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2009年12月25日 (金)

エミール・デュルケーム『社会分業論』

エミール・デュルケーム(田原音和訳)『社会分業論』(現代社会学大系2、青木書店、1971年)

 社会学の大成者と言うべき一人、エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858~1917)の主著の一つ。他にも井伊玄太郎訳(講談社学術文庫)もあるが、あまり評判が芳しくないので田原音和(おとより)訳を読んだ。以前、あるシンポジウムで教育社会学の本田由紀さんがこの本を推薦図書に挙げていたのがずっと頭の片隅にあって、ふと思い出して手に取った次第。ちなみに、先日取り上げた『贈与論』(→こちら)の著者、マルセル・モースの叔父さんにあたる。

 デュルケームの学説史的な位置付けがどうなっているのかは不勉強にして詳らかにしないが、私自身の問題意識から言うと、個人の自由と社会的秩序とをトレードオフで考えるのではなく両立させる、そうした構想を示そうとしているところに関心を持ちながら読んだ。彼が着目するのは“分業”である。

「本書をあらわす機縁となった問題は、個人的人格と社会的連帯との関係の問題である。個人がますます自立的となりつつあるのに、いよいよ密接に社会に依存するようになるのは、いったいどうしてであるか。個人は、なぜいよいよ個人的になると同時にますます連帯的になりうるのか。というのは、この二つの動きは矛盾しているようにみえて、実は並行してあいついでいるからである。」「この表面上の二律背反を解決するように思われたのは、分業のたえざる顕著な発展による社会的連帯の変化である。」(37ページ)

 職業上の機能が多様に分化して複雑に絡み合っているのが近代社会の特徴である。一人一人が自分の職業を持つが、そうした分散は単に生産性の向上のみを意図しているのではない。それぞれ自分が専門とする職業を通して自分なりの個性を追求する。他方で、自分ひとりで自足して生きていけるわけではない。他者の専門性と互いに補い合って社会全体が機能していく。こうした分業→相互依存という関係性の中でそれぞれの個性を認め合わざるを得ないからこそ、社会的連帯の道徳感情が基礎付けられているのだとデュルケームは言う。

「われわれはどんなに天分に恵まれていても、つねに何かが欠けているし、われわれのうちでもっともすぐれたものといえども、みずからに不足を感じているものだ。それだからこそ、われわれはみずからにかけている性質を友人のうちに求めるのである。それは、友人との交わりにおいて、われわれがいわば友人の性質にあずかり、それによってみずからの不完全さがいくらかでも補われたと感ずるからである。こうして、友人たちの小さな仲間うちが形成されるが、そこでは各自が自分の性格にあった役割をもち、ほんとうの用役の交換がおこなわれる。すなわち、ある者はかばい、ある者は慰める。助言を与える者があれば、実行に移す者がある。これらの友愛関係を律するものこそ諸機能の分担であり、慣用された表現でいえば、すなわち分業である。」「分業の真の機能は二人あるいは数人のあいだに連帯感を創出することである。」(58ページ)
「分業のもっとも注目すべき効果は、分割された諸機能の効率を高めることではなくて、これらの機能を連帯的にすることである。」「諸機能の連帯がなければ存在しえない社会を可能ならしめることである。」「分業は純粋に経済的な利害の範囲をこえている。なぜなら、分業はそれ固有の社会的・道徳的秩序を確立することにあるからだ。諸個人は分業によってこそ相互に結びあっているのであって、それがなければ孤立するばかりである。彼らは、てんでに発達する代りに、自分たちの努力をもちよる。彼らは連帯的である。しかし、この連帯は、彼らが用役を交換しあう短い時間だけに限られるのではなく、はるかにそれをこえて伸びる。」(62ページ)
「虚弱な個人といえども、現代社会組織の複雑な枠組のうちで役にたつ場をみつけることは可能である。」(261ページ)
「経済学者たちにとっては、分業の本質はより多くの生産ということだ。われわれにとっては、より大なる生産性ということは、分業という現象の必然的な一帰結、ひとつの残響にすぎない。われわれが専門化するのは、より多くを生産するためではない。われわれに用意された新しい生存条件のなかで生きるためである。」(265ページ)
「分業によってこそ、個人が社会にたいする自己の依存状態を再び意識するからであり、分業こそから個人を抑制し服従させる力が生ずるからである。要するに、分業が社会的連帯の卓越した源泉となるのであるから、それと同時に、分業は道徳的秩序の根底ともなるのである。」(384ページ)
「…一定の仕事に専心している人たちは、職業道徳の無数の義務をとおして、共同の連帯感をたえずよびさまされるのである。」(385ページ)

 当時はスペンサーを代表格とする社会進化論が流行していたが、個人をバラバラのアトム的単位と捉え、その自然淘汰の競争によって社会は動いていくという彼らの考え方に対してデュルケームは批判的である。競争は活力を生み出すから決して否定はできないが、ただし互いに同じ社会に属している相互承認が前提である。蹴落としあう生存競争では、分業による利益も連帯感も根底から崩されてしまう。こうした考え方に対するデュルケームの態度は、現代における新自由主義批判とも二重写しになってくるし、リバタリアニズム・コミュニタリアニズム論争に引き付けるならおそらくコミュニタリアニズムに分類されるかもしれない。

(自然淘汰の競争に対して)「…ところが、分業は対立させると同時に結合させる。それは、みずからが分化させた諸活動を収斂させ、ひき離したものを接近させる。競争がこの接近を決定してきたわけではないから、この接近はあらかじめ存在していたはずである。たがいに闘争に参加している諸個人はすでに連帯的であり、またその連帯を感じとっていなければならぬ。すなわち同一の社会に属していなければならないのだ。だからこそ、この連帯感が弱すぎて、分散させようとするあの競争の影響力に対抗できぬばあいには、競争は分業とはまったく別の効果を生みだすのである。」(265ページ)

「集合生活は個人生活から生まれるのではない。反対に、個人生活が集合生活から生まれるのである。こうした条件においてのみ、社会的諸単位のそれぞれ独自の個性が、どうして社会を解体しなくても形成されえ、成長しえたかを説明できるのである。このばあい、個性は既存の社会環境のまっただなかでこそ彫琢されるのだから、それは必然的にこの社会環境の特徴を帯びる。すなわち、この個性は、それと連帯するこの集合的秩序を破壊しないような仕方でつくり上げられるのである。個性はこの秩序から自由でありながら、いぜんとしてこれに順応する。個性には反社会的なものが何ひとつとしてない。それは社会の産物だからである。それは、自己に自足し、諸他のいっさいがなくとも過ごしうる、あの単子(モナド)の絶対的な人間的個性ではない。一定した機能をもつ一器官としての、あるいは器官の一部としての個性であり、それも有機体の爾余の部分から切り離されれば、死滅の危険をおかさざるをえない。こうした諸条件のもとにおいては、協同がたんに可能になるのみでなく、必然的になる。」(269ページ)

 社会なり文明なりがまずあって、その枠内で効率性を目指して分業が生じたのではない。逆に、まず人々が分業を行なうようになって、その結果として社会なり文明なりという枠組みが形成されてきた。

「文明は、分業の反響にすぎない。分業の存在も、その進歩も、文明によっては説明しえない。文明は、それ自体が、内在的価値、絶対的価値をもっていないからであり、逆に、分業それ自体が必然的であるかぎりにおいてしかその存在理由がないからである。」(326ページ)

 分業が機能不全となっているとき、人々は規範を失った孤独感、すなわちアノミーに陥る。分業の機能回復を目的として問題の所在を明らかにしようと努めるところにデュルケームは社会学の役割を見出している。

「そして、どのばあいにおいても、分業が連帯を生じていないとすれば、それは、諸器官の関係が規制されていないからであり、それらの関係が、まさしくアノミーの状態にあるからである。」(355ページ)
「必要なことは、この無規制状態(アノミー)をとめることであり、まだバラバラのままの動きのなかでぶつかりあっているあの諸器官を調和的に協同させる手段を発見することであり、悪の根源であるあの外在的不平等をいよいよ減少させることによって、諸器官の諸関係のうちにより多くの正義を導入すること、これである。」(391ページ)

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