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2009年11月 2日 (月)

カルスタとかポスコロとか

 カルスタとかポスコロとか、あまり関心を払ってこなかったのでちょっとお勉強。

上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)
・登場の背景:バーミンガム大学現代文化研究センター。1980年代、労働者階級にとって不利なのにもかかわらずサッチャリズムへの支持。旧来型左翼の啓蒙的議論が有効性を失っていた→サッチャリズムによる政治的再編成に期待。むしろ、社会的に疎外されていた若者たちの怒りはレゲエやパンクロックに代弁されているとして支持された。
・大学においてディシプリンの自明視→知的生産の権力性→これを疑う。しかし、「黒人研究」「フェミニズム」「クィア・スタディーズ」といった学部を創設しても、アカデミズム内のゲットー化にすぎない。「カルチュラル・スタディーズとは「汚い」世界の問題をアカデミズムという「清潔な」空間に持ち込むこと」(スチュアート・ホール)
・コード化‐脱コード化:コードを受け止める側の階級・性別等の属性に応じて異なり、一方通行ではない→「読み」の多様性→均質的に想定された「大衆」など存在しない。
・サブカルチャー:高級文化でも大衆文化でもない、しかしそうなることもあり得る曖昧な文化領域→この動的かつ不安定なあり方に注意を払う。本質主義的な定義はなじまない。
・人種主義:対抗言説化すると、裏返しの人種主義として共犯関係に陥る危険。例えば、ムスリムの伝統を守るための分離教育は極右からも支持されてしまう。
・ポストコロニアリズム:知的構造の非対称性→権力性という観点でカルチュラル・スタディーズと共通。抑圧への抵抗だけでなく、政治性に注目するあまりにその文化の中にある「喜び」「楽しみ」といった自発的・自律的な側面を過小評価しないよう留意すべき。
・カルチュラル・スタディーズの制度が進む→既存のディシプリンと同種の一領域になりさがってしまうのではないか? マイノリティ・差別・貧困・暴力といった、もともとアクチュアルな関心からアカデミズムの動向とは関係なく取り組まれていたテーマが、一見ラディカルに見えても、アカデミズム内部だけで流通する知的商品になりさがっていないか?
・カルチュラル・スタディーズは、「わかりやすく」説明することではなく、日常生活の中で直面する不条理の「わからなさ」のありかをはっきりさせること。

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)
・歴史(正史)や文学(正典)の見直し、その中でオミットされてきた記憶をどのように聞き取るかという問題意識。
・他所を一方的に野蛮化して否定する論理→その生成の具体例として「食人種」。
・フランツ・ファノン。
・エドワード・サイード。
・ガヤトリ・スピヴァク:戦略的本質主義(「弱者」という性質をいったん「本質」と認めることで抵抗の糸口とする。その「本質」を共有することで他者と連帯)。「知る」者自身の特権性を自覚→「学び捨てる」。(※G・C・スピヴァク[上村忠男訳]『サバルタンは語ることができるか』[みすず書房、1998年]は去年読んだのを思い出した→こちら

ロバート・J・C・ヤング(本橋哲也訳)『1冊でわかる ポストコロニアリズム』(岩波書店、2005年)
・様々な国や地域の様々な具体例やテーマをパッチワークしながら、ポストコロニアリズムの大枠としてのイメージを浮かび上がらせていく構成。
・「理論」を打ち出してしまうと、それによってまた別の問題が新たに排除・生成してしまう。多様な営みをいかにそれぞれに適切なやり方で把握していくかというところにポストコロニアリズムの問題意識があるわけで、そうした性格に合った叙述方法をとっている点でなかなか良い本だと思う。

※「理論」(=上から目線)で裁断される以前の、いまここで具体的に生きられている生身の問題を把握→解決につなげていこうという姿勢はまっとうなのに、これが日本のアカデミズムを通して提示されると「よそよそしい」のは一体どうしてだろう? そのあたりの違和感の一つは李建志『朝鮮近代文学とナショナリズム──「抵抗のナショナリズム」批判』(作品社、2007年)、『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房、2008年)で吐露されており、興味深く読んだ(→こちら)。

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