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2009年5月31日 - 2009年6月6日

2009年6月 6日 (土)

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』(NHKブックス、2009年)

 戦前期日本のモダニズム絵画というと、私などはまず古賀春江「海」(1929年)を思い浮かべる。古賀の絵の不思議な画面構成が与える印象は強烈で、このキッチュな違和感そのものをシュルレアリスムと結び付けたくなるが、事情はそんなに単純ではないらしい。

 本書では、古賀の絵画要素の一つ一つについて当時の雑誌に掲載された写真やイラストからのモンタージュであることが丹念に分析されている。そこには写実性という意図はなく、むしろ既成イメージの切り貼りを通して“自己消滅”が目指されていたのだという。経験的実感、“自我”なるもの、そういった現実的価値形式を消滅させることで純粋美を求める、それが古賀にとっての超現実主義だったという指摘が非常に興味深い。

 シュルレアリスム絵画を日本に初めてもたらしたとされる福沢一郎が、帰国後、方向性を変えたことをどのように考えるか。西欧近代における理性絶対優位の合理主義に対する反発として表われたのがオートマティスム(自動書記)であるが、近代的合理主義の重みをこれまで経験してこなかった日本にシュルレアリスムを単純に移入することがどれだけ有効なのかという福沢の疑問には、単に絵画というレベルを超えた文明史的な葛藤が窺われる。

 福沢にしても、あるいは三岸好太郎にしても、シュルレアリスム的外観の中に東洋的なものが現われてくることに注目していたと示唆されているのも目を引いた。本書から孫引きすると福沢はこう記している。「俳句は五七五調の簡潔なリズムの中に広大無辺の感情を表現するものであるが、その方法に於て極めて超現実主義的なものを持つてゐる。僅かの言葉の間の極端な対比や、その矛盾相剋によつて生ずる特殊な感覚は、超現実主義の所謂“解剖台上のミシンと洋傘との偶発的会合”として、この主義の初期の、そしてまたこの主義を通しての、根本的な精神の所産に関係する」(261~262ページ)。言うまでもないが、“解剖台上のミシンと洋傘との偶発的会合”というのはロートレアモン『マルドロールの歌』に出てくる一節で、ダダやシュルレアリスムのインスピレーションとなったことでよく知られている。

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柳田國男『先祖の話』

柳田國男『先祖の話』(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 柳田國男『先祖の話』は昭和20年10月に刊行されたが、執筆されたのは4月から5月にかけてのことである。東京は空襲で灰燼に帰し、大陸へ、あるいは南方へ出征した兵士たちははるか異郷で屍をさらす、そういったおびただしい死が日常に充満する異様な時期であった。空襲警報に日々おびやかされる中、柳田は自身の摑み得た日本人の死生観、霊魂観を本書に凝縮させている。

 私はこの本を初めて読んだときから「柿の葉」という言葉が印象に残っていた。いわゆる無縁仏への供物は器でなく柿の葉に載せるという差別待遇があったらしい。「以前は遠い田舎では子のない老女などを罵って、柿の葉めがといったという話がある。今ならもうそのような残酷な言葉を口にする者もあるまいが、当の本人だけはまだ時々はこれを思い出すかもしれない。私の先祖の話をしてみたくなった動機も、一つにはこういう境涯にある者の心寂しさを、由ないことだと思うからである」(104頁)。

 柳田の霊魂観の第一の特徴として“祖霊の融合化”が挙げられる。祀るとは、その人のことをいつまでも覚え続けていくことである。具体的な個人、有名になった英雄を神様として祀ることも大切かもしれないが、あまたの無名の人々にはどのように向き合ったらよいのか。時間が経つと、見知らぬ個々具体的な人々への追憶は薄れていくが、見方を変えれば「一定の年月が過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていたのである」(133頁)。“祖霊の融合単一化”という形で、ともすれば取りこぼされかねない人々が出てくるのをできる限り防ごう、そうしたところに柳田は日本人の霊魂観の意義を見出そうとしている。

「古いということに対しては、もともと我々はごく漠然とした知識しか持たなかったのである。それをだんだんと今いる者の父母とか祖父母とか、いたって近い身のまわりへ引き寄せて、我から進んで家の寿命を切り詰めたことは、過去はさて置いて、未来のためにも損なことであった。遠い先祖の降りて来て祭られることが、同時にまた今の我々の永くこの国土に去来し得ることを、推理せしめる因縁ともなっていたからである。それよりも大きな障りになったのは人の名をさすこと、家にすぐれた大事な人があって、その事蹟の永く伝わるのはよいことであり、子孫の励ましにもなることは確かだが、そればかりがあまりに鮮やかに拝み祭られる結果は、幾多の蔭の霊を、無縁とも柿の葉とも言わるるようなものに、落すことになるのであった。活きている間は一体となって働き、泣くにも喜ぶにも常にその一部であった者が引き離されて、歴史はいつも寂しい個人の霊のみを作ることになっている。…何にもせよこうして永い世に名を残すということが、一方には無名の幾億という同胞の霊を、深い埋没の底に置く結果になっていることだけは考えてみなければならない。元からそうであったということは言われぬのである。我々の先祖祭は、一度はかつてこの問題をあらましは解決していた。家が断絶して祭る人のない霊を作り出すことだけは、めいめいの力では防がれなかったが、家さえ立って行けば千年続いても、忘れられてしまうというものはない。少なくともそう信ずることがもとはできたのである。…国が三千年もそれ以上も続いているということは、国民に子孫が絶えないことを意味する。それがただわずかな記憶の限りをもって、先祖を祭っていてよいとなれば、民族の縦の統一というものは心細くならざるを得ない。」(148~149頁)

「淋しいわずかな人の集合であればあるだけに、時の古今にわたった縦の団結ということが考えられなければならぬ。」(207頁)

 第二に、日本という国土における“顕幽二界”という特徴も挙げられる。つまり、生者の世界と死者の世界とは近くにあって行き来が可能だという世界観である。柳田の脳裡にあった“顕幽二界”という考え方には平田篤胤流国学の影響も指摘されている(余談だが、平田にしても柳田にしても、今風に言うなら結構オカルト好きだ)。戦争中、「七生報国」という言葉を胸に抱いて死地に赴く場面が見られた。死への抵抗感・緊張感はもちろん余人には窺い知れぬほど強いものだったろうが、柳田は、死んでもこの日本に戻ってこられるという世界観があったからその緊張感も比較的軽減できたのではないか、と言う。「人生は時あって四苦八苦の衢(ちまた)であるけれども、それを畏れて我々が皆他の世界に往ってしまっては、次の明朗なる社会を期するの途はないのである。我々がこれを乗り越えていつまでも、生まれ直して来ようと念ずるのは正しいと思う。しかも先祖代々くりかえして、同じ一つの国に奉仕し得られるものと、信ずることのできたというのは、特に我々にとっては幸福なことであった」(206頁)。ここで言う「他の世界」とは、極楽浄土や天国といったこの世から隔絶したあの世に憧憬を抱く他界観を指す。

「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。」(61頁)

 こうした考え方が良いか悪いかは軽々には断定できない。ただし、国家への強制的奉仕という言い方ではまとめられない、もっと感性的な深層に根ざしたものを見つめようとしている点は汲み取るべきだろう。橋川文三は以上の柳田の思想に、時間的な連続の中に個人を位置付ける感覚としての“純粋な”保守主義を見出し、エドマンド・バークと比較している(橋川文三「保守主義と転向」「日本保守主義の体験と思想」、『柳田国男論集成』未来社、2002年)。なお、過去・現在・未来の共同事業として国家を捉えるバークの保守主義思想については以前こちらに引用したことがある。

 ここで強調しておかねばならないのは、柳田はこうした自身の態度を他人に強制するつもりはないとしていることだ。彼も含めて以上に見られる世界観に安心を覚えたということ、このこと自体は打ち消しがたい一つの事実ではあるが、この事実を踏まえてどのように考えるかは各人に委ねられる。

「日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない。人を誤ったる速断に陥れないように、できる限り確実なる予備知識を、集めて保存しておきたいというだけである。歴史の経験というものは、むしろ失敗の側において印象の特に痛切なるものが多い。従ってつまびらかにその顛末を知るということが、いよいよ復古を不利不得策とするような推論を、誘導することにならぬとは限らない。しかしそのために強いて現実に眼を掩い、ないしは最初からこれを見くびってかかり、ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今まで一つとして成功していないことも、また我々は体験しているのである。今度という今度は十分に確実な、またしても反動の犠牲となってしまわぬような、民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考え出されなければならぬ。それにはある期間の混乱も忍耐するの他はないであろうが、そういっているうちにも、捜さずにはすまされないいろいろの参考資料が、消えたり散らばったりするおそれはあるのである。力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て大いに働くべきで、空しく詠嘆をもってこの貴重なる過渡期を、見送っていることはできないのである。」(10~11頁)

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末広厳太郎『役人学三則』

末広厳太郎『役人学三則』(佐高信編、岩波現代文庫、2000年)

 末広厳太郎(すえひろ・いずたろう、1888~1951年)は大正・昭和初期の法学者。有名な「嘘の効用」をはじめとした法学エッセイを集めた本。法治主義の基本原則が軽妙な語り口でつづられている。要するに、すべての人間を公平に扱うため、予め法律というモノサシを決めておく。ところが、対象は人間である。具体的な問題はケース・バイ・ケースで法律の機械的な適用は無理がある。そこで、行政という場面では役人の裁量が要請され、訴訟の場面では“嘘の効用”が必要になる、という趣旨のことが述べられる。

 ところで、本来、法律は役人の専制から人々の自由を守るために存在するのだが、これがかえって形式主義に逃れる口実ともなってしまう。だから、役人の責任意識が重要だ、役人であっても自由があるから責任が生ずると言う(「役人の頭」)。また、訴訟の場面では、法律は動かせない。無暗にゆるがせにしたらそれは法律ではない。ならば“事実”の方を動かせばいい──と言っても冤罪とかを認めるという話ではない。法と現実との間に整合性がないならば、柔軟に“嘘”を使って実際的な解決につなげよう、ということ(「みなす」という形での法運用は普通に行なわれていることだ)。また、裁判官の理屈に傾いた法的公平性重視に対し、素人の“人間性”を取り込んで法の柔軟性を確保しようというのが陪審制度の趣旨だと指摘する(「嘘の効用」)。役人にしても、裁判官にしても、法解釈の技法を身につけるのは当然だが、同時にいわゆる“人間性”を求めてくるあたりはいかにも戦前のリベラルな教養人らしい。“人間性”なるものに私などは悲観的だが、法治主義の原則と現実的な柔軟性との兼ね合いをどうするのかという問題提起はいまだに解きがたいアポリアである。

 “嘘”というテーマでさらに話を広げると、制度というもの自体がフィクションじゃないかという議論も法哲学などにはある。しかし、たとえフィクションであっても手続きを踏んでおれば正統とみなされるというのが基本的な考え方だ。我々は自由である、かのように思う。民意は政治に反映される、かのように思う。その他もろもろの“かのように”の積み重ねによって辛うじて我々の社会生活は成り立っている。フィクションというのは実に大切なのである。こうした立場を西洋哲学史では新カント主義というらしいが、詳しいことは知らない。ハンス・ファイヒンガー〟Die Philosophie des Als Ob〝(“かのように”の哲学)が有名だが、残念ながら邦訳はない。私はドイツ語はダメだが、そのエッセンスを森鴎外が「かのように」という作品で紹介してくれている。興味のある方は参照されたい。

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「鈍獣」

「鈍獣」

 浅野忠信主演、脚本は宮藤官九郎ということで観に行ったのだが…。はあー、つまんねえ。テンションの高いナンセンス・コメディーというノリは、空振りすると寒くて寒くて仕方がない。前から薄々疑念を持っているのだが、クドカンって騒がれるほどおもしろいか?

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2009年6月 5日 (金)

ジョージ・H・カー『裏切られた台湾』

ジョージ・H・カー(蕭成美訳、川平朝清監修)『裏切られた台湾』(同時代社、2006年)

 原著 Formosa Betrayedは1965年に刊行されている。ジョージ・H・カー(George H. Kerr、1911~1992年)は1937~40年まで(旧制)台北高等学校で教鞭を取っていたことがあり、戦争中は台湾通の情報将校としてアメリカ海軍に勤務、戦後は在台北の副領事となった。本書は第二次世界大戦から戦後の国民党政権に至る時期の記録だが、国民党による苛酷な支配体制に対する口調は厳しく、とりわけ二・二八事件に関しては台北市内で国民党軍による虐殺をじかに目撃、本書でもその描写が生々しい。結局、国民党からEnemy No.2とみなされる栄誉(?)に浴し、アメリカに帰国せざるを得なくなった。

 ちなみに、Enemy No.1は本書に序文を寄せている政治学者ロバート・スカラピーノ(Robert Scalapino)らしい。アメリカ上院外交委員会に提出されたアジア情勢分析「コンロン報告」で中国問題の執筆を担当、その内容が国民党政権に批判的だったからだ。スカラピーノは日本政治に関しても先駆的な研究者として有名で、一昔前までは政治学の研究書の参考文献によく名前を見かけた。

 また、本書の冒頭には「問題の核心」と題したアルバート・ウェデマイヤー(Albert Wedemeyer)将軍による簡潔な報告書も掲載されている。国民党の腐敗と無能が台湾人を離反させているという趣旨である。ウェデマイヤーは蒋介石と直接交渉をしたアメリカの軍人だが、回想録『第二次大戦に勝者なし』(上下、妹尾作太男訳、講談社学術文庫、1997年)ではアメリカの対中政策の失敗も指摘されている。

 カーはもともと中国に留学するつもりだったようだが、ハワイ大学で政治学者の蝋山政道と出会い、彼のすすめで来日した。台北で英語を教えていたアメリカ人の友人が病気となり、その代理で行ったのが台湾との関わりの始まりである。訳者の蕭成美、川平朝清両氏は台北高校の出身、在学中は直接授業を受けたわけではなかったが、戦後に交流が深まったという(ちなみに、川平朝清はジョン・カビラ、川平慈英兄弟の父)。二人とも親しみを込めてカール先生と呼んでいる。カーが親しく付き合った人々の中には台北帝国大学の金関丈夫や浅井惠倫、医師の南風原朝保などの名前も見える。南風原はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる。与那原さんの『美麗島まで』(文藝春秋、2002年)、『サウス・トゥ・サウス』(晶文社、2004年)でもカーについて少しではあるが触れられていた。カーは沖縄にも関心が深く、『琉球の歴史』は英語で書かれた初めての通史だという。カーの蔵書が琉球大学に寄贈されている(琉球大学図書館のホームページに彼のプロフィールが紹介されている→こちら)。日米開戦によって帰国した後はコロンビア大学の博士課程に入った。イギリスの外交官で日本研究者として著名なジョージ・B・サンソムの講義も受けたらしい。ヘンダーソン氏から日本語の講義を受けたと訳者解説にあるが、朝鮮研究のグレゴリー・ヘンダーソンのことか。朝鮮半島の政治文化を渦巻き型の中央集権体制と特徴付けた『朝鮮の政治社会』(サイマル出版会、1973年)は朝鮮研究の古典とされている。

 当初、台湾の人々は中国への復帰を心から歓迎していた。しかし、上陸してきた国民党の腐敗ぶりを見るにつけ失望が高まり、それはやがて軽蔑となり、憎悪にまで高まった。日本から解放してくれたのは中国ではなくアメリカだったと見切った。ニ・ニ八事件に際しても自由と民主主義の国アメリカが介入してくれると信じていたが、その期待は見事に裏切られてしまった。

 カーはアメリカ国務省内の“中国第一主義者”に批判的である。中国へ布教に行った宣教師の子弟が多かったらしい。彼らは蒋介石をはじめ国民党幹部との個人的なパイプを通して中国情勢を判断していた。台湾問題に関しても国民党側から吹聴されたバイアスがかかっていて(さもなくば全く無関心か)、カーたちの意見は全く通らないと歯ぎしりする場面が頻繁に出てくる。

 上は台湾行政長官の陳儀から下は末端の兵隊まで、とにかくやりたい放題の乱暴さが繰り返し描写される。しかしながら、これを読む我々が、だから中国人はタチが悪い、と決め付けて済ませてしまうのも安易であろう。国民性の問題に還元してしまうのではなく、“近代”と“前近代”とが不幸なぶつかり方をしてしまったと捉える方が私には説得的のように思われる(以下は掲題書の内容を踏まえつつも本筋から外れる)。

 台湾の日本語世代の老人たちが“日本精神”“大和魂”といった表現を使い、教育勅語を称賛するのを聞いて、戦後生まれの私など面食らってしまったことがある。“日本精神”などというと古色蒼然たる前近代的な頑迷さを思い浮かべるが、実際には、約束を守る、ウソをつかない、時間厳守、礼儀正しさ、勤勉、公共心など日常一般の生活道徳に重きが置かれているようだ(平野久美子『トオサンの桜』小学館、2007年を参照のこと)。

 こうした生活徳目について、たとえば、約束を守ってウソをつかない=契約遵守の観念、時間厳守=期日を守る、礼儀正しさ=対人関係の円滑化、勤勉=職務に忠実、公共心=法律や規則の遵守、と読み替えてみると、分業によって効率性向上を図る資本主義的経済組織の運営に不可欠な生活習慣的エートスであったことが分かる。その意味で、むしろ一種の“近代性”そのものだったとすら言える。

 日本の植民地統治においてはこうした生活習慣的エートスを植えつけることが教育事業の目的になっていた。日本の統治についての評価は一歩間違えると誤解を招きかねない微妙な困難をはらんでいるが、物質面ばかりでなく、日常的な行動様式という面でも資本主義に適合的なインフラ整備を進めていたという点は価値中立的に指摘できるのではないか。もちろん、日本人優位の差別構造を内包した統治システムが台湾の人々に耐えがたい屈辱感を与えていたことは決して正当化し得ないことを看過してはならない。

 日本でも幕末の開国時、欧米の貿易商人の中に日本人はズルイという印象を抱く人がいたのを何かで読んだ覚えがある(何だったか失念してしまった)。おそらく、契約観念が欠如していたのだろう。一般庶民レベルまで含めた生活エートスの改造=“近代化”は、日本自身が明治維新以来推し進めてきた一大事業であった。台湾(おそらく朝鮮半島もそうだろうが)における“近代化”には、“日本化”と“日本経由の近代化”という二重性があった(日本が植民地に神社をつくった一方で、台湾総督府や朝鮮総督府の堂々たる構えは西洋風の巨大建築で日本の威信を示そうというアンビヴァレンスの表われであった。前者には日本優位の意識があるが、後者においては進歩性・近代性という価値指標は西洋に置かれている)。台湾にしても朝鮮半島にしても、いずれ何らかの形で“近代化”を迫られたであろう。しかし、そこに“日本化”が絡まりあっていたところに解きがたい難点があった。

 日本の敗戦後、台湾接収のため派遣されてきた国民党軍には、中国奥地から駆り出されてきた兵隊たちも多く含まれていた。彼らは当然ながら上に示したように洗練された“近代的”行動様式など身に付けていなかった。水道・電気をはじめ初歩的な近代文明の利器すら扱えない彼らは台湾人から嘲笑の的となった。また、利権漁りに汲々とする国民党幹部の腐敗についても法治ではなく人治という問題点はよく指摘される。いずれにしても、“近代的”組織モデルには馴染まない文化風土に育った人々だったのである。

 発展段階説のような話になってしまうが、本省人と外省人との間にはこのような“近代”と“前近代”というかけ離れた溝があった(大陸に渡って共産党と協力した謝雪紅たち台湾民主自治同盟は、こうした経済的・社会的レベルの相違を根拠に台湾の高度な自治を求めていたが、反右派闘争で批判されて勢力を事実上失った)。日常の生活行動パターンがそもそも異なるし、外省人には「台湾など化外の地だ」という侮蔑意識があったから、このギャップが外省人側のプライドをますます害することになってしまった。本省人は“近代”という尺度で考えるが、外省人は“中華文明”という尺度で考える。この時点で評価尺度が根本的に異なっていたわけだが、ロジックのすり替えが容易に行なわれた。国民党政権は前者の“近代”という尺度の有効性を知りつつも、政治的正統性にこだわって後者の“中華文明”という尺度で政治統合を強行しようとした。台湾人は“日本経由の近代化”=“日本化”されている、従って“中華文明化”されるまでは信用できないという猜疑心で残酷な弾圧が正当化されてしまった。

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2009年6月 4日 (木)

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 お米の収穫を祈願するのが天皇のお仕事で、それを新嘗祭といい(勤労感謝の日はこれに由来)、天皇即位後初めて行なわれる新嘗祭を大嘗祭という。柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」は大正天皇の時の大嘗祭に出席した経緯をもとに書かれている。要するに、国威発揚のための即位式と日本の伝統的信仰に基づく大嘗祭とでは性格が全く異なる、対外関係を意識する前者が盛大に行なわれるのは当然だが、後者は身を清めて厳粛に執り行なうべきで、同じように扱うのはおかしい、という趣旨。

「即位礼ハ中古外国ノ文物ヲ輸入セラレタル後新タニ制定セラレタル言ワバ国威顕揚ノ国際的儀式ナルニ反シテ、御世始メノ大嘗祭ニ至ッテハ国民全体ノ信仰ニ深キ根柢ヲ有スルモノニシテ、世ノ中ガ新シクナルト共ニ愈其ノ斎忌ヲ厳重ニスル必要アルモノナルガ故ニ、華々シキ即位礼ノ儀式ヲ挙ゲ民心ノ興奮未ダ去ラザル期節ニ斯ノ如ク幽玄ナル儀式ヲ執行スルコトハ不適当ナリト解セラレタル為ナルベシト信ズ。」「国家ノ進運ガ今日ノ如ク著シキ時代ニハ、即位礼ノ壮麗偉大人目ヲ驚カスベキモノアルコトハ固ヨリ当然ノ儀ニシテ、小官ノ如キハ臣子ノ分トシテ今後百千年ノ後愈々益々此ノ儀式ノ盛大ニシテ有ラユル文明ノ華麗ヲ尽サンコトヲ望ミテ已マザルモ、之ニ引続キテ略々相似タル精神ヲ以テ第二ノ更ニ重大ナル祭典ヲ執行セラルルコトハ単ニ無用無益ト云ウニ止ラズ、或イハ不測ノ悪結果アランコトヲ恐ルルナリ。」(712~713頁)
「…今日最モ其ノ宜シキヲ得ズト考エラルル点ハ即位礼ノ盛儀ヲ経テ民心興奮シ、如何ナル方法ヲ以テシテモ慶賀ノ意ヲ表示セントシテ各種ノ祝宴ニ熱中スル際、引続キテ大嘗祭ノ如キ厳粛ヲ極メ絶対ノ謹慎ヲ必要トスル祭典ヲ挙ゲラルルト云ウ制度ナリ。」(717頁)

 国家のロジックと伝統のロジック、両者の相違を明確にしようという柳田の姿勢がうかがえる。同様の相違は地方自治の問題でも表面化した。床次竹二郎ら内務官僚の主導で、日本各地の神社、それこそ村はずれの鎮守の杜まですべてを統合し一定のヒエラルキーに整理してしまおうという構想が進められていた。南方熊楠などはこれに反対して逮捕されてしまい、柳田も当然ながら反対で、熊楠に共感していた。この神社統合構想において、地域住民の皮膚感覚に根ざした伝統的信仰のあり方と、国の隅々まで行政の論理を貫徹させようとする中央集権志向と、両者の衝突が鮮明化したと言える。よく指摘されることだが、いわゆる“国家神道”なるものはあくまでも近代の産物であって、“伝統”と見まごう衣装を被りながらも、その内実は似て非なるものであった。エリック・ホブズボームらの表現を借りるなら“創られた伝統”である。いわゆる常民の皮膚感覚に根ざした心情の世界を前にしたとき、政治のロジックはどうしてもすれ違ってしまう。もともと農政官僚として出発した柳田はこうしたズレから眼を背けることができなかった。そこに民俗学への動機があった。だからこそ、民俗学や歴史学ばかりでなく、政治思想史・社会思想史といったコンテクストにおいても柳田の存在感は大きいのである。橋川文三は柳田について次のように記している。

「…彼の考え方は、祖先信仰の中にひそむ民衆心情世界の自覚的研究を通して、まず民間信仰の純粋形態を明かにし、そこで、はじめて正しい神社行政が樹立されねばならないというものであり、たんなる制度化、政治的既成事実化によっては、かえって制度化によって疎外されたアモフルな信仰エネルギーが混乱をひきおこすであろうというものであった。いいかえれば、彼は氏神信仰の心意をつらぬく民衆的生活原理の内省的純化という手つづきを重視したのであり、その意味では民族信仰の「宗教改革」ともいうべき転換をさえ必要と考えていたといえよう。…ともあれその民俗学的研究によって切り開かれた氏神信仰の世界は、おそらく官僚的宗教観にとって想像もつかないほど、混沌とした様相をおびたものであった。」「類型的にいえば、国家官僚の氏神観はその雑多性・猥雑性を無価値な自然状態として、もっぱら行政的規制によって画一化を進めようとする。それに対して、柳田はその雑多性の中に理由を見出し、純粋な地方民衆生活の原理形態を明かにしようとする。前者が絶対主義権力の外発的要求にもとづく地方処理であるとすれば、後者は民衆生活の内発的要求を原理化することによって、かえって国家論理の形態を規制しようとする意味を含んでいる。いわば明治の地方自治制がいわゆる「郷党原理」という擬制的な魂を地方に付与したのに対し、実体としての地方の魂を明かにしようとしたのが柳田の仕事であった。」(橋川文三「明治政治思想史の一断面」『柳田國男論集成』未来社、2002年、253~254頁)

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