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2009年9月20日 - 2009年9月26日

2009年9月26日 (土)

入田春彦という人

 楊逵(1905~85年)「新聞配達夫」(『日本統治期台湾文学台湾人作家作品集第一巻』[緑蔭書房、1999年]所収)という小説に目を通したことがある。向学心はあるが貧しい台湾人少年、右も左も分からぬ東京で学資を稼ぐために新聞配達店に飛び込んだが、店主の狡猾なやり口で身ぐるみはがされてしまう、という話。1934年に『文芸評論』賞を受賞、日本の文壇で認められたほか、中国語にも翻訳され、台湾人によるプロレタリア文学の代表作とされる。楊逵自身、東京で苦学し、職を転々としたことがあるので、そうした中で味わった体験がこの小説に織り込まれているのだろう。

 なお、当時、台湾人で上級学校へ進学・留学するのは富裕層にほぼ限られていて、楊逵のように苦学した人は珍しいと言われる。邱永漢「濁水渓」にも、東京で女の子から“台湾のプリンス”という眼差しを受けるシーンがあった。楊逵は東京で労働運動に身を投じたが、朝鮮人はそれなりに多数いても、台湾人はほとんどいなかったという(楊逵・戴國煇・若林正丈「台湾老社会運動家の思い出と展望」『台湾近現代史研究』第5号、1984年12月)。このインタビューで戴國煇が、当時の台湾人には日本人の尻馬に乗って朝鮮人を馬鹿にする風潮がありましたね、と水を向けると、楊逵は労働運動の内部ではそういう差別をするような雰囲気はなかったと回想している。「新聞配達夫」にも、同じく虐げられている者同士として日本人労働者とも連帯する気分が記されている。

 「新聞配達夫」を読み、是非作者と会って話をしたいとやって来たのが入田春彦(にゅうた・はるひこ、1909~38年)である。借金に首の回らない楊逵の苦境を知って百円を用立ててくれた。以降、家族ぐるみの付き合いが続く。以下の記述は張季琳「楊逵の魯迅受容──台湾人プロレタリア作家と総督府日本人警察官の交友」(『アジア遊学』第25号、2001年3月)を参照した。

 入田は台中勤務の警察官であったが、たいした給料でもなく、百円を出すというのはよほどの気持ちによるのだろう。もともとセンシティヴな文学気質の人で、文芸誌や新聞の文芸欄によく投稿していた。彼が「新聞配達夫」のどこに感動したのかはよく分からない。根がヒューマニストであるから、植民地の警察という抑圧機構の歯車となり、その中で翻弄されている不本意な憂鬱を重ね合わせたのだろうか。

 1938年、入田は警察を辞めさせられて三ヵ月後、アパートの自室で自殺した。左翼運動との関わりが失職の理由だったらしい。台中警察の問題について内部告発を準備していたのだという推測もある。遺書や日記には芥川的なメランコリーが記されていた。

 台湾に身寄りのない入田の遺骨は楊逵が引き取り、蔵書も引き継いだ。多くの文学書の中に改造社版『大魯迅全集』全七巻もあった。当時、台湾で魯迅は禁書扱いで、それを持ち込めたのは日本人警察官としての特権だったとも言える。楊逵は入田の蔵書を通して魯迅作品を本格的に読み込むことができた。なお、戦後の国民党政権下、楊逵は逮捕されて緑島監獄に送られているが、特務警察の追及が厳しくなったときに入田の蔵書は手放さざるを得なかったという。

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2009年9月25日 (金)

黄栄燦という人

 「恐怖的検査──台湾二二八事件」という木版画は私も何かで見た覚えがある。作者は黄栄燦という人。重慶出身の美術家である。1945年、日本の敗戦、国民政府の進駐という状況の中で台湾にやって来た。二・二八事件というと本省人対外省人の対立構図が強調されるが、目撃したその凄惨なあり様を作品として残したのも外省人であったことは記憶しておいていいだろう。

 以下の記述は、黄英哲「台湾における木版画家黄栄燦の足跡(1945-1952):魯迅思想伝播の一形態として」(『アジア遊学』第25号、2001年3月)、陳藻香「濱田隼雄のヒューマニティ:「黄榮燦君」と「木刻画」」(『天理臺灣學會年報』第七号、1998年6月)を参照した。黄栄燦については横地剛『南天の虹』という本もあるらしいが、入手できておらず未見。

 黄栄燦は1916年の生まれ。はっきりとしたことは分からないが、魯迅の木版画運動に学んだ人だという。魯迅が木版画に深い関心を寄せていたことは内山嘉吉・奈良和夫『魯迅と木刻』(研文出版、1981年)を参照(ただし、本書に黄栄燦の名前は出てこない)。魯迅は木版画ではなく敢えて「木刻」という表現を用いた。木版を刻むという能動的行為に着目し、思想表現としての役割を意識したからだろうか。魯迅が関心を持った理由としては、木版はもともと中国起源だが西欧・日本を経て里帰りした芸術だと考えたこと、識字率の低い民衆に連環図画の普及を意図していたこと、忙しい中でもわずかな時間で製作できる簡便性、などが挙げられる。なお、本書には、成城学園で小学生に美術を教えていた内山嘉吉が、夏休み、上海の兄・完造のもとに滞在中、魯迅から請われて中国の美術学生相手に木版画の基礎を教えた経緯が記されている。

 魯迅の流れを汲むリベラリストは大陸では蒋介石から弾圧を受けていたため、新天地に希望を託す思いで台湾にやって来た人々がいたらしい。黄栄燦も抗日戦争を経て、ジャーナリスト、文化工作担当者という身分で来台。その頃留用されていた日本の文化人とも交流した。

 日本の敗戦を迎え、無為な生活を送る中でも何か文化的な活動をしようと西川満が『文藝台湾』の仲間だった濱田隼雄と相談して制作座という劇団を立ち上げていた。舞台をしつらえた西川の自宅には日本人ばかりでなく中国人も観に集まって来たらしい。その中に黄栄燦もいた。西川、濱田らは話がはずむ中で黄が版画に関心を持っていることを知り、画家の立石鉄臣を紹介した。黄が立石と一緒に池田敏雄の自宅にもよく訪れていたことは池田の「敗戦日記」に見える(『台湾近現代史研究』第四号)。池田は黄のことを「だいぶ進歩的な思想を持つ人のようだ」と記している。池田が編集実務を担っていた『民俗台湾』の発行元、東都書籍は東寧書局と名前を変えていたが、黄は池田の紹介でこれを買収、新創造社を立ち上げる。

 陳藻香論文では濱田の記した黄栄燦の人物像が紹介される。互いに言葉の分からない二人が、歩きながら道に文字を刻んで筆談するシーンが印象的だ。朝早くにやって来て「早々! 早々!」と声をかけるので、彼のことを濱田の子供たちは「チャオチャオさん」と呼んでいたという。ある日、濱田が「あなたのお子さんは?」と尋ねると、黄は言いにくそうに、重慶で生死不明であることを答える。濱田は日本軍による重慶爆撃に思い至る。彼自身、もともと社会主義思想に共鳴していたものの、戦時中は皇民化政策に沿った言論活動を展開、一時は戦犯指名の噂まで流れたこともある。濱田の自責の戸惑いを見て取った黄はニコニコした表情でただちに「これも運命だから仕方ない。それに、戦争では日本人にも多くの犠牲者が出た」という趣旨のことを筆談紙に書いて寄こした。台湾進駐の国民党軍のみすぼらしい姿を見て、日本人には軽侮の念が、台湾人には失望感が広がっていた。そうした中、濱田が黄栄燦の人となりを知って、はじめて日本の敗北を実感したという心理的な機微の移り変わりが興味深い。

 濱田は1946年4月に日本へ引き揚げた。翌年、二・二八事件がおこり、それが外省人に対する本省人の暴動であることを伝え聞いて、「黄君は大丈夫だろうか? 文化人だから標的にはされないだろうが…」と心配している。黄栄燦は本省人の標的にはされなかったものの、戒厳令下、新創造社は閉鎖されてしまう。教職に就いたが、続く国民党による白色テロの中で逮捕され、1952年、処刑された。

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2009年9月21日 (月)

『民俗台湾』の評価をめぐって

 植民地統治期台湾における広い意味での人類学的調査の経緯を大雑把にまとめると、第一に、後藤新平の発案による旧慣調査から始まる。統治を実効的ならしめるにはまず実態をありのままに把握する必要があるという政策立案上のプラグマティックな発想が背景にあり、後藤の「ヒラメの眼をタイの眼にすることはできない」という言葉は有名だろう。漢族系社会の調査が中心であり、織田萬・岡松参太郎など法律専門家の名前が見えるのが特徴である。山地の原住民系社会にはまだ警察による実効支配が及んでいなかったが、第二段階として、そこに先鞭をつけた伊能嘉矩、鳥居龍蔵、移川子之蔵(台北帝国大学、土俗・人種学)、浅井惠倫(台北帝国大学、言語学)、鹿野忠雄などが続く。こちらは純粋に学術志向で、政策的思惑とのつながりは薄い。ところで、この間、漢族系社会の民俗調査は進んでおらず、第三段階として、その空白を埋めるべく金関丈夫(台北帝国大学、解剖学)・池田敏雄らを中心に『民俗台湾』が創刊された(1941年)。なお、西川満の『文芸台湾』にも民俗部門があり、当初は池田・黄得時・楊雲萍などの名前も見えたが、こちらはむしろ文学志向に偏っていたため池田らは離れていく。

 1930年代後半から皇民化運動が始まり、さらに戦時体制一色となるにつれて台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという焦燥感が『民俗台湾』の動機としてあった。その点では皇民化運動には批判的であり、編集実務を取り仕切っていた池田の身辺には特高の影もちらついていたらしい。それでも存続できたのは、当局から言質をとられないよう誌面構成に苦心していたこと、金関の台北帝国大学教授という官の権威を前面に立てたこと、総督府側にガス抜きの思惑があったかもしれないことも指摘できるだろうか。台湾人からの寄稿も募り、調査者=日本人、被調査者=台湾人という対峙的構図ではなく、台湾人自らによる調査を促したことも特筆される。後に池田敏雄夫人となる少女作家・黄氏鳳姿が一例だが、病躯を押して『民俗台湾』に寄稿し続けた黄連發という人の執念も目を引く。

 『民俗台湾』同人の自己評価はどうであったか。たとえば、中村哲(台北帝国大学、憲法学・政治学)は「『民俗台湾』というものは、政府側の天皇信仰を民間祭祀に代って押しつけようとしたことに反対したのです。それで、この雑誌が土着文化や土地のナショナリズムのはけ口になった。そういうつもりで私はやった。金関さんもひろいヒューマニズムを意識していた」と語っている(座談会「中村先生を囲んで」『沖縄文化研究』第16号、1990年3月)。池田敏雄は「わざわざ民俗資料の蒐集記録をいいたてたのは、当時台湾人の伝統文化をすべて否定し、破壊して日本化を強制しようとする総督府の皇民化政策と、これを支持する風潮に対する批判があってのことであった。したがって『民俗台湾』は、総督府当局からみれば、皇民化運動と相いれないものであり、決して歓迎すべき雑誌ではなかったのである」と記す(池田敏雄「植民地下台湾の民俗雑誌」『台湾近現代史研究』第四号、1982年10月)。さらに池田は、台湾人の同人であった黄得時(戦後、台湾大学教授)の次の回想を引用している。「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」(同上)。

 なお、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍(戦後、台湾大学教授)が「冷たい」と非難するという一悶着があり、後述する戦後の『民俗台湾』批判ではこの一件が必ず取り上げられる。しかし、皇民化運動という時代的空気の中、当局から言質を取られないよう多少は筆も曲げねばならなかった事情を忖度せねばならないし、その後、非難したはずの楊自身も『民俗台湾』に寄稿している。楊の故郷・士林の特集が組まれて楊はホスト役として『民俗台湾』関係者を招待している。彼らは個人的に面識があったわけだから、誌面には表われないところで話し合って双方の納得は得られていたと考えるのが自然だろう。戦後になって楊は「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」と記している(『えとのす』第21号、1983年7月)。

 1990年代後半以降、『民俗台湾』に批判的な論考が現われ始める。嚆矢を成すのが川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)である。『民俗台湾』掲載の柳田國男を囲む座談会における柳田の発言から、日本を軸とした中央‐周縁のネットワークの中で植民地民俗学を構想する意図を読み取る。その上で、出席者の一人である金関にはレイシズム的な発想があった、『民俗台湾』は『文芸台湾』と同種のエキゾティシズムに惑溺していた、と論じている(なお、本書で示された視点への賛否はともかく、戦時下における民俗学・民族学・人類学の諸相を大きな視野で捉えて議論の一つのたたき台を提示している点ではやはり労作だと私は思っている)。

 小熊英二「金関丈夫と『民俗台湾』──民俗調査と優生政策」(篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』[柏書房、2001年]所収)も金関には解剖学者としての優生思想があったと指摘、その政策的思惑を台湾人寄稿者はおろか池田・国分など良心派日本人にすら隠していたのだ、と論じている。日本の植民地統治における優生思想批判の意図は理解できるのだが、そこに金関を結び付ける論理立てがあまりにも強引すぎる(小熊論文の推測の強引さについては後述の坂野論文も注で指摘している)。金関の趣意書に「冷たさ」を嗅ぎ取った楊雲萍の直観は正確だったと言うのだが、楊自身がその発言を撤回していることは前述の通りである。台湾人寄稿者は利用されただけ、という言い方がされるが、たとえば病死した黄連發への金関による追悼文には彼への尊敬の気持ちが出ていて、少なくとも私はそのような断定にためらいを感ずる。なお、『民俗台湾』が台湾漢族のナショナル・アイデンティティ確認の機能を果たしたという指摘は、先に引用した中村哲の発言と符合している。ただし、小熊は「意図せざる結果だった」と消極的な位置付けに弱めているのだが。

 坂野徹「漢化・日本化・文明化──植民地統治下台湾における人類学研究」(『思想』第949号、2003年5月)は科学史の立場から「他者」を「文明化」する人類学者の態度に着目する。たとえば日本による植民地化以前、原住民に対しては「生蕃」「熟蕃」と華夷秩序に基づく区分けがなされていたが、それに代わって全島レベルで「文明化」さらには「皇民化」が進められた。それは、普遍的な「文明化」なのか、それとも特殊な「日本化」だったのか?と問題提起をする。『民俗台湾』については、「文明化」理念の中に「皇民化」=他者への植民地化暴力がはらまれている矛盾を隠蔽したと指摘する。

 どんなに客観性を標榜したとしても、観察する者/観察される者という非対称的な関係性そのものがある種の権力性・暴力性を帯びてしまう。そこに無自覚であってはならないと反省を促した点でポスト・コロニアルの議論は有益な視点を示している。ただし、『民俗台湾』をめぐってこれまで提起されてきた「大東亜民族学」の序列意識、植民地統治における優生思想、「文明化」言説に内在する「植民地化」、それぞれ考えねばならない論点ではあるのは確かなのだが、どれもテーマ設定初めにありきで、当事者の生身の葛藤が無視されるきらいがある。川村、小熊、坂野論文のいずれもが『民俗台湾』創刊趣意書に対して楊雲萍が「冷たい」と反発したことを取り上げているのだが、彼らの議論の進め方そのものにも欠席裁判の冷たさ、傲慢さをどうしても感じてしまう。

 川村書を読んだ国分直一は「『民俗台湾』の運動はなんであったか──川村湊氏の所見をめぐって」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を寄稿した。そこには師匠として尊敬する金関が不当に貶められているという苛立ちが行間からにじみ出ているが、実直な性格の国分はそれをあらわにはしない。むしろ注目すべきなのは、上下の優劣関係のない東アジアの比較民俗学を目指すべきだという川村の主張に共感を示しているところだ。国境を越えた広がりを持つ先史文化の民族考古学的探求に一生を捧げた国分の問題意識がまさにそこにあったからに他ならない。

 呉密察「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編著『台湾の「大東亜戦争」──文学・メディア・文化』[東京大学出版会、2002年]所収)は、『民俗台湾』に台湾の伝統習俗消滅への危機意識、それを記録しようという熱意のあったことを確認し、国分の川村への反論も当然だとする。他方で、それは皇民化政策の時局的転換のすき間をぬって登場し得たものであったと指摘。川村が「大東亜民俗学」と問題提起をした以上、これを避けて通ることはできないと結ぶ。

 ある学知的構造は一人の人間の主観的な情熱によって容易に動かせるものではない。その中に組み込まれた者は、自覚的にせよ、無自覚的にせよ、構造的加害者として一律に断罪されねばならないのだろうか? 三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐるこれまでの議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかける。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には共感できる。総じて三尾論文の視点が私には最も説得的に感じられた。

〔追記〕『民俗台湾』の全体像を知りたい場合は(復刻されているのでこれを読むのが一番なのはもちろんだが、私も時間がとれないのですべて熟読したわけではない)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)がよくまとまっている。第一部では寄稿された論文・随筆のすべてを検討した上で全体的な傾向や特徴が論点ごとに整理され、第二部は編集の中心となった金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、中村哲、国分直一の人物論となっている。日本語で書かれているが、台北の出版社なので入手が面倒かもしれない。

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2009年9月20日 (日)

移川子之蔵という人

 移川子之蔵という名前を見てすぐにピンとくる人はどれくらいいるだろうか。台北帝国大学土俗・人種学講座の創設者である。私は学生のころ考古学に関心があったこともあって名前くらいは見覚えがあったが、勝手に“いがわ・しのぞう”などと読んでいた。正確には“うつしかわ・ねのぞう”と読む。ところが、本人はローマ字でサインするときUTSURIKAWAと書いたという。アメリカ留学中、日本から来る書簡の宛名がたいていUTSURIKAWAとなっており、それを見たアメリカ人からもそう呼ばれて、何となく定着してしまったらしい。細かいことにはこだわらない、おおらかな人だったようだ。

 おおらかと言えば、こんなエピソードもある。東大で開催された第一回人類学会・民族学会連合大会で特別講演を行なったとき、所定時間を平気で1時間以上もオーバーした。題目は「未開民族における時の観念について」。身を以て実例を示したのかと語り草にもなった。とにかく時間を守らない人で、講義には遅刻するし、列車にも乗り遅れる。原稿の締切も守らないし、その上じっくり考えて書くタイプなので、業績の割には刊行された論文点数は少ない。飄々とした人格なので、それでも許されていた。

 移川の事蹟については、馬淵東一「移川先生の追憶」(『馬淵東一著作集第三巻』[社会思想社、1974年]所収、初出は『民族学研究』第十二巻第二号、1947年)、宮本延人「私の台湾紀」第一~十六回(『松前文庫』第三十~四十五号)、国分直一「移川子之蔵──南方民族文化研究のパイオニア」(綾部恒雄編著『文化人類学群像[3]日本編』[アカデミア出版会、1988年]所収)を参照した。宮本は慶應義塾大学での教え子で移川の台北帝国大学赴任にあたり助手として同行(戦後は東海大学名誉教授)、馬淵は台北帝国大学での唯一の弟子である(戦後は東京都立大学名誉教授)。

 移川は1884年、福島県で生まれ、中学卒業後、アメリカに留学。イリノイ大学、シカゴ大学、ハーバード大学で学ぶ。当初の志望は美術・建築だったが、民族学・人類学に変更した。「僕はイマジネーションが多すぎるせいか、自分の設計した建築は倒れそうな気がして」と語っていたらしい。ハーバードでは南太平洋の民族文化の専門家として名高いディクソン(Roland B. Dixon)の指導により“Some Aspects of Decorative Art of Indonesia”で博士号を取得(この博士論文には後年もしばしば手を入れて推敲を重ねていたらしいが、公刊はされなかった)、ハーバードの海外留学生として東南アジア・東インドに派遣された。

 1919年に帰国したが、当時の日本には人類学で職はない。東京商科大学で英語を教えていたが、総長の福田徳三が訪米中に移川の評判を聞いて慌てて彼を教授にしたというエピソードを宮本は記している。慶應で人類学の講義を持ったが、1928年、台北帝国大学設立にあたり、土俗・人種学講座の教授として赴任する。

 土俗・人種学とは聞き慣れない表現だが、移川は自らの講座名を英語でInstitute of Ethnologyと表記した。“民族”学というと台湾の民族運動を連想させるから総督府に忌避されたという噂のあったことを馬淵は記しているが、移川は名前などどうでもいいと気にしていなかった様子である。台北帝国大学に人類学の講座が設置されたのはもちろん総督府に植民地政策の意図があったからだが、移川自身は純粋に学究肌の人で、政治的なこととは没交渉だったようだ。当初は形質人類学など自然科学分野もカバーせねばならなかったが、森於菟・金関丈夫らによって医学部に解剖学講座が設けられて移川たちは人文分野に専念できるようになった。隣接分野としては言語学の小川尚義、浅井惠倫もいたほか、学外だが鹿野忠雄も調査にしばしば同行した。

 移川は具合の悪い片足を引きずりながらも宮本・馬淵らを連れて積極的に原住民社会のフィールドワークに出かけた。台湾西岸の漢族系社会と比べて東岸の原住民社会は極めて多種多様であること、部族の系譜や移動歴を古老が詳しく記憶していることに驚き、彼らの語りを記録・整理、『高砂族系統所属の研究』にまとめた。調査行の様子は宮本の回想録に具体的に記されており、なかなか興味深く読んだ。移川たちの関心は台湾原住民と南洋民族とのつながりに重きが置かれていたが、他方で、中国大陸の江南先史文化との関わりについては積極的な発言はなかったと国分は指摘している。

 日本の敗戦後、移川は日本に引き揚げ、土俗・人種学講座は台湾大学文学院考古人類系に引き継がれた。1948年に教授としてやって来た李済は安陽(殷墟)の発掘にも携わった著名な考古学者だが、彼の博士論文「中国人の形成」もハーバード大学のディクソンから指導を受けており、移川とはいわば同門であったと記している(李済[国分直一訳]『安陽発掘』新日本教育図書、1982年)。留用という形で台湾大学に残っていた国分は、李済が「これがハーバードの先輩、プロフェッサー・ウツリカワのミュージアムか」と感慨深げにつぶやくのを傍らで聞いた。移川はいまどうしているのか?と尋ねられたが、国分も日本の様子は分からない。戦後の混乱の中、すでに移川は1947年に病死しており、国分もそのことを知らなかった。

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