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2009年12月13日 - 2009年12月19日

2009年12月18日 (金)

マイケル・オークショット『政治における合理主義』

マイケル・オークショット(嶋津格・森村進他訳)『政治における合理主義』(勁草書房、1988年)

 言葉というのは実に難しいもので、表面的にはどんなに正しいように聞こえる主張であっても、理念として整合性をもって定式化されたとき、「確かにそうかもしれないけど、どこか変だ」と理屈とは異なる皮膚感覚レベルで違和感を覚えることがある。正義の理念であればあるほど、生身の感覚を万力でキリキリ締め上げていくような知的暴力。そうした違和感を自覚化することで進歩主義の不自然さを浮き彫りにしていくのが政治思想としての保守主義である。

 “伝統”とか“常識=コモンセンス”とかいうキーワードを出すと色々と誤解もされかねないが、要するに、自分自身の内面を振り返ってみて不自然でなく、しっくりくる感覚に基づいて考えれば、おおむね間違いは回避できる。仮に間違ったとしても、そのことを指摘されたら柔軟に修正できる。そうした積み重ねによって一歩一歩事態を改善していこうという考え方である。不自然に遊離した目的合理的な思考体系では、こうあらねばならないという目的意識=“べき”論が硬直化して修正がきかない。従って、ますます間違いを重ねてしまう。保守主義の要諦は皮膚感覚に根ざした懐疑と試行錯誤にあり、そのエッセンスが結晶した暗黙的な智慧を“伝統”と呼ぶ。

 もう一言付け加えると、自称保守、自称民族派というのも“伝統”なるものを皮膚感覚から切り離して説教くさい理念に硬化させてしまっている点で、いわゆる新自由主義も“自由”なるものを原理原則に硬化させてしまっている点で、いずれも実は他ならぬ進歩主義者と同様の誤謬に陥っていると私には思われる。過去、現在、そして未来にわたって試行錯誤の継続的な渦中にあって理念的なものは常に相対化されていく、そうした意味での歴史的視点から現在の自身の位置を探っていくのがポイントである。

・本書にはイギリス保守主義の政治哲学者マイケル・オークショット(Michael Joseph Oakeshott、1901~1990年)の論文10編が収録されている。表題論文「政治における合理主義」では、“理性”優位の政治思潮としての“合理主義”を次のように捉えて批判する。

(合理主義者は)「あらゆる場合における精神の独立、つまり「理性」の権威を除く他のいかなる権威に対する責務からも自由な思考、を唱導する。」「彼は経験を看過するわけではないが、それが彼自身の経験でなければならないと主張する(そしてすべてを新たに始めるよう求める)ために、また、入り組んだ多様な経験の一群を原理に還元し、」「彼には経験の蓄積という感覚がなく、経験が一つの定式に転換されている場合にそれを受け入れる用意があるに過ぎない。」「彼の知的過程は、可能な限りあらゆる外からの影響から絶縁されて、真空の中で進行するのである。彼の社会の伝統的知から自分を切り離し、分析の技術以上の教育はすべてその価値を否定したことで彼は、人間に対して人生のあらゆる危機についての必然的無経験を帰す傾向があり、」「ほとんど詩的ともいうべき幻想によって、彼は毎日をあたかもそれが彼の最初の日であるかのようにして暮らすことに努め、習慣を形成することは堕落だと信じている。」(2~5ページ)
「合理主義者にとって存在しているというだけでは(そして明らかに何世代にもわたってそれが存在してきたということからは)何物も価値を有しない。親しみに価値はなく、何事も、精査を受けずに存続すべきではないのである。こうしてその性向のため、彼にとっては受容と改革よりも破壊と創造の方が理解し易く携わり易いものとなる。」「そして合理主義者はそれの場所を埋めるために彼の自作のもの──あるイデオロギー、伝統に含まれていた合理的真理の本体とされるものの形式化された要約──を置くのである。」(5ページ)
(合理主義の政治は)「完全性の政治、そして画一性の政治である。」「彼の組立の中には、「その状況の下でもっともましなもの」の一つが占めるべき場所はなく、「最善」のための場所のみがある。」「つまり、状況というものを認めない組立には、多様性のための場所もありえないのである。」(6~7ページ)
「合理主義者は道徳において、相続した無知を捨て去ることから始め、この空の精神の何もない空白を、自分の個人的経験から抽象し人類共通の「理性」によって是認されると彼が信じるあれこれの確実な知によって埋めることをめざす。彼はこれらの原理を議論によって擁護し、それらは(道徳的には貧弱ではあるが)整合的な信条を構成するだろう。しかし彼にとって人生の行態が、がたがた変わる連続性のない事象、ひっきりなしの問題解決、次々起こる危機の克服、となることは避けられない。合理主義者の政治と同じく合理主義者の道徳(これが前者と切り離せないのは当然だが)は、自作の人間の道徳、自作の社会の道徳であり、それは、他の諸民族が「偶像崇拝」と考えたものなのである。」(36ページ)

・オークショットの論文ではしばしば詩人がたとえに取り上げられる。果たして、詩人は、まず心の中に“真なる”感情とか理想とかがあって、それを言葉へ翻訳・写像しているのだろうか?→このように単純化された二元的認識論の誤謬をオークショットは指摘する。言葉に出すという営みそのものが内なるものをそのつど掴んでいこうという努力の繰り返しであり、その意味で詩人の心の動きも語りも振舞いもすべて一体のものである。従って、心の中に秘められた“理念”を翻訳=抽象化するという思考モデルは本来的にあり得ない(「バベルの塔」「人類の会話における詩の言葉」)。

・何か抽象化されたゴールがあって、人間はそこに向かってすすんでいくという考え方→しかし、我々は活動する中でこそ何をなすべきなのか考えつつあるのであって、アプリオリに設定された目的などあり得ない(「合理的行動」)。

・レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』は以前にこちらで取り上げたことがあるが、要するに、人間の情念が「虚栄心」として暴走する可能性→「死の恐怖」が「虚栄心」をくじいて人間を理性に立ち返らせる→他者との共存を図る社会契約、という捉え方をしている。オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」もこうした捉え方をおおむね受け入れつつも、では、この社会契約の最初の履行者は、ひょっとしたら裏切られて馬鹿を見るかもしれない可能性をどうやってクリアしたのか?という論点を提起する。ホッブズの著作から確証が得られるわけではないが、この社会契約の最初の履行者は、自分が馬鹿を見ても構わないと考える「誇り」の人だったのではないか、と問いかける。ちなみに、「虚栄心」も「誇り」も英語ではprideである。

 なお、政治思想としての保守主義の古典、エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』は以前にこちらで取り上げたことがある。

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2009年12月17日 (木)

笠原清志『社会主義と個人―─ユーゴとポーランドから』

笠原清志『社会主義と個人―─ユーゴとポーランドから』(集英社新書、2009年)

 著者は自主管理労組の研究者。若き日のユーゴスラヴィア留学、研究目的でのポーランド滞在といった体験の中で出会った人々とのエピソードを通して、社会体制と個人との関り方を考えていく。タイトルは硬いが、私的な体験を交えて実感のある感想を述べているところには好感を持った。

 ワレサが民主化で果した役割を海外では過大評価しがちだが、連帯の分裂過程を見ると、“民主的”でなかった点ではかつての共産党と変わらないようだ。社会主義かどうかというのは所詮表面的な話で、結局、社会体制というのは人々の皮膚感覚にしみついた“ものの考え方”のレベルに根ざすわけだから不思議はない。

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2009年12月16日 (水)

青砥恭『ドキュメント高校中退』、小林雅之『進学格差』、本田由紀『教育の職業的意義』、他

 事情を知らなければ、勉強する意欲は本人の努力の問題、やる気がない奴は脱落しても仕方がないと単純な精神論で片付けられてしまいかねない。ところが、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―─不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』(有信堂高文社、2001年)は、家庭環境の相違、とりわけ経済的背景が子供の学習意欲を左右していることを指摘していた。職業的ステータスが学歴と強い相関関係を持つ社会において、貧困等の家庭環境は子供の世代でも繰り返され、階層的固定化が生じてしまう。こうした問題をめぐっては、山野良一『子どもの最貧国・日本──学力・心身・社会におよぶ諸影響』(光文社新書、2008年)、阿部彩『子どもの貧困──日本の不公平を考える』(岩波新書、2008年)などの本も以前にこちらで取り上げた。

 青砥恭『ドキュメント高校中退―─いま、貧困がうまれる場所』(ちくま新書、2009年)は、高校を中退してしまった生徒たちからじかに話を聞き取って、彼らの置かれた行き場のない苦境を訴えかける。高校中退者はいわゆる底辺校に集中し、そして底辺校に通う生徒の多くは家庭的に恵まれていない。基礎学力ばかりか、基本的な生活習慣すら身についていない子もいるが、親自身が生きていくのに必死で子供のことに構っている余裕がない。文化資本の問題ばかりでなく、見捨てられた感覚、ほめられることでの達成感も経験したことがないと、何をやっても無駄だというあきらめの心境になってしまう。高校の先生たちも対処しきれず、問題児は早く退学して欲しいという雰囲気まで生まれているという。そうした生徒は中退してもまともな就職先はない。学校にも社会にも居場所がなくなってますます負のスパイラルに陥ってしまう。「貧しいとは選べないことなんです」という言葉が深刻だ。「選べない」家庭は貧困を世代間再生産させることになり、そうした階層格差が高校の序列化という形ではっきり示されてしまっている。

 小林雅之『進学格差―─深刻化する教育費負担』(ちくま新書、2008年)は、大学進学にあたっての学費+生活費というトータルな費用について国際比較を行ない、その中で日本の現状を捉える。日本では成績上位生徒の場合、所得の高低に関係なく親の進学させたい意向は強いという。しかしながら、生活費等の条件も考えると、家計上負担できるかどうかで進学上の格差が生じてしまう。日本では教育費を親が負担するのは当然だとする観念が従来から強かったため、こうした問題がこれまで顕在化しなかったのだと指摘される。奨学金制度の見直しが提言される。なお、国際比較では各国の社会的・文化的背景を踏まえて考察されるので、どれが良いと単純化するような議論にはならない。海外の進学事情を知る上でも興味深い。

 本田由紀『教育の職業的意義──若者、学校、社会をつなぐ』(ちくま新書、2009年)。戦後の高度経済成長期、家庭、学校=教育、企業=仕事を三本柱とする人材供給経路において学卒一括採用→企業が人材育成をしていた。こうした日本型雇用システムが崩れ、個人の「生きる力」が称揚される中で進められる「キャリア教育」の問題点を本書は指摘する。自分で決める「自己実現」を急かされる一方で、そのために必要な手段は社会的に供給されていないという隘路(=自己実現アノミー)。自己実現の上での進路選択にあたっては、社会の現実とぶつかり合う試行錯誤の中で自分自身のあり方を掴み取っていくしかない。著者は「柔軟な専門性」教育を提唱している。とりあえずの足場として何らかの職業的専門性を身に付けさせ、同時にその足場をきっかけに自分の方向性を模索させる。つまり、自分の職業適性を考えるための具体性を持った回り道の猶予期間を学校という制度の中で保証すること(このあたりの議論は著者の『若者と仕事―─「学校経由の就職」を超えて』[東京大学出版会、2005年]、『多元化する「能力」と日本社会─―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』[NTT出版、2005年]で展開されている)。そのようにして社会的現実に「適応」する一方で、仕事現場の不合理な待遇にまで過剰に適応してしまわないように「抵抗」のための社会的知識(例えば、法律など)を身に付けさせること。こうした「適応」と「抵抗」という二つの面で習得の機会を提供していくところに「教育の職業的意義」を探ろうとしている。

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2009年12月15日 (火)

マルセル・モース『贈与論』

マルセル・モース(吉田禎吾・江川純一訳)『贈与論』(ちくま学芸文庫、2009年)

 マルセル・モース(Marcel Mauss、1872~1950年)の言わずと知れた文化人類学の古典。現代思想にも広く影響を与えたことでよく知られており、頻繁に引用されるので知ったかぶりだったが、新訳が出たのを機に読んだ。

 未開社会における贈与関係を、経済的にばかりでなく道徳的にも宗教的にも、受け取ったら(人間だけでなく神様や精霊からも)お返ししなければいけないという義務感を生じさせることで成り立つ人的ネットワークの精神的メカニズムとして把握する。このようなモラルと経済との結び付きが、現代の我々の社会でも隠れた形で機能しているのではないか? こうした問題意識を踏まえて、太平洋諸島やネイティブ・アメリカンの民族誌的事例の検討を通して贈与制度の理念型を抽出し、その名残をローマ、古典ヒンドゥー、ゲルマンなどの古代法からも読み取るという構成。

「与えることを拒み、招待することを怠けることは、受け取ることを拒むのと同じように、戦いを宣言するに等しい。それは結びつきと交わりを拒むことである。さらに、人に与えるのはそれが強制されているからであり、受贈者は贈与者に属する物すべてに一種の所有権を持つからである。この所有権は霊的な絆として示され、そのように捉えられている。」「これらすべてにおいて、与え、受け取るという権利と義務に対応する消費と返礼という一連の権利と義務が存在している。しかし、この対称的で対立的な権利と義務の混淆については、物──これはある程度、人に結びつく──と個人や集団──これはある程度、物とされる──との間に霊的な結合の混淆があると考えれば、矛盾は解消する。」(38~39ページ)

「…そこでは、物質的、精神的生活と交換が打算的でない、義務的な形で行われている。さらにこの義務は、神話的、想像的、あるいは象徴的、集団的な方法で表現されている。しかもこの義務は交換される物に結びついた関心という形をとる。交換される物は、交換を行う者から完全に切り離されることはない。交換される物によって作られる人間の交わりや結合関係は比較的崩れない。実際に、社会生活におけるこのような象徴──交換される物に対する執着の持続──は、これらのアルカイックな類型に属する、分節化された諸社会の下位集団が互いに錯綜し、しかも、自分達が互いに義務づけられていると感じるその有様を明確に表わしている。」(93~94ページ)

「つい最近、われわれの西洋社会は人間を「経済動物」にしてしまった。しかし、今のところわれわれのすべてがこうした存在になっているわけではない。大衆においてもエリートにおいても、一般的に行われているのは純粋で非合理的な消費である。それはわれわれの貴族階級の残存の特徴である。ホモ・エコノミクスは、われわれの後方ではなく前方に見出される。道徳的な人間、義務を果たす人間と同様に、そして科学的に思考する人間、理性的な人間と同様に、長い間、人間は他のものを有していたのである。人間が計算機によって複雑化された一つの機械になってしまってから、まだそれほど時間が経過していない。」(279ページ)

 全体的な「社会」関係の中のあくまでも一つとして機能していた「経済」が突出して、それが市場システムという形であたかも一元的に「社会」を動かす原動力になっているかのように見えるのは、あくまでも「近代」という人類史の中では特殊な一時代のことに過ぎない。このように現代の市場経済を相対化していく視点はカール・ポランニーが展開した経済人類学と同じである(例えば、『経済の文明史』をこちらで取り上げた)。

 例えば、ポトラッチが取り上げられているが、面子や権威の維持という社会的ステータスに関わる動機から財の破壊=消費→功利計算に基づいて利益最大化を図るホモ・エコノミクスとは異なるロジックをとる。つまり、経済活動は社会的慣習に動機付けられていることを示している点では、ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(→こちら)とも比較できる。見方を変えれば、ホモ・エコノミクスという人間類型そのものが現代の我々に特有な思考習慣に過ぎないと相対化することができる。

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2009年12月14日 (月)

ヴィクター・セベスチェン『ハンガリー革命1956』

ヴィクター・セベスチェン(吉村弘訳)『ハンガリー革命1956』(白水社、2008年)

 1956年、ソ連軍によって鎮圧されたハンガリー革命。一連の政治動向を前史としての第二次世界大戦から説き起こして時系列的に描き出したノンフィクションである。人物群像をこまめに拾い上げて描かれているので内容は興味深いのだが、訳文がちょっと不自然なのが残念。

 ソ連からのきびしい締め付け、常にソ連中央指導部の鼻息をうかがわねばならないラーコシは“小スターリン”として振る舞い、秘密警察による暴力と一体化した体制で恐怖政治を展開して、市民の間に不満がくすぶっていた。1956年のスターリン批判と共にラーコシは失脚して、鬱積していた不満が爆発、市民の自発的なデモが盛り上がる中、誠実な人柄で共産党幹部の中では唯一人気のあったナジ・イムレが新指導者として浮上する。ナジ自身はソ連と妥協する必要を理解していたが、民衆運動はもう抑えがきかない。結局、ソ連の軍事介入を招いてしまった(ただし、ソ連指導部内でも議論があり、ミコヤンは反対したが、強硬派に押し切られた)。アメリカは冷静構造のロジックで無視、スエズ動乱に忙殺される国連も関心を示さない。ナジ政権の閣僚だったがソ連側に寝返ったカーダールを傀儡として新政権が樹立され、ナジをはじめとした指導者たちは処刑された。

 本書でもカーダールに対しては裏切り者として評価は少々からい。本書の趣旨からははずれるが、カーダール政権の時代は依然として共産党支配が続き、とりわけ1956年の悲劇が傷としてひきずられたマイナスがある一方で、社会的・経済的には比較的安定し、ラーコシ時代との比較に過ぎないにしても秘密警察は控えめで、個人崇拝もなかったと言われる。後知恵的な言い方になってしまうが、当時の地政学的条件からしてソ連による“帝国支配”から脱け出せる見通しはほとんどなく、それにもかかわらずコントロールを失った民衆運動に引きずられて、それをまとめあげる力のなかったところにナジの悲劇があった。妥協によってソ連支配下でも一定の自立を目指した点では、ナジの果たせなかった役割をカーダールが担ったという見方も可能なのだろうか?

 なお、1956年のハンガリー革命については、以前に「君の涙 ドナウに流れ──ハンガリー1956」という映画を観たことがある(→こちら)。その時に併せてビル・ローマックス(南塚信吾訳)『終わりなき革命 ハンガリー1956』(彩流社、2006年)という本も読んだ。

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2009年12月13日 (日)

「チャイナ・パワー 第3回 膨張する中国マネー」

NHKスペシャル「チャイナ・パワー 第3回 膨張する中国マネー」

 急速な経済発展で金余りの中国。海外に投資先を探すファンドとして漢能投資集団が取り上げられる。アメリカに本拠を置く中国人投資家と某社をめぐって買収合戦、中国政府による案件審査が必要で時間遅れ、タッチの差で敗れたが、海外に広がる中国人人脈を使って巻き返しを図るところが興味深い。アメリカ企業とパートナーシップを結ぶなど活発な投資活動を繰り広げるチャイナ・マネー、しかしその威力には海外で反発もある。理由の一つとしては、中国ファンドはグローバル資本主義のロジックに則って行動しつつも、その背後に政府系企業・金融機関がついており、資源戦略という中国政府の方針が見え隠れするところが警戒心を招いているようだ。

 そういえば、先週、香港誌『亞洲週刊』12月6日号をパラパラ眺めていたら、中国国内経済についても「国進民退」か、「国進民也進」か、つまり国営企業主導で民間セクターは沈滞してしまうのか、それとも民間セクターも一緒に発展できるのか?という論点がメインになっていた。

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「倫敦から来た男」

「倫敦から来た男」

 霧が立ち込める冬の夜、波止場にイギリスから来た船が接岸する。ロンドンで大金を盗んだ男たち二人が仲間割れして一人が殺され、その現場を目撃したマロワンは、男たちの残した鞄を拾い上げた。中に入っていた大金を見たマロワンの心中にきざした変化は、やがて運命を変えていく。

 モノクロームの映像は影と光の対照を印象的な強さで際立たせる。マロワンの寒々とした心象風景を映し出しているようでいて、同時にその冷たさにはどこか抒情的な美しさすら漂う。廃墟とまでは言わないが、うらぶれた感じの街並が良い。セリフに呼応する俳優の表情や仕草、長回しのカメラワークで別々の複数の動きがスムーズに展開、注意深く見ていると一つ一つの映像構成が緻密に計算されているのが分かる。

 原作はジョルジュ・シムノンということでサスペンス映画かと思っていたのだが、そういう趣旨ではないようだ。ストーリーをたどっていくだけだと、正直なところ、眠気を催すかもしれない。むしろ、映像そのものに表われている情感をゆっくりかみしめるタイプの映画だろう。

【データ】
監督:タル・ベーラ
原作:ジョルジュ・シムノン
2007年/ハンガリー・ドイツ・フランス/138分
(2009年12月13日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

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カール・ポランニー『経済の文明史』

カール・ポランニー(玉野井芳郎・平野健一郎編訳、石井溥・木畑洋一・長尾史郎・吉沢英成訳)『経済の文明史』(ちくま学芸文庫、2003年)

・経済人類学者カール・ポランニー(Karl Polanyi、1886~1964年)のエッセンスとなる10編を集めた論文集。
・人類史を広く見渡してみたとき、市場経済は決して普遍的なのではなく、19世紀以降の近代に特有なシステムに過ぎないのではないか? こうした問題意識から文化人類学や歴史学の博識を総動員して文明論的な枠組みの中で経済史を捉える。いま我々がその中に生きていて自明視しがちな市場経済というシステムを相対化していく視点が有益である。

・もともと広い意味での「社会」の中に「経済」は組み込まれていたが、19世紀以降、「経済」が離脱→価格調節機能によって自律的となった市場経済が逆に「社会」全体を動かすようになった(すなわち、“大転換”)。本来、商品ではあり得なかった労働・土地・貨幣そのものを商品取引の対象とみなす擬制の成立→市場の価格システムの中に投げ込まれたことが契機。
・経済の変遷について「分析用具として提示する概念は、経済が、社会との関連で、社会に埋め込まれた(エンベッデッド)状態にあるか、社会から離床した(ディスエンベッデッド)状態にあるかという区別である。十九世紀における離床状態の経済は、社会のほかの部分、とりわけ政治システムと統治システムから分離独立していた。市場経済では、物的財の生産と分配は、原則として、価格を決定する市場の自動調節的なシステムをとおして行われる。それはさらに、それ自身の法則、すなわち、いわゆる需要供給の法則に支配され、飢えの恐怖と利得の希望に動機づけられる。個人を経済に参加させるような社会的状況をつくり出すのは、血縁関係や、法的強制や、宗教的義務や、忠誠心や、魔術ではなく、私企業や賃金システムなど、特定の経済制度である。」「以上はすなわち経済の領域が社会のなかで独立している十九世紀型経済である。それは貨幣的利得の衝動をその弾みとしているのであるから、動機的にも特異な経済なのである。それ自身の法則をもつオートノミーに到達している。そこには、好感手段としての貨幣の広範な使用に端を発する、社会から離床した経済の極端な事例がみられるのである。」(265~266ページ)
・「このような概念は、人類学と歴史学の事実に合致しない。交易は、ある種の貨幣使用と同様に、人類と同じくらいに古い。経済的な性格をもった出会いは古くは新石器時代から存在したと考えられるが、市場は歴史上、比較的最近まで重要性をもつにいたらなかったのである。市場システムを構成する唯一の要素である価格決定市場は、どの記録をみても、紀元前一千年紀以前にはまったく存在しなかった。」(385ページ)

・市場経済が「社会」から離床した際に、人間行動の動機も経済的なものに一元化されてしまった。「任意の動機を選び出し、その動機を個人の生産活動の誘因とするような生産組織をつくってみると、その特定の動機に全面的に心を奪われた人間像がそこに現出する。動機は宗教的なものでも、政治的なものでも、美的なものでも、さらには、誇りや、偏見や、愛や、嫉みでもなんでもよい。そうすると、人間は本質的に宗教的な、あるいは政治的な、あるいは美的な、あるいは高慢な、あるいは偏見をもった、あるいは愛にあふれた、あるいは嫉み深い人間として現れてくるだろう。それ以外の動機は、生産活動という重大事にかかわりがないことになるから、影が薄くなり、関係が遠くなる。いずれにせよ、いったん特定の動機が選ばれると、それが「真の」人間を表すことになる。」…「しかし、われわれがここで関心をよせるのは、現実の動機ではなく、仮想された動機であり、仕事の心理(サイコロジー)ではなくて、仕事の思想(イデオロギー)である。人間の本性の見方の基盤は前者にあるのではなくて、後者にある。というは、ひとたび社会がその成員に対して一定の行動を要請し、現行の制度によってその行動をほぼ強制することができるようになれば、人間の本性についての意見は、現実がどうであろうと、その理想型を反映することになるからである。そこで、飢えと利得が経済的動機と定義され、人間はそれにしたがって日常生活の行動をすると考えられるようになり、その他の動機は日常生活から切り離された、この世ばなれした動機であるかのようにみられたのである。そうなると、栄誉と誇り、市民的責務と道徳的義務、自尊心や共通の礼儀さえも、生産には無縁のものとされ、「理想」という意味ありげな言葉でまとめられることになった。」(62~64ページ)

・現在において自明視された視点で過去を意味づけてしまう“視圏(パースペクティヴ)の逆立ち”。古代史に「市場」の存在を見出そうとする際には「われわれは危険な落とし穴を注意深く避けなければならない。機能が非常に異なっていながら、発展した市場条件下における経済活動が、市場前の条件下における同様な活動に類似することがありうるからである。実は典型的に原始的な、あるいは古代的な現象に直面しているにもかかわらず、歴史家が時にこれを驚くほど「近代的」現象とみてしまうことがあった。これは「視圏の逆立ち」とでも呼ぶべきものである。市場以前と市場以後を区別することが、この「視圏の逆立ち」を避けるのに役立つであろう。」(234ページ)
・具体例:古代バビロニアにおける交易は市場活動ではなかった。アリストテレス経済論の読み直し→自給自足的共同体の維持という当時の社会的要請から価格設定の考え方を彼は示していたが、後世の史家はそれを単にアリストテレスの誤謬と片付けて問題にしてこなかった。

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