« 2008年12月28日 - 2009年1月3日 | トップページ | 2009年1月11日 - 2009年1月17日 »

2009年1月4日 - 2009年1月10日

2009年1月10日 (土)

テンギズ・アブラゼ監督「懺悔」

テンギズ・アブラゼ監督「懺悔」

 “偉大なる”独裁者ヴァルラム・アラヴィゼが死んだ。人々が悲嘆にくれる中、埋葬されたはずの彼の遺体がアラヴィゼ家の玄関先で見つかる。埋め直しても同じことが繰り返されたので警察が張り込み、捕まった女性ケテヴァン。法廷に立たされた彼女は無罪を主張、ヴァルラムによって消された両親のことを回想しながら彼の敷いた体制の矛盾を告発する。傍聴していたヴァルラムの孫トルニケは衝撃を受け、あくまでもヴァルラムを正当化する父との間に生じた葛藤からは、抑圧的な政治体制の負の遺産を如何に清算するかの困難が浮き彫りにされる。

 制作年度は1984年となっているから、ゴルバチョフ政権登場直前の時期だ。テーマはやはり重いので楽しい映画と言うわけにいかない。ただし、映像的にところどころシュールな演出が見られ、決して無粋な政治映画になりさがってはいない。2時間を超える長さだが、散りばめられたメタファーを一つ一つ考えながら観ていけば退屈はしないと思う。分かりやすいところから言うと、ヴァルラムの黒シャツ(=ムッソリーニ)にチョビヒゲ(=ヒトラー)という姿からは旧共産体制をファッショとイコールで結び付けているのが分かる。ケテヴァンへの精神鑑定要求には旧ソ連において反体制活動家をいわゆる精神医学的処置によって静かに抹殺してきた過去をうかがわせるし、天秤を持った女神に目隠しされているシーンからは法の正義など棚上げされていたことが示される。ヴァルラムの遺体をめぐるエピソードには、真実を掘り起こすべきという主張と、独裁者の“亡霊”が復活しかねない懸念とが重ね合わされているのか。ヴァルラムの背後にぴったり寄り添う変てこりんな二人組を見て、カフカ『城』の登場人物を思い浮かべた。

 岩波ホールのパンフレットにはいつも台本が掲載されているのでありがたい。巻末の過去上映作品一覧を見ると、グルジア映画が結構ある。ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督「若き作曲家の旅」とエリダル・シェンゲラーヤ監督「青い山」は学生の頃に観に行った覚えがある。グルジア映画祭というラインナップだった。前者はコーカサスの野山の風景が印象に残っているし、後者は寓話的な風刺劇で意外と面白かったように思う。

 ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督「ピロスマニ」は1978年に上映されている。高野悦子の手記によると、岩波ホール上映作品の中でも人気の高かった一つらしい。私がピロスマニを初めて知ったのは、昨年、渋谷の文化村で開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド」展(→こちらを参照のこと)でのこと。他の作品はともかく、ピロスマニの印象が非常に強く、すぐ彼の画集を買った。グルジアというとピロスマニが連想されるものなのか、岩波ホールでも映画のパンフレットと並べてこの画集が販売されていた。

 ソ連崩壊後、グルジアでは民族主義的な文学者のガムサフルディアが大統領に当選。以前は反体制活動家として逮捕された経験もある彼だが、権威主義的性格を強めて反発を受け、失脚。続くシェワルナゼも、かつての新思考外交の立役者としてのイメージとは裏腹に政権は腐敗し、やはり失脚。サアカシュヴィリ現大統領はロシア相手の危うい政治駆け引きが裏目に出て、軍事衝突を招いてしまった。この映画の最後近く、トルニケ青年が祖父の時代の責任を引き受ける形で自殺してしまうが、グルジアの政情不安定を見るにつけ、負の連鎖に終わりがないようで複雑な思いがする。ラスト、老婆が教会への道を尋ねるシーンで締めくくられる。荒廃した精神的状況に対するグルジア社会のもがきが示されているのだろうか。

【データ】
監督:テンギズ・アブラゼ
主演:アフタンディル・マハラゼ
1984年/旧ソ連(グルジア)/153分
(2009年1月10日、神保町・岩波ホールにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 8日 (木)

バルトークのこと

 手もとにショルティ指揮、シカゴ交響楽団によるバルトーク「管弦楽のための協奏曲」「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」の二曲が収録されたCDがあって、時折聴く。劇的な抑揚が盛り上がりを見せる絢爛とした厚みのある響きが好き。バルトークが民謡採集に力を入れていたということを知ってから聴いてみると、小刻みに激しい弦楽のリズムやツィンバロムを思わせる金属音が何となくジプシー音楽っぽい感じもする。ただし、リストによって定式化されたハンガリー音楽=ジプシー音楽というイメージをめぐってはだいぶ議論があったらしい。

 バルトーク(Bartók Béla、1881~1945年)といえば二十世紀現代音楽のメジャーな一人だが、伊東信宏『バルトーク──民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中公新書、1997年)はサブタイトルの通り、彼の民俗学者としての姿に焦点を合わせる。録音機器が未発達の時代、蝋管に刻み込む形式の大型の機械を抱えて農村に入り込んだ。出会った農婦に民謡を歌ってくださいと頼んでも、事情が分からない彼女たちからは胡散臭がられて「あんたたち、何しに来たの?」と押し問答を繰り返すのものどかというか、ユーモラスだ。彼の関心はあくまでも採集→分類にあって、議論としてはそれほど洗練されたものでもなかったらしい。

 19世紀以来、ヨーロッパの中小民族の間では自分たちのアイデンティティーを求める動きが高まっており、文学、芸術、学術(とりわけ言語学と民俗学)の各面でそれは顕著であった。1867年のアウスグライヒによってハプスブルク家との同君連合として再編されたハンガリー王国においても事情は同様であり、若きバルトークは音楽という観点から“ハンガリー的”なものの探究に関心を向ける。自民族とは異なる西欧音楽という語法によりつつも、そこを通して“ハンガリー的”なものを表現しようということ、民俗学的な探究も併用されたこと、こうしたあたり、日本とも同時代的なところを感じさせる。

 第一次世界大戦の敗戦によるオーストリア=ハンガリー二重帝国の解体以前において、ハンガリー王国の領域にはトランシルヴァニア(ルーマニア)やスロヴァキアなど異民族も内包されており、バルトークの民謡採集はこうした民族も含めて広きにわたっていた。

 “民族性の核”の探究は19~20世紀のいわば流行現象だったとも言えるが、そこには様々な逆説がからみつく。バルトーク自身も素朴なナショナリストであったが、彼を批判した国粋主義者にとって“ハンガリー的”なものの“核”そのものを論じることは一種のタブーだったらしい。“民族性の核”は言語化不能で曖昧なものであるからこそ、あらゆる意味に拡張できる恣意的な操作概念となり得る。これに対してバルトークは、民謡の採集・分類を通してハンガリー的な音楽要素を抽出することで、むしろ“ハンガリー的”なものを客体化、国粋主義的な呪縛から解放されたという伊東書の指摘が興味深い。採集→抽出された旋律は他民族の音楽と並置可能となり、音楽面における民族共存を彼は目指したのだという。

 民謡採集という点では、バルトークと一緒に活動したコダーイ(Kodály Zoltán、1882~1967年)を忘れるわけにはいかない。ただし、多民族志向のバルトークに対して、コダーイはあくまでもハンガリーにこだわった点が違うようだ。私は今まで知らなかったのだが、コダーイは作曲家としてだけでなく、日本では合唱教育という点でも有名らしい。横井雅子『ハンガリー音楽の魅力──リスト・バルトーク・コダーイ』(東洋書店、2006年)によると、彼は従来のドイツ的な器楽中心の音楽教育ではなく、自分自身の耳と声を鍛える全人的なところに主眼を置いたという。音楽は特別な演奏者だけのものではなく、みんなのものという理念が彼にはあり、歌いやすいもの、耳にしっくりと馴染むものを求めて民謡採集を行なった。西欧音楽をそのまま移入しても、翻訳調のものはどこか不自然な違和感が残るからだ。

 西欧的な語法を使わざるを得ない状況の中で、同時に自分たちの感性に馴染むもの=“民族的なもの”の探究へと向った点で、東欧(ロシアも含めて)と日本とに同時代的な志向性がうかがわれるところに私は興味がひかれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年12月28日 - 2009年1月3日 | トップページ | 2009年1月11日 - 2009年1月17日 »