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2009年7月5日 - 2009年7月11日

2009年7月11日 (土)

山本譲司『獄窓記』、他

 秘書給与流用疑惑で国会議員の辞職が相次ぐという事件があったが、『獄窓記』(新潮文庫、2008年)の著者・山本譲司もそうした中で逮捕された。見せしめの意味があったのだろうか、佐藤優以来頻繁に用いられるようになった国策捜査という言葉も思い浮かぶ。ただし、彼は自分にけじめをつけるため控訴はせず、刑に服した。本書は獄中での自己省察をつづった手記ではあるが、塀の中で目の当たりにした光景は、彼が新しい仕事に取り組むきっかけとなった。触法障害者の問題である。

 犯罪の凶悪化が印象論として語られがちだが、あまり根拠がない(たとえば、芹沢一也・浜井浩一『犯罪不安社会』光文社新書、2006年→こちらを参照)。刑務所の収容者数は許容限度を超えているが、その大半は知的障害者、高齢者、外国人労働者など、外の社会ではまともに生活できないがゆえに法に触れてしまって送り込まれた人々で占められている(中には騙されて犯罪に巻き込まれ、裁判でもまともな取り扱いを受けられないまま刑を受けた知的障害者もいる)。刑務所は社会に居場所のない人々が最後にたどり着く場所となっている。義務作業が正常に運営できないほどである。しかし、刑務官は社会福祉的な訓練を受けていないから対応にはどうしても限度があるし、かと言って収容者を追い出すわけにはいかない。正常な社会関係に組み込まれることのないまま悪循環に陥ってしまっている点では社会的排除の概念で捉えるべきだろう(岩田正美『社会的排除』有斐閣、2008年→こちらを参照)。

 刑務所内の具体的な問題については浜井浩一『刑務所の風景──社会を見つめる刑務所モノグラフ』(日本評論社、2006年)が詳しい。著者自身の刑務所勤務経験を踏まえて問題点が体系的に整理されている。

 山本譲司『累犯障害者』(新潮社、2006年)を以前に取り上げたことがある(→こちら)が、家庭にも社会にも居場所がなくて刑務所行きを繰り返してしまう不条理には何とも言えずやりきれない思いがした。

 山本譲司『続 獄窓記』(ポプラ社、2008年)は『獄窓記』の後日譚。『獄窓記』出版には様々な反響があったそうで、一冊の本をきっかけに問題意識を共有する人々が集まり改善に取り組む努力が着実に進められていることには救われる思いがする。両書とも、挫折感と何よりも前科者という烙印に押しつぶされそうになりながら、そうした心情を抱いてしまう自分自身の問題点をできるだけ素直に書き記そうとしている努力に好感を持った。この人は挫折と人生の不条理を知っている。だから、これからこそ良い仕事ができる、そう感じさせる。

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2009年7月10日 (金)

ジグムント・バウマン『リキッド・ライフ──現代における生の諸相』

ジグムント・バウマン(長谷川啓介訳)『リキッド・ライフ──現代における生の諸相』(大月書店、2008年)

・「リキッド・モダン」社会:そこに生きる人々の行動が、一定の習慣やルーティンに凝固する前に、その行動の条件の方が先に変化してしまう社会→絶え間ない不安定・不確実。イス取りゲームや自転車操業のイメージ。長期性・全体性という考え方はなくなる→即席の満足と個人的な幸福が基準。(※かつての「ソリッド・モダン」社会では「楽しみは後回しにする」「じっくり取り組む」のが基本)
「かつて、進歩の論理は議論の余地のないものであり、優劣の秩序が、この論理によって構造化され、見まごうことなく実在していた(あるいは想定されていた)。しかし、その秩序はいまや侵食され溶解してしまった。他方で、新たな秩序はあまりにも流動的で、きちんとした形へと固まることができないし、アイデンティティを組み立てるために頼りにできる準拠枠として採用されうるほど、長期に形状を保つこともない。結果として、「アイデンティティ」は、ほとんど自分で設定し、自分で自分に割り振るものとなった。その努力の結果について思い患うのも、各自の問題となる。また思い患ったところで、その努力の結果は、明らかに一時的なものであって、その有効期限もはっきりと規定されておらず、たぶん長くない。」(59ページ)

・“個性的”であることが強制される社会。しかし、“個性”の主張がそのまま没個性的であるという逆説。他者との差異は消費活動を通して示される。
「今では、「流行中」と「時代遅れ」の間のズレによって独自性は測定され評価されている。もっと言えば、今日出た商品と、まだ「流行中」とされ商品棚に陳列されている昨日の商品との差異によって独自性は決まる。独自性追求の成否を決めるのは、走者たちのスピードである。」(47-48ページ)

・「たえまない変化の中から確実に出現する「アイデンティティの核」が一つだけある。…(それは)ホモ・エリゲンス、すなわち「選んでいる人」である(「選んでしまった人」ではない!)。永遠に永続せず、完全に不完全で、不明確であることは明確な、本来的に非本来的な、そういう自我である。」(63ページ)

・「欠陥のある消費者」→「リキッド・モダン」社会に固有のホモ・サケル→バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)を参照のこと(→こちら)。

・消費市場はギリシア神話に出てくるミダス王のようなもの。「市場が触れるものはすべて消費商品になる。その手を逃れるにも、その逃避の試みで利用される方法や手段さえも、すべて商品である。」(154ページ)

・個人レベルにおけるエンパワーメントのためには異質な他者との対話が必要→公共空間をいかに再構築するのかという問題意識。

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2009年7月 9日 (木)

岩田正美『社会的排除──参加の欠如・不確かな帰属』

岩田正美『社会的排除──参加の欠如・不確かな帰属』(有斐閣、2008年)を読みながらメモ。

・社会関係から切り離されている→意思表示できない状態。
・様々な不利の複合的経験(①人的資本:資質・生育環境・教育など、②物的資本:住居など、③金融資本:資産・負債)→一人一人に個別的な問題。
・“貧困”と“社会的排除”は重なり合う概念で解釈の余地が広い→①因果関係として捉える。②重複した部分があると捉える。③入れ子構造で捉える。
・“社会的排除”概念の有効性は?→①“貧困”が個人の状態に重きが置かれるのに対し、“社会的排除”は社会との関係において個人の位置付けを問う視点。②誰がどのように排除するのかと主体の作用を問う視点(国家や社会だけでなく本人という主体も含めて)。③福祉国家の機能不全を示す。

・帰属の問題(家族の扶養、職場等の相互扶助、福祉国家のサービス)が大きい。帰属の定点の喪失→生きていく基点としての住居が必要。
・社会からの“引きはがし”:失業・倒産だけで社会的排除に落ち込むのではなく、離婚・病気・災害等の複合的な要因で定点を失う→社会的排除というケース。
・職場だけでなく家族・近隣関係など様々なチャネルを通した社会参加がもともと中途半端→その延長線上に社会的排除というケース。
・“中途半端な社会参加”の再生産→社会的排除に陥りやすい人々。若者の就職という移行期において“完全な社会参加”獲得に失敗→社会との“中途半端な接合”状態が続く。実家の経済状態や家族関係など人的資本に関わる問題が大きい。
・空間的側面で考えると、社会の周縁をウロウロするだけで中心には取り込まれないという問題。①“寮”(飯場など)、②“ヤド”(簡易宿泊施設など)、③“シセツ”(病院・刑務所など)、④“ミセ”(ネットカフェなど)

・セーフティネットからの脱落。
・生活保護→疾病・障害・老齢などの理由が中心で、稼動年齢層の人々への給付には慎重→行政側には“惰民”をつくることへの危惧。
・そもそも制度を知らない。その日その日をどう生きるかという瀬戸際にある→福祉サービスの“ちょい利用”
・知的障害者→認知されれば障害者手帳を取得できるが、本人に自覚がなく支援に乗り出す人もいなければ放置される。通常は家族や学校等で気付かれるが、そうした関係のないまま生きてきた人々。

・従来の施策は労働参加を強調。しかし、①労働の“能力”はどのように判定するのか。 ②民間企業の斡旋→あくまでも間接的な政策対応。③就労支援→否応なく稼働能力の有無で選別→“失敗した人”の識別→この人々はどうすればいいのか。
・社会的排除に落ち込んでしまう背景として、社会参加へのチャネルから切り離されているという状態がある。社会的包摂を考える場合にも、具体的な労働→経済的自立というだけでなく、ある社会への帰属に向けた現実的基点として住居・住所の確保と市民としての権利義務の回復に焦点を当てる必要。

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2009年7月 8日 (水)

ピエール・ブルデュー『市場独裁主義批判』

ピエール・ブルデュー(加藤晴久訳)『市場独裁主義批判』(藤原書店、2000年)

 ブルデューのネオ・リベラリズム批判の発言を集めた本。何だかアジテーション・ビラみたいな語り口にちょっと違和感もあったが、関心を持ったポイントを箇条書きすると、
・“能力”を中核とした社会システムの正当化→“能力”形成には教育問題等様々な事情が関わってくるわけだが、そうした個別の事情は一切オミットされて、倫理的基準に置き換えられてしまう。
・グローバル化による不安定な就労状況そのものを企業は戦略的に活用→国内労働者は地球の裏側の外国人労働者と競争→人件費抑制等の名目で“弾力化”→新しいタイプの支配様式。

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2009年7月 7日 (火)

広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』(講談社現代新書、1999年)を読みながらメモ。

 まず、日本の近代化のプロセスにおける家庭・地域社会・学校の関係が考察される。時にノスタルジックに語られる村落共同体のしつけは果たして理想的だったのか? 実際を見れば差別や抑圧が内包されており、子供は放置、場合によっては酷使されることもあって決してユートピア視することはできない。地域社会における停滞性→学校と軍隊という近代化駆動装置が全国共通のルールを教える機能。明治~高度経済成長にかけて学校は“遅れた”社会から脱出して近代的な職業世界に入る装置として信頼感を得ていた。

 しかし、経済水準の上昇→かつては進歩的な意味を持っていた生活指導・集団訓練が、むしろ個人性を抑圧する保守的なものと批判される→学校不信。子供のしつけよりも、“より良い地位”(学歴・職業)を目指すゲームの地位配分装置として捉えられる→学校は教育の主役ではなくなった→家庭・地域社会・学校のうち家庭が突出。つまり、家庭の教育機能が低下したのではなく、逆に子供の教育に関する最終的な責任を家庭という単位が一身に引き受けるようになった。

 パーフェクト・チャイルドへの志向性→童心主義・厳格主義・学歴主義と相異なる教育理念が混在→いずれにせよ、“子供期”の明確化→そこへ親が積極的に働きかけようという“教育する意志”→学校側に様々な要求を突きつける。

 「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説→かつて非行は下流階層に集中、この言説は大正期においては富裕層向けのものであった(地域社会との関わりが薄い新中間層の登場。下流階層については、家庭のしつけではどうにもならないことが自明視されていた)。ところが、高度経済成長期の生活水準の向上・中流意識の広がり→階層格差が見えづらくなり、それに言及することもタブーとなった。どの子も非行に走る危険→あらゆる局面にわたって「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説が語られるようになる。教育において社会階層・地域の間での差異が現在でも存在しているが、それにもかかわらず単一の処方箋で考えようとすることの問題。

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2009年7月 6日 (月)

ウイグル問題のこと

 昨日、新疆ウイグル自治区・ウルムチの大規模暴動で140人以上の死者が出ているとの報道がありました。最新情報・背景解説とも「真silkroad?」さんが詳しいので参照のこと。なお、私のブログではウイグル問題関連で以下の書き込みをしたことがあります。

水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』
Blaine Kaltman, Under the Heel of the Dragon: Islam, Racism, Crime, and the Uighur in China  (中国語が標準語とされる中、ウイグル人の言語的不利がある一方で同化圧力が強まり、また漢人からの人種的偏見→ウイグル人が社会的底辺に追いやられている問題を本書は指摘)
ウイグル問題についてメモ①
ウイグル問題についてメモ②
原爆をめぐって
ウイグル問題についてメモ③
ウイグル問題についてメモ④
ウイグル問題についてメモ(5)

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教育社会学絡みの本でメモ

 教育も含めて社会システムの問題を考えるとき、“自己決定”“自己責任”というロジックがどこまで信憑性をもって通用するのか?という根本的なアポリアにぶつからざるを得ない。“自己決定”論そのものは正論であって否定はできない。ただし、その条件整備はどうなのか。

 かつての身分制社会とは異なり、現代社会はメリトクラシー(業績主義による選抜システム)に基づいて組み立てられている。つまり、機会の均等が前提である(仮にそれがフィクションに過ぎないとしても、そのフィクションが社会全般に共有されていなければシステムとしての正当性、“公平”さが確保できない)。学歴と職業的達成とに結びつきが見られるが、社会階層と学歴とに相関関係があること(学歴の親子間継承)が指摘されている(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ──学歴主義と平等神話の戦後史』[中公新書、1995年]、佐藤俊樹『不平等社会日本』[中公新書、2000年]など)。つまり、義務教育以前の家庭的・環境的要因によってスタートラインが異なる→ところが、受験競争(=機会の均等)というフィルタリング→スタートラインにおける格差が覆い隠されてきた。また、学習に向けた意欲そのものにも家庭環境によって格差がある(意欲格差=インセンティブ・ディバイド)→“機会の均等”には“努力”の均等分布が大前提となるが、この仮定自体にも疑問符がつけられてしまう(苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』[有信堂、2001年]、山田昌弘『希望格差社会──「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』[筑摩書房、2004年]など)。苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』(中公新書、2009年)によると、戦後日本社会における義務教育制度整備の努力→均質的な教育空間の創出→教育の画一化・国家統制など様々な批判があるのは確かだが、同時に少なくとも環境要因による悪条件是正・格差縮小に貢献してきたと評価することもできる。しかし、財政縮小→そうした努力を裏付けた財政的再配分政策の維持困難→義務教育以前の家庭的・環境的要因による格差が露わになる可能性がある。

 苅谷剛彦『学力と階層──教育の綻びをどう修正するか』(朝日新聞出版、2008年)を読んで関心を持った点を箇条書きすると、
・①受験勉強→一元的評価基準→分かりやすい→努力目標として成立。対して、②「生きる力」論→目標・評価基準が曖昧→多様と言えば聞こえは良いが、実際には学校以外の家庭的・環境的要因で左右されやすくなる。“ガリ勉”の否定→その生徒の家庭環境によっては勉強を怠ける口実→格差拡大
・アンソニー・ギデンズの指摘した社会的再帰性・セルフモニタリングという指摘との関わりで(以前に取り上げたアンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』を参照→こちら)、実証研究として提示された“事実”→その“事実”もまた次なる政策形成に取り込まれて次の展開へ→実証研究といえども必ずしも価値自由ではあり得ない。
・社会的再帰性→人的資本概念の変容:人的資本はストックとみなされなくなった→知識の陳腐化のスピード→個人の側でセルフモニタリングによって常に新しい状況に適合する形で人的資本の中身も絶えず変わっていく(知識経済)→学習し続けることの強制→“学習意欲”の階層差が浮き彫りにされる。
・自己実現アノミーの問題

 苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ──学歴主義と平等神話の戦後史』では、イギリスの階級社会(D・H・ロレンス→奨学金少年の悲劇、つまり低階層出身者は頑張って勉強して這い上がってもライフスタイルの面で上流社会に溶け込めず疎外感を味わう)、アメリカの多民族社会(黒人・ヒスパニックなど)に対して日本の学歴社会を考察。受験競争に基づく学歴エリート→受験知識は社会的にそれほど高い価値を置かれていない(頭でっかちで実力とは違うじゃないかという批判的言説が普通に見られる)→あくまでも一般大衆社会の延長線上にいる器用な成功者と受け止められる。エリートならざるエリート。ノブレス・オブリージュの感覚はないが、見方を変えれば平等主義的心性を内面化したエリートとも言える→能力主義と平等主義との日本的な絡まりあい(ここを“面の平等化”という論点で義務教育制度について議論を進めるのが苅谷『教育と平等』)。身分的秩序ではないので社会統合しやすい。

 昨今の“格差”論バブルの中、学歴=メリトクラシーという点を明確にした上で感情論を排した議論を進めようとするのが吉川徹『学歴分断社会』(ちくま新書、2009年)。従来の社会階層研究では職業を固定的に把握(たとえば、佐藤俊樹『不平等社会日本』)→高度成長期を対象とするには適した分析だが、雇用の流動性が高まっている現在では通用しないという。従来の社会階層研究の注目点であった職業や経済力の親子間継承ではなく、学歴の親子間継承という論点なら社会格差について一貫した説明ができると問題提起→学歴分断線を指摘する。インセンティブとなる将来の見通しに学歴分断という壁が立ちはだかるという議論を示し、その中に苅谷『階層化日本と教育危機』や山田『希望格差社会』で指摘された論点も取り込まれる。

 増田ユリヤ『新しい「教育格差」』(講談社現代新書、2009年)は、タイトルに“格差”とはあるが、内容的には教育現場の具体的な問題の紹介に重きを置き、実例を通して問いを投げかける。

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2009年7月 5日 (日)

最近読んだマンガ

 西原理恵子『いけちゃんとぼく』(角川書店、2006年)。楽しいとき、悲しいとき、いつもそばで見守ってくれる不思議な生物いけちゃんとの少年時代。西原理恵子『パーマネント野バラ』(新潮文庫、2009年)。田舎の理髪店に集まるおばはんたちの生々しい恋話。西原作品は卑猥な乱雑さを率直に出してくるのだけど、その中からなぜかしんみりとした感傷に胸を打たれるところが魅力。

 宮崎あおい主演で映画化されるということで、浅野いにお『ソラニン』(全2巻、小学館、2006年)を手に取った。どっちつかずの焦燥感を抱えながら不安定な同棲生活を送る種田と芽衣子。種田が納得のいくまでバンド活動を再開しようとした矢先、事故死。彼の想いを引き受けようと決意した芽衣子はそれまで触れたことすらなかったギターを手に取る。自分の人生が無意味にしか感じられない終わらない日常、その中での青春期の焦燥感…と言うとありがちかもしれない。ただ、浅野いにおの作品では、彼女たちの一生懸命なところを描きつつ、同時にその“ありがち”な青臭さをシニカルな構えではぐらかす箇所も時折見られる。陳腐な気恥ずかしさは感じさせずに、彼女たちの抱える行き先の分からない戸惑いの心情をきちんと描き出している。なかなか良い作品だと思う。

 浅野いにお作品に興味を持って手当たり次第に読んだ。『世界の終わりと夜明け前』(小学館、2008年)は短編集。気持ちの中で自分の居場所が得られずさ迷う人々の心象風景を絵に表現しているシーンが時折あって引き付けられた。街に夕陽がさす光景に“世界の終わり”を感じるシーンなど私は好きだ。『虹ヶ原ホログラフ』(太田出版、2006年)は密度の濃いサイコホラー、張り巡らされた伏線が複雑すぎて頭が混乱してしまうが、その分、ストーリーとしては充実している。『素晴らしい世界』(全2巻、小学館、2003・2004年)は短編集。『ひかりのまち』(小学館、2005年)は郊外住宅を舞台にした連作短編。現在連載継続中の『おやすみプンプン』(小学館、1~4、2007年~)はシュールというか、だいぶ実験的。

 山本直樹『明日また電話するよ』(イースト・プレス、2008年)、『夕方のおともだち』(イースト・プレス、2009年)は著者自身による短編ベストセレクション(ただし、マック導入以降の作品)。山本直樹と言えばエロ! セックス描写のない作品は皆無だが、繊細な線で描かれるタッチに、どこか気だるさと無機的な空気が漂う。それが単なるエロとは違うレベルで乾いた叙情を感じさせる。

 吉田秋生『海街ダイアリー1 蝉時雨のやむ頃』(小学館、2007年)、『海街ダイアリー2 真昼の月』(小学館、2008年、以降続刊)。四姉妹の家族の物語。舞台となっている古い家と鎌倉の風物がもう一つの主役。現代の話だけど、神社とか梅酒作りとか、さり気なく取り込まれたレトロな題材が、家族の結びつきと葛藤というテーマに程よい風味をきかせて良い感じ。

 他に、衿沢世衣子『おかえりピアニカ』(イースト・プレス、2005年)、『向こう町ガール八景』(青林工藝社、2006年)、鬼頭莫宏『残暑』(小学館、2004年)。いずれも短編集。

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