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2009年12月31日 (木)

エミール・デュルケーム『自殺論』

エミール・デュルケーム(宮島喬訳)『自殺論』(中公文庫、1985年)

 なぜ自殺するのか、その動機は究極的には本人にしか分からない。しかし、統計数字を見ると自殺者数の変化には一定の傾向が認められる。自殺のように極めて主観的な動機による行動と見えても、その背景として社会状況による因果関係が作用していることを明らかにし、逆に言うなら、自殺という事象を通して社会のあり様を看取できる視点を示している点で、本書は社会学の古典と位置付けられている。

「自殺者のとるその行動は、一見したところ、あたかもかれの個人的気質の反映にすぎないようにみえるが、じつはそれは、ある社会的状態の結果であり、またその延長であって、当の社会的状態を外部的に表現しているのである。」(375ページ)
社会が持っている「この実在性を承認し、われわれに作用をおよぼしている物理・化学的力と同じように、外部からわれわれに行動をうながしている力の全体としてこれを理解することである。それは、まさに一種独特のものであって、言葉のうえだけの実在ではない。ちょうど電流や光源の強さを測定するように、それらを測定することもできれば、相互の大きさを比較することもできる。したがって、社会的事実は客観的なものである、というこの基本的な命題、筆者が他の著作のなかで証明し、社会学的方法の原理とみなしているこの命題は、道徳統計、わけても自殺統計のなかに、新たな、とくに論証性に富んだ証拠を得たことになる。」(389ページ)
「自殺する本人は、生からの訣別の行為をみずからに納得させるために、それをもっとも身近な周囲の事情のせいにする。自分が悲しいので、生も悲哀にみちていると考えるのだ。もちろん、ある意味では、かれの悲哀も外部からもたらされるが、しかし、それはかれの生活上のあれやこれやの出来事からではなく、かれの所属している集団からもたらされる。それゆえ、どんな事柄であろうと、自殺の誘因とならないものはない。要は、こうした自殺の原因が、どれほど強力な作用を個人の上におよぼすかという点にある。」(376ページ)

 本書が示す要因がそのまま自殺を招来するわけではない。死別、失業など個人的・偶発的な出来事に遭遇したとき、それに耐え得るだけの社会心理的基盤が失われていることを示そうとしている。自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺という3パターンが示される。このうち集団本位的自殺とは個人としての自我のあり方と、それを外在的に拘束する規範意識の強さとに大きなギャップから自殺へと追い込まれてしまうケースである。伝統拘束性の強い社会や、近代においては軍隊が例として挙げられる。現代社会ではむしろ自己本位的自殺とアノミー的自殺の二つが注目されるだろう。

 自己本位的自殺とは、社会的つながりを失った個人が、自分の生きていく根拠や目的意識を失った結果として表われた自殺である。

「…社会の統合が弱まり、われわれの周囲やわれわれの上に、もはや生き生きとした活動的な社会の姿を感ずることができなくなると、われわれの内部にひそむ社会的なものも、客観的根拠をすっかり失ってしまう。それは、もはや空虚な心象(イマージュ)の人為的な結合物、あるいはいささかの反省によっても容易に霧散してしまうような一個の幻影にすぎなくなる。すなわち、われわれの行為の目的となりうるようなものは消滅してしまうのである。ところが、この社会的人間とは、じつは文明人にほかならない。社会的人間であることが、まさにかれらの生を価値あるものにしていたのである。このことからして当然、〔社会の統合が弱まると〕かれらの生きる理由も失われることになる。つまり、かれらのいとなむことのできる唯一の生活〔社会的人間としての生活〕に対応するものは、現実のなかにはすでに皆無であり、現実のなかにまだ根拠をもつ唯一の生活〔物理的人間としての生活〕は、もはやかれらの欲求にこたえてくれないからである。人びとは高度な生活によって慣らされてきたので、いまさら子どもや動物の甘んじているような生活には満足できない。だが、いまやこの高度な生活そのものがかれらの手からすり抜け、かれらは途方にくれている。その努力をひきつけるような対象はなにひとつなく、自分の努力が無に帰してしまうという感覚がかれらの心をとらえる。人間の活動には、それをこえたひとつの対象が必要であるということの真の意味は、ここにあるのだ。それは、この対象が不可能な不死についての幻想をいだきつづけるうえになくてはならないから、という意味ではなく、この対象がわれわれの精神的構造のなかにふくまれていて、それが一部分でも崩壊すると、それにともなって精神的構造もその存在理由を失わざるをえないという意味なのである。こうした動揺状態におかれるとき、わずかでも人びとを落胆させるような原因があると、かれらは容易に絶望的な決断をくだしてしまう。それは証明するまでもないことだ。生がもはやそれに耐えるだけの労苦にあたいしないとなれば、生を放棄する口実にはこと欠かない。」(254~255ページ)

 アノミーとは、社会的・時代的環境の変化によって、それまでの社会によってはめられていたタガがはずれてしまい、個人の欲望が際限なく拡大していく状態を指す。あくまでも想像に過ぎない目標に向かって限りなく進む欲望は必ず現実との落差に直面し、達成できない挫折感へと個人をたたき込む。このギャップが自殺を誘発してしまう。

時代が変わって社会環境が混乱しているとき、「社会はただちに個人を新しい生活に順応させることはできないし、また不慣れなさらに激しい緊張を課することに慣れさせることもできない。その結果、個人は、与えられた条件に順応していないし、しかも、そのような予見でさえもかれに耐えがたい思いをいだかせる。この苦悩こそが、個人を駆って、その味気ない生活を──それを実際に味わう以前にさえ──放棄させてしまう当のものなのだ。」…「こうして、いったん弛緩してしまった社会的な力が、もう一度均衡をとりもどさないかぎり、それらの欲求の相互的な価値関係は、未決定のままにおかれることになって、けっきょく、一時すべての規制が欠如するという状態が生まれる。人は、もはや、なにが可能であって、なにが可能でないか、なにが正しくて、なにが正しくないか、なにが正当な要求や希望で、なにが過大な要求や希望であるかをわきまえない。だから、いきおい、人はなににたいしても、見境なく欲望を向けるようになる。」…「欲望にたいして供される豊富な餌は、さらに欲望をそそりたて、要求がましくさせ、あらゆる規則を耐えがたいものとしてしまうのであるが、まさにこのとき、伝統的な諸規則はその権威を喪失する。したがって、この無規制(デレーグルマン)あるいはアノミーの状態は、情念にたいしてより強い規律が必要であるにもかかわらず、それが弱まっていることによって、ますます度を強める。」(310~311ページ)
「…人間の本性が、この欲求に必要な種々の限界を設定することは不可能である。したがって、この欲求がたんに個人だけにもとづいているかぎり、けっきょく、際限のない欲求となってしまう。人間の感性は、それを規制しているいっさいの外部的な力をとりさってしまえば、それ自体では、なにものも埋めることのできない底なしの深淵である。」「そうであるとすれば、外部から抑制するものがないかぎり、われわれの感性そのものはおよそ苦悩の源泉でしかありえない。というのは、かぎりなき欲望というものは、そもそもその意味からして、充たされるはずのないものであり、この飽くことを知らないということは、病的性質の一徴候とみなすことができるからである。限界を画するものがない以上、欲望はつねに、そして無際限に、みずからの按配しうる手段をこえてしまう。こうなると、なにものもその欲望を和らげてはくれまい。やみがたい渇きは、つねにあらたにおそってくる責め苦である。」(302ページ)
「欲望の目ざしている目標は、およそ到達しうるすべての目標のはるか彼方にあるので、なにをもってしても、欲望を和らげることはできないであろう。その熱っぽい想像力が可能であろうと予想しているものにくらべれば、現実に存在するものなどは色あせてみえるのだ。こうして、人は現実から離脱するのであるが、さて、その可能なものが現実化されると、こんどはそれからも離脱してしまう。人は、目新しいもの、未知の快楽、未知の感覚をひたすら追い求めるが、それらをひとたび味わえば、快さも、たちどころにして失せてしまう。そうなると、少々の逆境に突然おそわれても、それに耐えることができない。そして、そのような熱狂がすべて醒めてしまうと、人はその狂奔がいかに不毛なものであったかに気づき、新奇な感覚をいくら積み重ねてみたところで、それが幸福の確固たる元手──それによって人は試練の日々にも耐えることができる──とはなりえないっことをさとる。」…「いつも未来にすべての期待をかけ、未来のみを見つめて生きてきた者は、現在の苦悩の慰めとなるものを、過去になにひとつもっていない。かれにとっては、過去とは、焦燥のなかに通りすぎてきた行程の連続にすぎないからである。かれを盲目にしてしまったのは、ほかならぬ、いまだ出会ったことのない幸福がやがては見つかるであろうとつねに当てにしてきたこと、そのことである。」(316ページ)

「自己本位的自殺においては、社会の存在が欠如しているのはまさしく集合的活動においてであり、したがってその活動には対象と意味が失われている。アノミー的自殺においては、それが欠如しているのはまさしく個人の情念(パッション)においてであり、したがって情念にはそれを規制してくれる歯止めが失われている。」(320ページ)

 自分が生きていくことに意味付けをする根拠としての社会が失われているとき自己本位的自殺を招きやすい。社会による規制が失われて、昂進する欲望と現実とのギャップが耐えがたいほど開いてしまったときアノミー的自殺を招きやすい。個人を社会に組み込んでいく必要があるが、しかしながら、社会による拘束があまりに強すぎると自己実現とのギャップから集団本位的自殺を招きやすくなってしまう。

 個人を社会的連帯へとバランスよく組み込んでいくのがデュルケームの目指すところであるが、従来自明視されてきた国家、宗教社会、家族ではその役割を十分に果たせないと指摘する。個人としての自律性を確保しつつ、相互に協同関係を持つことによって成り立つ職能団体に彼は具体的な可能性を見出している。これについては『社会分業論』で詳しく議論されている(→こちらを参照のこと)。

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