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2009年6月7日 - 2009年6月13日

2009年6月13日 (土)

河合幹雄『日本の殺人』、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会──誰もが「不審者」?』

河合幹雄『日本の殺人』(ちくま新書、2009年)

 著者は法社会学者(たしか河合隼雄の息子さんではなかったか)。本書の3分の2ほども占める第1章ではいわゆる“殺人事件”のあらゆるケースが個別に検討される。『犯罪白書』等の統計を踏まえつつ、データの前提としてのカテゴリーにはくくりきれない側面も注意深く読み取りながら、“殺人”なる事象の複雑多様なあり様を示す。殺人は戦後減少傾向にあること、家族がらみのケースが半分以上を占めることなどが指摘される。

 一部マスメディアを通してふりまかれる「治安の悪化」「厳罰化による犯罪抑止」といった言説の問題点は最近よく指摘されるようになってきたが、それとの関わりで“安全神話の構造”という論点に興味を持った。“凶悪犯罪”をワイドショー等で無責任に消費できるのは、実はそうした“犯罪”の問題は、一般の日常生活から切り離された非日常として区分けされているからだという。一般人は重大“犯罪”に直接関わらない。他方で、出所した前科者はどこへ行ったのか? 彼らを受け入れ社会復帰させるため人知れぬところで献身的に努力している人々がいる(一般国民に知られないのに献身できる動機は何か?→第一に、公的にそうした職務についている人々に対しては天皇制という枠組みの中で褒章制度によって名誉が与えられる。第二に、任侠の世界が前科者を偏見なく受け入れてきた、以上二つの指摘も興味がひかれる)。日常と非日常の区別によってこれまで“安全神話”が成り立ってきたが、近年はこの仕組みが崩れて“日常”の中にまで“犯罪”が拡散してきた。統計的には犯罪は減少しているのに、“体感治安”が悪化していると受け止められているのにはこうした背景があるのだという。

浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会──誰もが「不審者」?』(光文社新書、2006年)

 浜井浩一は刑務関係施設勤務の経験があり、犯罪統計論の立場から“治安悪化”という印象論の問題点を検証する。芹沢一也は思想史の立場から、マスメディアに現われた言説を検討、とりわけ空洞化したコミュニティを防犯活動によって再生させるというロジックが相互不信を強めかねない点を指摘する。

 浜井が指摘する刑務所の現実には考えさせられる。本当に凶悪犯罪が増えているのであれば、刑務所には獰猛な輩があふれかえっていてもおかしくない。しかし、実際には、高齢者、障害者、外国人など通常の社会生活ではハンディキャップのある人々が収容者の多数を占めている。そのため、懲役刑による作業義務が機能しないほどだという。厳罰化、地域の監視社会化は、むしろこうした社会的弱者を排除する方向に進み、彼らの行き着く先は刑務所しかなくなってしまう。障害者が刑務所に舞い戻らざるを得ない問題については、以前、山本譲二『累犯障害者』(新潮社、2006年)を読んでショックを受けた覚えがある。

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2009年6月11日 (木)

冤罪について

 足利事件の菅家利和さんが釈放されたという報道に接して、早速、小林篤『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(草思社、2001年)を手に取った。事件発生は1990年、当時はDNA鑑定が威力を発揮したと喧伝されたが、証拠とされたのはそれだけで、あとは自供と精神鑑定。しかし、そもそも試料が微量だったので技術的に鑑定の精度が低く、仮に鑑定が正しかったとしても数ある該当者の一人であったに過ぎない。それでも“科学”の絶対性を盾にして取調官は無理やり自供を引き出した。信頼性がまだ検証されていない段階で“最新の科学的手法”を過信してしまうことの問題点を考えさせる。本書はこの足利事件をめぐる疑念、とりわけ捜査員が菅家さんを犯人だと思い込んでいく経緯を丹念に浮き彫りにしてくれる。

 無罪を主張する菅家さんや弁護団は再鑑定を求めていたが、裁判所はなぜか却下し続けていた。ようやく再鑑定が行なわれたところ、検察側・弁護側、双方の鑑定人ともにDNAが異なるという結論を出した。最高検が一応謝罪の会見をしたらしいが(これ自体異例のことではあるが)、形式を取り繕ったところで全く無意味なわけで、無実の罪で17年間も獄につながれてきた菅家さんの無念からすれば、何でこんなことになったのか、当時の捜査員、検察官、裁判官から誠意ある説明がなければどうにもおさまらないだろう。

 冤罪によって真犯人を取り逃がしたことは(すでに時効が成立している)職務怠慢の謗りを免れないが、それ以上に気にかかるのは、同じ頃にやはりDNA鑑定のみを証拠として死刑判決を受けた飯塚事件の被告への刑が昨年に執行されていたこと。こちらも再鑑定が争点となっていたが、もし冤罪だったらどうするのだろう?

 本当に犯人でなければ自供なんてするはずない、と考える向きもあるが、取調室という緊張に満ちた非日常の空間に置かれたときの心理的メカニズムは通常とは異なった働き方をしてしまうようだ。浜田寿美男『自白の心理学』(岩波新書、2001年)は甲山事件、仁保事件、袴田事件などの具体例を通して嘘の自白を迫られるプロセスを解き明かす。取調官は「こいつが犯人だ」と心底思い込んでいる。頭の中に初めからフィルターがかかっているから反証可能な事実関係があっても無視するし、“自白”に矛盾があってもそれは被疑者の記憶違いだとみなして“正しい”方向へと誘導していく。たとえ暴力はなくても、取調室の力関係は不均衡なので、被疑者も早く終わらせたい一心から否応なく“犯人”役を演じざるを得ない。取調官と被疑者は、彼ら自身知らないはずのストーリーを合作してしまう。それに被疑者がサインをすれば、自供調書として証拠採用される。

 検察や判事は“自白”にある「当事者のみが知り得る事実」に注目する。しかし、“自白”の矛盾したほころび、つまり「当事者ではなかったからこその無知の暴露」の方にむしろ真実が見出せると浜田書は指摘している。

 鎌田慧『死刑台からの生還』(岩波現代文庫、2007年)は財田川事件(1950年に事件発生、1984年に釈放)を取材したノンフィクションである。この事件では「当事者のみが知り得る事実」を自供した点が有罪の決め手となっていた。ところが、その「当事者のみが知り得る事実」を捜査官はすでに知っていた、従って誘導尋問のあり得たことがその後の証人による証言で判明した。なお、この財田川事件では、公判記録を読んだ裁判官・矢野伊吉が無罪を確信、辞職して自ら被告の弁護にまわった。そういう情熱的な人がいたということは何か救われる思いがする。

 秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』(岩波新書、2002年)の著者は元裁判官だが、退官後は袴田事件の弁護団にも加わるなど冤罪事件を手がけ、判事・弁護士双方の事情を熟知した立場から様々な問題点を指摘する。被告にとって有利な証拠を検察はなかなか提出したがらないため、裁判官の判断材料が限定されてしまう、それが予断・偏見につながってしまうという。取調べの可視化が必要だ。「疑わしきは被告人の有利に」という原則は現実には守られていないとも指摘される。

 朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪―─ドキュメント志布志事件』(岩波書店、2009年)が新刊で出ているが、こちらも“自白”に基づく冤罪事件である。鹿児島県議選で当選した新人県議を含め12人が公職選挙法違反で逮捕されたが、事件そのものが警察による捏造であったことが判明した。“踏み字”などというある意味“古典的”な取調べが行なわれていたことには驚いた。本書によると、予めストーリーを作り上げ、そこに当てはめるように被疑者から“自白”を引き出すというのが捜査指揮をとった志布志署長のやり方だった。“自白”が取れない捜査員の勤務評定は下がる。実際、逮捕はしてみたものの、捜査員の間には「こんなに証拠が乏しいのに果たして起訴できるのか?」と疑問がささやかれ、署長は“暴走列車”と呼ばれていたらしい。異議を唱えた捜査員は外された。新聞も当初は警察発表をそのまま報道していたが、捜査員からのリークが事件を洗い直すきっかけになった。

 上掲小林『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』によると、足利事件では精神鑑定にも問題がありそうだ。鑑定人・福島章氏は“代償性小児性愛”なる犯行動機を指摘しているが、菅家さんが犯人だという前提、つまり予断を持った上で彼の言動に辻褄をあわせるように鑑定書が書かれている。では、犯人ではなかった場合、この鑑定は一体何だったのか? とりあえず、福島章『犯罪精神医学入門──人はなぜ人を殺せるのか』(中公新書、2005年)に目を通した。精神医学のキーワードや学説史的背景を簡潔にまとめ、それを踏まえた上で大阪教育大付属池田小学校事件、池袋通り魔事件、永山則夫などの具体例を分析するという構成をとっており、入門書として読みやすい。一定の理論的類型を個別事例に当てはめ、組み合わせながら分析を進めるのだが、第一にどんな類型をどこに当てはめるのかは解釈者による裁量の余地が大きい(言い換えれば、解釈者個人の感性による)、第二に“犯人”が犯行に至るまでを完結した人生として捉えてそれを後知恵的に解釈していく、以上の印象を受けた。犯行という“事実”→彼の人生を再解釈という形をとっており、“犯行”の有無に拘らない内面性を必ずしも汲み取っているわけではない。むしろ、“犯行”をひっくるめて内面性を判断する。従って、冤罪の場合、“犯行”という決定的な事実関係が前提から消滅するのだから、結論がまた変わってくるはずだ。論理的手順が洗練されているので一定の説得力を持つのだが、だからこそ精神医学的なレベルでも“冤罪”がこわい。

 先日、末弘厳太郎「嘘の効用」を取り上げた(→こちら)。法の画一性(だからこそ属人的な次元を超えたところで公正さが保証される)と事案の個別具体性とに矛盾がある場合、“嘘”によってバランスをとることができる、という趣旨。“正しさ”への配慮があって、それを踏まえて条文の運用を考えるということ。前提となるのは、条文だけでなく“正しさ”への直観、だから法曹家には人格的陶冶が必要だ、という話につなげられていく。必ずしも法の条文だけで“公正さ”を保証できるとは限らないという困難に末弘の論点はあるので、冤罪の話に結び付けるのは末弘にとって不本意極まりないとは思うが、犯人と決めつける捜査官にしても精神鑑定人にしても、逆に無罪を確信する弁護人にしても、各人各様の“直観”を動機としている側面が強い。その“直観”には立場それぞれの職人的な経験則による自信が裏打ちされている。そうした“直観”が、プラスとしては条文の画一的適用では汲み取れない“公正さ”への期待にもつながるし、他方で、マイナスとしては被疑者を冤罪に陥れかねない。実に難しいところである。

 そうした難しさがあるからこそ、たとえ99%クロと思われていたとしても、判事・検事・弁護人とそれぞれ視点の異なる三者の議論を通して“真実”の検証を行なうというのが裁判の基本原則となっている。それにも拘らず、実際には判事と検事の結び付きが強いこと、証拠提出等で検事の主導性が強いことはよく指摘されているところだ。

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2009年6月 8日 (月)

李光洙について

 李光洙(イ・グァンス、1892~1950年)は朝鮮/韓国近代文学の父と位置付けられているが、他方で“親日派”として批判も受け、その毀誉褒貶に満ちた生涯は政治的にも思想史的にも評価の難しい複雑さをはらんでいる。代表作『無情』には自我確立の心理的葛藤が描かれており、韓国における教養小説の先駆的作品として現在でも読みつがれているという。立場的には夏目漱石とも比較できるだろうか。

 波田野節子『李光洙・『無情』の研究──韓国啓蒙文学の光と影』(白帝社、2008年)はこの『無情』の行間から李自身の人生や思想、さらには民族的葛藤を丁寧に読み込んでいく。若き日の日本留学中に読書体験から得られた思想的・文学的影響が分析されており、とりわけ明治期日本でも流行していた社会進化論へのこだわりが指摘されているのは興味深い。

 李光洙は1918年の三・一運動に関わり、その後、上海の大韓民国臨時政府に参加した。木村幹「平和主義から親日派へ──李光洙・朱耀翰に見る日本統治下の独立運動と親日派」『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識──朝貢国から国民国家へ』ミネルヴァ書房、2000年)によると、この頃の李は安昌浩の影響で武力闘争路線を支持していたという。しかし、現実の壁は険しい。ウィルソンの14か条による民族自決に期待を寄せたものの、独立は認められなかった。トルストイやガンディーの思想に共鳴し、またアイルランドが独立運動の一環としてストライキを行なっていたことを知り、さらには日本の弾圧が厳しさを増すであろうことも考えられ、李は武力闘争路線を転換した。それは単に消極的な姿勢というよりも、日本の力による蛮行に対して文化的理念を示すことが重要だと考えたからである。ガンディーがインドで合法的活動を展開していることに意を強くした李は1922年3月に帰国、合法的民族啓蒙運動に乗り出す。その際に「民族改造論」を発表した。

 しかし、南次郎朝鮮総督時代の日本は同化政策を強化し、李も逮捕されてしまった。木村書によると、妥協を余儀なくされた李は、“民族”と“改造”のうち後者の“改造”を優先させたのだという。彼はもちろん民族主義者ではあったが、日本の圧倒的な力を前にして敗れ、独立を失ってしまった悲惨な現実をどのように考えるのか。朝鮮社会は遅れていると否定的に捉えていた彼にとって(たとえば儒学を猛烈に批判していた)、第一に目指すべきは“改造”であった。本来であれば、西洋列強と同等の“近代”が目標ではあるが、日本の支配下にある現状では次善の目標として“日本”が選択された。実力養成のために後進的な朝鮮社会の“改造”というロジックは変わらないが、その目標が“西欧近代”から“日本経由の近代”にすりかわったと言える。日本への協力を積極的に勧奨した李は、解放後、“親日派”として指弾されたが(1940年には創氏改名で香山光郎と名乗り、日本語作品も発表していた)、彼は「徴用も徴兵も逃れられないならばこれを利用するのが得策だ、徴用で生産技術を、徴兵で軍事訓練を学べば、それだけ我が民族の実力も大きくなる」と考えていたらしい。

 波田野書では李光洙の思想における社会進化論の影響が指摘されているが、優勝劣敗の法則→敗者としての朝鮮→実力養成の必要、という形で“近代化”というテーマにつながる。また、李は高山樗牛や木村鷹太郎を読んで日本主義的生命主義にも触れており、本能的な生命力の発露として個人における自我意識や民族意識を捉える発想もあったらしい。とにかく生き残ることが重要→そのためにどんな衣をまとうかは副次的な問題→その衣が“西洋近代”でも“日本経由の近代”でも構わない、という形で理解してみると、李の思想において生命レベルで捉えられたナショナリズムといわゆる“親日活動”とはそれなりに整合性を持っていたと言えるのだろうか。

 韓国におけるナショナリズムを考えてみると、①観念的であっても民族としての志操を曲げない、②自民族の後進性を批判して実力養成のため“近代” (李光洙たちは“日本経由の近代”)を目指す、以上二つの流れが見て取れる。戦後韓国で行なわれた“親日派”狩りは前者の立場で後者の立場を糾弾するという形を取った。

 ところで、日本において近代化の基本的ロジックを用意した福沢諭吉は、一見したところ矛盾しそうなこれら二つの原理を合わせ持っていた(だからこそ、どちらに力点を置くかに応じて福沢評価は多面的な複雑さを示してしまうのだが)。前者は「瘠我慢の説」「丁丑公論」(→こちらを参照)に、後者は『文明論之概略』(→こちらを参照)に見られる。『文明論之概略』では野蛮→半開→文明という図式が示され、当面は文明=西洋ではあるが、この立場は逆転し得る、その意味で永久運動だとするのが福沢の基本的な文明観であった。李光洙もこの図式の中で“日本経由の近代”を差し当たっての目標としていたと考えれば、彼の民族主義と“親日活動”とは矛盾しないのではないか(福沢にしても欧化主義者として当時は批判を受けたが、李光洙にとって不幸だったのは日本は韓国にあまりにも近すぎた)。

 こうした福沢的文明観に対して、韓国では①と②の両者の立場を互いに排斥しあうものとして捉えられ、そのせめぎあいの中で李光洙は翻弄されてしまった。この背景には日本による植民地化によって “日本経由の近代化”以外の現実的選択肢を持ち得なかったという不幸があった。

 なお、李光洙は朝鮮戦争の最中に行方不明となり、しばらく没年不詳となっていたが、1950年に北朝鮮軍に捕らえられて連行される途中、凍傷がもとで死去したことが後に判明している。

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