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2008年12月28日 - 2009年1月3日

2009年1月 3日 (土)

台北探訪記(1)

※以下、容量の関係で写真をアップできない状況なのですが、問題が解決し次第、掲載いたします。

 2008年12月27日の午後に成田を飛び立ち、台北に到着した時にはすでに暗くなっていた。とりあえず宿舎に荷物を置いてから、台北駅の南側、重慶南路の書店街をぶらぶらとひやかす。台北の書店はどこも夜10時くらいまではやっている。

 新刊・ベストセラー台に映画「海角七号」のノベライズと撮影日誌的なメイキング本が積んであったので購入。日本統治時代と現代とを交錯させた日本人と台湾人とのラブストーリーらしいが、いま台湾で記録的な大ヒットとなっている。中台統一派からは日本時代を美化するなんてけしからんという声もあがっているそうな。

 12月28日、曇り。昨年(2008年)の正月に台北に来たときはちょうど寒波が襲来しており、最高気温も1ケタ台、道行く人はみな厚手のコートを着込んでいた。対して、本日の最低気温は14度、天気予報によると20度くらいまで上がるらしい。歩くと、はおっているジャケットが暑苦しくなってきて、少し汗ばむ。街中には、ジャンパー姿のおじさんがいたり、短パン姿の女の子がスラリとしたきれいな足を惜しげもなく見せてくれたりと服装もまちまち。

 午前7時半頃、宿舎を出る。まずは歴史散策。台北中心部の土地勘はほぼつかんでいるので、目的地が決まればスムーズに歩いていける。横断歩道に歩行者がいても車やスクーターが平気で突っ込んでくる交通マナーの悪さにもすでに慣れている。台北郵局、北門と通り過ぎ、旧鉄道部、日本統治時代の台湾総督府鉄道局の建物の前に出た。まだ改修工事中。この近辺は再開発予定だが、歴史的建築物として一部は残す計画らしい。かつて鉄道局勤務の日本人が住んでいた日本家屋街も崩れかかりながらかろうじて残っている。戦後は外省人の暮らすいわゆる眷村となっていた所だが、こちらは取り壊し予定の様子。立ち退きが迫られているらしく、人の気配は希薄。

 かつて大稲埕と呼ばれた区域へ行く。現在の大同区である。貴徳街に入る。平行して南北に走る迪化街も含め、日本統治時代から台湾人の商業地区であった。衣料関係、薬種、茶葉など各種問屋が軒を連ねている。淡水河の船着場に近いためこの辺りは港町と呼ばれた。写真1は、かつて港町文化講座の開かれたという建物である。古蹟として保存すべくこちらも改修工事中。近くで医院を開業していた蒋渭水を中心に、台湾人の参政権や自治を要求する文化運動の中心となっていた。向かいには李春生紀念教会がある。

 さらに進むと、榮星幼稚園(写真2、3)。台湾でも随一の豪商であった辜顕栄の私邸だった建物を活用している。榮星というのは辜顕栄の号である。彼は1895年、日本軍の台北入城の手引きをしたということで商業上の特権を取得、1934年には貴族院議員となった。息子の辜振甫も実業家で、海峡交流基金会の会長を務めたことで知られる。たしか、経済アナリストのリチャード・クーも辜一族のはずだ(辜=Koo)。

 迪化街から横道に入ってみた。台北の人口密度はきわめて高い。道路沿いにすき間なく建物が並んでおり、どれも5階以上はあるので、路地裏はやや暗い。ほとんどの窓には、洗濯物を乾せるスペースは確保した上で出窓状の格子がはめられている。泥棒よけか、それとも落下物防止のためか。台北の街並を見渡して何となくものものしく感じられるのはこの格子窓のせいだ。野良猫よりも野良犬の方が比率は高く、特に黒犬が目立つ。初めて台北を歩いたときは少しびびったものだが、ワンちゃんたちはマイペースにうろついているだけだし、もう慣れた。八角という香辛料だろうか、あのにおいが鼻腔に入ってくると、「ああ、今、台湾にいるんだなあ」とつくづく感じる。

 かつては屋台で賑わっていたという円環には、現在、公共施設だろうか真新しい建物が建っている。波麗路西餐廳(ボレロ・レストラン)の前を通る。看板には1934年創立とある。まだ朝早いので開いていない。先日、『文芸台湾』をパラパラめくっていたら、編集後記で西川満がボレロで誰それと会って云々ということを書いていたのを思い出した。以前から一度は入ってみようと思いつつ、いまだに入る機会を得ないままだ。

 台北駅前に出て、館前路を南下、二二八和平公園に出る。日本統治時代には新公園と呼ばれていた。太極拳、社交ダンスの練習をするおじさん、おばさんに混じり、扇子を使ったモダンダンスの練習に励む若い男女も見かけた。二二八紀念館の開館する10:00までまだ時間があるので辺りを散策。写真11は国立台湾博物館。かつては総督府立博物館だった建物である。横には、大天宮后旧跡を示す石碑(写真4)。日本はこのお宮をつぶして、その上に博物館を建てた。この近辺の歴史的建造物を博物館等に活用して公園として整備する計画があるらしく、写真12はその計画告知板。

 博物館前の道路脇に鳥居が二つある(写真5)。台北駅の北東、現在は林森公園となっている区域はかつて日本人墓地だったのだが、ここにあった鳥居が二二八和平公園に移転されている。大きい方は元台湾総督・明石元次郎の墓前にあったもの(写真6、7)。小さい方は、やはり元台湾総督だった乃木希典の母親の墓前に会ったもの(写真8、9)。台湾の国府接収後、外省人難民が大陸から流れ込んできたが、住む場所がなかったためこの墓地に住みつき、一種のスラム街を形成していた。鳥居はバラック建ての柱に使われていたが、陳水扁・台北市長時代にこのスラム街は撤去され、その時に鳥居は発見されたらしい。

 いったん公園の外に出た。写真10は土地銀行で、戦前の三井物産台北支店。後ろの改修工事中の建物は戦前の勧業銀行。写真14は台湾銀行。戦前も組織は違うがやはり台湾銀行。金融恐慌の発端となった銀行である。

 写真13は総統府。言うまでもなく、かつての台湾総督府である。昨年(2008年)、私が台湾に来たときはまだ民進党の陳水扁が総統在任中で、総統府の尖塔には台湾名義での国連加盟を求める文字板が掛かっていた。国民党の馬英九政権となった現在は、「中華民国建国紀念」となっている。中華民国が建国されたのは1912年で、2012年には百周年を迎えるわけだが、それに向けてということか。ちなみに、この尖塔、戦前は「アホウ塔」と呼ばれていたと祖母から聞いたのだが、どんな字をあてたのだろう?

 総統府の斜向かいにあるのは台北第一女子高級中学(北一女中、写真15)。戦前の台北第一高等女学校で、戦前も現在も台湾における女子教育のトップ校である。私の祖母もここで学んだらしい。朱天文の小説を以前に読んでいたら、彼女もここの出身で、蒋経国が時々視察に来たと記していたように思う。さらに厳家淦(蒋介石と蒋経国の間で中継ぎとして総統になった人)旧邸や総統官邸のあたりをふらつく。二二八国家紀念館という看板(写真16)のある建物が改修工事中なのだが、これは何だったのだろう? 写真17は公売局、戦前からタバコ等の専売局だった建物だ。デジカメを向けると、警備員さんが柱の陰に隠れた。割合と有名な建築物なので写真を撮る人が頻繁に来るのだろう。近いうちに産業史博物館となる予定らしい。写真22は台湾賓館(迎賓館)、戦前の台湾総督官邸だった建物である。

(続く)

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台北探訪記(2) 二二八紀念館再訪

(承前)

 ちょうど10:00に二二八紀念館に到着。コロニアル風の明るい感じの建物だ(写真18、19)。日本統治時代から放送局として使われていた。1947年、二・二八事件がおこったとき台湾人の群集が占拠、国民党の暴政に対し、台湾人よ、立ち上がれ!と台湾全土に向けてここから檄が飛ばされた。占拠されたとき、女性アナウンサーによる北京語放送が途中から男声の台湾語に切り替わる瞬間の録音を館内で聞くことができる。

 玄関脇にハマユウの花(写真20)。広島の原爆による焼け野原に残った花を誰かが守り育て、平和の願いを込めて二二八紀念館に贈られたらしい(写真21)。

 二二八紀念館では日本語世代のご老体がボランティアでガイドをしてくれる。私が中に入ると、別の日本人観光客一人を相手に解説が始まったばかりだったので合流。私は前にも一度ここに来たことがあるのだが、その時にガイドをしてくれたCさんだった。もう一人の方は次の予定の都合があるとのことで途中で別れたので、一対一でお話をうかがうことができた。二二八事件についてのおおまかな話は基本的に前回と変わらないので、こちらを参照のこと。

 Cさんは昭和5(1930)年生まれだから、現在78歳。戦争中、14歳のとき、航空志願兵になったという。「ちゃんと試験を受けて通ったんですよ」と誇らしげだ。しかし、程なく日本は敗戦。Cさんは日本時代と国民党時代、二つの時代の教育を受けたことになる。

 セーラー服姿の女学生たちが中華民国の青天白日旗を振っている写真があった。国民党軍の台北入城のときらしい。Cさんはこの写真を指して「みんなきれいな身なりをしているでしょう。ところが、やってきた国民党の兵隊はどんなだったと思います? 鍋釜しょって、まるで苦力みたいにみすぼらしかった。」この話は、当時台北にいてやはりこの行進を見ていた私の祖母からも聞いたことがあるし、台湾人の回想録にもよく出てくる。Cさんにしても、私の祖母にしても、「日本はあくまでもアメリカに負けたんであって、中国に負けたんじゃない」と言う。もちろん、異論はあることと思う。しかし、日本人か台湾人かを問わず当時の台湾にいた人たちの素朴な実感としてそう受け止められても仕方のない理由はあったようだ。

 日本の大本営は、連合軍はまず台湾に上陸するものと想定して、本土決戦の前哨戦として台湾に兵力を集中させていたが(実際には、沖縄に上陸してあてがはずれたわけだが)、降伏時、台湾の日本軍は温存されていた。他方、蒋介石は共産党に備えて精鋭部隊は大陸に残し、最も質の低い兵隊を台湾接収に送り込んできたわけだから、その落差は当然だろう。しかし、台湾人は当初中国への復帰を歓迎していただけに、この落差は幻滅と映ってしまった。先日読んだばかりの楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年→こちら)では、著者もやはりこの行進を見ていて、日本人の視線を意識して恥ずかしくなってしまったところ(つまり、この時点では中国人アイデンティティーを持っていたと言える)、横にいた日本人のおばさんが彼の様子を見て取って「中国の人は今まで日本軍にひどい目に遭わされてきたんだから仕方ないわよ」と逆になぐさめられてしまったと記している。

 この落差は単に見た目の問題だけではなかった。国民党軍の基隆港上陸直後から略奪・強姦等の被害が発生した。また、日本統治下、台湾人の生活水準、教育水準は大陸に比べてはるかに高く、識字率は7~8割ほどもあったのに対し、大陸の識字率は2~3割程度であったと言われる(こうした社会生活レベルの相違は、台湾独立派だけでなく、例えば大陸に渡って共産党と連携しようとした謝雪紅たち台湾民主自治同盟にしても、独立とまでは言わないにしても台湾の高度な自治を求める根拠となった)。しかし、国民党側は、台湾人は日本によって奴隷化教育を受けてきたとみなして主要ポストから台湾人を排除。さらに国民党の金権腐敗体質、経済面での失政、疫病の流行(台湾人には後藤新平を高く評価する人がいるが、疫病というのはイデオロギーとは関係なく体感レベルで深刻な問題なわけで、国民党の台湾上陸と同時に疫病も一緒に持ち込まれた記憶が反転して、衛生制度を確立させた後藤への評価につながっているのだろうか)、様々な問題によって台湾人は反国民党感情を募らせていく。それが一挙に爆発したのが二・二八事件である。

 戦後、Cさんの父親は日本人から栄町(現在の総統府~西門のあたり)の商家を購入、そこで商売をしていた。Cさんは二・二八事件のとき、「危ないから外に出てはいけない」と父親から言われて家にとじこもっていたが、二階の窓から、国民党の兵隊が台湾人を追いかけて射殺するのを目撃したという。見せしめのため遺体を片付けることは許されず、放置されたままだった。二・二八事件及び以後のいわゆる白色テロで、国民党の特務は、共産党系の人々への弾圧を強める一方、日本時代に高等教育を受けた台湾人エリートを狙い撃ちするように逮捕、次々と殺害したと言われている。夜中に拉致されて行方不明になった人も数知れず。疑いがかけられたら証拠もなく逮捕された。Cさんの知人でも逮捕された人がいた。たまたま通りがかりの人に道を尋ねられたので教えたところ、その人が共産党員だったらしく特務の尾行がついており、言葉を交わした→共産党員の疑いあり、としてその知人も逮捕されてしまった。過酷な拷問のため容疑を認めざるを得ず、仮に認めなくてもそのまま殺されてしまった可能性が高い。監獄に15年間ぶちこまれ、体を壊してしまったため、釈放されてから2年ほどで亡くなったという。

 「二・二八事件では、政府の公式発表として2万8千人が犠牲になったとされています。ただし、正確な数字は分かりません。今でも山奥でたくさんの白骨死体が発見されることがあります。李登輝さんが謝罪しましたが、彼も台湾人です。手を下した国民党員はまだ生きているのに、彼らは一言も謝ってくれない。どこで殺して埋めたのか教えてくれません。20万、30万という数字を挙げる人もいますが、証拠がないので私には何とも言えません。公式見解で2万8千人ですから、少なくとも3万人以上としか私には言えません。」

 Cさんは大学では建築を専攻。ただし、専門を生かした職種にはつけず、普通の会社に入ったらしい。「国民党の時代になってから、公務員になるにはワイロが必要でした。同窓生にはワイロを出して就職したのもいましたが、私はそんなの払いたくありませんでした。」台湾人である限り出世の見込みはないと考え、57歳のときアメリカに移住、技術関連の企業で部長になったそうだ。永住権も取得したらしい。71歳まで勤め上げ、自分はやはり台湾人だと考えて帰国。陳水扁の民進党政権が発足した翌年のことである。

 近くの壁をさすりながらCさんは言った。「この建物をごらんなさい。戦前に日本人が建てた放送局ですが、とても頑丈です。蒋介石の建てさせたものなんてダメです。むかし、日本人の建築現場を見たことがあります。コンクリートをつくるにしても、砂を本当に丁寧に洗っていました。中国人は役人がピンはねするし、手抜きします。だから、すぐ崩れてしまう。日本人ならそんなことしません。」

 Cさんは小脇に抱えたファイルから教育勅語のコピーを取り出して私にくれた。裏面には現代日本語訳もある。前回来館したときは驚いたものだが、今回は話の流れは分かっているので素直に受け取る。「教育勅語というと、日本の一部の人は軍国主義とか言うようですが、私が言いたいのはそういうことではありません。」“朕”とか“皇祖皇運”といった表現を指して、「天皇だってあくまでも一人の人間ですから天皇崇拝はよくないし、侵略してもいけません。ただ、正直、勤勉、国のために尽くすこと、そういう大切なことが教育勅語には書かれています。私はそれを日本人から教わりました。私には大和魂があります。ところが、こういう美徳が台湾から失われています。最近は日本でもそうだと聞いていますが、いかがですか?」といたずらっぽい笑みを浮かべながら問われると、私としても「いやあ、耳が痛いです」と答えるしかない。

 “大和魂”“日本精神”(向こうではリップンチェシンと発音するようだ)なんて言うと、戦後教育を受けた私の世代はびっくりしてしまう。しかし、Cさんには、当時の日本人はワイロもピンはねもしない→正直、コンクリートをつくるとき丁寧に砂を洗う→勤勉、そうした具体的なイメージがあるようだ。つまり、公共道徳という意味合いとして受け止めるべきであって、いわゆる軍国主義的なものとは全く違う。このあたりは誤解しないよう注意せねばならない。

 お話をうかがっていると、蒋介石及び国民党に対する批判が頻繁に出てくる。蒋介石の写真を見ると、「私たちはこいつのことをハゲと呼んでいました。」「蒋介石の銅像がまだ残っているのはおかしい。ドイツでヒトラーの銅像があったら、どう思いますか?」「アメリカは3つの原爆を落としました。2つは広島と長崎に。残る1つは蒋介石という原爆を台湾に。」そう言いたくなるほど、蒋介石によって台湾人は苦しめられたという怨みが強いようだ。

 「政治というのは、やはり比較してみないと分かりません。若い頃は日本の植民地支配を私も快く思っていませんでした。差別がありましたから。ところが、蒋介石がやって来て、日本時代は本当に良かったとつくづく思います。あの頃は戸締りなんかしなくても、安心して眠ることができました。しかし、国民党の時代は、特務が夜中に突然やって来て、証拠もなく政治犯とされた人が次々と連行されました。日本時代にも弾圧を受けて投獄された人はいましたが、少なくとも殺された政治犯はいませんでした。あの静かだった時代に戻って欲しい…。」

 「国民党は日本の残した資産を全部私物化してしまった。しかし、これは本来国家のものです。」最後の台湾総督・安藤利吉の写真を指して、「この人は戦後、戦争犯罪人として逮捕されました。服毒自殺したとされていますが、国民党の財産横領のやり口を見ていたので、口封じのために毒殺されたとも言われています。」真偽のほどは私には分からない。出典は何だろう?

 「国民党は悪辣なやり方で金集めをしました。しかし、民進党には何もありません。陳水扁は8年間、何もしなかった。国民党の問題を清算できませんでしたから。」「李登輝さんは偉いと思います。しかし、以前は大嫌いでした。彼は国民党員でしたから。やはり本心を隠さなければならなかったのでしょう。」「金に目がくらんで国民党になびく台湾人がいるのはいけない。台湾人はまったく愚かな民族です。だから、国民党が再び権力の座についてしまった。このままいくと、台湾人は再び何も言えなくなってしまう。国民党は圧力をかけています。総統府にもガイドがいますが、二・二八事件について語る人はみな追い出されてしまいました。ここだって、いつまでもつことか…。」そういえば、Cさんと私を別の日本人観光客のグループが追い越していったのだが、そちらの日本語ガイドの人は、以前、総統府でガイドをしてくれた人だったような気がする。総統府を追い出されて、二・二八紀念館に移ったのだろうか。総統府のガイドなのに、元総統の蒋介石を徹底的に罵っているのが印象に残っていた。

 黄文雄の本を薦められたのは内心困ってしまったのだが、それはともかく。Cさんの話には中国に対する警戒心も強くにじみ出ており、暴政をやった国民党=中国人という不信感を強く抱いていることが窺える。二・二八事件の記憶が恐怖と共にそれだけ深く心の中にまで根を下ろしているわけだ。

 馬英九への好き嫌いはともかく、少なくともかつての国民党の恐怖政治に戻るようなことはまずないはずだし、そこまで彼がバランス感覚を失した政治家だとは私には思えない。その点ではCさんの懸念は若干杞憂のようにも思える。また、台北滞在中、宿舎でテレビニュースをつけると、陳水扁の保釈の可否をめぐる報道が過熱していた(有名占い師30人を集めて保釈されるかどうか占わせるなんて趣向があるのも台湾らしい。占いでは保釈されると断定されたのだが、翌日、逃亡のおそれありとして刑務所に戻されていたが)。陳水扁陣営が「李登輝だってマネーロンダリングやってたじゃねえか」と告発するという泥仕合まで展開され、泛緑陣営はもうグダグダ。かつて李登輝と陳水扁は親子にたとえられるほど密接な関係をアピールしていたが、もう関係修復不可能なほど険悪らしい。こんなブザマな状況でも、テレビに映る阿扁の支持者が激しく抗議する様子が印象に残る。これは阿扁個人の是非というのではなく、二・二八事件以来の国民党の負の記憶が彼の行方に投影されていると考えるべきなのだろう。Cさんの懸念にしても、阿扁支持者の激しい抗議にしても、それだけ台湾社会に打ち込まれた二・二八事件という楔の重さを改めて考えさせられた。

 館内を一通り案内していただいた後、ベンチに座ってしばらく雑談。「今度いらっしゃるときは事前に連絡してください。日程に合わせてここで待機していますよ。どうせヒマですから」と笑いながらおっしゃっていただいた。帰り際、Cさんから握手を求められ、足元が若干おぼつかないのに玄関先までお見送りいただき、恐縮しながら辞去。時計を見ると、もう13時を過ぎていた。

(続く)

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台北探訪記(3)

(承前)

 二・二八紀念館を出て、その足で中正紀念堂に行った(写真23)。蒋介石を追悼する施設である。陳水扁政権時代の正名運動で蒋介石にまつわるものを否定する動きの中、この大門に掛けられていた「大中至正」(蒋介石の号である中正に由来)という扁額は「自由廣場」に替えられ、また、奥の蒋介石の銅像の置かれている堂宇の扁額も「中正紀念堂」から「台湾民主紀念館」に替えられた(写真26)。ただし、法的には現在も中正紀念堂のままらしい。

 門前に、青テントの抗議デモ(写真24)。民進党系の人々か。馬英九はデモ妨害を謝罪せよ、という趣旨のプラカードがあった。奥の方にはダライ・ラマの肖像画も見える。

 中正紀念堂に入った(写真25)。昨年(2008年)の正月に来た時には、ちょうど台湾民主紀念館として開館したばかりだった(→前回の記事はこちら)。堂内には現代アーチストの演出で凧が舞っていた。蒋介石の銅像を取り囲むように人権弾圧の歴史を示すパネルが並べられて、蒋介石という主役はそのままに、彼の評価をプラスからマイナスへと正反対に逆転させていた。今回は、そういったものは何もない。銅像の前に立入禁止のロープが張られているだけだ(写真27、28)。両脇に小壇が置かれている。近いうちに、儀仗兵を復活させるつもりなのだろうか。1階には蒋介石関連の展示があり、これは以前もそのままだった。去年来た時にはもう半分のスペースで「人権之道」という特集展示が行なわれていたが、この日は書画の展示会となっていた。蒋介石のマイナス面を示すものは一切撤去されており、民進党から国民党へ政権が戻ったことを実感させる。

 中正紀念堂を出る。東門市場をくぐり抜けて、仁愛路に行き、ここを東に進む。戦前、私の祖母が住んでいたという辺りを歩くのが次の目的だ。かつては東門町と言って、日本人住宅街が広がっていたらしい。一応、番地は聞いてあったので、戦前の地図と現在の地図とを照らし合わせ、この辺だろうとだいたいの見当をつけた路地を歩いた。道のうねり方からすると間違っていないとは思うのだが、当時の面影は全く感じられない。5階建て以上の高層共同住宅の並ぶ、普通に現代台北の住宅街である。少し離れた所に一軒の日本家屋が残っていたので(写真29)、こんな感じの家に暮らしていたのだろうと想像をめぐらす。

 さらに北へ歩き、光華商場へ行く。台北の“アキバ”と言われる電脳街である。かつては雑然とした小店舗が密集していたらしいが、最近建てられたモダンなビルに集約されたようだ。6階建ての中にパソコン関連機器、ソフト、マンガを中心とした古書店が並んでいるが、期待していたほど“濃い”雰囲気はなかった。客層も老若男女様々、普通に電器製品を買いに来ているという感じで、オタクっぽいのは目立たなかった。こっち方面に私は不案内なので、値段的な相場も分からない。メイドのコスプレした女の子がチラシを配っていた。メイド喫茶か?

 忠孝新生站でMRTに乗り、東の終着駅・南港まで行く。私の祖母は女学校を出てすぐの頃、ここの公学校(台湾人向けの小学校)で教員をしていた。ただし、性に合わなかったらしく、一年でやめてしまったそうだが。当時は農村だったという。現在でも一応台北市とはなっているが、埃っぽくて賑わいはない。しかし、台湾高速鉄道(新幹線)の駅を建設中で、それを当て込んでか、くすんだ商店街の向こうに大企業の近代的な巨大ビルがそびえているのが見える。東京で言うと多摩の雰囲気だ。国民小学校の前まで行ったが、当然ながら戦前の雰囲気を感じさせるものはない。

 再びMRTに乗って台北中心部に戻る。市政府站で下車。この辺り信義区は台北の副都心、東京で言うと新宿といったところか。お目当ては誠品書店信義旗艦店である。前回来た時から私のお気に入り(→こちらを参照のこと)。もう夕方の5時過ぎ。ずっと歩きづめで、朝から何も食べていない。腹へった。地下2階がカフェテリア式のちょっとした食堂になっているので、そこまで降りた。魯肉飯、排骨肉、葉ものの炒め物、魚丸湯のセットを注文。魯肉飯は好き。付け合せにタクアンがのっていた。排骨肉はシナモン風味で私の口に合わず、残した。

 誠品書店信義店は台湾第一の売場面積を誇る。日本のジュンク堂書店をもっとシックにファッショナブルにした感じ。大きいし、店内はきれいだし、当たり前だが日本では見られない本がたくさんあるし、何だか嬉しくなってくる。ぶらぶらひやかしているだけで、あっという間に2時間、3時間と過ぎてしまう。中国語は苦手なくせに、台湾史関連の本を中心に、ついつい色々と買い込んでしまった。王力雄『我的西域、你的東土』(大塊文化、2007年)という本が積んであり、ウイグル関連で噂は知っていたのでこれも買っておいた。カラー写真入りできれいな本だ。いつ読み終わるのかは分かりませんが。

 台湾の書店で目立つのは座り読みが当たり前のこと。最近は日本でも椅子を用意している書店が増えてきたが、誠品書店では当然のごとく机まで置いてある。本を開いて椅子に座っている女の子のページが進まないなあと思っていたら(ちょっとかわいかったので見ていた)、寝ていた。男子学生が漢娜・鄂蘭(ハンナ・アレント)『責任與判断』をエクスキューズのように脇に置きながら、机に突っ伏してこいつも寝とった。まるで図書館だ。

 CD売場に行った。江文也のCDでもあればと思ってクラシック・コーナーを探したが、なかった。日本からの輸入盤が多く、ポリドールやロンドンといったレーベルの半分は中国語、半分は日本語という割合。ナクソスも日本語で一棚そろっていた。

 誠品書店の日本語書籍コーナーはアート、デザイン、ファッションが中心で若者向き。たとえば平台の目立つところに奈良美智の画集や蒼井優の写真集が置いてあるという感じで、一般書は奥の方に申し訳程度に置いてあるくらい。この後、微風広場の紀伊国屋書店にも行ったのだが、こちらでは明らかに日本語世代のおじいちゃんが虫眼鏡を使って何やら一生懸命に立ち読みしている姿を見かけた。誠品書店の日本語書籍コーナーはこういうおじいちゃまたちには入りづらい雰囲気だ。

 MRTに乗って台北站で下車。地下街をぶらぶら歩きながら宿舎へと向かう。コーヒーパンの芳しい香りが漂ってきて、見ると行列している。私もつられて一個買った。中にバターがしっかり練り込まれていて、そのこってり感とコーヒー風味のほろ苦さがうまく絡み合い、なかなかうまかった。台湾の菓子パンはどれもこってり感が強くて、ものによっては口に合わないこともあるが、このコーヒーパンは良い。ご満悦でさらにてくてく歩いていたら、今度は臭豆腐のにおいが充満してきた。ふひゃっ。

(続く)

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台北探訪記(4) 三芝

(承前)

 12月29日。朝から雨降り。本日は、第一に江文也や李登輝ゆかりの三芝、第二に私の祖母の生まれた淡水、この2ヵ所を回るのが目的である。宿舎の受付で三芝への行き方を尋ねると、まずMRTで淡水まで行き、ここから金山方面行きの路線バスに乗れば、その途中だという。

 MRT淡水站まで台北站から30分くらいか。バスセンターに行くと、金山経由・基隆行きという表示のバスを見つけた。運転手さんに三芝と大きく書いたメモ帳を見せながら「San-Zhi, OK?」ときいたら、いかにも面倒くさそうにうなずいた。柄の悪そうなヤンキーっぽいあんちゃんで、ものすごく不機嫌そう。「多少銭?」と尋ねると、「○☆△□」。よく聞き取れません。私を個人的に知っている人なら分かるでしょうが、非常に小心者でありまして、内心「えーん、このにーちゃん、こえーよー」とパニクってます。メモ帳とペンを渡しながら「請写一下」と言ったら、運ちゃんは一瞬躊躇した表情をして、再び怒ったように声を張り上げます。なんでわかんねーんだよ、バカヤロウってな具合の剣幕です。まあ、何とか金額は確認できたので、とにかく乗車。

 車内前方に電光掲示板があるのに停留所名は表示されず、アナウンスも一切ありません。勝手知ったる地元民には分かるのでしょうが…。持参した台北近郊の都市地図帳を開き、通り過ぎる停留所名や街路名を一つ一つ確認しながら、行先は間違っていないと自分に言い聞かせます。結構、不安でした。目的地の三芝に近づいた辺りで誰かが降車ボタンを押した。ようやく着いたかと腰を上げたら、どうやら子供がいたずらで押してしまったらしく、母親が何やら叱りつけていた。一つ手前のようだったが、私は勢いで降りてしまった。私が下車しようとするのを見て運ちゃんはドアを閉めようとしたのだが、ひょっとしたら、まだだぞという意思表示だったのかもしれない。

 降りて、あちゃー、と後悔したが、地図で見る限り、そんなに見当違いな所でもない。少し歩くと近隣の観光案内表示板があった。目的地の源興居を確認。念のため、デジカメに撮った(写真30)。デジカメの画面では文字が小さく見えづらいのだが、少なくとも道路のつながりは分かるので参考になる。私が表示板を見ている間、人の良さそうなおじさんが横に立って私の方を見ていた。おそらく、親切に教えてくれるつもりだったのだろう。目が合ったので、にこやかに会釈して先へ行った。

 5分ほど歩くと三芝の中心街に出た。古そうな家屋を一軒パチリ(写真31)。道標に従って歩くと中心街を抜けた。田畑や野山が広がる中、一本の大きな道路がまっすぐ続いている。道路脇に生い茂ったススキの穂が風に吹かれてかすかに揺れる。東京は冬だったが、ここはまだ秋の気配。小雨が静かに降ったりやんだり、傘を持つ手がちょっと面倒だけど、この穏やかな空気に不快感はない。畑からは、雨水に濡れた土のかおりに肥料の臭いがかすかに混じっている。野山の中、所々、ノッポビルが遠望できる。新たに宅地造成されたマンションか。ノッポビルの唐突さは台湾独特の風景だ。

 畑以外には何もない所を10分ばかりも歩いたろうか、割合と新しい公共施設らしきものが見えてきた。三芝観光中心、名人文物館が一緒になっている(写真33)。名人というのは地元出身の有名人のことで、四人について展示されていた(各出身地を示したパネルは写真35)。写真34は三芝観光中心の前から見渡す周囲の眺望。

 生年順に紹介すると、まず杜聡明(1893~1986年、写真37)。亜熱帯の台湾には毒蛇が多いらしいが、蛇毒研究の世界的権威となった医者であり、他にアヘン中毒患者の更生など台湾の医療水準の向上に尽力したことで知られる。台湾総督府医学校及び京都帝国大学の出身、1937年には台北帝国大学医学部教授となる。台湾人として初めて医学博士号を取得、台湾人だってやればできると発奮させたことも功績に数えられているようだ。日本人の引揚後は台湾大学医学部長。台湾医学会の中心人物となったが、後に学長と意見があわなくて辞職。高雄に医学校を創設した(展示パネルは写真39、40、41、42、43、44、45、46、47。一部、館内の照明の関係で見えづらくなっています)。

 江文也(1910~1983年、写真38)は台湾出身の作曲家として世界で最も有名な人という位置付けになっている。彼については、著書『上代支那正楽考』に絡めて先日書いたばかりだ(→こちらを参照)。当館のパネル解説を読んでいたら、バルトークの影響を受けていると書いてあった。バルトークは西欧の現代音楽を意識する一方で、ハンガリーの民謡を採譜、これを取り込みながら自らの楽風を確立していったことで知られている。台湾原住民や中国伝統の音楽を積極的に取り込もうとした江文也と時代的にもパラレルな関係にあると言える。なお、江文也の出生地について多くの文献では三芝と記されているが、今回、台北の書店で買い求めた顔緑芬・主編『台湾當代作曲家』(玉山社、2006年)所収の劉美蓮「以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也」を帰国後に読んだところ、戸籍は一族の出身地である三芝に置かれていたものの、実際には台北の大稲埕で生まれたという。三芝で暮らしたことはないようだ。私は三芝に来た時点でそのことを知らず、近辺の野山が日本の農村風景とあまり変わらないため、江は最初の留学先である長野県上田での生活にも違和感はなかったのだろうなどと思いをめぐらせていたのだが、実際には幼少時から都市的センスに馴染んでいたわけである。なお、展示パネルは写真48、49、50、51、52、53、54。

 李登輝(1923年~、写真36)については特にコメントも必要ないでしょう。ここでは「民主之父」という位置付け。

 盧修一(1941~1998年)という名前は初めて知った。政治学者出身で民進党の立法委員(国会議員)になった人らしい。ヨーロッパ留学中、保釣運動に関わったこともあるようだ。台湾独立案関連で逮捕され、1986年に出獄。1988年、立法委員に当選。誠実で情熱的な政治家として尊敬されたという。

 名人文物館と同じ建物内に開拓館という名前の郷土資料館も併設されており、先住民のケタガラン族についての考古学的展示と、農暦にまつわる民俗行事の展示とに力が注がれている。漢族の中でも客家系の江姓の一族が三芝に住み着いて商売で成功したらしい。そういえば、先ほど三芝の中心街を歩いていたら、「台北縣江姓宗親会」という看板の掛かった事務所の前を通りかかった(写真32)。江文也もこの一族にあたるわけだ。

 ケタガラン族とは台北近辺にいた平埔族である。台湾の原住民はおおまかに言って山岳地帯の高山族(高砂族、生蕃)と平野部にいた平埔族(熟蕃)とに分けられ、後者は漢族系と同化した(大陸からわたってきた漢族系は男性ばかりで、原住民の女性と結婚した→この時点で大陸の中国人とは異なる台湾人が形成されたと主張する人もいる)。なお、総統府前の大通りは、かつて蒋介石の号にちなんで介壽大道と呼ばれていたが、陳水扁が台北市長の頃に凱達格蘭(ケタガラン)大道と改称された。

 名人文物館の裏に出ると、李登輝の生家がある。源興居と呼ばれている(写真55、56、57)。中はあまり広くなく、李登輝と蒋経国の並んだ掛け軸が一本かかっているのみ(写真58)。レンガ積みの伝統的な中国式家屋である。田舎ではこのような家が普通だったのだろう。婦人会の団体さんがわやわやと写真を撮り合って騒がしいので、しばし近隣を歩き回る。地形はゆるやかにうねっているため、棚田が広がっている。遠くに道観が見える(写真60)。日本で言うと鎮守の杜といったところか。植生にしても、田畑のつくりにしても、レンガ積み家屋がなければ、一昔前の日本の農村にいるかのような錯覚に陥る(写真59)。

 李天禄布袋戯(ポテヒ)文物館というのが近くにあるらしいので行ってみた。近くと言っても結構距離はあった。田舎で何もないので道路の分岐は少なく、迷わないですんだが、20分くらいは歩いたろうか。観光客はみんな車で移動している。たどり着いて、ヘナヘナと力が落ちた。シャッターが下りて休館の表示。そうです。今天是星期一。まあ、無目的に台湾の田舎道を歩く機会なんてないだろうから、これはこれでよしとすべきか。とりあえず写真だけ撮っておいた(写真62、63)。写真61は途中で見かけた家屋。増築の仕方が面白くて撮った。

 なお、布袋戯とは台湾の伝統的な人形劇。李天禄はその国宝級の使い手として知られた人で、侯孝賢の映画にもよく出演、飄々と味わいのある姿を見せていた。とりわけ「戯夢人生」(→こちらを参照)は彼の自伝的な作品である。晩年は三芝のここで暮らしていたらしい。

 三芝の中心街に戻ると、すぐ淡水站行きのバスが来た。今度は終点まで行けばいいので安心。車内で小銭に両替することはできないようで、おばさんが近くに座っていた若い女性に声をかけて両替してもらっているのを見かけた。バスを降りるとき、みんな運転手さんに「謝謝」と声をかけていた。日本でも、田舎だと同様の光景を見かけたのを思い出した。

(続く)

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台北探訪記(5) 淡水

(承前)

 淡水は、アロー戦争後の北京条約(1860年)で開港地の一つとなって以来、欧米諸国の領事館が設置されるなど貿易港として栄えていた。しかし、河口部に砂が堆積してしまって大型船が入れなくなり、日本統治時代には基隆に貿易港としての地位は奪われてしまう。夕日の美しさが有名で、現在、台北に近いこともあって気軽に来られる観光地となっている。バスで三芝との間を往復したとき、30階もあろうかという高層リゾートマンションが建てられているのを見かけたが、キャッチコピーは「新横浜」。かつて貿易港として繁栄した経緯や台北とのほどほどの距離感から、東京に対しての横浜のようなイメージで売り出そうということらしい。

 老街(old street)を行く。写真64、65はその入口。写真74はここが淡水老街であることを示す石碑。商店にはそれなりに賑わいがある。私の祖母は、父親(つまり私の曽祖父)が勤務していた役場近くの官舎で生まれたということなので、淡水鎮公所(町役場、写真66)を目印に歩く。途中、福佑宮という道観があった(写真68、69)。祖母もこれを見たのだろうか。祖母の住んでいたという家の具体的な番地までは分からないが、割合と大き目の日本家屋が一軒残っている(写真70、71、72)。おそらくこういう感じの家で暮らしていたのだと思う。他にも古い建物をいくつか見かけた(写真67、73)。

 トマソン発見!(写真81、82) 奥にあるキリスト教会の礼拝堂への通り道として家が一軒つぶされているのだが、台湾の家屋は隣同士すき間なく建てられているので、その壊された家屋の輪郭がくっきりと残っている。路上観察学では“原爆タイプ”に分類されます。広島の平和祈念館に行くと、原爆の光で人の影が焼き付けられた石壁が展示されていますが、これをイメージした命名(詳しくは、赤瀬川原平『超芸術トマソン』、もしくは『トマソン大図鑑 無の巻』を参照のこと)。ちょっと冗談がきつすぎるようにも思うが、それはともかく。この“原爆タイプ”は台湾の街を歩いているとよく見かける。淡水で見つけたこれが面白いのは、片方は壊されたまま放っておかれているのに、対面のもう片方は残存輪郭内をしっかりとペインティングしていること。無造作なんだか手をかけているのかよく分からんところが良いですねえ。

 前清淡水関税務司官邸という案内板を見かけ、その表示に従って脇道の階段をのぼる。淡水は坂道が峻険な街である。ちっちゃい神戸という感じか。前清淡水関税務司官邸を外から撮った(写真75、76)。本日は月曜日なり。中には入れません。道標に従ってさらに坂をのぼると、外僑墓園の前に出た(写真77、78、79)。関係者以外立入禁止なので柵のすき間から中を撮影。基督教(プロテスタント)、天主教(カトリック)、官員区、商人区に分かれている。つまり、宣教師、各国の領事館員、貿易商人と淡水開港の経緯がうかがわれる。

 馬偕(Mackay)の墓もここにあるはずだ。馬偕というのは19世紀、台湾にやって来たカナダの宣教師、医療や教育に従事したことから台湾の人々から慕われた人物で、台湾史におけるキーパーソンの一人である。淡水站前には馬偕の頭像があった(写真83)。台北には馬偕紀念医院という大病院がある。さらに、真理大学の前を通った。英語名はAletheia University。大学に昇格したのはそんなに古いことでもないようだが、もともとは馬偕の創設した学堂に起源を持つ。

 ぐるっと回って坂道をおりていくと紅毛城の前に出た。繰り返すが、本日は月曜日。閉館中。外から写真だけ撮ったが(写真80)、中の様子は分からない。17世紀、スペインがセント・ドミニカ城を築造したのが始まりで、後にオランダが奪取。17世紀における斜陽の旧帝国スペインと、そこから独立したばかりの新興貿易立国オランダ、両国の世界的な海上覇権をめぐる闘争は、日本では安土桃山から江戸時代にかけての南蛮人→紅毛人の交代として目の当たりにされていたが、同様の国際政治的な動きがここ淡水でも見られたわけである。ただし、オランダも程なく鄭成功によって追い出され、さらに鄭氏政権も同世紀中に清の康熙帝によって滅ぼされる。アヘン戦争、アロー戦争の敗北後、淡水も開港地に指定されたのに合わせ、この紅毛城にイギリス領事館が開設された。港を一望できる要衝である。祖母の住んでいた家からこの紅毛城が見えたと聞いている。

 淡水河畔の船着場に出た。現在の淡水には港湾地としての機能はほとんど失われているが、淡水河を挟んだ対岸の町への遊覧船が出ている。淡水は夕焼けの美しい街として知られているが、今日は生憎の雨降り。ここには、日本なら焼きイカとか焼きトウモロコシとか売ってそうな感じの海の町によくあるタイプのお店が並んでいる。何だかんだ言って、もう夕方4時過ぎ。今日も歩きづめで朝から何も食べていない。繁盛してそうなお店に入った。食べたいものを書いたメモを見せながらブロークン・チャイニーズで注文したら、お店のおばさんからは日本語で返事が返ってきた。日本人観光客もよく来るようだ。焼きビーフンはあまりうまくなかったが、さっぱりしたスープにつみれかはんぺんのような魚のすり身団子の入った魚丸湯は好き。老街と並行する土産物屋街をぶらぶらひやかしながらMRT淡水站まで戻った。

(続く)

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台北探訪記(6)

(承前)

 MET西門站で下車。西門のメインストリートの南側、中華路(かつてはここを台湾鉄道が走っていたが、現在は地下化され、大通りになっている)脇に、台湾歴史風情彫絵という台湾史に関わるシンボリックなものを彫りこんだ大きなレリーフが建てられている。割合と新しい。この背後の一画は萬華406号広場となっている。日本統治時代、西本願寺のあった所だ。当時の建物が崩れかかりながらも保存されている(写真84、85、86)。日本は台湾統治にあたり宗教政策面でも日本化を進めようとしたが、神道系は入り込めず、仏教系が中心となったらしい(胎中千鶴『葬儀の植民地社会史──帝国日本と台湾の〈近代〉』を参照のこと)。国民党の台湾接収後、この西本願寺の建物に特務の逮捕した政治犯が収容されたと何かで読んだ記憶もある。

 華西街観光夜市に足を運ぶ。かつては近くに公娼地区があったせいか、“情趣”商品とか精力剤的なものとか売ってたり、他の夜市よりもいかがわしい雰囲気のあるところが面白い。狭い横道に入ってみる。淫靡な空気がますます強まる。いわゆる私娼窟と言ったらいいのか。ちょうど陽も落ちた頃合。明るい時間帯には誰もいないだろうし、かと言って夜晩くにこういううさんくさい横道に入り込む勇気は私にはない。一人やっと通れるくらいの狭い路地に、明らかに昔は置屋だったと思われる構えが連なっている区域もあった。写真を撮っておこうかとも思ったのだが、誰何されても面倒なので、さっさと通り抜けた。

 温暖な気候のためか、台湾の店舗というのはどこも開放的で、何をやっている店なのか外を歩いていても中がよく見える。こうした横道には、本物の食堂も混じってはいるのだが、所々、○○清茶房とか△△餐庁といった看板を出しつつも女性たちがたむろしているだけの店がある。奥の方に個室ブースが並んでいるのが見えた。あそこで“接客”するのだろうか。きれいな女性は一人も見かけなかった。女性たちも、客層も、年齢はだいぶ高めで、男性はとりわけ老人が多かった。老人と女性たちが交じり合って談笑したりカラオケしたりしているのも見かけた。

 大陸からやって来た外省人兵士たちには、結婚もできず、台湾社会にも馴染めず、孤独をかこっていた人々が多く、こうした私娼窟で安い女性を買って淋しさを紛らわせていたと何かで読んだ記憶がある。彼らの孤独な老後は一つの社会問題になっていると聞く。ここで見かけたカラオケに興じる老人たちも、そうした外省人兵士の現在の姿なのだろうか。

 龍山寺に出た(写真87)。去年、私の初詣はここだった。龍山寺站からMRTに乗り、忠孝復興站で下車。微風広場の紀伊国屋書店へ。駅からちょっと歩くが、雨が降っていても停仔脚は実に便利だ。

 MRTに乗って市政府站まで行き、昨日に続いてもう一度誠品書店信義旗艦店を見て回る。新刊・ベストセラーの平台に積んであった新刊小説を何冊か買い込んだ。台湾文学評論の本をいくつか手にとってパラパラめくってみたのだが、やはりライトノベルを取り上げたものはない。藤井樹とか九把刀(Giddens、ギデンズ )といった名前を台湾の書店の新刊コーナーでたびたび見かけるので何者なのか気にかかっているのだが、ライトノベルは文学評論というよりも、社会学的なサブカルチャー研究の対象となるのか。

 MRTに乗り、再び西門站まで戻った。西門近辺は、日本で言うと渋谷、原宿といった感じの若者向け繁華街。道路はきれいに舗装され、メインストリートの大型ビジョンには「嫌疑犯X的獻身」(容疑者Xの献身)とか「黄金公主──敵中突破 The Last Princess」(隠し砦の三悪人 The Last Princess)とかの映像が流れ、行き交う人の服装は日本と全く変わらない。何やらパラレルワールドに迷い込んだような錯覚にも陥る。ただ一点違うのは、屋台が出没して、このファッショナブルな街並に食欲をさそう香りを漂わせていること。本来は非合法らしく、パトカーが近づくと(このパトカーがまたゆっくりとやって来る)、おいちゃん、おばちゃんたちは屋台を引いて三々五々逃げ出します。

 12月30日の昼過ぎ、桃園国際空港を飛び立ち、成田に帰国。色々と都合がつかなくて4日間(実質的に動けたのは2日間)しか時間がとれなかったが、今度はせめて1週間くらいは時間をとって地方をじっくりまわりたいものである。

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