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2009年12月27日 (日)

ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的考察』

ヤーコプ・ブルクハルト(新井靖一訳)『世界史的考察』(ちくま学芸文庫、2009年)

 国家・宗教・文化、それぞれの潜在力が三つ巴になったせめぎ合いとして古代から近代(すなわち、ブルクハルトにとっては現代)に至る歴史を巨視的に俯瞰したヨーロッパ文明論である。ある種の価値観を前提として、その立場から歴史を裁断していくような読み込みを一切排して(具体的にはヘーゲル歴史哲学が念頭に置かれている)、歴史が進み行くあるがままを、それこそ他人事として突き放して見つめていこうとする眼差しに迫力がある。基本的な態度をこう述べている。

「…われわれは一切の体系的なものを断念する。われわれは「世界史的理念」を求めるのではなく、知覚されたもので足れりとするのであり、また、歴史を横切る横断面を示すが、それもできるだけ沢山の方角からそれを示そうとする。なによりもわれわれは歴史哲学を講じようとするものではない。」「歴史哲学は半人半馬(ケンタウロス)の怪物であり、形容の矛盾である。というのも、歴史とはすなわち、事柄を同格に論じることであって、これは非哲学であり、哲学とはすなわち、一概念の他概念への従属化であって、これは非歴史であるから。」「…だがわれわれは、永遠の知恵が目指している目的については明かされていないので、それが何であるかを知らない。世界計画のこの大胆きわまる予見は、間違った前提から出発しているので、誤謬に帰着することになる。」「だが総じて、年代順に配列された歴史哲学すべての有する危険は、こうした歴史哲学がうまくいった場合でも変性して世界文化史になってしまう点にあるが(このような濫用されている意味でなら歴史哲学という表現を認めてもよい)、通常はしかし、歴史哲学は世界計画を追求すると言いたてながら、あの前提を排する力がないために、哲学者たちが三歳もしくは四歳の年齢以後吸収してきたもろもろの観念に着色されている点にある。」「歴史哲学者たちは過去の事柄を、発展をとげた存在としてのわれわれに相対するもの、われわれの前段階と見なす。──われわれは反復して起こるもの、恒常的なもの、類型的なものをわれわれの心の中で共鳴し、かつ理解しうるものと考える。」(12~16ページ)

 事実そのものをして語らしめる、という厳格な実証主義を取ったレオポルド・フォン・ランケがブルクハルトの師匠であり、その流れを受け継いでいるのだろうが、だからと言って歴史的事実なるものを無味乾燥に並べるような筆致ではない。歴史的事実の背後に伏在する国家・宗教・文化といったファクターが、それぞれ自律的な生命力を持ったダイナミズムとして世界史的事象を変動させていく、そうした動きそのものを描き出そうとしている。例えば、キリスト教(=宗教)がローマ帝国(=国家)を乗っ取り、帝国の滅亡後も生き残ったが、その性格は大きく変質していたり。啓蒙思想(=文化)に淵源する政治思潮が国家をゆるがし、当事者の思惑を超えてフランス革命として大爆発したり(「革命こそ人間に自由ということを教えたのだ!」「革命はそれどころか自身も自由だと思っていたが、この自由は、例えば山火事のように、根元自然的で、意のままにならないものであった」313ページ)。価値観的な是非、善い・悪いを一切排したところで見えてくる動きそのものへの視点は、何となくニーチェも思い浮かべた。バーゼル大学の年下の同僚としての彼と親交があったことからの連想に過ぎないにしても、以下のように人間的事象を徹底的に突き放して認識を志す凄みを考えると、ニーチェがブルクハルトを尊敬したというのも確かにうなずける気もする。

「「現代」はしばらくのあいだは進歩と同義に解されていた、これには、精神の完成化はもとより、道義心の完成化にさえ向かっているかのようなきわめて滑稽な思いあがりが結びついていた。」(438ページ)
「…一切の事柄は、われわれも含めて、ただそれ自身のためにのみ存在しているのではなく、むしろ過去全体のために、また未来全体のために存在しているのである。」「このような広大かつ厳然たる全体を前にしては、諸民族、諸時代、そして個人の求める永続的な、もしくはほんの束の間の幸福や無事息災への要求は、ごく些細なものでしかないことになる。というのも、人類の生存活動というものは一つの渾然たる全体であるから、このような全体の時間的な、また局所的な動揺は、われわれの脆弱な器官にとってのみの浮沈であり、幸と不幸であるにすぎないのであり、じつはこうした動揺や幸不幸はより高次の必然性に属しているのである。」(444ページ)
「もしわれわれが自分たちの個性を完全に放棄することができ、また、これからやってくる時代の歴史を、ちょうど自然の光景、例えば陸地から海上の暴風雨の光景をわれわれがみんなで一緒に眺めているときと同じくらいの平静な気持ちで、同時にまた不安な気持ちで省察するなどということができるとするならば、われわれはおそらく精神の歴史の最大の章の一つを意識的に身をもって知ることになるであろう。」(462ページ)
「このような時代において、こうしたすべての現象のうえに漂いつつ、しかもこうしたすべての現象と密接にからみ合いつつ、新しい住処を建ててゆく人類の精神の跡を認識しながら追い求めるのは、すばらしい観物であろう、もっとも同時代の、世俗的性向の人間にとってはそうではないであろうが。」(463ページ)。

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コメント

 ブルクハルトとニーチェとの思想關係を論じた書に、カール・レーヴィット『ヤーコプ・ブルクハルト 歴史のなかの人間』(みすず書房・1977/西尾幹二・瀧内槇雄譯〈ちくま学芸文庫〉1994.8)があって、特に『世界史的考察』を縱横に用ゐてゐるのでご興味おありかと存じます。『世界史的考察』が戰間期ドイツで評判だったことは『ユンガー=シュミット往復書簡』(法政大学出版局・2005)で賞讚されてゐる所からも窺はれ、たしかカール・シュミットはその當時出たレーヴィットの原著にも言及してゐたやうな……。個人的には文獻學への關心から、斎藤忍随「フィロローグ・ニーチェ――ニーチェ・コントラ・ブルックハルト」(『幾度もソクラテスの名を I』みすず書房・1986.11)を面白く讀みました。 

投稿: 森 洋介 | 2009年12月27日 (日) 08時51分

森様
ご教示ありがとうございました。非常に勉強になります。レーヴィットの『ヤーコプ・ブルクハルト』は読みたかったのですが、現在版元品切れ中で、古本も結構良い値段がついており、買おうかどうしようか躊躇しているところでした。こういう本は図書館で借りるよりも、手もとに置いて読みたいものでして。

投稿: トゥルバドゥール | 2009年12月27日 (日) 10時19分

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