フランク・ナイト『競争の倫理』
フランク・ナイト(高哲男・黒木亮訳)『競争の倫理──フランク・ナイト論文選』(ミネルヴァ書房、2009年)
フランク・ナイト(Frank Hyneman Knight、1885~1972年)の名前を初めて知ったのは竹森俊平『1997年──世界を変えた金融危機』(朝日新書、2007年)だった。予想の出来ない領域が存在することへの認識こそが実は経済学の一番大切なところだ、と彼は考えていたのを知って頭の片隅にひっかかっていた。アメリカ経済学史ではそれなりのビッグネームらしいが、日本でまとまった論文集として翻訳されたのは本書『競争の倫理』(ただし再編集されている)が最初のようだ。自由経済の擁護が基本的な立場だが、それを複眼的に検討していくところにナイトの議論の特徴があると訳者は解説している。ミルトン・フリードマンはナイトの弟子にあたるそうだが、考え方は全く対照的である。
“自由”の前提条件をめぐっての議論に私は関心を持った。「自由放任」モデルは経済分析にあたって役に立つ。しかし、そこから導き出された結論をそのまま安易に現実へ適用しようとするのは大きな誤謬であるとナイトは言う(「自由放任という基本原則は、経済分析にとっては正しいことであるが、その目的や仮定されている条件は明確にされる必要がある」243ページ)。市場経済を一つのゲームと見立てたとき、次の条件がそろっていなければならない。すなわち、①個人は自分をめぐる利害関係を知り尽くしており、詐欺や脅迫なども含め他者による強制はないこと。②完全競争が成立していかなる独占もないこと。③ある取引が行われたとして、そこに利害が代弁されていない他者に実質的な影響を及ぼすことがないこと。しかしながら、実際には個人それぞれの置かれた具体的な立場の違いによってこうした取引上の理想状態(「理論力学における摩擦の捨象」)が実現されているわけではない。「ビジネスの能力はある程度まで相続財産であり、したがって社会制度は、親から個人的に譲り受けたこの有利な立場に加え、教育を受ける利点やゲームに参加するための優先的な条件、さらには賞金を前払するという利益さえ追加している、と思うより他にないのである」(34ページ)。
経済活動において“自由”を考える場合、倫理的な意味合いにおける人間の本来的な尊厳としての“自由”と、功利主義的な観点から計量化可能な状態として描写された“自由”と二つの側面がある。ところが、経済学が科学として洗練されるに従い後者が前者をも吸収しようとして、人間を取り巻く社会の現実からずれてしまっているところに問題点を見出す(それをナイトは不合理なロマン主義だと言う)。
「近代自由主義思想における自由は一つの倫理的価値であり、功利主義文献の皮相な解釈からしばしば示唆されるような経済効率という目的のための単なる手段ではない。」(158ページ)
「経済的自由主義は、個人的自由を核として取り巻き、人々の関心や活動の全領域やあらゆる社会関係に適用可能でもあるような価値体系の一部、つまり一側面にすぎないことを強調しておかなければならない。…「自由放任主義」という言葉が実際に意味するのは単なる自由であって、その表現が経済生活、つまりその呼称によって通常思い浮かべられる事柄を指すようになったのは、歴史的でしかもかなり偶然的な理由による。」(181ページ)
「数理経済学者は何よりもまず数学者であって、経済学は二の次であることが通例であり、データを簡略化しすぎ、社会の現実と彼らが置いた前提との間にある違いを過小評価する傾向があった。結果的に彼らは、応用経済学者が理解できるような形で、すなわち現実問題との関係がはっきりと分かる形で成果をうまく説明することができなかった。」「理論上の個人主義を成り立たせる前提を明確かつ系統的に論じていく作業は、それと現実の自由放任との間の著しい違いを際立たせ、政策としての自由放任主義の信用を失墜させることになろう。」(12~13ページ)
あらゆる個人が尊厳としての自由を手にしていることが大前提である。しかし、「自由放任」政策が想定している理想状態があまりに抽象的で生身の社会と整合性を持っていない以上、市場経済には必ずほころびが生ずる。従って、「競争」の前提条件における矛盾点に手を加えて市場を有効に機能させるために何らかの手段が必要とされる。「それゆえ、国や他の代理機関が最大の自由という原則を侵すことなく、むしろその実現のために介入する必要がある」(137ページ)。「現代世界における統治の主要な機能は、自由を保障するためのルールの枠組みと、経済生活における効果的な自由にとって不可欠な条件とを提供し、施行することである」(140ページ)。
「問題は、自由放任 対 政治的計画や統制一般にあるのではなく、市場の自由がもたらす成果と民主的な手続きを経た実現性のある活動がもたらす成果とを、特定の課題についてそれぞれ比較することである。国民は、この二つの制度機構(システム)に関する一般的な原理を理解する必要があるとはいえ、それぞれの抽象的な分析から、実践的な結論を引き出してはならない。基本になる原理は人間本性をめぐる事実なのであり、主たる困難は、これが矛盾の塊だということにある。」「人間は自由であるし、自由でなければならない。しかし、この主張でさえ「非の打ち所がない」真理に仕立て上げられてはならないのだ。」(248~249ページ)
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