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2009年2月22日 - 2009年2月28日

2009年2月28日 (土)

モンテ・メルコニアン──ある“アルメニア系アメリカ人”の軌跡

Markar Melkonian, My Brother’s Road: An American’s Fateful Journey to Armenia, I.B.Tauris, 2007

 第一次世界大戦中におこったオスマン帝国によるアルメニア人大虐殺はいまだにトルコとアルメニアとの和解を阻害する問題として影を引きずっている。「青年トルコ」政権の三頭政治家のうちタラート、ジェマルの二人が暗殺されたのをはじめアルメニア人による報復テロは続き、1973年には、家族を皆殺しにされた70歳代の老人ヤニキアンがロサンジェルスでトルコ領事館員を殺害するという事件もおこっている。

 モンテ・メルコニアン(Monte Melkonian)は1957年、アメリカに生まれた。過去のことは何も知らなかったが、アルメニア人意識に目覚めたのをきっかけに中東を放浪。本書は、トルコに対するテロ活動(彼は「プロパガンダ・アタック」と表現)に身を投じ、1993年、ナゴルノカラバフ紛争で戦死するまでの彼の人生の軌跡を、作家でもある兄マーカーがたどっていく。

 モンテは大学では考古学を専攻、トルコ語も含めて様々な言語を習った(高校生の頃には日本にも留学したことがあり、空手や剣道に取り組んだ)。アルメニアの歴史を研究すると同時に、政治活動のカモフラージュとするつもりもあったようだ。モンテの母語はあくまでも英語なので、アルメニア語に習熟するためイランやレバノンのアルメニア人コミュニティーに入り込む。

 ちょうどレバノン紛争の頃。アルメニア人コミュニティーは紛争において中立の立場だったが、自衛組織を形成。この頃にモンテは戦闘術を身につけた。パレスチナ難民を迫害するイスラエル軍や、それをバックアップするアメリカへの反感を募らせる。兄は、弟の様子が明らかに変化していくのを懸念してアメリカに連れ帰ろうとしたが、彼の決意はかたかった。ハゴピアンのスカウトでシークレット・アーミー(民族主義政党ダシュナクとは対立)に加入。しかし、アブー・ニダルやカルロスといった名うての暗殺者やネオナチなどもひしめく中、ハゴピアンは無差別テロもいとわない輩とつるみ、内部抗争で対立するアルメニア人も平気で暗殺したりするため、そうした彼の姿勢に対しモンテは疑問を感じ始める。

 ハゴピアンの指示により、アテネでトルコ大使館付情報部員を暗殺した。車内にいるのが誰であるの分からないまま銃撃したのだが、ターゲットの他にその妻や十代の息子と娘も手にかけてしまったことを後で知りショックを受ける。彼にとって「プロパガンダ・アタック」は正当な対トルコ戦争であるはず。以降、非戦闘員の殺戮は許さないという信条を持つ。フランスではトルコ籍の船を爆沈(乗船客はいないことを確認した上で)、その容疑で逮捕され、刑務所に入る(入獄中、CIAからアブー・ニダルについての情報提供を条件に取引の申し出があったが、彼はアブー・ニダルも嫌いだが、アメリカ軍も大嫌いだったので拒否)。刑期を終えた後、レバノン紛争の頃からつながりのあるPLOの仲介で南イエメンに渡った。

 ちょうどソ連崩壊によりアルメニアが独立、そしてナゴルノカラバフ(Mountainous Karabagh)紛争が激化している時期だった。モンテは生まれて初めてアルメニアに渡り、カラバフで部隊指揮官となる(Avoと名乗った)。彼の活躍でアゼルバイジャン軍を押し返し、アルメニア本土とカラバフの間のケルバジャール(Kelbajar)を確保したほか、アグダム(Agdam)も占領。アゼルバイジャンではこの敗北の衝撃からクーデターがおこって民族主義的なエリチベイ(Elcibay)大統領は失脚、元共産党第一書記のアリエフ(Aliyev)が復活した。モンテはアルメニア国民の英雄となる。彼の“大アルメニア主義”からすれば、カラバフはもちろんのこと、ケルバジャールも歴史的にアルメニア人のホームランドだったと正当化される。ところが、ここは現在ではアゼリ人やクルド人の居住地域であってアルメニア人は少数派にすぎず、しかもアグダムに至っては戦闘の経過から占領しただけで歴史的ホームランドですらない。アルメニア国内のマイノリティーとして彼らは生きればいい、と主張するのだが、血みどろの殺し合いの後でそんな期待ができるわけもない。大量の難民が流出し、周辺諸国は警戒する。モンテは他のアルメニア軍人とは異なり、捕虜となったアゼリ人の命を助けたと指摘される。だが同時に、アルメニアにとっての英雄ではあっても、周辺諸国での受け止め方が全く異なってくるギャップも感じさせる。

 1993年に彼は戦死したが、「彼の台頭を警戒したアルメニア人によって謀殺された」「いや、彼はまだ生きている」などと様々な噂がとびかったという。“英雄”に“神話”はつきものか。

 モンテはアメリカで青年期を過ごしたとき、なぜ自分たちアルメニア人がアメリカで暮らしているのか、その歴史的背景を全く知らなかった。スペインに留学したとき、指導教官から「あなたは一体何者なんですか?」と問われたことがきっかけで、アルメニア人としての“自分探し”が始まった。家族旅行でトルコの祖先の村を訪れた際に歓待してくれたアルメニア人一家が、実はオスマン帝国から生命の保証と引換に同胞を売りとばした裏切り者であったことを帰国後に知ってショックを受けたり、ヤニキアン老人による暗殺事件の報道も影響しているようだ。彼の“大アルメニア主義”をどう考えるかは別として、“自分探し”、つまり自身の現存在を確証する根拠探しが政治的行動の動機となる、そうしたアイデンティティ・ポリティクスの一例として興味がひかれる。

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蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語』

蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語』(メディアファクトリー、2009年)

 日本語学校教師の披露するエピソードをもとにしたエッセー風マンガ。言語や文化のギャップというのは、ともすれば紛争のタネにもなりかねないが、ギャグのネタにしてしまえば無性に笑える。生徒たちは真面目に搦め手から質問攻めにしてくるから先生というのも大変だ。貸してくれた知人もツボにはまっていたが、中国人留学生が志望する大学院の担当教官にお手紙を書きなさいと言われ、持ってきたのが堂々たる美文調の詩賦…なんて簡単にまとめてしまってもこのおかしみは伝わらないだろうが。そうか、科挙で四六駢儷体で答案を書いた伝統が感覚として残っているんだ、と妙に納得。クスクス笑いの中でもなかなか勘所をついていて面白かった。

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今月読んだ小説

覚えている分だけ適当に。
・倉橋由美子『聖少女』(新潮文庫、1981年)
・倉橋由美子『大人のための残酷童話』(新潮文庫、1998年)
・レナーテ・ドレスタイン(長山さき訳)『石のハート』(新潮社、2002年)
・桜庭一樹『少女には向かない職業』(創元推理文庫、2007年)
・ナンシー・ヒューストン(横川晶子訳)『時のかさなり』(新潮社、2008年)
・ソーニャ・ハートネット(金原瑞人・田中亜希子訳)『サレンダー』(河出書房新社、2008年)
・カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)『わたしを離さないで』(ハヤカワ文庫、2008年)

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ポール・ルセサバギナ『ホテル・ルワンダの男』

 書店をブラブラひやかしていたら、ポール・ルセサバギナ(堀川志野舞訳)『ホテル・ルワンダの男』(ヴィレッジ・ブックス、2009年)が新刊で出ていた。以前、原書で読んだときのメモはこちら(→ポール・ルセサバギナ『An Ordinary Man』)。

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2009年2月24日 (火)

東京国立近代美術館フィルムセンター「無声時代ソビエト映画ポスター展」

東京国立近代美術館フィルムセンター「無声時代ソビエト映画ポスター展」

 ロシア・ソビエト文化研究家で映画評論家の袋一平が戦前、ソ連に渡った際に収集した映画ポスター(現在はフィルムセンターが所蔵)の展覧会。全部で140点もあるため展覧会は三期間に分けて行なわれるとのことで、私はカタログを購入して眺めている。

 時代的に言って共産党の宣伝映画が多いわけだけど、デザイン的には結構目を引くものもある。なぜか黒い色調のものが目につく。この頃によく見られる鋭角的な線を多用した構図が私は好きだ。いわゆるロシア・アヴァンギャルドの流れを汲むデザイナーの手になる。

 ロシア革命に際して、既存体制の打破→前衛という点で政治運動と芸術運動とがかりそめの同盟関係を組んだものの、政治が再び体制化する一方、芸術は魂を奪われてしまったという悲劇的ななりゆきに私は関心がひかれている。思想的には党の統制下に入らざるを得なかったが、前衛的なデザインは引き継がれた。

 以前、日本の戦争中の生活光景をテーマとしたある展覧会を見たとき、空襲への警戒を呼びかけるポスターがあったのだが、サーチライトが鋭角的に交差するなかなか格好良いデザインで目を引いた覚えがある。明らかに未来派風だった。その時にもソ連体制下のアヴァンギャルド的なデザインを思い浮かべた。日本でも戦時色が強まる中、食うために職業として宣伝ポスターをつくっていたデザイナーたちがいたが、彼らも同時期のソ連のデザイナーたちと同様に、1920年代のアヴァンギャルド思潮(日本では大正モダニズムの頃)の洗礼を受けていたわけだ。この辺り、興味はあるんだけれど、調べようにもなかなか手が回らない。

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2009年2月23日 (月)

チャールズ・キング『自由という幻影:コーカサスの歴史』

Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008

 コーカサスの歴史を調べようとすると、あたかもジグソーパズルを解くような面倒くささに頭が痛くなってくる。現在、国際的に承認された独立国としてはアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三ヶ国があるが(他にもいわゆる未承認国家やロシア連邦内の自治共和国などがある)、それぞれについて個別に通史的に勉強しようと思っても、必ず他の国の歴史と分かちがたく絡まりあっている。

 本質主義的に「~民族」と一義的にくくることなど不可能で、人種的・文化的・言語的・宗教的・政治的に様々な条件が歴史的コンテクストに応じて組み合わさり、組み替えられながら、何となく“民族”らしきものが形成されているとしか言いようがない。その点で、コーカサスでの“民族”概念は状況依存的である。

 近現代においてコーカサスはロシアの支配を受けた。バラバラだったこの地域はロシア支配下で制度的・経済的に統合され、ロシア経由で近代化の洗礼を受けた。そこには複雑な矛盾がはらまれていた。第一に、ロシア化政策に対する反発と同時に、ロシア文化への愛着もあったというアンビヴァレンス。それ以上に深刻な問題として、第二に、ロシアの支配下から逃れようにも、“民族”としての境界線が曖昧かつ錯綜している中、それはどこからどこへ向けての解放なのか? 誰にとっての解放なのか? どこに線引きをしても必ず紛争を招いてしまうという矛盾。“民族”の自由を渇求しても、悲しいことにその自由はどうしても形をなすことのできない困難──本書のタイトル『自由という幻影』(The Ghost of Freedom)はそうしたコーカサス地域が直面した不可避的な宿命を端的に表わしている。

 本書は、ロシア帝国の南進が顕著となった十八世紀から、ソ連崩壊による独立・民族紛争の再燃した最近に至るまでコーカサス近現代史を概観する。ここでのコーカサス地域にはアゼルバイジャン・アルメニア・グルジア三ヶ国が独立した南コーカサスとロシア連邦内の共和国が密集した北コーカサスの両方を含む。文学作品からの引用があったり、歴史を彩る人物群像も取り上げたりとエピソードは豊富。たとえて言うと、中央公論社の新旧『世界の歴史』シリーズのように学術的なクオリティーを備えつつ読み物としても十分にたえる、そうした感じの歴史概説書として飽きさせずに読ませてくれる。

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2009年2月22日 (日)

フランク・ティボル『ハンガリー 西欧幻想の罠──戦間期の親英米派と領土問題』

フランク・ティボル(寺尾信昭編訳)『ハンガリー 西欧幻想の罠──戦間期の親英米派と領土問題』(彩流社、2008年)

 意外と気付かれていないが、ハンガリーはドイツと同様に第一次・第二次両世界大戦の敗戦国である(両国の置かれた事情は全く異なるが)。第一次大戦ではオーストリア=ハンガリー二重帝国の一員として参戦した。敗戦、二重帝国解体後はトリアノン条約によって領土を大幅に削減されてしまう。これはあまりにも不当であるという世論が渦巻き、失地回復のための条約改正が政治課題となった。この失地回復という目標やソ連の脅威などの要因から親ナチス派が台頭する。

 他方、国家元首のホルティ・ミクローシュ摂政を中心とした政治指導層は、東のソ連・西のドイツという二大勢力の狭間にあって如何にハンガリーの独立を維持するかに腐心していた。彼らの外交政策にはハンドリングの難しい矛盾がはらまれていた。英米の支持によってソ連・ナチス双方からの脅威に対処しようと望む一方で、ナチスの援助によって回復した領土を失いたくないとも考えていたし、何よりも英米側はハンガリーをさほど重要視していなかった。こうしたギャップを埋めようと奮闘したホルティ側近の政治家・外交官・言論人たちの動向を本書は跡付ける。とりわけ、ナチスへの配慮から英米への接近をおおっぴらにはできなかったため、文化外交を通して英米側にアピールしようとした努力に焦点が当てられる。

 結局、ナチスに対する面従腹背の外交路線は破綻してテレキ首相は自殺、ハンガリーは日独伊三国同盟に加盟して第二次世界大戦に巻き込まれる。1944年にホルティは親英米派の登用によって巻き返しを図るが、ドイツ軍によって占領され、ホルティは摂政の座を追われた。『ハンガリー・クウォータリー』誌のバログはユダヤ人であったため殺され、反ナチス的な政治家たちも次々と逮捕・処刑された。

 なお、当時のハンガリーは立憲君主政。ただし、ハプスブルク家の復活はあり得ないとして、海軍提督出身のホルティが摂政となっていた。彼はかつて侍従武官としてフランツ・ヨーゼフ帝の側に仕えていたことがあり、難局にぶつかるたびに「フランツ・ヨーゼフならばどのように振舞ったろうか」と常に自問していたという。

 戦間期のハンガリー政治史については、アントニー・ポロンスキ(羽場監訳、越村・篠原・安井訳)『小独裁者たち──両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』(法政大学出版局、1993年)に1章が割かれている。

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