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2009年11月26日 (木)

岩井克人『貨幣論』

岩井克人『貨幣論』(ちくま学芸文庫、1998年)

 何となく思い立って再読。貨幣とは何か? 実体的な根拠のない自己言及的な循環論法で成立している、そもそも本質のない貨幣がここに存在して作用していること自体が「神秘」だ──こうした着眼点がものすごく刺激的で、私は経済学の議論は苦手だが、それでも食い入るように読んだ覚えがある。経済学というレベルを超えた根源的な探求なので、専門外の人間が読んでも実に新鮮だった。

・物々交換では困難な「売り・買い」という欲求の二重の一致は貨幣によって可能→商品経済の可能性を飛躍的に拡大。
・“貨幣”は他のすべての商品に交換可能性を与えると同時に、他のすべての商品から交換可能性が与えられることによって“貨幣”は成り立っているという両義性→外部に根拠を求める必要のない自己完結的・宙吊り的な循環論法の結節点として“貨幣”は位置する。
・貨幣商品説も貨幣法制説も、実体的な根拠を外部に求めようと発想している点で同様に神話に過ぎない。
・モノの代わりとしての金、地のままの金の代わりとしての金貨、金貨の代わりとしての紙幣、と繰り返すうちに、「代わり」自体が「本物の貨幣」になってしまう奇跡。これによって無から“貨幣”という有が生まれた。

「貨幣が貨幣として流通しているのは、それが貨幣として流通しているからでしかない。」「このような無限の循環論法によって支えられている貨幣とは、それゆえ、その存在のためにはなんらの実体的な根拠も必要としていない。それは、モノとモノとの直接的な交換の可能性を支配するひとびとの主観的な欲望の構造や、ひとつのモノを貨幣として指名する共同体や君主や市民や国家の権威には還元しえない、「何か」なのである。」「貨幣が「ない」ことと「ある」こととのあいだには乗り越え難い断絶が横たわっている。そして、その断絶が現実において乗り越えられたとしたら、それは「歴史の偶然」、いや「歴史の事実性」としかいいようのない無根拠な出来事であり、まさにひとつの「奇跡」にほかならない。」「モノとしての商品をいくらせんさくしても、そのなかに神秘はかくされていない。商品と商品との関係としての商品世界のあり方をいくらせんさくしても、そこにはせいぜい物神化や共同幻想といったありふれた神秘しか見いだすことはできない。もし商品世界に「神秘」があるとしたら、それは商品世界が「ある」ということである。それは、もちろん、その商品世界を商品世界として成立させる貨幣が「ある」ということの「神秘」である。」「ところで、「奇跡」はすでにおこってしまっている。われわれはいま貨幣が「ある」世界のなかに生きている。」(104~107ページ)

・貨幣の流動性→不確実な将来に備えてすぐには商品をかわずに貨幣を貯めておこうとする→売りと買いとの間に時間差、総供給と総需要とが独立した動きを示し得る→貨幣そのものへの欲望が喚起されると、「見えざる手」による均衡が働かず、むしろ暴走しかねない不安定性。

「貨幣が今まで貨幣として使われてきたという事実によって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣がじっさいに今ここで貨幣として使われる。過去をとりあえずの根拠にして無限の未来へむけての期待がつくられ、その無限の未来へむけての期待によって現在なるものが現実として可能になるのである。貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである。すなわち、無限の未来まで貨幣は貨幣であるというひとびとの期待を媒介として、今まで貨幣であった貨幣が日々あらたに貨幣となるのである。」(200~201ページ)

・貨幣そのものに具体的な有用性はない。有用なものと引き換えられるという可能性を担保しているから他の人も引き受けてくれる、つまり無を有として取引されている。ひょっとしたら貨幣を引き受けてもらえない可能性があっても、今まで貨幣が使われてきたという事実を踏まえ、無限の未来へと先送り。しかし、引換に期限が区切られたら(「最後の審判」の日!)、貨幣は何の役にも立たないことが露呈してしまう。無限の未来への期待が貨幣としての価値を支えている。この期待がなくなったとき、貨幣を成り立たせていた循環論法が破綻し、ハイパー・インフレーションに見舞われる。

「貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に「共同体」的な存在である。」
「貨幣共同体とは、伝統的な慣習や情念的な一体感にもとづいているのでもなければ、目的合理的にむすばれた契約にもとづいているのでもない。貨幣共同体を貨幣共同体として成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っているという事実のみなのである。」
「貨幣で商品を買うということは、じぶんの欲しいモノをいま手にもっている人間が貨幣共同体にとっての「異邦人」ではなかったということを、そのたびごとに実証する行為にほかならない。いささか大げさにいえば、それは貨幣を貨幣としてあらしめ、貨幣共同体を貨幣共同体として成立させた歴史の始原のあの「奇跡」を、日常的な時間軸のうえでくりかえすことなのである。」(210~217ページ)

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