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2009年5月10日 - 2009年5月16日

2009年5月16日 (土)

「チェイサー」

「チェイサー」

 元刑事のジュンホはデリヘル嬢斡旋をなりわいとしている。ある客から電話があった。番号に見覚えがある。働いていた女性が前に姿を消してしまったのだが、その客の所へ行った時のことだった。「くそっ、こいつか、女を売り飛ばしてやがるのは」 客の家へ行ったミジンに場所を教えろと連絡を入れたのだが、返信はない…。

 猟奇的な連続殺人事件をめぐるサスペンス・ドラマ。映画の早い段階で犯人はいったん捕まるのだが、証拠不十分で釈放される。チェイサー=追跡者というタイトルには、釈放されて家に戻る犯人、彼の心に巣食う闇、この両方をたどるという意味が重ねあわされているのだろう。映画の全編を通して夜もしくは雨。緊張感のあるカメラ・アングルは、このダークな雰囲気に観客をグイグイと引き込んでいく。ミジンが何とか逃げ出した時だけ真夏のけだるい陽光がふりそそぐ。結末を考えると、このシーンの静かな明るさがいっそうやりきれない気持ちにさせてしまう。監禁された被害者の逃げられない絶望的な恐怖を浮び上らせようとしているようだ。サスペンス・ドラマとしての完成度は高くて見ごたえはあるが、だいぶ後味の悪さも残った。

【データ】
監督・脚本:ナ・ホンジン
出演:キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ソ・ヨンヒ
2008年/韓国/125分
(2009年5月16日、新宿・シネマスクエアとうきゅうにて)

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早川孝太郎『花祭』

早川孝太郎『花祭』(講談社学術文庫、2009年)

 三河・信濃・遠江の祭事は日本芸能の縮図的存在として民間信仰史・芸能史では重要らしい。早川孝太郎が自身の故郷・奥三河の花祭を記録した本書はそのことを知らしめた古典とされているらしい。早川は宮本常一などと同様に渋沢敬三・柳田國男によって引き立てられた民俗学者である。

 何となく気になっているのだが読まないままの本がいくつかある。早川『花祭』も私にとってそうした一冊だった。高校生の頃、学校の図書館に岩崎美術社の民俗学シリーズがそろっていて(深い水色のハードカバーが記憶に鮮やかだ)、適当に引っ張り出しては、読むともなくパラパラめくって眺めることがよくあった。『花祭』もその中にあった。民俗学への興味がうすれて久しいのだが、なつかしい感じがしてついつい買ってしまった。講談社学術文庫版は岩崎美術社版の復刊だが、これ自体が縮刷版である。大部なオリジナルは岡書院から出されていたということは今回初めて知った。岡書院の岡茂雄についてはこちらを参照のこと(→岡茂雄『本屋風情』

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2009年5月15日 (金)

奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』、高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』

 近現代の沖縄には「アメリカ世(ユ)」や「ヤマト世(ユ)」はあっても「沖縄世(ウチナーユ)」はないといわれる。しかし、戦後間もなくのカオティックな数年間こそ「沖縄世」だったのではないか、この時に沖縄人は秘めていたエネルギーを密貿易という形で爆発させたのではないか。そうした問題意識から奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文藝春秋、2005年)は金城夏子という女傑の生き様を追いかける。高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』(小学館、2007年)もやはり同様にバイタリティーあふれる女性の軌跡をたどる。

 帰属のはっきりしない混沌とした状況の中、当時の沖縄がある意味ボーダーレスの活況を呈していたことは、最近では佐野眞一『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(集英社インターナショナル、2008年)でも読んだ。佐野書でも魅力的な群像が描かれているが、金城夏子、照屋敏子、この二人の迫力もちょっと並ではない。密貿易に義侠心の厚さとくると女海賊のようなイメージにもなりかねないが、アメリカ軍政の厳しい施策で実際問題として食うことができないという背景があった。女性の活躍という点が目立つが、漁師として遠洋に出る夫が海難で命を落とすことも珍しくなかったので、女性も自活できるよう商売をして自前の貯えをするのは当然という考え方が沖縄にはあったという。金城夏子は若くして亡くなったが、彼女の建てたビルを照屋敏子が買ったという形で二人の接点もあった。白団の関連で旧陸軍の根本博が沖縄経由で台湾に渡ったことが二人の周辺でちらつくのも当時の世相がうかがわれて興味深い。

 ただし、二冊とも取材はしっかりしているが、彼女たちの人物的魅力に読者をのめりこませていけるほどの筆力がないのが残念。二人とも題材としては非常に興味深いだけにもったいない。

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2009年5月14日 (木)

台湾旅行⑥ 5月某日 書店にて

・花蓮より台北に戻った夜は、誠品書店信義店へ行ってまた書棚をじっくり眺め、何冊か買い込んでから宿舎に戻った。
・宿舎に戻る途中、道端の露天商が女性用の靴を広げている横を通りかかったところ、たかっていた地元の女の子たちから「カワイイ!」と黄色い声が聞こえてきた。台湾のテレビのバラエティー番組を眺めていたら、説明的に話す際には「可愛=クーアイ」という発音が聴き取れたが、若い女の子のタレントが間投詞的に「カワイイ!」と叫ぶシーンも見かけた。中国語の「可愛=クーアイ」と日本語由来の「カワイイ」、それぞれシチュエーションに応じて使い分けられているのだろうか。
・翌朝、誠品書店敦南店へ行った。こちらは24時間営業、早朝だと時折居眠りしている客も見かける。ここでも何冊か買い込んだのだが、レジに行ったら、「アー・ユー・ジャパニーズ?」と英語で尋ねられた。えっ、なんでばれたの?(って、別にスパイじゃないからいいんだけど) 要するに、外国人が同一店で1,000元以上の買い物をした場合には免税の対象となるからパスポートを見せてください、とのこと。他の書店でも1,000元以上の買物を何度もしているが、日本人だとばれたことはない(って、いばるなよ)。私は中国語はよく聴き取れないが、レジの人から何か言われても、雰囲気から「袋に入れますか?」と言ってるんだなと分ったので、適当にうなずいていたら何となくその通りにやってくれていた。実は以前台北へ来たときにもこの誠品書店敦南店で、日本人ならパスポート見せてください、と英語で言われたことがあって、今回は二度目。なぜこの店でだけ日本人だとばれるんだろうか。いずれも口をきく前だから、中国語ができない→日本人観光客という判断ではないと思う。些細なことだが、不思議。
・今回の旅行中で買い込んだ本は以下の通り(中国語は苦手なのでちゃんと読むかどうかは分かりませんが)。
『蒋渭水全集』(上下、海峡学術出版社、2005年)
『林献堂先生年譜・追思録』(海峡学術出版社、2005年)
李筱峰『林茂生・陳炘和他們的時代』(玉山社、1996年)
『1930年代絶版臺語流行歌』(台北市政府文化局、2009年→当時の台北の都市風景の写真も掲載されているほか、CDつき。中国風、当時の日本の歌謡曲風など色々なメロディーが面白い。1930年代も後半になると、皇民化運動が始まっておおっぴらには台湾語で歌うことができなくなる)
唐徳剛『張学良口述歴史』(遠流出版、2009年)
薛仁明『胡蘭成・天地之始』(大雁文化、2009年→胡蘭成の評伝。なお、元妻であった張愛玲『小團圓』が新刊ベストセラーの一位のところに積んであった。中国語文化圏で張愛玲の人気はいまだに根強い)
唯色・王力雄『聴説西蔵』(大塊文化、2009年)
王力雄『天葬:西蔵之運命』(大塊文化、2009年→新装版のようだ)
唯色『鼠年雪獅子吼:2008年西蔵事件大事記』(允晨文化、2009年)
(※以上、チベット関連3冊は誠品書店やPAGE ONEの新刊平台にまとめて積まれていた)
王力雄『逓進民主』(大塊文化、2006年)
朱天文『最好的時光』(印刻出版、2008年→侯孝賢映画などのシナリオ集)
王柯・王智新『安倍晋三伝』(中央編訳出版社、2007年→これは大陸の簡体字本。誠品書店信義店の簡体字コーナーで購入。王柯といえば『東トルキスタン共和国研究』でサントリー学芸賞をとっているが、なんで安倍晋三なんだ? 話のネタ程度のつもりで買った)。
・他に、新刊棚に積んであった小説・評論・絵本など5冊を適当に購入。
・誠品書店信義店の台湾史の棚で『蒋渭水全集』を小脇に抱えながら何冊かパラパラ立ち読みしていたら、同じ棚を眺めていたおじさんから話しかけられた。繰り返すけど私は中国語の聴き取りはほとんどダメなので「対不起、我是日本人、我不懂中文…」と言ってやりすごしたのだが、じゃあ、お前はなんでそんなに熱心に本を探しているんだ?と怪訝に思われたろうな。はあ、中国語ちゃんと勉強しよ…。

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2009年5月13日 (水)

台湾旅行⑤ 5月某日 花蓮

・12:03分宜蘭発の自強号(タロコ号)→花蓮到着は13:00頃。緑に覆われた山並みと海とに挟まれた路線、車窓に流れる風景を見ていると飽きない。2度ほど大きな河口を渡ったが、峻険な渓谷にすぐつながっているのが見えてなかなか雄大な眺望。この先にタロコ峡谷があるのか。時折、セメント工場が見える。
・花蓮站では外国人観光客が多数降りた。みんなタロコ峡谷へ行くようだ。私は取りあえず帰りの列車の切符を買い、発車時間を確認してから、市内をブラブラ歩き。
・花蓮は旧市街と新市街が離れている。台鉄の花蓮站前は戦後の街並み、繁華街は旧市街。
・地図を見ながら忠烈祠を目指す。忠烈祠はたいてい日本時代の神社をつぶして建てられている(台北も宜蘭もそうだった)。こちらも花蓮神社があったらしいのだが、その痕跡は分らない。小高い丘の上から町を見下ろす位置関係からすると神社があったとしてもおかしくない。Karen1
・ちょっと道に迷ったが、気ままに歩く。いくつか日本式家屋を見かけた。そのたびにデジカメで撮影。台湾の東海岸は漢族系のパーセンテージが低く、その分、原住民系と日本人が多かった。花蓮の場合、市街地の人口のうち半分くらいは日本人だったらしい。田舎町なので開発が遅れていることもあり、歩いていて日本式家屋に出くわす確率が他の町に比べるとかなり高い。以前、「花蓮の夏」という映画(→こちらを参照のこと)を観たことがあるが、主人公の実家が日本式家屋だったのを覚えている。
・忠烈祠に行く途中、大きな川岸を歩いたのだが、近くの高校生が清掃作業に駆り出されて行列を連ねているのとすれ違った。ジャージ姿の高校生の多くは漢族系だが、時折、原住民系だろうか、眼のパッチリした南方系の顔立ちも見かけた。
・旧市街の中心地に向けて歩く。鉄道公園の前に出た。日本統治時代に作られた鉄道の駅はもともとこちらにあって、繁華街は今でもこちらの方になっている。
・海岸に出る。何やら工事中でわさわさと慌しい。道路も殺風景。砂浜のあるところまではちょっと遠そう。海を実感できるところまで移動したかったが、時計と相談して断念。
・東海岸にはセメント工場や大理石の切り出し場があるせいか、トラックやミキサー車が埃を巻き上げながら走っている。市街地の海に近い方には空地が目立つ。おそらく、日本式家屋が補修不可能なほど古びてきたので更地にして、再開発を予定しているのだろう。
・旧市街バスターミナルの前、旧駅跡の鉄道公園に入る。戦前の建物や機関車が保存もしくは復元されている。防空壕もあった。戦前の古い日本式駅舎は崩れかかりつつも、その上に大きな屋根を設けて保存の努力がされていた。
・展示資料室に入ると、監視員だろうか、60歳前後のおじさんが話しかけてきた。私は中国語が苦手なので何と返事すればよいものやら迷って口をモゴモゴさせていたら、「ひょっとして、日本人ですか?」「はい、そうです。」「やあ、日本の方が前に来たのは一週間前だったかな。どちらから来たのですか?」という具合に日本語で雑談。日本語世代に比べると明らかに若い。自分で日本語を勉強しているらしく、机の上には日本語のテキストがちょうど開かれていた。親切に、鉄道に詳しい別の解説ボランティアを呼んでくれたのだが、この人は日本語が分らない、私は中国語が分らない、お互いにちょっと様子がおかしいなという感じになって、「中国語は分るのか?」という趣旨のことを聞かれ、私は「対不起、不会…」、気まずい空気が流れてしまった。それでも一通り見せてもらったのはありがたい。Karen2
・旧市街、旧駅と海辺に近いあたり、密集した日本式家屋の屋根が見えたので、そちらの路地に入り込む。日本式家屋がまとまって残っている一画だった。いずれも大きいおうちだが、人が住んでいる気配はない。とりわけ大きな邸宅の横の空地に築山があって、そこに登って覗き込んだ。庭には池と石橋なんかも配置されている。テラスがあるのはコロニアル風。総督府の高級職員官舎か、それとも貿易関係者の家か。空地が目立つのは、老朽化して取り壊された跡なのだろう。近い将来、大規模に再開発されるのかもしれない。
・この一画の空地にも防空壕が残っていた。宜蘭で見かけたのと同じタイプ。覗き込んでみると、中にはゴミが棄てられて酸っぱい腐臭が漂っている。Karen3
・花蓮旧市街の繁華街を歩く。日本式家屋を改造したカフェをいくつか見かけた(下の写真)。むかし線路が引かれていた跡が遊歩道になり、屋台風の店もあって、地元の若者が行きかっている。Karen4
・時間の按配が分らなかったので、歩いて早めに台鉄の花蓮站まで戻った。30分ほど時間があったので、駅近くの大衆食堂にもぐりこみ牛肉麺をかきこんで空腹を満たす。花蓮市立図書館もちょっとのぞく。
・花蓮17:40発の自強号(タロコ号)に乗車→台北到着は20:00頃。

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台湾旅行④ 5月某日 宜蘭

・朝8:30台北站発の自強号(タロコ号)に乗り、宜蘭站には10:00ちょっと前に到着。途中、海に亀山島が見えた。
・12:03発の列車に乗るつもりなので、まず時間のかかりそうな所から先に回ってしまうことにした。駅前でタクシーを拾い、員山公園まで行く。車で片道10分くらいか。タクシーにはちょっと待ってもらって、公園内に入る。
・急な石階段を登る。現在は忠烈祠となっているが、日本統治時代には宜蘭神社があった。忠烈祠というのは国民党軍の戦死者を祀る施設で、中華民国版護国神社と言ったらいいだろうか。忠烈祠を取り囲むようにガラス製の展示スペースがあり、宜蘭神社の成り立ちを中心に宜蘭の町の歴史が写真入りで解説されている。日本統治期を否定するでも肯定するでもなく淡々と叙述しているのが興味深い。
・忠烈祠の前から宜蘭平野を望む。この一帯は穀倉地帯だったらしい。Giran1
・石階段の麓に、何やら石柱のようなものが転がっている。宜蘭神社の頃の鳥居、石灯籠、狛犬など。やはり中華民国の忠烈祠だから日本時代を否定せねばならないわけだが、鉄パイプを交えて現代アート風にデザインを意識した転がし方になっているのが面白い。横には戦車が展示されている。忠烈祠=護国神社、つまりwar shrineだから。
・待ってもらっていたタクシーに乗り込み、宜蘭站へ戻る。運転手さんに「我要去宜蘭station」と言ったら、「チャザン、チャザン?」と念を押された。チャザンって何だろう?と思ったが、北京語で車站はchezhanであり、chもzhも舌を丸めてノドの奥の方に押し込む感じに発音するが、台湾の人はこれが苦手なようで、舌を上の歯の裏につけるように発音しているからチャザンと聞こえたようだ。同様に数字の十もshi→si、おいしい好吃もhaochi→haociという具合。ちなみに、偉そうに講釈してますが、私、中国語は苦手。旅行中、中途半端に中国語を使って、私は中国語が分るものと先方に思われてワヤワヤとまくしたてられ困ってしまったことが何回かある。基本はメモ用紙で筆談、あとは表情とジェスチャー。
・駅まで戻って、次の行き先である花蓮行き列車の切符を買い、発車時間を確認してから再び宜蘭市内を歩き始める。
・日本統治期に清代の城壁を崩して街路にしたらしく、市の中心部では円形を描くように道路が走っている。
・日本統治期の食糧検査所の建物→現在は土産物屋になっている。
・市役所・台湾銀行支行のあった辺りは道路がきれいに舗装され、歩道脇には宜蘭の歴史を紹介する表示板が設置されている。監獄歩哨塔や防空壕が残っている。Giran1_1
・防空壕は半地下の筒型、両方の出口の前にコンクリート壁でふさぐがっちりした形式。中には向かい合わせになって座るベンチが設けられている。このタイプの防空壕は台湾ではポピュラーだったのかもしれないが、日本では見たことがない。ここ宜蘭の役所街のほか、花蓮の旧駅、花蓮の日本人邸宅区域でも見かけた。特権階層たる日本人向けにがっちしりとした壕をつくったということなのかな。説明標を読むと、中国語では防空洞というようだ。
・戦前の役所が集まっていた区域には、現在、真新しいショッピングモールがそびえたち、スターバックス、モスバーガー、ミスタードーナツ、ダイソーなど日本でもおなじみのテナントが入っていて、日本の地方都市を歩いているような奇妙な錯覚に陥る。
・日本式家屋(戦前の農林高校校長官舎)を改造したレストランや、同様に宜蘭県庁庶務課長官舎をそのまま利用した音楽ホールなどがある。その横には清代の赤レンガ城壁が移築されている。
・宜蘭設治紀念館は宜蘭県長官舎を改修した建物内で宜蘭の歴史を紹介するパネル展示をしている。畳敷き。入口で犬がのどかに寝ていて、入る時に驚かせてしまった(ゴメンネ)。Giran2
・観光マップで監獄跡というのを見つけて探していたら、先ほどの大型ショッピングモールの横にあった。途中、日本式民家を見つけてそれもデジカメでパシャリ。
・戦前から続く酒工場。現在は台湾菸酒股份有限公司。建物は戦前からずっと使われている。中は見学可能で、展示室や土産物屋などもある。
・文昌宮。道教のお寺。入口の屋台でジャージ姿の高校生が昼飯を食っていた。宜蘭神社のご神体であった馬の銅像がこちらに祀られている。
・宜蘭站に戻る。戦前の駅附属倉庫群も古跡として保存されている。
・駅に戻ったのはギリギリのタイミング。駅弁を探す時間もなかったので、慌てて駅構内のセブンイレブンでミネラルウォーターとクリームパンだけ買った。列車に乗ったら、隣に座ったおばさんがセブンイレブンのおでんを食べていた。具入りのスープという感じの食べ方だった。ちなみに、台湾ではおでんを関東煮という。また、夜市の屋台で甜不辣(てんぷら)というのを見かけるが、さつまあげのような感じ。いずれも、呼び方が関西風というのが面白い。
・今回は行けなかったが、宜蘭平野には戦争中に空港があって、特攻隊も出撃したらしい。

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台湾旅行③ 5月某日 九份、平渓線、他

Kyufun1 ・バスに乗って九份の入口で下車。九份は金瓜石など近くの金鉱山の労働者などがもうけを散財した繁華街である。とりわけゴールドラッシュで賑わい、一時は小上海とか小香港とか呼ばれたという。侯孝賢監督の映画「悲情城市」の舞台となったことや、宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」の風景のヒントとなったことで知られる。
・九份は台北から日帰りできる距離なので、台湾でも人気の観光地。台湾人観光客がひしめく中、時折日本語も聞こえてくる。
・昇平戯院という昔の映画館がある。侯孝賢監督「恋恋風塵」の看板画がかかっていて、なかなか風情を感じさせはするが、現在は使われていない。中は水溜りがあって不快な廃墟、前には台湾名物?スクーター違法駐車。台風で崩れかかってから、改修されないまま放っておかれているようだ。Kyufun2
・九份には軽食や土産物の店がひしめいており、それがここの見所とされている。夜市にしてもそうだが、台湾の人にとって観光地=屋台で買い食いというパターンが当然なのか。私は買い食いにあまり興味ないのでさっさと歩いていたら、30分もしないで通り抜けてしまった。
・こんなこと言うと申し訳ないが、正直、九份は私には期待はずれ。観光ガイドブックでは九份が主で金瓜石は時間があったらついでに行けという程度の扱いだが、歴史的経緯を考えれば、むしろ金瓜石が主で九份は従ではないか。
・帰りのバスはいつ来るのか分らなかったので、タクシーで瑞芳站に戻る。180元。
・瑞芳站で日本語ボランティアのOさんにまた会ったので少しお話をうかがった。途中、別のおじいさんが近寄ってきて、「やあ、やあ、Oさん、このあいだはどうもありがとう」と日本語で挨拶してからOさんと中国語で話し始めた。地元の人らしい。Oさんが私を指して日本人観光客だと紹介したら、「なに、あなた、日本人か? 私はむかし霞ヶ浦の海軍航空隊にいて…」とまくし立て始め、私があっけにとられているのも気にとめず、再びOさんと二言三言かわして、疾風のように去っていった。

・平渓線に乗るつもりだが、次の列車は15時過ぎ。1時間以上待たねばならない。時間があまったら、取りあえず街を歩く。
・平渓線は瑞芳始発の列車が、東南方向へ進み、三貂嶺で分岐するローカル路線。こちらの方向にも鉱山が点在していたので鉱石運搬用の路線だったのだろう。基隆河沿いの渓谷を走る。緑豊かで車窓に流れる風景が美しい。Heikei1
・十份站で途中下車。このあたりは、線路に迫るように商店街が並んでいる。たとえて言うと江ノ電の一部区間のような感じか。列車本数は少ないので、みんな平気で線路をまたいで歩いている。
・十份の名物は天燈。紙で作った小型の熱気球に願い事などを書いて空にとばす。他に台湾では有名な滝が近くにあるそうなのだが、時間がなかったのでそちらはパス。
・再び乗車して、終着駅の菁桐站まで行った。無人駅。駅舎は戦前のものを保存しながらそのまま利用している。
・線路はさらに延びている気配があるので、駅を出て、広い道路沿いに歩く。二坑というバス停を過ぎ、深い渓谷を道路が迂回するようにうねっている箇所に、使われていない橋脚を見つけた。かつてはこの先にも鉱山があったから、そちらの方までトロッコ列車が続いていたのだろう。Heikei2
・平渓線に乗って帰る。瑞芳まで片道1時間弱といったところか。車中、観光客のおばさんグループ三人(一人が観光マップを持っていた)と地元の一人で乗っていたおばさんとが話し始めた。さらに次の駅で野菜をかついたおばあさん二人組みが乗ってくると、その野菜をめぐって話題が広がり、観光客のおばさんがたけのこを買い、料理方法をめぐってみんなでにぎやかに議論していた。台湾の人は初めて会った人にも気軽に話しかける。横で見ていると最初から知り合いだったのではないかと錯覚してしまうくらいにフランクだ。たとえば、私が道で地図を広げていると、「どこに行くんだい」という感じに気軽に声をかけられたことも何度かあった。
・瑞芳站で自強号に乗り換えて台北に戻るつもりだが、乗り換えのタイミングが合わなくてまた1時間ほど待たねばならない。外に出て夜の瑞芳を歩く。屋台が出ている。美食街なる屋内式屋台街をブラブラ歩く。19:30頃発の自強号に乗車。台北到着は20時過ぎ。

・夜の台北市内を歩く。アメリカ総領事館だった建物をカフェや文化施設として再利用した台北之家へ行った。誠品書店城市之光店をひやかす。映画のDVDと美術書を中心とした品揃え。その隣は光.點台北というミニシアター。侯孝賢が理事長らしい。是枝裕和監督「歩いても歩いても」(台湾でのタイトルは「横山家之味」)を上映中だった。昨日、書店でノベライズの中国語訳が新刊棚に積んであるのを見かけ、こちらも買ってあった。
・京豊鼎で小籠包を平らげてから宿舎に戻る。テレビをつけたら、海峡交流基金会の江丙坤董事長が辞意を表明し、国民党幹部が必死になって慰留しているというニュースをやっていた。台湾のテレビ番組には字幕がつくので、中国語が聞き取れなくても便利。

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2009年5月12日 (火)

台湾旅行② 5月某日 金瓜石

・台北9:08発の自強号→瑞芳站で下車。ホームで売り子のおじさんが「べんとーーーう」と声を張り上げながら駅弁を売っていた。弁当は日本統治時代に入ってきた言葉だが、国民党政権の脱日本語政策が進められた際に、発音はそのまま、表記だけ変えて「便當」と記されるようになった。テイクアウトの食事を指す。街中の看板でよく見かける。
・瑞芳站の構内、日本語通訳という札のある机の前におじいさんが立っていた。金瓜石へ行くため、バス乗り場を尋ねた。見所を色々と教えてくれた。Oさんとおっしゃって、当年81歳。金瓜石に行くと言ったら、日本時代の家があって、それを復元した折に昔の居住者だった姉妹が久方ぶりに尋ねてきたという写真を見せてくれた。そのうちの一人はOさんの知り合いだという。中に入れるから是非行ってみなさいと勧められた。Kinkaseki1_2
・バスは観光客で一杯、台湾人・日本人が2:1くらいの割合か。九份でほとんどが下車したが、私はさらに金瓜石まで行く。日本人の若い女性二人組(ケバイ系)が降り遅れたらしく「どうしよう、どうしよう」と落ち着かない様子。後ろに座っていた地元の老人がその一人に日本語で教えてくれたらしく、「ねえ、ねえ、運転手さんに言えば大丈夫だってー」→不安げながらもキャピキャピした感じ。無事降りていったが、老人は、もともと無表情なのか、ああいうタイプに好感を持っていないのか、憮然とした表情のまま。
・九份を過ぎてから、坂道の勾配は一層急になる。蛇行する坂道を登りながら、海が見える。斜面には小さな家のようなものが密集している箇所があった。お墓のようだ。この風景は以前、「風を聴く〜台湾・九份物語〜」(→こちらを参照のこと)というドキュメンタリー映画で見て印象に残っていた。
・瑞芳站から20分ほどだろうか、黄金博物館前で下車。金瓜石はかつて金鉱山だったところ。日本統治時代にゴールドラッシュ、戦後も国民党政権の下で採掘は続けられたが、1970年代に閉山。たしか、呉念真監督の映画「多桑(トーサン)」(→こちらを参照のこと)の舞台はここのはずだ。博物館や坑道跡を含めた一帯は指定公園となっている。
・インフォメーションセンターで日本人観光客向けの解説ヘッドホンを借りる。無料、パスポートと引き換え。 Kinkaseki7
・入ってすぐ、四棟式の日本式家屋。金鉱山勤務の日本人職員用宿舎だった。駅前で会った通訳ボランティアのおじいさんからうかがったのがこの建物だ。道を挟んだ向い側の崖下には大きな日本式家屋。こちらは鉱山長の邸宅。
・環境館ではこの近辺の自然環境について展示。
・五番坑は別料金50元で坑道内に入れる。入口でヘルメットを渡されて装着。水がしたたる坑道にトロッコの線路が続いている。所々、坑夫の人形が配置され、採掘の様子を再現。小さい頃に行った足尾銅山を思い出した。Kinkaseki2_2
・五番坑を出たところ、山の上へと向う坂道が続いている。行く先は黄金神社。日本統治時代、日本人がつくった神社の跡である。急な石段をのぼる。鳥居や石灯籠が風雨にさらされてボロボロになりながらも残っている。参道を登り始めて10分くらいは経ったろうか、山の中腹、かつて神社の本殿があった場所に出る。支柱だったとおぼしき石柱が何本か立っている。金瓜石の町を見下ろし、その向こうに海が望める。石柱のすき間から海を見晴るかすと、何となく地中海岸ギリシアの神殿跡のような不思議な眺望。Kinkaseki3 Kinkaseki4
・黄金博物館。近辺の金鉱山の歴史や採掘方法などについて展示。ブラブラしていたら、日本人観光客から流暢な中国語で話しかけられてびっくり。
・観光コースから外れて海に向って脇道を歩く。斜面を削ってかつて軽便鉄道の線路が延びていた道。のどかな田舎道。タールのにおいが漂ってきて、なぜか懐かしい感じ。ちょうどお昼どき。道路工事のおじさん、おばさんが道端の木陰で弁当をつつきながら大声でおしゃべりしていた。脇を通り過ぎながら耳をすませた。私は中国語(北京語)の聞き取りはほとんど出来ないが、知っている基礎単語を拾いながら漠然とこれは中国語だなという見当くらいはつく。しかし、おじさん、おばさんたちのしゃべっているのはちょっと北京語とは違う感じ。これが閩南語かな。Kinkaseki5
・しばらく歩くと、公共駐車場の広場に出た。古砲台跡という標示板の前から階段道。あがると高台、海がよく見える。砲台があった痕跡はわからない。ここには金鉱山があったから、日本の守備隊がいたのか。本日、快晴。五月の台湾は気候も穏やか、歩き続けて汗ばんだ体を海から吹きつける風が通り抜け、何とも言えず心地よい。背後を振り返ると、老街の密集する盆地を挟んで、向かい側の山に金鉱山。このあたりは岩山だが、木々や草の緑ですっぽりと覆われて、青空とのコントラストがため息をつくほど美しい。なるほど、フォルモサ=美しい島だなあ、とつくづく実感した。
・駐車場広場に戻り、一般住居の並ぶ階段道を降りて、勧済宮という道教のお寺へ。この前の崖下にさらに街が広がっており、公園がある。そこを見下ろす場所に標示板。かつて日本軍が強制労働に動員した連合軍(米英豪)の捕虜収容所がこの公園にあったらしい。黄金博物館の説明で、彼ら捕虜をすべて殺害する計画があったが、日本の敗戦によって実行に移されなかったということを初めて知った。
・博物館近くへ戻る。売店で鉱夫弁当なるものを食べた。
・太子賓館は、皇太子の頃の昭和天皇がここを来訪する予定(結局、来なかったが)で建てられた迎賓館。Kinkaseki6
・それから、入口近くの四棟式日本式家屋の中を見学。瑞芳站で会ったおじいさんは、中に防空壕も掘られていたなんて最近になって初めて知ったよ、と語っていた。建物内で解説ボランティアをしている青年が日本語で丁寧に説明してくれた。この建物を復元した経緯について中で資料映像を見られるのだが、建材だけでなく地鎮祭・棟上式などもすべて日本式でとりおこなわれていた。日本統治時代も台湾史の1コマとして位置付ける意識がうかがえる。敗戦で日本人が去った後、この家屋には外省人が入居したが、彼らの生活様式を再現した一室もあった。

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台湾旅行① 5月某日 台北

・チャイナエアラインで現地時間12時過ぎに桃園国際空港着(どうでもいいが、チャン・ツーイー似のきれいなスチュワーデスさんがいて見とれてしまった)。
・台北站行きのバスに乗っていたら、高速道路を降りてすぐのところの警察署前に報道陣がたかっていた。夜、宿舎でテレビをつけたら、保母さんが預かっていた子供を殺して遺体を棄てたというニュースをやっていたから、この事件がらみかもしれない。
・宿舎に荷物を置いて外出したのが15時過ぎ→台北市内の寺院等をまわる。
・MRT圓山站で下車→大龍峒保安宮へ。道教のお寺で、保正大帝、天上聖母、関聖帝君など色々な神様が祭られている。建物はくまなくびっしりと歴史的なエピソードを示す装飾で埋め尽くされている。大正年間に建物が建てられたことを示すレリーフもあった。保正大帝祭なるお祭りが近々あるようだった。
・この近辺は宗教的な施設が集まっていて、孔子廟がすぐ近くにある他、「南無阿弥陀仏」という幟を立てて仏具を売っている店もあった。Taipei1_3
・圓山站前まで戻り、次は臨済護国禅寺へ。日本統治期に建立されたお寺。保安宮のゴテゴテ華やかな装飾とは異なり、木造のすっきりした堂宇。境内のはずれには小塔がひっそりと佇んでいるが、奉献者を示す「台北在住岐阜県出身~」という部分は削られていた(写真を参照)。裏手には古いお地蔵さんもあった。
・MRTに乗って西門站で下車。この一帯は若者が闊歩する繁華街で、東京でたとえると原宿・渋谷のような雰囲気。
・西門紅楼は戦前に市場として作られた建物。現在は古跡として保存されており、1階は展示スペース+カフェ、2階は小劇場として利用されている。展示スペースでは台北の歴史に絡めて西門紅楼の成り立ちを紹介、古い道具類や説明パネルが置かれていた。ブリキの看板(たとえば、森永ミルク、資生堂化粧品、仁丹、蜂ブドー酒など)がレトロでいい感じ。日本統治期もひっくるめて台北の歴史として捉え、当時の雰囲気に台北市民もレトロ趣味を感じているようだ。Taipei2_2 Taipei3_2
・歩いて5分くらいのところに天后宮。道教のお寺で保安宮と同様に色々な神様が祭られているが、その中に弘法大師も混じっているのが面白い。日本由来のものでも平気で取り込んでしまう。シンクレティズムの根強さ。
・今回は足を運ばなかったが、近くには他に西本願寺別院跡が公園として保存されている。また、西門町の繁華街にはかつて東本願寺別院もあったが、戦後は国民党の特務が接収、さらに取り壊されて跡地はデパートになっている。
・暗くなってから、MRT市政府站で下車、信義新天地へ。
・台北101の4階にあるページワンに行く。シンガポール資本の書店。店舗面積はそこそこの広さで店内はきれい。ただ、夜8:00頃だったが、客はそれほど入ってはいなかった。2冊ほど買った。
・この4階はレストラン・フロア。なぜか日系のお店が多かった。中国語の呼び込みを無視したら、日本語で声をかけられた。中国語が分らない→日本人観光客とみなされたのか。私のすぐ後ろを地元の若者グループが歩いていたのだが、彼らに向っても日本語で呼び込みをしていた。
・次に、誠品書店信義旗艦店。ここは私のお気に入りで、台北を訪れるたびに必ず寄る(→こちらを参照のこと)。ここでも何冊か買い込んだ。

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2009年5月10日 (日)

福沢諭吉『学問のすゝめ』

福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫、改版1978年)

 英語のrightという言葉を辞書で引くと、「正しさ」「権利」などの意味がある。「権利」という意味をピックアップすると、対義語的に「義務」という言葉とペアとして捉え、「権利」は個人の要求を正当化する根拠、「義務」は公との関係性、通俗的にはそのようなイメージがあるように思う。しかし、本来、right=“正しさ”の感覚の中で「権利」も「義務」も混然一体不可分のものであって、「権利」と「義務」と概念を区分けするのはあくまでも説明上の便宜に過ぎないのではないか。

 福沢諭吉は『学問のすゝめ』でrightに「権理通義」という訳語をあてている。4字は長いので「権理」「権義」など2字に縮めた箇所もあるが、「権利」という表現は見当たらない。

「人の生るるは天の然らしむるところにて人力に非ず。この人々互いに相敬愛して各々その職分を尽し互いに相妨ぐることなき所以は、もと同類の人間にして共に一天を与にし、共に与に天地の間の造物なればなり。」「故に今、人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり。その有様を論ずるときは、貧富強弱智愚の差あること甚だしく、或いは大名華族とて御殿に住居し美服美食する者もあり、或いは人足とて裏店に借屋して今日の衣食に差支うる者もあり、或いは才知逞しうして役人となり商人となりて天下を動かす者もあり、或いは智恵分別なくして生涯飴やおこしを売る者もあり、或いは強き相撲取あり、或いは弱き御姫様あり、いわゆる雲と泥との相違なれども、また一方より見て、その人々持前の権理通義をもって論ずるときは、如何にも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。即ちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛を設けたるものなれば、何らの事あるも人力をもってこれを害すべからず。」

 人は生まれ落ちた立場境遇も、持って生まれた才覚も異なるかもしれない。しかし、人それぞれ持前の天分に応じて、自分のなすべき職分を果たすべきだし、また、その職分を果たそうにも、いわれのない圧迫を受けたときには敢然と立ち向かうこと、それが福沢の考える個人主義である。ある種の“正しさ”=道理の感覚の中に自身を位置付けたとき、自分のなすべきと思うこと(それは人それぞれだが、「したい」というのとはニュアンスが異なる)を誰から何と言われようともなすべきなのは当然のことで、その際に能動的には「権利」、受動的には「義務」と概念整理できるという程度の違いに過ぎない。

(※「義務」→「天より定めたる法に従って、分限を越えざること緊要なるのみ。即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくの如く人なる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。」→「自由は不自由の際に存す」という『文明論之概略』の言葉と通ずる)

・「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」
・「天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。」
・「天理人情にさえ叶う事ならば、一命をも抛て争うべきなり。これ即ち一国人民たる者の分限と申すなり。」「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず。」
・「道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり。」
・「正理を守って身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、如何なる暴政の下に居て如何なる苛酷の法に窘めらるるも、その苦痛を忍びて我志を挫くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。」
(※「マルチルドム」martyrdom→「痩我慢の説」と通ずる→萩原延壽・藤田省三『瘠我慢の精神──福沢諭吉「丁丑公論」「瘠我慢の説」を読む』を参照のこと)

 天賦人権説、「一身独立して一国独立す」、「痩我慢」、これら福沢の著作に見られるキーワードはright=「権理通義」という考え方を媒介としてすべて一つにつながっている。

 言論の自由を強調した箇所では、「古今に暗殺の例少なからずと雖ども、余常に言えることあり、もし好機会ありてその殺すものと殺さるる者とをして数日の間同処に置き、互いに隠すところなくしてその実の心情を吐かしむることあらば、如何なる讐敵にても必ず相和するのみならず、或いは無二の朋友たることもあるべしと。」と記している。ここにも、本当に道理のある意見であれば、立場の違いを超えて理解しあえるはずだという福沢の確信がうかがえる。

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