いずれにせよ、自分の音楽的インスピレーションをどこに求めるのか? そうした模索の中、故郷台湾へ戻ったとき、あるいは北京に赴いたとき、彼は大きな感動を受ける。

 ただし、東京を捨てて北京へ行った→民族的アイデンティティーの回帰と捉えることに著者は疑問を呈する。北京行きの背景としては、中国に芸術的インスピレーションを求めていたこと、東京で疎外感を味わっていたこと、正規の音楽教育を受けていなかった彼にとって師範大学教授のポストは破格であったことが挙げられる。東京で再び上演したいという意欲も持っており、東京か北京かという二者択一的な選択ではなかった。さらに、旧満州・北京などが日本軍に占領されたことで生じた空白状態へ、少なからぬ台湾人が活動の余地を求めてやって来ていたという背景も指摘される。

 彼の文章で表現されている台湾の原住民、北京の街並み、中国大陸の広大さなどの印象が検討されるが、それらはある意味表面的なもので、むしろ彼自身の内面に潜む感激性の芸術的情熱が台湾・中国といったイメージによって触発されている様が見て取れる。彼の本領はロマン主義にあった。政治的・文化的アイデンティティーとして台湾・中国を選びなおしたというのではなく、チェレプニンの示唆に従って西洋音楽の模倣ではない、東洋の伝統に根ざした音楽を求め(1940年には「西洋文明は行き詰っている」と彼は発言していたそうで、当時の日本の知識人に蔓延していた“近代の超克”の風潮も想起される)、そうした芸術的インスピレーションの源泉として自身とも血縁関係のある台湾・中国に関心を抱いた。それは、ロマンティックに想像された“台湾”“中国”であった(当時の日本の知識人の間には、国力的には日本が上回っていると思いつつも、やはり中国文化への尊敬や憧れがあり、そうした知的風潮の中に江文也もいたことが指摘される)。

 このように、後世の民族主義的視点に偏った江文也イメージをいったん突き崩し、彼個人の芸術的感性を彼の生きていた当時の歴史的コンテクストの中で理解していこうと努めているところにこの論文の建設的な説得力がある。日記等の一次史料の利用がままならないようだが、いずれ一冊の伝記研究に是非ともまとめて欲しい。

 なお、江文也については、『上代支那正楽考──孔子の音楽論』に附された解説論文、片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」も秀逸で、日本語で書かれた江文也研究としてはこれが一番良い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月19日 (火)

音楽で思いつくままに雑談

 気分が滅入っている時にはラフマニノフの交響曲第2番第3楽章を繰り返し聴いている。甘ったるいほどに感傷的でなめらかなメロディーがそっと優しく頭をなでてくれるようで、トゲトゲしい気分が不思議なほどに落ち着いてくる。

 逆に気分が落ち着いている時には刺戟の激しい曲を聴きたくもなる。例えば、ハチャトゥリヤン。組曲「ガイーヌ」の「剣の舞」は有名だし、最近は浅田真央が使った「仮面舞踏会」もよく聴かれているようだ。私は交響曲第3番が好き。特に後半、シンバルが激しく乱打されるリズムにのって金管楽器が狂ったように吼えたける。色彩豊かに感じられる激しさはコーカサスの特徴か。こうした激しさは、例えばイッポリトフ=イワーノフの組曲「コーカサスの風景」の「酋長の行進」でもメロディアスに洗練された形で表現されている。

 目を南に向けると、オスマン=トルコの軍楽曲。「ジェッディン・デデン」は日本でも知られている。さらに西に行って、バルカン半島のブラスバンド。エミール・クストリツァ監督の映画「アンダーグラウンド」、主人公の後ろにくっついて走り回るバンドが、どこかおどけた感じがする一方で、その奏でる響きが印象的だった。

 私は伊福部昭に興味があって、以前にこちらでも取り上げた。ゴジラのテーマ曲が有名だが、私が好きになったきっかけは彼のデビュー作「日本狂詩曲」の第2楽章「祭」。土俗的なリズムの力強さと音響の激しさとが絡み合って耳を引き裂かんばかりにわめきちらす。当時、伊福部はストラヴィンスキー「春の祭典」を意識していたらしい。洗練されてはいるがコンベンショナルに凝り固まった“近代”に対するアンチ、前衛として現われた「春の祭典」は、近代以前、キリスト教以前におけるロシアの土俗的な異教世界にインスピレーションを得ていた。“近代”を超えるために、体感に訴える“前近代”へと目を向ける発想。それは単なるファッションではない。伊福部は北海道出身で、幼少時からアイヌの文化になじみがあり、日本文化とも違う、欧化された近代社会とも違う文化へと目を向ける視点を持っていた。腹の奥底までズシンと響いてくる低音リズムのおどろおどろしさが特徴的な「ゴジラ」のテーマ曲から、核の放射能災害というこの怪獣映画の裏のテーマだけでなく、皮膚感覚に根ざした土俗性からする“近代”へのアンチを聴き取ることだって可能である。

 伊福部が世に出るきっかけを作ったのが、ロシアの亡命音楽家アレクサンドル・チェレプニンである。チェレプニンは日本と中国で若手音楽家を発掘しようとコンクールを企画、応募してきた伊福部の作品「日本狂詩曲」を見た当時の日本の楽壇の権威は、こんな野卑なものをヨーロッパの一流音楽家に見せるわけにはいかないと出し渋ったらしい。しかし、チェレプニンが探していたのはまさにその野卑さであった。彼は青年期、ロシア革命の混乱を避けてグルジアのチフリスで過ごしたことがあり、コーカサスのあの絢爛たるメロディーになじみがあった。そうした彼がわざわざ東アジアまでやって来て探していたのはヨーロッパ音楽のイミテーションなどではない。それぞれの文化的土壌に根ざした音感である。アイヌ文化も熟知して日本やアイヌの土俗性そのものを西洋音楽の語法を用いながら表現し得た伊福部をチェレプニンは見出した。

 そしてチェレプニンがもう一人見出したのが、台湾出身の江文也である。江文也の名前は侯孝賢監督の映画「珈琲時光」で初めて知った。一青窈演じるフリーライターは江文也の東京での足跡を探しているという設定だった。彼の著書『上代支那正楽考』(平凡社・東洋文庫、2008年)も以前にこちらで取り上げた。彼に台湾の、さらには漢族としての伝統文化へ関心を抱かせるきっかけを作ったのもチェレプニンだったという(このあたりのことは片山杜秀さんの論考で知った)。江文也作曲「台湾舞曲」をチェレプニンがピアノで弾いているのをCDで聴いたことがある。江はその後、戦時中に中国大陸へ渡ってそのまま留まり、文化大革命にも巻き込まれた。そうした彼の生涯を主軸にすると、音楽シーンを絡めた東アジア現代史として面白いストーリーが描けそうで興味を持っている。

 話は変わるが、平原綾香の歌声が好き。初めて聴いたのは「Jupiter」、どこのお店だったか有線放送で流れていたのが耳に残り、居合わせた友人に尋ねて平原綾香の名前を初めて知り、その後CDを買い求めた。先日、台湾の作家で日本統治期の世相史を掘り起こしている陳柔縉さんの《人人身上都是一個時代》(時報文化出版、2009年→こちら)という本を読んでいたら、まえがきの謝辞で平原綾香の名前が挙がっていた。面識はないけれど原稿を書くときはいつも「Jupiter」を聴いて気持ちが慰められていると記していた。親近感がわいた。

 エリック・サティのジムノペディ、ノクターン。キム・ギドク監督の映画「サマリア」のシーンが脳裡に浮かぶ。過酷な現実を目の当たりにした少女、まどろむ彼女のまぶたにそっと優しく手をそえるのは、彼女のつらさを我が身に引き受けて庇護しようとする父親。緊張感の冷たく張りつめた美しさが独特なキム・ギドクの映像世界と、そこにかぶさるジムノペディのけだるくゆったりとしたメロディーという取り合わせが印象的で、まどろむ少女の表情をなおさらいとしく感じさせた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月18日 (月)

周婉窈『日本統治期の台湾議会設置請願運動』

周婉窈《日據時代的臺灣議會設置請願運動》自立報系文化出版部、1989年

 植民地として日本の支配を受けた台湾は政治的・経済的に搾取の対象となり、人々は権利を奪われた状態にあった。台湾議会設置請願運動とは、そうした状況下にあって合法的に台湾人の権利を確立すべく台湾議会の設置を求める請願書を1921~1934年までの14年間、計15回にわたって日本の帝国議会に提出し続けた運動である。

 請願運動をリードした林献堂はかつて梁啓超に意見を求めた際、「中国にはしばらくの間、台湾を助ける余裕はない。軽挙妄動は避け、むしろ大英帝国におけるアイルランド人にならって、台湾総督府の非を日本の中央政界に直接訴える方が良い」と助言された。外部からの助けが期待できないならば、台湾人自らが現実的な方法で目標を追求するしかない。そう考えた林献堂は、第一次世界大戦後における民族自決主義の世界的思潮の中、まず六三法(台湾総督に立法権を委ねた法律)撤廃運動、そして台湾議会設置請願運動に乗り出し、1921年に結成された台湾文化協会はその運動母体となった。

 当然ながら、台湾総督府はこれを単なる政治運動ではなくその覆面の下には民族独立思想が潜んでいるとみなしてあらゆる手段を使って弾圧した。1923年には総督府の命令に従わなかったとして請願運動の参加者が逮捕・起訴される治警事件が発生。しかし、公判闘争はむしろ台湾・日本双方の世論に訴える機会となり、請願運動そのものは違憲ではないという考え方が定着、日本における大正デモクラシー、1925年の普通選挙法なども追い風となる。ところが、文化協会内で左派が台頭して分裂、林献堂、蔡培火、蒋渭水らは台湾民衆党を結成、さらに民衆党も分裂、こうした中で急進左派の主張は総督府の猜疑心を招いた。1931年の満州事変以降、軍国主義の高まりを受けて請願運動を独立思想だとする世論が日本人側に再び表われ、請願運動の継続は難しくなった。

 台湾議会設置請願運動は独立運動だったのか? これは台湾を主体とする近代的政治制度を求める民族運動であり、日本人へのアイデンティティ上の同化は拒絶、ただし、個別の参加者には色々と思惑はあっても、請願運動全体の最終的目標が独立にあったかどうかは判断できないと本書では指摘される。運動の進展につれて穏健派・急進派に分裂していったが、台湾議会に基づく自治主義という考え方そのものはおおむね超党派的に支持されていたという。台湾史における請願運動の意義としては、第一に文化協会や民衆党の活動は近代的民主政治の考え方を広く台湾社会に向けて啓蒙する役割を果たした、第二に「台湾人の台湾」という台湾本位の考え方が示された、と本書は総括する。

 請願運動の精神的支柱となっていた林献堂は、その穏健な態度が急進派からは生ぬるく見られたが、他方で改姓名には応じず、日本語は一切使わず、和服も着ず、漢人の伝統的な教養人としての生活を送っていた。日本統治期においては時に「非国民」と呼ばれて殴られたりもしたが、光復後、今度は国民党から「漢奸」呼ばわりされてしまう(丘念台のとりなしでブラックリストからは外された)。二・二八事件では心を痛め、結局、病気療養の名目で1949年に日本へ渡り、1956年に客死するまで故郷へ戻ることはなかった。本書の附篇「思郷何不帰故里──林献堂先生的晩年心境試探」はそうした林献堂の心境について想いをめぐらす。同様の趣旨で邱永漢もかつて「客死」という小説を書いていたから、台湾の人にとって関心をひくテーマのようだ。近年、林献堂の日記が遺族から台湾中央研究院に寄託されて『灌園先生日記』として校訂・刊行が始まっているから、彼の晩年の心境についても研究が進むことだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月17日 (日)

周婉窈『「海ゆかば」の時代──日本植民統治末期台湾史論集』

周婉窈《海行兮的年代──日本殖民統治末期臺灣史論集》允晨文化出版、2003年

 日本による台湾の植民地支配、特にいわゆる“皇民化運動”が強行された1930年代後半から1940年代前半を中心とした時期をテーマとする論文8篇が収録されている。とりわけ、言語、エスニシティ(族群)、ナショナル・アイデンティティ(国家認同)の関係に焦点を合わせて日本統治期の特徴を分析、それが日本の敗戦後も含めて台湾社会にもたらした影響について論じられている。

 第1章「日治末期『国歌少年』的統治神話及其時代背景」、第2章「『莎勇之鐘』的故事及其周辺波瀾」では、それぞれ“君が代少年”と“サヨンの鐘”といった植民地教育における“物語”の形成過程が検討される。

 第3章「従比較的観点看台湾與韓国的皇民化運動」は“皇民化運動”について台湾と朝鮮半島を比較。「国語」=日本語教育に関して、台湾では土着言語が体系的に禁止されたわけではなかったのに対し(もちろん抑圧はされたが)、朝鮮半島では韓国語を話すこと=民族主義者として徹底的に弾圧されたという相違が目を引いた。

 第4章「台湾人第一次的『国語』経験」は植民地支配下における「国語」=日本語教育の展開を分析。かつての台湾社会においては閩南語、客家語、原住民の南方系諸語、それぞれの話者はバラバラであったが、共通語としての「国語」=日本語→互いの意思疎通が可能→台湾大の共同意識が形成された。他方で、日本語は統治者が持ち込んだ外来語であった→被統治者としての一体感も同時にもたらされたと指摘する。

 第5章「日本在台軍事動員與台湾人的海外参戦経験」は1937年以降、中国大陸から南洋諸島まで海を渡っていった台湾人日本兵・軍属の広がりを概観する(この問題は、最近では龍應台《大江大海 一九四九》[天下雑誌、2009年]でも取り上げられていた→こちら)。出征にあたっての「血書」文化の研究も必要だと問題提起される。

 第6章「美與死」は戦時期におけるシンボリックな言語表現(「散華」「玉砕」etc.)に注目し、こうした日本文化の美意識に基づく戦時用語が台湾でも日本人に対するのと同じ効果を持ち得たのか?と問題提起。それは、日本文化がどの程度まで台湾人の精神面にまで浸透していたのかという問題で、解答は難しいが、著者は効果があったと判断する。

 第7章「実学教育、郷土愛與国家認同」は主に第三期公学校国語読本を分析。第一に、実学教育は相当の効果があり、それは(戦後も含めて)台湾の近代化や経済発展に一定の役割を果たしたこと、第二に、台湾の郷土重視の課文が多い一方で、台湾の歴史には触れられていない→「愛郷即愛国」というロジックの下、歴史を日本史にすり替え→ナショナル・アイデンティティ形成における歴史認識の問題を指摘する(なお、郷土教育に関して日本統治期と国民党政権期との比較については林初梅『「郷土」としての台湾──郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』[東信堂、2009年]を参照→こちら)。また、台湾人日本兵の研究に触れて、国家としての日本への忠誠心があった=日本人であったが、同時に、民族的には日本人ではないという自覚が並存していた二重性も指摘される。

 第8章「失楽的道徳世界」は修身教科書を取り上げて道徳教育の植民地的性格を検討するが、同時に、台湾の伝統的な価値観念も執拗な影響力を失っていなかったこと、さらに光復後においても日本の公学校教育による道徳観念がただちに消えたわけでもなく、価値観が様々に影響し合うダイナミズムのあったことを指摘する。

 近代国家は内的な均質化を志向し、その際には標準語としての「国語」が不可欠な手段となる。台湾のように外来者によって統治された場合、土着の母語は「国語」によって抑圧される。台湾近現代史は、たかだか百年も経ない間に「国語」の強制を二度体験したところに大きな特徴がある。日本の領台当初は抗日闘争が激しく、日本語への抵抗感が強かった。日本の敗戦後、国民党政権によって新しい「国語」=北京語がもたらされたが、台湾人にとってはそれも改めて学び直さねばならない言語であり、台湾人にとっての母語=閩南語、客家語、原住民の南方系諸語の地位は低くおとしめられたままとなった。作家の張文環は二・二八事件で逃げ回った末に、北京語=抑圧のシンボルとみなして拒絶するようになったという。

 戦時下に青春期を送った日本語世代の老人たち、彼らが日本語を流暢に使いこなすことに私も驚いたことがあるし、それを“親日的”だと無邪気に喜ぶ日本人もいる。しかし、著者は彼らを“ロスト・ジェネレーション”と表現する。日本統治下で懸命に学んで身に着けた「国語」=日本語は、1945年を境に無意味どころか敵性言語としてマイナスの刻印を帯び、新しい「国語」=北京語に適応できなかった彼らは、事実上文盲同然として沈黙を強いられた(国民党による戒厳令下、元日本兵だった台湾人は自分たちの体験や心情を語ることを恐れていたという)。本書は世代経験に注目し、とりわけ基本的な精神形成のなされる青春期が重要な意味を持つ。戦時下、台湾も爆撃にさらされ、海を渡った親戚知己の戦死公報が次々と届く。戦果華々しい時にはラジオは「軍艦マーチ」をがなり立てたが、敗色濃厚、「玉砕」の言葉も飛び交う沈痛な空気の中では信時潔作曲「海ゆかば」が流れた。そうした、“ロスト・ジェネレーション”の台湾人が青春期を過ごした悲愴な時代的気分のシンボルとして「海ゆかば」が本書のタイトルに用いられている。彼らがこのように過酷な青春期を送らざるを得なかったことは、後世の後知恵で良い悪いと判断できるようなものではなく、一つの厳粛な歴史的事実であった。それがたとえ現代の我々の価値観からは了解しがたいものであっても、彼らの置かれた事情を虚心坦懐にみつめていきたいという視点に著者の真摯さがうかがわれる。

 本書は台湾史を理解する上ではもちろんのこと、日本近現代史研究にとっても益するところが大きい本だと思う。日本語訳の刊行予定はないのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月16日 (土)

Jessica Stern, “Mind Over Martyr: How to Deradicalize Islamist Extremists”

Jessica Stern, “Mind Over Martyr: How to Deradicalize Islamist Extremists,” Foreign Affairs, 89-1, Jan/Feb 2010

・タイトルは「殉教者の処遇に注意を払うべし:イスラム過激派を脱急進化させる方法」
・過激派をいくら殺害・捕縛したところでテロが終わるわけではない。強硬手段はかえって反西洋の気運をイスラム社会に広めてしまう。
・拘束したテロリストへの脱急進化プログラムは有効である。つまり、テロ活動へとリクルートされてしまう動機を解消して、通常の社会生活へと再び組み込んでいくことが必要。
・著者は、オランダの映画作家テオ・ヴァン・ゴッホがアフリカ系イスラム過激派によって殺害された事件をきっかけにロッテルダム市から招かれ、脱急進化プログラムに関わり始めたという。オランダは多元的寛容を特徴とする社会であったが、事件後、きしみが生じている。この事件については以前、Ian Buruma, Murder in Amsterdam: Liberal Europe, Islam, and the Limits of Tolerance(Penguin Books, 2007)を読んだ(→こちら)。
・急進主義者のリハビリテーションのためには、彼らには社会的不公正への反発があること、人それぞれ動機は様々であること、イデオロギー的なものはむしろ稀であることへの理解が前提とされる。吹き込まれたイデオロギーには、イスラムの教義からむしろ逸脱していることも多い。
・若者は、最初はその気がなくても、音楽やファッションなどを通じて群れをなし、グループ行動自体が過激化するきっかけとなりやすい(反米ヒップホップなども利用されたという)→家族やコミュニティーからのサポートが必要。
・貧困・失業→職業訓練が有効。
・心理的な問題、例えば、民兵集団の中で幼少期にレイプされたトラウマ→カウンセリングなどのケアが必要。
・脱急進化プログラムにおいては、彼ら自身が抱えている社会的不公正に対する不満や怒りを平和的な手段で表現させることも社会再統合への不可欠なプロセスとなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月15日 (金)

陳柔縉《台灣西方文明初體驗》

陳柔縉《台灣西方文明初體驗》麦田出版、2005年

 本書の性格を一言で表わすなら“台湾はじめて物語”といったところだろうか。西洋由来の文物やライフスタイルが当たり前となっている現代、「これは一体いつから台湾にあるんだろう?」という素朴な疑問を発端に一つ一つその来歴を調べ上げていく。台湾の読書界では好評をもって迎えられたようで、続編も次々と刊行されている。《台灣摩登老廣告》(皇冠文化出版、2008年→こちら)、《人人身上都是一個時代》(時報文化出版、2009年→こちら)は先日取り上げた。

 語られている項目を並べると、カフェ、チョコレート、牛肉、水道、歯ブラシ・歯磨き粉、セメント、電話、電灯、時計、名刺、トイレ、ホテル、デパート、クリスマス、天気予報、新聞、宝くじ、西暦、銅像、公園、裁判所、監獄、選挙、自動車、大通り、飛行機、汽船、スポーツ事始め、テニス、水泳、ゴルフ、サッカー、ピアノ、西洋画、英語、図書館、幼稚園、卒業式、ヒゲ、洋服、男女関係、自由恋愛、職業婦人。当時の人々の暮らしぶりがうかがわれるエピソードも描かれていて面白い。

 台湾に西洋の文物が流入した時期の大半は日本統治期と重なる。すでに欧化政策を進めて列強の仲間入りを果たしていた日本が植民地台湾にも同様のことを強制したからだ。戦後、国民党政権による中国化政策の中で日本統治期の歴史はタブーとなり、そのあおりで抗日史観とは関わりのない世相史的なものまで忘れ去られてしまった。こうした空白を埋めようという問題意識も本書の背景にあると述べられている。

 ただし、日本人である私が本書を読む場合には、日本統治期の近代化=西洋化にばかり目を向けてしまうのも変な話だ。日本統治以外にも、清朝末期における劉銘伝の時代からすでに鉄道や電灯が設置され始めていたし、マッケイをはじめとした宣教師を通しても西洋の文物には触れられていた(例えば、サッカーはミッション・スクールを通して直接教えられたそうだ)。そうした歴史の重層性に台湾という国の興味深さを感じる。

 そもそも、19世紀半ばから20世紀前半にかけて、東アジア全体が近代化=西洋化を否応なく迫られており、劉銘伝や沈葆楨など清朝の洋務官僚が台湾に派遣されていたのはそうした時代的背景による。日本が台湾を近代化=西洋化したという構図ではなく、日本も台湾も同時進行で近代化=西洋化に邁進していったという視点で捉える方が建設的なのではないかという気がしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月14日 (木)

Bruce Gilley, “Not So Dire Straits: How the Finlandization of Taiwan Benefits U.S. Security”

Bruce Gilley, “Not So Dire Straits: How the Finlandization of Taiwan Benefits U.S. Security,”Foreign Affairs, 89-1, Jan/Feb 2010

・タイトルは「両岸関係をあまり荒立てるな」。
・国際政治学で「フィンランド化」という表現を使うことがある。冷戦下、超大国ソ連の脅威にさらされていた小国フィンランドが、ソ連側に様々な譲歩をすることで、米ソどちらにも属さない中立国として独立を守ってきたことに由来する。
・この論文は「フィンランド化」に肯定的な意味合いを持たせ、台湾の対中国戦略に活用できると主張する。
・中国にとっての関心事は統一=台湾の占領にあるのではなく、台湾の地政学的位置にアメリカの勢力が居座って中国に対する脅威となることを恐れていると指摘→台湾が中立を守れば中国の国益にかなう。
・台湾が「フィンランド化」によって中立政策を取れば、東アジアにおける米中の緊張関係の仲介役となれるし、中国の軍拡にも抑制への動機付けをすることができる。また、台湾・中国の往来が頻繁になれば中国の民主化へと影響を及ぼすこともできる、とされる。台湾の領土は事実上保全されているし、民主主義もしっかり根付いている。そうした台湾だからこそ、中国の懐へと飛び込んでいけば、アメリカの国益にもかなう、という趣旨。
・外交政策上の着眼点としては面白い発想だと思う。ただ、中国の民主化への影響という論点は取って付けたような印象も受ける。例えば、香港が中国に返還されて、そうした成果があったという話は聞いたことがない。香港に関する話題が比較事例として議論の中へ組み込まれていない点には若干説得力が欠けているように思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月13日 (水)

エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』

エミール・デュルケム(宮島喬訳)『社会学的方法の規準』(岩波文庫、1978年)

・「社会的諸事実を物のように考察する」というのが基本命題。もちろん物理的な意味で言っているわけではなく、社会現象を所与の条件として捉えることで、客観的考察の対象とし得るということ。社会現象とは個々人の振る舞いの集合体であり、人々が何らかの形で振る舞う際に従っている思考的枠組み=規範は各人の頭の中にあるわけだが、だからと言って、個人の主観的な動機によってその規範を動かし得るわけではない。むしろ、頭の中にある観念的な行動規範であるはずなのに、それがむしろ私の意図にはかかわりなく強制的な影響力を及ぼしている。そうしたズレを感じたときに、自分自身をも含めて動かしている社会的規範を対自的に把握していくところに社会学的視点。「社会現象の本質的属性は諸個人の意識のうえに外部からある種の圧力をおよぼすという力に存する以上、社会現象は諸個人の意識から派生するものではない。」「社会現象は強制的にか、あるいは少なくとも多少の重圧をおよぼすことによってしかわれわれの内部に入りこむことができない以上、その拘束力は、社会現象がわれわれ[個人]のそれとは異なる性質を呈するものであることを証明しているからである。」「個人が社会的に行動し、感覚し、思考するとき、かれがしたがう権威は、その点でかれを支配するのであるから、この権威は、すなわち個人を超えた、したがって個人の説明しえない諸力の所産であるということである。」(205ページ)

・「共通の感情の動きにわれわれがたとえ自分なりに自発的に参加した場合でも、そのなかで感じる印象は、われわれがたったひとりでいるときに感じるであろうそれとはまったく別ものである。だから、いったん集会が解散し、その社会的影響がわれわれのうえに作用することをやめ、われわれが自分ひとりに返るや否や、さきほどまで経験していた諸感情は、あたかも、われわれのもはやあずかり知らないよそよそしい何ものかであるような効果をおよぼす。そのような場合、これらの感情を、自分たちがつくりだしたものとしてよりは、はるかに自分たちがその影響をこうむってきたものとして認知するのだ。これらの感情がわれわれの本性に反するときには、どうかすると恐怖をもよおさせることさえある。こうして、そのほとんどがまったく害をなす意志をもたない諸個人でも、群集をなすとき、凶暴な行為に身をゆだねてしまうことが起こりうるわけである。」(57ページ)→ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』を想起させる。

・正常なものと病理的なものとの区別。共同体の集合感情とのズレとして顕在化したものが「犯罪」と規定される。もし「犯罪」がない状態を想定すると、それを抑えこんでしまうほどに集合感情が強力である状態=画一的な社会であることの証拠→社会の変容があり得なくなってしまう。「通念に反して、犯罪者は、もはや根本的に非社会的な存在、社会のなかによび入れられた一種の寄生的な要素、すなわち同化しえない異物などではなく、まさしく社会生活の正常な主体としてあらわれる」(160ページ)。「およそ道徳意識が変化しうるためには、個人の独自性が実現されることが必要である。とすれば、世紀に先んじることを夢みる理想主義者の道徳意識が表明されるためには、その時代の水準にも遅れをとっている犯罪者の道徳意識の存在をもゆるされなければならないことになる。つまり、一方は他方なくしては存在しえないということである」(158ページ)。

・「自由をも決定論をも肯定する必要はない。およそ社会学が要求するものは、因果律の原理を社会諸現象に適用することが承認されること、そのことに尽きるのである。」(262ページ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月12日 (火)

陳柔縉《台灣摩登老廣告》

陳柔縉《台灣摩登老廣告》(皇冠文化出版、2008年)

 中国語の「摩登」とはモダン(modern)のこと。本書は戦前の台湾におけるレトロ・モダンな広告を集め、日本統治期に流入した西洋の文物にまつわるエピソードを一つ一つつづっていく。台湾にカフェが初めて現われたのはいつのことだろう? そういった“台湾初”を調べようにも資料が乏しい中、新聞雑誌の広告に注目すればある程度確実な時点まで遡れるはずだという発想による。テーマ的に、著者の前著《台灣西方文明初體驗》(麦田出版、2005年)の延長線上にある。

 取り上げられる広告題目は、チューインガム、コーヒー、レーズン、ヨーグルト、アイスキャンディー、練乳、レモンティー、クーラー、冷蔵庫、ガスコンロ、アメリカ車、オートバイ、スクーター、乳母車、競馬、外国映画、ポーランド・バレエ団、海外旅行、サーカス、レコード、手品、運動靴、帽子、録画機、シャーペン、ブラジャー、毛生え薬、オブラート、脱毛剤、X線。『台湾日日新報』掲載の広告が中心。

 当時を生きた人々の回想録なども手掛かりに、これらの商品や事項にまつわる周辺的話題も丹念に拾われている。そこから当時における台湾の生活史や意識の変化が垣間見えてくるのが面白い。例えば、ブラジャーや脱毛剤が商品として販売されていたことからは、洋装に合う形で容姿を美しく見せようという意識が女性の間に広まり始めていたことがうかがえる。日本統治期の話題となると、どうしても政治的に身構えた緊張感を抱きやすいが、本書のような視点も大切だ。

 植民地という歴史的事情から日本の商品が多いのは不思議ではないが、アメリカ製品も意外と多く、アメリカ人のライフスタイルを意識した広告図案も目立つ。太平洋戦争勃発前まで日米間には経済的にも文化的にも様々な交流があった。従って、日本の経済圏内に組み込まれていた台湾にもアメリカの文物が入り込んできたという国際政治的な構図を念頭に置くと、当時の台湾における広告の背景も理解しやすいと指摘されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月11日 (月)

陳柔縉《人人身上都是一個時代》

陳柔縉《人人身上都是一個時代》時報文化出版、2009年

 これも先日、台湾の書店で平積みされていたので購入。著者はジャーナリストで、日本統治期台湾の歴史を掘り起こす仕事を続けている。日本語にも翻訳された《宮前町九十番地》(2006年、時報文化出版。日本語訳は『国際広報官 張超英』坂井臣之助訳、まどか出版、2008年)もこの人の筆になる。まだ読んでいないが、他に《台灣西方文明初體驗》(麦田出版、2005年)、《台灣摩登老廣告》(皇冠文化出版、2008年)、《囍事台灣》(開[啓]文化事業、2009年)もとりあえず私の手もとにある。

 タイトルは、人にはみなそれぞれの時代経験がある、という趣旨と解されるだろうか。台湾ではかつての国民党政権による中国化政策の中で、台湾人自身の歴史を学ぶ機会がなかったと言われる。前回取り上げた周婉窈『図説 台湾の歴史』にもそうした問題意識がうかがえた。本書にもやはり、日本統治期にあっても台湾人の生活が連綿としてあったにもかかわらず、その時代的記憶と現代との間に断絶がある、そうしたギャップを埋めようという動機が働いているようだ。

 生活史的なエピソードを一つ一つ取り上げていく歴史エッセイで、肩肘はらずに読み進められる。図版が豊富、当時の光景を再現したイラスト(梁旅珠・画)も挿入されて、時代の雰囲気を読者に感じさせようとする工夫として面白い。

 エレベーター・ガールのまだ珍しかった時代、少年たちが胸をときめかせて見に行ったり、自由恋愛の風潮が現われ始めて心中事件が世相を騒がせたり。台南の運河が自殺の名所として有名だったらしい。タバコ工場で働く女工さんたちのアンケート調査も面白い。板垣退助が来台、自由民権運動の老闘士として台湾人から大歓迎されたが、宿泊した鉄道ホテルの費用が高すぎて払いきれずに訴えられたなんていうエピソードもある。

 食の関係では、味の素は台湾でも売り出されて中華料理にも合うことが分かり、大陸へ売り込むきっかけになったという。弁当(便當)の習慣が台湾でも広まって、温かくない食事への抵抗感がなくなったらしい。カゴメのケチャップ(蕃茄醤)も普及、無実の罪で逮捕されていた頼和が獄中でケチャップ炒めを食べてうまかったと日記に記しているのも、深刻な話題なのに、ちょっとニンマリ。

 中華民国の国慶節の際には台北駐在領事の主宰でパーティーが開かれたが、北洋政権、北伐後の蒋介石政権、王克敏政権、汪精衛政権とその都度掲揚される国旗が変わったらしい。土地の記憶をめぐっては東京にも渡り、林献堂たちの台湾議会請願運動や留学生の生活にも思いを馳せる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月10日 (日)

周婉窈『図説 台湾の歴史』

 先日、台湾の書店に寄った折、周婉窈《台灣歷史圖說 増訂本》(聯經出版、2009年)が平積みされていたので購入。去年、東アジア出版人会議による「東アジアの100冊」のうちの一冊として本書が選ばれたことを受けて刊行された増訂本である。日本語訳は『図説 台湾の歴史』(濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴訳、平凡社、2007年)としてすでに出ている。

 原著初版(1997年)は1945年の日本敗戦で筆が止められていたが、日本の版元側から戦後史も加筆して欲しいという要望があったそうで、日本語版には二・二八事件や白色テロ、民主化運動などを取り上げた戦後篇がある。今回、中国語版の増訂本にもその戦後篇が収録された。原著初版刊行時は戒厳令が終わって(1987年)からまだあまり時日が経っておらず、色々な政治的論争がかまびすしい中でそうした動きから距離をおきたいという気持ちがあったため、敢えて戦後史には触れなかったという事情があるらしい。他にも第10章〈知識分子的反殖民運動〉、第11章〈台湾人的美学世界〉も追加されている。

 叙述を読みやすくする、図版を豊富に採録するといった工夫がこらされている。内容的な特徴としては、中台関係についてどのような立場を取るにしても、台湾が一つの政治的単位としてまとまっている現実を前提として現在の視点から台湾史を描き出そうとしていること(かつて日本統治期には日本史を、国民党政権期には中国史を押し付けられて、台湾人自身が台湾史を知る機会に乏しかったという問題意識)、漢人中心史観から離れて、とりわけ原住民族の存在を織り込んだ族群(エスニック・グループ)の関係に注意を払っていること(かつてアメリカ史においてネイティヴ・アメリカンの存在が忘却されてきたことへの近年の異議申し立てと同様の問題意識)などが挙げられる。台湾史についてとっかかりになる本を読みたい場合には本書をおすすめできる。

 今回の中国語版増訂本で追加された第10章では台湾議会設置請願運動を取り上げ、台湾を一つの政治単位とする考え方の最初であったと位置付けられる。第11章は日本統治期における近代美術・音楽に関する叙述。原住民ツォウ族出身のUyongu Yatauyongana(漢姓:高一生、日本姓:矢多一生)、パイワン族出身のBaLiwakes(漢姓:陸森寶、日本姓:森寶一郎)という音楽家を取り上げているのが目を引いた。

 中国語版増訂本カバーの表1を飾るのは陳澄波の〈嘉義公園〉、南国らしい緑の鮮やかな作品。表4には日本統治期台湾では珍しかったフォービズムの画家・鹽月桃甫の〈ロボを吹く少女〉、原住民族と思われる少女を題材とした赤い色合いに荒々しいタッチ。陳澄波は二・二八事件で処刑されていること、原住民族の少女を題材とした絵を使っていることから本書の傾向を読み取ろうとしてしまうと、さすがにうがちすぎか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

台湾南部旅行⑤1月4日 誠品書店、帰国

【高鉄、台北、帰国】
・1月4日(月)。7:30頃にホテルをチェックアウト。高雄車站に行くと7:45発の区間車があったのでMRTではなく台鉄で新左営まで行く(15元)。新左営で高速鉄道の左営に乗り換え、8:30左営発、10:06台北着の直達車の切符を購入(1,450元)。今回はちゃんと窓側を指定。改札を抜け、構内にあるパン屋さんで朝食を買う。豚肉と野菜をナンのようなパンでくるんだサンドイッチ。飲み物がつくのでカフェラテを頼む。
・車窓の風景を眺める。高鉄は基本的に市街地から離れた所をまっすぐ走るので、田園風景が延々と続く。木製の電信柱が点々と並ぶ山あいの田舎道など日本の農村でも見かける情景である。台湾の農村ではため池をよく見かけるが、高鉄沿線南部のあたりでは比較的少ないのは嘉南大圳のおかげか。田んぼが青々と美しい。台中など主要駅に近づくと遠くの方に高層ビル群が見える。
・時間通りに台北着。タクシーを拾い(台北では初乗り70元~)、誠品書店信義旗艦店と書いたメモを運転手さんに見せる。割と年配の運転手さん、走り方がどことなく落ち着かず、気になっていたら、途中、交差点で信号待ちをしているおばさんに道を尋ね始めた。ガイドブックの地図を出して運転手さんに声をかけ、台北101、台北市政府などの目印にペンでマークをつけながら道順を指示。到着時のメーターは205元。100元札を2枚出して、ポケットの小銭を探していたら、200元でいいと言う。道が分からなくて手間をかけたことへのおわびということらしい。まあ、それでも割高なのだが、悪気はないのだからOK。
・台湾へ来たときには誠品書店信義旗艦店に必ず寄る。以前は大陸の簡体字書コーナーだったところが消えて「迷台湾 MEET TAIWAN」という台湾の文化・歴史・風土をテーマとした特集コーナーになっており、じっくり眺めた。書店・出版社などの集まる台湾大学近辺、温州街・羅斯福路・汀州路の頭文字をとっていわゆる「温羅汀」(wing raw den)エリアについても特集されており、「台北人独立思考與批判啓蒙地」というキャッチコピー。書店・出版社・カフェなどの地図があって、見ていると、挪威的森林(ノルウェイの森)、海辺的卡夫卡(海辺のカフカ)といったカフェもあり、台湾での村上春樹人気がよく分かる。ベストセラーコーナーへ行くと海外翻訳ものでは『1Q84』が依然として一位だった。
・時間をかけてフロアを歩き回り、中国語は苦手なくせに台湾史関連の本を中心にがっつり買い込んだ。中には朱天心の新刊『初夏荷花時期的愛情』(印刻出版、2010年)のサイン本もある。パスポート提示で免税となった他、1,000元お買い上げごとにクーポン券をくれて、1枚につき100元割引、2枚セットで1回使えるから200元の割引。これもすぐに使わせてもらった。
・時計を見たらもうすぐ13時。14時までには台北発の桃園国際空港行きバスに乗る算段でいるので、タクシーを拾って台北車站まで。今回はスムーズで180元。地下街に降りて、こうばしい香りのコーヒーパンを買って昼食がわりにパクつく。13:40発の國光客運のバス→14:30過ぎに桃園国際空港第二ターミナルに到着。
・16:50発のチャイナエアライン107便に乗る予定で、用心のため早めに空港へ来たのだが、搭乗口に行くと、遅延のお知らせ。出発予定は18:20となっている。原因は機材搬入の遅れとのこと。チャイナエアラインの他の便もみな遅延の表示が出ている。台北市内でもう少しゆっくりすれば良かったとも思うが、予見できないのだから仕方ない。待ち時間に飲み物と軽食としてハンバーガーを配っていた。結局、離陸したのは18:40過ぎ。成田着は日本時間で22:30頃。入国手続きやトランク受取で時間をくうから、何だかんだ言って空港を出られたのは23:30頃だ。航空会社が都内主要駅までのバスを用意しており、新宿行きに乗って帰る。あとはタクシー。家にたどり着いたのは夜中の1:00頃。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

台湾南部旅行④1月3日 竹田、鳳山、高雄

【竹田】
・佳冬から再び列車にゆられて30分ほど、次は竹田で下車。
・竹田車站のホーム脇に無人駅舎があるが、戦前に建てられた木造の日本式駅舎も残されている。竹田の旧名は頓物。
・駅から外に出ると、左側にも日本式家屋がある。池上一郎博士記念文庫。地元の人がボランティアで運営する図書館で、日本語の書籍がたくさんあるということは知っていたので立ち寄った。
・池上一郎はお医者さんで、第二次世界大戦中に軍医として召集を受け、竹田駐屯部隊の野戦病院長として赴任してきた。竹田にいたのはほんの数年間だが、この地の印象が非常に強かったらしく、戦後も台湾からの留学生を支援、竹田にも書籍や奨学金の寄附を行ったという。池上から寄贈された書籍をもとに図書館として開館し、その後も日本・台湾各地から書籍が寄せられているそうだ。日本語の勉強会も行われているらしい。
・残念ながら4日まで休館となっている。建物の周囲はガラス張りだが、中には誰もいない。とりあえず建物の写真だけ撮って、さて、どうしよう、と思案していたら、スクーターに乗ったおばさんがやって来て、館の前に停め、鍵を開けて中に入って行った。どうやら関係者らしい(帰国後にネットで調べたらこの文庫の館長さんだった)。開いた扉のすき間から顔を出して、「ちょっとおたずねしますが、今日は開館してませんよね?」とタドタドしい中国語で声をかけてみた。おばさんはびっくりしていたが、私が日本人だと分かると、快く中に入れてくれた。さらに奥にある扉を開けて電気をつけてくれた。書庫である。壁際の棚に日本語の本がぎっしりと詰め込まれている。見た感じ、比較的新しい本も多い。
・広間に戻り、壁に張り出されている写真や揮毫などを拝見させてもらう。私が中に入っているからだろうか、近所の人たちも次々と中に入ってきた。古い『文藝春秋』をパラパラめくっている女の子を指して「この子も日本語を勉強しているんだよ」。「中国語はどうなの?」「我不会中文…」「台湾語、わかるか?」「不会、不会!」申し訳ありませんが、台湾語はもっと分かりません…。
・おばさんは、日本語は片言程度なら分かるようだが、込み入った話は難しい。どこかに電話をかけて、私を呼んだ。壁にある集合写真の一人を指さしながら「劉さん。ここの理事長ね」受話器を受け取って耳にあて、「ウェイ? もしもし」と言うと、「明けましておめでとうございます」と丁寧な口調が聞こえてきたので、慌てて「明けましておめでとうございます」と返した。互いに一通り自己紹介。「今日は閉館日なんですよ。いらっしゃるときには是非お電話をください」館内に日の丸の寄せ書きがあり、来館者にサインを求めているというので、私も一筆書かせていただいた。帰り際にはお茶までいただいてしまい、劉理事長にも電話だけできちんとしたごあいさつができなかったので、帰国後にお礼状を書いた。
・館内に入り込んできた近所の人々の中から一人の青年をおばさんは呼んで、文庫と駅の前で写真を撮ってあげなさい、と頼んでくれていた。前に書いたように、私は基本的に自分の写真は撮らないことにしているが、好意をむげにするわけにはいかないからお言葉に甘えた。その青年は日本語は分からないが、ロンドンに留学したことがあるとのことで「日本人なら英語は分かるだろう」と英語で会話、漢字の筆談を交える。私はメモ帳にペン書き、彼は携帯電話にチャカチャカ文字入力。ただし、私は英語の本は読めるが、聞き取りやしゃべりは全くダメで、例えば彼がジョークを言ったのに、「pardon?」「what do you say?」「what do you mean?」を繰り返してようやく、ああ、そういうことね、というさまにならない体たらく。帰国後に感謝とおわびのメールを送った。

【鳳山】
・列車が遅れたせいもあって、高雄に戻ったときにはすでに18:30過ぎ。あたりはすでに暗い。いったん宿舎に戻って軽くシャワーを浴び、再び高雄車站から台鉄列車に乗って一駅隣の鳳山へ行く(15元)。南口から出てまっすぐのびる道を歩く。
・曹公廟。清朝の道光年間、鳳山県知事として赴任してきた曹謹という人物が水路を整備して(曹公圳と呼ばれている)この地の人々の生活を安定させたことから、彼を神様として祀ったお堂である。堂内に掲げられている扁額を見ると水利組合関係者のものが多いが、政治家の揮毫になるものもいくつかあり、新しいものでは国民党の連戦、珍しいものでは第五代台湾総督・佐久間左馬太のものもあった。
・台湾は雨もよく降るので肥沃な土地のように思われるが、意外と水はけが悪くて農業用水にはいつも困っていたらしい。台湾各地で見られるため池は水を確保するための工夫の一つだが、水路網の整備はとりわけ台湾の人々から感謝される大事業であった。曹公はその功績から神様として祀られている。八田與一も日本人だからというのではなく、烏山頭ダムと嘉南大圳という水利網整備事業そのものが感謝されたわけで、台湾でなぜ彼の知名度がこれほど高いのかはこうした台湾の文化的背景を知ってみると得心がいく。
・城隍廟は曹公廟から歩いて2,3分ほどのところにある。夜19:00を過ぎて、参詣者は少ないが、灯りが煌々と灯って、入りやすい。城隍廟とは街の守り神、司法の神様としても崇められているらしい。堂内は奥行きがあって、司法関連の様々な概念が具現化された神像が並んでいる。正面奥にある、老けた顔立ちのチビとノッポの二人組みは一体何と言う神様なのだろう?(帰国後に調べたら、これが七爺八爺のようだ)不思議にちょっとおどろおどろしくて目を引いた。

【夜の高雄】
・鳳山でKRT橘線に乗り、美麗島站でKRT紅線に乗り換え、三多商圏站まで行く。
・大遠百Feというデパートの上にある誠品書店高雄店に再び寄って、ぼんやり書棚を眺める。
・手持ちの観光ガイドを見ると、自強路夜市は地元の人々で賑わうと書かれていたので、歩いていく。確かに屋台は出ていたが、閑散としており、人出が少ないと屋台もあまりおいしそうに見えない。ここで夕食をすまそうと思っていたのだが、当てが外れた。
・市の中心部を縦につっきる中山路を渡って反対側に行き、新堀江商店街。こちらは若者の闊歩する街路で賑わいはある。台北の西門町、日本でいうと渋谷か原宿のような雰囲気か。
・中央公園站からKRT紅線に乗って高雄車站まで戻る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

台湾南部旅行③1月3日 恒春、枋寮、佳冬

【バスで移動】
・1月3日(日)。朝、テレビの天気予報では台湾全土で曇りときどき雨。
・高雄車站脇のバスターミナルへ行く。墾丁方面へ行く墾丁列車88快速という高速バスは30分間隔で意外と本数は多い(なお、台湾のバスやMRT・KRTなどの時刻表では始発・最終便の時間だけ示し、あとは約何分間隔という表示になっていることが多い)。窓口で乗車券を購入(恒春まで308元)、私は7:35頃に乗車。切符を運転手さんに渡すと、端っこを切り落としてから戻される。この時に停車地を確認しているのだろう。戻された券はなくさず手元にとっておき、降車時に運転手さんに渡す。
・あいにくの曇天で、バスが動き始めた途端に雨が降り始めた。高雄市街地を出て高速道路に入る。椰子や檳榔樹など丈の高い木々が栽培される緑の海の中を通る。棕櫚系の葉が幅広い植物も目立つ。丈の低い栽培植物の実には白い袋がかぶせられていて、何の果物なのか分からない。ため池が多い。高速道路を降りてからは墾丁に向けて海沿いの国道を走る。せっかく南国の海の光景が広がっているのに、雨なので残念。道路脇には檳榔のお店が目立つ。それから、黒珍珠の売店も目立ったが、どんな果物なのだろう?
・前の座席に座っている台湾人女性と白人男性の二人組みは英語で会話していたが、途中で中国語の数字の発音練習。とりわけ、十(shi)と四(si)の違いを繰り返しやっていた。このお二方は恒春の手前の保力で降りる予定だったらしいが、運転手さんがうっかり通り過ぎてしまった様子。恒春市内に入り、降車する人が多い地点でお二方も私も下車。
・バス停の前にあったコンビニで屏東縣の地図を購入。持参した観光ガイドを見てもどうも様子が違うと思っていたら、私が降りたのは目的地に想定していた恒春の一つ手前の恒春電信所前というバス停だった。ここから南へ歩けば、恒春古城の城門を外から中へとくぐる形になるので、むしろ好都合。

【恒春】
・恒春古城と記された観光案内板に従って進むと、西門へ出た。映画「海角七号」の冒頭でここが出てくる。撮影のため台北から来たモデルたちの乗るバスがこの西門を通過しようとしても通れない。田中千絵扮する友子が「無理でもいいから通りなさいよ!」と怒鳴りちらすシーン。実際に、普通の車でも片側通行となるためつまっていた。この西門を通って老街へと進むのが昔のメインストリートだったようだが、路線バスは先ほど私の下車したあたりからそれて、城壁のとぎれている大通りを通る形になっている。
・私がちょうど西門をくぐって恒春古城内に入り込んだ頃、雨があがり、雲間から青空が顔をのぞかせた。城壁の向うの空高く、虹が見える。恒春の街は私を歓迎してくれているようだ。
・1874年の日本によるいわゆる台湾出兵(牡丹社事件)の際、西郷従道率いる部隊がこの近くを通ったはずだ。台湾出兵とは、台湾南部に漂着した宮古島民が原住民族のパイワン族に殺害され、日本政府が抗議→しかし清朝側は原住民のことは関知しないと対応→日本軍が上陸した事件。当時、日清両国間で琉球王国の帰属問題が係争中であったが、この台湾出兵の処理を通じて日本への帰属が固まったことは日本史の教科書にある。日本の台湾出兵で危機感を抱いた清朝は洋務官僚の一人である沈葆楨を派遣、恒春古城の城壁は彼の指示で造られたという。
・観光案内標示板に従って石碑公園へと行く。ちょっとした岩山の上に忠魂碑・○○碑など三つの日本統治期の石碑があった。一つはもぎ取られて現存せず、あとの二つは銘文の部分が削られている。自動車で来た家族連れの観光客。小さな子供二人が歓声をあげながら石碑の基壇によじのぼり、お母さんが記念撮影。私も石碑を撮影しようと思って、脇のところでぼんやり待っていたら、私がデジカメを持っているのを見てそのお母さんが「撮ってあげましょうか?」と声をかけてくれた。私は基本的に自分入りの写真は撮らないことにしているので「No, thank you、謝謝」と笑顔でお断り。そのお母さんは「あらあら、台湾の人かと思っていたわ」という感じに笑いながら子供たちの方へ行った。台湾を歩いていると、「写真撮ってあげるよ」と向うから結構気軽に声をかけてくれる人がいる。
・恒春にとって映画「海角七号」は格好のまちおこしの題材である。「海角七号」のロゴ入り観光標示板に「阿嘉之家」と記されている方向へ行く。きれいにペインティングされた小さな家で、「阿嘉の家」(「の」はひらがな)という看板がかかっている。映画の主人公・阿嘉は台北でミュージシャンとなる夢に挫折してこの実家に戻っているという設定。まだ午前10時ちょっと前だが、周りで屋台がいくつか準備を始めていた。観光客らしいのも数人来ている。50元払って中に入れるようだ。ドア前にいたおじさんに渡して入ると、中は明らかに人が生活している雰囲気である。ドア前にいたのはご主人か。小学生くらいの息子さんが所在なげに立っている。奥の台所では奥さんが食事の支度中。急な階段を上ると、二階は阿嘉の部屋。映画中で使われていた日本語の手紙が机の上に置いてあり、写真に撮った。娘さんが観光客相手に案内していた。出るとき、おじさんが「写真撮ってあげるよ」と声をかけてくれた。例によって「No, thank you、謝謝」とやっていたら、私に意味が通じていないと思われたのか、居合わせた別の観光客の人が「シャシン」と日本語で声をかけてくれた。
・南門(写真)まで行くと、そのすぐ脇に臨時バスターミナルがあるのを確認。工事による暫定的なものらしい。もちろん、ガイドブックにあるのとは違う場所である。場所だけ頭に入れておく。東門は現存しないが、大きな門を復元工事中。城壁に沿って北門へ。ここはきれいに整備されており、観光バスなどの待機する駐車場となっており、観光客向けのお出迎えはここのようである。市の中心部に向けて進み、再び最初に来た西門近くまで戻り、それから中山老街をブラブラ歩く。特に屋台などが出ているわけではなく、人通りはそれほどない。
・写真は南門から東門に、写真は東門から北門に向かって歩いている途中に行きあった猫。写真を撮ろうと私が身構えているのを見ても全く動じない。写真は商店街で見かけた子犬。目が合った人ごとにトコトコついていく姿が何とも愛らしいのだが、台湾は狭苦しい路地でもバイクが平気で通り抜けていくので、心配にもなる。
・私は回り道したので少々時間がかかったが、恒春の街を普通に見ながら一巡するには1時間ほどあれば十分ではないか。城壁や城門に年経りた風情を感じさせる、こぢんまりとしているが静かで穏やかな街だ。街の人々を見ていると、原住民系の目鼻立ちのくっきりした顔立ちの人も割合と見かけた。
・南門脇のバスターミナルへ戻り、チケットを買ってバスを待つ。11:30過ぎにバスが来た。

【枋寮】
・枋寮までバスで移動。今朝は雨降りも覚悟していたが、くもりがちとはいえ時折雲間から晴れ間ものぞき、天気としてはまずまず。車城を過ぎると海岸沿いを走る。海の色は明るいエメラルド・グリーンに見える。さすがに海水浴客はいなかった。海沿いでは養殖用の池垣も見かけた。
・枋寮車站に行くと、タッチの差でちょうど列車が出発してしまったばかりであった。次まで1時間ほど待たねばならない。街を歩く。うらぶれた感じの漁港。商店街があるにはあるが、人通りは少なく、どこかで昼食を摂ろうにも、目ぼしいお店は見当たらない。屋台はあちこちに置いてあるから、夜になればそれなりに活気も出るのだろう。書店が文具屋・玩具屋を兼ねて子供たちが集まっているのは日本の田舎でも見られる光景だ。
・駅前の通りに、枋寮の歴史を記した説明表示板が並んでいた。ざっと見たところでは、下関条約(1895年)後の日本による台湾接収にあたり、乃木希典率いる部隊がここから上陸したこと、民族学者の鳥居龍蔵と森丑之助、移川子之蔵と宮本延人がそれぞれここを通過したという記述が目についた。
・海辺に出る。海の向うに見える島は小琉球か。ぶらぶら歩いていたら、小型漁船の密集する内湾状の船着場に出た。入口あたりではおっさんが椅子の上に足を投げ出して新聞を読みふけっており、私がそばを通り過ぎても見向きもしない。女の子が一人、漁船の甲板の上から船のすき間に釣り糸を垂らしている。コールタールの独特なにおい。近くの家からは、昼食の準備だろうか、鍋をカシャカシャこする音が聞こえてくる。のどかなお昼時。気温は体感的に言って20度を越しているはずだ。
・駅前のセブンイレブンでパンとコーヒーを買い、列車に乗り込んで車中で軽く昼食を済ませた。

【佳冬】
・枋寮から列車に乗り、一つおいて次の佳冬で下車。1940年代の皇民化運動の最中に建てられた神社の鳥居が現存しているらしいので、それを見るのが目的。
・檳榔樹その他の木々が青々と繁る中にひっそりとたたずむ二つの駅舎(写真)。一つは現在使われているものだが、もう一つはおそらく戦前に建てられたものだろう。
・人通りはほとんどない。大通りに出る。台湾の国道。午前中、恒春に向かう高速バスの墾丁列車に乗って通った所だ。道路に沿っていくつかお店が並んでいるが、檳榔の売店、それから客家料理のお店が目立つ。ここは客家系の集落のようだ。
・駅を出て右側の方向へ進む。檳榔や果物の畑が広がる中をまっすぐつっきるようにのびる道路。文字通り郊外に典型的なほこりっぽい風景で、バスや大型ダンプがビュンビュンとばしていく。20分ほどひたすら歩いて、それでも何もないので、そろそろ諦めて引き返そうかと思った頃、ようやく鳥居を見つけた(写真)。左斜めの方向に小道が続いている。かたわらには台湾土着のお堂があり、道路の反対側にはセブンイレブン。
・鳥居をくぐって小道を進む。犬が2匹待ち構えていて、私の姿を認めるやいなや、けたたましく吠え立て始めた。私が進んでいくと道路脇によけて吠え続けている。パタパタ尻尾を振っているし、表情もむしろ嬉しそうで、「珍しいお客さんが来たよ!」と周囲に知らせようとしているように見える。草むしりをしているおじいさんは、私があたかもそこにはいないかのように、平然と作業を続けている。
・道路脇を見ると、両側に一対の丸いくぼみのある石の台座らしきものが規則的に並んでおり、この道に沿って複数の鳥居が並んでいたことが分かる。築山状のところにつけられた小さな階段の上にも鳥居があり、そこをくぐると、社殿跡が目に入った。針金状の鉄芯が飛び出たコンクリートの台座以外には何もなく、それも鬱蒼とした木々の中に埋もれるように隠れている。
・佳冬車站に向けて、畑の中のほこりっぽい一本道を引き返す。両側に広がるのは果樹園らしいのだが、実にはすべて白い袋がかぶせられていて、何の果物なのか分からない。近寄って確かめようと思い、念のため写真を撮っていたら、スクーターに乗ったおばさんが近寄って来て止まった。年の頃は50~60代くらいか。以下、会話を超意訳すると、「ここはオラんちの畑だども、おめさん、何してるだ?」「ワタシ、ニッポンジン、チューゴクゴ、ワカリマセン。コレ、水果(果物)?」「そうそう、水果、水果」「ナンノ水果?」「レモン」(と聞こえた)。私は中国語をしゃべれないから、とっさに思いつく単語と構文を滅茶苦茶に結び付けてタドタドしい。言葉が出てこなくて、もどかしくて苦しそうに手を動かしていると、おばさんも笑っていた。「中さ入って見ていかんかね?」「謝謝、ワタシ、ジカン、アリマセン。車站ニイカネバナリマセン」「どこさ行くだ?」「カオシュン」「ああ、カオシュン。佳冬車站ならこの道をまっすぐ行きんしゃい」「謝謝、謝謝、再見」時間が潤沢にあればご好意にあまえたいところなのだが、仕方ない。心残りのまま歩き始めた。
・駅近くまで戻ったとき、ある家の前で車から降りてきた女の子とお母さん。すれ違ったとき、「わかった?」「わすれたあ」「なに?」という会話が耳に入った。えっ、と驚いて振り向いたら、もう家の中に入ってしまった。私の聞き間違いか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

台湾南部旅行②1月2日 台南、高雄

【台南】
・1月2日(土)。7:30高雄発の莒光号に乗り、8:15台南着。台南車站の駅舎は日本統治期のもので今でも現役である(写真)。観光マップをもらうため駅舎内の観光案内所に寄る。土日は観光用巡回バスが無料となることを教えてくれた。予定としては、まず一番遠い安平古堡近辺まで行き、そこから徐々に台南車站まで戻ってくるルートを計画。
・8:30過ぎにバスが来た。台南市内の観光名所をくまなく寄る形で路線が組まれているので時間は少しかかるが、市内のおおよその雰囲気、方向感覚、距離感を測る上で大いに役立った。観光に関しては大まかに言って二つの区域、つまり台南車站から歩ける範囲にある赤嵌楼などの区域と、海近くにある安平地区とに分けられる。その間は畑や空地が目立つ典型的に郊外型の風景。大型マンションなどが開発されつつあり、新しくて大きな台南市政府庁舎もある。
・「徳記洋行・安平樹屋」という停留所でバスを降りた。空地が広がって寂しいところで、ここで降りてしまってよかったのか?と一瞬不安になったが、とりあえず歩く。安興洋行(写真)。生い茂る木々の緑の中に埋もれるようにひっそりとたたずむ洋館。かつてドイツ商人の商館だったらしい。洋行とは欧米人の商社を指す。
・すぐ裏手には日本式家屋が復元されており、これも観光スポットとなっている(写真)。門前には赤レンガ積みの防空壕(写真)。
・台湾を歩いていると、時折、雨風にさらされてボロボロの日本式木造家屋の上に大きな屋根をつくって建物そのものを保存しようとしているのを見かけることがある。しかし、木造だとやはり保存にも限界があるわけで、ここ安興洋行の裏手にしても、あるいは以前に行った金瓜石でも見かけたが、日本式家屋を当時の工法に従って再現建築して歴史遺産にしようとする動きが興味深い。それを単純に日本へのノスタルジーと解してしまうのは少し違うだろう。淡水にあるスペイン人の紅毛城、高雄の打狗英國領事館、これから見に行くオランダ人のゼーランディア城(熱蘭遮城、台湾城)やプロヴィンシア城(普羅文西城、赤嵌楼)など、ヨーロッパの来航者たちの建築物も台湾では積極的に保存しようとしている。南方系、中国系、欧米人、日本人、様々な外来者がやって来て、その痕跡が重層的に積み上げられた多文化性そのものに台湾人としての歴史的アイデンティティーを求めようとする志向性があると言ったら的外れだろうか? かつては、中国人か日本人か、いずれでもない台湾人か、という排他的なアイデンティティー選択が問題となっていた。次いで、そうした選択を迫られること自体が不自然であることがポストコロニアル的な観点から指摘されるようになり、排他的選択ではなくすべてを包み込む多文化主義の流れの中に歴史的な経緯も組み込んでいこうとしているように思われる。
・安平樹屋(写真)。これも洋館であるが、屋根は落ち、壁は崩れかかり、そうした廃墟然とした建物をガジュマルの樹が覆い尽している。その風情がなかなか素晴らしくて、安平観光の目玉の一つとなっている。同じ敷地内にあるのが、徳記洋行(写真)。イギリス商人の商館だったが、現在は台湾開拓資料館となっており、中では台湾史の各シーンが蝋人形で再現されている。原住民や渡来漢人の生活、オランダ人の鄭成功への降伏場面、オランダ人の生活光景などもあった。
・ここから歩いて10分もかからないところに、安平古堡がある(写真)。かつてオランダ人が占領していた時代に拠点としていたゼーランディア城(熱蘭遮城、台湾城)。言うまでもないだろうが、この名前はオランダのzeeland州に由来し、語源的にはニュージーランドと同じ。鄭成功がオランダ人を追い払った後も彼がここに拠点を定め、19世紀末に清朝が台湾省を設置して台北をその首府とするまでは台南が台湾第一の都市として重きをなしていた。安平古堡は一時期は打ち捨てられて完全に廃墟となっていたようだが、現在は古跡として整備され、観光客もあふれかえるほどに来ている。中国式の城市は街の周囲を城壁に囲むが、対してヨーロッパ式(日本も同様)は市街地と城堡とが分かれている点に違いがある。オランダ時代の城壁(写真)。城壁上に置かれた清代の砲門(写真)。鄭成功の銅像(写真)。「民族英雄」と書かれている。資料館が二つあり、ゼーランディア城の復元模型(写真)、オランダ総督Coyet(コイェット、揆一)の銅像、濱田弥兵衛によるオランダ総督捕縛シーンの絵画など様々な展示。
・そろそろお昼時になろうかという頃合。安平は牡蠣の養殖が名物とされているらしい。陳家蚵捲に行く。レジ横に置いてある注文用紙に記入して会計を先に済ませる方式。時間のかかる料理は番号札を渡され、出来たときに受渡し口へ取りに行く。蚵仔煎、肉燥飯、魚丸湯を注文(写真)。蚵仔煎は牡蠣やモヤシなどの入ったオムレツ。
・バスを待つ時間がもったいないのでタクシーを拾い、億載金城へ行く(写真)。1874年の日本による台湾出兵で危機感を抱いた清朝政府は洋務官僚の一人、沈葆楨を台湾に派遣。彼の指示により台南の防備を固める目的で築かれた洋式の要塞である。近代的戦闘で主となる砲戦を踏まえて、城壁ではなく土塁によって攻城砲の威力を減殺すること、死角を作らないため堡塁を突き出していることなどが特徴。函館の五稜郭とほとんど同じ形式であるが、億載金城の堡塁は四つである。清代の将官の鎧を身に着けて拡声器を持った案内係のコスプレおじさんが、やる気のなさそうないかにもバイトだなという感じの若者兵士二人を引き連れて何やら騒いでいるなあと思っていたら、設置砲の射撃デモンストレーションらしい。安平の歴史から延々と説き起こして前置きが長いので帰ろうとしたら、背後から砲声が聞こえてきた。億載金城脇の水路には軍艦が停泊していた。ここに海軍博物館をつくる予定らしいから、展示のための退役艦であろう。
・タクシーを拾い、台南車站近くまで引き返し、延平郡王祠で降ろしてもらった。ここでは鄭成功が祀られている。彼は台湾の漢族系住民にとってのシンボルであり開山王廟として建てられたが、彼の母親が日本人であることから、日本統治期にここは開山神社とされていた。日本人以外を祭神とした神社は珍しい。戦後、延平郡王祠に戻る。鄭成功は明の皇帝から延平郡王という称号をもらっていたことに由来。写真は入口あたりの門。鳥居のようにも見えるが、横にある説明板によると、二・二八事件の事後処理で来ていた当時の白崇禧・国防部長が台湾の人々をなだめるために献納したのだという。廟堂内の鄭成功像(写真)。母親の田川松の肖像画もあった(写真)。敷地内には沈葆楨の銅像、それから、鄭成功文物館があり、鄭成功についてはもちろんだが、海洋文化に焦点を当てた展示も行なわれている。
・写真は廟堂に掲げられた蒋介石の揮毫による扁額。反清復明を唱えて大陸攻略の機会をうかがっていた鄭成功の姿を、共産党に奪われた大陸への反攻を目指す蒋介石自身になぞらえている。台湾史を読み取るときには、読み手側がどこにポイントを置くかに応じて鄭成功の位置付けが変わってくるのが興味深い。日本統治期は母親が日本人であったことから日中の架け橋として、国民党政権時代は大陸反攻の英雄として、台湾主体意識においては台湾の開発・近代化の基礎を築いた人物として、それぞれ位置付けのコンテクストが異なってくる。
・延平郡王祠から北へ向けて、かつて台南の中心街だったところまで行く。この辺りには古い建物が積極的に保存されているので、デジカメ片手に歩き回る。まず、孔子廟(写真)。以下は日本統治期の建物で、台南高等法院(写真)。旧愛国婦人会、現紅十字会の建物は修築工事中(写真)。小学校の図書館として利用されている昔の神社の社務所も修築工事中(写真)、同じ小学校の講堂は昔の武徳殿を再現している(写真)。嘉南大圳水利組合(写真)。八田與一はここに勤めていたわけだ。旧林百貨店は廃屋のまま残されている(写真)。旧勧業銀行、現在は土地銀行(写真)の亭仔脚は壮麗な列柱式(写真)。台南警察署(写真)。台南合同庁舎(写真)。旧台南公会堂(写真、写真)は現在でもコンサートホールとして使われている様子、清朝時代から呉氏の庭園として有名だったそうで呉園と呼ばれている。敷地内には日本統治期の料亭・柳屋が土産物屋になっている(写真)。この近辺で見かけた古い建物(写真、写真、写真)。
・写真は国立台湾文学館。日本統治期には台南州庁だった建物を利用、博物館・研究機関としての機能を持つ。荷物をクロークに預けて入館、順路に従って進む。この建物の建築様式及び設計者・森山松之助に関する展示から始まる。「多音交語 族群共栄」というキャッチコピーのコーナーでは声を聞かせる工夫に興味。原住民系諸言語、ホーロー語の各方言、客家語、オランダ語、日本語、標準中国語。多言語社会ならではの展示である。台湾の文学史はオランダ人が記録した『熱蘭遮城日誌』(分厚い中国語訳は台湾文学館から刊行されている)から始まるとされ、当時の台湾を知る史料として村上直次郎(台北帝国大学教授)訳注の『バタヴィア城日誌』(平凡社・東洋文庫)も展示されていた。頼和の書斎光景をホログラムで再現した展示も面白い。超現実主義の現代詩には西脇順三郎(台湾人の弟子として林修二という人の名前が挙がっていた)と春山行夫の影響が強いとあった。なお、帰国直前、台北の誠品書店で『台湾文学館の魅力』(国立台湾文学館、2008年)という日本の神奈川近代文学館で行なわれた展覧会の図録(日中両文)を見かけたので購入した。
・近くの度小月というお店で担仔麺を食べる。台南名物として知られる肉みそがけの麺。漁師さんが出漁できない時期に麺を担ぎ売りしたのがはじまりと言われている。たしか楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年)だったと思うが、日本統治期の学生時代、買い食いは厳禁されていたのに担仔麺を食べに行ったら、担任の先生も食べに来ていたのと出くわし、気まずい思いをしたが、後で何も言われなかったと回想していたのを思い出した。日本人の口にも合う味だったらしい。それから、再発號肉粽というお店で肉入り粽も食す。
・赤嵌楼。オランダ統治時代のプロヴィンシア城。門前には中国共産党による法輪功弾圧を非難するビラを配る人々。赤レンガの基壇壁は洋風だが、建物等は完全に台湾風である。中にはオランダ時代の模型。台南車站から歩いてこられる距離でもあり、観光客でごった返している。台南では一番の観光名所だが、意外と印象が薄かった。
・台湾の人たちは観光地でよく記念撮影をしており、特に若い人だとアイドルのように凝ったポーズを取る人も多い。去年、台湾の書店に行くたびに、ベストセラーのコーナーで美少女ポーズ写真入門の本が積んであるのを見かけ、いったい誰が買うのだろうと思っていたら、熱心に立ち読みしている女の子を結構見かけた。こういう本で勉強して、かわいらしいポーズで写りたい、ということか。
・台南車站まで歩いて戻る。駅の反対側に出ると、国立成功大学のキャンパスが広がっている。日本統治期の台南高等工業学校を前身として、現在は台湾でも有数の名門大学らしい。一般人も気軽に中に入って散歩している。奥の方まで行くと、赤レンガ造のなかなか風格のある校舎があった(写真)。その前にはガジュマルが点々と佇む芝生の広場となっている。ジョギングしたり、ボール遊びしたりする人々。写真は一番大きくて古そうなガジュマルの木。皇太子時代の昭和天皇がここで記念植樹をしたというから、これがそうかな。歴史文物館(写真)に行ったら、ちょうど閉館時間の17:00を過ぎたばかりで、中に入れなかった。

【夜の高雄】
・台南車站で17:21発の区間車に乗り、高雄に着いたのは18:00過ぎ。途中、保安車站で対向列車とすれ違うため一時停車した際、駅舎が古そうな日本式だったので撮影(写真)。
・宿舎で軽くシャワーを浴びてから、高雄車站の反対側(南側)に出て、高雄願景館に行ったら、今日も休みだった。明朝利用する予定のバスターミナルの位置を確認してから、タクシーを拾う。
・高雄市立歴史博物館(写真)。かつて高雄州庁だった建物が博物館として転用されている。平日は夕方18:00までだが、土日は21:00まで開館。常設展示のほか、特集展示として正月にちなんだ紅い小物特集、チベットのお正月特集などをやっていた。常設展示では、大衆芸能の布袋戯の他、1947年の二・二八事件をめぐる展示に力が入っている。高雄を中心に見た事件の経緯がパネルと映像資料でまとめられ、殺害された人々のリストや遺品なども展示。地元の有力者を中心に高雄二・二八事件処理委員会が設立され、国民党政府側との交渉を行なったが、国民党軍はそのメンバーを次々と逮捕・処刑、現在博物館となっているこの建物も砲撃を受けたという。博物館から道路を挟んだ向かい側の仁愛公園には高雄二・二八事件紀念碑が建っている。
・高雄車站方向へ戻りがてら、博物館の横を流れている愛河に沿って北へと向かう。高雄の夜は色とりどりのイルミネーションが美しく、夜の散歩は気持ちがいい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

台湾南部旅行①1月1日 入国、高雄

【出国、高鉄、投宿】
・1月1日(金)。日本時間9:40成田国際空港発→台湾時間12:40桃園国際空港着のチャイナエアライン107便。ほぼ時間通り。機中で旅程の細部を練り直し、辞書をめくって行先の地名のピンインをメモに書きとめておいた。行先の具体的な場所を調べるにあたっては、片倉佳史『観光コースでない台湾』(高文研、2005年)、『片倉佳史の台湾新幹線で行く台南・高雄の旅』(まどか出版、2007年)、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社新書、2009年)、荻野純一他『高雄と台湾最南端 歴史遺産からリゾートまで』(日経BP企画、2008年)、『台南 台湾史のルーツを訪ねる』(日経BP企画、2008年)などを参照した。
・今回は高雄のホテルに拠点を置いて動く予定なので、まず台湾高速鉄道(新幹線)に乗るつもりで台北に出ようと台北車站行きのバスに飛び乗った。バスが動き始めたとき、高鉄に乗るなら桃園の方が近いかという考えも頭をよぎったが、始発から終点までの長距離列車の旅にしようと考えなおす。
・桃園国際空港から台北車站までバスで所要約1時間。空港から出るまでにも結構時間がかかっていたので、台北車站にたどり着いたのは14時半頃。台北を15:00発、板橋・台中以外は通過する直達車で所要96分、左営には16:36に到着。1,450元。通路側の座席になってしまったので車窓の風景をじっくり眺められなかったのは残念。
・高鉄の改札脇の売店で台鉄便當を買った。60元。ご飯の上に豚の骨付き肉と甘辛く煮た厚揚げのようなのが載り、温野菜と漬物が添えられている(写真、写真)。ご飯にタレのからまるとなかなかうまい。「便當」とは日本語の弁当のこと。日本統治期にこの弁当という言葉は台湾に広まっていた。国民党政権の中国語化政策の下でおおっぴらに日本語を使うわけにはいかなくなったが、日常語はそう簡単に変えられない。そこで、発音はそのままに、字だけ変えて「便當」となったという。
・高鉄の終着駅は左営。将来的に延伸の計画はあるらしいが、現時点で高鉄は高雄まで通じていない。台鉄(台鉄の駅名は新左営となっているので注意)もしくはKRT高雄捷運という地下鉄に乗り換えて高雄中心部まで行く。時間にもよるが台鉄は本数が少なく、一昨年にKRTが開通してだいぶ便利になった。路線図状のタッチパネルがあり、行先駅名を押してから硬貨を投入(初乗り20元~)、出てきたトークンを自動改札機にかざしてホームに入る。高雄車站までは所要10分超程度。
・日本統治時代の高雄旧駅が新駅の隣に移築・保存されている(写真)。帝冠様式(基本は洋風のコンクリート造なのだが、上に和風の瓦葺屋根をのっけた昭和初期独特の建築様式。例えば、上野の東京国立博物館本館などもこれ)。現在は高雄願景館となっており、高雄の観光案内施設らしいのだが、今日はお正月だからだろうか、休館中(中国語圏は春節もあるから、事実上お正月が2度あることになる)。
・高雄車站の南側を正面玄関とすると、北側の裏玄関の方に宿泊先がある。KRTから地上に出ると南口だったので、北口へはどのようなルートをとればいいのか分からず、観光案内所の人に尋ねたら、入場券(6元)を買って駅構内を通過するしかないとのこと。
・宿泊先の京城大飯店は高雄車站から道路を渡ったすぐ向かい側。ビジネスホテルのつもりで予約していたが、なかなかきれいなホテルだ。カウンターへ行くと日本語の流暢な女性がいて、私がたどたどしい中国語で「予約してある」と言おうとしたら、すぐ日本語で返ってきた。3泊で15,600日本円。部屋は15階(ただし、縁起かつぎで3フロア分の番号が省かれていたから、実際には12階か)、高雄車站に面して見晴らしはよく、高雄85大楼もはっきりと遠望できる。部屋は広くて快適。駅まで徒歩1分だから移動にも便利。高雄車站の北口は少々不便だが、ホテルのカウンターに申し出れば駅構内の無料通行パスをくれる。

【夜の高雄】
・荷物を置き、軽くシャワーを浴びてから、ホテル前でタクシーを拾う(高雄では初乗り85元~)。沿岸部の西子湾にある打狗英國領事館へ行く。所要20分ほど。地図で見ると高雄の街の中心部からだいぶはずれているので夜だと寂しいのではないかと少し不安だったが、杞憂であった。すでに18:00を過ぎてあたりは暗くなり始めているが、ここは夜景のきれいなナイトスポットとして知られているらしく、むしろ夜の方が賑やかである。
・タクシーを降り、運転手さんが指さしてくれた方へ行くと緑に囲まれた小高い丘の上の方にライトアップされた洋館が見えた。そこへ向かって急な階段があり、大勢の人々が上り下りと行き交っている。登りきると、古びた風格のある赤レンガの建物。打狗英國領事館。清朝期のイギリス領事館である。すぐ脇に龍をあしらった台湾風のお堂があるのも面白い。ここは高雄港の入口を扼する要衝である。台北にとっての淡水のような位置関係か。打狗とはターカウと発音する。日本統治期にタカオ→高雄と改称され、現在は高雄→カオシュンと呼ばれている。
・赤レンガ建築の内部の一部はカフェでにぎわっているほか、歴史に関する展示室もある。打狗(高雄)はアロー戦争最中に結ばれた天津条約(1858年)による開港地の一つであり、対外交渉史について解説されている。清朝の役人とイギリス人領事が会談している蝋人形があった。
・それから、ロバート・スウィンホー(Robert Swinhoe、史温侯、1836~1877)という人物に関する展示。カルカッタ生まれのイギリス人外交官で、ヨーロッパ人として最初の台湾駐在領事として打狗に赴任。外交官としてよりも博物学(natural history)の方で知られているらしく、台湾の固有種の生物学名の多くは彼が名づけたという。スウィンホーの博物学者としての知名度に絡めてだろう、去年はダーウィン生誕200周年だったことに合わせてナショナル・ジオグラフィック誌との提携でダーウィンと進化論についての特集展示も行なわれていた。
・バルコニーからは夜の海の眺望が開けている。とりわけ市の中心部方面は街の明かりが美しく、記念撮影をする人が多い。若いカップルやお友達グループ、家族連れ、老人会らしき団体さん。老若男女、様々な人々がワイワイ歩き回っている。
・階段を降りて、タクシーで来た道を歩いて戻る。しばらく行くと西子湾に出た。細長く入り込んだ湾に沿って遊歩道が整備されている。潮風の少し濁ったにおいが軽く鼻につく。体感気温は15度前後か。高雄の一月は東京で言うと初秋の涼しさを感じさせる心地よさ。入江状の湾の向うには、高雄85大楼のてっぺんの緑色の明かりをはじめ街の灯がきらめいている。釣り人の釣竿の先端にも緑っぽい光、おそらく魚をおびき寄せる灯りなのだろうが、港を彩る光の一つとして面白い。
・鼓山区の商店街。人通りは多少あるものの、大半のお店の明かりは消えている。南国の家屋は暑いためか開放的だ。歩道として一般人が通行する亭仔脚のスペースも店先の一部として認識されており、仕事が終わって、食事をしたり、テレビをみていたり、子供がパソコンゲームに興じていたり、そういった生活光景が見える。別に覗き見したわけじゃないよ。日本統治期は高雄港駅を中心にこの辺りは繁華街となっていた。当時、この一帯は鉄道路線にちなんで濱線と呼ばれ、現在でも地元の人々は哈碼星=ハマセンという通称を使っているらしい。お店の看板に哈碼星という文字を見かけるし、「哈碼星 HAMA-Star」と表記した学習塾の看板も見かけた。
・警察署など日本統治期の建物もいくつか現存しているが、暗くてうまく写真に撮れなかった。旧高雄港駅は戦後もしばらく使われていたようだが、現在は路線廃止、駅舎は残っているが、線路は空地となっている。旧駅舎の前に高雄の歴史をマンガで解説したパネルがあった。暗くてよく見えなかったが、読めた範囲で言うと、糖業、電力など日本統治期のインフラ整備について詳しく取り上げられていた。それから、中学校教員として赴任してきた土屋恭一という人が学生を連れて考古学的な発掘調査をしたことにも触れられていた。現在、旧駅舎前にはKRT西子湾站がある。
・旧高雄港駅から沿岸に出る。新濱碼頭には海軍の基地があって小銃を抱えた警備兵がものものしいが、人々は関係なく夕涼みをしている。港湾局関連施設の脇の大通りを歩いて漁人碼頭へ。ネオンが明るくポップスが大音量で流れたり、ジャズのライブ演奏があったり、若者向けのお店が並ぶ一角である。
・日本の敗戦後、日本人の引揚者が集められた埠頭はこのあたりだろう。映画「海角七号」(→こちら)で日本人教師が引揚船に乗って去り、台湾の人々が大勢見送りに来ているシーンがあったのを思い出す。日本人と入れ代わりに、国共内戦で敗れた国民党軍の兵士や難民が大陸から台湾へと押し寄せてきたが、やはりこの埠頭のあたりで野ざらしで集まっていた。龍應台『大江大海 一九四九』(天下雑誌、2009年→こちら)にそういうシーンがあった。そういったことをつらつら思い出しながら、このオシャレな店並びとのギャップに、ある種の感慨も催す。
・漁人碼頭から歩いてまっすぐ北上。途中、噴水の出る公園があり、日本語の演歌が聞こえてきて、誰が歌っているのかと見回したら、水が出るのと連動したスピーカーからだった。一体これは何だ? 高雄市立歴史博物館まで出る。日本統治期の高雄州庁だった建物である。愛河(英語名love riverとなっているのは何かいやだなあ…)を渡ったところでタクシーを拾う。
・高雄85大楼。直通エレベーターに乗って75階の展望台へ。道路ぞいの看板の明かりと自動車のヘッドライトが光の直線を四方八方にのばしており、俯瞰すると高雄の夜景はキラキラと明るい。
・この近辺はデパートの集まった商業圏。大遠百FE21というシネコンも入ったデパートの上に誠品書店高雄店があるので足をのばした。誠品書店は本の品揃えだけでなく、どの店舗も内装がシックに凝っていて好き。あんまり買い込んで荷物が重くなるのはいやなので1冊だけ購入。
・三多商圏站でKRTに乗り、次の中央公園站で下車。六合夜市を歩く。担仔麺(肉みそがけの麺)、胡椒餅(基本的に肉まんみたいだが、外側の生地はパリパリとして、肉の餡がスパイシー)、臭豆腐など買い食いしていたら、これでもう夕食は十分。台湾の屋台街を歩くと必ずにおってくる臭豆腐、実は今回が初挑戦で、食べてみると意外とにおいは気にならない。ただし、タレの辛さを中程度にしてもらったが、それでも口の中がヒリヒリする。後でペットボトルのミネラルウォーターをがぶ飲みした。
・中央公園站に戻ってKRTに乗り、高雄車站で下車。宿舎に戻ったのは23時過ぎ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月 1日 (金)

西澤泰彦『日本の植民地建築──帝国に築かれたネットワーク』

西澤泰彦『日本の植民地建築──帝国に築かれたネットワーク』(河出ブックス、2009年)

 建築様式ばかりでなく、建築家及びその所属する組織、レンガ・セメント・鉄など建材の調達、建築情報の伝播──本書はこうしたヒト・モノ・情報のネットワークとして日本支配下の台湾・朝鮮半島・中国東北地方(旧満州)における建築史を捉えていく。

 日本が植民地に建てた建物は台湾・朝鮮総督府をはじめ西洋の様式が基本である(日本様式は神社などに限られる)。明治期以来の日本の建築教育の事情もあるが、欧米諸国との協調により東アジア支配を行なうという状況のもとで欧米に引けを取らないものを示そうという意図のあったことが指摘される。満州事変を転機に台湾・朝鮮・中国それぞれの様式を取り入れたデザインが現われたというのが興味深い。大東亜共栄圏イデオロギーによるのだろうか。鉄筋コンクリート造は白アリ対策のため日本よりも台湾でいち早く普及、しかし問題点が見つかるのも早く、その調査を通して技術向上、結果としていわばパイロットテストのような位置付けにもなったようだ。

 日本と植民地とを従属の関係として捉えるのではなく、植民地相互の行き来、さらには日本帝国外へも広がるネットワークがあった。その中で建築家たちは様々な建築を見る機会を得て、日本だけでは得られない情報を手にしたことにより建築に関しては世界レベルでの先進性を持っていたと指摘される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »