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2009年9月27日 - 2009年10月3日

2009年9月29日 (火)

陶晶孫のこと

 先日、用事があって千葉県市川を訪れた折、郭沫若記念館があるのを知って立ち寄った。郭沫若は蒋介石に追われて、1928年、日本へ亡命、村松梢風の紹介で市川に居を構えたのだという。日中戦争勃発後は、日本人である妻・をとみを残して中国へ戻った。彼の旧家を復元・移築して記念館として整備されている。

 をとみの妹みさをと結婚したのが、郭の九州帝国大学医学部での友人・陶晶孫である。最近、金関丈夫のことを調べていたら、陶の名前もたまたま出てきたばかりだったので気になった。日本の敗戦直後の1946年、陶は台北帝国大学の後身・台湾大学医学院に衛生学科教授兼熱帯医学研究所長として赴任、留用されていた金関とも親しく付き合ったことが金関のエッセイに記されていた(たしか『孤燈の夢』に収録されていたと思うが、図書館で借りて読んで、いま手元にないので確認できない)。同じく衛生学者の杜聡明とも交流があったはずだ。

 陶は大学で医学教育に打ち込むが、二・二八事件や続く国民党による白色テロの暗い影は身近に迫っていた。1949年、大陸で中華人民共和国が成立、義兄・郭沫若がその要職に就いたため、陶自身も特務警察のブラックリストに載ったことを知る。1950年、日本へ亡命、市川に落ち着いた。倉石武四郎の招聘で東大文学部講師となったが、1952年、病死。死後、彼の日本語の文章を集めて『日本への遺書』(新版、東方書店、1995年)が刊行された。簡潔で、どこかユーモラスな筆致が人柄をしのばせる。

 陶晶孫は1897年、中国・無錫に生まれ、1906年、父に従って来日、東京・神田の錦華小学校、府立一中、一高、九州帝国大学医学部、東北帝国大学理学部に学ぶ。医学者として身を立てるが、文学にも造詣が深く、1921年には郭沫若らの創造社に加わった。

 厳安生『陶晶孫 その数奇な生涯──もう一つの中国人留学精神史』(岩波書店、2009年)は、陶晶孫を軸に郭沫若や郁達夫も絡め、大正教養主義の真っ只中に多感な青春期を送った中国人留学生の精神形成を描いている。彼らはいわゆる“旧制高校”的スノビズムに浸る中でヨーロッパ志向の高い教養を身につけた。彼らの文学活動の背後に、新中国建設という意気込みだけでなく、文学青年たちの同人誌ブームや大正生命主義などを読み取る指摘が興味深い。雑誌『創造』というタイトルも、確かにベルグソン『創造的進化』を想起させる。

 陶は1929年に中国へ戻る。上海の東南医学院に勤めたが、大学とは名ばかりの実態に失意、“魔都”上海の喧騒に耽溺する。文章を書き、プロレタリア演劇を立ち上げ、尾崎秀実やアグネス・スメドレーなどとも交流。1930年からは上海自然科学研究所に入った。そこでの陶の生活ぶりは佐伯修『上海自然科学研究所──科学者たちの日中戦争』(宝島社、1995年)に見える。この本は上海自然科学研究所に関わった日中の多彩な人物群像を詳しく調べ上げており、意外な人的つながりも見えてきたりしてとても面白い。できれば索引があればありがたかった。

 郭沫若記念館のガイドの方と話していて、陶晶孫の名前を出したら、彼の家は近くにあって、「子孫の方が暮らしていますよ、だいたいこの辺りです」と地図で教えてくれた。駅まで戻る途中である。風景はだいぶ変わっているはずだが、彼の歩いたと思しき道を私もそぞろ歩いた。

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2009年9月28日 (月)

連温卿について

 先日、『民俗台湾』のバックナンバーをパラパラ拾い読みしていたら、連温卿「台湾民族性の一考察」という論文が目に付いた。全6回、第4号(昭和16年10月)から第11号(昭和17年5月)まで断続的に連載されている。なぜ目に付いたかと言うと、他の論文・報告・随筆と比べて文体が異質だったから。生産手段、剰余価値といった用語、あの独特に生硬な論理立て、明らかにマルクス主義である。連温卿という名前は台湾議会設置請願運動で目にした記憶はあった(たとえば、若林正丈『台湾抗日運動史研究』増補版、研文出版、2001年)。『民俗台湾』掲載号の筆者紹介には「台湾籾殻灰販売組合常務理事、在大稲埕」とある。

 連温卿という人の概略については戴國煇「台湾抗日左派指導者連温卿とその稿本」(『史苑』第35巻第2号、1975年3月)、伊藤幹彦「台湾社会主義思想史──連温卿の政治思想」(『南島史学』第60号、2002年11月)を参照した。

 連温卿は台北出身(生年については、若林書では1893年、wikipediaでは1894年、伊藤論文では1895年となっている。没年は1957年)。公学校卒業以上の学歴はない。エスペラント協会に入ってから社会問題に関心を抱くようになり、台北在住のエスペランティスト山口小静の紹介で山川均・菊栄夫妻との交流が始まった。台湾議会設置請願の運動母体となった台湾文化協会でも活動。林献堂・蔡培火らの改良主義派、蒋渭水らの民主主義派とも一線を画し、王敏川と共に社会主義派の中心となる。林、蒋らの脱退・分裂によって社会主義派が文化協会を乗っ取るが、連もイデオロギー闘争(福本イズムvs.山川イズム)に敗れて、1929年に除名された。

 沖縄出身のエスペランティスト比嘉春潮は、エロシェンコの手記を送ったのをきっかけに連温卿と親しく付き合うようになったと記している(『沖縄の歳月──自伝的回想から』中公新書、1969年、102‐103ページ。本書ではR氏となっている)。山川菊栄『おんな二代の記』(平凡社・東洋文庫、1972年)にも、山口小静の思い出と共に連についての記述がある(248‐251、342‐354ページ)。山口からの手紙が引用されており、彼女は特高から「内地人がエスペラントをやる分には構わないが、台湾人がやれば反日的とみなす」と言われたらしい。山川均「植民政策下の台湾」(初出『改造』1926年5月号)という論文は連の資料提供に基づいて執筆されたという(『山川均全集第七巻』勁草書房、1966年、258ページ)。

 早逝した山口小静の追悼文を山川均が書いており、所収の『山川均全集第五巻』に山口と連の二人が並んだ写真も掲載されている(200ページ)。山口という人は、細身で勝気な表情をした実に凛々しい女性だ。父親は台湾神宮の神官であった。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)在学中に社会主義運動と関わり、にらまれていたが、病気で退学、台北に帰郷。小学校の教師をしながらエスペラント運動に従事していたが、無理がたたって23歳で病死した。

 さて、『民俗台湾』掲載の「台湾民族性の一考察」の話に戻る。経済的発展段階によってオランダ統治期以来の台湾史を把握する趣旨の論文なのだが、清代の台湾封鎖政策によって大陸との経済的連携から離れた、従って、台湾への移住者は中国人ではあっても、「生活の異変を通じて新たなる民族の意識を昂揚し、把握し、共通化ならしめるとともに、経済的独立を築いてゆくのであった」という論点が目を引く。同様の論旨は他の民俗学的な考察でも一貫している。「牽手考」(『民俗台湾』第26号、昭和18年8月)は妻を意味する「牽手」という言葉の語源的な考察、「媳婦及び養女の慣習について」(『民俗台湾』第29号、昭和18年11月)は妻にする前提で幼女をもらい受ける習俗について考察しているのだが、いずれも清代の台湾封鎖政策が移住男性の結婚難をもたらし、平埔族との婚姻が進んだことが背景にあると指摘する。台湾の経済的独立、漢族の平埔族との混血・習俗的混淆、こうした論点は台湾人としての民族的独自性を強調する方向につながる。

 社会主義運動に挫折して民族学・民俗学に向かった人は珍しくない。たとえば、石田英一郎、橋浦泰雄といった名前が思い浮かぶ。『民俗台湾』に寄稿した台湾人の顔触れにも、連温卿のほか、プロレタリア文学で知られる楊逵がいた。連温卿の場合には、マルクス主義に基づいて日本の帝国主義を批判すると同時に、台湾の経済史的・民俗学的考察を通して台湾独立論につながる議論を示していた点にも興味がひかれる。

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2009年9月27日 (日)

金関丈夫『龍山寺の曹老人』

 戦後間もなく、天皇制の呪縛から解き放たれたのを機に、日本民族起源論が活発になった。江上波夫、岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の座談が有名だが、こうした一連の議論の中で金関丈夫の名前も見えたことが、私の金関についての第一印象であった。本職は解剖学だが、京大で清野謙次から人類学、浜田青陵から考古学の手ほどきも受けている。ヨーロッパ留学を経て、台北帝国大学医学部に赴任、森於菟(鴎外の長男)と共に解剖学教室の設立にあたった。以前に岡書院発行の民族学・考古学雑誌『ドルメン』の編集に関わった経験もあり、池田敏雄から『民俗台湾』創刊の相談を受けたときには、肩のこらない学術雑誌という趣旨で『ドルメン』をモデルにするよう提案している。

 金関のジャンルを越えた教養の幅広さはよく知られている。彼の著作で入手しやすいのは『木馬と石牛』(岩波文庫、1996年)であろうか。小さい頃からの文学好きで、古今東西の説話・伝説の類を比較考証するこの本にも、やわらかい学術エッセイとしての軽妙な筆さばきが冴えている。

 日本の敗戦後、金関は留用されて肩書きは台湾大学教授となった。これからどうなるものやら、と日本人がみな浮き足立つ中、金関は「こんなときこそ勉強するのが一番だ、それがイヤなら小説でも読むことだな」と話していたらしい(池田敏雄「敗戦日記」『台湾近現代史研究』第4号)。そうした不安な状況下に書いた連作探偵小説が『龍山寺の曹老人』である(金関丈夫『南の風』[法政大学出版局、1980年]所収)。探偵小説好きが昂じて自ら執筆した医学者としては他に木々高太郎(林髞)も思い浮かぶ。金関は戦争中に『船中の殺人』も出版している(私は未見)。探偵小説に詳しい評論家の尾崎秀樹は当時、台北の中学生で、父・秀真(ほつま)の紹介で金関の研究室を訪問したこともあり、『船中の殺人』を買って読んだことを回想している(『えとのす』第21号)。なお、金関は林熊生というペンネームを用い、西川満主宰の『文藝台湾』同人名簿にもこの名前で載っている。

 龍山寺は台北・萬華の古刹。曹老人は日がな一日龍山寺の境内に座っているだけだが、物事はすべてお見通し。ある意味、ミス・マープルのような感じか。推理をめぐらす時は眼光鋭く、終わるとまたぼんやりした表情に戻る。口コミ・ネットワークで街の情報にも精通している。台湾の寺廟に行くと、何するともなくボーっと座っている老人を見かけることがあるが、ひょっとしたら、うかがい知れぬ智慧を秘めているのかもしれない、という着想があったのだろうか。堂守の范老人はワトソン、いつも事件を持ってくる陳警官はレストレード警部といった役回り。最後に関係者一同を集めて謎明かし、「犯人はお前だ!」(とは言わないが)という感じにしめくくられるのもセオリー通り。心霊写真や霊媒(台湾の関三姑)といった道具立ては、心霊現象に関心を寄せていたコナン・ドイルを連想させる。金関のことだから、しっかり読んでいたはずだ。

 『民俗台湾』第29号(昭和18年11月)では、媳婦仔の特集が組まれている。息子の嫁にする前提で他家から幼女をもらい受け、事実上、奴隷働きさせる習俗である。連作中の一篇「観音利生記」は媳婦仔の少女を救い出す話だ。

 民俗採集は社会的慣習のありのままを記述するというだけでなく、その慣習にはらまれた不合理な要素も際立たせる。少女作家・黄氏鳳姿は萬華の習俗を作文につづりながら、自分の身辺の中世的に暗い部分が目に付いて、書くのをやめたいと思ったところ、池田敏雄から説得されたことを回想している(池田鳳姿「『民俗台湾』の時代」、復刻版『民俗台湾』第五巻[南天書局、1998年]所収)。植民地社会における習俗のマイナス面の改善を図ることは“文明化”なのか、それとも“植民地化”なのかという議論はなかなか難しいところだ。“文明化”という大義名分の下、政策当局者の統治合理化という思惑による強制に転化するおそれが常にある一方で、気付いてしまったものを放っておくわけにもいかない。ただし、『民俗台湾』の編集スタンスとしては、“皇民化”という形での台湾社会に対する日本文化の不合理な押し付けに反対しており、媳婦仔のようなマイナス面に向けられた視線にはある種のヒューマニズムが動機として息づいていたことには留意しておく必要があるだろう。『龍山寺の曹老人』は娯楽小説ではあるが、台湾生活の中での見聞が織り込まれている点でも興味深い。

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