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2009年11月29日 - 2009年12月5日

2009年12月 5日 (土)

「ウェイヴ」

「ウェイヴ」

 1960年代、アメリカのある高校で“独裁”をテーマとした実験授業が行なわれ、生徒たちが暴走してしまった事件があったという。これを現代ドイツに置き換え、人間の集団行動がはらむ、ある意味で意図せざる展開を描こうとした映画である。

 独裁→ナチス→ドイツという連想は陳腐というのを通り越して偏見ですらあるが、生徒たちも「またそれかよ」という感じに食傷気味である。教師は「現代ドイツで独裁なんてあり得ないと言うが、本当にそうなのか?」と問いを発する。

 教育目的のロールプレイングである。しかし、指導者の選出(教師自身が指名された)、規律、制服、敬礼(波型のサイン)、ロゴマークと集団表象をみんなで実践していくうちに、仲間としての団結意識が芽生える一方で、異端者の排除、集団外への自己顕示的暴力性といった形でエスカレート、その中に巻き込まれた教師自身も崇拝されることに満更でもない気分になってくる。指導者への熱狂的献身の態度を示した青年には彼自身の疎外感が起因していることがほのめかされ、さらには社会的な不満がこうした集団現象に結び付く可能性が示される。政治現象の一つの縮図を描き出しているようで興味深い。

【データ】
原題:The Wave/Die Welle
監督・脚本:デニス・ガンゼル
2008年/ドイツ/108分
(2009年12月4日レイトショー、シネマート新宿にて)

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2009年12月 4日 (金)

ヴェブレン『有閑階級の理論』

ソースティン・ヴェブレン(高哲男訳)『有閑階級の理論』(ちくま学芸文庫、1998年)

 ソースティン・ヴェブレン(Thorstein Veblen、1859~1929年)は十九世紀末から二十世紀初頭にかけて消費文化を謳歌し始めたアメリカ社会を観察した経済学者。この本は裏面から人間存在を捉えた、考えようによっては実にひねくれた経済思想というだけでなく、一種の文明批評としても面白いので、何度か読み返している。

・「制度の進化に関する経済学的研究」というサブタイトルがついている。法的なものばかりでなく、慣習やものの考え方というレベルにおいて、その社会に生きる人間の行動パターンを規定している一連の枠組みを「制度」(institutions)と表現している。「制度とは、実質的にいえば、個人や社会の特定の関係や特定の機能に関する広く行きわたった思考習慣なのである」(214ページ)。
・需要→供給という因果関係に還元して経済活動を捉えるのではなく、こうした「制度」に内在するロジックに沿って人々が振舞っている活動として経済を把握する(この延長線上にいわゆる制度派経済学がある)。社会システムのあり方は時代によって違うようにも見えるが、そこに通底する「制度」の基本パターンには意外と古代からの思考習慣が残存しているとヴェブレンは言う。「人間が手引きにしつつ生きてゆく制度──すなわち思考習慣──というものは、先立つ時代、つまりかなり遠い昔からこうして引き継いできたものだが、いずれにしてもそれは、過去の間に精緻化され、過去から受け継いだものなのである。制度は過去のプロセスの産物であり、過去の環境に適応したものであり、それゆえ、決して現在が要求しているものに完全に一致することはない。」人間の生きる環境は日々変化→適応の繰り返しで、「制度」が現在に追いつくことはない。「発展の第一歩が踏み出されたとき、この第一歩それ自体が、新しい適応を要求する状況の変化を引き起こす。それは、いつ果てるともなく続く適応への、新しい一歩を踏み出すための出発点となる」(215ページ)。
・具体的には、野蛮時代の名残としての「略奪的文化」を指摘。支配する強者と服従する弱者という関係である。勤労は受動的、英雄的行為は自分自身の目的を追求するものという対比(23ページ)は、ハンナ・アレント『人間の条件』で見出された古代ギリシアのポリスにおける奴隷と自由人との対比を思わせる。
・時代が進み、具体的な暴力行為が影を潜めても、この「略奪的文化」の思考習慣は人々の頭の中に残っており、支配する強者は自らの優越を何らかのシンボルによって弱者に対して誇示しようとする。戦争ではなく経済活動が競争の手段となった近代社会において、優越性のシンボルは富の蓄積によって示されるようになった。
・有閑階級→生産活動はしない→彼らのために奉仕する被支配者がいることの証し。「閑暇」とは怠け者を指すのではなく、自ら体を動かすという意味での生産活動には携わらないこと。職業的には、例えば、経営や金融など、それから学者。学問や礼儀作法→その習得のために時間を費やせるだけの余裕があることは有閑階級であることの証し。
・顕示的消費→散財することで自らの富の大きさ、すなわち優越的なステータスを誇示する。入手の容易なものは「その消費は名誉に価するものではない。というのも、それは、他の消費者との好都合な競争心にもとづく比較という目的に役立たないからである」(181ページ)。「浪費」といっても無駄遣いという意味ではない。極端な例としてはポトラッチ。あるいは、ブランド品。「顕示的消費」が組み込まれた「制度」のロジックに沿っている点では合理的目的のある消費であり、社会通念として当初は「浪費」とみなされても、いつしか一般消費者の間で生活必需品とみなされるケースは珍しくない。
・自分が他者を凌駕していることを誇示する。他者をもっと嫉妬させること自体に満足を見出そうとしている。従って、欠乏を満たすために行われるわけではないのだから、経済活動に固定的なゴールなど存在しない。

「社会の富の全般的な増加は、それがどれほど広く、平等に、あるいは「公平に」分配されようと、この欲求の満足に近づくことはできない。というのもそれは、財の蓄積においては他の誰にも負けたくない、という万人がもつ欲望に起因しているからである。しばしば想定されているように、蓄積誘因が生活の糧や肉体的快適さの欠乏であるとすれば、社会の経済的な必需品総量は、おそらく産業能率が向上したどこかの辞典で満たされる、と考えることもできよう。だがこの闘いは、実質的に妬みを起こさせるような比較にもとづく名声を求めようとする競争(レース)であるから、確定的な到達点への接近などありえないのである。」(43ページ)

 有閑階級=上層階級が示す生活様式や文化様式は社会全体の理想的規範となる。下層階級は、同様の消費行動をすることで同等者を出し抜き、自らも上昇しようと動機付けられる。

「現代的な文明社会では、社会階級相互間の区分線は不明瞭で流動的なものになっている。こうして、このようなことが生じるところではどこであれ、上流階級によって課せられた名声の規範がもつ強制的な影響力は、ほとんど妨げられることなく社会秩序の最下層にまで及ぶことになる。その結果、おのおのの階層に属する人々は、彼らよりも一段上の階層で流行している生活図式こそ自己の理想的な礼儀作法(ディーセンシー)だと認識した上で、生活をこの理想に引き上げるために全精力を傾注する、ということが生じる。失敗したら面子と自尊心が傷つくという痛手を被ることになるから、少なくとも外見だけでも、社会的に承認された基準に従うほかはないのである。」「高度に組織化されたあらゆる産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的に金銭的な力に依存している。金銭的な力を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇であり財の顕示的消費なのである。」(99ページ)

「通常われわれの努力の道案内を行っている支出の標準とは、平均的なそれではなく、すでに達成されている通常の水準である、ということになる。つまりそれは、わずかに手が届かないところにあるが、努力次第で手が届くところにある、消費の理想なのである。その動機は、競争心(エミュレーション)──われわれが習慣的に同一階層に属していると考えている人々に負けてはならぬと急きたてる、妬みを起こさせるような比較がもつ刺激──である。実質的に同じ命題は、以下のありふれた観察、つまりおのおのの階層は、社会的階梯を一つだけ昇った階層を羨望すると同時に、それと競い合うのであって、下位の階層やとびぬけて上位にある階層と比較することはごく稀だ、という事実のなかに窺われることである。言い換えれば、要するに支出をめぐる礼節の規準は、競争心の目的と同様に、名声の点でわれわれ自身より一等級だけ上位に位置する人々の習慣によって定められている、ということなのである。こうして、とくに階級間の区別がかなり不明瞭になっているような共同社会では、あらゆる名声と世間体の規準、したがってまたあらゆる支出の水準は、社会的にも金銭的にも最高位に位置する階級──豊かな有閑階級──の慣行や施行習慣にまで、無意識のうちに徐々に昇っていくことになる。」(119~120ページ)

・有閑階級を特徴付けるのは「略奪的文化」であるが、他方で、有用で価値あるものを作り無駄を省こうとする心性としての「製作者本能」も作用しており、両者が絡まりあって経済的な競争心が促されているとする。他にも、幸運を求める心性(→ギャンブルという形で発現)、信心深さなども指摘、何よりも生存本能は生物としての最古の習慣だと言ってしまうところが面白い。
・ヴェブレンは「制度」を一元的な原理として捉えるのではなく、過去のそれぞれの時代において形成された複数の心的習慣が時代がかわっても形を変えながら残存している重層的なあり様として解き明かすことに関心を持った。そして、「制度」の内実において各々の心的習慣が互いに変形作用を及ぼしあい、時には古い心性に先祖がえりしたり、そのように絡まりあいながら「制度」のあり方そのものが変化していく様相を「進化」と呼んだ。

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2009年12月 3日 (木)

「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡」

 見逃していたNHKスペシャル「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡」が今週深夜に再放送されていたので見た。細川政権が成立したのはちょうど私が大学に入って間もない頃だった。その頃から政局話は結構好きでこまかにチェックしていたので、一種のなつかしさもある。

 色々なキーパーソンがインタビューを受けているが、全体的に言って小沢一郎が主役となっている。第1回「1993~1995 “政権交代” 誕生と崩壊の舞台裏」。力技で細川護熙政権を成立させた小沢だが、反自民以外には何の共通点もない各勢力をまとめ上げることができずに崩壊、今度は反小沢というモメントが働いて自社さの村山富市政権が成立。第2回「1996~2000 漂流5年 “数”をめぐる攻防」。与党であり続けることにこだわる自民党の強烈な執念を体現した野中広務は小沢、公明党、加藤の乱と熾烈な駆け引きをくぐりながら与党の座を守り抜く。第3回「2001~2009 小泉そして小沢 “民意”をめぐる攻防」。自民党の内部から最も自民党らしからぬ小泉純一郎が登場、選挙を意識した参院自民党は取り込まれ、野中は抵抗勢力として蹴落とされ、野党・民主党は“改革”合戦で遅れをとってしまう。この異様な小泉旋風が吹き荒れる中、再び下野して民主党入りしていた小沢は組織固めに専念していた。

 安定的ではあったが経年劣化著しい自民党システム。小沢その他の撹乱要因が相俟って過半数を割り込み、選挙が危ないという危機感から支持を集めた小泉は自民党を決定的に変質させた。過半数というルールそのものに特別な根拠はない。ただし、具体的な誰かの恣意は働いていないところにルールの意義がある。きっかけは誰かの発意であっても、それに反応した人々それぞれに思惑があったとしても(利害でも怨念でも)、さらには偶然的な要因も複雑に絡まりあってルールに参加する者同士のせめぎ合い、すなわち権力闘争が激化していった。過半数確保というルールに従う限り必然的に妥協や取引が行なわれ、時にはだまし討ちや裏切りもある。しかし、それらの力学が合わさると誰にとっても意図した展開にはならないという意味で、ある種の非人格的なダイナミズムが生み出される。その結果として、当事者の思惑とは関係ないレベルで政局が大きく変動していく様子が見えてきた点で私にはこの番組は面白かった。

 “数合せ”というと一般に評判は悪い。しかし、たとえ“数合せ”であっても惰性的な停滞の中からダイナミズムのきっかけを作り得るところに議会制民主主義の面白さがあり、長所がある。どの勢力が過半数をとって政権をにぎるかという点が問題なのであり、政策理念はその副次的な手段に過ぎない。政策理念初めにありきではなく、そんなものは所詮建前のフィクションに過ぎないわけで、むしろ一定の勢力をかき集める旗印として“政策理念”なるものは機能すると捉えることができる。その点で“政治改革”なる抽象語は便利だったし、“郵政民営化”なるスローガンはその意味するところを知らない人々に対してもアピールできたわけである。変化の可能性(それがどのような方向に向かうかはともかく)を常に内在させているところに議会制民主主義の長所があるという意味で、小沢が政権交代可能な対抗勢力を模索してきたことは、それがたとえ泥臭く見えたとしても正当に評価すべきだろう。

 民主党の政策はもともと新自由主義的であったが、小泉と“改革”を競い合って負けた、そこで小沢は対立軸を変えることで反小泉改革の票を集めようとした、という趣旨の話が番組中にあった。政策理念の変更は一般に裏切りと受け止められ、評判は悪い。しかし、対立軸を変えることで“数”のモメントを引き寄せようとする努力は議会のダイナミズムを作り出す上ではむしろ有効である。選挙を通した民意の反映とは言っても、選挙という儀式を通してコンセンサスを仮構して現行体制に正当性の根拠を賦与するフィクションに過ぎない。受け皿が二つ以上あって、政策理念をいつでも入れ替えできるようにしてあれば議会制度のダイナミズムは十分に機能する。例えば、1930年代までアメリカの民主党は共和党よりも保守的とされていたが、フランクリン・D・ローズヴェルトのニューディール連合によってイメージを逆転させたことはよく知られている。政策の対立軸をはっきり打ち出すことで有権者に選択肢を示すべきだという考え方に私ももちろん賛成だが、それ以上に、敢えて違う主張をすること自体に意味がある。似たような政策理念ではダイナミズムが働かないからだ。次は、民主党がちょんぼしたときに備えて、自民党がしっかりと党勢を立て直しておくことが望まれる。

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2009年12月 2日 (水)

今村仁司『近代の労働観』、ロナルド・ドーア『働くということ──グローバル化と労働の新しい意味』

 今村仁司『近代の労働観』(岩波新書、1999年)は、「労働」は本当に人間の本質なのか? 「労働=生きがい」論の背景には、あくまでも「必要」としての「労働」を「本質」とすり替えることで管理のイデオロギーとなっているに過ぎないのではないか?という問いを発する。こうした問題意識をもとに展開された「労働」観の思想的系譜学である。
・古代社会においては、自由人とは自ら目的を設定する者であり、その目的に奉仕して労働する人間は奴隷とされる階層秩序(この辺の議論はハンナ・アレント『人間の条件』にあった)。
・ブルジョワ階層の場合は、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が現世内禁欲倫理が内面化されて自発的な経営合理化の契機が現われたことを指摘。
・下層労働者階層の場合は、国家・教会などの「怠惰は悪徳である」という考え方から強制労働(例えば、救貧院)や禁欲モラルが押し付けられ、法律的・道徳的な言説が繰り返し刷り込まれることによって内面化。例えば、労働時間表→機械的身体としての規律を内面化。
・ところで、強制労働は誰だってイヤだが、現実には働かねばならない→「労働の喜び」論、つまり労働には本来喜びが内在しているにもかかわらず外的条件によって疎外されているのだという考え方が登場した。
・しかし、「労働の喜び」は、内在的ではなく他者の視線という外在的な要因によってもたらされるのではないか? 人間の虚栄心としての承認願望(自分を高く評価せよ、しかし他人は自分よりも劣位でなければならないという確信)→他者からの承認を求める闘争の中で勝つために禁欲を迫られる。①自分よりも下位の者を措定して自身の優位性を確認(排除・差別)、②同等者を出し抜こうと競争、③上位者からの評価を受けることで同等者よりも優位に立とうとする。こうした他者の眼差しを意識した虚栄心が労働の動機となる。

「順位や等級がこの世に存在するのは、人間がそれらを激情的に欲望するからである。複数の他人に対面するとき、人間はまず順位と等級づけを行う。それは承認欲望が作動し、その結果として生まれるものである。一般に、人間は、他人と一緒に生きるかぎり、デモクラシーを拒否し、貴族制や君主制を生み出す理由も承認欲望の中に潜んでいる。よほどの特殊条件がないと、人間は同等性の政治を求めない。革命によって民主主義的政治の格好をとったとしても、人間は同等であることを憎むのであるから、かならず民主制度は内部から腐食させられる。なぜなら、人間は貴族や君主に匹敵する指導者を要求しはじめるし、そうした上位の存在から承認されたいと熱望するからである。こうした一切の現象は、日常風景にみえる労働現場で毎日生じているのである。」(148ページ)

・現代社会では消費活動にもみせびらかしによって自らの社会的ステータスの優位性を確認しようという動機が働いている(ヴェブレン『有閑階級の理論』にこうした議論があった)。
・公共的価値討議への転換(ハーバーマス)→以上の虚栄心をエゴイズムの競争とするのではなく、対等な人格として相互に承認しあう公的人格に切り替えられる。自由な人間として公共的事柄について考えるためには、自由な時間=余暇が必要であるとされる。

 以上の今村の議論では「余暇」を確保することに「人間らしい」生活への希望を見出されるわけだが、これに対して、ロナルド・ドーア(石塚雅彦訳)『働くということ──グローバル化と労働の新しい意味』(中公新書、2005年)は、「我々は20世紀の終わりには週5時間働けばすむようになるだろう」というケインズの予言が見事に外れたエピソードから説き起こしながら、競争が激しくなる現代社会における労働の質をめぐって考える。
・労働市場の柔軟性、市場個人主義。
・経済学の新古典派的伝統による支配→市場志向へ傾斜。株主価値の最大化に努める経営者は従業員福祉に関心が薄い。
・そもそも「公正」とは何か? 不平等の拡大を容認するグローバルな傾向。
・「ダヴォス人間」「コスモクラット」→一国内での不平等の拡大の一方、彼らは国への帰属意識が希薄、国境をまたぐ形で一つの階層を形成。一国で複数の階層が並立し、社会的連帯の弱まり。
・アメリカ発の文化的覇権(博士号取得者の帰国)、金融市場の力(このロジックで勝ち残るには市場個人主義に順応するしかない)→市場個人主義的な世界の同質化。
・アングロ・サクソン型、大陸ヨーロッパ型、日本型など資本主義の多様性を指摘。

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2009年12月 1日 (火)

岩井克人『会社はこれからどうなるのか』

岩井克人『会社はこれからどうなるのか』(平凡社ライブラリー、2009年)

 差異化によって利潤を生み出す仕組みに資本主義の一般原理を求め、従来型の古さとして批判されやすい日本型経営システムも、現在進行中のポスト産業資本主義も、いずれもこの原則の枠内におけるヴァリエーションとして把握する視点が議論の主軸となる。株主主権論に基づくいわゆる“ハゲタカ”はかえって利益を損ねると指摘される。「会社」というシステムを理論的・歴史的に概観するためテーマは幅広いが、文章が平易というだけでなく論述の進め方もこなれているのですんなりと読み進められる。『貨幣論』(→こちらで取り上げた)で展開された循環論法のシステムとして捉える視点も時折散見されるのも興味を持った(例えば、株式持ち合い、デ・ファクト・スタンダードなど)。

・自分以外のなにものによっても支配されてはいけない自立的な存在として人間を捉えるのが近代市民社会の大原則。しかし、法人としての株式会社は、法的にはヒトとして自立的な主体であるのと同時に、資産=モノとしては所有の対象になるという二重性。株主が法人としての会社を所有し、その法人としての会社が会社資産を所有するという「二重の所有関係」。

・法人名目説は会社が株主によって所有されていることを強調→株主主権論→株主のために利益を高めるべきことが主張され、場合によっては会社をモノとして切り売り処分されてしまう可能性すらある。対して、法人実在説は法人のヒトとしての自立性を強調する。

・日本型企業システムの特徴の一つとしての株式持ち合い→自然人としてのヒトによる支配を受けない仕組み→法人としての会社のヒトとしての主体性を確保→法人実在説的な会社だからこそ、会社内の組織特殊的な人的資産を育成できた。その会社に特有のスキルは会社外での汎用性がないので、もしいつでも放り出される可能性があるならば、雇用者はその会社に長く留まろうというインセンティヴが働かなくなる→人材を引きとめるため、終身雇用制、年功賃金制、企業内組合などがシステム化された。

・資本主義の一般原理は差異性によって利潤を生み出すことである。産業資本主義においては、労働生産性と実質賃金率との間にある差異が利潤の源泉となった。その場合、農村の余剰人口が都市に流入して産業予備軍(戦後日本なら、いわゆる“金の卵”)となることで実質賃金率の低さを当て込み、工場への大規模投資によってより大きな利潤を期待できた。ところが、余剰人口が枯渇して実質賃金率の上昇(日本は1960年代後半以降)→労働生産性との差異による利潤が成り立たなくなり、代わって技術開発・新規市場開拓など別の手段によって差異=利潤を生み出そうとし始める→ポスト産業資本主義。

・ポスト産業資本主義(グローバル化、IT革命、金融革命)においては、利潤の源泉としての差異性を「新しさ」に向けて追求。とりわけ、情報の商品化。グローバル化、IT革命、金融革命の結果として資本主義経済のあり方が変化したのではなく、逆に従来のやり方では差異性による利潤獲得が難しくなったからこそ差異性そのものとしての情報の商品化が促された。従って、ポスト産業資本主義では、差異性を意識的に創り出していくことが至上命題となる。いったん創った差異性も他社がすぐに模倣→利潤低下→さらに差異性=「新しさ」を目指してヒートアップ。

・コア・コンピタンスは「たえず変化していく環境のなかで、生産現場の生産技術や開発部門の製品開発力や経営陣の経営手腕を結集して、市場を驚かす差異性をもった製品を効率的かつ迅速的に作り続けていくことのできる、組織全体の能力」として動態的に定義される。競争力をより高めるため、比較優位の分野に専念→各会社が自らのコア・コンピタンスを特定化、不得意分野は切り捨て→いわゆる“リストラ”。しかし、ポスト産業資本主義の時代では変化が常態であり、いつ何がどうなるか分からない。短期的には採算がとれないように見える部門でも、将来に備えて選択肢を広げておく方が得策。

・利潤=差異化の源泉としての「情報」はヒトの頭の中にあり、切り売り不可能→それを囲い込んで活用する方が良い→ネットワークとして組織化→会社の存在理由。企業組織とは「それに参加する経営者の企画力や技術者の開発力や労働者のノウハウといった、組織特殊的な人的資産のネットワーク」である。差異化を追求するため、その企業独自の個性が必要→企業文化→組織特殊的な熟練が必要となり、その企業にコミットする従業員をつなぎとめておかねばならない→法人実在説的な会社形態が望ましい。

・その会社独自の人的資産の蓄積を可能にし、とりわけ株主主権論によるホールドアップを排除してきた点で、日本的経営は実はポスト資本主義的な方向性を部分的にではあるが先取りしていた。ただし、その日本型資本主義は従来型の産業資本主義に適応しすぎていたところに問題がある。株主主権論イデオロギーが伝統的に弱かった点ではポスト産業資本主義に適応していく利点があるとされる。

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2009年11月30日 (月)

司馬遼太郎『坂の上の雲』のこと

 NHKのドラマ「坂の上の雲 第1回 少年の国」をみた。実はあまり期待はしていなかったのだが、映像作りにはかなり力が入っているし、久石譲の音楽も映画のような盛り上がりがあるし、なかなか悪くないと思う。

 ただ、ちょっと気になっているのは、確か司馬遼太郎は『坂の上の雲』は映像化しないようにと言い残していたのではなかったか(私の勘違いか?)。文章ならば細かな説明ができるのに対して、映画やドラマはどうしてもストーリーを切り詰めざるを得ない。そうした単純化が下手するとナショナリズムや軍国主義の礼讃に陥ってしまう可能性を司馬は危惧していたように思う。まだプロローグ程度で本筋はこれからだろうから(断続的に2011年までやるらしい)しばらく様子見のつもりでいる。

 親の本棚に司馬遼太郎の作品がほぼ揃っていたので、司馬の主だった作品は小学生から高校生にかけての頃にあらかた読んだ。日本史について、とりわけ戦国~安土桃山時代と幕末・維新期の知識の基礎は司馬作品を通して得たと言っても過言ではないくらいだ。中でも好きだったのが『坂の上の雲』で、初めて読んだのは中学生の頃だったが、その後も何度か読み返した。明治における日本の近代化の過程をこれだけのスケールで多彩な人物群像の織り成すドラマとして描き出した小説作品は他になかなか類書が見当たらない(幕末なら大仏次郎『天皇の世紀』が思い浮かぶのだが)。細かい話になるが、健全なナショナリズムがあり得る一例として陸羯南の名前を知ったのもこの作品だった。

 司馬史観なる言葉を時折聞く。「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が始まったのは、私が高校から大学にあがるくらいの頃だった。藤岡信勝が、「従来の歴史観は自虐史観である、自由主義史観とは近代日本が行なった侵略戦争の悪いところは認めると同時に、良かったところもきちんと評価する、その意味で『坂の上の雲』の司馬史観だ」という趣旨の発言をしていた。他方で、当時は仲間だった西尾幹二が「良いも悪いも一切をひっくるめて日本人だ、ここまでは良かった、ここからは悪かったと線を引く発想はおかしい」とも発言していた。「つくる会」分裂の芽はこの頃からすでに萌していた(その後は全くフォローしていないので、最近どうなっているのかは知らない)。西尾の普段の政治的主張への是非はともかく、この点に関してはいかにもニーチェ学者らしいと私は西尾に好感を持っている。

 司馬が『坂の上の雲』を書いた動機が、徴兵されて戦車隊に配属され、戦争の不条理を感じたことにあったことはよく知られている。昭和の戦争の無謀さ、政治・軍事の指導者の浅はかさと対比する形で、明治国家において近代化を追い求めた人々の慎重な政治判断、とりわけ日清・日露戦争における戦争法規遵守の態度に見られるような生真面目さ(西欧の眼差しを意識して“文明国”として振舞おうという意図があったからにしても)を強調する形になっている。そこには、司馬自身の戦争の空気を肌身に感じたという意味での私的な体験、こうすべきだったのにという悔しさまじりの願望も込められているわけで、それを後世の後知恵で“史観”という枠組みで表面的に整理してしまうことにはちょっと違和感がある。この違和感がうまく表現できなくてもどかしいのだが。

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2009年11月29日 (日)

「NHKスペシャル チャイナ・パワー第二回 巨龍 アフリカを駆ける」

「NHKスペシャル チャイナ・パワー第二回 巨龍 アフリカを駆ける」

 中国の積極的なアフリカ進出。欧米企業も撤退したエチオピアの奥地にまで携帯電話の通信インフラ整備に入り込む中国企業・中興通訊(ZTE)の技術者たち。中国政府のバックアップで民間企業の活動。エチオピア政府は中国の国家開発銀行から融資を受ける→ZTEが受注という構図なのか。

 中国の経済発展により、資源供給不足→国際市場にも大きな影響を与えている。例えば、銅。中国はザンビアと取引。資金繰りの悪化したオーストラリア企業の採掘工場を買収。

 最近、アフリカ問題では白戸圭一『ルポ 資源大陸アフリカ──暴力が結ぶ貧困と繁栄』(東洋経済新報社、2009年→こちら)、松本仁一『アフリカ・レポート──壊れる国、生きる人々』(岩波新書、2008年)などを読んだが、いずれも中国の進出には目をみはっていた。例えば、事実上国家崩壊の状態にあるソマリアにすら中国人技術者が入り込んでいることが白戸書に記されていた。他方で、現地の人々の間に中国人への反感も強まっているというのも気にかかるところだ。

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「ロシアの夢1917─1937 革命から生活へ──ロシア・アヴァンギャルドのデザイン」展

「ロシアの夢1917─1937 革命から生活へ──ロシア・アヴァンギャルドのデザイン」展

 政治イデオロギーとしての共産主義はどうでもいいが、ロシア革命というイベントとロシア・アヴァンギャルド芸術との関わりには興味がある。既存のものをリセットして、純粋なもの、一切のしがらみを断ち切ったそれ自体で自律的な美を打ち立てよう、そうした夢と情熱が革命という政治的エネルギーと結び付き、1917年を頂点として爆発した。ただし、芸術的情熱は飽くことなく夢を追い求めるのに対して、政治は一たび権力の転回に成功するや安定化に向けて再び秩序形成を図る。夢はその下で従属するよう求められ、窒息し始める。マヤコフスキーは自殺し、メイエルホリドは銃殺され、生き残ったショスタコーヴィチはその華々しい活躍の一方で本心はどこにあったのかが謎としていまだに議論の対象になっている。

 「ロシアの夢」展は革命初期の二十年間、地上に花開いたロシア・アヴァンギャルドについての展覧会である。未来派、構成主義、スプレマティズム、無対象絵画とか言っても抽象的でなかなか分かりづらいが、これらの芸術上のコンセプトが建築、食器・家具・衣服など日用品のデザイン、ブックデザイン、ポスターなど日常の身の回りにおいて具現化されたものに焦点を合わせているのがこの展覧会の面白いところだ。

 未来派的な建築空間の再現イメージは実に格好良い。クドリン「第三インターナショナル記念塔」が風景映像にCG合成で再現されていた。鉄骨が複雑に螺旋型を成す400メートルの鉄塔の中の居住ブロックが一年で一回転するというもの。当時の技術レベルを超えていて、結局、実現不可能だったらしい。こういう無謀な建築は好きだな。ただし、夢先行、理念先行で現実から遊離している点では政治理念としての共産主義と同様だったとも言える。実用性がないという意味では、ロトチェンコがデザインした読書用のイスも座り心地が悪い。見た目はスッキリしていて格好良いのだが。

 日常生活の中へ芸術理念を融合させることで新しい生活のヴィジョンを示そう、言い換えると、一部知識人の占有物として遊離した芸術作品というのではなく民衆の全生活レベルで革命=夢を成し遂げようという意図があった。革命=夢をどのように解釈するかはともかく、この点で芸術家と政治権力との間には同床異夢の同盟関係が成立していた。さらに言うと、芸術家の視点というのは、自身の抱くイメージを表現するためあらゆる素材の動員を図る。それは、動員される側にとっては押し付けがましさともなり得るわけで、そうした意味で実は独裁者と同じ側面がある。生活=芸術を目指した世界は、そこから超越した視点(つまり、作る側としての芸術家や独裁者と同じ視点)に立って外から眺める分にはとても面白いのだが、この中で暮らしたいという気持ちにはなれない。

 ポスターやブックデザインに見られる、幾何学的なフォルムで構成されたイメージや独特なタイポグラフィーは好き。エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」のポスターは有名だ。ちなみに、これはもともと無声映画だが、後にショスタコーヴィチの交響曲をつぎはぎして音楽を付けたバージョンのビデオが会場で流されていた。どうでもいいが、私はショスタコが昔から好きで、どのメロディーは交響曲第何番の第何楽章だ、と全部言い当てられる(ああ、オタクだ)。例えば、オデッサの階段で群集が逃げまどうシーンは交響曲第11番「1905年」第二楽章。さらに蛇足だが、このシーンの乳母車が転がって緊張感を出す仕掛けはケヴィン・コスナー主演の「アンタッチャブル」でも援用されていた。

 ロシア・アヴァンギャルド関係で最近観に行った展覧会としては、「無声時代ソビエト映画ポスター展」(東京国立近代美術館フィルムセンター)と「青春のロシア・アヴァンギャルド」展(Bunkamuraザ・ミュージアム)について以前に触れたことがある。

(埼玉県立近代美術館にて、2009年12月6日まで)

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