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2009年7月26日 - 2009年8月1日

2009年8月 1日 (土)

「私は猫ストーカー」

「私は猫ストーカー」

 古本屋でバイトするイラストレーターのハル(星野真理)、趣味は“猫ストーカー”。坂道、お寺の境内、軒のせまった細い路地裏。舞台は谷根千か(そういえば、漱石の猫の家もこの近辺だな)。界隈に出没する猫をウォッチしてうろつく毎日である。

 古本屋と猫という取り合わせは風情があってなかなか良い。姿を消した“看板猫”チビトムを探す貼り紙に「傲岸不遜、されど可愛い奴」とあったが、まさにその通り。猫どものマイペースぶりは、何とはなしにこちらの視線を誘う。チビトムとハルのツーショット、チビトムが眠そうにトローンとして、合わせてハルもトローン。猫もかわいいし、星野真理の飾り気のない面持ちもかわいいなあ。

 猫探しを軸に、さり気なく織り成される人間模様。猫の表情、そして街のたたずまいが醸しだす表情、両方を映し出す落ち着いたカメラアングル。とりわけ路地裏にゆったり流れる時間感覚に身をゆだねると心地良い。地味だけど、こういう映画は大好き。

【データ】
監督:鈴木卓爾
原作:浅生ハルミン
脚本:黒沢久子
撮影:たむらまさき
出演:星野真理、徳井優、坂井真紀、江口のりこ、品川徹、諏訪太朗、宮崎将、ほか
2009年/103分
(2009年8月1日、シネマート新宿にて)

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「真夏の夜の夢」

「真夏の夜の夢」

 東京から故郷に戻ってきた傷心のゆり子は、幼い頃に出会ったキジムンのマジルーと再会する。シェークスピア「真夏の夜の夢」が原案、沖縄の離れ小島を舞台に精霊との交流を描いたファンタジー。アイデアはとても面白いとは思うけど、セリフまわしや振り付けが何となく“寒い”というか(ただし、平良とみは別格。あのおばあが語り始めるとピシッと締まる)、全体的に村芝居的なノリで、私はちょっと入り込めなかった。中江裕司監督の「ナビィの恋」は結構好きな作品だったんだけどな。

【データ】
監督・脚本:中江裕司
2009年/105分
(2009年8月1日、シネマート新宿にて)

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「バーダー・マインホフ──理想の果てに」

「バーダー・マインホフ──理想の果てに」

 1968年前後、ヴェトナム戦争、キング牧師暗殺、パリ五月(学生)革命、色々と盛り上がった世相の中(冒頭、ヌーディスト村のシーンから始まるのも当時の雰囲気をうかがわせる)、一つの彩りを添えたドイツ赤軍。創立者である左翼活動家のアンドレアス・バーダー、ジャーナリストのウルリケ・マインホフ(二人の名前を取ってドイツ赤軍はバーダー・マインホフ・グルッペとも呼ばれた)を中心に、彼ら彼女らのテロ活動が過激化し、自滅していく姿を描く。主義主張は抑えられ、当時のニュース映像もまじえて、ドキュメンタリー風ドラマという感じだ。2時間半の長丁場だが、飽きずに観ることができた。

 この映画自体は明確なメッセージ性を出すような愚は避け、観客なりに様々な角度から観ることが可能なつくりになっている。ただし、この手のテーマだと、受け取る側の問題として(邦題からも何となく感じられるところだが)、「崇高な理想を追った純粋な若者たちが、なぜ暴力に走ったのか?」という感想を漏らす人が多いんだろうな。

 しかし、問いの立て方が間違っている。「純粋、にもかかわらず、テロに走った」のではなく、「純粋、だからこそ、頭が単細胞→英雄主義的な自己肥大妄想に感染しやすい→テロに走った」のである。私には、ラスコーリニコフの薄っぺらなカリカチュアという程度にしか思えない。「暴力はいけない」なんて陳腐なことを言うつもりはない(それは政治の問題であって、倫理の問題ではない。残念ながら、政治と倫理とは必ずしも一致しないことがある)。帝国主義が何だ、ともっともらしいことを言ったところで、所詮は英雄妄想を正当化するための口実として“社会正義”を利用しているだけで、その薄汚さが鼻についてたまらない。公共的正義よりも自分探し的=私的な自己満足の方が優先されている(“正義”のために戦っている俺たちって格好良い、という自己陶酔)としか思えず、共感の余地が全くない(格好良く言えば、アイデンティティ・ポリティクスの一変種か)。「理論ではなく、行動で示さなくては」という発言でマインホフが揺らぐシーンもある。しかし、そうした“べき”論の言説自体が一つのイデオロギー=観念論として自分たちを呪縛しているという逆説が分からない、つまり自己分析のできない単細胞だったわけである。馬鹿は暴力に訴える→取り締まらなければならない→必然的に警察国家を将来してしまう。度し難い。レバノンまで軍事訓練に行って、女性が裸になって、パレスチナ・ゲリラの指揮官から反感をかう。反帝国主義と性の解放は両立するなんてのたまうが(ヴィルヘルム・ライヒを真に受けた馬鹿どもだ)、自分たちの“先進思想”を誇示→イスラムの慣習を無視→これ自体が極めて“帝国主義”的な態度じゃないか。

 …ああ、反芻すればするほど彼らの薄っぺらさにムカムカしてくる。要するに、ドイツ赤軍及びその支持者たちの、理念ではなく人間としての馬鹿っぷりをさらし者にした映画である。確信犯的なニヒリストだったらむしろ怪しい魅力を感じるところなんだが、そういう要素はかけらもない。

 テロリストつながりでは、赤い旅団によるモロ元首相誘拐・殺害事件に題材をとった「夜よ、こんにちは」(マルコ・ベロッキオ監督、2003年)という作品を観たことがあるが、こちらは政治性というよりも独特な人間ドラマに仕上がっていた。モロの敬虔なカトリックとしてのたたずまいが印象に残っている。日本だとあさま山荘事件か。「突撃せよ!あさま山荘事件」はハリウッド活劇風につくってはいるが、ありきたりな駄作。同じ頃に立松和平原作で「光の雨」という日本赤軍の自滅過程をテーマとした映画があったが、典型的な「純粋に理想を求める若者たちがなぜ…」調で、これはこれで明らかな駄作。日本赤軍の内輪リンチは、「バトル・ロワイヤル」的なアクション・ホラーと割り切った方が面白いんじゃないか。

【データ】
原題:The Baader Meinhof Complex
監督:ウリ・エデル
製作・脚本:ベルント・アイヒンガー
2008年/ドイツ・フランス・チェコ合作/150分
(2009年7月31日、渋谷、シネマライズにて)

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2009年7月31日 (金)

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』

アンソニー・ギデンズ(松尾精文・松川昭子訳)『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(而立書房、1995年)

・「モダニティは、自然的世界の社会化──人間の活動の外在的媒介変数である構造や事象に代わって、社会的に構成された過程や作用が重きをなしていくこと──と関係している。たんに社会生活そのものだけでなく、かつては「自然現象」であったものをも社会的に構成されたシステムが支配するようになってきたのである。生殖はかつては自然現象のひとつであり、したがって、異性愛活動は、必然的に生殖の中心的行為であった」→しかし、避妊法・生殖技術→生殖の社会化→セクシュアリティは完全に自立(かつては、妊娠、出産時の死亡等の恐怖があった→性的快楽を解放)→「セクシュアリティが社会関係の「不可欠な」構成要素となったため、異性愛は、他のすべてのことがらを判断するための基準ではもはやなくなった」→自由に塑形できるセクシュアリティ
・「モダニティは、物理的社会的過程の理性にもとづく理解が、神秘主義やドグマによる恣意的支配に当然とって代わっていくという意味で、理性の優位性と不可分な関係にある。理性には感情の入り込む余地が存在せず、感情は、たんに理性の領域の外側に位置するにすぎない。しかし、現実には、感情的生活は、日々の変わりゆく活動条件のなかで新たに秩序づけられていったのである。」
・ロマンティック・ラブという観念の浸透→夫婦関係に特別な意味を付与→しかし、男性性・女性性という既成の差異によって特徴付けられた一体感
・ポスト伝統社会→自分で自分自身のライフスタイルや自己アイデンティティ(自己にまつわる過去・現在・未来を連続的に統合する叙述)を絶えず書き換え続けなければならない→再帰的自己自覚的達成課題としてのアイデンティティ
・嗜癖(addictionか?)はそれが達成できない自己不信感への防衛反応として理解できる。アイデンティティ形成で他者依存→ex.セックス依存症、共依存など
・選択の自由→「自己との対話」→否定的なアイデンティティを書き直すきっかけ
・「信頼とは、相手の人間を信用するだけでなく、相互のきずなが、将来生じうる精神的打撃に耐えうる力をもつ点を信用していくこと」「相手を信頼することはまた、相手の真に誠実に振舞うことができる能力に、一か八か賭けること」「二人がいろいろな問題で一緒になって育んでいく共有の歴史は、必然的に他の人たちを締め出し、他の人たちは、一般化された「外部世界」の一部となっていく。排他性は信頼を保証するものではないが、それにもかかわらず、排他性は、信頼感を触発する重要な要素」
・「経験の隔離」→「社会的活動を超越的なものや自然現象、生殖と結び付けてきた道徳的・倫理的特徴の消失」→日々の型にはまった行いからもたらされる安心感が崩される(その代用的行動が嗜癖など)→精神的・心理的に傷つきやすくなった→「自己が価値のない存在で、自分の人生が空虚で、自分の身体が無力な、不適格な装置であるという思い」は「モダニティの内的準拠システムの拡がりの結果として生じている」→性的活動、「ロマンスの探究」などは、空虚感に由来する達成感の探究として理解できる

※避妊の普及・生殖技術の進歩(=「経験の隔離」)→生殖と、そこに結び付いていた性愛にまつわる感情とが分離→性愛にまつわる言説が、所与の自然的条件としてではなく、社会関係のロジックに組み込まれる→ところで、性愛は身体・感情の両面において自己アイデンティティと関わる→アイデンティティ形成のあり方が社会的な再帰性に左右される、大雑把に言ってこんな感じに理解していいのだろうか。

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2009年7月30日 (木)

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ(松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳)『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』(而立書房、1997年)

・かつて啓蒙主義は世界の認識→理想・目的に向けて統御可能という信念を持っていた。ところが、再帰的近代化:社会の近代化→自らの存在の社会的諸条件を省察→条件を変えていく→工業社会の意図していなかった潜在的な脱埋め込みと再埋め込みの過程→人間の知識が増大したからこそもたらされる不確実性。

ウルリッヒ・ベック「政治の再創造」
・「私のいう再帰的近代化とは、発達が自己破壊に転化する可能性があり、またその自己破壊のなかで、ひとつの近代化が別の近代化をむしばみ、変化させていくような新たな段階である。」「…再帰的近代化とは、通常の自立した近代化が、また、政治と経済の秩序に一切影響を及ぼさずに、内密に、無計画に進行する工業社会の変動こそが、工業社会の諸前提と輪郭を解体し、もう一つ別のモダニティへの途を切りひらくモダニティの《徹底化》を含意していると考えることができる。」
・「リスク社会は、みずからが及ぼす悪影響や危険要素を感知できない、自立した近代化過程の連続性のなかに出現していく。こうした過程は、工業社会の基盤を疑わしくさせ、最終的にその基盤を破壊してしまうような脅威を、潜在的にも、また累積的にも生みだしていくのである。」
・科学技術のもたらす予見不可能性→一般的通念としての合理性への疑い→社会は再帰的になる
・「個人化とは、確信できるものを欠いた状態のなかで、自己と他者にたいする新たな確実性を見いだし、創造することを人びとが強いられているだけでなく、工業社会の確実性の崩壊をも意味している」→個人化は一人ひとりの自由な意思決定に基づいておらず、自分の生活歴を自分で立案・演出するよう強制されている→個人は、機能主義モデルが想定する以上に複雑な言説による相互作用で組成されている。
・再帰的近代化→機能分化は実質的な分裂過程→多元的な意味の並立したシステムの形成(専門知識の特殊性は他の特殊性と対立しかねない。例えば、原子力開発と環境運動)→専門知識の特権性を排除、情報開示、公開討議の必要。

アンソニー・ギデンズ「ポスト伝統社会に生きること」
・地球規模の壮大な実験→抽象的システムの侵食という衝撃のもと、「専門的知識の置き換えと再専有」。
・伝統:前近代社会において諸秩序を一つにまとめ上げていく接着剤。反復性。現在を過去に結び付けていく一連の要素を絶え間なく解釈する作業。「定式的真理」→儀礼等が「真理」の判断基準。状況依存的。
・衝動強迫症:伝統のもつ「真理」との結び付きを失ってしまった反復行動。「伝統主義を伴わない伝統」。
・反復行動は、「自分たちが承知している唯一の世界」にとどまるための方法、つまり、「相容れない異質な」生活価値や生活様式に身をさらすことを避けるための手段。
・選択とは、過去との結び付きで未来をコロニー化し、過去の経験が残した感情と折り合いをつける積極的な側面もある→ポスト伝統の状況下、自己選択→嗜癖も一つの選択。
・アイデンティティ:反復再現と再解釈という恒常的過程→時間を超えた恒常性の創出→過去を予想される未来へと結び付けること。
・専門知識:非人格的原理・分権的・流動性→脱埋め込み→抽象的システムにおいて再埋め込み→再帰性
・「抽象的システムのなかには、人びとの生活の非常に重要な要素となったために、つねに既成の伝統と類似した、岩盤のような堅固さを一見示しているものもある」(ex.医師免許、学位など)。「ひとたび伝統と絶縁してしまった以上、近現代のすべての制度装置が信頼という潜在的に不安定なメカニズムに依存しているという事実には、根本的な意味がある」。
・「《衝動強迫症》とは、《凍結した信頼》、つまり、対象となるものがない代わりに、際限なく続いていきやすい自己投入である」。「嗜癖は、かつて伝統が供給してきたし、またあらゆる形態の信頼も同じように想定してきた例の完全無欠性に相対するものなのである。抽象的システムの世界は、またライフスタイルの選択が潜在的に開かれた世界は、…自発的な参加を要求している」。「人びとは、信頼を、代替手段の選択として投入していくのである」。
・グローバル化:目の前にないものが空間を再構築→目の前にあるものまでも支配していく過程。「誰もが「部外者」でいることができない世界は、既存の伝統が他者との接触だけでなく、代替可能な数多くの生活様式との接触が避けられない世界」。「社会的きずなを、過去から受け継いできたものでなく、むしろ望ましい結果が得られるように《つくり出して》いかねばならない社会」。

スコット・ラッシュ「再帰性とその分身──構造、美的原理、共同体」
・ベック、ギデンズの議論を踏まえた理論的な検討。

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2009年7月29日 (水)

ポール・コリアー『戦争・銃砲・投票──危険地帯のデモクラシー』

Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009

・アフリカ諸国など貧困と政治的不安定に苛まれる“最底辺の10億人”(bottom billion)。どんな対策を立てるにしても、まず実施主体となる政府に実効性を持たせることが出発点である。具体的には、国内的・対外的安定(security)と政策への責任(accountability)が国家のインフラとして最低限の要件→しかし、民族的多様性・対立状態(ethnic diversity)のため、公共財の利用が困難→国家再建の前提としてナショナル・アイデンティティの確立が必要。
・紛争終結後、新政権の正統性を確立するため民主的な選挙を実施する→しかし、“最底辺の10億人”の国々はたいてい民族的に多様→アイデンティティ・ポリティクスが激化→選挙はかえって暴力を誘発しやすい(民主的選挙→政治統合→暴力抑制、という経過をたどる先進国とは対照的)。
・紛争終結後の10年間が最も危険→①国連等による平和維持活動、②インフラ整備も含めて経済的支援が必要
・平和維持活動、over-the-horizon-guarantee(いつでも大軍を派遣できる状態を整えておくこと→シエラレオネ内戦で少数のイギリス軍の存在が抑止効果)→費用対効果に見合う成果がある。
・紛争終結後の経済的支援→インフレ抑制→貨幣への信頼を取り戻し、国外に逃げていた資本(capital flight)を呼び戻せる。インフラ整備は雇用創出にもつながる。ところで、土木工事にもスキルは必要→しかし、長引いた紛争でスキルが失われている→訓練が必要→“国境なきレンガ積み職人”が必要!
・独裁者(例えば、旧ザイールのモブツやジンバブエのムガベ)は金が欲しい、しかし、人気取りのため税はかけなくないし、輸出用天然資源も枯渇→お札を刷る→ハイパーインフレ→国民に税と思わせない実質的な増税。
・カラシニコフ銃(安価で操作性も高い)の流入→内戦リスク→国内情勢が不安定化して政権側は軍事費拡大(国外からの援助も流用)→軍拡に隣国が警戒心→地域全体の不安定化→経済にも悪影響(誰も投資しない)→この悪循環をどうするか? 地域的な協力関係を構築して不安定を解消する努力が必要→国家再建のインフラとしてsecurityを確保
(※松本仁一『カラシニコフ』などを参照のこと→以前にこちらで触れた)
・植民地帝国の解体→部族意識とたまたまの国境線→国境線の範囲内に住んでいるという意味では国家(state)だが、同じ国民としての帰属意識(national identity、national loyalty)が共有された国民国家(nation)ではない。ナショナル・アイデンティティが公共財の利用の大前提となる(そうでないと、支配部族が独占してしまう)。先進国における多文化主義(multiculturalism)は、同じ国家への帰属意識を前提とした上での多文化尊重である点に留意。
・アフリカ諸国の大半は、安全保障の点では規模が小さすぎ(部族ごとに独立すると収拾がつかない)、国内的凝集力が生み出せない点では規模が大きすぎる(部族・民族的対立)→ケースに応じて国家統合・連合も必要。
・民族的分裂状態を克服し、国家建設の基盤としてナショナル・アイデンティティ形成の必要(立場が異なっても集団的行動が可能となるように)→指導者のリーダーシップが不可欠(インドネシアのスカルノ、タンザニアのニエレレが成功例。対して、ケニヤのケニヤッタは経済発展には成功したが、キクユ族に依存→死後、キクユ族内で後継者争い→暫定的にマイノリティーであるカレンジン族のモイを大統領に→モイが実権を握り、カレンジン族優位の体制に)。
・デモクラシー確立に向けて暴力を抑制するには? Accountability→公共投資における透明性を確保するには? Security→安全保障を確保するには? 以上3つの問題点について具体的な提言。
・著者の前著『最底辺の10億人』については以前、こちらで触れた。

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2009年7月28日 (火)

R・A・ダール『政治的平等とは何か』

R・A・ダール(飯田文雄・辻康夫・早川誠訳)『政治的平等とは何か』(法政大学出版局、2009年)

・デモクラシーの理念:実効的な参加。投票における平等。社会のメンバーが政策について知る実質的な機会があるか。政策の議題の設定の仕方。
・政治的資源、知識、手腕、動機はいついかなる場でも不平等に配分されている。政治活動に費やせる時間的制約。政治単位の規模のジレンマ。市場経済。国際システムからの制約。深刻な危機(戦争、災害etc.)→政治的平等にとっての障害
・自由・公平・頻繁な選挙。表現の自由。複数の情報源へのアクセス。結社の自律性。→デモクラシーの進展度合をポリアーキー・スコアで測定
・政治的不平等の累積→社会内で特権階層が分化→他の人々は不平等克服の可能性がなくなってしまう
・消費志向型社会→豊かさへの満足ではなく、自分より上位にある者への羨望を動機として常に上昇志向→市民が他者と共に「共通善」を目指す政治社会は可能か?

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2009年7月27日 (月)

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』(平凡社、2005年)

・日本の韓国保護国化に際して、Th・ルーズベルトは日本を支持(南下政策をとるロシアへの牽制)→朝鮮人は民族自決を掲げた(とされる)ウィルソンに対してどのような働きかけをしたのか、アメリカ側はどのような対応を取ったのか?
・1911年、寺内正毅総督暗殺計画の容疑→キリスト教徒・新民会員を中心に一斉検挙→百五人事件
・ウィルソンの14か条にある「民族自決主義」→抽象的な理念の一方で、具体的な問題に応じて差がつけられていた(自治能力があると認定できるか、アメリカにとって有益かという基準)→朝鮮に適用される可能性は初めからなかった
・三・一独立運動の直前、李承晩はウィルソン・パリ講和会議宛に請願書→委任統治を求める→突っ返された。李承晩の独断行動は他の運動家から反発を招き、別々の行動→分裂ぶりがアメリカ側に印象付けられてしまう。
・金奎植→パリ講和会議に働きかけ→成功せず。
・漢城政府、露領政府、上海政府→統合へ。フィラデルフィアで「韓人自由大会」(徐載弼ら)
・三・一運動→アメリカ人宣教師は驚く(日本は朝鮮人主導だとは思わず、アメリカ人宣教師が唆したと疑った)→日本当局の残酷な弾圧(ex.提岩里事件)→傍観できない(No Neutrality for Brutality ただし、あくまでも残虐性への批判であって、日本の朝鮮統治そのものを否定したわけではなかった)→アメリカ国内でも日本批判の声(ただし、アメリカ政府は日本の国内問題と理解→対立は避ける態度)
・長谷川好道総督の辞任→後任総督をめぐって原敬と山県有朋の間で綱引き:原は政務総監・山県伊三郎(山県有朋の養子)を後任総督とすることによって文官政治に道を開こうとした→しかし、陸軍の実力者である山県有朋は文官総督に反対→妥協案として海軍の斎藤実総督(政務総監には内務省出身の水野錬太郎)→武断統治終わり
・文化政治:物理的な暴力は相対的に抑制されたが、「一視同仁」のスローガンで同化政策。
→アメリカ側は基本的に満足し、朝鮮問題に対する無関心に戻った。
・しかし、独立運動は終わっておらず、満洲・シベリアで活発化→間島出兵
・1921年、ワシントン会議→李承晩たちの働きかけは失敗→コミンテルンに働きかけようとする独立運動家たちが活躍し始める→1922年、モスクワの「極東労働者大会」に呂運亨・金奎植らが出席。出席者のうち、日本代表団は民族主義を否定して社会主義の立場であるのに対し、朝鮮代表団には高麗共産党との関わりを持つ者が大半であっても独立優先→民族主義的な色彩が強かった。

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2009年7月26日 (日)

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』(九州大学出版会、2004年)

・近代東アジアにおける「伝統と近代」の異種交配現象という視点から三人の代表的知識人を比較思想史的に検討する。
・欧米文明=普遍・正という保証はない→近代化を成功とみなすとしても欧米近代由来の特殊的な負も導入された→清・朝鮮の近代化の失敗には欧米に特殊的な負の導入への抵抗という側面があったことも認識する必要があるという問題意識→「失敗の中の成功」「成功の中の失敗」という様相を捉える。
・鄭観応(1858~1914):中国の条約港知識人。変法派・立憲派→辛亥革命とは対立。単純な東道西器論者ではなく、西道の導入→東道の啓発という考え方。
・福沢諭吉:欧米文明を時間軸で相対化→一国独立に向けて目的化・基準化・手段化。儒教批判→儒教の負の面だけでなく、正の側面=道徳主義まで否定してしまう行き過ぎがあったと指摘(道徳主義→近代文明の負の側面を批判する契機があったはずだという著者の問題意識)。儒教的普遍主義から自国中心主義へと転回したと指摘。(※福沢理解が一面的で私には違和感があった。福沢は欧米文明=唯一の文明と捉えていた、と言う。しかし、福沢は『文明論之概略』で、欧米とて乗り越えられ得るとはっきり書いているが、どうなんだろう?)
・兪吉濬:初期開化派と付き合い→日本・アメリカ留学→近代思想を学ぶ→甲午改革に参加→俄館播遷で日本に亡命→1907年、日本の保護国化された朝鮮に帰国→現実主義的な愛国啓蒙運動に参加。東道と西道との異種交配→欧米文明の正の側面を導入しつつ、儒教文明の負の側面を否定→普遍主義。
・三人の万国公法のあり方、国際政治観、近代国家観を比較検討→福沢は国権重視、対して鄭・兪の二人は普遍性重視という点を強調する。
・本書の問題意識は意欲的で興味深いとは思うけれど、論点の選び方や引用の組み立て方が恣意的という印象を拭えない。たとえば、福沢=天皇大権の主唱者という指摘は明らかにおかしいだろう。

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梁賢惠『尹致昊と金教臣 その親日と抗日の論理──近代朝鮮における民族的アイデンティティとキリスト教』

梁賢惠『尹致昊と金教臣 その親日と抗日の論理──近代朝鮮における民族的アイデンティティとキリスト教』(新教出版社、1996年)

第1部 尹致昊の政治思想とキリスト教
・尹致昊(ユン・チホ、1865~1945)は日本・中国・アメリカ留学経験のある知識人。近代国家を目指して「独立協会」会長も務めたが、後に積極的な親日運動、日本の敗戦後に自殺。
・アメリカ留学→当時流行していた社会進化論的な「適者生存の原理」とキリスト教とを結びつけて理解→「産業文明国=善=永遠の至福、非産業文明国=悪=永遠の滅亡」という二項対立的論理による世界観
・アメリカで人種差別体験→文明化に成功した日本に正の価値を認めて「代理的な心の祖国」と位置付けて西欧への反逆を思い描く。他方で、朝鮮は負の価値を負ったものとして認識
・独立協会などの運動に関わるが、百五人事件で逮捕される→権力の怖さを知る
・「強者の不義」は闘争によって獲得された「正当な権利」→弱さは罪→朝鮮独立不可能論
・日本の植民地支配強化→「内鮮一体」以外に選択肢はない→「日本のアイルランドではなく、スコットランドになる」→戦争の拡大・長期化により、日本は朝鮮人の協力を必要としている、この機会に差別的待遇から脱する→「民族の発展的解体論」

第2部 金教臣の思想と「朝鮮産キリスト教」
・金教臣(キム・キョシン、1901~1945)は三・一独立運動に参加後、東京に留学、東京高等師範学校を卒業。内村鑑三の聖書研究会に出席。帰国後は教員のかたわら無教会主義の活動。逮捕・釈放の後、日本の敗戦直前に病死。
・キリスト者の単独性を重んじる無教会主義。「真正な愛国者であると同時に生きた神を知る人」として内村鑑三を尊敬→その上で、朝鮮独自の無教会主義
・「神の僕」として「近代人」を拒否。認識・行為主体としての「近代的自我」を確立すると同時に、信仰を媒介として自己を普遍的な他者に開放→「近代的自我」を超克
・神秘主義的傾向を持つ「復興会」に対しては、現代社会の不義を批判しないこと、シャーマニズム的形態=非理性的と批判。社会的キリスト教運動に対しては教義的な批判
・アメリカの宣教師→人種差別的、またキリスト教とは無関係な要素も流入→アメリカ的・非キリスト教的形式を除去すると同時に朝鮮独自のキリスト教を模索(異教の聖賢君子がキリスト教を知らなかったからと言って地獄に落ちるとは信じがたい)→伝統思想としての儒教との相違を弁別した上で接木→誠実さを重視(※内村鑑三『代表的日本人』を想起させる)
・植民地支配下でも「自己受苦」を責務とする→植民地批判

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苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』

苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』(弘文堂、2004年)

・教育を考える上でも立ちはだかる自由と平等との矛盾という根源的なアポリア、この問題を19~20世紀のアメリカ社会思想、とりわけ社会学者レスター・ウォード(1841~1913、アメリカ社会学会初代会長)を手掛かりに考える。
・ウォードは開拓民の子供、独学で身を立てた知識人。
・当時は社会ダーウィニズムが流行して自由放任主義礼讃(自然淘汰→現代で言えば自由至上主義)。しかし、現実には低位階層から這い上がるのは難しい。自由の国アメリカという理念の下、出自によらず社会的な上昇はできないのか?→ウォードは知性平等主義の考え方から、教育の機会の平等を主張した。機会の平等→努力や能力の差→結果としての不平等については社会的に認容する。能力の個人差は確かにあるが、それが階級・ジェンダー・エスニシティーといった出自の問題で左右されてはならない。
・教育の拡大→社会の平等化の手段という問題意識はデュルケムやヴェーバーには見られない。
・ウォードの考え方は、①社会改良の手段としての教育、②(個人の生得的な能力差を認めた上で)知性の発達可能性を前提とした教育の役割、③職業選択と職業上の成功の機会と結びつく教育機会の普遍化
・このように教育はライフチャンスを平等化するという考え方が広まるが、他方で現実には教育はこの要請に応えるのが困難→教育内部において、出身階層・ジェンダー・エスニシティー等による不平等が隠蔽され、維持・再生産されてしまう問題。
・ハイスクール拡張運動→異なる階層の出身者が同じ教室で机を並べること自体が最初は驚異的だった。
・①共和国の理念→自立した市民を育成するという要請。他方で、②産業社会からの要請→効率的な人材の育成・配分→教育の分化(当面必要ならば早期から職業教育)→階層分裂の可能性。①と②の矛盾をどう考えるか?
・能力の多様性の強調→競争を喚起しない代わりに、何が平等かも分からない(比較可能性がないから)→徹底した個性主義の教育は、機会の不平等を見えなくしてしまう。
・近代社会における子ども:「誰でもないが誰にでもなれる者たち」。①汎用性の高い普通教育→「役に立たない勉強」と受け止められる→学ぶことの意義は? 他方で、②将来の生活と直結する職業教育→「何にでもなれる自分」を早い段階で制約してしまう。
・戦後日本の教育について。教育の外にある社会経済的不平等を縮小しようとした平等主義→選抜・競争の原理が学校内部に入ってくる。しかし、成績差・学力差を生徒の差別感の問題と考える戦後日本の教育界の態度→教育における階層間格差の問題から目を背けてきた→社会的なコンテクストの中で、自由と平等との矛盾というアポリア、それに対して教育の果たす役割は何なのかという問いかけをしてこなかった。

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