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2009年9月13日 - 2009年9月19日

2009年9月19日 (土)

国分直一のこと

 国分直一『台湾の民俗』(岩崎美術社、1968年)、金関丈夫・国分直一共著『台湾考古誌』(法政大学出版局、1979年)を手に取った。前者は主に農漁村などを歩き回ったフィールドノートをもとに漢族や平埔族の民俗について、後者には台湾在留中の発掘調査をもとにまとめた論文が収録されている。台湾の先史文化を考える上で南方系の要素を強調する向きが強かったが、石包丁、黒陶、石鏃などの出土例を踏まえて大陸文化とのつながりを指摘している点に特徴がある。

 『台湾考古誌』はもちろん学術書だが、目を引くのは巻頭のカラー図版。題して「国分先生行状絵巻」。金関の筆になる。たとえば、こんなシーンがある。先史時代の生活光景を大壁画にする企画で、作画担当の立石鉄臣はモデルがいないと描けないと言い、仕方なく国分が裸になって弓矢を持ったり、木を伐ったり。酒飲みの松山和尚につかまっているシーンもあるが、写真家の松山虔三のことか。国分の遠慮がちな性格をからかいながらユーモラスに描かれた絵巻である。日付は1948年10月、国分の妻と娘宛て。国分も金関も留用という形で日本の敗戦後も台湾に残されており、先に帰国した国分の家族を安心させるために金関が描いて送ったのである。

 国分直一は1908年、東京に生まれ、その年のうちに父親が台湾の高雄に転勤したため、台湾で育った。旧制台北高校の一年上級にいた鹿野忠雄(山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』[平凡社、1992年]を取り上げたことがある→こちら)からの影響で民族学に関心を寄せる。京都帝国大学史学科を卒業、左翼思想に傾いていたため当局からにらまれ、逃げるように台湾に戻って台南高等女学校に勤務。その頃台南一中で教鞭をとっていた前嶋信次(東洋史、後にイスラム史の権威)や郷土史家の石陽睢と共に歴史・民俗調査を行なう。1943年、台北高等師範学校に移り、台北帝国大学医学部の金関丈夫を師と仰ぎ、『民俗台湾』にも積極的に参加した。その時のことを回想して、皇民化運動には批判的意図を持っていたこと、台湾の研究を大陸、とりわけ華南との関連につなげていこうと考えていたことなどを記している(「中村哲先生と『民俗台湾』の運動」『沖縄文化研究』第16号、1990年)。戦争中もアメリカ軍の空襲をかいくぐりながら学生たちと一緒に発掘活動に従事したことは『台湾考古誌』に記されている。

 敗戦後は留用されて編訳館に勤務(他に言語学の浅井惠倫、民俗学の池田敏雄なども)。さらに台湾大学文学院副教授となって、爆撃を受けた大学の標本を整理、考古学の講義も行なって、戦後において台湾考古学の牽引役となる宋文薫(台湾大学名誉教授)などを育成した。また、大陸から来た李済、董作賓らとも交流。1949年8月に帰国。

 戦後になっても国分は視野をさらに広げ、環東シナ海の文化的重層を掘り起こすべく80代を過ぎても旺盛に活動した。物質文化を時間・空間を超えて包括的に把握しようというのが国分の関心のあり方だが、角南聡一郎「日本植民地時代台湾における物質文化研究の軌跡」(『台湾原住民研究』第9号、2005年)は、考古学的に実測図を採用して科学的・客観的な解釈を試みたと評価、他方で、民俗学的調査では実測図を使わず従来通り写真や絵図を用いるという相違があったことを指摘。また、植民地における日本人移民の物質文化研究の先鞭を付けたとも評価する。

 なお、国分の事跡については陳艶紅「国分直一と《民俗台湾》」(財団法人交流協会、2001年)、木下尚子「國分直一がのこしたもの」(『古代文化』第58巻第1号、2006年)を参照した。国分の回想録は『遠い空』という本にまとめられているらしいが、私は未読。

 川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が『民俗台湾』とその指導者とされた金関丈夫に批判の矛先を向けているのを読んで、国分は誤解も甚だしいと居たたまれない気持ちに駆られ、「『民俗台湾』の運動はなんであったか」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を書いた。エキゾティシズム趣味の西川満が主宰する『文芸台湾』でも確かに民俗をテーマとした記事が見られるが『民俗台湾』とは性格が異なること、国分自身などは台系社会をより理解するためにむしろリアリズムの張文環が主宰する『台湾文学』に親しんだこと、などを記している(三誌の違いについてはこちらで触れた)。師として尊敬していた金関への強い思い入れが行間からにじみ出ているが、遠慮がちな性格の国分らしく筆致は控えめだ。それどころか、どこにも中心を置かない新しい比較民俗学を川村が提唱しているところには共感を表明している。東アジア圏の国境を越えた民族考古学をフィールドとする国分の問題意識がまさにそこにあるからだが、彼の学徒としての実直さがよくうかがわれる。

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2009年9月15日 (火)

西川満『わが越えし幾山河』

 西川満の年譜的自伝『わが越えし幾山河』(人間の星社、1983年)を国会図書館で拾い読みしながら、台湾時代を中心にとったメモ。

・1910年、3歳のとき、父が基隆の秋山炭鉱(祖父の弟・秋山義一が経営)に招かれたため台湾へ渡る。
・台北の樺山小学校で菊田一夫と同級。
・台北高校受験に2度失敗し、19歳で基隆の税関吏となる。しかし、文学への想いが断ち切れず、早稲田大学に入る。仏文学を専攻。吉江喬松、西條八十、山内義雄などを知る。卒業論文は「アルチュル・ランボオ」。
・父親の影響もあったのかもしれないが、小中学生くらいの頃から日蓮主義、とりわけ田中智学に傾倒していた。東京遊学中に田中智学の国柱会へ入会、田中の息子である里見岸雄の思想にも共鳴し、国体科学連盟の設立に参加。
・1933年、大学卒業(26歳)。就職難の時代。「吉江喬松博士から、地方主義文学のために一生をささげよ、との教えをいただき、台湾へ帰る決意を固めた」(17頁)。山内からは台北帝国大学の矢野峰人と島田謹二への紹介状を書いてもらった。
・「同じ台北の旧い街でも、艋舺にはあまり興味がもてない。それは純然たるシナ風の街だからである。大稲埕には異国人が住んでいたので、東洋と西洋の混淆が見られ、それがたまらなくわたしには魅力だったのだ」(18頁)。
・総督府の建築家・井出薫の紹介で、台湾日日新報社の河村徹社長に会い、無試験で入社。ちょうど河村が台湾愛書会を創立したばかりの頃だったので、機関誌『愛書』の編集を担当。また、『台湾日日新報』の文芸欄を復活。
・1934年9月、媽祖書房を創設、雑誌『媽祖』を刊行。奥付に媽祖(天上聖母)の略伝を漢文で付す。素材・造本には凝り、限定番号入りで少部数。異国情緒を喜ぶ反響が大きい。
・1939年(32歳)12月、発行元の台湾詩人協会を自宅に置いて詩誌『華麗島』を創刊。北原政吉、長崎浩、本田晴光、石田道雄(まど・みちお)、新垣宏一、竹内実次、万波おしえ、池田敏雄、邱炳南(邱永漢)などの名前があがる。さらに1940年1月、『文藝台湾』へと発展。目次レイアウトは全く同じで、両誌の継続性を強調。
・『文藝台湾』創刊に際して官民有力者の名前を列ねたのは「官僚にあらずんば人間にあらずという風潮の土地」ではその方が芽が育ちやすいと思ったからだ、寄付金などはもらっていないし、御用雑誌などではなかったという趣旨を強調。
・西川が豪華本をつくっていた日孝山房に集う五人組について当時の戯文。「私版日孝山房の面々如何にと問はるれば、お江戸帰りの名人気質、烟草の煙を吐くごとに、板木一枚彫りあげる、左ぎつちよで名も高い、油絵画家の立石鉄臣君。身は山陰の海風を、浴びて屋号も出西屋、「台湾風土記」が縁となり、艋舺楼に入りびたる、民俗趣味の池田敏雄君。金が蛇より嫌ひにて、浮世離れた阿里山の、原生林に身を投じ、羽化登仙と洒落たがる、南画専門の大賀湘雲君。待つた俺等も宵越しの、金を費ふは大嫌ひ、絵筆はもてど義理人情心得たりと見得切って、侠気に生きる日本画家宮田弥太郎君。さてどん尻に控へしは、もつて生まれた凝り性が、とかく出世の邪魔となり、骨を折つては叱られる、傘屋の小僧の再生と、自他共に許したる、本気違ひの西川満」(32頁)。
・1942年10月27日、大東亜文学者大会出席のため東京へ。西川の他に龍瑛宗、濱田隼雄、張文環。
・台湾出版文化株式会社の社長は父親であり、これは西川の『台湾縦貫鉄道』を出版するためにつくられた会社。
・1944年12月、父・西川純が死去。1945年1月、父のあとをついで昭和炭業社の社長となり、樹林の昭和炭鉱を経営する。
・日本の敗戦後、総督府情報課の人から、戦犯名簿を作らねばならないので台湾文化の最高責任者として西川と濱田隼雄の名前を挙げた、と言われた。
・弟子らしい弟子はいなかったが、内弟子といってもいい人として、台南の葉石濤と桃園の林秋興の二人の名前を挙げている。林は二・二八事件で命を落したという。
・1946年4月7日に引き揚げ。
・強制退去処分を受けそうになった王育徳の裁判に尽力。
・年譜を見ていると、戦後も旺盛に執筆活動に勤しんでいた様子。占い(算命学)に凝って事務所を開いたり、天后会なる宗教団体も主宰した。その機関誌『アンドロメダ』に連載された年譜がこの自伝であり、人間の星社は機関誌発行元。戦後の動向については詳しく読まなかったのだが、宗教団体名に天后→天上聖母(媽祖)が意識されているのが興味深い。

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2009年9月14日 (月)

邱永漢の初期の作品

 邱永漢といっても金儲け指南のビジネス書という印象しか私にはなかった。かつて直木賞受賞作家であったことは何となく知ってはいたものの、それが「香港」(昭和三十年下半期、外国籍としては初めての受賞)という作品であったこと、この作品の背景には邱自身が台湾独立運動に関わって亡命せざるを得なかった青春期の苦い影が落ちていることを私が知ったのはつい最近のことである。

 邱永漢は1924年、台南の生まれ。父親は地元ではそこそこの有力者であったらしい。本名は邱炳南といい、1940年創刊の『文藝台湾』同人名簿にもすでにこの名前が見える。当時はまだ台北高等学校に在学中であった。その後、東京帝国大学経済学部に進学、日本の敗戦後は台湾に戻ったが、1947年の二・二八事件など白色テロの激化に伴って香港へ亡命、ここで商売を始めて1950年代以降は日本とも頻繁に行き来しながら活躍。後に国民党政権とは妥協する。

 『邱永漢短編小説傑作選 見えない国境線』(新潮社、1994年)所収の作品をいくつか通読した。

 「密入国者の手記」(1954年)のモデルは台湾語の言語学的研究で有名な王育徳である。彼が国民党政権のお尋ね者となっているにもかかわらず日本から強制退去されそうな立場にあったところ、邱永漢が世論に訴えるべく王の主張を小説という形式でまとめて、西川満の紹介により長谷川伸が主宰する『大衆文芸』誌に掲載。

 「検察官」(1955年)のモデルは王育徳の兄、東京帝国大学法科出身で検察官となった王育霖である。台湾にいる日本人警察官の横暴への憤りから彼らを取り締まる側になろうと検察官となった正義漢だが、日本の敗戦で台湾に帰国後、新来の支配者である国民党政権の腐敗を摘発、かえって恨みを買って二・二八事件のどさくさで殺害されてしまった。なお、王育霖の名前も『文藝台湾』同人名簿(だったか?)で見かけた覚えがある。

 「客死」(初出未詳)。日本統治期から台湾民族運動穏健派の指導者として声望の高い林献堂は国民党政権への反発から日本へ亡命した。林を慕いつつも彼の現実的な政治態度は妥協的だと危惧する若き活動家の情熱と日本での客死、それを目の当たりにした林の心情を描く。

 「濁水渓」(1954年)と「刺竹」(1956年)は邱永漢の自伝的な側面が強いのであろうか。戦争中、台北・東京での学生生活、日本の敗戦による世情の変転、そして二・二八事件の残酷な混乱を描く。敗戦をきっかけに日本人への侮蔑意識が芽生えたことを観察し、日本人への憎悪に共感しつつも、階層構造を逆転させるだけでは問題は何も変わらないと指摘。ロイドというアメリカ人が出てくるが、モデルはジョージ・H・カーだろう。「刺竹」では、二・二八事件で友人知己が逮捕されたり殺されたりしたにもかかわらず自分だけ助かったことへの罪意識が描かれている。

 「長すぎた戦争」(1957年)。台湾の友人から聞いた話にヒントを得たらしい。国民党は台湾人からも徴兵することに決めたのだが、入営する台湾人たちの行動様式が戦争中の日本の軍隊生活そっくりそのままで、大陸から来た上官たちとのギャップを半ばユーモラスに描く。経済力のある台湾人によって翻弄される貧しく帰る故郷もない外省人の分隊長、彼の姿にはどこか悲哀が漂う。

 「香港」は前述の通り直木賞受賞作。邱永漢はほとんど無一文に近い状態で台湾から香港へ逃げてきた。生きていくためにはインテリの自意識や理想などかなぐり捨てて、とにかく金だけを手づるに這い上がらねばならない、そうした弱肉強食のカオスの中で去来する様々な思惑を描き出す。作中で師匠とも言うべき役回りの老李は「君は軽蔑するだろうが、ユダヤ人は自分らの国を滅ぼされても、けっこうこの地上に、生き残った。…国を失い、民族から見離されながら、いまだにユダヤ人にもなりきれないでいる自分を笑いたまえ」と発言し、これをきっかけに故郷台湾の風景と国民党の白色テロを思い浮かべるシーンが続く。邱永漢の独立運動の敗残者としての苦い思いと彼のあからさまなまでの金儲け主義とがどん底の実体験を媒介として結び付いていたことがうかがえる。

 邱永漢のアイデンティティと文学作品との関わり方については、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』五柳書院、1995年)や丸川哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』(青土社、2000年)などが論じている。

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2009年9月13日 (日)

「九月に降る風」

「九月に降る風」

 1996年、台北南郊の新竹。風の強さとビーフンで有名な町だ。高校(台湾では高級中学というのか)に通う九人の少年少女。学年は違うがいつもつるんで授業をさぼる男子七人組。そのリーダー格であるイェンの浮気に気をもむ恋人のユンと、一年生なのに不良グループと遊びまわる同級生のことを心配しているペイシンの少女二人。

 羽目をはずして騒ぎまわり、先生に叱られても無邪気でいられた日々。しかし、いくつかの事件をきっかけに、居心地の良かった仲間意識はほころび始める。保身のための裏切り、卑怯だと分かってはいてもどうにもならない弱さ、遠い大人の世界のことだと思っていたそうしたみにくさが自分たちの中にもきざしていることに愕然となり、こみ上げてくる切ない怒りをどこに向ければいいのかも分からず彼らは戸惑うばかり。青春の終わったことを知った。実際にあったという黒社会の絡んだプロ野球の賭博事件についてのニュース報道が時折はさみこまれるが、当時の時代的空気を示すと同時に、少年たちのあこがれへの幻滅と青春の終わりとが象徴的に重ねあわされているのだろう。

 静かに落ち着いたカメラアングルで映し出される学校や街並の光景のみずみずしい色合いは感傷的なノスタルジーを呼び起こす。明らかに日本ではないのだが、どこか日本でもあり得るなあと思わせる微妙なパラレルワールド感はこの種の台湾映画を観ているといつも感じてしまうところだ。少年少女の心情の揺れが丁寧にこまやかにすくい取って描き出され、やわなあまっちょろさには流されていないので、ストーリーには共感的に入り込めた。

 トム・リン(林書宇)監督はエドワード・ヤン「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)から強い影響を受けているとのことで、オマージュとしてその映像も使いたかったそうだが、権利関係の問題が難しく、代わって侯孝賢「恋恋風塵」(1989年)のワンシーンが流れる。台湾の青春映画の系譜としては、「青春神話」(ツァイ・ミンリャン監督、1992年)、「藍色夏恋」(イー・ツーイェン監督、2002年)、「花蓮の夏」(レスト・チェン監督、2006年)なども思い浮かぶ。

【データ】
原題:九降風
監督・脚本:トム・リン
台湾/2008年/107分
(2009年9月12日、シネマート新宿にて)

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