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2009年10月18日 - 2009年10月24日

2009年10月24日 (土)

“満州国”初代外交部総長・謝介石について

 戦前・戦中期、日本語・中国語の両方を解するということから大陸における日本占領地域に渡った台湾人が相当数いた。当時は“日中の架け橋”ともてはやされたが、その背後に日本の大陸侵略の意図があったことを思えば空々しい哀しさも感じてしまう。①就職・留学のため、②台湾在留経験のある日本人の引き立て、③すでに大陸に渡って成功した台湾人のツテ、といった事情が考えられるが、そうした中でも、旧満州国初代外交部総長(外務大臣)を務めた謝介石(1879~1954年)の存在が大きい。彼の引きで満州にやって来た台湾人は少なくない。

 以下の記述は、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照した。大陸に渡った台湾人のうち、重慶に行って抗日戦争に参加した後に台湾へ戻ってきた人々(いわゆる“半山”)については従来から評価されてきたものの、対して“漢奸”とされた人々についての研究は少ないという。しかしながら、重慶に行ったか、行かなかったかという相違自体に、台湾人アイデンティティの揺らぎが具体的に表われていると言えるのではないか。それは一律に定式化できるものではなく、それぞれの人が負った背景によってまた異なってくる。そうした一例として謝介石が検討される。清朝期の台湾に生れ、1895年の下関条約で日本統治下に入ってからは(すなわち、日本国籍を持つ)日本語を学んで東京に留学、その後、大陸に渡って中華民国国籍を取得するが、溥儀に仕えたことから旧満州国高官になった。彼の心中にどのような思惑が渦巻いていたのかは分からないが、こうした転変激しい人生行路そのものに私などは一つのドラマとして興味が引かれる。

 なお、旧満州国にいた台湾人のオーラルヒストリーとして許雪姫・他《日治時期在「滿洲」的台灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)という本もあり、先日、台北に行った折に入手しておいた。この本は龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)でも引用されている。

 謝介石は1879年、台湾・新竹の生まれ。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業。明治大学の同窓にいた張勲の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。

 1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世。1917年7月、張勲・康有為らが溥儀を擁して画策した復辟運動に関わり、外交部官員となる。復辟失敗後は上海・天津の辺りで活動。1925年以降、鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、鄭孝胥(大阪総領事の経験あり)やとりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用した(彼は1927年に溥儀の謁見を受けた)。

 1931年の満州事変に際しては吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を行ない、翌1932年に“満州国”が建国されると外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握っていた)。在任中にはリットン調査団、日満議定書、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。

 同年、「台湾始政四十年記念博覧会」参観という名目で台湾へ帰る。故郷・新竹の名望家の娘と長男との結婚も理由の一つだったらしい。いわば「故郷に錦を飾る」という感じか。日本人優位の植民地体制の中で台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた中、謝介石が満州国皇帝の名代として日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにして、「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年もいた。そうした台湾人を謝介石も引き立てた。溥儀のかかりつけ医となった黄子正は謝の紹介によるし(戦後、戦犯となった溥儀の在監中も黄はずっと行動を共にした)、外交部に就職した台湾人も少なからずいたらしい。台湾人か日本人かを問わず、台湾関係者が満州国でツテを求める際には謝介石に頼った。(※他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝は発言したため、林献堂などは反発している。)

 日本国籍を持つ台湾人は、日本と中国との不平等条約のため中国大陸では特権を持っていたので大陸では嫌われ、日中戦争が始まると、反日感情の矛先はまず台湾人に向けられたらしい。そのため、自分は福建人もしくは広東人だと名乗って台湾人であることを隠さねばならないこともあったという。対して、満州国ではそうした心配は無用だったという事情も指摘される。日本国籍を持ってはいても日本人ではなく漢人であるという意識がありながら、大陸の漢人からは違う色眼鏡で見られてしまったところに、当時の台湾人のアイデンティティの難しいあり方がうかがえる。

 謝介石は1937年に公的活動から引退。一時、東京で暮らしたが、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満州国に戻る。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎えた。彼は漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京に入城する前に釈放された。1954年に死去。wikipedia等では1946年に獄死したとされているが、許雪姫女史は遺族から直接話を聞いているので、こちらの方が正しいはずだ。戦後の謝介石の足跡については、史料が乏しいせいなのか、遺族への慮りがあるのか、はっきりしたことは記されていない。

 “漢奸”か否かという問いの立て方はもはや時代錯誤であろう。ある種のポリティカル・コレクトネスは当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった生身の複雑な葛藤をなかったものとして、さらに言えば事情を忖度することなく汚いものと一方的に決め付けてオミットしてしまう。それは歴史を見ていないに等しい。謝介石という人にどんな思惑があったのか私には分からない。あるいは出世志向のかたまりだったのかも知れない。仮にそうだとしても、このように複雑な転変を経ねばならなかったところには、日本・中国双方からマージナルな立場に追いやられた台湾の独特なポジションがもたらした葛藤が見え隠れするのではないか。そうしたアイデンティティの困難という観点から、謝介石という人物が日本・中国・台湾それぞれの現代史の専門家からどのように捉えられているのか、聞いてみたい気もする。

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2009年10月23日 (金)

ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』

ジョルジュ・バタイユ(湯浅博雄訳)『宗教の理論』(ちくま学芸文庫、2002年)を読みながら抜書きメモ。

・「…動物性は直接=無媒介=即時性であり、あるいは内在性である。」(21ページ)
・「全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している。」(23ページ)

・「ある意味では、世界は根本的な様式においてはまだ明確な境界のない内在性である(存在がある量としての存在の内で判明に区切られないまま流動すること、つまり私は水流の中における水流の定まることのない現存性のことを想い浮かべている)。したがって世界の内部に、一個の事物のように判明に区切られ、境界づけられたある一つの〈最高存在〉を定置することは、まず初めは貧困化することを意味するのである。」(42~43ページ)

※このあたりの感覚は、『荘子』にある〈渾沌の死〉という寓話を念頭に置いて読むと、バタイユのイメージとは必ずしもイコールとは言えないにしても、少なくとも方向性として私にはしっくりくる。同趣旨のことは、以前、大森荘蔵『流れとよどみ』『知の構築とその呪縛』に絡めてこちらに書いたことがある。

・「重要なのは連続性のある秩序から離れて、つまりそこでは諸々の資源の消尽が全て持続する必要性に服従しているような秩序から離脱して、無条件な消尽の激烈さ=暴力性へと移行することである。言いかえれば現実的な事物たちの世界の外へ、その現実性が長期間にわたる操作=作業に由来するのであって、けっして瞬間にあるのではないような世界の外へ出ること──創り出し、保存する世界(持続性のある現実の利益となるように創り出す世界)から外へ出ることが重要なのである。供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチ・テーゼであって、瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。」(63~64ページ)
・「聖なるものはこのように生命の惜し気もない沸騰であるが、事物たちの秩序は持続するためにそれを拘束し、脈絡づけようとする。しかしそうした束縛しようとする行為こそがすぐまたそれを奔騰状態へと、すなわち激烈な暴力性へと変えるのである。間断なくそれは堤防を決壊しようと脅かす。純粋な栄光としてある消尽という運動、急激で、波及しやすい運動を、生産的活動に対立させようと脅かすのである。まさしく聖なるものは、森を焼き尽くしながら破壊する炎に喩えられる。」(68ページ)

・「祝祭の真姿をどうしても認識しえないというこの宿命的な誤認のうちに、宗教の根本問題は与えられている。人間とは自らが不分明なうちにそうであるところのもの、つまり判明に区切られていない内奥性を喪失した存在、あるいはさらに拒み、投げ棄てた存在である。意識はもしその諸々の邪魔になる内容から自己をそらさなかったとしたら、最後に明晰となることはできなかったであろう。が、しかし明晰となった意識はそれ自身自らが見失ったものを探究しているのである。ただし明晰な意識がその失ったものに再接近すると、また新たに見失わねばならないのであるけれども。むろんのこと意識が見失ったものは、意識の外にあるのではない。客体=対象(オブジェ)の〔についての〕明晰な意識が自己をそらせるのは、意識それ自身の晦冥な内奥性からなのである。宗教とは、その本質は失われた内奥性を再探究することにあるのだが、結局のところ全体として自己意識であろうとする明晰な意識の努力に帰着するのである。しかしこの努力は空しい。なぜなら内奥性の〔についての〕意識とは、意識がもはや一つの操作ではないような水準、つまり操作とはその結果が持続を当然のこととして含むものであるが、そのような操作ではなくなるレヴェルにおいてしか可能でないから。」(74ページ)

・「本来なら存在しないはずのものであった媒介作用というパラドックスは、ただ単にある内的な矛盾に基づいているというだけではない。それは一般的に、現実秩序を解除することと維持することのうちに矛盾が生じるよう命じているのである。媒介作用から出発して、現実秩序は、失われた内奥性を探究する方向へと服従させられるのであるけれども、しかし内奥性と事物とが深く分離している状態をうけて、それにひき続くのは多様な形での混同なのである。つまり内奥性は──すなわちそれが救済なのであるが──、個体性という様態において、そしてまた持続の様態(操作の様態)において、まるで一個の事物であるかのようにみなされてしまうのである。…このように媒介作用による世界、かつまた救済に関わる仕事=作業による世界とは、そもそも初めからそれ自身の限界を破って横溢するように定められている。」(110~112ページ)

・「…人間が自分自身、自律的な事物に関わる人間になっていくにつれて、これまでよりもさらにいっそう自分自身から遠ざかっていく…。こうした分裂が完了すると、人間の生は決定的にある一つの運動に、つまりもはや彼が命令を下すのではなく、その結果がやがてはついに彼に恐怖を抱かせるような運動に、はっきりと委ねられてしまうのである。」(120~121ページ)

・「神的な生命は直接=無媒介的であり、瞬時なものであるが、認識は宙吊り状態とか待機などを要求する一つの操作なのである。」(127~128ページ)

・「この世界には、取るに足らない瞬間のうちに決定的に消失すること以外の目的=究極を持っているような巨大な企てなどはないのである。事物たちの世界は、それが解消されていく余剰なものとしての宇宙においてはなにものでもないのと同様に、莫大な努力もある唯一の瞬間の取るに足らなさの傍らに置かれるとなにほどでもない。」(134ページ)

※本来、区切り線など不分明な原初的世界を切り分けて、あっちとこっちの区別。他者を切り分け措定することで、自分なるものも認識→「あっち」を“超越性”として外在化。「こっち」は事物の世界→「こっち」の世界で人間は何かを求めて生産に従事(絶対に到達し得ない究極的な目的から切断されたこの世において、欲望を先送り→永遠の生産活動、というイメージは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を想起させる)→もともと無媒介的であったはずの流動的な何かが“有用性”のロジックによって目的(本来、そんなものはないんだけどね)を目指す。つまり、祝祭において消尽されるはずの激烈な暴力性による破壊→この奔騰する暴力性はどこへ行く?→バタイユは『呪われた部分』で普遍経済学なる議論を展開する。

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2009年10月22日 (木)

気まぐれに抜書き

 気まぐれに本棚をひっかきまわして、何となく出てきた本を、適当にパラパラめくって、気まぐれに抜書き。特に意味はない。意味はない、という意味はあるのかもしれないけど。

・…根本的な問いは、いかなる定型表現も不可能となるそのときから、人が沈黙のうちに世界の不条理を聴きとるそのときからしか提起されえないものだと思います。/わたしは何が認識可能かを知るためにあらゆる手立てを尽しましたが、わたしが求めたのはわたしの奥深くにある言い表しえないものなのです。わたしは世界の中のわたしですが、その世界はわたしにとっては気の遠くなるほど近づきがたいものだと認めています。というのも、わたしが世界と結ぼうとしたあらゆる絆の中に、何か克服できないものが残っており、そのことがわたしをある種の絶望にとり残すからです。

・思考の対象が至高の瞬間である場合には、思考はその対象から遠ざかってしまいます。至高のものは沈黙の領域にあり、それについて語るとすれば、それを構成している沈黙と渡り合うはめになります。それは喜劇であり、茶番です。…何であれわれわれが何かを求めている瞬間には、われわれは至高に生きているのではありません。われわれは現在の瞬間を、それに続く将来のある瞬間に従属させているのです。…

・思うに、〈知〉はわれわれを隷属させます。あらゆる〈知〉の基盤にはひとつの隷属性がある、つまり〈知〉は根底において、それぞれの瞬間が他の一瞬間ないし後に続く諸瞬間のためにしか意味をもたないような生の様態を受け入れているのです。

・われわれは限定された真理、その意味や構造がある一定の領域でものを言う真理をもっていた。けれどもわれわれは、そこからもっと先に行きたいとつねづね思いながら、わたしがいま入って行こうとしているこの夜という思念に耐えきれずにいた。この夜だけが望ましく、それに較べれば昼とは、思考の開けにひき較べたけち臭い貪欲のようなものである。

・相次いで登場する哲学者たちは、いつも負けてきたのに性懲りもなく次には勝つだろうと信じて疑わない病みつきの賭博者のようなものである。違うのはただひとつ、賭博者のほうがまだしも分別がある…という点だ。
(以上、ジョルジュ・バタイユ[西谷修訳]『非‐知』平凡社ライブラリー、1999年)

・私は、釣りあげた魚を手にとると、そのぞっとする感触に、いきなりそいつを地面へ叩きつけてうち殺すのであった。《何んと云うむごいことを… では何故釣りなどするんです。》だが自然も生物に触れるとき、つねにこうした感じを抱いているに違いない。/生物のもついやらしい感触──。さてその力は、存在へ、さらに思惟へも、拡げられよう。

・遊星が遊星であるとは無意味であるとは、また無意味であろう。

・ひとの悟りなるものは、骰子のごとくである。六が出たぞ。さあ顰め面をしてやれ。

・本心からでもない意味もない嗤いを嗤いながら、この嗤いを誰へ向けようかと考えることがある。
(以上、埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』現代思潮社、1961年)

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2009年10月20日 (火)

『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝──中国に一番憎まれている女性』

ラビア・カーディル、アレクサンドラ・カヴェーリウス(水谷尚子・監修、熊河浩・訳)『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝──中国に一番憎まれている女性』(ランダムハウス講談社、2009年)

 “ウイグルの母”ラビア・カーディルからドイツ人ジャーナリストが話を聞いてまとめられた自伝。原著はドイツ語。以前に英訳版Rebiya Kadeer with Alexandra Cavelius, Dragon Fighter: One Woman’s Epic Straggle for Peace with China(Kales Press, 2009)を読んだが、日本語訳の新刊が出たので改めて手に取った。訳文はこなれていて読みやすい。原著には誤り、誇張した箇所等が散見されるそうで、それは監修者によって訂正されている。物語風の構成となっているが、文革、グルジャ事件、獄中の様子等も含め漢族優位の社会体制の中でウイグル人が置かれている深刻な状況が描かれている。彼女の生い立ちを通して、東トルキスタン現代史を知る上でも手引きとなるだろう。英訳版を読んだときには、ラビア女史が状況改善のため女性のエンパワーメントに尽力していたことに関心を持った趣旨のコメントをこちらに書いた。

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2009年10月19日 (月)

龍應台『大江大海 一九四九』

龍應台《大江大海 一九四九》天下雑誌、2009年

 先日、台北の書店をのぞいたらベストセラーとなっているようなので購入した本。

 台湾に流入した外省人のある世代では名前に“港”や“台”の一字を持つ人が多いらしい。国共内戦に敗れて難民となり、香港の収容所で生まれた子供に“港”、台湾に逃れてから生まれた子供に“台”の字をつけたのだという。台湾生まれ、外省人二世の女流作家・龍應台の名前にもそうした事情がある(ちなみに、ジャッキー・チェンの本名は陳港生という)。

 1945年に戦争が終わり、1949年に中華人民共和国が成立するまでの間、平和の息吹を味わういとまもなく、実におびただしい人々の移動があった。戦火に追われて山を越え、海を渡り、ほんのわずかのタイミングの差や判断の相違で肉親と離れ離れとなり、場合によっては死に別れてしまう。自分の力ではどうにもならない過酷な運命に翻弄された有名無名の人々の中に、著者自身の両親の姿もあった。1949年に至る混乱期にいったい何があったのか? 両親の故郷を訪ねて大陸を歩いたのを皮切りに、当時を生き延びた多くの人々から話を聞き取りながら、大文字の“正史”に現われることのなかった生身の歴史を描き出そうとしたノンフィクションである。

 1948年の長春攻囲戦で、林彪率いる人民解放軍が国民党軍や一般市民も含めて数十万単位で大量の餓死者を出したことは初めて知った。南京大虐殺やレニングラード攻囲戦は歴史の教科書に載っているのに、なぜこの大量虐殺には目をつぶるのか?と著者は疑問を投げかける。このため、本書は大陸では発禁となったらしい。

 台湾接収で上陸した国民党軍のみすぼらしい姿は、蒋介石政権の政治腐敗と重ねあわされた一つの象徴的なイメージとして語り草になっている。だが、その兵隊たちだって好きこのんでやって来たわけではない。大陸でさらわれて無理やり兵隊にさせられた、ただの庶民が多かった。家族と生き別れた彼らの苦悩にも目配りされる。幼い頃、命の恩人とも言うべきお医者さんが二・二八事件で公開処刑されるのを目の当たりにしたことを現・副総統の蕭萬長が語っているのも印象に残った。

 国民党に徴発されて国共内戦で大陸に送られた卑南(プユマ)族の老人たち。人民解放軍の捕虜となって向こうで暮らし、一人は朝鮮戦争にまで従軍した。台湾に戻ったのは1992年である。少し時間を遡れば、日本軍に徴発された高砂義勇隊のことも思い浮かぶ。それから、日本軍の軍属として捕虜収容所の看守となり(南洋ばかりでなく南京にもいた)、戦後は戦争犯罪人として有罪判決を受けた台湾人のこと。

 旧満州国の荒野から南洋諸島まで俯瞰すると途方もくれるような広がりの中で、様々な人生、しかも残酷なまでに哀しい宿命が交錯していた。スパイ容疑で母親が処刑された外省人・王澆波、父親が日本軍の軍医として戦死していたため戦後は肩身の狭い思いをした鄭宏銘。彼ら二人のエピソードをつづった後にこう結ばれる。心に秘められた言い知れぬ傷のありかは異なっても、みんな台湾人である、と。そこには、根無し草意識を抱える著者自身の想いも重ねあわされているはずだ。

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2009年10月18日 (日)

10月10日 新竹へ

【出発】
・先週、連休を使ってちょっと台湾へ。成田10:00発(日本時間)→桃園12:30過ぎに着(台湾時間)のJAL。
・今日は国慶節だからか、あちこちで青天白日旗が翻っていた。高速バスで台北駅まで出てMRTに乗り、西門駅へ。宿舎にたどり着いたのは15:00頃。西門町のど真ん中、駅を出て3分ほど、路地を少し入ったところ。立地条件が良い割りに料金は安かったが、窓のない部屋だった。寝るだけだからいいか。

【新竹へ】Photo
・新竹へ行く。台北15:30発→新竹17:02着の莒光号。一応、車内に携帯電話の使用はお控えくださいという注意書きはあるが、携帯電話の声が無遠慮にとびかう。
・車窓の風景をぼんやり眺めるのが好き。青々とした草はらに木立の光景が見えた。ふと、侯孝賢監督「冬冬の夏休み」のワンシーンを思い浮かべた。あれは苗栗が舞台だったとは思うが、風景としては続いているのだろう。Photo_6
・新竹の駅舎は日本統治期の建物を現在でも使っている(上の写真)。駅前にはイベントができる広場があり、屋台も並ぶ。線路があった。かつての軽便鉄道か何かの跡だろうか。花蓮でもかつて軽便鉄道だった線路跡をそのまま細長い公園に整備されているのを見かけたことがある。Photo_7
・まず、李澤藩美術館に足を運んだ。開館は金土日の18時までということは事前に調べてあった。李澤藩(1907~1989年)は水彩画家である。彼については以前にこちらで触れた。新竹駅から歩いて5分ほど、繁華街の大通りに面した建物の3階。かつて李の自宅のあったところらしい。他の階にはテナントが入っており、階段をのぼる途中の2階には若者向けのヘアサロン。写真で煌々と明かりがついているのがそれだ。
・芳名帳に記入して入館。アマチュア向けの賞の入選作の展覧会をやっていた。地元の美術サロンという位置付けか。李澤藩自身の作品は片付けられて数点しか見られなかった。奥の方で遺品の展示。画架や書棚、集めていた小物など。書棚は台北師範学校在学中に自分で作ったものらしい。Photo_8
・街を歩く。新竹市政府。日本統治期の新竹州庁の建物を現在でも使っている。城隍廟の方へ歩いていく。ちなみに、城隍廟とは町の守護神を祀ったところ。屋台が並んでいると聞いていたが、時間が中途半端だったせいか、人通りはあってもいわゆる活気がない。迎曦門に戻る。前に広場があり、若者のバンドが大音響を出していた。Photo_9
・新竹市立映画博物館。戦前、有楽座という映画館だったが、戦争中に爆撃を受け、修築されて国民大戯院となり、その後、打ち棄てられていたのを改装して博物館として利用されている。ミニシアターも併設されているようだ。建物の脇には、映画関連の事項を中心に新竹の歴史をまとめた年表や映画ポスターのパネル。1941年には李香蘭も来たらしい。肝心の博物館は、開館時間中のはずなのに、休息中の札がかかったまま。ひょっとして祝日だから休館なのか。仕方ないので引き返す。
・風が強く、ゴミが目に入った。雲行きは怪しく、たまに小雨がぱらつく。
・19:01発の自強号で台北に戻る。屋台でビーフンでも食べようと思っていたのに、気持ちの引かれる店が見つからず、小腹が減ったので、列車待ちの時間に駅のセブンイレブンでサンドイッチ。パッケージは日本と変わらず。パンは若干パサパサ、ハムの味が違う。列車の中で明日のスケジュールを組む。

【夜の台北】
・20時頃、台北駅に到着。MRTに乗り換えて市政府駅で下車。誠品書店信義旗艦店へ。私は台北に来たら必ずここに寄って時間をつぶす。
・いつも上の5階から順次下へ降りていく。5階は子供用品フロアだが、絵本売場をチェック。酒井駒子さんの絵本が何冊か翻訳されており、ちょっとした特集が組まれていた。
・4階は芸術フロアである。日本語コーナーも、アート・ファッション系の本が中心なので、このフロアで美術書コーナーとCDコーナーとに挟まれている。美術書コーナーの新刊平台に並んだ翻訳ものでは安藤忠雄と森山大道が目についた。
・3階は人文・社会科学フロア。ここで台湾史関連の書籍を買い込む。先日読んだばかりのJonathan Manthorpe, Forbidden Nation: A History of Taiwanの中文版が文達峰(柯翠園訳)《禁忌的國家──台灣大歴史》というタイトルで新刊平台に積まれていた。フランツ・ファノン『地に呪われし者』の翻訳(中文タイトルをメモするのを忘れた)やファノンの評伝が新刊で出ているのも目についた。ここしばらくポストコロニアルの視点で台湾史を議論するのが定着しているようだから、そうしたところから需要があるのか。龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年)は話題になっている様子なので購入。
・2階は新刊フロア。ざっとベストセラーの棚を眺めて引き上げる。
・MRTで西門駅に出て、明朝足をのばす予定の大渓行きバスの停留所を確認してから、西門町を少しブラブラ。
・腹へったなあと思いながら歩いていたら、阿宗麺線というお店の前を通りかかった。みんな店の前で立ち食い。つられて私も行列に並ぶ。一品しかないようで、すぐ順番がきた。大椀55元を注文。細麺というか、にゅうめんのような感じで、かつおだし風味、とろみのあるスープ。アツアツをレンゲですくってハフハフしながらかき込む。亭仔脚の脇の台に調味料が置いてあり、好みの味に調整してもよし。箸が欲しいなあと思いつつ、レンゲでほおばっていると、屋台を引いたおっちゃん、おばちゃんたちがワイワイ騒ぎながら目の前を走っている。どうやら、巡回パトカーが来たらしい。西門町名物、屋台と警官のいたちごっこを眺めながら麺線を平らげた。

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10月11日 大渓へ

【大渓へ】
・今日は台北近郊の大渓、三峡、桃園を回る心積もり。しかし、朝、テレビの天気予報によると、台湾北部・東部は大雨とのこと。高鉄を使って晴れていそうな台南あたりに行こうかとも迷ったが、初志貫徹。
・幸い、まだ曇り空。昨晩のうちに確認してあったバス停へ行くと、すでに大渓行きバスが留まっていて運転手さんは寝ていた。8時頃になっておもむろにドアを開けてくれたので乗車。持参したガイドブックには終点まで103元となっていたが、念のため運転手さんに確認したら105元とのこと。運賃箱にお金を入れると、行先を記した札をくれた。これは降車時に返す。
・私は、中国語の文章なら多少は読めるが、基本的に聞き取りもしゃべりも出来ない。コンパクト辞書を携行し、必要になった時すぐに目的地名のピンインを調べて(注音符号は分からない)、誤解のないように繁体字でメモに記して見せながら口に出す。数字ぐらいなら聞き取れる。
・東呉大学城中キャンパス脇の貴陽街停留所から出て、萬華、板橋、土城、三峡を経て大渓に行くルート。ほぼ2時間かかった。萬華を通ったとき黄氏家廟というのを見かけた。少女作家・黄氏鳳姿の一族の関係か。
・萬華から板橋、土城までずっと繁華街が途切れることなく続き、土城を過ぎたあたりから丘陵が近くに迫ってきて台北盆地が終わるのをうかがわせる。それにつれて道路沿いに並ぶ建物の丈が1,2階ほどの低さになってきた。経由した三峡はかなりの繁華街だったが、ここを除けば畑や林の広がる中をひた走る田舎道。
・途中乗ってきたおじさん二人組みがやたらと甲高くしゃべるのが車中に響き、しばらくして降車。明らかに北京語ではなかった。あれは台湾語(ホーロー語)か、それとも客家語か。
・大渓に到着。ガイドブックには、小さい街なのでバスターミナルを起点に動けば迷うことはないという趣旨のことが書かれていたのだが、その肝心のバスターミナルがどうやら工事中で、離れた所の臨時停留所で降ろされた。最初はそんな事情など分からず、ガイドブックの略図通りに歩こうとしても、街路が明らかに異なる。自分がどこにいるのか分からず焦った。その上、雨も降ってきた。苛立ちが募り、日本に帰ったらガイドブックの出版元にクレームをつけてやる!と毒づく。そのガイドブックは雨水を吸ってブクブクにふくれあがり、邪魔なので必要なページを思いっきりビリッと破り取る。晴れていたら、たとえ迷ってもおおらかでいられるのだが。20分ほどさまよっているうちに商店街に出て、ようやく街の構造と方角の見当がついた。位置関係さえ把握できればこっちのもの、気持ちに余裕が出てくる。Photo_10
・老街(オールド・ストリート)は後で歩くことにして、まず大渓公園へ。この公園は日本統治期には神社だったらしい。大きな川岸の崖の上。独楽の記念碑があった。この町には一時期、台湾の大富豪として知られる林本源の一族がいて、大陸から大工を呼び寄せ、彼らが閑な時間に独楽をつくったという由縁があるらしい。近くには、地面の大きく丸いくぼみにベンチのしつらえられた野外ステージ。日本統治期の相撲場跡で、戦後は池になっていたところ、メンテナンスが大変で、野外ステージ風にしたという。
・隣に蒋公之家なる施設があった。蒋介石の別荘だったらしい。現在は文化センターになっている。Photo_11
・さらに歩いて、武徳殿の前に出た。日本統治期の剣道場を改装して、今でも公共施設として利用されている。裏手には崩れかかった日本式家屋があった。背後に崖が迫り、武徳殿を挟んで両脇に大渓児童中心と大渓鎮立図書館がある。旅先で図書館を見つけるとついつい入りたくなってしまう性分である。3階が書庫。日本の田舎の小ぢんまりとした公立図書館と、たたずまいというか空気がそっくり。2階が閲覧室。中高生くらいの子たちが静かに勉強している。今日は日曜日。台湾の受験競争は厳しいと聞く。入口あたりでは、携帯電話で長話をしている女の子の姿。Photo_12
・武徳殿の向かいには写真のような日本家屋もあった。
・老街を歩く。赤レンガの建物の整然とした並び、意外とレトロモダンな構えに風情がある。魚や野菜を売るお店が亭仔脚からはみ出し、買い出しのおっちゃん、おばちゃんがわやわやとざわついている。人がひしめく中をスクーターがかいくぐって通るので危なっかしい。食べ物や玩具など土産物を売る屋台のような店が軒を連ねる区画では若いグループや子連れの家族などが楽しげに買い食いしながら歩いている。活気がある。今日は日曜日だから近隣から日帰り観光で来ているのかもしれない。なぜかキナコ餅を売っているお店に行列ができていた。貼紙を見ると、どうやらテレビで紹介されたらしい。Photo_14
・さて、引き上げて次の目的地の三峡に行きたいのだが、バスターミナルが工事中なので、どこからバスに乗ったらよいものやら分からない。グルグル歩き回りながら、バスが行きかう大通りに出た。バス会社の交通整理員と思しきおじさんにと尋ねたら、言葉は分からないが身振りで教えてくれて、反対車線に行くと三峡行きの臨時停留所を見つけた。雨に滲んだ手書きの行先表示を確認したちょうどその時にバスが来た。飛び乗って、運転手さんに三峡老街までの運賃を確認。

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10月11日 三峡へ

【三峡へ】
・三峡老街の停留所の近くまで来たら、運転手さんが身振りでここだと教えてくれた。下車。ひなびた田舎町を想像していたのだが、予期に反して、商店街を人が行きかい、道路には自動車が渋滞するかなりの繁華街だった。
・あらかじめ地図で確認してあった李梅樹教授紀念文物館へ。普通のマンションの6階にあり、エレベーター脇の机の前に座っていた老人(管理人?)に声をかけてから上へのぼった。郷土の昆虫学者(?)関係の展示と併設で、どうやら篤志の個人経営の紀念館らしく、日曜日は開館のはずだが、扉はびっちり閉まっていた。仕方ない、引き返す。老人に「謝謝」と言って出て行ったとき、背後から声がかかったが、一瞬、「再見」と言われたのかと思って、そのまま建物を出た。出た瞬間に頭で反芻したら「在嗎?」と言われたのだと思い当たる。そうか、入る時何やらゴニョゴニョ言われたのは、「誰もいないかもしれないよ」ということだったのか。Photo_29
・川沿いに歩き、清水祖師廟へ。大渓ではメインの観光スポットである。かつて清代に建立された廟堂だったが、いつしか廃れてしまい、戦後、郷土の画家・李梅樹が中心になって再建された。Photo_30
・一部には旧台湾神宮の鳥居が使われているらしいのだが、どれだろう? 中心の堂宇の柱が古びた感じだから、これか。他の柱にも精巧なレリーフが刻み込まれていた。壁面には花鳥風月が細い線で綿密に刻まれている。李梅樹をはじめ名のある画家たちの手になる。長年月をかけて造営が続けられたことから台湾のサグラダ・ファミリアと呼ぶ人もいるらしい。 Photo_16
・大きな川にかかる橋を渡って、李梅樹紀念館へ行く(先ほどの文物館とは異なる)。大きなマンションの一階。洋画家・李梅樹(1902~1983年)の作品を展示する美術館である。
・李梅樹は三峡の生まれ。台北師範学校を卒業してから公学校(台湾人向けの小学校)の教員をしていたが、その後、石川欽一郎の教えを受ける。28歳の時に東京美術学校に入学、岡田三郎助などに師事、卒業後は画家として身を立てる。戦後は大学教授のほか県議会議員なども務めた。清水祖師廟再建は彼のライフワークとして知られている。
・入館者数人を相手に解説をしているガイドのおじさんから声をかけられ、私が戸惑った表情をしているのを見て取ると、日本語で「日本の方ですか? こちらへいらっしゃい」と招いてくれて、台湾人観光客相手に北京語、私相手に日本語と交互に言葉を使い分けながら解説してくれた。とりわけ、遠近法の視覚に及ぼす効果が巧みに使われていることを懇切丁寧に説明してくれた。館内の床に足跡マークがあって、これは何だろう?と気になっていたのだが、一つの絵でも視点を変えると見え方も変わってくる、その位置表示だった。
・油絵である。リアルな描写で、渓流で洗濯をする家人の肖像やミレーの農民画を意識した作品などが印象的だった。1946年製作の三人の孫の並んだ肖像像の前で、ガイドさんがお札を出して孫文の肖像を見せる。三人のうち真ん中の子の年齢が一番高い、つまり「山」の字→「中山」を示すらしい。
・ガイドさんから「どこに住んでますか? 台北? 新竹?」と尋ねられた。どうやら日本企業の台湾駐在員が休日に日帰り旅行に来たものと思われたようだ。日本からの観光客が一人でわざわざここまで来るのは珍しいのだろう。
・展示された遺品の中には、石川欽一郎の書簡のほか、梅原龍三郎・藤島武二らも三峡に来たことがあったらしく、案内してくれたことへのお礼状があった。
・李梅樹の作品と年譜がまとまった本を1冊購入して出る。清水祖師廟の彫刻解説の冊子をいただいたので、もう一度参観。Photo_17
・三峡歴史文物館に行く。日本統治期の役場を郷土資料館として再利用している。1階には石細工の展示。2階には三峡の歴史解説。三峡は染料、樟脳、茶葉の産地・集積地としてかつて栄え、川を利用した船運のほか、日本統治期には桃園方面から軽便鉄道もつながっていたらしい。
・三峡という地名の起源をさかのぼると、もともとタイヤル(泰雅)族の言葉に由来して、その発音を聞いた漢人開拓者が三角湧と表記。閔南語系の発音ではsa-kak-engとなり、これが日本人の耳には「サンキョウ」と聞こえたため「三峡」と改名。この漢字表記は戦後も継続されて北京語で「san(1)xia(2)」と発音されている。ただし、地元の人は「三角湧」という表記に愛着を持っているとのこと。多民族・多言語国家ならではの歴史の重層性が明瞭にうかがえて興味深い。
・三峡老街の模型が展示されていた。展示パネルを見ると、三角湧の支庁長を務めた達脇良太郎という人が街並みの整備に尽力してくれたおかげであると評価されていた。Photo_18
・その三峡老街へ行った。バスを降りた所は普通の商店街だったが、民権路をもっと奥に進み、清水祖師廟の脇のところから赤レンガ造りの古びた風格の建物が整然と並んでいる。写真が入口、手前の建物に「三角湧老街」と彫り込まれているのが見える。大渓よりも観光地らしい喧騒だ。雨が降っていても、亭仔脚の下を歩けば気にならない。食べ物屋におもちゃ屋、土産物屋。みんなお店をひやかしながら進むのでノロノロ歩きになる。
・芳ばしい香りに引かれて、康喜軒金牛角なるパンを買った。形はクロワッサンのようだが、しっかりした歯ごたえでバターの濃厚な味。これはうまい。どうやら三峡名物になっているらしい。歩いていると、たとえばおばあさんが揚げパンを揚げている屋台も見かけたから、ああいう感じの屋台の出世頭のようなお店なのだろう。私は台湾のこういうデニッシュ系の菓子パンが好き。

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10月11日 桃園へ

【桃園へ】
・次の目的地の桃園までバスに乗るつもりなのだが、例によってどこで乗ったらいいのか分からない。探しながら歩いていたら、いつの間にか三峡の次の停留所まで来てしまった。時刻表を見ると、すでに行ったばかり。次は30分以上待たねばならない。雨降りは人を苛立たせる。タクシーでも拾おうと思いながら、三峡の繁華街の方へ戻っていくと、前方に停車中のバスの行先表示が桃園となっている。走れ! 列の最後の人が運賃箱にお金を入れたちょうどその時に駆け込み、運転手さんに運賃を確認。とりあえず最前列に座ってポケットの小銭を探り、交差点の赤信号で運転手さんに声をかけてお金を運賃箱に入れ、行先札を受け取った。
・後から乗ってきたおばさんが私の隣に座り、話しかけてきた。私の戸惑った表情を見ると、そのおばさんも変な顔をして、通路を隔てた反対側の人に話しかけ、見ていると、小銭に両替してもらっていた。台湾のバスには両替機はなく、運転手さんも両替をしてくれない。乗客同士で両替し合う光景をよく見かける。
・バスは鶯歌を経由。陶器の街として知られている。
・三峡から桃園まで1時間くらいだろうか。駅近くにたどり着く前にバスは停まり、運転手さんがここで降りろと乗客に指示していた。桃園の中心部はデパート等も立ち並ぶそれなりの大都市で、道路は渋滞、確かに歩いた方が早そうだ。桃園駅前には蒋介石の銅像が建っていた。Photo_24
・駅前でタクシーを拾い、忠烈祠へ行くよう指示。随分と乱暴な運転をするにいちゃんで、目的地に着いたら帰りのために待ってもらうつもりだったが、やめた。
・忠烈祠にたどり着いたのは夕方5時頃。国民党軍の戦死者・殉職者・革命烈士が祀られている。日本統治期の桃園神社である。日本の神社は戦後になって国民党の忠烈祠に転用されたケースが多い。たとえば、台北の護国神社、宜蘭の宜蘭神社などを私は見に行ったことがある。社殿は解体されているのが普通だが、桃園神社は日本時代の社殿がそのまま使われて現存している台湾では唯一の例らしい。Photo_26
・石段のふもとでタクシーを下ろしてもらった。神社前の石塔には名前を書き換えられた痕跡がある。「奉献」と書かれた石台もあり、石階段の急な傾斜は明らかに神社を思わせる。のぼる。Photo_27
・石灯籠が並ぶ参道の正面に社殿が構えられている。丈の高い椰子の木との対比が独特だ。4時半で閉門とのことで、奥には入れない。境内を歩く。若い男女がコスプレの撮影会をやっていたらしく、ワイワイと機材を片付けている。蚊に刺されたのもいかにも神社らしい風情に感じた。初秋の夕方、台湾にいるとは思えない不思議な空間。
・下の写真はおそらくかつての社務所。現在は管理事務所として使われているようだ。Photo_23
・来るとき、近くの大きな病院の前にバス停が見えたので、そこまで歩いていく途中、タクシーが通りかかったので乗った。
・桃園駅前は夕方の交通ラッシュ。警官が出て交通整理をしていた。車が動かない中を、一人の青年が道路を横切った。それを見咎めた警官が「戻れ!」と制止したが、言うことを聞かない彼を思い切り突き飛ばした。私の乗っているタクシーのすぐ横だった。彼は道に倒れて動かない。交差点の反対側にいた警官が何人か寄ってきた。若い婦警さんが心配そうにオロオロして助け起こそうとするのだが、他の警官たちは「やめとけ、やめとけ」という感じ。雰囲気からするとどうも顔見知りらしく、「死んだふりしているだけだから構うな」という態度で放置。後姿なのでよく見えなかったが、南方系の顔立ちをした青年だった。
・駅前に出ると、同様に肌が浅黒く目鼻立ちが明らかに南方系の青年たちのグループをよく見かけた。台湾の漢族系はもちろん、原住民系とも違うような気がする。桃園・新竹のあたりは工業地帯で、東南アジアから出稼ぎ労働者が来ているという話を何かで読んだ覚えがある。そうした人たちが日曜日に町へ繰り出してきているということか。先ほどの警官の態度を見ると、日常的にトラブルをおこしているのか、彼らに対する一種の差別感情でもあるのか。

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10月11日 夜の台北

【夜の台北】
・桃園駅から区間快速に乗って台北まで約1時間。ずっと混んでいた。
・歩きづめで疲れたし、言葉が分からないからストレスも少々たまっているし、買い食いばかりでまともな食事はしていないかったし、がっつり食いたいと思って鼎泰豊へ。本店は混んでいるから忠孝敦化店に行く。行列してはいたが、お一人様席は空いていたようで、すぐに案内された。ここは日本語が通じるからラク。食うぞ、とばかりに注文すると、「量がかなりあって一人では食べ切れませんよ」と一々注意を受ける。そのことは織り込み済みで、とにかくたくさん食いたかったのだが、助言に従って注文をしぼる。小籠包、炒飯、スーラー湯の小、台湾ビール。
・忠孝敦化站の大通りから裏手に入った通りには結構色々なレストランが並んでいる。酔い覚ましがてら歩き、誠品書店敦南店へ。ここは24時間営業。棚をゆっくり見ながら選書、何冊か買い込む。なぜか松本清張生誕百周年記念特集と大江健三郎特集が目立った。
・まだ夜の八時。このまま宿舎に戻るのももったいないので、夜の台北散策へ。MRT台北駅で地上に出て、台湾博物館やライトアップされた総統府(旧台湾総督府)などを見ながらかつての“城内”を南下する。“城内”は南北を普通に歩いてだいたい30分程度。中山堂(旧台北公会堂)の脇を通って西門町へ。イベント開催中の西門紅楼をぐるっと回って、萬華の方向へ足を向ける。徐々に人通りがさびしくなってきた。女性に道を尋ねられたが、私が視線を泳がせると、分からないものと判断したようで、目の前にあったコンビニに入っていった。
・青山宮の前にさしかかった。通りがかりの若い人が廟堂に向かって深々とお辞儀していたので、私もそれに倣い、手を合わせて深く一礼。『民俗台湾』の池田敏雄がこの青山宮に一時期下宿していたことは最近知ったばかりだ。
・さらに進むと、華西街観光夜市のアーケードに出る。他の夜市と違ってここの特徴は、いかがわしいお店がちらほら目立つこと。横道にそれるとスナック、バーといった感じの飲み屋街になっている。陽気にカラオケを唄う声が聞こえてきた。夜9時過ぎ、北の入口の方は閑散としていたが、龍山寺方向の道と交差するあたりは人があふれかえって活気がある。尼さんが何人か買い物をしているのを見かけた。
・十字路の龍山寺に通じる東西方向の活気とは対照的に暗い南方向へと華西街をさらに進む。女性たちがたむろしている。おそらく、売春街。薄着に濃い化粧、みんなかなり年増。きれいな人はいない。横道に入って店に視線を向けると、奥に個室が並んでいて、入り口脇の待合席に客とおぼしき男性が座っている。女性が寄ってきて声をかけられ、無言で手を振って歩いていくと、背後から悪態をつく声が浴びせられた。治安は良くない雰囲気なので足早に立ち去った。Photo_22
・龍山寺の境内に入った。夜中まで参詣できるようだ。人々がお線香を振る姿をしばし眺める。外壁に彫刻や銘文が刻まれており、何となく眺めていたら、尾崎秀眞の揮毫を見つけた。尾崎秀実・秀樹兄弟の父、漢学者である。日本の台湾占領にあたり、漢詩文の教養のある人物がいないと侮られるとのことで招かれたらしい。以前、『台湾時報 総目次』で戦争中の項目を調べていたら、尾崎秀眞の肩書きが「無職業」となっていたのを思い出した。ゾルゲ事件で息子が処刑されて、秀眞は謹慎中という事情。尾崎秀樹は当時中学生だったが、兄が処刑されたので肩身が狭く、自分の将来もおしまいだと悲観。どうやって暮らしていこうか、医学標本室の整理係でもしながらひっそり隠れて生きていこうと考えて、父の紹介で台北帝国大学医学部の金関丈夫の研究室を訪れた、と回想していた。
・龍山寺駅からMRTに乗って西門町に戻る。若者が闊歩する繁華街をぶらぶら歩き、映画街へ。24時間営業のシネコンが並ぶ。予告の看板やヴィジョンを眺める。「風聲 the message」なる映画はどうやら抗日戦争ものらしい。「原子小金剛」は「鉄腕アトム」。CG映画化されるなんて知らなかった。「福音戦士」は「エヴァンゲリヲン」。16日から公開。西門町の大型ヴィジョンにシンジくんや綾波レイなどが映し出されていた。どうでもいいが、MRT西門町駅に降りる階段脇にアディダスの広告がでかでかと貼り出されており、ジャージ姿の楊丞琳という女の子がかわいくて、通りかかるたびについつい見とれてしまった。ほっぺのほくろがチャームポイント。

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10月12日 帰国

【最終日・台北】
・朝8:00頃に宿舎を出て、MRT中山站近くの台湾料理店・青葉餐廳へ行く、が、依然として改装中のまま。近くの仮店舗へ行っても営業時間は11:00~となっている。一昨年に来たときは朝8:00からやっていたのだが。
・午前中の目的地、台湾大学近くの書店へ行くことにして、ラッシュ時のMRTに戻るのは面倒なので、タクシーを拾う。分かりやすいだろうと思って台湾大学と指示を出したのだが、ゲートが見えてきたので小銭を探している最中にずんずん奥まで入って行ってしまった。ついでだからキャンパス内を散策。正門から図書館まで続く椰子並木が壮観。9時10分、キーンコーンカーンコーンというチャイムは日本で聴くのと同じ音。学生たちはスクーター、自転車、徒歩と様々に足を速めている。雨模様なので、親に車で送ってもらっている子も見かけた。
・正門から出て大通りを渡り、さらに路地に入った。基本的に住宅街の雰囲気(たまに、古い日本式家屋も見かける)の中、喫茶店や食堂などお店もちらほら見かける一帯に、南天書局と台湾e店がある。両方とも台湾史関連の専門書を揃えている。南天書局は史料復刻や学術書出版もしており、レジの向こう側がパソコンに向かう人たちのいる部屋になっていたから編集部か。台湾e店は台湾独立派色が濃い。
・それぞれ棚をくまなく見て、関心のあるテーマの本を、持って帰れる範囲内に取捨選択しながら購入。台湾では植民地統治期の日本語文献も覆刻されていて、そのうち池田敏雄『台湾の家庭生活』(南天書局)を購入。『民俗台湾』(全8巻、南天書局)は迷った末に断念。黄栄燦という人に興味を持って(→こちらを参照)、横地剛『南天之虹』という本を探していたのだが、その中文版(陸平舟訳、人間出版社、2002年)を見つけ、購入。邱函妮『湾生・風土・立石鐵臣』(雄獅図書、2004年)という本は、立石鐵臣(→こちらを参照)の作品や当時の写真などカラー図版を豊富に盛り込んだ伝記で、私が欲しかった『台湾畫冊』も小型版ながら収録されており、掘り出し物だった。それから、『日治時期的台北』(国家図書館、2007年)には当時の写真や絵葉書がテーマ別に並べられており、興味深い。
・じっくり眺めていて、ふと時計をみたら、もう11時半。本のつまった袋をぶら下げて両手がふさがって重いのでタクシーを拾い、宿舎へ直行。トランクに本を詰め込んで、バタバタと慌しくチェックアウト。MRT西門站から台北站に出て、高速バスに乗って桃園国際空港へ。

【帰国】
・カウンターで航空券を受け取って、時間に少し余裕があり、朝食抜きだったので空港内の食堂で食事。注文口に並び、座席番号を尋ねられたので、確認のためにちょっと4,5歩ばかり外れたら、後ろに並んでいたじいちゃんたちがすぐに殺到して「台湾ビールはあるかい?」みたいな感じに口々にワヤワヤ、係のお姉ちゃんが「並んでお待ちください」と制止していた。なんか一昔前の日本の農協さんみたいでほほ笑ましい。
・台湾へ行くのにJALを使ったのは初めてなのだが、4つの言語で機内アナウンスが流れた。日本語、英語、北京語までは分かったが、4つ目の言葉が聞き慣れない。おそらく台湾語(ホーロー語)だろうと思いつつ、スチュワーデスさんに尋ねたら、やはりそうだった。そのスチュワーデスさんは台湾人で(きれいな人に意図的に声をかけるところが私のいやらしいところだ)、若い世代は北京語に慣れているが、台湾語アナウンスは年配の人向けとのこと。北京語は4声であるのに対して台湾語は8声。「時々、あなたの台湾語は違うなんて言われてしまいます」と苦笑いしていた。さっき空港で出くわした農協さんのようなじいちゃん・ばあちゃん向けか。チャイナエアラインでも台湾語アナウンスは流れていたっけ? 気にかけていなかったので覚えていない。
・行きの飛行機では、早起きして眠たかったので、白ワイン飲みながらボーっとして、「サマーウォーズ」をやっていたのでぼんやり眺めていた。評判の良い映画だった気がするが、つまらなくはないにせよ、そんなに絶賛するほどでもなかったぞ。
・帰りの飛行機では、なぜかやたらと喉がかわいていたのでビールを飲みながら、柳宗悦『民藝四十年』(岩波文庫)をゆっくり読んだ。“民芸”を、特殊に技巧的な美として見るのではない。有名無名、多くの人々が孜々として積み重ねてきた営み、そこにおいて、人間の意志的な努力と大きな意味での自然とが調和のとれているところに美を見出す。一言でいえば、不自然でないこと。土地により、民族により、それぞれの生い育った環境や伝統に応じて独自の美がある。植民地化=同化政策はそうした美を破壊するものであった。有名な「朝鮮の友に贈る書」では、「私には教化とか同化という考えが如何に醜く、如何に愚かな態度に見えるであろう。私はかかる言葉を日鮮の辞書から削り去りたい」と記しているが、皇民化政策が進められる戦争中、『民俗台湾』同人が柳を台湾に招いたのは、こうした柳の考え方に共鳴するところがあったからであろう。
・台湾時間14:40頃に少し遅れて出発したが、日本時間18:30頃、定刻通りに着陸。京成スカイライナーを初めて使って帰った。

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