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2009年10月4日 - 2009年10月10日

2009年10月 9日 (金)

「空気人形」

「空気人形」

 「私は心を持ってしまいました」──ある日、ダッチワイフの顔に表情が宿った。ご主人様の束縛から逃れるように街へさまよい出た“彼女”は、レンタルビデオ店で出会った青年に恋をする。“彼女”の恋の行方と悲劇、そして、街ですれ違う、心に何か満たされないものを抱えている人々の姿。

 「心が空虚」であるという戸惑いは、現代社会論に結び付けて論じられるべきテーマであるのはもちろんだし、私自身も関心はあるけれど、ただし、そこにこだわり過ぎても陳腐なような気がする。変に意味付けなどしないで、この「空虚な私」というモチーフも舞台設定上の道具立てと割り切ってしまう方が私にはしっくりくる。ペ・ドゥナのメイド服が似合うあどけない顔立ちも、肌のなめらかな肢体も、まさに精巧な人形のように整った美しさがある。空気が抜かれ、吹き込まれる時の悶えるような表情、足が上がり胸が反っていく微妙な動きがまたなまめかしい。「心を持ったお人形さんの世界発見」というおとぎ話の実写化と受け止めれば、彼女のぎこちない動作と言葉、そこに表われた戸惑いや嬉しさといった感情の動きをいとおしく見守りたい気持ちになってくる。

 もし「空虚な私」というテーマにどうしても引き付けるならば、自分が空虚であることを逃げずに直視し、開き直った視点で周囲を見渡せば、どんなに色褪せてつまらなく、時には汚らしく見えたこの世界にも、みずみずしい驚きや美しさが満ちている、そうした寓話に仕上がっていると言えるだろう。

 巨大マンションの林立し始めた、街並の変化しつつある東京の下町が舞台。街並をさり気なく映し出すカメラワークが私は好きだ。そこにかぶさる音楽の、ミニマリズム的に無機質で大げさな昂ぶりは抑えつつ、それでも静かな感傷を滲み出すメロディーがうまく映像にはまっている。「ん? 聞き覚えのあるメロディーだな、ひょっとしたら…」と思いながらエンドクレジットを確認したら、やっぱり音楽はworld’s end girlfriend。私の大好きなアーティストだ。以前、こちらにちょっと書いたこともあるが、CDは全部持っている。メジャーなところで出くわすことが滅多にないので意外だった。

 好きと言えば、寺島進、オダギリ・ジョー、余貴美子、星野真理と私のひいきにしている役者さんたちがチョイ役で出ているのも私としてはポイントが高い。どうでもいいが、最後の方、バースデイの拍手のシーンが、エヴァンゲリオン・テレビ版の最終回、シンジ君が登場人物みんなから拍手を受けて「ボクはここにいてもいいんだ!」というあのシーンとかぶった。

 是枝裕和監督の第一作「幻の光」を観たのはまだ学生の頃だった。確か、渋谷のシネ・アミューズ(今は名前が変わっている)の開館第一弾だったはずだ。それ以来、是枝監督の作品はほとんどリアルタイムで観ている(ただし、「花よりもなほ」は未見)。

【データ】
監督・脚本・編集:是枝裕和
原作:業田良家
出演:ペ・ドゥナ、ARATA、板尾創路、余貴美子、岩松了、星野真理、寺島進、オダギリ・ジョー、富司純子、高橋昌也、他
2009年/116分
(2009年10月8日レイトショー、新宿バルト9にて)

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2009年10月 8日 (木)

ウィーン世紀末展

 「ウィーン・ミュージアム所蔵 クリムト、シーレ ウィーン世紀末」展。ウィーン分離派を中心にその前後も含めて、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカをはじめとした多数の画家たちの作品を展示。作曲家アルノルト・シェーンベルクの絵もあった。会場は日本橋・髙島屋8階展示場。昼過ぎ、職場を抜け出して行ったら、台風のおかげだろうか、ガラガラ。落ち着いて観られて嬉しい。

 お目当てはクリムト。生々しいのだけど現実的な存在感を感じさせない、あの不思議な女性像が好き。展覧会のポスターにもなっているパラス・アテネ像などものすごい迫力、だけど、金の胸当て(伝アガメムノンの出土品を思い起こすデザイン)のあっかんべーは何でしょう? クリムトというと金地(金屏風を思わせる)の背景が独特だけど、彼よりも前の時代に描かれた、やはり金地にシンボリックなモチーフを配置したイコンのような教訓画も展示されていた。28歳で早逝した弟エルンスト・クリムトの作品もいくつか展示されており、祈る幼女像はかわいらしくて目を引いた。

 分離派というと、反逆児の集団のようなイメージがあったけど、あくまでも既存の画壇では自分たちの表現ができないから別の発表場所を立ち上げたということであって、フランツ・ヨーゼフ帝も臨席したというのが意外だった。そのシーンを描いた絵も展示されている。それから、ウィーン工房が日常生活のちょっとした場面にも芸術を広めようと、日用品のデザインやポスター、絵ハガキを製作していたことに興味。

 エゴン・シーレはやはり痛々しい。自我への病的なまでのこだわりをグロテスクに表現した人物像は、観ているだけで疲れる。他の画家さんが森の静けさや夕焼けの美しさを描いた風景画を見て頭を休める。

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2009年10月 7日 (水)

近代化をめぐって何となくメモ

 先日、植民地統治期台湾において多くの弟子を育てた水彩画家・石川欽一郎を取り上げた(→こちら)。その人柄が台湾人生徒たちから慕われただけでなく、イギリス紳士風の雰囲気に好感を持たれたというところから、何となく以下の雑感。

 日本による植民地支配には、①西洋を基準とした“文明化”と②皇民化運動に顕著な“日本化”と二つのベクトルがあった。総督府は医療や産業インフラ等の近代化政策を進めると同時に、日本語や神社崇拝等を強制した。他方で、台湾人側も、日本を通して“普遍的”≒西欧的な先進文化へアクセスしようとすると同時に、日本優位の差別的でありながら同化を標榜する総督府の政策に反感を持っていた。このあたりには様々に複雑なロジックが絡まりあっており、解きほぐすのが難しい。

 たとえば、台湾総督府の堂々たる威容には、日本の圧倒的な力を現地人に見せつける意図と同時に、その威厳を示すに西洋風建築を用いるという後発型帝国主義国家独特のねじれがうかがえる。

 そもそも日本は近代化にあたり、たとえば福沢諭吉が『文明論之概略』で「文明─半開─未開」という図式を示したように、日本の独立保持のためにこの図式に沿って伝統社会の克服=近代化≒西洋化を進めた。抽象的な“近代”などあり得ず、その具体化として欧米社会がモデルとして目指された。それは手段なのか、目的なのか? さらには、明治期日本において欧化か?国粋か?という議論が沸騰し、こうした葛藤は現在に至るも近代日本思想史を最も特徴付けるテーマとなっている。

 また、台湾と同様に日本の植民地支配を受けていた朝鮮半島において、李光洙は伝統社会の停滞性を批判、停滞性克服=近代化のために日本化を進めるべきだと「民族改造論」を発表した(彼についてはこちらで触れた)。李光洙は進化論の影響を受け、優勝劣敗の法則により弱小民族が敗亡するのは仕方ないと考えていたらしい。彼が目指したのは、目的としての日本化だったのか(この場合、“親日派”という謗りは免れない)、それとも朝鮮民族生き残りのための手段としての日本化だったのか? 難しい問題である。

 で、石川欽一郎をきっかけに何をつらつら考えたのかというと、台湾人生徒たちは石川の背後に“日本”ではなく、実は“西洋”(≒先進文明への憧憬)を見ていたのではないか?ということ。彼らは西洋文明に直接触れることが難しく、日本を通してアクセスするしかなかった。しかし、“日本経由の近代化≒西洋化”は、日本語を媒介として西欧の先進文明にアクセスできると同時に、日本語を使うこと自体によって、自覚的にせよ無自覚的にせよ、日本文化に取り込まれてしまうおそれがあった。

 今、たまたま、陳翠蓮《台灣人的抵抗與認同》(遠流出版、2008年)という本を読んでいて、日本に留学した蔡培火たち台湾知識青年が、「西洋─日本─台湾」という三層構造の中で台湾は最底辺にあると捉えて葛藤したという指摘があったので(73頁)、ふと以上のことを思い浮かべた次第。

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2009年10月 6日 (火)

立石鐵臣のこと

 立石鐵臣(1905~1980)の『台湾畫冊』(台北縣立文化中心、1996年)という本をパラパラ眺めたことがある。1996年に台北で開催された「立石鐵臣画伯紀念展」に合わせて刊行された画集である。1962年の署名入り。立石を引き立ててくれた美術評論家・福島繁太郎に捧げたものらしい。台湾での思い出を絵物語にまとめている。

 前半部分には庶民の生活光景や民具を題材とした画文が多い。かつて『民俗台湾』で「台湾民俗図絵」として連載されたものである。立石は金関丈夫、池田敏雄、松山虔三、国分直一、中村哲らと共に『民俗台湾』の編集に携わっていた。連載時は白黒の木版画だったが、『台湾畫冊』では水彩画に描き直されている。

 赤、黄、緑、青とモザイクのようにくっきりした色遣い、とりわけ赤レンガ家屋の色合いが鮮やかだ。素朴で力強く、しかしのびやかに描かれた線は、必ずしも写実的ではないのだが、どこか人々の雰囲気をしのばせる温もりがある。立石は台北帝国大学理農学部嘱託として昆虫の標本画を描いていて、細密画はもともと得意ではあるが、見た目の正確さよりも感じ取ったものをこのような筆致で描き出しているのか。ただし、大雑把そうに見えても、たとえばお店の描写などは細部までしっかりと描きこまれている。

 『台湾畫冊』の後半は、日本の敗戦後も留用という形で台湾に残留して暮らした日々を描いている。編訳館での仕事ぶりや、お向かいに越してきた中国人軍人との交流。立石と付き合いのあった画家・南風原朝光の兄で医師の南風原朝保が引き揚げることになり、携行できる荷物に制限があったため家財道具を置いていかねばならず、立石がその売りさばきを引き受けたシーンもある。当時、日本人の引き揚げに伴ってにわか仕立ての“骨董市”があちこちに現われ、結構掘り出し物が安く入手できたことはよく聞く。立石が日本人形を「安いよ、安いよ」と売ったあと、見ていた日本婦人が寄ってきて「あれは私が作った人形です」と言われ、随分と後味の悪い思いをしたとも記している。

 金関丈夫は、南風原朝保やジョージ・H・カーなどの仲間たちと連れ立ってこうした“骨董市”を見て回ったことを回想している(金関丈夫「カーの思い出」『琉球民俗誌』法政大学出版局、1978年)。いずれ置いていかねばならないのが分かってはいても、ついつい買ってしまったそうだ。なお、南風原朝保はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる(与那原恵『美麗島まで』文藝春秋、2002年→こちら)。ジョージ・H・カーは『裏切られた台湾』(川平朝清監修、蕭成美訳、同時代社、2006年)の著者である(→こちら)。

 立石は1948年12月5日に日本へと引き揚げた。日本人引揚者としてはほとんど最後の船だったらしい。基隆の港を船が離れるとき、波止場に集まっていた台湾の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったという。立石は「日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記す。前年、1947年には二・二八事件が起こっており、日本人留用者が煽動したと疑われて帰国が早まったとも言われている。

 留用された日本人の生活を描いた“絵物語”としては、他に金関丈夫の筆になる「国分先生行状絵巻」(金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]所収)なんてものもある(→こちら)。立石にしても金関にしても、深刻ぶらずユーモアたっぷり。

 立石については、謝里法「立石鐵臣展により想起される幾つかの問題」、森美根子「立石鐵臣の世界」(共に『台湾畫冊』解説編所収)、森美根子「台湾を愛した画家たち(23)(24) 立石鐵臣(前・後編)」(『アジアレポート』348・349号、2004年10月、2005年3月)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)を参照。

 立石は父親が総督府の事務官だった関係から台北に生まれ、7歳のとき日本へ渡った。絵が好きだったので川端画学校で学び、さらに岸田劉生、梅原龍三郎に師事。生まれ故郷である台湾を描きたいという思いを募らせ、再び台湾に渡る。1934年には台湾人を中心とした台陽美術協会の創立メンバーとなり、翌年には西川満主宰の創作版画会にも参加。造本・装丁に凝りに凝った愛書家として知られる西川の本の多くは立石が手がけた。そして、金関・池田らの『民俗台湾』の主力メンバーとなり、台湾各地の民俗調査に積極的に赴いた。『民俗台湾』についてはこちらを参照のこと。

 戦後の立石の画風は抽象的な幻想画へと一変したらしい。晩年は美学校で細密画を教えるかたわら、昆虫や魚を描く図鑑類の仕事をしていたという。

 台湾の美術史家・謝里法は、たとえ日本人であっても台湾という土地で作品を描いたならば“台湾美術”とみなすべきこと、「台展」などの制度から外れたアウトサイダーも認めるべきだといった理由を挙げて立石を評価している。

 立石鐵臣についてのドキュメンタリーを制作している方からメールをいただき、結局、私はお役に立てず心苦しく感じているのだが、完成を楽しみに期待している次第。

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2009年10月 5日 (月)

李澤藩と石川欽一郎

 一昨年、台北の故宮博物院を訪れたとき、たまたま「風城風采──李澤藩百歳紀念畫展」というタイトルの展覧会も開催されていた。メインの展示室にはいつものように観光客がごった返し、特に豚の角煮や白菜の宝石のあたりは中国語や日本語、韓国語に英語まで飛び交う喧騒のただ中に居るだけで頭が痛くなってくる。対して、こちらまで流れてくる人はほとんどいなかった。

 李澤藩(1907~1989)生誕百周年の催しだが、この人のことを私は知らなかった。水彩画である。台湾や旅行先の日本、ヨーロッパの風景を描いた、淡くしっとりとした色彩が印象的だった。湖水や木々、建物の輪郭が煙るようにぼやけ、そのどことなくミスティックな感傷は、観ていて心静かに落ち着ける感じがした。

 後で調べたところ、李遠哲の父親であることを知った。李遠哲は台湾人として初めてノーベル賞(化学)を受賞、李登輝・陳水扁両政権で中央研究院長を務めた。彼が2000年総統選挙で陳水扁支持を表明して一つの流れを作ったことは記憶していた。

 李澤藩は新竹の生まれ、日本統治期の台北師範学校を卒業後、自らも作品を描き続けながら、故郷・新竹でずっと教鞭をとっていた。作風は地味だとみなされたらしいが、水墨画や戦後盛んになった抽象画の技法も取り込もうとするなど積極的な姿勢も持っていた。彼については李澤藩美術館ホームページの他、森美根子「台湾を愛した画家たち⑩李澤藩」(『アジアレポート』335号、2002年3月)、黄桂蘭「風城風采──李澤藩的絵画芸術」(『故宮文物』第295期、2007年10月)を参照した。

 李澤藩を水彩画へと誘ったのが、当時、台北師範学校の美術教師であった石川欽一郎(1871~1945)である。私はこの石川の名前も、「風城風采」展会場にあった李澤藩の略歴を示したパネルで初めて見た。日本での知名度は低いが、昨日取り上げた李欽賢『台灣美術之旅』(雄獅図書、2007年)も含め、台湾に西洋画を初めて紹介して多くの弟子を育成した点で台湾美術史を語る上では外せない人物と位置付けられている。

 石川については立花義彰編著『日本の水彩画12 石川欽一郎』(第一法規、1989年)、中村義一「石川欽一郎と塩月桃甫──日本近代美術史における植民地美術の問題」(『京都教育大学紀要A人文・社会』76号、1990年3月)、荘正徳「石川欽一郎と台湾の近代美術教育」(『造形美術教育研究』第6号、1993年)、森美根子「台湾を愛した画家たち⑲⑳石川欽一郎(前・後編)」(『アジアレポート』344・345号、2003年9・11月)を参照。

 石川は旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入る。職場の後輩には石井柏亭がいた。独学で水彩画を描く。英語に堪能だったので陸軍参謀本部の通訳官となり、1907年に台湾へ赴任、通訳官と兼務で国語学校(後の師範学校)で美術を教える。台湾には1907~1916年、1924~1932年と二度滞在。この間に育てた弟子で主だった名前を挙げると、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎、等々。わけ隔てなく台湾人とも接したので生徒からは慕われ、教官に義務付けられていた官服は着用せず背広に蝶ネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしい。

 台湾の南国的にみずみずしい風景を描いた石川の水彩画は、枯淡な味わいに特徴を持つ伝統的な水墨画に馴染んだ台湾の人々にとって新鮮だったらしい。石川は、台湾において西洋美術の最初の普及者というだけでなく、“郷土意識”“台湾意識”を強調する論者からは台湾人に自分たちの暮らす土地の美しさへの自覚を促したとも評価されているようだ(石川自身の意図がそこにあったかどうかはともかく)。

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2009年10月 4日 (日)

李欽賢『台湾美術の旅』

李欽賢《台灣美術之旅》雄獅図書、2007年

 以前、台北の書店をひやかしていたら、美術書コーナーの新刊平台に積まれていたので購入した本。

 十七世紀、ヨーロッパ人がやって来てから現代に至るまで、台湾美術を彩る様々な群像を取り上げながら描き出された通史。時系列や分野別に無味乾燥に並べるのではなく、それぞれの美術家が育ち、あるいは活躍した土地との結び付きを重視、時間・空間、二つの軸によって“台湾美術の旅”が構成される。

 冒頭、ポルトガル人の航海者がFormosa=華麗島と呼んだというエピソードから説き起こされる。台湾人としての郷土意識・本土意識の高まりという時代思潮が本書の背後にうかがえるが、そればかりでなく、風土との関わりを通して美術家たちそれぞれの感性のありかが具体的に、ヴィヴィッドに示されるので、実感をもって読み進めることができた。作品や当時の写真などカラー図版も豊富。台湾美術史の入門としてなかなか良い本だと思う。

 大陸からの漢人渡来者によって中国画の伝統が定着。日本による植民地支配が始まったばかりの頃は日本人側にも中国の書画に詳しい人がいたので在来の知識人との交流があった。林朝英の水墨画は尾崎秀眞によって見出されている。その後、台湾縦貫鉄道の開通によって台湾全土の近代化が推し進められたが、鉄道から離れた鹿港には漢人文化の伝統が濃厚に残ったという。

 日本統治期の教育制度によって西洋画が本格的に導入される。本書全十章のうち、第二~七章までがこの時代に割かれている。とりわけ、イギリス風の水彩画家で台北師範学校で教鞭をとった石川欽一郎の名前が頻繁に出てくる。1920~30年代は台湾において新文化運動が盛り上がった時期である。石川は学校の内外を問わず、近代知識を渇求する青年たちに西洋画を伝え、後年、台湾美術を牽引することになる多くの画家に影響を与えたという。石川の最初の弟子で家業を継いで実業家となった倪蒋懐が台湾の美術界を財政的に支援、東京に留学した美術学生たちに仕送りもしていた。1927年に台湾美術展覧会(台展)、1934年には台湾人を中心に台陽美術協会が設立され、美術を志す人々の求心力として働いた。

 石川の他には、フォービズムの鹽月桃甫、日本画の郷原古統、木下静涯といった日本人も見える。台湾人も日本人も、洋画か日本画かを問わず、台湾の風土の美しさを描いた。美術史の見直しが郷土意識・本土意識の高まりと連動するのはそうしたところによるのだろう(戦後の国民党政権下の教育では、大陸のことは教えても台湾のことはあまり取り上げられなかった)。なお、戦後、中華民国となってからも「国画」という名目で日本画を描く人がいたが、それは「国画」ではないとして排除され、「膠彩画」と呼ばれるようになった。

 台北のモダンな街並を闊歩する人々を撮った写真家の鄧南光、台湾人画家が注意を払わなかった庶民生活に目を向けて『民俗台湾』に「台湾民俗図絵」を連載した立石鐵臣の存在も目を引く。立石は台陽美術協会の発起人に唯一の日本人として名前を連ねている。

 戦後は国民政府の移転と共に中国画が主流となり、アメリカから前衛美術も流入した。1970年代以降の郷土文学論争の中で台湾美術の見直しも始まった。

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ジョナサン・マンソープ『許されざる国:台湾の歴史』

Jonathan Manthorpe, Forbidden Nation: A History of Taiwan, Palgrabe Macmillan, 2009

 先史時代、海賊跋扈の時代、オランダ統治期、鄭氏政権、清朝、台湾民主国、日本統治期、国民党政権、アメリカ・中国の思惑の絡んだ冷戦期における複雑な立場も絡めて現代政治に至るまでの台湾の通史を描き出している。叙述は読みやすく、たとえて言うなら中公新書の『物語~の歴史』シリーズのような感じ。論調は民主派・本土派に同情的である。著者はカナダのジャーナリストらしい。日本語文献は使えないようで日本統治期についての記述は薄いが、全体としてはよくまとまっている(台湾の親日傾向については、差別はあったが近代化が進められたこと、清朝・国民党と比べて統治が合理的で腐敗はなかったことが挙げられており、通説の範囲内)。

 2004年総統選挙における陳水扁狙撃事件から説き起こされるあたりはいかにもジャーナリストらしい書き方だ。海峡両岸の緊張関係の中で“台湾意識”の行方を探るところに関心のあることが示される。エピローグでは、2008年総統選挙を踏まえ、事実上独立しているが中国を刺激したくないという考え方が国民の間で主流となっている中、国民党の馬英九が“台湾意識”を無視できない一方で、民進党もアイデンティティ・ポリティクスの行き過ぎではアピールできないことが指摘される。

 近代以前の歴史であっても、政治的立場によって捉え方が異なってくることがある。例えば、先史時代において台湾への最初に来住者は何者だったのか。南方から舟で流されてきたのか、それとも大陸から海峡を渡ってきたのか? いずれの遺跡も見つかっているのだが、日本の学者は南方系を強調し、中国の学者は大陸渡来を強調すると本書では指摘される(ただし、大陸渡来系の遺跡の存在を最初に指摘したのは金関丈夫・国分直一であったことには注意を喚起しておく)。こうした見解の相違が最も鮮明になるのが鄭成功の位置付けである。海峡両岸の双方とも、オランダ=ヨーロッパ帝国主義を駆逐した英雄という点で評価が一致する。国民党が明朝復興の大義を掲げて大陸反攻の機会をうかがっていた点で蒋介石になぞらえるのに対し、台湾独立派にとっては鄭氏政権の下で台湾の本格的な開発が進められた点で台湾人アイデンティティのシンボルとみなされる。日本統治期においては鄭成功の母親が日本人であったことが強調され、神格化された。

 歴史をはるか振り返るときでも、そこに現在の価値意識が投影される点で「あらゆる歴史は現代史である」と喝破したのはベネディット・クローチェであった。歴史の捉え方と現代政治とは連動しており、陳水扁が死に物狂いで支持をかき集めようとしたとき、二・二八事件の記憶を動員したことはひときわ目立った(ただし、いまや白色テロを知らない世代が有権者となりつつある)。その点では、欧米人によって距離をもって書かれた歴史書も、当事者ではないからこそ一読の価値があるだろう。日本人の場合には植民地支配の問題があり、それを否定するにせよ、肯定するにせよ、ナーバスになってどうしても過剰な意識を持ちやすい。

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