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2009年8月16日 - 2009年8月22日

2009年8月22日 (土)

「宇宙へ。」

「宇宙(そら)へ。」

 ロケット打ち上げの炎と噴煙には独特に激しい厳かさがある。映画が始まって間もなく、打ち上げに失敗したロケットの爆発シーンが立て続けに映し出される。その後も、有人宇宙飛行、宇宙遊泳、月面着陸、スペースシャトルと成功が続くものの、そうした華々しさの陰で目の当たりにされた訓練中の爆発事故、チャレンジャー号の打ち上げ失敗、そして帰還途上にあったコロンビア号の空中分解といった大惨事。文字通り死と隣り合わせの冒険に敢えて飛び立った宇宙飛行士たち。NASAが記録していた映像を編集してアメリカの宇宙開発の歴史をまとめたドキュメンタリーである。

 自らの命を代償にしてでももこの眼で確認したかった宇宙の姿、未知なるもの。静けさを湛えた月のゴツゴツした地平に、漆黒の闇の中からくっきりと浮かび上がった地球の青さ──。もはや写真や映像で見慣れたシーンではあっても、科学者や宇宙飛行士たちの命がけの奮闘を念頭に置いて見ると目頭が熱くなってきて、その印象はひときわ鮮やかだ。ハッブル望遠鏡に映し出された、計算を絶した時空の果てからやって来た星々の光線。宇宙のはるかな深淵に、振り返って我ながら陳腐とは思いつつも、永遠と有限という哲学的テーマが頭をよぎる。だが、あの映像を目の前にしている時には不思議とそれが陳腐には感じられなかった。胸に清涼感があふれてくる。凄絶におそろしく、そのおそれが美しい。命を棄ててでも見たいと切迫した思いを募らせるのは果たしてこれか。

 記録映像をつなぎ合わせただけだが、ドラマとして張りつめた緊張感が全体に漲っている。ドキュメンタリーを観てこんなにワクワクドキドキしたのは久しぶりだ。オーケストラのバックミュージックが雰囲気を盛り上げていたし、ナレーションを務める宮迫博之の渋いバリトン・ヴォイスもなかなか様になっていた。

【データ】
原題:Rocket Men
監督:リチャード・デイル
翻訳・演出:寺本彩
翻訳監修:毛利衛
日本版ナレーション:宮迫博之
2009年/イギリス/98分
(2009年8月21日レイトショー、新宿・武蔵野館にて)

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2009年8月20日 (木)

8月某日 仙台(松島、「古代カルタゴとローマ」展、慶長遣欧使節団、魯迅「藤野先生」)

(承前)
◇第五日
【キーワード】松島、「古代カルタゴとローマ」展、慶長遣欧使節団、魯迅「藤野先生」

・初めて松島へ行った。地下化された仙石線の始発はあおば通駅、ここから松島海岸駅まで約30分。東北本線と絡まりあっており、松島という駅もあるので、要注意。
・所要時間約40分の湾内遊覧船。ほのかな潮風とディーゼルオイルの混じった匂いが何となく昭和の観光地という旅情をかきたてて、良い。
・松島では牡蠣の養殖など水産物が豊富。土産物屋の並ぶ中の食堂に入る。刺身の盛り合わせ、生牡蠣、生ウニ、ホヤ。魚介類はあまり好きではないのだが、旅先でそういう野暮は言わない。佐渡と庄内ではとにかく動き続けて疲れたので、仙台ではゆっくりするつもり。まだ11時前だがビールを飲む。ガラス戸の脇に座って外を眺め、昭和の観光地らしい雰囲気の中でボーっとしていると、このまったり感が良い。

・午後、仙台駅から仙台市内の観光名所をめぐるループバスを利用。乗り降り自由の一日乗車券600円。観光施設の割引もあり。
・仙台城のふもとに仙台市博物館。ちょうど「チュニジア世界遺産 古代カルタゴとローマ」展を開催中、本日最終日。まるで私を待っていてくれたようだ。なお、10月には東京の大丸ミュージアムでも開催されるらしい。
・チュニジアにおけるカルタゴ遺跡、及びポエニ戦争で壊滅後、ローマによって再建された遺跡の両方にまつわる展示。
・学生のとき、名目上ではあったが一応古代オリエント考古学のゼミに所属していたので(他分野に関心が移ったので全く出席しなかったが)、こうした分野は今でも気になる。
・高校世界史レベルの話だが、フェニキア人はもともと地中海東岸のシドンとティルスに拠点を置いて海洋交易で活躍、その言語は地中海世界の共通語の一つとなり、文字はアルファベットのルーツとなった。現在のチュニジアのあたりに新たな拠点として築かれた植民都市がカルタゴ。フェニキア語で“新しい町”という意味らしい。ちなみに、後にハンニバルがイベリア半島を征服して、こちらはカルタゴ・ノヴァと呼ばれた。“ノヴァ”はラテン語で“新しい”という意味だから、つまり“新しい新しい町”ということになるのか。
・遺物や、そこにモチーフとして表現されている神話・伝説→フェニキア文化にエジプト、ギリシア、ローマの要素が絡まりあっているのが見えてきて面白い。遺跡風景の写真を見ていると、行ってみたいなあ、という気持ちにかられる。
・参考文献としては松谷健二『カルタゴ興亡史』(中公文庫)、他にフローベールの小説『サランボー』も思い浮かぶ。まさか東北を旅行してカルタゴに出会うとは思っていなかったので、復習まではさすがに手が回っていなかった。

・常設展示。仙台藩・伊達家にまつわる展示が中心。墓所に納められていた遺骨をもとに復元された伊達政宗の胸像もある。奥羽越列藩同盟の取りまとめ役となり、後に処刑された玉虫左太夫の書簡なども展示。
・林子平はもともと江戸の生まれだが、姉が仙台藩主の側室となった関係で仙台に来た。不遇な部屋住み。寛政三奇人の一人。肖像画を見ると性格きつそう。ロシアへの防備を主張して発禁処分を受けた『海国兵談』の原本・写本なども展示。
・目玉の一つは、支倉常長と慶長遣欧使節団に関する展示だろう。太平洋を渡ってメキシコとの貿易を望む伊達政宗の意向もあり、キリスト教布教という名目で、バチカンにスペインとの仲介をお願いするのが目的。将来品の一つ、ローマで描かれた支倉常長の肖像画は、日本人を描いた最も古い油絵だとされている。帰国時にはキリシタン弾圧が始まっており、支倉は不遇のうちに死去。使節団の案内役となった宣教師ルイス・ソテロは日本へ再潜入したものの捕まって火炙りにされた。帰りがけに慶長遣欧使節展示資料を一冊購入。
・解説ボランティアの名札をかけたおじいさんがいたので、「仙台にも陸軍幼年学校があったらしいですが、どのあたりですか?」と質問。「ええ、ありました、ありました。三神峰(みかみね)というところで、今は桜の名所です。駅からバスで40分くらいかかります。」「碑文のようなものはありますか?」「いや、何もないですよ。あそこは、桜の名所ということと、それから貝塚が見つかってますので、そういうものだけですね。幼年学校の痕跡は何もないですねえ。お役に立てなくて申し訳ないです。それにしても、陸軍幼年学校なんて、あなたよく知ってますねえ。」私がお礼を言って離れてからも、解説ボランティア見習い風のもう一人の女性にこの話題を説明していた。石原莞爾が仙台の陸軍幼年学校にいたので、行けるようであれば足を運ぼうかとも思っていたが、遠い上に何もなさそうなので断念。

・仙台市博物館の裏手に、魯迅、阿部次郎、支倉常長、伊達政宗などに関する記念碑あり。
・坂道を登って、青葉城資料展示館。お城の姿を再現したCGを上映しているが、特に寄るほどのものではない。政宗は徳川家からの疑惑を慮って天守閣を建てなかったことはよく知られている。
・護国神社。8月15日に合わせて戦艦の展示などをしているようだが、素通り。

・ループバスに乗って、仙台駅を過ぎ、晩翠草堂へ。英文学者で旧制二高教授だった土井晩翠の晩年の住まい。もともと住んでいた家は空襲で焼け出され、見かねたかつての教え子たちがここを建てて寄贈、余生を過ごしたという。病没時に横たわっていたベッドも残されている。土井晩翠というと思い出すことふたつ。ひとつ。普通は「どい」と読ませるが、かつては「つちい」と読んでいたこと。ふたつ。仙台に晩翠軒?なる食堂があって、そこに土井晩翠が食事に来ている時に二高の学生が居合わせると、店の主人を呼ぶのにわざと「おい、晩翠!」と声を上げたとかいう話。何で読んだのか忘れた。どうでもいいことだが。
・晩翠草堂から歩いて東北大学キャンパスへ。この近辺はかつて武家屋敷の並んでいた区域らしい。先ほどループバスで通りかかったとき、裁判所脇に原田甲斐屋敷跡という立て札を見かけた。山本周五郎『樅ノ木は残った』(新潮文庫)を読んだのは中学生の頃だったか、初めて読んだ山本作品である。

・東北大学キャンパスから道を挟んだ向かい側にぼろい二階家がある。魯迅の下宿先だった建物である。写真に撮った。それから、キャンパス内、かつて彼の留学していた仙台医学専門学校(現在、東北大学医学部)があった所に魯迅の胸像がある。
・仙台、魯迅とくれば、必然的に思い浮かぶ作品は「藤野先生」。医学専門学校での恩師、藤野厳九郎。右も左も分からぬ一留学生のために、魯迅がとった講義ノートに毎週黙々と赤字添削を続けてくれた思い出。異国から来た魯迅個人のためであると同時に、その彼を通して、これから近代化を進めなければならない新生中国のためという明治人らしい武骨な情熱。日清・日露戦争を経て一等国日本という自意識が裏返って中国人への蔑視感情となって露わになっていた時代。魯迅もいやな思いをしたことはこの「藤野先生」にも記されているが、そうした中だからこそ、不器用な藤野先生の寡黙さが際立つ。
・キャンパス内には二高の教室建物も残されていた。
・近くに阿部次郎記念館というのがあるが、晩翠草堂でもらった仙台文学マップをみると日曜休館となっているので行かない。阿部は東北帝国大学教授だった。

・東北大学近くの古本屋を何軒かひやかしながら仙台駅方向へ歩く。小腹が減ったので、駅構内の鮨屋でつまむ。それから駅前のジュンク堂書店(2店舗ある)をぶらぶら見て回って、土門拳『腕白小僧がいた』(小学館文庫)を購入。
・新幹線で帰る。駅弁売場ではらこ飯弁当。アラでとっただし汁でご飯と鮭の切り身を一緒に炊き込み、そこへイクラをふりかけ、つけ合わせに辛味の味噌。酒のおつまみとしても良い感じで、ワンカップの地酒も買い込んで呑む。ほろ酔い加減で『腕白小僧がいた』をパラパラとめくり、ちょうど読み終わった頃に東京駅着。22:30頃。

・まとめ、と言うほどのことはないが、旅行の理由付けを適当に。
・北一輝は佐渡の生まれ、石原莞爾と大川周明は庄内の生まれ、仙台は魯迅ゆかりの地ということで、北日本に潜むアジア主義の水脈を掘り起こす旅、とでもしましょうか。ついでに言うと、中村屋の相馬黒光は仙台の生まれ。土井晩翠と二高の同僚だったドイツ文学者の登張竹風とが一緒に写っている写真を晩翠草堂で見かけたが、登張は後に旧満洲国・建国大学教授となる。奥羽越列藩同盟の盟主に祭り上げられて仙台に身を寄せた輪王寺宮公現法親王は維新後、北白川宮家を継いで能久親王となり、日清戦争後、下関条約で日本に割譲された台湾への遠征軍司令官となり、台湾で病没、台湾神宮に祀られた。全部こじつけちゃう(笑)
・庄内と仙台は奥羽越列藩同盟つながり。
・佐渡と庄内の酒田は日本海交易ルートの拠点、とりわけ酒田は北前船で有名。仙台(正確には月の浦)からは慶長遣欧使節団が派遣された。そして、仙台市博物館で開催されていた「古代カルタゴとローマ」展。こちらは海洋文明つながり、ということで。

(了)

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2009年8月19日 (水)

8月某日 庄内(2)(大川周明、石原莞爾、文明開化、護国神社、奥羽越列藩同盟)

(承前)
◇第四日
【キーワード】大川周明、石原莞爾、文明開化、護国神社、奥羽越列藩同盟

・前日はレンタカーを利用して遠隔地を回ったので、本日は酒田・鶴岡の市街地を回る予定。酒田駅前の観光案内所でレンタサイクル。案内所のおじいさんに、石原莞爾・大川周明にまつわる場所が市内にないか?と尋ねたら、しばらく考えて、光丘文庫に行って聞いてみなさい、と教えてくれた。
・酒田市立資料館。土門拳生誕百周年に合わせて写真展。やはり子どもの写真が中心。この資料館近くに土門の生家跡がある。2階では酒田市に関する通史的な展示。
・海の方向へ行き、山居倉庫。明治期に入って、旧藩主の酒井家や菅実秀らによって殖産興業のためつくられた倉庫群。庄内米歴史資料館もあるが、時間的な余裕がないので素通り。庄内藩は、城のある鶴岡が政治の中心とすれば、港町として栄えた酒田は経済の中心。北前船による江戸や大坂を結んだ流通ルートの要で、東回り航路・西回り航路の拠点となっていた。
・酒田は、映画「おくりびと」のロケ地となり、これも町おこしの材料に使われている。このシーンはここで撮影されたと示す観光用看板が市内のあちこちにある。古びてなかなか風格のある建物もあり、映画に使いたくなる気持ちは分かる。実はこの映画、観よう観ようと思いつつ、まだ観ていない。話題になると観る気が失せてしまう天邪鬼なもので。

・光丘文庫へ行く。酒田市立の市史編纂所のような位置付けか。酒田の豪商・本間光丘が学問振興の施設を作ろうとしたが許可がおりず、その子孫が明治になって光丘を記念して建てたという。本間氏は、戊辰戦争に際して最新鋭の銃器を購入して庄内藩へ献上したり、敗戦後、酒井氏が会津へ転封という話が出た際、明治新政府に献金をしてやめさせたりと庄内藩の政治にも密接につながっていた。なお、佐渡にも本間氏がいたが、祖先をたどれば庄内の本間氏ともつながりがあるらしい。
・事務室へ行き、応対に出てくれた学芸員の方に、大川周明の墓の場所を尋ねた。だいたいの場所は教えてくださった。ただし、大川家の私的な場所なので、遺族の方は、はっきりとは言わなかったけれどもあまり公にはしたくないような様子だったという。
・話の流れで色々と教えてくださった。最近、若い人でも大川周明・石原莞爾がらみで来館する人が多いらしい。「どういうわけか、大川周明や石原莞爾の人気がまた出てきているんですよね。保守回帰の傾向とつながりがあるのでしょうか。とくに、石原のカリスマ的なところに惹かれる人が多いのかもしれません。ただ、変な受け売りとかバイアスをかけて見るのは好ましくありません。興味を持つなら、彼らの書いたものをじかに手に取って読んでみて、色々な人の話を聞いて、自分自身の眼で掴み取って欲しい。ネオナチみたいのに利用されるのはまずい。むかしとはもう世代が違うし、バイアスを取り去って読み直してみれば、色々と可能性はあるはずです。」私も全く同感。「そういえば、大川や石原について最近たくさん本が出ていますよね。たとえば、佐藤優氏とか…。」と話をふったら、「ええ、佐藤さんもいらっしゃって、ここにある大川の蔵書を調べていかれましたよ。」
・光丘文庫は、大川家とは何らかの接点を持っているようだが、石原莞爾については「あちらは独立してやってるんですよね」とおっしゃるのが印象に残った。戦後になっても東亜連盟の信奉者が独自の活動をしているということか。
・大川と石原は、二人ともアジア主義者であること、戦時下において反東条英機の立場に立ったことなど共通点もあり、二人の間に何らかの交流があったのは確かなのだが、その証拠となる資料が意外と見つからない、とも指摘された。
・大川周明・石原莞爾の蔵書はここに寄贈・委託されている。ガラス戸付本棚に並べられており、背表紙を眺めることができる。二人とも読書の幅が広い。「大川はやはり学者なんですよね。」「二人とももっとくだけた本も読んでいたはずなんですが、ここにはないんですよ。」石原の蔵書はドイツ留学中に買い込んだ洋書が多い。大川がコーラン研究に使った本も並んでいる。ある一冊を指して「この本には“東条の馬鹿”って書き込みがあるんですよ」と笑う。逐一眺めていきたいところだが、ちょっと時間が迫っているので辞去する。「何か資料調べの必要がありましたらご連絡ください」と声をかけていただいた。
・光丘文庫の近くにある大川周明顕彰碑を写真に撮る。
・敗戦時、石原莞爾は酒田の北の遊佐にいた。東京裁判で証人喚問されることになったが、体の具合がよくないので、酒田市内の商工会議所に特別臨時出張法廷が開設され、石原はリヤカーに乗って運ばれてきた。「満州事変を起こしたのは自分だ、自分を戦犯として裁かないのはおかしい」と主張したことは有名。当時の商工会議所の建物は現在はなく、NTTの道路をはさんだ向かい側にあるセブンイレブンのあたりにあったと光丘文庫で教えてもらったので、そこまで足を運ぶ。
・酒田駅前まで戻り、レンタサイクルを返却。カギを渡す際、観光案内所の先ほどのおじいさんが思い出したように声をかけてくれた。「酒田の北の方に石原莞爾のお墓があるんですが、行きましたか? …そうですか、行きましたか。あの辺りには信奉者がたくさんおったんですよ。私の若い頃も身近にいましたよ、東亜連盟の人が。今はもういませんけどねえ。」世代がかわって、後を継ぐ人がもういないということですか?「うーん、というよりも、石原さんは鶴岡の人ですからね、酒田とはもともと縁はなかったんですよ。」そういえば、藤沢周平の自伝的エッセイでも、東亜連盟は唐突に現われた、という書き方をしていた記憶がある。石原が庄内に帰郷して、彼のカリスマ的な迫力に多くの人々が集まって、彼の死と共にその火は小さくなったということか。
・タクシーに乗って、大川周明の生家近くまで行く。西荒瀬小学校が目印。顕彰碑のようなものがあるらしいが、見つからない。田んぼが広がるただ中、鳥海山が美しく見える所だ。

・酒田駅12:10発の普通列車に乗って鶴岡へ。駅前の土産物店でだだちゃ豆の混ぜご飯弁当を買って昼食を済ます。田んぼの中を走るローカル列車、車窓の風景をぼんやりと眺める。鶴岡までは30分ほど。
・鶴岡も酒田と同様、市街中心部とJRの駅とは離れている。観光案内所で道を尋ねたら、歩いてもそれほど時間はかからない様子なので、観光マップをもらって歩き始める。途中、高山樗牛生誕地という立て札を見つけた。目的地の致道博物館まで30分もかからなかった。
・鶴岡城のすぐ前、致道博物館。お隣には酒井という表札のかかった豪邸があったが、旧藩主家か。
・旧藩主の隠居屋敷や明治に入って高橋兼吉によって立てられた洋風建築、農家などを利用して歴史・民俗などの幅広い展示。充実している。
・高橋兼吉は鶴岡の大工の棟梁。横浜で修行した際に洋風建築を学んだらしい。他にも寺社建築も手がけており、ジャンルは幅広い。伝統技術のしっかりした蓄積があれば、外来の技術もその勘所をたちどころにつかんで接ぎ木できる。そうした高橋のような技術者が日本各地にいたことが、文明開化の成功の一つの要因だったように思える。司馬遼太郎の何という小説だったか、確か宇和島の鍛冶職人が見本を見ながら試行錯誤して蒸気機関?を作り上げた話があったように記憶している。読んだのはかなり以前なのでタイトル等を思い出せない。
・酒田の沖合い、飛島の洞窟遺跡の再現模型が目を引いた。子どもを含めた男女の遺骨が発掘されている。埋葬されたのか、特殊な死因があるのか、分からないという。地元では“テキの洞窟”と呼び習わされている所らしい。何やら陰惨なエピソードを想像させる。
・鶴岡城内の大宝館。鶴岡ゆかりの人々にまつわる展示。高山樗牛の生家の一部が中に移築されている。裏手に藤沢周平文学館があるが、現在は改装のため休館中。なお、鶴岡市内ではあちこちに藤沢周平文学碑がある。

・大宝館の受付の人に尋ねて「石原莞爾生誕之地」という碑文を見に行く。護国神社の境内にある。生まれたのは鶴岡市内だが、ここではない。陸軍の軍人だから護国神社が選ばれたのだろう。
・石碑を写真に収めていたらズドドーンというすさまじい音が響いてきた。公園広場へ行くと人だかり、火縄銃の斉射をしている。今日は大名行列のイベント開催ということで、観客だけでなく、古式ゆかしい衣装を身にまとったエキストラが公園近辺にあふれかえっている。
・今日は8月15日。護国神社に“英霊”への参拝を呼びかける幟がはためているものの、人影はない。護国神社は、いわば靖国神社の支店である。靖国神社は戦死者を神として祀る場所であるが、もとをたどれば戊辰戦争で戦死した官軍兵士を祀ったのが起源である。ところで、庄内藩は会津藩と同様に朝敵とされていた。だから、参拝者が少ないのか。
・余談だが、台湾にあった護国神社は、現在、忠烈祠として国民党軍兵士を祀っている。戦前の日本軍部と蒋介石時代の国民党軍事政権との性格的な共通性を連想させる。
・お城近くの鶴岡カトリック教会。天主堂と大書された門構えが和風なのが面白い。ここは明治時代からあるはずだ。庄内中学在学中の大川周明がここへフランス語を習いに来ていた。

・鶴岡駅へ戻り、バスターミナルへ。ターミナルビル内の書店で星亮一『奥羽越列藩同盟──東日本政府樹立の夢』(中公新書)を買い、仙台行き高速バスの車中で読み始める。本書は、奥羽越列藩同盟を守旧的な佐幕派ではなく、政権を独占しようとする薩長に対し、統一後日本におけるもう一つ別の政権構想を示した異議申し立てと捉えなおす。会津藩への苛酷な処分は公正さを欠く、それでは統一後日本の和を保てないという問題意識。公義所に各藩の代表者が詰める→一種の連邦制とすら思える。仙台藩の玉虫左太夫は咸臨丸で渡米経験があり、彼は議会制民主主義のことを知っていた。ただし、列藩同盟相互の連絡体制の不備、政治的駆け引きのまずさから綻びが出て敗退。仙台藩の玉虫、米沢藩の雲井龍雄らは人身御供のように処刑されてしまう。武士だけが戦って農民たちから遊離していた藩がある一方で、庄内藩は農民兵・町民兵も組織、酒田の豪商・本間家は莫大な資金援助により最新鋭の武器を購入、上下一体の組織体制を整えたことが強さを発揮したというのが興味深い。
・庄内から東北を横断する形で仙台へ。出羽三山をはじめ山並みがはるかにつづき、高速道路はいくつかの盆地のへりを通る。夕暮れ時、夕霞というのか、盆地にうっすらとかかる靄にあかね色の光が染まっている光景が、胸がホッとするような美しさ。
・夜19:00頃に仙台着。宿泊先に荷物を下ろしてから、繁華街の国分町をふらつき、適当な店に入って牛タン定食で夕飯。

(続く)

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8月某日 庄内(1)(石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』)

(承前)
◇第三日
【キーワード】石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』

・酒田駅前でレンタカーを借り、庄内平野を一巡する予定。朝8:00出発。
・庄内平野の北の端、飽海郡遊佐町。道を尋ねながら石原莞爾の墓所へ。新しく開通したと思しきバイパス国道脇から小高い丘への坂道を上がったところにある。木立の中にひらけた広場。
・晩年の石原は、東亜連盟の有志と共にこの近辺で東亜連盟推奨の農法によって開拓を行なっていた。墓所もかつて開拓地だったところにある。大きな土饅頭、「永久平和」と刻んだ石原の顕彰碑、同志の墓碑などがある。番小屋のようなプレハブの建物があり、中に入ると、東亜連盟関係者によるパンフレット類が置かれている。ただし、誰もいない。振替用紙が置いてあり、持って行ったら後で振り込んでくださいという形式。野菜の無人販売を思い起こす。何冊か購入する。むかし石原が使っていたという椅子が置いてあり、それに腰掛けて芳名帳に記入。
・石原たちが開拓を行なっていた頃は何もない山里だったのだろう。現在、山を大きな国道バイパスが貫通して、行きかう車が排気ガスを出し、音を立てて通り過ぎていく。西の方、道路の反対側の先は浜辺で、現在は海水浴場となっている。大音声でがなり立てる有線放送の音楽がここまで聞こえてくる。それらの騒音が松林の中で静かに鳴く虫の声と混ざり合って、ちょっと不思議な感慨にひたる。
・庄内で放浪生活をしていた森敦の文章に、遊佐には朝鮮人が多い、という一節があった。石原の東亜連盟は各民族の政治的独立という主張も掲げていたので、朝鮮人の信奉者も多かったらしいので(→こちらを参照)、この近辺で一緒に開拓をしていたのだろうか。

・酒田市松山へ行く。ここは庄内藩の支藩・松山藩の中心で、かつて城があったところには新しくてきれいな松山文化伝承館が建っている。大手門も残されている。
・近くに阿部次郎記念館。生家が記念館として保存されている。阿部家は学者一家だったようだ。一番有名なのは哲学者で漱石門下の次郎。彼にまつわる展示も多数あるが、弟である生物学者の襄(のぼる)の方が地元酒田に根を張って活動していたので慕われていたらしい。
・阿部次郎といえば『三太郎の日記』。旧制高校的教養主義の代表選手。ただし、理想を語ったり、難解な用語を弄んだりするのは、所詮、エリートとしての鼻持ちならない自意識過剰な特権意識に過ぎず、ああいうスノビズムはまるっきり無意味だと思っているので、私は読む気すらおこらない。
・阿部次郎は写真嫌いで有名だったらしいが、同郷の土門拳にだけは快く撮影してもらったという。
・松山文化伝承館。松山藩の歴史の展示。戊辰戦争のとき、松山藩は本藩の庄内藩と共に奥羽越列藩同盟に参加。家老の松森胤保は、官軍側にいた知己との交友もあって巧みに敗戦処理をしたらしい。松森は学者としての功績も高いそうだ。歴史の大事件の中でも、地域ごとに色々とエピソードがあるのは面白い。
・藤沢周平の小説を読んでいると、お家騒動に支藩の存在が絡む話があるが、庄内藩にとってのこの松山藩の存在がモデルになっているのか。

・庄内町歴史民俗資料館。明治時代、鶴岡の大工棟梁・高橋兼吉によって建てられた群役所を資料館として活用。館内の時間が堆積した古びた風情、こぢんまりとしてはいるが手作り感のある展示、こういう郷土博物館は中にいるだけで気持ちがホッとする。すぐ隣に北楯神社。治水に功績のあった最上家の家臣・北楯利長を祀っている。

・同じ庄内町の、清河八郎記念館。清河八郎を祀った清河神社の境内。初代館長は藤沢周平の小学校での恩師だった人で、宮司も兼務していたという。清河の生涯を紹介する展示のほか、神社に奉納された山岡鉄舟の書「漸近自然」、高橋泥舟の書「仙世界」、頭山満の書「尊皇攘夷」などもあった。
・受付にいたおばさんが色々と説明してくれた。清河の生家である斎藤家は素封家だが、農地解放で土地を失い、一族はみな東京へ行ってしまって、ここ清河の地に縁者はいないという。清河の妹の孫にあたる斎藤清明という人が東京帝国大学で大川周明の同級生だったが、若くして病死。この人は自分で清河八郎の評伝を書くつもりで史料を集めていたが、志はかなわず、その史料を預かった大川が清河の評伝を書き上げた。大川は巣鴨プリズンを出獄後、帰郷のたびに正装して清河神社に参拝していたという。
・なお、藤沢周平も、恩師の集めた史料をもとに清河を主人公とした歴史小説『回天の門』(文春文庫)を書き上げている。
・また、斎藤清明の妹(つまり、清河の妹の孫娘)は柴田錬三郎の夫人。年上の姉さん女房、神田で古本屋を経営し、まだ学生だった柴錬と結婚、彼を作家として育て上げた。自由奔放な女傑タイプで、雰囲気として岡本かの子に似ていたという。気性の激しさはやはり清河八郎の血筋なんでしょうかね、と記念館のおばさんは語ってくれた。

・酒田市内方面に戻る。青々と田んぼが広がる中をかっ飛ばすのは気持ちがいい。風力発電用の大きな風車が壮観。庄内は風の強い地域らしい。
・土門拳記念酒田市立写真資料館。土門拳は5歳で東京に行ってしまったが、もともとは酒田の出身。市内には土門拳生誕地を示す立て札もある。庄内では土門姓の表札をよく見かけた。こちらでは珍しくない苗字のようだ。土門拳は酒田市名誉市民第一号。
・彼を記念した写真美術館で、建物はモダンできれい。今年は土門拳生誕百周年ということで、彼と仲の良かった華道の勅使河原蒼風、グラフィックデザイナーの亀倉雄策との三人展を開催中。勅使河原は前衛的な生け花。亀倉は東京オリンピックのポスターデザインで有名か。土門拳の子供好きは有名で、彼については東京下町の子供たち、筑豊の子供たちを中心とした展示。
・帰りの新幹線で、土門拳『腕白小僧がいた』(小学館文庫)を眺めた。『筑豊のこどもたち』『るみえちゃんはお父さんが死んだ』をはじめ、子供たちを撮った写真に土門のエッセイを合わせて編集された本。筑豊の炭鉱、過酷な労働環境、閉山による失業、貧しさ、こういった問題を写真で伝えようという思いが確固としてある。でも、そういった社会派的動機ばかりではない。楽しければ笑顔、つらければ憂い顔、そういった感情の動きが素直に出てくる子供たちの表情、感情そのものを写真の中に写し取っていく。例えば、るみえちゃんの憂いを帯びた眼差し、けなげに美しい、美しいからこそ切なく、胸を打つ。悲惨なたたずまいに美しさを感じるのは不謹慎かもしれないが、しかし、メッセージ的な意味を構築された写真よりも、哀しいならその哀しみそのもの、感情の動きそのものが放つオーラの方がはるかに見る者の心を捉える。

・土門拳写真資料館のある飯森山公園に南洲神社もある。西郷隆盛を祀った神社。
・庄内藩は奥羽越列藩同盟の中核戦力の一つとして活躍したので、戊辰戦争では朝敵とされてしまう。しかし、官軍側の最高指揮官としてやって来た西郷隆盛は、庄内藩側の面子を立てる寛大な対応をしたため、その人柄が庄内藩士から慕われた(長岡では、官軍の岩村某が高飛車な態度を取ったため、河井継之助が徹底抗戦へ追い込まれたのとは対照的である)。
・幕末維新期に庄内藩の舵取りを担い、明治に入ってからも殖産興業に尽力した菅実秀は、若い藩士を連れて、征韓論で下野して鹿児島に戻っていた西郷を訪問。この際、若い庄内藩士2名が私学校に留学、西南戦争にも従軍して戦死。
・その後、菅を中心に西郷の言行録をまとめたのが『西郷南洲遺訓集』である。薩摩人ではなく、戊辰戦争で敗者となった庄内人が作ったという次第。神社で無料で配布されている。

・鶴岡市街地の脇を通り過ぎて、湯田川温泉へ。藤沢周平が師範学校を出て初めて教鞭を取った小学校がここの湯田川小学校である。
・たみや旅館へ行く。大川周明がここへよく来たらしく、彼からの書簡がこちらにあると何かで読んだ。声をかけ、出てきたおやじさんに尋ねたが、返答はぶっきらぼう。湯治だけも可能なようなので、500円払ってひと汗ながす。
・さらに車を走らせて、藤沢周平生誕地へ。細い田舎道に入る。家はもちろん残っておらず、更地になっているが、そこに生誕地を示す大きな石碑が建てられていた。
・ふと思ったのだが、これが近代以前の時代だったら、藤沢神社でも建てられていたかもしれない。ある人物や出来事に、人々が何かかけがえのないものを感じ、その記憶を土地と結び付けて後世まで語り継ごうとした時に社が建てられているのかな、そんな印象を私は抱いている。
・すぐ近くを高架のバイパス国道が走っている。少し離れた山の斜面が崩れて赤茶けた土肌が露呈している。藤沢の自伝的エッセイで、生家跡を訪れた折にこの露呈した土肌を見かけたことが記されていたように記憶している。今ではちらほら木が生え始めている。
・私には全く縁もゆかりもない土地。しかし、自分には関係のない土地でも、そこなりに生活が息づいているという当たり前のことを見て歩きたいという気持ちがある。極論すればどこでもいいのだが、何か目的地を設定しないと、出かける口実にならない。つまり、私にとって藤沢周平の生家が目的なのではなく、それを口実として、普段なら通りかかる必然性のない場所へ行く。それだけのこと。目的地が目的なのではなく、歩きながらぼんやりとあたりを見回すこと自体が楽しい。

・月山の入口とでも言おうか、注連寺。出羽三山はかつて女人禁制だったが、この注連寺まではOK、それで女性はここから出羽三山を拝み、男性はここから出発する、そうした拠点としての役割を果たしたお寺らしい。廃仏毀釈で出羽三山が神社となり、ここは廃れた。
・森敦の小説『月山』の舞台はここ注連寺。昭和の初期、ここは破れ寺で堂守じいさんが一人いるだけ、そこへ放浪生活をしていた森が転がり込むという話。冬は雪に閉ざされるが、そうした中でも近隣の人々も集い、泥臭く不可思議な猥雑さを醸しだす。境内に森敦の記念碑がある。
・本堂参観の終了時間は17時だが、16時50分頃に私は飛び込み、「まだ大丈夫ですか?」と声をかけた。おばさんが出てきて、「ええ、大丈夫ですけど、お一人ですか? ここは初めてですよね。…しょうがない、説明するか」とブツブツ。解説はきちんとまとまっているけれど、いかにも面倒くさそうな態度。そんなに面倒ならもういいよ、と思ったが、黙って聞く。相槌もうたない。
・本堂内には鉄門海上人の即身仏が安置されている。森敦『月山』に、お寺の名物がなくなったから、じさまが行倒れ人の死体から内臓を取り出し、座禅を組ませた格好で燻製にしてミイラを作ったという話を聞くシーンがある。本当かウソかは分からないが、その気色悪さがやたら印象に残っている。森敦がこんなこと書いてましたよね、とおばさんに話をふろうかとも思ったが、面倒くさいからやめた。
・昨晩読んだばかりの『月山』の小説世界に、いま自分が立っているというのが不思議な気分だが、あまり実感がない。道路が整備されているから、いつでも誰でもここには来られる。すぐ近くには高速道路も走っている。距離的には確かに山奥ではあるが、普通にアクセス可能→観光地として平板化、ベンヤミン的にアウラなんて表現を使うのが適切かどうか分からないが、雪に閉ざされ、余所者を寄せ付けないからこそ醸し出された猥雑な雰囲気は、もはや再現不可能なのだろう。

・湯野浜温泉を経由して、日本海を見ながら酒田市内へと戻る。途中、メロンの直売所をあちこちで見かけた。
・酒田駅前にたどり着いたのが夕方19:00頃。古い町はどこもそうだが、鉄道の路線は後から敷設されたわけだから、市の中心部とJRの駅とは離れているケースが多い。明日の偵察を兼ねて、市街地へと歩く。灯篭祭りをやっていた。お盆だから、帰省した家族も迎えてにぎやかにやろうという気持ちもあるのか。酒田の中心街をブラブラ歩いて一周しても二時間かからない程度。これなら自転車で十分回れる。
・酒田駅前のホテルに泊まっているので駅前に戻ったが、夕食をとろうにも目ぼしいお店は全部閉まっている。今日は一日中車で走りづめで、食事もコンビニで買ったおにぎり1個のみ。何とか名物に近いものをとこだわって、だだちゃ豆のご当地おにぎり。駅前にはコンビニすらないので困ったが、幸い食堂的なラーメン屋が一軒やっていたので飛び込む。店内のテレビでは「火垂るの墓」が映っていた。メシ食いながら観る映画じゃないよなあ…。

(続く)

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2009年8月18日 (火)

8月某日 佐渡(2)(郷土博物館、土田杏村、北一輝、本間雅晴)

(承前)

◇第二日
【キーワード】郷土博物館、土田杏村、北一輝、本間雅晴

・両津港のレンタカー案内所に行って予約していた車を借り出し、ドライブ開始。
・海沿いの道路を北上。海と山とが迫っており、ところどころ小さな漁村がへばりついている。走りやすい道路で、車の通行量も少なく、ついスピードを出してしまう。朝から曇り空だったが、佐渡島北端を回るあたりでたたきつけるように強い雨風に変わった。岩肌がゴツゴツと険しく、波も高く、これぞ日本海!と妙にワクワクしてしまった。グルッと西海岸に回り込み、相川に着いた。ここまで、ほぼ2時間。
・昨日、バスで通った佐渡金山方面へ進路を変え、大佐渡スカイラインに入る。濃霧が立ち込めて視界不良、3~4メートル先は全く見えない。スピードを落とし、ライトを点灯。
・やがて防衛省管轄のエリアに入った。重量車両の通過も可能にするためか、道路の舗装はがっしりとしている。比較的新しい感じだ。自衛隊のレーダーがあると聞いた。北朝鮮のミサイルを想定した防空システムの一環であろう。
・国仲平野の中ほどに降りた。平野部に来ると、曇天だが小雨がパラつく程度。

・順徳上皇ゆかりの黒木御所へ行く。佐渡を訪れた俳人・歌人の文学碑がたくさんあった。すぐ近くに金井歴史民俗資料館という看板のぼろい建物があったが、やっていない。休館というのではなく、そもそも人の手が入らなくなって久しいという感じの廃れ具合。
・日蓮ゆかりの妙照寺。
・お昼時。昨日、タクシーの運転手さんから、「佐渡では回転寿司に行ってみなさい。安くておいしいよ」と言われ、教えてもらったお店が近くなので行った。行列。地元でも評判の店らしい。一時間ほど待たされたが、満足。
・順徳上皇の王子・姫の墓所をまわる。いずれも田んぼの真ん中にひっそりとたたずんでいた。大佐渡山脈を望むと、山の頂には雲がたなびいている。あそこから降りてきたわけだ。屏風のように連なる山並みを背景に田んぼの広がる風景は、とても島とは思えない。
・阿仏坊妙宣寺。日得上人の開基。日得は、流されてきた順徳上皇に仕える北面の武士だったらしいが、後に日蓮に帰依。五重塔が目玉。現在の場所はもともと本間氏の居城の雑多城(そうたじょう)だったが、佐渡が上杉景勝の軍勢に占領された際、阿仏坊をここへ移転させたという。直江兼続が奉納したという槍の穂先がドラマ「天地人」に合わせて公開されていた。正中の変で流された日野資朝の墓もある。資朝は本間氏によって誅殺されたらしい。
・日蓮ゆかりの根本寺もまわる。

・新穂歴史民俗資料館。民俗資料のほか、織物や人形(文弥人形、説経人形、のろま人形)の展示が目を引く。都から流されてきた文化人が多かったせいか、佐渡は他所に比べて人形劇や能などの芸能が著しく盛んだった。
・土田麦僊・杏村の兄弟はここ新穂の出身。ある事情があって、土田杏村についても調べようと考えていたのだが、未着手。戦前、文化主義の思想家として知られていたが、40代で病死している。農村での自治的な民衆教育機関として組織された信濃自由大学に関わっていたので、てっきり信州の人だとばかり思い込んでいたのだが、佐渡の出身だと知ったのはつい最近のこと。彼の晩年の著作『現代世相論』の生原稿が展示されている。館の職員の方にことわった上でデジカメに収めた。
・近くの新穂小学校に土田麦僊・杏村兄弟を記念したレリーフがある。

・両津郷土博物館。ここは大きくてきれいな建物だ。民俗資料、考古資料、自然史と一通りそろっているが、とりわけ漁撈関係の展示が充実している。佐渡島の位置からして当然に漁業が中心だし、海洋交易の一つの拠点であったろうことも想像に難くない。
・歴史展示の終わりの方には、北一輝と本間雅晴にまつわる展示。北一輝の色々な意味で有名な『霊告日記』。北が見た夢を二二六事件の時まで毎日スズ夫人が書き留めたもので、『霊告日記』という呼び方は松本健一氏による。清書された原本が展示されており、開かれたページは、順徳上皇によるお告げのくだり。
・本間雅晴の「愛国心」と大書された掛け軸。佐渡には本間姓が多いが、彼もそうした一族の出身か。文学的素養の深い軍人として知られたが、戦後、B級戦犯として処刑された。旧制中学出身で陸軍士官学校に進んだ一期生である。角田房子『いっさい夢にござ候』(中公文庫)を参照のこと。

・両津港でレンタカーを返し、ジェットフォイルに乗船して新潟へ戻る。特急いなほ号で酒田へ。海側の窓際に座れたが、もう夜なので車窓の風景を眺められなかったのが心残り。駅の売店で買った新潟の地ビールを飲み、お米でつくられた新潟チップスをかじりながら、庄内平野での行動プランを練り、それから森敦『月山・鳥海山』(文春文庫)を読む。

(続く)

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8月某日 佐渡(1)(佐渡金山、郷土博物館、北朝鮮拉致事件、北一輝)

◇第一日
【キーワード】佐渡金山、郷土博物館、北朝鮮拉致事件、北一輝

・23:30新宿駅前発の夜行高速バス→5:30新潟駅前着。夜行バスはやはり疲れる。満席、乗客のほとんどは20代、ひょっとしたら10代かとも思われる若さ。30代の私が最高齢だったろう。
・早朝で路線バスが出ていないので、両津港行きの高速船が出る新潟港まで歩く。
・7:00新潟港発の高速船ジェットフォイルに乗船(早朝往復割引で購入)→8:00両津港着。ジェットフォイルというのはどのような構造なのか知らないが、船内アナウンスによると、水中翼だけ海中であとの船体は海面上に浮揚して時速80キロ前後で高速航行。以前、浮上してきたクジラと衝突して怪我人が出た事故があった、クジラの浮上は予測できないのでシートベルトを着用してください、とのこと。

・まず、佐渡金山に行くことにして、両津港からバスに乗車。路線バス一日乗車券(1,500円)を購入。佐渡島は北の大佐渡山脈、南の小佐渡山脈に挟まれる形で東西に国仲平野が広がっていて、そこを約1時間かけて横切る。観光客ばかりでなく、お彼岸なので、お花を抱え、お供え物を包んだ風呂敷を手にした人々がところどころで降りていった。佐渡島西岸北寄りの相川で下車。佐渡金山へはここで乗り換えだが、次のバスが来るまで2時間近くあるので、相川近辺を散策。
・相川は海沿いの小さな港町。かつては佐渡金山から海へ出る玄関口として江戸時代には佐渡奉行所が置かれた。佐渡島はもともと金銀など鉱産物が産出することで知られていたが、大金脈としてのいわゆる佐渡金山が発見されたのは1601年、江戸時代に入ってからのこと。佐渡は全島天領で、佐渡奉行所は金山だけでなく島の行政も管轄。歴代の奉行は頻々と交代して300人以上を数え(奉行が島の経済力を握って実力を持ってしまうのを防ぐためだろうか)、赴任した人の中には大久保長安、荻原重秀、川路聖謨といった名前も見える。相川の街並みも賑わって一時期は人口5万人にも達したという。その面影は現在ではほとんどうかがえない。
・佐渡奉行所は海を臨む高台にある。商店街を抜けて、急な階段坂道を上る。途中、江戸時代の刑場跡を通りかかる。近くに、戦前に建てられたと思しきモダンな木造建築あり。
・佐渡奉行所は遺構の上に当時の建物を再現。小判製造等の作業は奉行所で行なわれていたそうで、その関連で金の精錬から鋳造までの過程に関する展示室が敷地内にある。解説員による精錬作業の実演も行なわれていたが、見ていくには時間が足りなかったので、次の目的地である相川郷土博物館の場所だけ尋ねて移動。

・明治維新後、佐渡金山は明治新政府直営となったが、その後、三菱に払い下げられた。その管理施設だった建物が相川郷土博物館となっている。鉱山関係の資料や郷土の民具等を展示。相川には金山労働者向けの遊郭があったそうで、そこで働く女性たちに関する展示が目を引いた。心中にまつわる話が色々と伝わっているらしい。
・各地にある郷土博物館の、手作り感のある展示、何よりも、ほこりっぽくすえた匂いの漂う空気が何とも言えずかぐわしくて好き。展示資料の詳細は分からなくても、ぼんやりと眺め、匂いをかいで、この雰囲気に浸り込むこと自体が旅の醍醐味の一つだと思っている。
・相川郷土博物館は隣の有田八郎記念館と接続している。有田の生地は佐渡南部の真野らしいが、佐渡出身の名士という位置付け。有田八郎は外交官、戦前に平沼騏一郎・米内光政内閣で外務大臣を務め、戦後は革新陣営から東京都知事選挙に立候補したこともある。三島由紀夫の小説『宴のあと』のモデルにされて訴訟を起こしたことでも知られている。
・博物館前の崖際には浮遊選鉱場の廃墟がそびえている。見上げると壮観だ。ふもとにやはり管理施設だった建物があり、その中で明治期の金山の様子が撮影された写真の展示。

・相川のバス停に戻り、バスに乗って佐渡金山へ。
・佐渡金山は宗太夫坑と道遊坑の二つを見学できる。坑道にはその掘削の指揮を取る山師の名前がつけられている。坑道の内部はひんやり、平均気温は13度くらいで一定、酒作りに最適とのことで、酒の貯蔵庫もあった。
・宗太夫坑は江戸時代の坑道で所要30分ほど。中では蝋人形で金山掘り作業を再現。縦横様々な方向に掘り進めているので排水の工夫が重要で、水上輪というアルキメデスの原理を応用した揚水方法が目を引いた。
・道遊坑は明治以降にも掘り進められており所要40分ほど。道遊坑には運搬用トロッコの線路が引かれ、坑道の外にはディーゼル機関なども置かれている。近代以前と以後、両方の鉱山技術を比較できる。
・昔から鉱山技術は佐渡島の普段の生活技術にも応用されていたこと、労働者が全国各地から集まってきたので、たとえば江戸の新しいファッションなども入ってきていたというのも興味深い。
・囚人の他に無宿人(各自の事情で住所不定というだけで、罪は犯していない)も江戸から送られてきて、過酷な労働環境で亡くなった無宿人の慰霊碑もある。
・外に出ると、道遊の割戸というのが景観上の目印になっている。その手前には、明治新政府の初代の佐渡鉱山局長となった大島高任にちなむ高任神社というのがあった。彼は岩倉使節団のメンバーとしてヨーロッパで鉱山を視察、帰国後は鉱山学者として著名になった人物らしい。
・神社があって、木々の生い茂った山から海の眺望が広がるというロケーション、今年の5月に訪れた台湾の金瓜山の風景を思い浮かべた(→こちら)。相川の遊郭が残っていれば、それが九分に相当するという感じだ。
・見学後、次のバスが来るまで時間がある。バスの本数が少なくて接続が悪い。佐渡金山の受付窓口の人からタクシー会社の電話番号を教えてもらって呼び出した。待っている間、売店で売っていた金箔がけソフトクリームをなめる。タクシーで次の目的地の佐渡歴史伝説館に移動。運転手さんが佐渡の地勢や名物について色々と話してくれた。

・相川から再びバス通りに沿って南下。途中、真野のあたり住宅が建ち並ぶ一画を通過した際、運転手さんが一軒の家を指して、「あれが、曽我ひとみさんのお宅ですよ」と教えてくれた。さらに進むと一軒のお店があり、「あそこに雑貨店があるでしょう、あそこで買い物した帰りに拉致されたんですよ。このあたりは全然寂しくないでしょ、人もたくさん住んでいる地域なんですけどねえ」。この道路と並行してすぐ裏手に浜辺がある。そこから曽我さんは北朝鮮へ連れ去られた。まだ帰国できていないお母さんの救出を呼びかけるポスターが何枚かあたりに貼ってあった。
・「順徳上皇関連の遺跡も回るつもりで、歴史伝説館から歩いていく」と話したら、運転手さんは「あそこまで遠いよ。…しょうがない、かわいそうだからついでに連れてってあげるか」とメーターを止めて、順徳上皇が葬られたとされる真野御陵まで往復してくれた(感謝!) 写真だけ撮る。佐渡初日は様子見のつもりでバス・徒歩中心に旅程を組み立てていたが、実際に動き始めると地図で見た印象とは異なってかなり広い島だ。「歩きじゃ無理ですよ」とタクシーの運転手さんから言われた。そういえば、佐渡奉行所で受付のおばさんに相川郷土博物館の場所を尋ねたときも「若いとやっぱり体力あるのねえ」と感心されたが、こういうことなのかと今さら納得。
・佐渡歴史伝説館は、電動人形劇で佐渡に伝わる歴史的背景や伝説、具体的には順徳上皇、日蓮、世阿弥など佐渡に流された人々や、鶴の恩返し、安寿と厨子王、佐渡おけさといった昔話を再現。
・タクシーの運転手さんに言われて初めて気付いたのだが、佐渡歴史伝説館の“名物”は土産物コーナーでおせんべいを売っているチャールズ・ジェンキンスさん。曽我ひとみさんのご主人である。そういえば、佐渡のどこかで売り子のアルバイトをしていると聞いた覚えはあったが、ここだったのか。居合わせたおばさんグループと店員さんのやり取り、「ジェンキンスさんはいないんですか?」「いま、休憩で食事に出てるんですよ。あと15分くらいで戻ると思いますけど、お急ぎでしたら呼んできますよ」。一緒に記念撮影OKらしい。売り場には、旅情報番組のタレントと一緒に写った写真が何枚か張り出され、その中に横田さん夫妻や飯塚繁雄さんと一緒の写真も混じっていた。私は待たずに立ち去った。見世物パンダにしてしまうようで、何だか気がとがめるようなわだかまりが胸中にわきおこってきたから。

・佐渡歴史伝説館を出て歩く。近くに、山本悌二郎の顕彰碑があった。有田八郎の実兄、政友会の代議士で、田中義一・犬養毅内閣で農林大臣を務めた。二人ともこの真野の生まれらしい。大通り沿いに山本家の実家の跡もあり、その近くには幕末期の蘭学者・医学者として知られる司馬凌海の生家を示す碑もあった。司馬凌海は司馬遼太郎『胡蝶の夢』に登場する。先ほど通りかかった曽我さん宅の前を通って、佐渡博物館へ。歩いて30分以上はかかった。
・佐渡博物館。佐渡島に関する自然史、考古学、歴史の展示がある。佐渡ゆかりの人々の一覧表があって、松尾芭蕉をはじめ色々な文学者が渡って来ているのを知る。戦国時代までは佐渡島内部でも色々な勢力が競い合っていたらしく、あちこちで城郭跡も発掘されている。有力なのは本間氏だが、もとの来歴は相模国だという。佐渡全体が統一されるのは、豊臣秀吉の命令を受けて上杉景勝が直江兼続らの軍勢を派遣してからのこと。関が原の戦いの後は徳川家の天領となる。金銀鉱山に関する展示の資料を購入。常設展示として土田麦僊の素描画が集められているはずなのだが、この日は陶磁器の特別展をやっていて、見られず。受付の人に両津港行きバスの時間を教えてもらって、時間に合わせて館を出た。

・来た時とは違ったルートをたどるバスに乗った。車窓の風景を眺めるのも旅の目的の一つなのだが、深夜バスではあまり眠れず、炎天下でかなり歩いたので、必然的にウトウト。
・あらかじめ北一輝関連の場所をマッピングしておいたので、両津港の近くまでさしかかったところで下車。両津市湊の商店街、生家がまだ残っているが、所有者はもう関係ないらしい。並ぶお店はほとんどやっていない。お盆だからというのではなく、もう閉店してしばらく経つ感じである。ただ、人の気配はするので、商店街風の住宅街という印象。
・歩いて3分ほどの若宮八幡神社の境内に、北一輝・昤吉兄弟の顕彰碑。銘文は安岡正篤による。安岡と北一輝がそんなに親しかったとも思えないが、国家主義運動つながりで戦後の生き残りは安岡くらいだからか。神社の隣には北兄弟も通っていた両津小学校がある。
・北家の菩提寺だった勝広寺も歩いてすぐの所にあるので訪れた。境内で作業をしていた若い男性に北一輝の墓の場所を尋ねたら、1キロくらい離れたところに墓地があって、ちょっと分かりづらいかもしれない、とのこと。「車でいらっしゃったんですか?」「いえ、歩いて行くつもりです。」「じゃあ、車で連れて行ってあげますよ」とおっしゃってくださった。申し訳ないので固辞したのだが、すぐ車を動かしてきてくれたので、お言葉に甘えることにした。
・住職の息子さんだという。車中で色々とお話をしてくださった。北一輝は法華経を熱心に唱えていたから日蓮宗という印象を持たれやすいが、こちらのお寺は浄土真宗である。一輝の母親のリクという人が信仰熱心で寺によく来ていたこと、昭和初期に本堂を建て替えた時に屋根瓦の半分以上は一輝が寄進してくれたこと、自分は会ったことはないけれど松本健一さんがよく訪ねていらっしゃったと先代から聞いている、といったことをうかがった。「ただ、北一輝で町おこしをしようにも、観光で来る皆さんは知らないんですよねえ」
・緑鮮やかな田んぼが一面に広がる中を道は進み、やがて勝広寺の墓苑が見えてきた。この中に北一輝の墓もある。確か、東京から分骨されているはずだ。お寺の若主人によると「当時の住職が頼まれてお骨を東京まで取りに行ったんですよ」。佐渡に北家の縁戚はいるが、墓参に来る身内はもういないらしい。
・すでに夕刻、空から降り注ぐ陽光は薄紫色になっている。山並みと田んぼの青々とした緑と混ざって、あたりは淡い哀愁を帯びた色に染まっている。「良いところでしょう。人里 離れて淋しそうに感じる人もいるかもしれませんが、ここで草むしりとかしてますとね、気持ちが落ち着くんですよね」と若主人。帰りの車中で「北一輝さんは、ひょっとしたらこの狭いところから飛び出したかったのかもしれないな、そんな感じもします」としみじみつぶやいておられたのも印象に残った。

・途中で車から降ろしていただき、両津の街を歩く。立ち止まって地図を見ていたら、近所の人が「どちらまでいらっしゃるんですか?」と尋ねてくれる。タクシーの運転手さんにしても、勝広寺の若主人にしても、人情の濃やかな島だとつくづく感じ入る。
・どこで夕食をとろうかと物色しながら歩いていたら、いつの間にか両津港の船着きターミナルに出た。タクシーの運転手さんから、島の中心は西岸の方で、両津にはあまりお店はないと聞いていた。ターミナルの上の食堂に行って、イカと長藻の丼もの、それから地ビールを注文。
・宿泊先に連絡して送迎車を出してもらい、チェックインは19時過ぎ。ターミナルの土産物屋で買ったワンカップの地酒二銘柄を部屋で飲み比べる。テレビをつけたら「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」をやっていて、つい見てしまった。私は麻生久美子ファン。それから、藤沢周平『三谷清左右衛門残日録』(文春文庫)をめくり、いつしか眠り込んでいた。清酒呑んで藤沢周平というのもジジくさいな(笑)

(続く)

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