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2009年4月19日 - 2009年4月25日

2009年4月25日 (土)

丸山眞男『福沢諭吉の哲学』

丸山眞男(松沢弘陽編)『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫、2001年)

 丸山眞男の福沢好きは有名で、たとえば言論弾圧の厳しかった時代、福沢の論説から的確な軍国主義批判を読み取って気を晴らせていたというエピソードはよく知られている(もちろん、福沢全集は古典として発禁処分など受けていない)。

 福沢にしても、近年は丸山にしても、色々と毀誉褒貶が激しい。しかし、古典を読むとき(丸山も私の世代からすればすでに古典だ)、出された結論に目を奪われてしまうのは実に浅はかである。時代状況が変われば結論なんてものもその都度変わる。むしろ、問題意識の立て方と、それを料理する考え方(方法論)、こちらを汲み取らなくては読んだことにはならない。

 『文明論之概略』では野蛮→半開→文明という図式が示されている。これだけをピックアップすると進歩史観に立つ欧化主義者という決め付けにもなりかねないが、他方で福沢は、文明の位置関係は逆転し得る、現段階では西洋が文明の位置にあるから、日本が生き残るために学ぶのだと言う。何が必要なのかは状況に応じて変わってくる。丸山はこう記している。

福沢から単なる欧化主義乃至天賦人権論者を引出すのが誤謬であるならば、他方、国権主義者こそ彼の本質であり、文明論や自由論はもっぱら国権論の手段としての意義しかないという見方もまた彼の条件的発言を絶対視している点で前者と同じ誤謬に陥ったものといわねばならぬ。文明は国家を超えるにも拘らず国家の手段となり、国家は文明を手段とするにも拘らずつねに文明によって超越せられる。この相互性を不断に意識しつつ福沢はその時の歴史的状況に従って、或は前者の面を或は後者の面を強調したのである。要するに、こうした例に共通して見られる議論の「使い分け」が甚だしく福沢の思想の全面的把握を困難にしているのであるが、まさにそこにこそ福沢の本来の面目はあった。彼はあらゆる立論をば、一定の特殊的状況における遠近法的認識として意識したればこそ、いかなるテーゼにも絶対的無条件的妥当性を拒み、読者に対しても、自己のパースペクティヴの背後に、なお他のパースペクティヴを可能ならしめる様な無限の奥行を持った客観的存在の世界が横わっていることをつねに暗示しようとしたのである(「福沢諭吉の哲学」80ページ)。

 福沢の文章を読んでいると、たとえば儒教批判などで「古習の惑溺」という表現がよく出てくる。丸山はこう語る。

「惑溺」というのは、人間の活動のあらゆる領域で生じます。政治・学問・教育・商売、なんでも惑溺に発展する。彼がよく言うのは、「一心一向にこり固まる」という言葉で言っています。政治とか学問とか、教育であれ、商売であれ、なんでもかんでも、それ自身が自己目的化する。そこに全部の精神が凝集してほかが見えなくなってしまうということ、簡単に言うとそれが惑溺です。うまく定義できませんけれども、また、定義すべきものでもありませんけれども、自分の精神の内部に、ある種のブランクなところ──その留保を残さないで、全精神をあげてパーッと一定の方向に行ってしまう、ということです(「福沢諭吉の人と思想」181~182ページ)。

 「惑溺」は何も儒学など伝統墨守の石頭に限らない。福沢は急進的な民権論に対して斜に構えた態度を取ったが、急進論にもこうした「惑溺」を見出したからだと丸山は指摘している。立場の如何に拘らず、こうした思考停止状態に陥ってしまう人がいつでもどこでもいるから困ったものである。

 むかし、『福翁自伝』を読んだとき、たとえば適塾で、赤穂浪士は義か不義か、なんてたわいない議論をする場面、福沢は「お前が義だと言うならおれは不義だと言う、お前が不義だと言うならおれは義にしてみせる、さあ、かかってきやがれ!」なんてことをやっているのが印象に残った。別にディベートの訓練なんてつまらん次元のことではない。ある一つの立論があるとして、それとは異なる立場にもそれなりに筋の通った理由があり得る、そうした配慮があってはじめて対話というものが成立する。このあたりのことを丸山は役割意識という表現で語っている。

…人生は、そこで大勢の人が芝居をしているかぎり、大事なことは、自分だけでなくて、みんながある役割を演じている以上、自分だけでなく、他者の役割を理解するという問題が起こってくるということです。理解するというのは、賛成するとか反対するとかいうこととは、ぜんぜん別のことです。他者の役割を理解しなければ、世の中そのものが成り立たない(「福沢諭吉の人と思想」196ページ)。

 どんな思想的立場、政治的立場を取ろうとも人それぞれの勝手だが、最低限この程度の認識を持ってもらわないと話が通じなくて困る。

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2009年4月24日 (金)

『石橋湛山評論集』『湛山回想』

 学生の頃、一時期、石橋湛山に入れ込んでいた。たしか、田中秀征の講演を聞いたのがきっかけだったように思う。たとえば、小日本主義。植民地の放棄を主張するにしても、それを単なる道義論に終わらせず、統計上の数字を示して日本側の赤字であるという具体的な根拠を示す。湛山はもともと宗教家を志して早稲田の哲学科に入ったが、大学ではプラグマティズムの田中王堂に師事した。そうしたあたりも含め、ある種の理想主義を唱えるにしても必ず具体的な裏付けを求めるという湛山のバランス感覚に感心した。

 『石橋湛山評論集』(岩波文庫、1984年)を読み返した。リベラルな個人主義が基本。若い頃に「哲学的日本を建設すべし」という論説を書いている。自己の存在意義を徹底的に究明してこれだけは譲れないという一線を把握する=哲学、個人でも国家でもこの基本線を踏まえた上で問題に対処しなければどうにもならない、という趣旨。個人主義というのは、自分にとってこれだけは譲れないという最低ラインを明確に自覚しているからこそ、他者との協調も妥協もできる、つまり交渉ができるという考え方。この考え方が湛山のその後の政論にも一貫している。だからこそ、権威にも流行にも流されない(軍部にもGHQにも屈しなかったし、金解禁論争では当初、大衆世論から孤立していた)。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という有名なテーゼのリフレインのようにも思われた。福沢の個人主義も「痩せ我慢」=意地が大前提になっている。そういえば、田中王堂は『福沢諭吉』という本を書いていたが私はまだ読んでいない。

 こうした考え方で海外を見れば、自己は自己による支配でなければ満足はできないのだから、日本の植民地支配がどんな善政を敷いたところで反抗は止まるはずがないという理解(大日本主義批判の第二の論点)につながってくる。また、『湛山回想』(岩波文庫、1985年)にはこんな話もあった。尾崎行雄が普選に反対して意外に思ったが、国民一人ひとりに訓練がなければ普選をやっても無意味だという尾崎の指摘は後になって納得できたという述懐。軍隊生活で規律を身につけた経験から、良い意味での団体主義=良い意味での個人主義という指摘。こうしたあたりにも、逆説的ではあるが、自己という主体に多くを課すリベラリズムがうかがえる。

 『湛山回想』では戦前の経済雑誌の簡単な通史が語られているのも興味を持った。お雇い外国人シャンドの机の上にイギリスの『エコノミスト』があるのを見て田口卯吉が『東京経済雑誌』を創刊。『東洋経済新報』は明治28年の創刊。大正期、大戦特需以降、石山賢吉の『ダイヤモンド』が会社記事・株式記事で売り上げを伸ばした。その頃の日本は欧米とは異なって事業報告書や会計士制度が未整備だったので、投資の参考情報として需要があったのだろうとのこと。『東洋経済新報』の記者たちは政治・社会問題志向なのでそうした私経済に興味はなかったが、それでも会社記事は載せざるを得なかった。昭和に入って、金解禁論争、世界恐慌、日本の国際的孤立といった状況で先行き不透明→経済雑誌の需要がのびた。金解禁論争は一般の人々に経済知識が普及するきっかけにはなったという。

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2009年4月23日 (木)

G・K・チェスタトン『正統とは何か』

G・K・チェスタトン(安西徹雄訳)『正統とは何か』(春秋社、1995年)

 言葉というのは独自の強い運動力を持っており、普段何気なく使っているようでいて、実は扱うのにやっかいな代物だ。論理整合的にビシッと決められて、確かに正しいのかもしれないと思いつつも、それでも何かが違うと後味の悪さの残ることがある。経験的に言って直観の方が正しいと私は思っている。

 チェスタトンの立場は理性的な不可知論と言ったらいいだろうか。心の中でひっかかるわだかまりを無視して論理整合性だけでグイグイ推し進めていく進歩的思潮を彼は狂気と呼んだ。狂気とは、「根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性である。正しい第一原理なしに物を考え始めれば、人間はかならず狂気に陥ってしまう。」

「大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体的に見える。それと同じことで、精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。二つのちがった物の姿が同時に見えていて、それでそれだけよけいに物がよく見えるのだ。こうして彼は、運命というものがあると信じながら、同時に自由意思というものもあることを信じてきたのである。」…「つまり、人間は、理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができるのだ。狂気の理論家はあらゆるものを明快にしようとして、かえってあらゆるものを神秘不可解にしてしまう。」(39~40ページ)

「想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである。」(19ページ)
「詩が正気であるのは、無限の海原に悠然として漂っているからである。ところが理性は、この無限の海の向こう岸まで渡ろうとする。そのことによって無限を有限に変えようとする。その結果は精神がまいってしまうほかはない。」(20ページ)

 伝統について。

「伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈従することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」「民主主義と伝統──この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。」(76ページ)

 愛国心について。

「自分の愛する場所を滅ぼすおそれがいちばんあるのは、その場所を何かの理由があって理性的に愛している人間である。その場所を立ち直らせる人間は、その場所を何の理由もなく愛する人間である。」「自分の国を愛するのに、何か勿体ぶった理由を持ち出す連中には、単なる偏狭な国粋的自己満足しかないことが往々にしてある。こういう連中の最悪の手合は、イギリスそのものを愛するのではなくて、自分の解釈するイギリス、自分のイギリス観を愛しているにすぎぬのである。もしイギリスを偉大な帝国であるがゆえに愛すれば、インド征服がいかに大成功であるかに得意の鼻をうごめかしかねない。しかし、もしイギリスを一つの民族として愛すれば、どんな事件にぶつかろうとも少しも動じることはない。たとえばインド人に征服されたとしたところで、イギリスが民族であることに変わりはないからだ。同じように、愛国心によって歴史を歪曲するようなことをあえてする人びともまた、実は歴史を愛国心の根拠にする人びとだけなのである。」(120-121ページ)

 一種の運命愛的な考え方と言ったらいいだろうか。たまたま生まれた自分の国、しかし、それを美化するのも貶めるのも、別の思惑が愛国心という衣を被っているにすぎない。いわゆる“愛国”的な言動が、実は語り手の身勝手な自己満足にすぎず、その意味で愛国心とは似て非なるものである可能性をチェスタトンは見破っている。

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2009年4月22日 (水)

松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』、他

 松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』(中央公論新社、2009年)は、高橋是清の人物論を期待するとがっかりするかもしれない。是清が大恐慌にあたって采配を振るうに到った日本経済の課題や条件は何だったのか、その背景解説が中心となる。読み物としては地味だが、近代日本財政史の堅実なテキストという感じで勉強向き。

 ここのところちょっと必要があって金解禁論争関連の本をいくつか読み漁っている。金本位制のメカニズムについて、理屈を文面ではたどっていてもなかなか得心がこないのだが、それはおいおい勉強するとして。金解禁を断行した井上準之助と再禁止をした高橋是清とが必ず対比される。岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社、2004年)や竹森俊平『世界デフレは三度来る』(上下、講談社、2006年)などを読むと、結論としては是清が正しかったということになるようだ。

 金解禁論争で井上財政を批判していたエコノミストの一人、高橋亀吉について知りたくて谷沢永一『高橋亀吉 エコノミストの気概』(東洋経済新報社、2003年)を手に取ったのだが、これはダメな本。途中で読むのをやめた。井上を指して「愚か者を罰する法律がないのが残念だ」なんて平気で書くのだが、おいおい、じゃあ血盟団事件を肯定するつもりなのか? 初期の亀吉が社会主義に関心を示している箇所に触れては感情的な左翼批判が丸出し。谷沢は元共産党員の転向者だが、近親憎悪が激しいのか極端だ。

 当時は金本位制が一つの国際スタンダードとなっていた。そうした学知的枠組み(パラダイムと言ったらいいのか)の中に井上も組み込まれていたわけで、彼個人を人格攻撃したって全く無意味だろう(現在の視点からすれば井上の政策判断は否定されるにしても、その人物像を描き出した城山三郎『男子の本懐』の方が好感が持てる)。もちろん、個人要因をどう考えるかは政治史で繰り返される議論であるにしても、政策判断の是非と個人の人格的なレベルとは切り離す、少なくとも適度に距離を置いて考えないと見損なってしまうものが多い。通俗的な議論であればあるほど人格要因べったりの本が多いな。悪玉・善玉がはっきりして馬鹿でも分るからか。

 竹森俊平『世界デフレは三度来る』や「昭和恐慌、正しかったのは高橋是清か、井上準之助か」(『中央公論』2009年1月)では、国際協調路線、財政規律→軍事費抑制といった井上の意図も指摘し、是清と井上の二人がコンビを組めばその後の大恐慌や軍拡路線を効果的に乗り切れたのではないかと嘆いていた。残念ながら、是清は二・二六事件で、井上は血盟団事件で命を落としてしまうのだが。

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2009年4月21日 (火)

長野朗というシノロジスト

 ちょっと事情があって長野朗(ながの・あきら、1888~1975年)について調べており、『動亂支那の眞相』(1931年)という戦前の本に目を通した。やはりある事情があって、評論家・宮崎正弘氏がメールマガジンで長野を取り上げているのを知った。読んでみると、「中国人はこんなにずるい奴らだ、変な奴らだ」と言わんばかりの文脈の中で長野の著作からの引用を並べているのが気にかかった。

 同じテクストを読んでも、読み手がどこにポイントを置くかによって受け止め方は大きく異なってくる。私ならば次の箇所を引用する。

「日本人は支那人を忘恩の民と云ふが、支那人に云はすれば日本人は譯の分らぬ人間だと云ふかもしれない。それは双方の考へ方が全然異つて居るからである。」「かうした双方の考へ方の相違から互に相手を誤解し悪口する例は少くない。こゝは双方が相手の国民性を理解し合ふ必要が起る。」

 長野の表現には「嘘つき」「恩知らず」など確かに乱暴な言い方も多い。そうした箇所だけをつなぎ合わせれば宮崎氏のような読み方にもなるだろう。ただし、他方で長野は中国人のプラグマティックなところ、自己主張の明瞭なところは誉めてもいる。上記の引用を踏まえて言うと、長野のどぎつい表現は、中国人の思考構造や慣習には日本人の視点からすると違和感があること、付き合いづらいのは確かであることの率直な表明ではあるが、むしろそうした違和感が相互にあることを前提とした上で向き合っていかねばならない。そこに長野の強調点があると考えるべきだろう。そのために美化も蔑視も避け、出来るだけリアルな中国認識を目指したところに長野の努力を見出せる。

 西谷紀子「長野朗の中国革命観と社会認識」『大東法政論集』第11号(2001年3月)、同「長野朗の農本自治論」、『大東法政論集』第10号(2002年3月)、同「長野朗の1920年代における中国認識」『大東法政論集』第11号(2003年3月)、劉家鑫・李蕊「「支那通」の中国認識の性格:後藤朝太郎と長野朗を中心に」『東洋史苑』第70・71号(2008年3月)といった論文に取りあえず目を通した。

 長野は陸軍士官学校の出身(石原莞爾と同期)。中国へ派遣されたのは辛亥革命後のことだが、1919年の五・四運動、1920年の第二次広東軍政府といった動向を現地で目の当たりにし、中国国民革命の進展を観察していた。1921年に中国問題に専念するため軍を辞め、共同通信、国民新聞の嘱託となったほか、『中央公論』『改造』をはじめとした雑誌に寄稿する。行地社の同人となったが、軍と結び付いてクーデターを画策する大川周明たちからは次第に離れ、農村運動に入っていく。

 1938年春に中国の戦場を視察した際には避難民の悲惨な姿に心を痛め、戦争の正当性に疑問を抱いて長期化すべきではないと考えたという。日中提携論が彼の基本だが、満州国など日本の権益を切り離した上で日中親善を唱えるあたりには難しい矛盾があったという指摘もある。

 戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社選書メチエ、1999年)の分類に従うと、中国ナショナリズムに共感を寄せた点で長野は新「支那通」に属すると言える。ただし、戸部書で取り上げられた佐々木到一たちが国民党のイニシアチブによる近代国家形成を期待(そして幻滅)したのに対し、長野はそうした路線は外国の翻訳思想に過ぎず有効ではないと主張した点で異なる。また、戸部書によると中国には近代国家を形成する能力が欠如しているという認識が旧「支那通」の特徴だと指摘されているが、こうした認識を長野はむしろプラス面として捉えた。

 長野の基本思想は農本主義にあった。『動乱支那の真相』では社稷を「一定の土地に於ける人民の衣食住の安定を主とした自治を指す」と定義して、そうした自治体を下から積み上げて国家天下に至るとされる。外来思想翻訳的な近代国家路線をとるのではなく、中国自身の伝統に馴染んだ国づくりをすべきだと長野は主張する。ここには権藤成卿の強い影響が認められる。

 農本主義は土着性を強調するため近代主義者からは評判が悪い。しかし、権力というモメントによって秩序維持を図る国家主義とは異なり、逆に社稷という人間同士の情緒的な共感に基づく共同体を重視する点で反権力主義であって、その意味ではむしろアナキズムに近い(権藤の著作集はアナキスト系の黒色戦線社から出ている)。様々な思想背景を持つ農本主義者が集まって結成された日本村治派連盟には長野や権藤の他に橘孝三郎、武者小路実篤、下中弥三郎、室伏高信、土田杏村、加藤一夫などの名前が見える。権藤成卿橘孝三郎については以前に取り上げたことがある。

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2009年4月20日 (月)

戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』

戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社選書メチエ、1999年)

 日本陸軍の「支那通」、つまり中国問題のスペシャリスト、彼らは主観的には日中提携を模索しながらも、結果的にはむしろ正反対の行動を取ってしまったのはなぜなのかを考察する。

 彼ら陸軍「支那通」の方が外務省よりも深く中国に潜り込んでいたため、それが場合によっては二元外交を引き起こしてしまった。世代的に旧「支那通」と新「支那通」に分けられる。中国には近代国家を形成する能力はない、という認識は内藤湖南をはじめ当時の日本のシノロジストに多く見られ、それは旧「支那通」の基本認識となっていた。対して、新「支那通」は辛亥革命以降の中国ナショナリズムの動きに共感、彼らが近代国家を作り上げるのを手助けした上で日中提携を図ろうという意図もあったようだ。

 だが、やはり日本側と中国側とでは思惑が異なる。日本の大陸侵略に対する中国側の反発は厳しい。本書で焦点の当てられる新「支那通」の佐々木到一は済南事件で暴行を受け、危うく命を落とすところだった。日本に戻れば国民党のまわし者と言われ、中国では日本陸軍のまわし者と不信感を持たれる。期待を寄せていた国民党の蒋介石が特務機関を使って反対派を弾圧、党や軍を私兵化していることも国民革命の理想を失った旧態依然たる堕落だと彼は受け止め、旧「支那通」の認識レベルに戻ってしまう。佐々木は中国に裏切られたと感じた。中国をよく知っていたからこそ欠点が目につき、体感的な憎悪から対中強硬派に転じてしまった。もちろん、現在の後知恵からは一面的な理解に過ぎないと言ってしまえるが、対外的な認識の難しさを感じさせる。

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2009年4月19日 (日)

中野正剛について

 ちょっと必要があって中野正剛について調べていた。緒方竹虎『人間中野正剛』(鱒書房、1951年→中公文庫版を持っているはずなのだが、例によって本棚の中で行方不明。近所の図書館に行ったら、古くて紙が破れそうな鱒書房版しかなかった)、猪俣敬太郎『中野正剛の生涯』(黎明書房、1964年)、中野泰雄『政治家/中野正剛』(上下、新光閣書店、1971年)、中野泰雄『父・中野正剛』(恒文社、1994年)、渡邊行男『中野正剛 自決の謎』(葦書房、1996年)、室潔『東條討つべし 中野正剛評伝』(朝日新聞社、1999年)、以上をざっと通読(疲れた…)。中野泰雄は正剛の子息、猪俣敬太郎は東方会の関係者。

 中野正剛(1886~1943年)という政治家は意外とよく分からないところがある。雄弁家としてカリスマ的な人気を誇り、彼自身、大衆受けを狙っていたあたりはポピュリスティックにも思えるが、他方で、玄洋社系の人脈に属するという自覚から筋を通そうと潔癖なところもある。謎として残るのは、第一に、当初は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットである彼がなぜ熱烈なナチス礼賛者になったのか? 第二に、自殺の真相は?(人によって見解が異なる。渡邊書が資料調査を踏まえた考察を進めているが、やはり状況証拠に過ぎず、結論は出ない)

 中野は朝日新聞記者として政論に健筆をふるい(匿名論説で池辺三山と間違えられたこともあったそうだ)、『明治民権史論』で名をあげた。35歳で代議士に当選、“憲政の神様”犬養毅を崇拝していたので革新倶楽部に所属する。しかし、犬養が既成政治と妥協するのを見て訣別、憲政会(後に立憲民政党)に移る。経済、対外関係と両面での危機意識から議会の大同団結を主張、既成政党に容れられないと見るや安達謙蔵をかついで国民同盟を結成する。ナチスばりの制服をつくってはしゃいでいる中野に眉をひそめる向きもあった(親友であった緒方竹虎も、なぜ彼がナチス礼賛に走ったのかよく分からないと言葉を濁している)。ところが、安達も堕落しているとして中野は国民同盟を脱党、アジア主義の思想団体として主宰していた東方会を政治組織化し、こちらに政治活動の舞台を移す。既成政治打破の模索は続き、修猷館中学の後輩にあたる三輪寿壮を通して無産政党である社会大衆党との合同を図るが、社大党内に異論があって頓挫。近衛文麿を中心とする新体制運動にも関わるが、出来上がった大政翼賛会は中野の思惑とは全く違う代物だったためこれとも袂を分かつ。いわゆる翼賛選挙では非推薦で当選。東條英機内閣の倒閣に動いたため憲兵隊によって身柄を拘束され、自宅に戻されたものの、その夜のうちに自決する。なぜ彼が死を選んだのか、その真相はいまだに分かっていない。

 中野は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットとして政治的キャリアを始めているにもかかわらず、なぜ熱烈なナチス礼賛者となったのかが疑問として残る。当時、政軍二元体制をとる明治憲法下において軍部の独走を如何に食い止めるかが政治課題となっていた。中野は、既成政党が互いに足を引っ張り合って議会の権威が失墜しているから、政治は軍部に対して効果的なリーダーシップを発揮できないのだと考えた。彼の主張した一国一党構想はそうした問題意識に基づく。東方会は全国に支部をつくって組織網を広げようとしていたが、社会大衆党との合同構想には労働組合も取り込もうという思惑があったのだろう。中野は東條英機から睨まれていたが、大衆組織的な基盤によるリーダーシップを目論んでいた中野の存在感が目障りだったのかもしれない。なお、反東條=反軍・平和主義というわけではなく、この点では免罪符にならないことは留意しておく必要がある。

 中野はヒトラーを礼賛したが、その理由は一国一党による強力なリーダーシップの確立という政治構想に合致していたからであり、反ユダヤ主義などのナチズム思想にまで共鳴していたとは言い難い。アジア主義による対英米強硬論から戦略的にドイツと結ぶべきだという考えもあっただろう。彼はヒトラーと会見したことはあるが、その実像を知らなかった。中野は、かつて慕っていたにもかかわらず訣別した犬養についても、あるいは大塩平八郎や西郷隆盛への崇拝についても、ある人物に入れ込むと実際以上に理想化してしまう傾向がある。ヒトラーについても同様であろう。一種の英雄待望論だが、彼自身をその英雄に擬していた節もある。ただ同時に、その人物に仮託して中野自身の理想像を強調することにより、しがらみにまみれた現実の政治を批判するという論法を取っていた(東條英機をあてこすって逆鱗に触れたといわれる「戦時宰相論」はその一例)。その意味で、中野は潔癖な理想主義者であったとも言えるかもしれない。

 なお、中野は朝日新聞社を退社して初めて選挙に打って出たとき落選しており、しばらく東方時論社の主筆となっていた。第一次世界大戦後、パリ講和会議の使節団に記者として中野も随行、その際、以前にロンドンへ遊学したときに出会って肝胆相照らしたグルジア人のガンバシチという人物に再会している。1918年にグルジアはロシアから独立を宣言したが、ガンバシチはパリ講和会議の全権に任命されていた。グルジア独立の理想に燃えていた彼は大の親日派で、初めて会ったとき中野は“亀七”なる名前をつけてやり、“亀七”氏は東郷平八郎を尊敬していたので、“東郷亀七”と名乗ったそうだ。パリ講和会議で再会したとき、グルジアの独立を何とか列国に認めてもらおうと奮闘する彼の姿に中野は小国の悲哀を垣間見ている。

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