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2009年12月18日 (金)

マイケル・オークショット『政治における合理主義』

マイケル・オークショット(嶋津格・森村進他訳)『政治における合理主義』(勁草書房、1988年)

 言葉というのは実に難しいもので、表面的にはどんなに正しいように聞こえる主張であっても、理念として整合性をもって定式化されたとき、「確かにそうかもしれないけど、どこか変だ」と理屈とは異なる皮膚感覚レベルで違和感を覚えることがある。正義の理念であればあるほど、生身の感覚を万力でキリキリ締め上げていくような知的暴力。そうした違和感を自覚化することで進歩主義の不自然さを浮き彫りにしていくのが政治思想としての保守主義である。

 “伝統”とか“常識=コモンセンス”とかいうキーワードを出すと色々と誤解もされかねないが、要するに、自分自身の内面を振り返ってみて不自然でなく、しっくりくる感覚に基づいて考えれば、おおむね間違いは回避できる。仮に間違ったとしても、そのことを指摘されたら柔軟に修正できる。そうした積み重ねによって一歩一歩事態を改善していこうという考え方である。不自然に遊離した目的合理的な思考体系では、こうあらねばならないという目的意識=“べき”論が硬直化して修正がきかない。従って、ますます間違いを重ねてしまう。保守主義の要諦は皮膚感覚に根ざした懐疑と試行錯誤にあり、そのエッセンスが結晶した暗黙的な智慧を“伝統”と呼ぶ。

 もう一言付け加えると、自称保守、自称民族派というのも“伝統”なるものを皮膚感覚から切り離して説教くさい理念に硬化させてしまっている点で、いわゆる新自由主義も“自由”なるものを原理原則に硬化させてしまっている点で、いずれも実は他ならぬ進歩主義者と同様の誤謬に陥っていると私には思われる。過去、現在、そして未来にわたって試行錯誤の継続的な渦中にあって理念的なものは常に相対化されていく、そうした意味での歴史的視点から現在の自身の位置を探っていくのがポイントである。

・本書にはイギリス保守主義の政治哲学者マイケル・オークショット(Michael Joseph Oakeshott、1901~1990年)の論文10編が収録されている。表題論文「政治における合理主義」では、“理性”優位の政治思潮としての“合理主義”を次のように捉えて批判する。

(合理主義者は)「あらゆる場合における精神の独立、つまり「理性」の権威を除く他のいかなる権威に対する責務からも自由な思考、を唱導する。」「彼は経験を看過するわけではないが、それが彼自身の経験でなければならないと主張する(そしてすべてを新たに始めるよう求める)ために、また、入り組んだ多様な経験の一群を原理に還元し、」「彼には経験の蓄積という感覚がなく、経験が一つの定式に転換されている場合にそれを受け入れる用意があるに過ぎない。」「彼の知的過程は、可能な限りあらゆる外からの影響から絶縁されて、真空の中で進行するのである。彼の社会の伝統的知から自分を切り離し、分析の技術以上の教育はすべてその価値を否定したことで彼は、人間に対して人生のあらゆる危機についての必然的無経験を帰す傾向があり、」「ほとんど詩的ともいうべき幻想によって、彼は毎日をあたかもそれが彼の最初の日であるかのようにして暮らすことに努め、習慣を形成することは堕落だと信じている。」(2~5ページ)
「合理主義者にとって存在しているというだけでは(そして明らかに何世代にもわたってそれが存在してきたということからは)何物も価値を有しない。親しみに価値はなく、何事も、精査を受けずに存続すべきではないのである。こうしてその性向のため、彼にとっては受容と改革よりも破壊と創造の方が理解し易く携わり易いものとなる。」「そして合理主義者はそれの場所を埋めるために彼の自作のもの──あるイデオロギー、伝統に含まれていた合理的真理の本体とされるものの形式化された要約──を置くのである。」(5ページ)
(合理主義の政治は)「完全性の政治、そして画一性の政治である。」「彼の組立の中には、「その状況の下でもっともましなもの」の一つが占めるべき場所はなく、「最善」のための場所のみがある。」「つまり、状況というものを認めない組立には、多様性のための場所もありえないのである。」(6~7ページ)
「合理主義者は道徳において、相続した無知を捨て去ることから始め、この空の精神の何もない空白を、自分の個人的経験から抽象し人類共通の「理性」によって是認されると彼が信じるあれこれの確実な知によって埋めることをめざす。彼はこれらの原理を議論によって擁護し、それらは(道徳的には貧弱ではあるが)整合的な信条を構成するだろう。しかし彼にとって人生の行態が、がたがた変わる連続性のない事象、ひっきりなしの問題解決、次々起こる危機の克服、となることは避けられない。合理主義者の政治と同じく合理主義者の道徳(これが前者と切り離せないのは当然だが)は、自作の人間の道徳、自作の社会の道徳であり、それは、他の諸民族が「偶像崇拝」と考えたものなのである。」(36ページ)

・オークショットの論文ではしばしば詩人がたとえに取り上げられる。果たして、詩人は、まず心の中に“真なる”感情とか理想とかがあって、それを言葉へ翻訳・写像しているのだろうか?→このように単純化された二元的認識論の誤謬をオークショットは指摘する。言葉に出すという営みそのものが内なるものをそのつど掴んでいこうという努力の繰り返しであり、その意味で詩人の心の動きも語りも振舞いもすべて一体のものである。従って、心の中に秘められた“理念”を翻訳=抽象化するという思考モデルは本来的にあり得ない(「バベルの塔」「人類の会話における詩の言葉」)。

・何か抽象化されたゴールがあって、人間はそこに向かってすすんでいくという考え方→しかし、我々は活動する中でこそ何をなすべきなのか考えつつあるのであって、アプリオリに設定された目的などあり得ない(「合理的行動」)。

・レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』は以前にこちらで取り上げたことがあるが、要するに、人間の情念が「虚栄心」として暴走する可能性→「死の恐怖」が「虚栄心」をくじいて人間を理性に立ち返らせる→他者との共存を図る社会契約、という捉え方をしている。オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」もこうした捉え方をおおむね受け入れつつも、では、この社会契約の最初の履行者は、ひょっとしたら裏切られて馬鹿を見るかもしれない可能性をどうやってクリアしたのか?という論点を提起する。ホッブズの著作から確証が得られるわけではないが、この社会契約の最初の履行者は、自分が馬鹿を見ても構わないと考える「誇り」の人だったのではないか、と問いかける。ちなみに、「虚栄心」も「誇り」も英語ではprideである。

 なお、政治思想としての保守主義の古典、エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』は以前にこちらで取り上げたことがある。

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