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2009年12月 4日 (金)

ヴェブレン『有閑階級の理論』

ソースティン・ヴェブレン(高哲男訳)『有閑階級の理論』(ちくま学芸文庫、1998年)

 ソースティン・ヴェブレン(Thorstein Veblen、1859~1929年)は十九世紀末から二十世紀初頭にかけて消費文化を謳歌し始めたアメリカ社会を観察した経済学者。この本は裏面から人間存在を捉えた、考えようによっては実にひねくれた経済思想というだけでなく、一種の文明批評としても面白いので、何度か読み返している。

・「制度の進化に関する経済学的研究」というサブタイトルがついている。法的なものばかりでなく、慣習やものの考え方というレベルにおいて、その社会に生きる人間の行動パターンを規定している一連の枠組みを「制度」(institutions)と表現している。「制度とは、実質的にいえば、個人や社会の特定の関係や特定の機能に関する広く行きわたった思考習慣なのである」(214ページ)。
・需要→供給という因果関係に還元して経済活動を捉えるのではなく、こうした「制度」に内在するロジックに沿って人々が振舞っている活動として経済を把握する(この延長線上にいわゆる制度派経済学がある)。社会システムのあり方は時代によって違うようにも見えるが、そこに通底する「制度」の基本パターンには意外と古代からの思考習慣が残存しているとヴェブレンは言う。「人間が手引きにしつつ生きてゆく制度──すなわち思考習慣──というものは、先立つ時代、つまりかなり遠い昔からこうして引き継いできたものだが、いずれにしてもそれは、過去の間に精緻化され、過去から受け継いだものなのである。制度は過去のプロセスの産物であり、過去の環境に適応したものであり、それゆえ、決して現在が要求しているものに完全に一致することはない。」人間の生きる環境は日々変化→適応の繰り返しで、「制度」が現在に追いつくことはない。「発展の第一歩が踏み出されたとき、この第一歩それ自体が、新しい適応を要求する状況の変化を引き起こす。それは、いつ果てるともなく続く適応への、新しい一歩を踏み出すための出発点となる」(215ページ)。
・具体的には、野蛮時代の名残としての「略奪的文化」を指摘。支配する強者と服従する弱者という関係である。勤労は受動的、英雄的行為は自分自身の目的を追求するものという対比(23ページ)は、ハンナ・アレント『人間の条件』で見出された古代ギリシアのポリスにおける奴隷と自由人との対比を思わせる。
・時代が進み、具体的な暴力行為が影を潜めても、この「略奪的文化」の思考習慣は人々の頭の中に残っており、支配する強者は自らの優越を何らかのシンボルによって弱者に対して誇示しようとする。戦争ではなく経済活動が競争の手段となった近代社会において、優越性のシンボルは富の蓄積によって示されるようになった。
・有閑階級→生産活動はしない→彼らのために奉仕する被支配者がいることの証し。「閑暇」とは怠け者を指すのではなく、自ら体を動かすという意味での生産活動には携わらないこと。職業的には、例えば、経営や金融など、それから学者。学問や礼儀作法→その習得のために時間を費やせるだけの余裕があることは有閑階級であることの証し。
・顕示的消費→散財することで自らの富の大きさ、すなわち優越的なステータスを誇示する。入手の容易なものは「その消費は名誉に価するものではない。というのも、それは、他の消費者との好都合な競争心にもとづく比較という目的に役立たないからである」(181ページ)。「浪費」といっても無駄遣いという意味ではない。極端な例としてはポトラッチ。あるいは、ブランド品。「顕示的消費」が組み込まれた「制度」のロジックに沿っている点では合理的目的のある消費であり、社会通念として当初は「浪費」とみなされても、いつしか一般消費者の間で生活必需品とみなされるケースは珍しくない。
・自分が他者を凌駕していることを誇示する。他者をもっと嫉妬させること自体に満足を見出そうとしている。従って、欠乏を満たすために行われるわけではないのだから、経済活動に固定的なゴールなど存在しない。

「社会の富の全般的な増加は、それがどれほど広く、平等に、あるいは「公平に」分配されようと、この欲求の満足に近づくことはできない。というのもそれは、財の蓄積においては他の誰にも負けたくない、という万人がもつ欲望に起因しているからである。しばしば想定されているように、蓄積誘因が生活の糧や肉体的快適さの欠乏であるとすれば、社会の経済的な必需品総量は、おそらく産業能率が向上したどこかの辞典で満たされる、と考えることもできよう。だがこの闘いは、実質的に妬みを起こさせるような比較にもとづく名声を求めようとする競争(レース)であるから、確定的な到達点への接近などありえないのである。」(43ページ)

 有閑階級=上層階級が示す生活様式や文化様式は社会全体の理想的規範となる。下層階級は、同様の消費行動をすることで同等者を出し抜き、自らも上昇しようと動機付けられる。

「現代的な文明社会では、社会階級相互間の区分線は不明瞭で流動的なものになっている。こうして、このようなことが生じるところではどこであれ、上流階級によって課せられた名声の規範がもつ強制的な影響力は、ほとんど妨げられることなく社会秩序の最下層にまで及ぶことになる。その結果、おのおのの階層に属する人々は、彼らよりも一段上の階層で流行している生活図式こそ自己の理想的な礼儀作法(ディーセンシー)だと認識した上で、生活をこの理想に引き上げるために全精力を傾注する、ということが生じる。失敗したら面子と自尊心が傷つくという痛手を被ることになるから、少なくとも外見だけでも、社会的に承認された基準に従うほかはないのである。」「高度に組織化されたあらゆる産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的に金銭的な力に依存している。金銭的な力を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇であり財の顕示的消費なのである。」(99ページ)

「通常われわれの努力の道案内を行っている支出の標準とは、平均的なそれではなく、すでに達成されている通常の水準である、ということになる。つまりそれは、わずかに手が届かないところにあるが、努力次第で手が届くところにある、消費の理想なのである。その動機は、競争心(エミュレーション)──われわれが習慣的に同一階層に属していると考えている人々に負けてはならぬと急きたてる、妬みを起こさせるような比較がもつ刺激──である。実質的に同じ命題は、以下のありふれた観察、つまりおのおのの階層は、社会的階梯を一つだけ昇った階層を羨望すると同時に、それと競い合うのであって、下位の階層やとびぬけて上位にある階層と比較することはごく稀だ、という事実のなかに窺われることである。言い換えれば、要するに支出をめぐる礼節の規準は、競争心の目的と同様に、名声の点でわれわれ自身より一等級だけ上位に位置する人々の習慣によって定められている、ということなのである。こうして、とくに階級間の区別がかなり不明瞭になっているような共同社会では、あらゆる名声と世間体の規準、したがってまたあらゆる支出の水準は、社会的にも金銭的にも最高位に位置する階級──豊かな有閑階級──の慣行や施行習慣にまで、無意識のうちに徐々に昇っていくことになる。」(119~120ページ)

・有閑階級を特徴付けるのは「略奪的文化」であるが、他方で、有用で価値あるものを作り無駄を省こうとする心性としての「製作者本能」も作用しており、両者が絡まりあって経済的な競争心が促されているとする。他にも、幸運を求める心性(→ギャンブルという形で発現)、信心深さなども指摘、何よりも生存本能は生物としての最古の習慣だと言ってしまうところが面白い。
・ヴェブレンは「制度」を一元的な原理として捉えるのではなく、過去のそれぞれの時代において形成された複数の心的習慣が時代がかわっても形を変えながら残存している重層的なあり様として解き明かすことに関心を持った。そして、「制度」の内実において各々の心的習慣が互いに変形作用を及ぼしあい、時には古い心性に先祖がえりしたり、そのように絡まりあいながら「制度」のあり方そのものが変化していく様相を「進化」と呼んだ。

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