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2009年2月15日 - 2009年2月21日

2009年2月21日 (土)

『ロシア領アゼルバイジャン、1905─1920年:ムスリム・コミュニティにおけるナショナル・アイデンティティーの形成』

Tadeusz Swietochowski, Russian Azerbaijan, 1905─1920: The Shaping of National Identity in a Muslim Community, Cambridge University Press, 2004

 アゼルバイジャンの政治的アイデンティティーは様々に錯綜する条件の中で揺れ動きながら形成されてきた。ロシアの圧倒的な影響の中でムスリムとしての帰属意識、トルコ系としての帰属意識、そしてコーカサス連邦主義などにもひかれつつ、1905年の第一次ロシア革命、1914年からの第一次世界大戦(ロシア対オスマン帝国)、1917年の第二次ロシア革命と政治的混乱が続く中で、ロシアでもない、トルコでもないものとしてアゼルバイジャン人意識が現われてくる。

 前史をメモしておくと、
・バラバラだった藩国がロシア支配下で一つに統合→アゼルバイジャンのトルコ系ムスリムの間で経済的一体感(→ペルシア領アゼルバイジャンとは分離)。また、ロシア帝国は土着エリート層を支配システムの中に組み込んでいた。
・石油→産業化→バクーには様々な出自の人々が集まった→技能職はロシア人・アルメニア人が独占し、ムスリム系は単純労働者という分化→アルメニア人への敵意の背景
・3つの思想潮流→①パン・トルコ主義(ガスプリンスキのジャディード運動の影響もある)、②パン・イスラム主義(アル・アフガーニーの影響。スンナ・シーア両派の和解も含めて)、③リベラリズム(ロシア経由で西欧思想が流入。1900年にはバクーにロシア社会民主労働党の支部)

 1917年の二月革命に際して、アゼルバイジャン人は基本的にロシアへの残留を望んでいた(二つの方向性→左派は革命ロシアとの連携を目指し、パン・イスラム主義者は全ロシアのムスリムとの一体感を優先させよとした)。続く十月革命(ボルシェヴィキの政権奪取)に際しても、トランスコーカサス全体の空気として民主的なロシア内への残留を求める考え方が一般的だったが、ボルシェヴィズムによる政治混乱回避を目的として、グルジアのメンシェヴィキ、アルメニアのダシュナク、ムスリム系社会主義者など非ボル系左派を中心にザカフコム(ZAKAVKOM)を形成。Seimという議会が開設されて、1918年にはトランスコーカサス連邦共和国の独立という成り行きになった。ただし、これはロシアの政治混乱やオスマン軍の進軍という二つの対外状況への暫定的対処という消極的な理由によるものにすぎず、独立への熱狂などない実に冷めたものだった。

 同床異夢のかりそめの連邦はすぐに破綻した。まず、アゼルバイジャン人とアルメニア人との緊張関係。1917年、ロシア軍が引き揚げ始めるが、その代わりに空白を埋めるべくロシア人と同じキリスト教のアルメニア人・グルジア人を動員して軍隊組織がつくられた。とりわけ、反オスマン意識の強いアルメニア人(トルコ人による虐殺が進行中)と親オスマン意識の強いムスリム系住民とが反目、1918年、いわゆるMarch Days、バクーでダシュナクがムスリム系住民を虐殺。これ以降、ムスリム系住民にはトルコへの傾斜が強まっていた(ただし、ダシュナクとムスリム系組織との間でも連絡を取り合って、双方で事態を沈静化させようという動きも頻繁に見られた)。グルジア人には、オスマン軍が来攻してきたときムスリム系は本当にトランスコーカサス連邦に忠誠を誓えるのかと懐疑的で、やがてドイツの支援(オスマン帝国を牽制してもらう)を当て込んで1918年5月26日にグルジアの独立を宣言、連邦はほんの一ヶ月ちょっとで崩壊した。

 アゼルバイジャンは5月28日に独立を宣言した(ただし、バクーではボルシェヴィキを含めたコミューンが成立しており、首都は西部のギャンジャに置かれた)。これ以降、トルコ系ムスリムは公的にアゼルバイジャン人となる。やがてオスマン軍が進駐してくるが、オスマン軍司令官の傲慢な態度とアゼルバイジャン指導部の思惑とのズレが鮮明となり、トルコを当て込む心情は急速に冷えてしまった。他方、赤軍の敗北により、バクーのコミューンではダシュナク・右派エスエル(SR→社会革命党)・メンシェヴィキが連携してボルシェヴィキ指導者シャウミアンを追放、イギリス軍を招く。ところが、オスマン軍によってバクーは陥落、この際、March Daysの報復として1万人前後のアルメニア人がアゼルバイジャン人によって虐殺された。

 第一次世界大戦でオスマン帝国は敗北し、イギリス軍がバクーに進駐。イギリス軍の占領下で当面の安全は保障され、民主的な制度づくりが進められた。アゼルバイジャンの政治指導者たちはイギリスの民主主義志向に敏感に反応しており、いちはやく暫定議会を召集して直接選挙・比例代表制・完全普通選挙(女性も含めて)による選挙法を可決した。イスラム世界で初めて議会制民主主義が登場したのはアゼルバイジャンであり、結局実施する時間はなかったものの女性参政権が認められていたことは注目に値する(日本よりも早い!)。このアゼルバイジャン共和国において、パン・イスラム主義でもパン・トルコ主義でもなく、トルコ系であっても自前の国民国家を持つアゼルバイジャン人としてのナショナリズムが形成された(ただし、知識人中心で、末端の農民レベルまでは行渡ってはいなかったようだ)。安全保障面ではグルジア・アルメニアとの連携が基本方針となる。ただし、民主的制度は整ったものの、それを運用していく人材が不足していた。連立政権の下で政情も不安定となった。

 アゼルバイジャンの共産主義者も自前の国民国家を経験したことから大きな影響を受けており、彼らはソ連への加盟を目指しつつも、それがロシア内部の単なる一地方としてソヴィエト化するのか、それとも自立した国家としてソ連に加盟するのかが問題となった。1920年、バクーの共産主義者の動きに呼応する形で赤軍が国境線を越え、4月27日、アゼルバイジャン議会はボルシェヴィキ側の最後通牒をのんだ。ほぼ無血でボルシェヴィキの支配下に入ったが、共和国の指導的政治家たちはただちに逮捕・処刑されたほか、議会指導者のレスルザーデはトルコに亡命、初代首相のホイスキーは亡命先のトビリシ(グルジア首都)で暗殺された。なお、ボルシェヴィキは、内部からの共産主義者の反乱と外部からの軍事的圧力というこのパターンを隣国グルジア・アルメニアでも繰り返そうとしたが、この二国ではボルシェヴィキの勢力は弱かったので手こずり、制圧には翌1921年までかかった。

(Tadeusz Swietochowskiという著者名はスペルからするとポーランド系だと思うが、タデウシュ・スヴェトチョフスキと読んでいいのだろうか?)

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2009年2月16日 (月)

アルメニア史についてメモ

 アルメニアの通史としては、ジャン・ピエール・アレム(藤野幸雄訳)『アルメニア』(白水社・文庫クセジュ、1986年)、佐藤信夫『新アルメニア史 人類の再生と滅亡の地』(泰流社、1988年)、中島偉晴『閃光のアルメニア ナゴルノ・カラバフはどこへ』(神保出版会、1990年)、藤野幸雄『悲劇のアルメニア』(新潮選書、1991年)のほか、北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』(明石書店、2006年)の関連箇所を参照のこと。藤野書が過不足なくまとまっており、入門書として一番読みやすい。

 とりあえず頭に残ったポイントを書き出すと、
・アルメニア人のシンボルとなっているアララト山(ただし、現トルコ領)→語源的に古代ウラルトゥ王国に由来(母音変化により、ウラルトゥ→アララト)。
・後301年にキリスト教を国教化した最古のキリスト教国だが、太陽崇拝・アナヒータ(大地母神)崇拝など古代の風習も残っているほか、ゾロアスター教の痕跡も見られるらしい。
・エチミアジン大寺院にキリスト教のアルメニア大主教(カトリコス)がいて、メスロープ・マシュトツがアルメニア文字をつくった→ペルシア文化と訣別し、アルメニア人としての民族的一体感。
・11世紀以降、アナトリア中西部のキリキアへの移住が始まる→小アルメニア(キリキア)王国→十字軍と連携した。キリキアにアルメニア大主教が置かれたが、キリキア王国滅亡後も存続→エチミアジンと一種の分立状態。
・18世紀以降、ロシアの南下→1828年、ロシアとペルシアとの間でトルコマンチャーイ条約→現在のアルメニアの国境線がほぼ確定→アルメニア人はロシア領とそれ以外とに分裂。
・19世紀末、ハンチャク党(社会主義)、ダシュナク党(民族主義)などの結成→アルメニア人の政治活動活発化、権利要求の他、分裂したアルメニア再統合の主張も出てくる。
・オスマン帝国は、アルメニア人の活動はロシア帝国と手を結ぶのではないかと猜疑心→1894~96年、赤いスルタン・アブドュル=ハミト二世によるアルメニア人大虐殺。

 アルメニア現代史で最も重大な事件はオスマン帝国による大虐殺である。「統一と進歩委員会」(いわゆる“青年トルコ党”)のエンヴェル陸相・タラート内相・ジェマル海相の三頭政治による舵取りでオスマン帝国は第一次世界大戦に参戦、1915年から国内のアルメニア人の“移送”(すなわち抹殺)を指示した。その状況は中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』(明石書店、2007年)に詳しいほか、デーヴィッド・ケルディアン(越智道雄訳)『アルメニアの少女』(評論社、1990年)、マリグ・オアニアン(北川恵美訳)『異境のアルメニア人』(明石書店、1990年)は生き残った人の逃避行を生々しく描き出している。この虐殺にはアッシリア人も巻き込まれた。トルコ人やクルド人でもアルメニア人に救いの手を差し伸べた人もいたが、そうした行為は処罰の対象となったし、地方総督でも拒否した者もいたが、抗議の辞任や左遷、場合によっては処刑された。憎悪や憤怒による偶発的な虐殺というよりも、政府による指揮命令系統に従った虐殺として近代的なジェノサイドの始まりを意味した。ヒトラーが第二次世界大戦を仕掛けるにあたり、「今日、だれがあのアルメニア人虐殺なんて覚えているだろうか?」と語ったことはよく知られている。

 オスマン帝国の敗戦後、青年トルコの三頭政治家はみな国外に逃亡したが、タラートは1921年にベルリンで、ジェマルは1922年にグルジアのティフリスで暗殺された(山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル・パシャ 中東から中央アジアへ』岩波書店、1999年)。タラート暗殺犯のテフレリアンが裁判(アルメニア人への同情から無罪になった)にかけられたことに関心を抱いた国際法専攻の学生ラファエル・レムキンは後にジェノサイド防止条約の制定に尽力することになる(Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007)。なお、アルメニア人によるトルコ人への復讐テロは1980年代まで起こった。

 トルコにとってアルメニア問題はいまだにタブーとなっている。ノーベル賞作家オルハン・パムクがアルメニア人虐殺に言及して、国家侮辱罪に問われたことは記憶に新しい。背景の一つには、トルコ国内での歴史教育の問題がある。アメリカに行ったあるトルコ人政治学者が語るところによると、アルメニア人学生からアルメニア人虐殺問題について指摘されたところ、そもそもその問題について知らないために感情的にムキになってしまうらしい(中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』)。

 アルメニア教会がアルメニアのエチミアジンとキリキア(その後、レバノンのアンテリアス)とに分立していたことは、アルメニア人の国外亡命組織の派閥抗争にも暗い影を落とした。共産党支配下でエチミアジンの教会が荒廃する一方、オスマン帝国のジェノサイドを逃れてアメリカにいたトゥーリアン大主教(Archbishop Tourian、キリキア系)はソ連のアルメニア共和国と連携したが、これはソ連によって弾圧された民族主義政党ダシュナクからは裏切り行為とみなされ、トゥーリアンは暗殺された(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, 179-181)。ソ連崩壊後も、アメリカ帰りのアルメニア人ともともといたアルメニア人とでは政治主張(たとえばナゴルノカラバフ紛争についてなど)に温度差があるらしい。

 最近のアルメニア情勢をめぐっては、廣瀬陽子『強権と不安の超大国・ロシア──旧ソ連諸国から見た「光と影」』(光文社新書、2008年)、『コーカサス 国際関係の十字路』集英社新書、2008年を参照のこと。

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