オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫、1995年)
学生のときから何度か読み返してきた本。あちこち書き込みがあったり、手垢で茶色くなったり、もうヨレヨレだな。“大衆”と“高貴な者”、“選ばれた者”という対比は時に誤解を招きやすいが、これは現実の社会階級を指すのではなく、一人一人の生き方の問題、精神的な態度の問題であることを前提としておさえておかないと全体の論旨を捉えそこねてしまうので要注意。
・“大衆”と“高貴な者”、“選ばれた者”。
「大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」「選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである。」人間の二つのタイプ→「第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。」(17~18ページ)
「なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。それに対して、努力せずに自分の頭の中に見出しうることを尊重せず、自分以上のもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいとして受け入れる人は、高貴なる人である。」(95ページ)
・大衆は“凡俗”であることを恥じ入るのではなく、“凡俗”であることを正当だと開き直る。ネットという媒体が普及して、誰でもその時の思いつきで無責任に書き散らかすことができるようになって、以下の傾向はますます強まっているな。
「…今日では、大衆は、彼らが喫茶店での話題からえた結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じているのである。わたしは、多数者が今日ほど直接的に支配権をふるうにいたった時代は、歴史上にかつてなかったのではないかと思う。」「…今日の著述家は、自分が長年にわたって研究してきたテーマについて論文を書こうとしてペンをとる時には、そうした問題に一度も関心を持ったことのない凡庸な読者がもしその論文を読むとすれば、それは論文から何かを学ぼうという目的からではなく、実はまったくその逆に、自分がもっている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪せんがために読むのだということを銘記すべきである。」…「今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。」(21~22ページ)
・いまここに厳然としてある自分はどうやっても他の存在にはなれない。どんな壁が立ちはだかったとしても、自分の負っている一切を引き受けた上で(ニーチェ風に言うと「運命愛」か)、ギリギリまで自己を突き放してひたむきにぶつかっていくこと。
「生は自己の世界を選ぶことはできない。生きるということは、一つの特定の交換不可能な世界、つまり現在のこの世界の中に自己を見出すことである。われわれの世界は、われわれの生を構成する宿命の広がりなのである。しかし、この生の宿命は、機械的なそれとは異なったものである。われわれは、軌道があらかじめ完全に決定されている鉄砲玉のように、存在の世界に撃ち出されたのではない。われわれがこの世界──世界はつねにこの世界、現在のこの世界である──に落ち込むことによってはまり込む宿命というものは、まさにその逆である。われわれは一つの軌道を課せられるかわりに、いくつもの軌道を与えられ、したがって、選択することを余儀なくされているのである。われわれの生の状況とは、なんと驚くべき状況であろうか。生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚することである。われわれの決断には、一瞬たりとも休むことが許されていない。したがって、われわれが絶望のあまり、ただなるがままにまかせる時でさえ、われわれは決断しないことを決断したといえるのである。」(65ページ)
「生とは有為転変である。生とは、文字通りドラマなのである。」(110ページ)
「生というものは、われわれがその生の行為を不可避的に自然な行為と感じうる時に初めて真なのである。」「不可避的な場面から成り立っている生以外に、自己の根を持った生、つまり真正な生はない。」(260ページ)
・技術的にも、経済的にも、社会的にも、近代文明はあらゆる可能性を広げた。それを先人が今まで孜々として作り上げてきた努力へは敬意が払われてしかるべきだが、大衆=平均人はそうしたことに何ら顧慮することなく空気のように当然だと思い、その文明の成果を使うにやりたい放題。人は限界にぶつかり、その限界を克服しようという努力の中で自身の何たるかをつかみとっていくものだが、対して凡庸人は、限界を知らないから無責任に気まぐれをやりちらかす。凡庸人の自己充足的な思い上がり→「慢心しきったお坊ちゃん」の時代。
・科学の細分化→科学者は自分の専門分野については詳しいが、他分野には関心がない。それでも自分は学者であるという自意識→自分の知らない分野にも発言しようとする思い上がり。「今日、かつてないほど多くの「学者」がいるにもかかわらず、たとえば一七五〇年ごろよりもはるかに「教養人」が少ない。」(161ページ)
(※科学の細分化→全体を見渡す智慧がない→現代の核開発や環境問題などのように科学技術の成果としてもたらされた不安定性、という論点へと進めれば、ウルリヒ・ベックやアンソニー・ギデンズたちのリスク社会論にもつながる)
・オルテガなりの「生の哲学」的観点から「国民国家」を把握。所与の条件で拘束された共同体ではなく、目標があるからこそ集まった人々による協働事業。エルネスト・ルナンの表現を援用すれば、それは未来へ向けた日々の人民投票である。
「国家というものは、出生を異にするもろもろの集団が共存を強制される時に初めて生まれるものである。この強制は、むき出しの暴力ではなく、ばらばらの集団に提示された一つの共通の課題、一つの督促的な計画を前提としたものである。国家とは何よりもまず一つの行為の計画であり、協同作業のプログラムなのである。人々が呼び集められるのは、一緒に何かをなさんがためである。国家とは、血縁関係でもなければ、言語的統一体でも領土的統一体でもなく、住居の隣接関係でもない。国家とは、物質的で、生気のない、所与の、限定されたものとはおよそ正反対のものである。それはダイナミズムそのもの──共同で何かをなそうとする意志──であり、ゆえに国家という観念は、いかなる物理的条件の制約ももっていないのである。」「国家は一つの事物ではなく、運動である。国家は、つねに…から来て…へ向かって行くものである。国家はすべての運動がそうであるように、起点(terminus a quo)と目標(terminus ad quem)をもっている。」(233ページ)
「共通の血、言語および過去は静的で、宿命的で、硬化した無気力な原理であり、牢獄である。もし国民国家がそれらのみに存するとすれば、国民国家とはわれわれの背後にあるものであって、われわれとしてはなすべきことは何もないだろう。つまり、国民国家とはかくあるものであって、かく形成するものではなくなってしまうだろう。」「人間の生は、望むと望まざるとにかかわらず、つねに未来の何かに従事しているのである。われわれは今の瞬間にありながらそこから来るべき瞬間に気を配るのである。だからこそ、生きるということは、つねに休むことも憩うこともない行為である。なぜ人々は、あらゆる行為は、一つの未来の実現であることに気づかなかったのだろうか。」(247ページ)
「国民国家はけっして完結することはない」。「国民国家はつねに形成の途上にあるか、あるいは崩壊の途上にあるかのいずれかであり、第三の可能性は与えられていない」。「その国家がその時々において生き生きとした企てを象徴するか否かによって、支持を獲得しゆくかあるいは支持を失っていくかのいずれかなのである。」(251~252ページ)
(※思いっきり蛇足になるが、『坂の上の雲』の時代というのはこんな感じだったんだろうな)
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