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2009年1月11日 - 2009年1月17日

2009年1月17日 (土)

合唱曲でダラダラと雑談

 北原白秋・作詞、信時潔・作曲「海道東征」を聴きながら今書き込んでいる。天孫降臨、神武東征など日本神話を題材とした交声曲(カンタータ)。皇紀2600年記念で作曲された。戦前のレコードを復刻したCDを図書館から借りてきてiPodに落としたので、ノイズがざわつく。なかなかドラマチックな曲だと思うが、好きかどうかと言えば微妙。別に政治的思惑で言うのではなく、音楽としての好みの問題で。

 他に日本のカンタータとしては、大木正夫・作詞、佐藤眞・作曲「土の歌」のCDが手もとにある。この中の一曲、「大地讃頌」は中学・高校の合唱でよく取り上げられるから、歌ったことのある人も多いのではないか。あのサビの部分にオーケストラ伴奏がつくと、胸の奥にまでズシンと響いてくる。他の曲では核兵器の恐怖と、放射能によって大地が汚染されることへの怒りが歌われており、反核平和思想と大地礼讃の農本主義思想との結びつきが窺われる。大木は戦争中、皇国讃美の詩を多数書いたので戦後は不遇だったらしいが、農本主義という点では戦前も戦後も一貫していたようだ。なお、名編集者として知られた宮田毬栄さん(『追憶の作家たち』文春新書、2004年を読んだことがある)の父君にあたる。

 学校の合唱曲としては、むかし、ショスタコーヴィチ「森の歌」もよく取り上げられたと聞く。どうでもいいが、共産主義国で“オラトリオ”というのも妙なものだ。冒頭、深みのあるバリトン独唱、そして力強い男声合唱が続くあたりが私は好きでよく聴く。男声合唱の響きというのは、コサックの合唱団もあるが、私のロシア・イメージの一つになってすらいる。

 「森の歌」というと牧歌的なイメージが浮かぶかもしれないが、この曲はそういうのではない。独ソ戦におけるスターリングラードの戦いは第二次世界大戦の帰趨を決める一大転換点となった。スターリングラードを包囲するドイツ軍を、ソ連軍は人海戦術でさらに包囲するというとんでもない戦闘規模で陥った膠着状態、たとえばジャン・ジャック・アノー監督、ジュード・ロウ主演の映画「スターリングラード」の冒頭、その戦場パノラマが大写しにされるのが圧巻だった。それだけヴォルガ河流域の荒廃はすさまじく、戦火で焼けた森を復活させようと植林を呼びかけるのがこの「森の歌」の趣旨だ。ヒトラーは“スターリングラード”“レニングラード”という都市名にやたらとこだわって猛攻撃を命じ、対するスターリンも絶対死守を厳命、二人の独裁者の思惑によって膨大な死傷者が出されたことは周知の通りである。なお、ショスタコ(通は、さらに縮めて“タコ”と呼ぶ)の交響曲第七番のタイトルは「レニングラード」。レニングラード攻囲戦の最中に作曲された。スコアはマイクロフィルムにされてドイツ軍の包囲網を抜けて持ち出され、アメリカでトスカニーニによって初演された。以前、アリナミンVドリンクのCMでこの曲が使われ、宮沢りえとシュワルツェネッガーが「チーンチーン、ブイブイ」と歌っていたあのメロディーは、実はドイツ軍来攻を示すモチーフ。

 「森の歌」の第五曲「スターリングラード市民は行進する」は、スターリン批判の後に改名された。スターリングラードという都市名そのものが消滅したわけだし(現ヴォルゴグラード)。そういえば、ハチャトリアンやプロコフィエフが「スターリン・カンタータ」なるものを作曲していたらしいが、どんなものだか一度聴いてみたい。

 ロシアものでは、シュニトケの交響曲第2番「聖フロリアン」のアカペラ合唱が印象に残っている。ポリフォニックな響きが美しいのだが、突然止まって、オーケストラの不協和音でかき消されてしまうのが何ともはや。同じくシュニトケ「合唱のための協奏曲」は心の奥にまで静かにしみこむように美しくて好きだ。それから、新古典主義に転向した後のストラヴィンスキー「ミサ曲」も落ち着いた歌声にホッとする。

 私は根が単純なので、大規模編成のオーケストラと合唱というだけで嬉しくなってしまう。とりわけ、マーラーの交響曲第八番、いわゆる“千人の交響曲”。オーケストラは250~300人くらいで、あとは合唱団。第一部のすき間なく音が充満していくところは圧巻。第二部のラスト、神秘の合唱、静かに歌い始められたメロディーが徐々に高まっていき、オーケストラやオルガンと一緒になって響き渡るところは胸の奥にまでジーンとくる。ゲーテ『ファウスト』からの引用、「すべて無常なものはただの幻影に過ぎない…」、いかにもマーラーらしい虚無感と音の厚みとの絡み合いが何とも言えず好きだった。

 大規模編成という点ではベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」も負けていない。どうでもいいが、この曲に映像をつけたデレク・ジャーマン監督「ウォー・レクイエム」という映画を観に行ったことがある(たしか、渋谷のシアター・イメージフォーラムだったと思う)。往年の名優ローレンス・オリヴィエを起用したシュールな映像詩。小難しい顔をした観客層の中、一人いかにもヤンキーっぽいにいちゃんが退屈そうにしているのが浮いていた。タイトルだけ見て、そういう戦争映画だと思って入ったんだろうな。

 何と言っても、カール・オルフ「カルミナ・ブラーナ」。修道院に残されていたラテン語詩集に曲をつけた、世俗カンタータ。運命のはかなさにため息ついたり、酒で憂さを晴らしたり、男女の秘め事の喜びを歌い上げたり、こういう歌詞を見ていくと、修道僧たちもやっぱり人間ですな。オルフの単純明快なリズムが耳に強く残る。他に、「カトゥリ・カルミナ」とか「時の終わりの劇」とかのCDも手もとにあるが、やはり「カルミナ・ブラーナ」が理屈抜きに一番好き。

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2009年1月16日 (金)

岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』、榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』

 近代日本の音楽史を考える上で、“満州”というファクターは意外と無視できない。岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』(音楽之友社、1999年)はこの空白の音楽史を明らかにしてくれる。もともとロシア色の強い街ハルビンにロシア革命によって多数の人々が亡命してきたが、多くの芸術家たちも逃れてきた。その中には、ケーニヒ、メッテルなど、日本のオーケストラ育成に力を注いだ人々もいた。ヨーロッパ留学経験のある山田耕筰は、本場のオーケストラの魅力を何とか日本でも響き渡らせたいと考え、ハルビンから東支鉄道交響楽団を招いたりもしている。

 1932年の満州国建国後も、音楽愛好家の尽力でハルビン交響楽団が設立され、白系ロシア人をはじめ多国籍のメンバー構成。さらに、甘粕正彦の肝煎りで新京交響楽団も設立された。彼の関心は満州国の“国家”としての体裁を整えて西欧にひけをとらない文化水準を示そうとするところにあり、そのための人材を育成しようと新京音楽院も設立。中国人生徒を入学させ、もちろん結果論ではあるが、戦後中国の音楽界を担う人材もここから出てきた。また、満州国時代、ラジオ放送を通して西洋音楽の響きが中国人民衆の耳にも馴染み始めていた。日本は西洋排撃を高唱しつつも、実際には西洋の文物や制度の普及によって支配地域に臨んだというこの不思議な矛盾が音楽という側面からも窺われるのが面白い(建築についても同様のことが言える→こちらを参照)。

 若き日の朝比奈隆も新京交響楽団を指揮している。満州での彼の初舞台はベートーベンの第五に加え、江文也とバルトークという組み合わせ。二人とも、民族色と西欧音楽との融合に意を砕いていた音楽家だ。建前としての“五族協和”なる理念を意識したのだろう。日本内地でチャンスの得られない朝鮮人音楽家たちも満州国へ渡ったという。日本の敗戦後、ハルビンのオーケストラがソ連兵相手に演奏することになった際、日本人の指揮者はダメだということで、朝鮮人の林元植が急遽タクトを取ることになった。彼はハルビンに残留していた朝比奈からレッスンを受け、自らを朝比奈の弟子だと語る。民族の垣根を感じさせず親身に相談にのってくれた朝比奈のことを尊敬していたようだ。林元植は後に韓国の楽壇の権威となる。なお、やはり同じ頃ハルビンで音楽を学んでいた白高山は北朝鮮に行って、こちらで西洋音楽の第一人者となった。また、1970年代に中国で客演した小澤征爾は、北京で新京交響楽団の所蔵印のある楽譜を見たそうだ。帝政ロシア時代の楽譜を満州にいた日本人が写譜、それが戦後中国に残っていたわけである。いずれにせよ、東アジア広域における音楽史の中で満州国の持った意味合いは決して小さくない。

 共産党の公定史観では、満州国と同様、上海租界=帝国主義の植民地という位置付けで、そこで行なわれた音楽活動についてもやはり厳しい見方をされてしまう。榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』(春秋社、2006年)はそうした頑な態度からは自由に、上海で活動した音楽家たちの群像を語りつくしてくれる。

 東アジアで最も古いオーケストラは1879年に結成された上海パブリックバンドである。その後、共同租界工部局の管轄下に入り、「工部局交響楽団」と呼ばれる。指揮者マリオ・パーチが育て上げた。演奏者も聴衆も西洋人ばかりだったが、徐々に中国人も入ってきて、その関係者から戦後中国の音楽をリードする人材を輩出することになる。日本軍の占領下、日本側に移管されて「上海交響楽団」となった。“敵国人”が強制収容所に入れられた一方で、聴衆の大半は中国人が占めるようになったという。

 朝比奈隆は上海交響楽団でも客演している。日本色を出したがる山田耕筰や近衛秀麿とは違ってスマートな朝比奈は楽団員から好感を持たれたらしい。朝比奈も上海交響楽団の実力は素晴らしかったと言い、この時の経験は後に欧米の有名オーケストラで客演する際に役立ったという。

 満洲にしても、上海にしても、イギリス・ロシア・日本といった帝国主義列強による侵略の歴史と二重写しになってしまうので、たとえ音楽という本来は政治性の稀薄なジャンルといえども、中国側で冷静に考えるのは難しかった。そうした難しさの中、上掲二書とも近現代東アジアの音楽史を彩る人物群像を様々に掘り起こし、かつ現代史にまつわる政治性ともうまくバランスをとりながら書かれているのでとても面白い。二冊とも題材として色々なタネをまいてくれているように思うので、これを踏まえた研究がもっと出て欲しい。

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2009年1月13日 (火)

古代文字や考古学のなつかしい本

 御茶ノ水駅を降りて神保町に向かう途中、明治大学の手前あたりのビルの一室に聖書考古学資料館というのがある。前を通りかかるたびに気になってはいたのだが、月・土曜の午後のみ開館とのこと。先日、神保町に行った折、たまたま日時が合ったので入ってみた。

 特別展示として「聖書の世界と文字」展。パネル解説は簡にして要を得てわかりやすい。こじんまりとした部屋なので展示品が限られてくるのはやむを得ないが、それでも円筒印章、コイン、鏃、陶片などきちんと陳列されている。2メートルほどもあろうか、アッシリア王シャルマネセル三世の戦勝記念碑、ブラック・オベリスクのレプリカが目を引く。

 私自身はクリスチャンではないが、幼稚園はキリスト教系で、小学校にあがってからもしばらく日曜学校に通っていたので聖書には馴染みがある。大学では名目上指導教官となっていただいた先生のご専門が聖書考古学だったので、この分野について一通りの見当はつく。キリスト教系大学ではないし、その先生ご自身もクリスチャンではなかったが、パレスチナ地域の考古学=聖書考古学という括り方。さらに旧約聖書に登場する世界はエジプトからメソポタミアまで広がり、いわゆる古代オリエント世界を大きくカバーすることになる。

 この世界には系統不明の民族も含め様々な人々が入り乱れていたわけで、聖書の背景を考えるには、やはり言語や文字の多様性が注目される。旧約聖書はヘブライ語だけでなくアラム語で書かれている部分もあるし、そもそもイエスはヘブライ語ではなくアラム語をしゃべっていたわけだし、新約聖書の書き言葉はコイネーだ(ヘレニズム時代のギリシア語。いわゆる古典ギリシア語ともまた違うらしい)。また、古代エジプト語や古代メソポタミアの楔形文字文書を解読することで聖書の背景世界を別の視点から裏付けることができる。だから、聖書の世界を知るには、古代文字の知識も必要となってくるわけだ。

 むかし古代文字に興味を持っていた時期もあったので色々と思い出し、帰ってから本棚を引っ掻き回した。レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ(木原武一訳)『ロゼッタストーン解読』(新潮文庫、2008年)はつい最近買ったばかりの本だ。シャンポリオンを中心に、ロゼッタ・ストーンの解読競争をドラマチックに描いている。

 私は中学、高校生くらいの頃、シャンポリオンに憧れていた。考古学に興味を持つ人はよくシュリーマンを挙げるが、私の場合、『古代への情熱』を読んでもそれほどピンとこなかった。前半の生い立ちを語るところは面白かったけど。肉体労働はいやなんで、土掘りよりも、古代文字の解読の方にロマンを感じていた。自分の愚鈍な頭のことは棚に上げて、怠け癖がよく分かる。まあ、それだけでなく、土器や石器を通して推測を重ねるよりも、文字を通して具体的な描写を読みたいという気持ちの方が強かったように思う。その点では物語志向だったし、今でもそうだ。

 C・H・ゴードン(津村俊夫訳)『古代文字の謎──オリエント諸語の解読』(社会思想社・現代教養文庫、1979年)、矢島文夫編『古代エジプトの物語』(現代教養文庫、1974年)、酒井傳六『古代エジプトの謎』(現代教養文庫、1980年)が出てきた。あと、T・H・ガスター(矢島文夫訳)『世界最古の物語』(現代教養文庫、1973年)も持っているはずなのだが、見つからない。社会思想社は結構この手の本を出していたんだな。つぶれたからもう入手不可。それともどこかが復刊するかね。なお、ゴードン書の訳者、津村俊夫氏は聖書考古学資料館の理事長です。

 『世界最古の物語』『古代エジプトの物語』、いずれも楔形文字やヒエログリフの解読によって明らかにされた当時の神話や説話を集めている。『ギルガメシュ叙事詩』も同様に矢島文夫氏の訳で現在はちくま学芸文庫に入っているが、私は大学の図書館で山本書店版を読んだ。言うまでもないが、山本七平氏の出版社である。稼いだ印税をつぎ込んで、明らかに売れそうにない聖書考古学の学術書も良心的に刊行していた。

 ギルガメシュ叙事詩のおおまかな内容はそれ以前に高校生の頃、世界の神話を取り上げたシリーズもので読んだ覚えがある。永遠の生命なんて果たしてあるのか?というなかなか深遠なテーマで、色々とイマジネーションをふくらませることができそうな感じがした。森の神(たしか、レバノン杉がまだ鬱蒼と茂っていた頃の象徴)フンババの、この“フンババ”という語呂がその頃からなぜか頭にこびりついていて、今でも時々脳裡に浮かぶ。

 ドーブルホーファー(矢島文夫他訳)『失われた文字の解読』(全三巻、山本書店、1963年)は高校生の頃に図書館で読んだ。書誌データを調べてみると、かなり古い本だったんだな。矢島氏の本では『知的な冒険の旅へ』(中公文庫、1994年)も好きで持っているはずなのだが、どっかに紛れ込んで見つからない。杉勇『楔形文字入門』(中公新書、1968年)という古い本もあるはずなんだが、やはり行方不明。ツェーラム(村田数之亮訳)『神・墓・学者』(中央公論社、1962年)も図書館で読んだが、その後古本屋で見つけて買った。この本もストーリー性があって好きだった。江上波夫『聖書伝説と粘土板文明』(平凡社・江上波夫著作集第5巻、1984年)も読みやすくて好きだったが、これも図書館で読んだ。この手の発掘もの、文字解読ものを図書館の埃っぽい(ここがミソ!)本で手に取って、ワクワクしながらページをめくったあの頃を思い出すと、胸がキュンとなります。

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2009年1月11日 (日)

伊福部昭のこと

 ここのところ、伊福部昭「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」という曲にはまっている。ピアノや木管楽器の小刻みなリズムに光が瞬くようなイメージを感じたのだが、何となくオリヴィエ・メシアン「トゥランガリーラー交響曲」の「星々の血の喜び」という楽章を思い浮かべた。リトミカ・オスティナータというのは執拗な反復律動という意味、まさにミニマリズムの美学だ。この曲のピアノ連弾版もあるそうだが、スティーヴ・ライヒ「ピアノ・フェイズ」のような感じになるのだろうか。旧満州国・新京音楽院の招きで大陸に渡った際、熱河の寺院で仏像を見た経験からインスピレーションを得たらしい。一つ一つの仏像は貧相なものだが、その大量に充満している様子に圧倒され、反復律動のイメージにつながったという。

 伊福部は、1936年、21歳のとき、「日本狂詩曲」でチェレプニン賞を受賞。北海道の片隅に暮らす無名の一青年が一躍楽壇で脚光を浴びた。チェレプニン賞というのは、亡命ロシア人貴族の音楽家アレクサンドル・チェレプニンがアジアの若手音楽家発掘のため私財を投じて設けたコンクールである。伊福部のメロディーは荒々しい。日本の楽壇で受け止められていた西洋音楽的洗練とは無縁である。日本側の担当者には、彼の曲の型破りなところを危惧してそのままパリへ送ることにためらいもあったらしいが、むしろこれが受けた。とりわけ第二楽章「祭」など聴いてみると、その激しさが体の芯からふるわせるようで私も大好きだ。リズムにのって無意識のうちに手が動いてしまう。その頃、パリの楽壇はイゴール・ストラヴィンスキー「春の祭典」が巻き起こしたショックをすでに経験済みで、音楽シーンは次の段階に移っていた。伊福部もストラヴィンスキーを意識している。「春の祭典」が放った、キリスト教以前のロシアにおける異教的イメージ。ソリッドな“近代”に対する前衛が古層的なものと結びつく、つまり、前衛と古層とが手を携えて“近代”を挟撃するという精神史的なドラマに私は興味がひかれている。伊福部もそこにシンクロしているように私には思われてくる。

 伊福部の父親は北海道の音更で村長をしていたが、他の高圧的な役人とは違ってアイヌの人々と親しく接していたという。昭もまた幼少からそうした付き合いにまじり、アイヌの文化に馴染んでいた。彼らにとって詩、踊り、音楽は人間感情の混沌としたものの発露として不可分一体のもので、伊福部自身も音楽だけを特別に切り分けるという意識はなかったそうだ。中学校にあがり、国家の文化政策としての音楽教育は理屈っぽくて違和感があったという。レコードで西洋音楽にも触れ始め、民族によって音楽というのはこんなに違うものかと実感したらしい。中学生の頃から兄弟や友人たちと音楽活動をしていた。北海道帝国大学林学科に進学、卒業後は林務官となったが、ちょうどその頃に、音楽仲間の三浦淳史(後に音楽評論家)のすすめで書いた「日本狂詩曲」がチェレプニン賞を受賞した。翌年、来日したチェレプニンから特別レッスンを受けたが、しばらくは本職と作曲との二足のワラジをはく。

 1945年、日本の敗戦時、彼は病床にあった。厚木飛行場に降り立ったマッカーサーを迎える軍楽隊が、戦時中に伊福部が海軍の依頼で書いた(やっつけ仕事だったらしいが)「吉志舞」を演奏するのをラジオで聴き、驚いたという。戦後は膨大な数の映画音楽を作曲したが、とりわけゴジラのテーマ曲は、伊福部の名前を知らない人でも耳に馴染んでいる。脚本を読み、そのアンチ・テクノロジーの思想に共鳴したようだ。監督の本多猪四郎、円谷英二らとは意気投合し、その後も多くの怪獣映画で一緒に仕事をしている。なお、北海道時代からの親友・早坂文雄もやはり映画音楽で活躍し、黒澤明作品で有名だ。

 近所の盆踊りとか民謡は分からないのにベートーベンやらモーツァルトなら分かるというのは不自然だ、そういうのはただの教養主義で格好つけているだけで、本当は何も分かっていないんじゃないか、と伊福部は言う。ドイツ・フランス・イタリアといった西欧音楽の主流圏に留学して音楽をやっても意味がない、むしろ、ポーランド・チェコ・ハンガリー・ユーゴスラヴィア・ルーマニアなどのドーナツ圏の国々が自分たちとは文化の異なる西欧音楽を如何に消化したのか、そこをこそ日本は学ぶべきだとも言う。伊福部の音楽に漂う土俗性は時折“民族楽派”とも呼ばれるが、彼はことさら日本にこだわっているわけではない。ただ、自分の感性に正直に作曲したい。意図的にでっちあげたものなんて所詮、虚構だ。自分の感性に馴染むものに、たまたま生まれ育った日本なり、北海道なりの土着的なものがにじみ出てくるというだけだ。民族的と言っても、アイヌやギリヤークなど北方諸民族も含め、むしろユーラシア的な広がりを持っているところが伊福部の魅力だ。日本なら日本という特殊性を通過して共通の人間性に到達する、それが理想だとも彼は語る。

 伊福部家の家学として『老子』を昭は幼少時から父親によってたたき込まれたという。「『老子』の第三十八章に、「上徳は徳とせず、是を以て徳有り」とあるんです。上徳とは、徳の非常に高いことを意味します。徳をほどこしても、ほどこしたぞ、ほどこしたぞといえば、それはもう徳ではない、ということなんです。それと同じように芸術も、芸術的だ、芸術的だ、芸術品だという意識をもってすれば、それはもう芸術ではない。芸術だか何だかわからないうちに生み出すものが芸術なんだというふうに思っております」(木部与巴二『伊福部昭──音楽家の誕生』262ページ)。一切のことわりを取り払ったとき、表現すべきものが自ずと表われてくる。私自身、早くから老荘思想に馴染んでいたので、こういう感性を持っている人は信頼できると思っている。

 木部与巴二『伊福部昭──音楽家の誕生』(新潮社、1997年)は、伊福部自身の語りを織り込みながら、日本の敗戦直後、伊福部が職業音楽家として立つまでの軌跡を描き出している。戦後の伊福部の活動については、小林淳『伊福部明の映画音楽』(ワイズ出版、1998年)が伊福部の手がけた映画音楽のクロノロジーという形で整理している。同じく小林淳『伊福部明──音楽と映像の交響』(上下、ワイズ出版、2004年)は伊福部の純音楽と映画音楽との関わりを個別の曲ごとに詳細に論じている。片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)も随所で伊福部に言及しているほか、CD「伊福部昭の芸術」シリーズにもライナーノーツとして片山による伊福部からの聞き書きや論考がある。

 伊福部については以前にも少し興味があってCDも何枚か持っていたのだが、最近、江文也について調べ始めて(→こちらを参照)、江を見出したチェレプニンに関心を持って、彼は同時に伊福部も発掘していたことから再び伊福部音楽を聴き始めたという流れ。チェレプニンについては、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008を取り寄せたのでこれから読むところ。

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