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2009年3月8日 - 2009年3月14日

2009年3月10日 (火)

悲劇のアルメニア人音楽家、コミタス

Rita Soulahian Kuyumjian, Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Icon, Gomidas Institute, 2001

 詳細は省くが、江文也と伊福部昭の二人への関心からアレクサンドル・チェレプニンという音楽家のことを調べ始め、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer(Indiana University Press, 2008)という本を取り寄せた(読んでいる途中でほったらかしのままだが)。青年期のチェレプニンがグルジアのティフリスで過ごしていた時期の記述にほんの数ヶ所だがコミタス(Komitas)という名前を初めて見かけた。気になって調べてみると、アルメニア近代音楽の確立者と位置付けられているらしい。1915年のオスマン帝国によるアルメニア人ジェノサイドの生き残りだということが目を引いた。

 コミタスの曲をいくつか聴いてみた(iTune Storeがあると国内で入手できない曲も聴けるから本当に便利だ)。Hommage à Komitasにはアルメニア語とドイツ語の歌曲が集められており、ソプラノ独唱。軽やかで明るい。気軽に聴きやすい。Divine Liturgyはおそらく教会音楽なのだろう。男声合唱のポリフォニックな響きは力強く荘厳、同時に明朗なのびやかさもある。これはなかなか良い。

 本書Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Iconの著者の専門は精神医学である。「狂気の考古学」なんて穏やかでないタイトルだが、①コミタスはジェノサイドで精神に変調を来してしまった、②彼の音楽とアルメニア文化の探究には孤児としての生い立ちによる“父性”“母性”への渇求が動機として働いていたのではないか、以上の問題意識を持ちながらコミタスの生涯をたどっていくという内容である。なお、版元名にあるGomidasとはKomitasのフランス語表記らしい。

 コミタスは1869年9月26日、アナトリア西部のキュターヒャ(Kütahya)という町のアルメニア人家庭に生まれた。もともとの名前はソゴモン・ソゴモニアン(Soghomon Soghomonian)という。生後6ヶ月で母は亡くなり、父もアルコール中毒となって早くに死ぬ。孤児となった彼だが音楽的才能、とりわけ美しい歌声は人々の耳を引付け、アルメニアの聖地エチミアジン(Echmiadzin)の神学校に入る。アルメニア正教の大主教(カトリコス:Catholicos)ケヴォルク四世(Kevork Ⅳ)は彼の才能を認め、コミタスもカトリコスを父のように慕ったが、間もなく死んでしまった。

 教会には世俗とは違った名前を与える慣習があり、音楽家としても知られた7世紀のカトリコス、コミタス・アガイェツィ(Komitas Aghayetsi)にちなんで彼はコミタス・ヴァルタベッド(Vartabedとは司祭のこと)と呼ばれた。彼の母語はトルコ語でアルメニア語はあまり上手でなく、神学校入学当初は深刻に悩んだらしい。孤児としての出自からアルメニア教会に“家庭”を求め、さらには教会に代表されるアルメニア文化に自らをアイデンティファイする気持ちを強く持った。教会で音楽に取り組みながら、アルメニア音楽にはトルコ・ペルシア・ロシアなど周辺文化の影響が強いことを意識した。純粋な“アルメニアらしさ”を求めて教会音楽ばかりでなく労働歌や婚礼歌などの民謡採集にも努め(バルトークたちと同時代であることに当時の時代的雰囲気も感じられる)、それを踏まえて作曲活動にも取り組む。

 コミタスは合唱団を組織し、音楽教育者として後進の指導にあたった。しかし、彼のつくった恋愛歌や教会の外で演奏したことなど、さらには嫉妬もあって、教会内の保守派から風当たりが強くなった。ケヴォルク四世のような庇護者はもういない。同時に、音楽技法をきちんと学びたいという思いも強く、コミタスはエチミアジンを離れてドイツに留学する。パリのアルメニア人歌手マーガレット・ババイアン(Margaret Babaian)と親密な関係になったが、聖職者として一線を越えないよう距離は取ったらしい。コミタスの音楽はヨーロッパでも高く評価されたが、残念ながら職は得られなかった。また、アルメニアで音楽学校をつくりたいという夢もあったが、アルメニア教会内保守派からの風当たりには居心地の悪さも感じていた。そのため、アルメニア人人口の多いグルジアのティフリスやオスマン帝国のコンスタンティノープルに行って教育、演奏、作曲を行なう。

 第一次世界大戦が勃発。1915年4月、タラート内相の命令でコンスタンティノープル在住の指導的アルメニア知識人200人以上が一斉検挙された。政治活動の有無は関係なく、中には「統一と進歩委員会」へ資金援助していた人物すら含まれていた(1908年の青年トルコ革命で彼らは民族の平等も掲げたため、アルメニア人にも支持者がいた)。コミタスも例外ではなく、アナトリア中部のチャンキリ(Chankiri)へ移送される。自分たちに待ち受ける運命に怯えきった人をコミタスは「何かの間違いだ」となだめていたという。ところが、ある事件がおこる。移送の途中、歩きつかれてバケツに汲んだ水をがぶ飲みしていたとき、粗暴なトルコ兵からそのバケツを取り上げられ、水を浴びせられた。些細な事件だが、そのトルコ兵の態度を目の当たりにした瞬間、彼は顔面蒼白となって凍りついてしまったという。彼自身は虐殺現場を直接目撃したわけではないが、感受性の鋭敏な人だから、どんなことが進行中なのか、何かにハッと気付いてしまったようだ。平衡を保っていた精神が完全に崩れてしまった。周囲のすべてを恐怖と疑惑の眼差しでしか見られなくなった。これ以降、彼の表情や振舞いがおかしくなる。

 チャンキリへ送られたアルメニア人291人のうち40人だけが生き残った。コミタスも奇跡的にその中に含まれていた。彼の知人がメジド皇子(Prince Mejid→ひょっとして、大戦後にオスマン帝国最後のスルタンとなり、教養人として知られたアブデュル・メジド二世のことか?)を通して嘆願したり、アメリカのヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)大使の働きかけもあったためだと言われている。だが、“死のキャンプ”から生き残っても、精神に変調を来したコミタスはもはや音楽活動などできなくなっていた。現在の用語で言うとPTSDだったと著者は指摘する。彼は知人の尽力でコンスタンティノープルの病院の精神科に入院した。

 この病院で彼はトルコ人、アルメニア人、ギリシア人と三人の主治医にかかった。トルコ人医師はコンスタンティノープルでも第一の権威ある名医だったが、そのトルコ人であるという一点だけでコミタスはもはや猜疑心しか持てなくなっていた。共に生き残った友人のアルメニア人医師なら良さそうだが、共感度が強すぎて互いに感情面での抑制がきかず、かえって難しかったらしい。ギリシア人医師は、アルメニア人と同様にオスマン帝国から抑圧されていたが、ただし虐殺されたわけではない。そのため、コミタスに同情しつつ、同時に客観的に距離を置いて対することができたため、彼とはうまくコミュニケーションがとれていたという。だが、そのギリシア人医師も病気で離任してしまう。

 コミタスの状況を案じた友人たちが彼をパリの病院に入れようと申し入れたが、彼はもうどこへも行きたくないと拒否した。そこで彼らは音楽協会がコミタスを招聘しているとウソをついてパリへと連れ出した。しかし、ウソだと知ったコミタスはプライドを傷つけられ、ますます感情的に孤立していく。1935年10月20日、パリで逝去。翌年、遺体はアルメニアのエレヴァンへ送られた。彼の苦しむ姿は、アルメニア人ジェノサイドの象徴とみなされたという。

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2009年3月 9日 (月)

亀山郁夫『大審問官スターリン』

亀山郁夫『大審問官スターリン』(小学館、2006年)

 私はハチャトゥリヤンのバレエ組曲「スパルタクス」の叙情性と激しさとを併せ持った素直なメロディーが結構好きなのだが、このバレエ、史実とは異なってスパルタクスは最終的に勝利する。“正義は勝つ!”みたいな勧善懲悪の単細胞思考、だから社会主義リアリズムなんてのはクソなんだと軽蔑するだけで私は済ませていた。

 ところが、本書の指摘で目からウロコが落ちた(103―104ページ)。「要するに、社会主義の勝利というヴィジョンのもとで現実を描き出さなくてはならないというのである。」夢想された未来を基準として現在を作り変えるという考え方で、それは“なせばなる”的な精神主義にもつながるし、歴史の改竄も平気で正当化される。もちろん、リアルな現実世界において社会主義が勝利するとは限らない(それどころか大失敗)。ここには根本的な矛盾への自己欺瞞があるが、「その意味で、社会主義リアリズムの信奉者は、リアリストであるよりも、むしろ、未来を予見する幻視者のメンタリティの持ち主であったといえる。」超歴史的な未来のユートピア、それは一体どんなものか? 「端的にいうなら、スターリンが描く未来の夢をどれくらい共有できるか、それこそが、すべての価値基準になったということである。」まさにスターリンの“大審問官”たる所以である。

「自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。」(ドストエフスキー[原卓也訳]『カラマーゾフの兄弟』上、新潮文庫、1978年、488-489ページ。本来なら亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版から引くべきなのでしょうが、あいにく手もとにないもので)

 絶対全能なる権力者と、それに比べればけし粒のような文学者・芸術家たち。その非対称的な関係の中で翻弄された群像を本書は描き出していく。芸術家たちにはもちろん身の安全を図るという具体的な問題もあったが、そればかりでなく、スターリンによって体現された(と思われた)ロシアの全体性へ積極的に同一化しようというモメントが働いていたケースも見られる。スターリンはそうした“すり寄り”をもサディスティックに容赦なくたたきつぶしていくのだが、それでも人々はスターリンにすがりつこうとする。異様な光景である。

 また、スターリンには“オフラナ・ファイル”に記された帝政秘密警察への協力という忌まわしい過去が露見することへの恐怖による屈折もあった。こうした辺りも含め、人間心理の不可思議な機微と政治とが絡まり合った凄惨なるドラマとして興味深く読んだ。

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E・ラジンスキー『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』、I・ドイッチャー『スターリン 政治的伝記』

 ヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻した折、スターリンはヒトラーの行動が予見できず(それどころか独ソ戦の可能性についての進言をすべて無視していた)無防備だった。自身の全能性に国民が疑問を持つことを彼は常に恐れていた。大戦中、アレクセイ・トルストイの戯曲『イワン雷帝』をびっしり書き込みしながら読んだ形跡があるという。試練に持ちこたえること、そして国家をまとめ上げるために“恐怖”を使うこと。スターリンの政治経歴を洗い始めると、彼の一挙手一投足ことごとくに粛清の影が透けて見えてくる。

 エドワード・ラジンスキー(工藤精一郎訳)『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』(上下、NHK出版、1996年)は公文書館の史料をふんだんに駆使してスターリンの公私にわたって血にまみれた生涯をたどっていく。ラジンスキーは歴史家であると同時に劇作家でもあり、史料引用も織り込んだたくみな語り口によってスターリンの行動を、とりわけ絶え間なく続く粛清劇を再現していく。亀山郁夫『大審問官スターリン』でも本書に典拠を求める記述が随所で見られたから、スターリン研究の一つのスタンダードになっているのだろうか。

 アイザック・ドイッチャー(上原和夫訳)『スターリン 政治的伝記』(新装版、みすず書房、1984年)は、トロツキー伝・レーニン伝と並ぶ三部作の一つ。ドイッチャーはかつてポーランド共産党員だったが、彼自身スターリニズムによってパージされてイギリスに亡命したという経緯があり、そうした体験がソ連の権力構造を解明しようという動機につながっている。スターリンを中心とした政治史が詳密につづられる。努めて客観的(悪く言えば無味乾燥)な筆致で、政治亡命者にありがちなプロパガンダ的要素はない。スターリン存命時から執筆に着手し、史料的制約も当然あったことを考え合わせると当時としてはかなり精度の高い研究だったのだろう。とりあえず興味を持った点を一つだけメモしておくと、グルジアにはもともと“パン・ロシア主義”と言うべきものがなかったのに、なぜスターリンは“大ロシア排外主義”とレーニンから批判されてしまうような態度を取ったのか?→ボルシェヴィズムの中央集権化志向→結果としてロシア愛国主義・膨張主義と同じ行動となった。

 なお、冷戦期、中立的なソ連研究は左翼・反共派の双方から罵倒されていたらしいが、ドイッチャーはE・H・カーのソ連研究を早くから評価していたという。

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2009年3月 8日 (日)

ヴィルヘルム・ハンマースホイは良い!

 「新日曜美術館」でハンマースホイ特集「誰もいない部屋こそ美しい」の再放送をやっていた。昨年開催された彼の展覧会は私も見に行った(→国立西洋美術館「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展の記事を参照のこと)。あの静謐な透明感は見ているだけで胸がスッとするような心地よさがあって、一目で大好きになった。何となくフェルメールに似ているような感じも受けるが、番組で西洋美術館の方が解説されていたように、人物の表情にせよ絵画中のアイテムにせよフェルメールの絵には物語的な解釈の手掛かりがある一方で、ハンマースホイの絵にはそうした要素が皆無。下手な解釈を拒絶すると言ったらいいのか、空間そのもの、空気そのもの、光そのものをそのまま見る者に投げ渡してくる感じと言ったらいいのか。ただボーっと眺めているだけで心地よい、そういう感じの魅力がある。

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「悲夢」

「悲夢」

 ジン(オダギリ・ジョー)は夢の中で追突事故を起こした。あまりに生々しい夢だったので気になり、現場へ行ってみたところ、事故は本当に起こっていた。ただし、犯人は彼ではく、夢遊症状にかかった女性ラン(イ・ナヨン)。ジンの夢がランの行動によって現実化してしまうという不可思議。

 ジンは恋人に捨てられ、未練が断ち切れず、夢の中で彼女に会おうとする。ランは男を捨て、その男が憎くて憎くてたまらないのに、ジンが見る夢の作用によってその捨てたはずの男と寝てしまう。夢とうつつ、愛情と憎悪が入れ替わり、交錯しながら、二人はそれぞれに、自身の恋人に対する一方通行の想いを思い知らされていく。

 オダギリ・ジョー一人だけが日本語で語り、他はすべて韓国語なのに、みな何の違和感もなく会話が交わされる。同じ光景を見ているようでいて、実は一人ひとりが抱える心象風景は全く別物なのかもしれない、違うものを見てもそこには同じ想いが重ねあわされているのかもしれない、そうしたこの映画のテーマが言語設定からも端的に示されている。『荘子』にある「胡蝶の夢」のエピソードがヒントとなっているそうだ。ラン=胡蝶とほのめかすシーンが時折散見される。

 キム・ギドク映画ではいつものことだが、眠らないよう頭を針でチクチク刺したりと肉感的に痛そうなシーンもある。家屋や寺院など韓国らしさを強調する演出が見られるが、彼の映画が持つ寓話的なストーリー構成そのものには抽象性が高く、あまり特定の国籍は感じさせない。韓国映画という枠組みを外したところで私はキム・ギドクの映画に興味を持っている。

【データ】
監督・脚本:キム・ギドク
出演:オダギリ・ジョー、イ・ヨナン、他
2008年/韓国/93分
(2009年3月7日、新宿武蔵野館にて)

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「少年メリケンサック」

「少年メリケンサック」

 私はパンクなんて全く興味ないし、クドカンのファンというわけでもない。ただひたすら純粋に、宮崎あおいがお目当て。ネット上で「少年メリケンサック」なるバンドの映像をみつけ「これは掘り出し物だ!」と思って連絡を取ったら、すでに25年前に解散、現われたのは汚いおっさんたち。行きがかり上、やむを得ずコンサートツアーに出かける、というコメディー。つまらなくもないけど、冗長で意外とノリが悪い。もっと短く切り詰めてテンポよくした方が良かったんじゃないか。私としては、宮崎あおいの“壊れっぷり”を堪能できたんでそれだけで十分。彼女がパンクの格好をしたポスターを見かけたけど、映画中ではあくまでもマネージャーとしててんてこ舞いしているだけで、あんな扮装はしません、あしからず。

【データ】
監督・脚本:宮藤官九郎
出演:宮崎あおい、佐藤浩市、木村祐一、田口トモロヲ、ユースケ・サンタマリア、他
2009年/125分
(2009年3月7日、新宿バルト9にて)

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