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2009年12月20日 - 2009年12月26日

2009年12月26日 (土)

「牛の鈴音」

「牛の鈴音」

 木々や田んぼの緑が青々と美しい山あいの村。腰の曲がった老夫婦が緩慢な動きながらも懸命に田んぼの世話をしている。かたわらには、やはり年をくって仕事もきつそうな老牛が一頭。隣の田んぼでは別の農家がトラクターでスムーズに作業を進めている。

 老牛が死ぬまでの老夫婦の生活を撮り続けたドキュメンタリーである。韓国で大ヒットした作品らしい。

 おばあさんは「うちも機械を入れようよ」「農薬を使ってないのはうちだけだよ」「いつも牛のことばかりで、私が病気になっても薬も買ってくれやしない」「こんな男に嫁いできたなんて、なんて不幸なんだ」──。生活の苦しさを嘆く声には、どこか牛への嫉妬めいた感情もこもっているように聞こえてくる。耳の遠いおじいさんはそんな愚痴にもどこ吹く風。しかし、たとえ病気でふせっている時でも、牛の鳴き声が聞こえてくると心配そうにハッと表情を変える。

 やはり足腰が立たないのはきつい。子供たちの意見もあって、結局、老牛を連れて市場へ行くが、「老いぼれ」と言われて買い手はつかない。おじいさんも売りたくないからわざと高い値段をふっかけたのだろう。「老いぼれ」だろうと何だろうと、老牛とは親子以上の心情的つながりがある。ライフスタイルをテコでも変えないおじいさんの頑固さ。“ロハス”などという優雅だが陳腐な響きとは一切無縁の厳しい生活だが、他の人から何と言われようとも自分にはこういう生き方しかないという達観があるのだろうか。

 死んで動けなくなった牛の埋葬はクレーンを使うほど大がかりだ。老牛のお墓のかたわらで放心したように座る二人。愚痴ばかりこぼしていたおばあさんも「この牛は本当によく働いてくれた、見てよ、この薪、残していく私たちのためにこんなに運んできてくれたんだよ」と悲しげに神妙である。

【データ】
監督・脚本・編集:イ・チョンニョル
2008年/韓国/78分
(2009年12月26日、新宿バルト9にて)

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「アサルトガールズ」

「アサルトガールズ(Assault Girls)」

 ヴァーチュアル・リアリティものというのも今ではもう珍しくないな。閉塞した時代、人々は架空の戦闘ゲームの世界に浸りこみ、そこで人間が本質として抱えている醜さが露呈される、という設定。

 寒々とした荒地に空を大きく映し出す雄大な風景は、時にかわいた詩情すら感じさせてなかなか好きだ。ただし、ストーリー設定は思わせぶりだった割に「あれ、これでおしまい?」と肩すかし。押井守の実写映画では「アヴァロン」も同様のがっかり感があった。全編基本的に英語で、菊地凛子を起用したのも海外での配給を考えているのか。黒木メイサの凛々しい美しさは目を引いた。

【データ】
監督・脚本:押井守
音楽:川井憲次
出演:黒木メイサ、佐伯日菜子、菊地凛子、藤木義勝
2009年/70分
(2009年12月26日、テアトル新宿にて)

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2009年12月25日 (金)

エミール・デュルケーム『社会分業論』

エミール・デュルケーム(田原音和訳)『社会分業論』(現代社会学大系2、青木書店、1971年)

 社会学の大成者と言うべき一人、エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858~1917)の主著の一つ。他にも井伊玄太郎訳(講談社学術文庫)もあるが、あまり評判が芳しくないので田原音和(おとより)訳を読んだ。以前、あるシンポジウムで教育社会学の本田由紀さんがこの本を推薦図書に挙げていたのがずっと頭の片隅にあって、ふと思い出して手に取った次第。ちなみに、先日取り上げた『贈与論』(→こちら)の著者、マルセル・モースの叔父さんにあたる。

 デュルケームの学説史的な位置付けがどうなっているのかは不勉強にして詳らかにしないが、私自身の問題意識から言うと、個人の自由と社会的秩序とをトレードオフで考えるのではなく両立させる、そうした構想を示そうとしているところに関心を持ちながら読んだ。彼が着目するのは“分業”である。

「本書をあらわす機縁となった問題は、個人的人格と社会的連帯との関係の問題である。個人がますます自立的となりつつあるのに、いよいよ密接に社会に依存するようになるのは、いったいどうしてであるか。個人は、なぜいよいよ個人的になると同時にますます連帯的になりうるのか。というのは、この二つの動きは矛盾しているようにみえて、実は並行してあいついでいるからである。」「この表面上の二律背反を解決するように思われたのは、分業のたえざる顕著な発展による社会的連帯の変化である。」(37ページ)

 職業上の機能が多様に分化して複雑に絡み合っているのが近代社会の特徴である。一人一人が自分の職業を持つが、そうした分散は単に生産性の向上のみを意図しているのではない。それぞれ自分が専門とする職業を通して自分なりの個性を追求する。他方で、自分ひとりで自足して生きていけるわけではない。他者の専門性と互いに補い合って社会全体が機能していく。こうした分業→相互依存という関係性の中でそれぞれの個性を認め合わざるを得ないからこそ、社会的連帯の道徳感情が基礎付けられているのだとデュルケームは言う。

「われわれはどんなに天分に恵まれていても、つねに何かが欠けているし、われわれのうちでもっともすぐれたものといえども、みずからに不足を感じているものだ。それだからこそ、われわれはみずからにかけている性質を友人のうちに求めるのである。それは、友人との交わりにおいて、われわれがいわば友人の性質にあずかり、それによってみずからの不完全さがいくらかでも補われたと感ずるからである。こうして、友人たちの小さな仲間うちが形成されるが、そこでは各自が自分の性格にあった役割をもち、ほんとうの用役の交換がおこなわれる。すなわち、ある者はかばい、ある者は慰める。助言を与える者があれば、実行に移す者がある。これらの友愛関係を律するものこそ諸機能の分担であり、慣用された表現でいえば、すなわち分業である。」「分業の真の機能は二人あるいは数人のあいだに連帯感を創出することである。」(58ページ)
「分業のもっとも注目すべき効果は、分割された諸機能の効率を高めることではなくて、これらの機能を連帯的にすることである。」「諸機能の連帯がなければ存在しえない社会を可能ならしめることである。」「分業は純粋に経済的な利害の範囲をこえている。なぜなら、分業はそれ固有の社会的・道徳的秩序を確立することにあるからだ。諸個人は分業によってこそ相互に結びあっているのであって、それがなければ孤立するばかりである。彼らは、てんでに発達する代りに、自分たちの努力をもちよる。彼らは連帯的である。しかし、この連帯は、彼らが用役を交換しあう短い時間だけに限られるのではなく、はるかにそれをこえて伸びる。」(62ページ)
「虚弱な個人といえども、現代社会組織の複雑な枠組のうちで役にたつ場をみつけることは可能である。」(261ページ)
「経済学者たちにとっては、分業の本質はより多くの生産ということだ。われわれにとっては、より大なる生産性ということは、分業という現象の必然的な一帰結、ひとつの残響にすぎない。われわれが専門化するのは、より多くを生産するためではない。われわれに用意された新しい生存条件のなかで生きるためである。」(265ページ)
「分業によってこそ、個人が社会にたいする自己の依存状態を再び意識するからであり、分業こそから個人を抑制し服従させる力が生ずるからである。要するに、分業が社会的連帯の卓越した源泉となるのであるから、それと同時に、分業は道徳的秩序の根底ともなるのである。」(384ページ)
「…一定の仕事に専心している人たちは、職業道徳の無数の義務をとおして、共同の連帯感をたえずよびさまされるのである。」(385ページ)

 当時はスペンサーを代表格とする社会進化論が流行していたが、個人をバラバラのアトム的単位と捉え、その自然淘汰の競争によって社会は動いていくという彼らの考え方に対してデュルケームは批判的である。競争は活力を生み出すから決して否定はできないが、ただし互いに同じ社会に属している相互承認が前提である。蹴落としあう生存競争では、分業による利益も連帯感も根底から崩されてしまう。こうした考え方に対するデュルケームの態度は、現代における新自由主義批判とも二重写しになってくるし、リバタリアニズム・コミュニタリアニズム論争に引き付けるならおそらくコミュニタリアニズムに分類されるかもしれない。

(自然淘汰の競争に対して)「…ところが、分業は対立させると同時に結合させる。それは、みずからが分化させた諸活動を収斂させ、ひき離したものを接近させる。競争がこの接近を決定してきたわけではないから、この接近はあらかじめ存在していたはずである。たがいに闘争に参加している諸個人はすでに連帯的であり、またその連帯を感じとっていなければならぬ。すなわち同一の社会に属していなければならないのだ。だからこそ、この連帯感が弱すぎて、分散させようとするあの競争の影響力に対抗できぬばあいには、競争は分業とはまったく別の効果を生みだすのである。」(265ページ)

「集合生活は個人生活から生まれるのではない。反対に、個人生活が集合生活から生まれるのである。こうした条件においてのみ、社会的諸単位のそれぞれ独自の個性が、どうして社会を解体しなくても形成されえ、成長しえたかを説明できるのである。このばあい、個性は既存の社会環境のまっただなかでこそ彫琢されるのだから、それは必然的にこの社会環境の特徴を帯びる。すなわち、この個性は、それと連帯するこの集合的秩序を破壊しないような仕方でつくり上げられるのである。個性はこの秩序から自由でありながら、いぜんとしてこれに順応する。個性には反社会的なものが何ひとつとしてない。それは社会の産物だからである。それは、自己に自足し、諸他のいっさいがなくとも過ごしうる、あの単子(モナド)の絶対的な人間的個性ではない。一定した機能をもつ一器官としての、あるいは器官の一部としての個性であり、それも有機体の爾余の部分から切り離されれば、死滅の危険をおかさざるをえない。こうした諸条件のもとにおいては、協同がたんに可能になるのみでなく、必然的になる。」(269ページ)

 社会なり文明なりがまずあって、その枠内で効率性を目指して分業が生じたのではない。逆に、まず人々が分業を行なうようになって、その結果として社会なり文明なりという枠組みが形成されてきた。

「文明は、分業の反響にすぎない。分業の存在も、その進歩も、文明によっては説明しえない。文明は、それ自体が、内在的価値、絶対的価値をもっていないからであり、逆に、分業それ自体が必然的であるかぎりにおいてしかその存在理由がないからである。」(326ページ)

 分業が機能不全となっているとき、人々は規範を失った孤独感、すなわちアノミーに陥る。分業の機能回復を目的として問題の所在を明らかにしようと努めるところにデュルケームは社会学の役割を見出している。

「そして、どのばあいにおいても、分業が連帯を生じていないとすれば、それは、諸器官の関係が規制されていないからであり、それらの関係が、まさしくアノミーの状態にあるからである。」(355ページ)
「必要なことは、この無規制状態(アノミー)をとめることであり、まだバラバラのままの動きのなかでぶつかりあっているあの諸器官を調和的に協同させる手段を発見することであり、悪の根源であるあの外在的不平等をいよいよ減少させることによって、諸器官の諸関係のうちにより多くの正義を導入すること、これである。」(391ページ)

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2009年12月24日 (木)

大内伸哉『雇用はなぜ壊れたのか──会社の論理vs.労働者の論理』

大内伸哉『雇用はなぜ壊れたのか──会社の論理vs.労働者の論理』(ちくま新書、2009年)

 著者は労働法の研究者。生産性向上を目指してコストの効率化を図る“会社の論理”と、ヒトとして生きていく権利を保障すべき“労働者の論理”。それぞれ正当性を主張する根拠があるものの、あちら立てればこちらは立たずという難しさ。両方の論理の線引き、比較考量を行なうルールとして労働法を位置づけ、社内不倫、女性への雇用差別、残業、労働組合、学歴、解雇、報酬、定年、非正規雇用、雇用と自営の違いといった具体的な問題の中でこの二つの論理がせめぎ合う場面を一つ一つ検討していく。

 仮に会社側・働く側に合意があったとしても、労働法の規制がある場合(たとえば労働時間など)、力関係で強い立場にある会社による押し付けの可能性を想定して、当事者に決定の自由はないとされる(強行法規)。例外がいくつかあり、その一つが管理職への適用除外→コスト削減策としての「名ばかり管理職」の問題になった。会社が労働力を調達するにあたり、①雇用、②業務委託契約、③労働者派遣がある。業務委託契約については当事者は自営であって民法上、対等の契約となる。労働法の適用なし=自己責任とされるが、実態が雇用と変わらない場合には使用従属関係によって判断される。

 基本的には労働法のくだけた概説という感じで、タイトルが内容を必ずしも表わしているわけではないが、法的論理の思考訓練としてなかなか面白い本だ。

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2009年12月23日 (水)

竹信三恵子『ルポ雇用劣化不況』、堤未果・湯浅誠『正社員が没落する──「貧困スパイラル」を止めろ!』、湯浅誠『反貧困─―「すべり台社会」からの脱出』、森岡孝二『貧困化するホワイトカラー』、他

 竹信三恵子『ルポ雇用劣化不況』(岩波新書、2009年)は、雇用環境について現場の取材を重ねてセーフティネットのあり方を模索する。代替可能な労働力としての非正規雇用は、入れ替えが激しくて経験が乏しいのでマニュアル以外のことはできず、熱心に働いても評価の対象にならない。作業上のミスも増え、働く現場の停滞を招いている。労災隠しの問題。残業代の出ない「名ばかり管理職」の問題。幹部候補正社員と周辺的正社員を分け、後者を使い捨てする「名ばかり正社員」の問題。ここを辞めたら他に働き口はないという不安から、労働法規に反する無理な要求でも受け入れざるを得ない弱い立場。「不況を乗り切るための雇用劣化」が「雇用劣化による不況」へと負のスパイラルになってしまっているのではないかと指摘する。

 堤未果・湯浅誠『正社員が没落する──「貧困スパイラル」を止めろ!』(角川oneテーマ21、2009年)も雇用環境をめぐって討論。市場原理の極端な導入によって医師、教師、中間管理職といったステータスのある職種の人々までもワーキングプアに落ちこみ、プライドがズダズダになっている、食えない若者は軍隊が囲い込む、こうしたアメリカの現実を堤未果が報告する。非正規雇用の拡大は、単に彼らを切り捨てやすくなっているだけでなく、彼らと常に比較される正規雇用の労働環境悪化も招いている、従って、中間層も貧困層に転落する可能性をはらんでいる日本の現実を湯浅誠が指摘する。

 湯浅誠『反貧困─―「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書、2008年)でも用いられていたが、“溜め”というキーワードが大切だろう。人間誰しも失職、病気など何らかのトラブルに直面することがある。立ち直るために相談にのったり、手助けしたり、猶予期間を与えたりという形で家族・知り合い・会社などの人間関係が“溜め”として機能していた。しかし、この“溜め”が細り、すべてが“自己責任”とされることで、たった一度のトラブルでも“すべり台”のように転落しかねない問題点を指摘していた。“自己責任”論者は、自分自身はこの無形の“溜め”で助けられてきたのに、“溜め”のない人に対して自助努力が足りないと批判するという矛盾がある。湯浅さんのNPO「もやい」はこの“溜め”の役割を果そうとしている。

 憲法で保障されるべき「最低限の生活」として生活保護のラインがある一方で、ホームレスに転落して生きていく上で本当にギリギリのラインがある。この二つのラインの中間に「貧困ビジネス」が入り込んできたことも指摘される。ホームレスにならないだけマシだろ、というロジックを取るが、あくまでもビジネスだから基準値はどんどん切り下げられる。他にすがるもののない人はこの泥沼から脱け出せない。立場が弱いからこそますます喰いものにされてしまう。こうした問題については門倉貴史『貧困ビジネス』(幻冬舎新書、2009年)、須田慎一郎『下流喰い』(ちくま新書、2006年)などが具体例を紹介している。

 森岡孝二『貧困化するホワイトカラー』(ちくま新書、2009年)は、ホワイトカラー雇用のあり方について日本とアメリカそれぞれの事情を歴史的に概説、その上で現在の雇用環境流動化の問題点を考える。「成果主義」は、目標達成度に応じた評価によって雇用者を競わせることで、人件費総額を抑制しながら「生産性」向上を図る→相互協力の阻害、賃金格差の拡大(仕事は増えても給与は下る)、精神的ストレスの増大などをひきおこす。雇用差別、派遣労働、ホワイトカラー・エグゼンプションなどの問題。経済界の要求を受けて政治介入を縮小・市場に委ねるという形で雇用・労働分野の規制緩和→日本の労働諸法も前提としている、ILOの「フィラデルフィア宣言」(1944年)で示された「労働は商品ではない」という根本原則が崩されていると指摘する。

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2009年12月22日 (火)

大野正美『グルジア戦争とは何だったのか』、前田弘毅『グルジア現代史』、他

 大野正美『グルジア戦争とは何だったのか』(東洋書店、ユーラシア・ブックレット、2009年)は、2008年8月に南オセチアをめぐっておこったロシア・グルジア間の「五日間戦争」の経緯を解説。グルジア領内にあってロシアのバックアップを受ける南オセチア自治州、アブハジア自治共和国が焦点。グルジア内のマイノリティーである両自治州・自治共和国の中にもさらにマイノリティーがいるという複雑な民族構成。どちらが先に手を出したのかはいまだに情報が錯綜している。国力差ではロシアが圧倒的だが、実際の動員数はほぼ互角、地勢的条件を考慮すればむしろグルジア側が有利だったはずだが、軍隊のシステム上の不備から敗退。ロシア側は、資源輸出による経済成長への自信に裏付けられて対外的に強硬姿勢だったが、直後の9月に世界金融危機→欧米のロシア投資も一斉に引き上げ→口先とは裏腹に国際協調を迫られた。ロシアが初めて旧ソ連構成国と戦争したこと、国境不変更の原則からコソボ独立に反対していたにもかかわらず“非承認国家”南オセチア・アブハジアの独立を認めたことは、ロシア外交への国際的不信感を印象付ける結果となった。

 前田弘毅『グルジア現代史』(東洋書店、ユーラシア・ブックレット、2009年)は、ソ連崩壊・グルジア独立以降に重きを置いた現代政治史の概説。1956年にはハンガリー事件に先行して反ソ暴動、ソ連軍による軍事制圧を経験、1978年には国語条項問題→グルジア民族主義が高まっていたが、他方で、アブハジアなどグルジア領内マイノリティーは警戒感を強めており、民族紛争の種は早くからくすぶっていた。独立後の初代大統領ガムサフルディアは激情的な愛国主義者で混乱に拍車をかけてしまった。事態収拾のため招かれたシェワルナゼは現実主義的なバランス感覚を示したものの、旧ソ連時代からの地元ボス政治を温存→腐敗、さらに経済運営の失敗、チェチェン紛争や9・11後の危機的状況を乗り切れず、国内に不満が高まり、2003年のバラ革命で失脚。代わって大統領になったアメリカ帰りのサアカシュヴィリは清新なイメージの一方で、やはり古くから続く縁故政治を断ち切れず、政権幹部も離反、国内の求心力を高めるため反ロシアの愛国主義を煽りたて、2008年の「五日間戦争」を招いた。しかし、サアカシュヴィリに代わり得る指導者は他に見当たらないのが現状だという。

 以前、ピロスマニに興味を持って(→こちら)、彼の生きた時代背景を知りたいと思ったのだが、グルジア史関連の日本語文献が少なくて難儀した。ロシア革命前後の時期については取りあえず、Stephen F. Jones, Socialism in Georgian Colors: The European Road to Social Democracy, 1883-1917(Harvard University Press, 2005)を読んだ(→こちら)。最終的にはボルシェヴィキが覇権を握ったロシアとは異なり、グルジアではメンシェヴィキの勢力が強く、ナショナリズムと近代化の受け皿となった。そのことを指して“グルジア色の社会主義”と表現されている。指導者ノエ・ジョルダニアの個人的な信望もあって、1921年の赤軍による軍事制圧で亡命を余儀なくされるまでのほんの数年間だったが、メンシェヴィキ主導のグルジア民主共和国が成立していた。現在のグルジアもこれを継承したという形をとっている。それから、悪ガキ時代のスターリンを描いたSimon Sebag Montefiore, Young Stalin(Phoenix Paperback, 2008)を読みさしのままほったらかしなのだが、舞台はやはりこの時代のグルジアである。ジョニー・デップ主演で近いうちに映画化されるらしい。

 他にグルジア関連では、テンギズ・アブラゼ監督の映画「懺悔」についてはこちら、グルジア史について音楽に絡めたメモはこちらに書いた。

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2009年12月21日 (月)

斎藤充功『日台の架け橋・百年ダムを造った男』、平野久美子『水の奇跡を呼んだ男──日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』、胎中千鶴『植民地台湾を語るということ──八田與一の「物語」を読み解く』

 日台関係に関心を持つ人以外では八田與一という名前にはあまりピンとこないかもしれない。土木技師として、1930年、当時では東洋一の規模を誇る烏山頭ダムを完成させ、嘉南大圳という灌漑水路網を整備した。彼の業績は台湾ではよく知られており、例えば私の手もとにある呉密察監修『台湾史小事典』(遠流出版、2000年)、李筱峰・荘天賜編『快讀台湾歴史人物Ⅰ』(玉山社、2004年)、公共電視台『台湾百年人物誌1』(玉山社、2005年)を見ると八田に一項目立てられている。最近、八田與一紀念館が開館し、オープンセレモニーには馬英九総統も日台関係に配慮して出席したらしい。

 斎藤充功『日台の架け橋・百年ダムを造った男』(時事通信社、2009年、旧版は1997年)は八田與一のダム造りに執念を燃やした生涯をたどる。ダム造りは水利技術や農業技術など様々な民生技術と一体のプロジェクトであって、関連分野で活躍した技術者(たとえば、蓬莱米を開発した磯永吉、末永仁など)にも時折言及される。台湾というコンテクストをはずしても、技術開発に専念した一徹な仕事人として、例えばNHK「プロジェクトX」が好きな向きには興味深い人物だろう。1942年、南方産業開発派遣隊としてフィリピンへ渡るとき、乗船していた船が撃沈されて落命、敗戦後、彼の完成させた烏山頭ダムで夫人が入水自殺したという悲劇性も地元の人々の気持ちを引いたのかもしれない。

 平野久美子『水の奇跡を呼んだ男──日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』(産経新聞出版、2009年)。八田與一の仕事は政府主導の大規模公共事業であったが、対して本書が取り上げる鳥居信平(のぶへい)は民間企業の技師であったため永らくその名は埋もれたままだった。サトウキビ増産のため台湾糖業に招かれた土木技師。彼の整備した二峰圳は地下ダムによって伏流水を利用した灌漑用水であり、自然の生態や原住民の生活と折り合いをつけながら水の力を最大限に引き出そうという工夫がこらされていた。生態系バランスを考えた環境型ダムとして先進的であったと評価される。本書のように日台関係の埋もれた人物を掘り起こしていく作業も大切である。

 八田にせよ、鳥居にせよ、彼ら個人としてのひたむきな技術者魂は政治とは無縁であるが、それが日台双方のある種の政治性の中では微妙な意味合いを帯びてくる。胎中千鶴『植民地台湾を語るということ──八田與一の「物語」を読み解く』(風響社、2007年)は日本、台湾、それぞれで八田を受け止める歴史的記憶のコンテクストが異なるのではないかと指摘する。日本の植民地支配にはプラス、マイナス両面があり、従来はマイナス面ばかり強調されてきたのは確かであるが、その反発から「良い日本人もいた」→植民地支配全面肯定と飛躍してしまう人を時折見かける。極論に行かないように解毒剤として本書も併せて読んだ方がいいだろう。

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2009年12月20日 (日)

「誰がため」

「誰がため」

 コペンハーゲンのレトロで清潔感のある道路の石畳、そこに響き渡ったドイツ軍の軍靴の音。ナチス・ドイツ占領下のデンマークではレジスタンス運動が高まり、この美しい街並もあちこちで生々しい傷痕を見せている。

 銃を懐にターゲットへと近寄る二人、フラメンとシトロンが狙うのはナチに魂を売った裏切り者。組織上層部の命令で暗殺に手を染める二人だが、あるターゲットと交わした会話をきっかけに、心の中で疑念がきざす。ひょっとして、俺たちは無実の人間を殺しているのではないか? ゲシュタポのトップを直接狙いたいと上層部に言っても、それは絶対にダメだ、と釘をさされてしまう。誰の言うことなら信用できるのか? 疑心暗鬼で神経を憔悴させる中、ゲシュタポの包囲網は狭まりつつある──。

 二人とも戦後は“英雄”とされた実在の人物だという。最新の史料公開を踏まえてこの映画は作られているそうで、その中にはデンマーク現代史のタブーに触れる側面もあるらしい。自分たちのやっていることは正しいことなのかという疑いはシリアスなものである。それ以上に、こいつは裏切り者なのか、それとも二重スパイなのか、罠にはめられているのか、そのように情報のパズルがかみ合いそうでかみ合わない迷宮的な緊張感には、二時間以上の長丁場をグイグイ引っ張っていく迫力があった。

【データ】
原題:Flammen & Citronen
監督・脚本:オーレ・クリスチャン・マセン
出演:トゥーレ・リントハート、マッツ・ミケルセン、クリスチャン・ベルケル
2008年/デンマーク・チェコ・ドイツ/136分
(2009年12月20日、渋谷、シネマライズにて)

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木村汎『現代ロシア国家論』、ミヒャエル・シュテュルマー『プーチンと甦るロシア』、栢俊彦『株式会社ロシア』、酒井明司『ロシアと世界金融危機』、中村逸郎『虚栄の帝国ロシア』、ドミトリー・トレーニン「ロシアの再生」

 木村汎『現代ロシア国家論──プーチン型外交とは何か』(中央公論新社、2009年)は外交に着目して現在のメドベージェフ=プーチン「タンデム」政権の性格を分析する。ロシアは歴史的にみても強力な指導者の伝統があり、外交方針も指導者のトップダウンで一元的に決定される(ゴルバチョフ・エリツィン政権期は例外)。その指導者とは、現代ロシアではプーチンであり、憲法上の再選規定をクリアするため忠実なメドベージェフを大統領に据えつつも、実質的な権限はプーチン首相が持つという苦心のカラクリは周知の通りである。メドベージェフは比較的リベラルであり、将来的にはプーチンとの権力闘争の可能性も排除できないという指摘もあるが(例えば、中村逸郎『ロシアはどこに行くのか──タンデム型デモクラシーの限界』講談社現代新書、2008年)、それはあくまでも相対的な温度差の問題で彼自身も強硬なナショナリストだと本書は指摘する。

 他の国ならば複数の政治アクターのせめぎ合いによる政策決定過程に注目されるところだが、こうしたロシア政治の性格においては、指導者の権力基盤がいかに強固であるか、そして彼個人の思考方法はどのようなものであるのかに分析の焦点が合わされる。強いロシアの復興が外交の目標であり、そのためには国際的ルールは無視(徹底したリアリズム)、ハードパワー(軍事力と資源ナショナリズム)偏重が特徴である。長期的戦略としては対米協調だが、個別問題ではアメリカとの対決も辞さない。CIS諸国は「特殊権益圏」とみなして影響下に置くべく力をちらつかせる。中国とは欧米型民主主義への反発という点では共通するが、互いに潜在的脅威とみなしているため同盟までは至らない。グルジア侵攻で顕著になったように、ロシアもいずれはノーマルな国になるという希望的観測は打ち砕かれ、ロシアは怖い国だという国際的印象を強めてしまったこと、ハードパワーとしてのエネルギー戦略依存→モノカルチャー的で経済的多元化ができていない弱さが指摘される。

 ミヒャエル・シュテュルマー(池田嘉郎訳)『プーチンと甦るロシア』(白水社、2009年)は、ドイツの歴史家による現代ロシア政治論。2007年、ミュンヘン安全保障会議でプーチンがアメリカ一極支配に反発、他国の押し付けを受け入れるつもりはないと断言したシーンから説き起こされる。歴史的・政治的に幅広い論点からロシア政権の内在的論理を浮かび上がらせようとする趣旨で、タイトルからも分かるようにとりわけプーチンの人物像や考え方に重きが置かれる。なお、著者のシュテュルマーはドイツのいわゆる歴史修正主義論争で保守派として発言した人らしい。

 栢俊彦『株式会社ロシア──渾沌から甦るビジネスシステム』(日本経済新聞出版社、2007年)は、企業経営者、政治家、学者など様々な人々へのインタビューを通して、現代ロシアにおける市場経済化への模索をロシア人自身はどのように捉えているのかを伝える。1990年代の経済自由化ショック療法→新興財閥(オリガルヒ)の台頭→クローニー・キャピタリズム(仲間うち資本主義)→政府との対立からユーコス事件、不満を抱いていた国民からの喝采。こうした経緯の中で「国の役割強化」が求められているが、ただし、市場経済そのものを否定するわけではなく、ロシアの現実に見合った秩序ある市場経済ということになるらしい。資源輸出依存のモノカルチャーでは、輸出による通貨価値の上昇→しかし、国内製造業等が脆弱だと国際競争力が低下といういわゆる「オランダ病」に陥ってしまう。国内市場の活性化が必要で、ビジネス環境整備のため国家による市場監督機能を求める声が中小企業から上がっているが、リベラル派テクノクラートはロシア政治の性格からして統制強化と汚職を招くだけだとして否定的だ(たとえば、ガイダル)。なお、本書は色々な人々の見解を順番に並べる構成で、ロシア的「ビジネスシステム」が明示されているわけでもなく、タイトルとズレがある。

 酒井明司『ロシアと世界金融危機──近くて遠いロシア経済』(東洋書店、2009年)は、ソ連時代の計画経済の問題点から経済自由化後の金融危機、資源問題まで丁寧に解説した入門書。国際的な資本市場の動向と結び付いた金融危機、原油価格の上下で左右される心理的効果、そうした中で国際経済の流れと自国経済強化とのバランスに腐心しているとプーチン政権の経済政策を捉える。システムの解説というよりも、海外から持たれやすい誤解を解きほぐすことに重きを置く。ロシア擁護の論調が強いが、「残念ながら~は十分でない」という但書きが目立ち、ロシアにはロシアなりの事情や内在的論理があるのだからマイナス面への過剰反応は禁物という趣旨だと受け止めるべきだろう。

 中村逸郎『虚栄の帝国ロシア──闇に消える「黒い」外国人たち』(岩波書店、2007年)は、ロシアに周辺国から流れ込む出稼ぎ労働者たちの現場の調査を通してロシア社会の矛盾点を浮き彫りにする。法的手続きが煩雑なので不法就労とならざるを得ない彼らに対して、警官や役人はことあるごとに難癖をつけて金を巻き上げる。不法就労だからと言って追い出してしまうと“金づる”がなくなってしまう。それから、外国人労働者排斥を叫ぶスキンヘッド・グループの存在。外国人労働者を守る人権団体もロシアにはない。労働力として彼らを必要としつつも、彼らの存在を非合法とすることで“利ざや”を稼ぐ社会構造になっており、それを著者は「虚栄の帝国」と呼ぶ。

 Dmitri Trenin, “Russia Reborn,”Foreign Affairs, vol.88 no.6,(Nov/Dec 2009)は、ロシアは欧米のルールにはのらないというプーチンの対抗意識は現実の情勢に見合わないことを指摘する。小国であっても主権国家として自律的な行動をとる21世紀にあって、アメリカ、EU/NATO、ロシア/CISの勢力圏均衡という19世紀的発想は通用しない。例えば、中国は中央アジア諸国、ベラルーシ、モルドヴァなどにロシアを上回る貸付をしているし、ガス資源もトルクメニスタン→中国ルートの構築が進められている。グルジア侵攻は周辺諸国に動揺を招いた。ソ連時代は軍事力とイデオロギーで勢力を維持していたが、現代のロシアにそれだけの実力はない。ロシアの経済的・社会的・技術的後進性を直視すること、ソフト・パワーの再構築が必要であり、西側に加わらないまでも外交方針を変更しなければ立ち行かない。過去の栄光にしがみつくのではなく、現在の必要に応じて自己変革することによって国際社会の中で大きな役割を果たせるようにすべきだと主張する(具体的には、キリスト教圏とイスラム教圏との対話の仲介など)。キャッチ・アップの対象として中国、日本、韓国を挙げ、「もしピョートル大帝が生きていたら、バルト海(つまり、ペテルブルク)ではなく日本海側に遷都するだろう」という言い回しが面白い。

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