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2009年11月

2009年11月30日 (月)

司馬遼太郎『坂の上の雲』のこと

 NHKのドラマ「坂の上の雲 第1回 少年の国」をみた。実はあまり期待はしていなかったのだが、映像作りにはかなり力が入っているし、久石譲の音楽も映画のような盛り上がりがあるし、なかなか悪くないと思う。

 ただ、ちょっと気になっているのは、確か司馬遼太郎は『坂の上の雲』は映像化しないようにと言い残していたのではなかったか(私の勘違いか?)。文章ならば細かな説明ができるのに対して、映画やドラマはどうしてもストーリーを切り詰めざるを得ない。そうした単純化が下手するとナショナリズムや軍国主義の礼讃に陥ってしまう可能性を司馬は危惧していたように思う。まだプロローグ程度で本筋はこれからだろうから(断続的に2011年までやるらしい)しばらく様子見のつもりでいる。

 親の本棚に司馬遼太郎の作品がほぼ揃っていたので、司馬の主だった作品は小学生から高校生にかけての頃にあらかた読んだ。日本史について、とりわけ戦国~安土桃山時代と幕末・維新期の知識の基礎は司馬作品を通して得たと言っても過言ではないくらいだ。中でも好きだったのが『坂の上の雲』で、初めて読んだのは中学生の頃だったが、その後も何度か読み返した。明治における日本の近代化の過程をこれだけのスケールで多彩な人物群像の織り成すドラマとして描き出した小説作品は他になかなか類書が見当たらない(幕末なら大仏次郎『天皇の世紀』が思い浮かぶのだが)。細かい話になるが、健全なナショナリズムがあり得る一例として陸羯南の名前を知ったのもこの作品だった。

 司馬史観なる言葉を時折聞く。「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が始まったのは、私が高校から大学にあがるくらいの頃だった。藤岡信勝が、「従来の歴史観は自虐史観である、自由主義史観とは近代日本が行なった侵略戦争の悪いところは認めると同時に、良かったところもきちんと評価する、その意味で『坂の上の雲』の司馬史観だ」という趣旨の発言をしていた。他方で、当時は仲間だった西尾幹二が「良いも悪いも一切をひっくるめて日本人だ、ここまでは良かった、ここからは悪かったと線を引く発想はおかしい」とも発言していた。「つくる会」分裂の芽はこの頃からすでに萌していた(その後は全くフォローしていないので、最近どうなっているのかは知らない)。西尾の普段の政治的主張への是非はともかく、この点に関してはいかにもニーチェ学者らしいと私は西尾に好感を持っている。

 司馬が『坂の上の雲』を書いた動機が、徴兵されて戦車隊に配属され、戦争の不条理を感じたことにあったことはよく知られている。昭和の戦争の無謀さ、政治・軍事の指導者の浅はかさと対比する形で、明治国家において近代化を追い求めた人々の慎重な政治判断、とりわけ日清・日露戦争における戦争法規遵守の態度に見られるような生真面目さ(西欧の眼差しを意識して“文明国”として振舞おうという意図があったからにしても)を強調する形になっている。そこには、司馬自身の戦争の空気を肌身に感じたという意味での私的な体験、こうすべきだったのにという悔しさまじりの願望も込められているわけで、それを後世の後知恵で“史観”という枠組みで表面的に整理してしまうことにはちょっと違和感がある。この違和感がうまく表現できなくてもどかしいのだが。

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2009年11月29日 (日)

「NHKスペシャル チャイナ・パワー第二回 巨龍 アフリカを駆ける」

「NHKスペシャル チャイナ・パワー第二回 巨龍 アフリカを駆ける」

 中国の積極的なアフリカ進出。欧米企業も撤退したエチオピアの奥地にまで携帯電話の通信インフラ整備に入り込む中国企業・中興通訊(ZTE)の技術者たち。中国政府のバックアップで民間企業の活動。エチオピア政府は中国の国家開発銀行から融資を受ける→ZTEが受注という構図なのか。

 中国の経済発展により、資源供給不足→国際市場にも大きな影響を与えている。例えば、銅。中国はザンビアと取引。資金繰りの悪化したオーストラリア企業の採掘工場を買収。

 最近、アフリカ問題では白戸圭一『ルポ 資源大陸アフリカ──暴力が結ぶ貧困と繁栄』(東洋経済新報社、2009年→こちら)、松本仁一『アフリカ・レポート──壊れる国、生きる人々』(岩波新書、2008年)などを読んだが、いずれも中国の進出には目をみはっていた。例えば、事実上国家崩壊の状態にあるソマリアにすら中国人技術者が入り込んでいることが白戸書に記されていた。他方で、現地の人々の間に中国人への反感も強まっているというのも気にかかるところだ。

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「ロシアの夢1917─1937 革命から生活へ──ロシア・アヴァンギャルドのデザイン」展

「ロシアの夢1917─1937 革命から生活へ──ロシア・アヴァンギャルドのデザイン」展

 政治イデオロギーとしての共産主義はどうでもいいが、ロシア革命というイベントとロシア・アヴァンギャルド芸術との関わりには興味がある。既存のものをリセットして、純粋なもの、一切のしがらみを断ち切ったそれ自体で自律的な美を打ち立てよう、そうした夢と情熱が革命という政治的エネルギーと結び付き、1917年を頂点として爆発した。ただし、芸術的情熱は飽くことなく夢を追い求めるのに対して、政治は一たび権力の転回に成功するや安定化に向けて再び秩序形成を図る。夢はその下で従属するよう求められ、窒息し始める。マヤコフスキーは自殺し、メイエルホリドは銃殺され、生き残ったショスタコーヴィチはその華々しい活躍の一方で本心はどこにあったのかが謎としていまだに議論の対象になっている。

 「ロシアの夢」展は革命初期の二十年間、地上に花開いたロシア・アヴァンギャルドについての展覧会である。未来派、構成主義、スプレマティズム、無対象絵画とか言っても抽象的でなかなか分かりづらいが、これらの芸術上のコンセプトが建築、食器・家具・衣服など日用品のデザイン、ブックデザイン、ポスターなど日常の身の回りにおいて具現化されたものに焦点を合わせているのがこの展覧会の面白いところだ。

 未来派的な建築空間の再現イメージは実に格好良い。クドリン「第三インターナショナル記念塔」が風景映像にCG合成で再現されていた。鉄骨が複雑に螺旋型を成す400メートルの鉄塔の中の居住ブロックが一年で一回転するというもの。当時の技術レベルを超えていて、結局、実現不可能だったらしい。こういう無謀な建築は好きだな。ただし、夢先行、理念先行で現実から遊離している点では政治理念としての共産主義と同様だったとも言える。実用性がないという意味では、ロトチェンコがデザインした読書用のイスも座り心地が悪い。見た目はスッキリしていて格好良いのだが。

 日常生活の中へ芸術理念を融合させることで新しい生活のヴィジョンを示そう、言い換えると、一部知識人の占有物として遊離した芸術作品というのではなく民衆の全生活レベルで革命=夢を成し遂げようという意図があった。革命=夢をどのように解釈するかはともかく、この点で芸術家と政治権力との間には同床異夢の同盟関係が成立していた。さらに言うと、芸術家の視点というのは、自身の抱くイメージを表現するためあらゆる素材の動員を図る。それは、動員される側にとっては押し付けがましさともなり得るわけで、そうした意味で実は独裁者と同じ側面がある。生活=芸術を目指した世界は、そこから超越した視点(つまり、作る側としての芸術家や独裁者と同じ視点)に立って外から眺める分にはとても面白いのだが、この中で暮らしたいという気持ちにはなれない。

 ポスターやブックデザインに見られる、幾何学的なフォルムで構成されたイメージや独特なタイポグラフィーは好き。エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」のポスターは有名だ。ちなみに、これはもともと無声映画だが、後にショスタコーヴィチの交響曲をつぎはぎして音楽を付けたバージョンのビデオが会場で流されていた。どうでもいいが、私はショスタコが昔から好きで、どのメロディーは交響曲第何番の第何楽章だ、と全部言い当てられる(ああ、オタクだ)。例えば、オデッサの階段で群集が逃げまどうシーンは交響曲第11番「1905年」第二楽章。さらに蛇足だが、このシーンの乳母車が転がって緊張感を出す仕掛けはケヴィン・コスナー主演の「アンタッチャブル」でも援用されていた。

 ロシア・アヴァンギャルド関係で最近観に行った展覧会としては、「無声時代ソビエト映画ポスター展」(東京国立近代美術館フィルムセンター)と「青春のロシア・アヴァンギャルド」展(Bunkamuraザ・ミュージアム)について以前に触れたことがある。

(埼玉県立近代美術館にて、2009年12月6日まで)

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2009年11月28日 (土)

「イングロリアス・バスターズ」

「イングロリアス・バスターズ」

 戦局も押しつまった1944年、ナチス占領下にあったフランス。ユダヤ人狩りから逃れて復讐を胸に秘めた少女は、身分を隠して小さな映画館を経営している。そこでナチスの国策映画のプレミア上映会が開催されることになり、しかもヒトラーが直々に出席するという。一方、連合軍から送り込まれた特殊部隊、殺したドイツ兵の頭皮を剥ぐことで悪名を轟かせていた彼らも、プレミア上映会に合わせて作戦を発動。捨て身の復讐戦が始まる。

 広い意味では“ナチスもの”映画と言えるのかもしれないが、むしろナチスを題材としてタランティーノお得意のスプラッター・アクションが展開される。敵も味方もとにかくどんどん死んでいくな。史実なんて思いっきりひっくり返しちゃうし。ナチスのユダヤ人虐殺という“絶対悪”について世界的なコンセンサスが出来ているだけでなく、そもそも第三帝国の戯画的な政治空間は現実離れしているから、ナチを殺しまくってもインモラルな感じはしないということか。

 キャスティングのトップにあがるのはブラッド・ピットだけど、やはり主役はユダヤ人少女役のメラニー・ロランだろう。おどけた感じでありつつも実は語学に堪能で意外に切れ者というSS将校ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)にはヒールとしてストーリーを盛り上げる存在感がある。言語や身振りで正体を見破るやり取りには興味を持った。頭が疲れていて何も考えたくないときに観る分にはなかなか面白かった。

【データ】
原題:Inglourious Basterds
監督・脚本:クエンティン・タランティーノ
2009年/アメリカ/152分
(2009年11月28日、新宿ミラノにて)

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「つむじ風食堂の夜」

「つむじ風食堂の夜」

 いまにも雪が降りそうな、寒風吹きすさぶ月舟町の夜。十字路脇にたたずむ石造りの洋館、どうやら食堂らしいのだが、そこに吸い込まれるように“私”が入っていくと、起立した男性がちょうど一演説はじめたところだった。お題は、「二重空間移動装置」なる万歩計について。食事をしながら合いの手を入れる常連客──やたらと弁の立つ帽子屋さん、主役がとれず苛立っている舞台女優、口の悪い古本屋のオヤジ、読書好きな果物屋の青年。あちこちから吹いてきた風が、くるりとひとつのつむじ風になる。この店の名前は“つむじ風食堂”。

 安食堂の割には洒落た店構え、ノスタルジーをかき立てられる古びたコーヒースタンド、“私”の暮らす天井が高くて素っ気ない一室で灯る石油ストーヴ、路面電車がゆっくりと走る街並(函館でロケをしたらしい)。日本なのかヨーロッパなのかよく分からないレトロな感じの舞台設定が、どこか浮世離れした登場人物の会話をそっと包み込んでいる。ストーリーがどうこうという以前に、この空気感そのものが私は好きだな。

 帰りがけ、原作の吉田篤弘『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫、2005年)を買って読んだ。原作小説自体が映像化しやすそうな描写でつづられているにしても、その味わいは映画のレトロな感じの舞台設定によってより活かされている。吉田篤弘って誰だろう?と思っていたら、クラフト・エヴィング商會の片方の人だ。もちろんブックデザインでは有名だが、小説を書いていたとは不覚にも知らなかった。

【データ】
監督:篠原哲雄
原作:吉田篤弘
出演:八嶋智人、生瀬勝久、月舟さらら、下條アトム、田中要次、芹澤興人、スネオヘアー、他
2009年/84分
(2009年11月27日、渋谷・ユーロスペースにて)

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2009年11月27日 (金)

菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業──「壮大な拉致」か「追放」か』

菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業──「壮大な拉致」か「追放」か』(中公新書、2009年)

 北朝鮮問題にはある種の “情緒的”な主張が絡まりやすく難しいテーマであるが、本書は1959~1984年まで続けられた在日朝鮮人の帰国事業について資料に基づいて事実関係を整理する構成となっているので安心して読み進められる。

 プッシュ要因とプル要因から説明される。前者としては日本での差別待遇や貧困、日本政府の「厄介払い願望」など、後者としては北朝鮮側の政治的思惑による「地上の楽園」という宣伝(日本のマスコミによる好意的な報道も後押し)、朝鮮労働党の意を受けた朝鮮総連による積極的な勧誘活動などが挙げられ、プッシュ・プル両方の要因が合わさって帰国願望が高められた。帰国者の大半は38度線より南の出身だが、韓国の政治的混乱が知られる一方で北朝鮮については肯定的な情報しか伝わってこなかったこと、朝鮮総連の熱心さに比べて韓国政府の対応は冷たかったことも背景にある。

 北朝鮮の虚像と実態との乖離は帰国者を絶望に陥れた。北朝鮮国内の生活水準からすれば比較的優遇もされたらしいが、「地上の楽園」という宣伝を真に受けて来た人々からすれば、この落差はどうにもならない。身なりの良い彼らは現地の人々からは嫉妬され、さらには差別の対象になる。不満を漏らせば当局の監視対象となり、場合によってはスパイ容疑もかけられる。日本での差別から逃れて来たにもかかわらず、再び抑圧される立場に落とされてしまった悲運には何とも言葉がない。

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2009年11月26日 (木)

岩井克人『貨幣論』

岩井克人『貨幣論』(ちくま学芸文庫、1998年)

 何となく思い立って再読。貨幣とは何か? 実体的な根拠のない自己言及的な循環論法で成立している、そもそも本質のない貨幣がここに存在して作用していること自体が「神秘」だ──こうした着眼点がものすごく刺激的で、私は経済学の議論は苦手だが、それでも食い入るように読んだ覚えがある。経済学というレベルを超えた根源的な探求なので、専門外の人間が読んでも実に新鮮だった。

・物々交換では困難な「売り・買い」という欲求の二重の一致は貨幣によって可能→商品経済の可能性を飛躍的に拡大。
・“貨幣”は他のすべての商品に交換可能性を与えると同時に、他のすべての商品から交換可能性が与えられることによって“貨幣”は成り立っているという両義性→外部に根拠を求める必要のない自己完結的・宙吊り的な循環論法の結節点として“貨幣”は位置する。
・貨幣商品説も貨幣法制説も、実体的な根拠を外部に求めようと発想している点で同様に神話に過ぎない。
・モノの代わりとしての金、地のままの金の代わりとしての金貨、金貨の代わりとしての紙幣、と繰り返すうちに、「代わり」自体が「本物の貨幣」になってしまう奇跡。これによって無から“貨幣”という有が生まれた。

「貨幣が貨幣として流通しているのは、それが貨幣として流通しているからでしかない。」「このような無限の循環論法によって支えられている貨幣とは、それゆえ、その存在のためにはなんらの実体的な根拠も必要としていない。それは、モノとモノとの直接的な交換の可能性を支配するひとびとの主観的な欲望の構造や、ひとつのモノを貨幣として指名する共同体や君主や市民や国家の権威には還元しえない、「何か」なのである。」「貨幣が「ない」ことと「ある」こととのあいだには乗り越え難い断絶が横たわっている。そして、その断絶が現実において乗り越えられたとしたら、それは「歴史の偶然」、いや「歴史の事実性」としかいいようのない無根拠な出来事であり、まさにひとつの「奇跡」にほかならない。」「モノとしての商品をいくらせんさくしても、そのなかに神秘はかくされていない。商品と商品との関係としての商品世界のあり方をいくらせんさくしても、そこにはせいぜい物神化や共同幻想といったありふれた神秘しか見いだすことはできない。もし商品世界に「神秘」があるとしたら、それは商品世界が「ある」ということである。それは、もちろん、その商品世界を商品世界として成立させる貨幣が「ある」ということの「神秘」である。」「ところで、「奇跡」はすでにおこってしまっている。われわれはいま貨幣が「ある」世界のなかに生きている。」(104~107ページ)

・貨幣の流動性→不確実な将来に備えてすぐには商品をかわずに貨幣を貯めておこうとする→売りと買いとの間に時間差、総供給と総需要とが独立した動きを示し得る→貨幣そのものへの欲望が喚起されると、「見えざる手」による均衡が働かず、むしろ暴走しかねない不安定性。

「貨幣が今まで貨幣として使われてきたという事実によって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣がじっさいに今ここで貨幣として使われる。過去をとりあえずの根拠にして無限の未来へむけての期待がつくられ、その無限の未来へむけての期待によって現在なるものが現実として可能になるのである。貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである。すなわち、無限の未来まで貨幣は貨幣であるというひとびとの期待を媒介として、今まで貨幣であった貨幣が日々あらたに貨幣となるのである。」(200~201ページ)

・貨幣そのものに具体的な有用性はない。有用なものと引き換えられるという可能性を担保しているから他の人も引き受けてくれる、つまり無を有として取引されている。ひょっとしたら貨幣を引き受けてもらえない可能性があっても、今まで貨幣が使われてきたという事実を踏まえ、無限の未来へと先送り。しかし、引換に期限が区切られたら(「最後の審判」の日!)、貨幣は何の役にも立たないことが露呈してしまう。無限の未来への期待が貨幣としての価値を支えている。この期待がなくなったとき、貨幣を成り立たせていた循環論法が破綻し、ハイパー・インフレーションに見舞われる。

「貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に「共同体」的な存在である。」
「貨幣共同体とは、伝統的な慣習や情念的な一体感にもとづいているのでもなければ、目的合理的にむすばれた契約にもとづいているのでもない。貨幣共同体を貨幣共同体として成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っているという事実のみなのである。」
「貨幣で商品を買うということは、じぶんの欲しいモノをいま手にもっている人間が貨幣共同体にとっての「異邦人」ではなかったということを、そのたびごとに実証する行為にほかならない。いささか大げさにいえば、それは貨幣を貨幣としてあらしめ、貨幣共同体を貨幣共同体として成立させた歴史の始原のあの「奇跡」を、日常的な時間軸のうえでくりかえすことなのである。」(210~217ページ)

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2009年11月25日 (水)

『ジンメル・コレクション』

北川東子・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫、1999年)

 ゲオルグ・ジンメル(Georg Simmel、1858~1918年)の大著『貨幣の哲学』はややこしそうなので、とりあえず本書所収の「近代文化における貨幣」を読んだ。

 土地の共同体に人格的に結び付けられた現物経済中心の時代→“貨幣”という無機的な媒介項の登場、貨幣価値への換算可能性によって所有と所有者とが分離、経済の非人格化が押し進められることでそうした共同体は解体され、各々の個人としての自覚が促された。“個の自覚”は“近代”なる時代を特徴付ける条件の一つと言えよう。ただし、貨幣は人と人とのつながりを分断しただけでなく、貨幣価値換算という形を通した行動様式の均一化によって分業の可能性が開かれ、 “貨幣”の媒介によってこそ独立した個人が再び結び付けられる。

「近代文化の諸潮流は一見相反する二つの方向へと流れこんだ。ひとつは、平均化へ、均一化へ、もっとも離れたものをも同一条件のもとに結び合わせ、より包括的な社会圏を生み出す方向へと。もうひとつは、もっとも個性的なるものの形成へ、個の独立性へ、個我形成の自立をめざす方向へと。」「そしてこの二つの方向がともに貨幣経済によって支えられた。貨幣経済は、一方では、あらゆるところで同一の作用を及ぼすきわめて普遍的な利害と結合手段と了解手段を提供したが、他方では、おのおのの人格に、より大きな外界からの距離と個人志向と、自由を与えた。」(「近代文化における貨幣」271~272ページ)

 一人ひとりの人間は、たとえて言うならばそれぞれが自己完結した小宇宙を成している。個としての絶対的な自律性を主張する。しかし、それぞれが異質なものとして互いに排斥しあうだけではない。絶対的な個として自らの小宇宙を維持しつつも、他の小宇宙との緊張関係をもひっくるめてより大きなまとまりを成している。ジンメルにとって“貨幣”とは単に社会経済的現象というだけでなく、このようなまとまり形成の媒介項としての視点そのものを表わしていると言える。

 こうした“貨幣”をめぐる含意と同様のことをジンメルは“橋”に仮託して次のように表現している。

「外界の事物の形象は、私たちには両義性を帯びて見える。つまり自然界では、すべてのものがたがいに結合しているとも、また分離しているとも見なしうるということだ。」…「自然の事物があるがままに存在しているなかから、私たちがある二つのものを取り出し、それらを「たがいに分離した」ものと見なすとしよう。じつはそのとき、すでに私たちは両者を意識のなかで結びつけ、両者のあいだに介在しているものから両者をともに浮き立たせる、という操作を行っているのだ。」…「川の両岸がたんに離れているだけではなく、「分離されている」と感じるのは私たちに特有のことだ。もし私たちが、私たちの目的思考や必要性や空想力のなかで両岸をあらかじめ結びつけていなかったとしたら、この分離概念はそもそも意味をもたないだろう。」…「橋がひとつの審美的な価値を帯びるのは、分離したものをたんに現実の実用目的のために結合するだけではなく、そうした結合を直接視覚化しているからだ。現実の世界では身体を支えるために提供している足がかりを、橋は目にたいしても風景の両側を結ぶために提供している。」(「橋と扉」90~93ページ)

 それぞれに絶対的な自律性を主張して一見したところ他とは相容れないようにも思える事象がこの世界に満ちている。しかしながら、そのような緊張関係も、視点を組み替えてみればもっと大きなまとまりが見えてくるという着眼点がジンメルのエッセイの面白いところだ。

 例えば、肖像画。モデルと、それを描いた絵画作品とは全く別個の存在である。目鼻立ちの造作や色合いが正確に写し取られているかどうかが問題なのではない。描かれた肖像画において、それ自体の世界の中では形や色はこうあらざるを得ないという必然性が感じられる。モデルと、それを描いた肖像画という関係性はあっても、後者が前者に従属しているというのではなく、両者ともに自律的な存在感を持っている。そうした緊張関係に触発されて鑑賞者が統一的な把握をしようとしたときに生き生きとした迫力を感じ取る(「肖像画の美学」)。

 あるいは、俳優の演技。台本の役柄と演じる俳優とはそれぞれ別の存在であるが、俳優が自分の個性を発揮して、それが役柄と響き合ったとき、観客に感動を与える演技となる。「文学的想像力のなかで作られ、実在の人間には少しも依存しない連関によってつなぎ合わされた理念的で無時間的な演劇上の事件は、完全に自律的な系であり、また構成だ。しかし他方の俳優が演じる事件の系もまた、その見かけの本質やその視覚性においてやはり同じく自律的であり、ひとつの魂の発展過程をなす。この両者が内容において一致すること──これこそ、その本質においてたがいに対立するそれぞれに自律的な二つの原理の調和にほかならない。それはまた、たがいに異質な存在と力の系が一体化する幸福感を生み出す。こうした一体感は、自然のなりゆきによっては実現できず、ただ芸術によってのみ可能なものだ」(「俳優の哲学」165ページ)。

「芸術作品には、それ自身ひとつの全体でありながら、同時に自分をとりまく環境とのあいだで統一的全体を作り上げなければならない、という本来矛盾した要求が課せられている。ここには、あの人生一般の難しさ、すなわち全体の一要素たる存在が同時に自律した全体たることを要求するという、あの難しさと同じものが見てとれる。」(「額縁──ひとつの美学的試み」123~124ページ)

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2009年11月23日 (月)

「副王家の一族」

「副王家の一族」

 十九世紀半ばのシチリア王国。イタリア統一運動の盛り上がりは人々を沸き立たせており、シチリアにもガリバルディ率いる赤シャツ隊が上陸した。日本でたとえれば、幕末・維新に相当する激動期であったと言えるだろう。時期的に同じというだけでなく、分裂状態にある国家の統一と政治的近代化が連動していたという意味でも。

 シチリアにおけるスペイン・ブルボン朝の副王であった名門貴族ウゼダ家の面々。時代情勢の変転の中でも封建的思考から抜けられない父とその束縛から逃れようとする息子の葛藤。こうしたストーリー上のコンセプトの点でも、時代背景という点でも、ルキノ・ヴィスコンティ「山猫」を髣髴とさせる。実際、「副王家の一族」の原作小説は「山猫」にも影響を与えたらしい。

 「山猫」でバート・ランカスター演じる父の、自分たち貴族が滅び行く宿命をはっきりと自覚しつつも毅然と胸を張って向き合う、そうした黄昏の美学が私には印象的だった。「副王家の一族」ではむしろ肉親同士の憎しみや遺産相続をめぐる思惑といった醜態がさらけ出され、死を前にして迷信にとりつかれて悪あがきをする父の姿は対照的である。

 “進歩”の信奉者となっていた息子だが、ウゼダ家を継承することになって考える。“貴族”を“貴族”たらしめるのは何か。父は“憎悪”こそが人を育てると考えていた。対して、息子の答えは“権力”。彼は王党派ではなく、左翼の支持を得て選挙に打って出る。

【データ】
原題:I vecerè
監督・脚本:ロベルト・ファエンツァ
原作:フェデリコ・ロベルト『副王たち』(1894年)
2007年/イタリア/122分
(2009年11月23日、渋谷Bunkamuraル・シネマにて)

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「ロートレック・コネクション」展

「ロートレック・コネクション」展

 渋谷のBunkamuraまで映画を観に行き、上映まで時間があったので寄った。ロートレック・“コレクション”かと思っていたら、“コネクション”だった。ロートレックの作品がもちろん中心ではあるが、彼に影響を与えた師匠や友人、モンマルトルに集った同時代の画家たちなどの作品を並べて展示。ロートレックの生涯を軸にして世紀末パリの歓楽街の雰囲気をうかがわせる試み。

 今までロートレックの絵を意識して観ることはあまりなかったが、筆致が軽やかでありつつも、どこか歪んでいたり、皮肉っぽかったり、そうしたところには目が引かれる。ロートレック本人の写真を見たのは初めてだった。身体的なコンプレックスが画風に反映されているのだろうか。

 展示の最後はアルフォンス・ミュシャでしめくくられていた。アール・ヌーボーのポスター画といえばミュシャが定番。ミュシャの絵は好きで、以前にこちらで取り上げたことがある。

(渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム、2009年12月23日まで)

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陳桂棣・春桃『中国農民調査』『発禁『中国農民調査』抹殺裁判』、阿古智子『貧者を喰らう国──中国格差社会からの警告』、廖亦武『中国低層訪談録―インタビューどん底の世界』

 昨日、NHKで「チャイナパワー 第一回 “電影革命”の衝撃」をやっていた。中国語圏人口は巨大なだけにマーケティング合戦は熾烈だ。中国の対外的な存在感を示し、国内的には民心を統一するという趣旨から政府もソフトパワー戦略としてテコ入れしているらしいが、言論の自由が保障されていないにもかかわらずソフトパワーといってもどんなものだろう。番組でも、映画製作上のタブーがまだ大きいから大陸には行かないと語る香港の映画監督も登場していた。

 それはともかく、本題へ。

 陳桂棣・春桃(納村公子・椙田雅美訳)『中国農民調査』(文藝春秋、2005年)は、安徽省でおこった農民たちの集団直訴(上訪・信訪)事件についての取材を通して、中国の農村問題を浮き彫りにしようとしたルポルタージュ作品である。

 中国では都市戸籍と農村戸籍の二元戸籍制が行なわれており、後者から前者への移動は困難である。建国当初は食糧供給確保という目的があったが、労働力を必要とする都市部へ農村出身者が多数流入している現在、彼らの身分は非合法であるため社会保障がない。

 同時に問題なのは、地方における政府・共産党幹部による恣意的な支配がまかり通っている状況である。法的な規定のない負担を無理強いされ、異論を唱えると「態度費」なる罰金が科せられたり、官員を動員して暴力的な圧迫が加えられたりする。農民戸籍に縛られているため逃げるのは難しいし、北京に直訴すれば実態のばれるのを恐れる地方幹部による残忍な報復が待っている。本書も党の地方幹部によるリンチ殺人事件から説き起こされている。問題があっても役人同士でかばい合って隠されてしまう。

 地方幹部は体裁を取り繕った報告のみ中央に上げるため、中央の現状認識が実態から乖離していると指摘される。地方の事情を熟知しているのは地方自身であるという意味で地方自治が大原則であるのはもちろんであるにしても、地方の指導者が恣意的な権力を振るっている場合、それを中央はどのように監督するのか。民意集約の選挙がなされていないばかりでなく、地方・中央の関係不全という問題がうかがえる。また、農業の合理化・近代化という問題も示されている。

 『中国農民調査』が発表されるやいなや、中国国内では大反響を呼び起こした。同様の問題意識を抱えている人々が全国にいるからである。しかし、実名を出された党の地方幹部は著者や出版社を名誉毀損で告訴、さらに本書自体も発禁処分を受けてしまう。陳桂棣・春桃(納村公子・椙田雅美訳)『発禁『中国農民調査』抹殺裁判』(朝日新聞出版、2009年)はその経緯や法廷闘争の記録を通して、中国におけるマスメディアへの圧迫、とりわけ権力者の恫喝によって司法が捻じ曲げられてしまっている実態を描き出している。

 証拠提出の段階から圧倒的に不利。裁判長は原告(党幹部)側に有利な法廷指揮を進める。その裁判長自身も『中国農民調査』を読んで著者たちに内心では同情的だったようだが、行政と司法との権力分立がなされていない体制下において権力機構の末端に連なる者としてはどうにもならない。結局、さらに上のレベルからの圧力で出版社が著者たちには内緒で賠償金を支払ってしまったらしい。政府・党の役人たち自身が法のあり方を理解していないため、いくら法に基づいた異議申し立てを行なっても全く通用しない。建前で何と言おうとも、“法治”の大原則が不在であることが本書を通して告発される。他方で、こうした状況を憂える人々からの励ましの手紙が全国から集まっていることにも注目すべきだろう。

 経済成長著しいが、その中でも格差社会の矛盾が深刻化する中国。阿古智子『貧者を喰らう国──中国格差社会からの警告』(新潮社、2009年)はフィールドワークによって著者自身の目で過酷な現実に直面している人々の焦りや、時には絶望感をもみつめていく。第一章のエイズ村の事例、HIVに感染した女性が周囲から疎外され、陳情しても政府からはねつけられ、犯罪者として捕まってしまった話など本当に悲惨だ。

 戸籍制度のゆがみは農民工のよるべなさや地方・都市の学歴格差などのしわ寄せを生み出しており、これは格差再生産につながりかねない。都市に流入した農民工は言語的・人間関係的にも適応できず、社会保障もない。故郷の農村にいれば親戚や近隣住民との相互扶助も期待できたのかもしれないが、市場経済化によって社会機能が変化する中、農村においても自己中心的な「公徳心のない個人」が目立ちようになってきたという。市場原理による効率化が推奨されても、その前提としての公平なルールが政府によって保証されず、作業分担に必要な信頼がコミュニティーから失われてしまっているという問題が指摘される。

 廖亦武(劉燕子訳)『中国低層訪談録―インタビューどん底の世界』(集広舎、2008年)の著者は詩人。天安門事件後に投獄された経験がある。獄中で出会った和尚から習った蕭を吹いて生計を立てながら、社会的に疎外された人々を訪れ、聞き取った話がまとめられている。刊行後、中国では発禁となったらしい。会話の調子にリズムがあって、ルポルタージュというよりも、むしろダイアローグ形式の戯曲といった印象を持った。ざっくばらんな口調でしかめっつらしい硬さはなく、読んでいて会話の流れに自然に入っていける。

 不良少年に売春婦、老右派に老紅衛兵、没落した企業家に法輪功やチベットの巡礼者、とにかく多種多様な背景を抱えた人々。残酷な運命にうちひしがれた人もいれば、あっけらかんとした売春婦のように猥雑さの中からたくましさすら感じさせる人もいる。北京に直訴に来た農民からは三農問題を聞いている。第Ⅲ部「変転する社会を生きぬいて」は中国現代史の聞き書きとして興味深い。

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2009年11月20日 (金)

アレクサンドラ・ハーニー『中国貧困絶望工場』、レスリー・T・チャン『ファクトリー・ガールズ』

 アレクサンドラ・ハーニー(漆嶋稔訳)『中国貧困絶望工場──「世界の工場」のカラクリ』(日経BP社、2008年)の原題は“The China Price”。中国製品の低価格による競争力は世界経済の中で大きな存在感を示す一方、健康被害や環境問題なども引き起こしていることは周知の通り。経済成長を最優先させる中国自身が払わざるを得なくなっている代償は何かを取材したノンフィクションである。低コスト→安い労働力→苛酷な労働環境という因果関係は邦題からもうかがえるだろう。

 中国の工場は、取引先の外国企業から労働条件等の社会規範遵守を迫られてはいる。しかし、そのまま守ろうとすると、高コスト→競争力は落ちる。だから、双方とも見て見ぬふり。高コスト→価格に反映→それでも海外の消費者は買ってくれるのか? 生活に余裕のある人ならともかく、低価格商品を求めるのは低所得層である。それに、低コストのしわ寄せが国内のことであれば世論の喚起もしやすいが、国境の外である中国のことはなかなか目に見えない。労働問題に取り組む弁護士や待遇改善を進める工場経営者の努力には何とか希望をつなげられそうでも、行く手はなかなか難しそうだ。目先のコスト計算をもとに法の抜け穴をかいくぐろうとする動きが必ず出る。劣悪な労働環境→生産効率の低下や社会不安の増大→長期的には市場にとっても不利、という考え方が中国社会全体のコンセンサスとして定着するかどうかがカギか。

 どんなに苛酷な工場労働であっても、“新しい何か”を都市に求める農村の貧しい若者たちを引き付けてやまない。『中国貧困絶望工場』でも工場から不動産業に転職してチャンスをつかんだ少女の話が出てくるが、たとえ稀ではあってもそうした実例があればこそなおさらだろう。

 Leslie T. Chang, Factory Girls: From Village to City in a Changing China (Spiegel & Grau, 2009)の著者は中国系アメリカ人の女性ジャーナリスト。香港と広州の間に位置する新興工業都市・東莞に住み込み、この地の工場で働く少女たちに密着インタビューしたノンフィクションである。現代中国版「女工哀史」のようなつもりで読み始めたのだが、むしろ不利な条件の中でもポジティヴに生きようとする姿が描かれる。とりわけ二人の女性に的が絞られ、一人からは日記を読ませてもらい、もう一人には春節の里帰りにまで同行している。

 男性に比べて従順で扱いやすいという理由で工場労働の7~8割ほどは女性で占められているという。過去を置き忘れたように目まぐるしく変わり続ける都市部、故郷から離れてツテもない中、頼れるのは自分だけ。成功するにはチャンスをつかめ! 貪欲に、時には失意にうちひしがれて疲れた表情を見せながら、追い立てられるように慌しい彼女たち。スキルをみがき、もっと広い世界を見たいという思いは英語学習熱に表われる。あるいは、マルチ商法に自己啓発セミナー、それから出会い系サイトで結婚相手を探したり。

 里帰りすれば、都市と農村との落差が明らかになる。彼女たちは、家族に会えるのは嬉しくても、退屈な故郷に戻ることなどもはやできない。『中国貧困絶望工場』でも指摘されていたが、出稼ぎ第一世代が生活のため仕方なく都市に出てきたのに対し、現在の第二世代はむしろ自己実現志向が強い。別世界に行ってしまった娘とそれに戸惑う親とのギャップを目の当たりにしながら、著者も自身のルーツに思い当たる。著者の祖父はアメリカ留学経験のある技術者であったが国共内戦の混乱で殺されてしまい、台湾に逃れた祖母は子供たちをアメリカ留学に送り出した。つまり、故郷を離れて新しい生活を築き上げようとした人たちであったという点でイメージを重ね合わせる。他方で、現代史の流れの中で祖父母の世代と比べると、現代のファクトリー・ガールズの個人主義志向の強さも際立つ。良い悪いは別として。

 仕事や人間関係に悩む女の子たちの普段の表情がこまやかに観察されているのが本書の魅力だが、著者がこれまで避けてきた自身のルーツ探しのエピソードも絡められ、そこを通して中国現代史の一端も描かれる。意外と奥行きのある作品で、なかなか読み応えはあった。

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2009年11月18日 (水)

まど・みちお百歳

 詩人・童謡作家のまど・みちおさんが今月、百歳の誕生日を迎えたそうな。ピンと来ない人もいるかもしれないけど、「ぞーうさん、ぞーうさん、おーはながながいのね」とか「いっちねんせーいになったーらー~ともだちひゃくにんできるかな」とかの人ね。今でも作品をつくり続けているらしい。「ぞうさん」の作曲が團伊玖磨というのは初めて知った。

 まどさんは1909年、山口県生まれ。親の転勤で台湾に渡ってこちらで育ち、学校卒業後も台湾総督府に勤務。学生の頃から同人誌に詩を発表していたが、西川満たちが1939年に立ち上げた『文藝台湾』(刊行は翌年1月)に参加。同人名簿に本名の石田道雄で記載があるのを見たことがある。このことはwikipediaにも記述がないので取りあえずメモしとく次第。

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2009年11月17日 (火)

蒋介石関連で5冊

 野村浩一『蒋介石と毛沢東──世界戦争のなかの革命』(岩波書店、1997年)は、地域割拠や国共対立といった国内の分裂、日本からの軍事的圧迫などの危機に直面した1920~40年代の政治状況について蒋介石・毛沢東の二人(前者に重きが置かれている)を主軸に描く。最終的に国民党が共産党に敗れたのはなぜなのかというテーマは中国現代史の大きな論争点の一つである。蒋介石の南京国民政府は、三民主義に基づいて中国の近代化を目指しつつも、統治体制の再編にあたって旧来的な政治文化をひきずっていたため、抗日戦争の中でそのほころびが表面化した。対して共産党は農民世界における郷村秩序の再編成を通して支持を集めたとされる。

 家近亮子『蒋介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002年)は、従来主流であった共産党中心の歴史解釈の中で国民党の位置付けが閑却されてきたという問題意識をもとに南京国民政府(台湾移転まで)をめぐる政治過程を分析する。地域割拠や国民党内の路線対立などで蒋介石の権力基盤は必ずしも強固ではなかったが、近代国家建設を担う政権としての正当性を内外に示すことを目指していた。国民党敗退の原因として、党の権力組織が国の末端まで行き渡っていなかった点を挙げる。孫文が示した軍政→訓政→憲政という政治プログラムは抽象的で、現実の政治状況は想定されていない。後継者が三民主義の解釈件を確立できなかったため情勢の変転に対応できなかった。各地の指導者が独自に三民主義を解釈して中央の方針と矛盾を来すことも生じた。上掲野村書では蒋介石政権の特徴として恩顧主義が挙げられていた。本書ではその恩顧主義が蒋介石への忠誠を強いるだけの片務的なものであり、国民党は中国国内の社会的資源を独占できず、従ってその配分ができなかったことが弱点になったとされる。他方で、南京国民政府期において国家建設に必要な基礎用件(とりわけ、人的資源の動員や対外的地位の確立)はすでに用意されており、中華人民共和国はこれらを引き継いだという意味で政治的継続性があると指摘される。

 パターナリスティックな訓政から国民主権の憲政へと移行するには、それにふさわしい近代的な国民を創出しなければならない。蒋介石は1934~49年まで新生活運動を発動した。段瑞聡『蒋介石と新生活運動』(慶應義塾大学出版会、2006年)はこの新生活運動に着目して蒋介石の政治理念や政治構造を分析する。思想的には、①儒教(→中国の伝統重視)、②ファシズム(→大衆動員)、③キリスト教(→欧米へのアピール)、④日本留学体験を通して武士道への関心(清潔と規律を重視。日本の武士道はそもそも中国の陽明学に起源があると認識→三民主義の儒教的解釈に影響)といった特徴が指摘される。新生活運動を大衆レベルで展開することで蒋介石のリーダーシップによる国家建設と現代的戦争形態に対応できる国家総動員を目指していたが、必ずしも成功したわけではなかった。蒋介石自身の直接的号令で行なわれたことは一見すると独裁者的だが、これを裏返すと、国民党組織を通じた指令が国の末端まで浸透していなかった、その意味で彼の権力基盤が国レベルでも党レベルでも弱かったことが浮き彫りにされる。

 大陸ではリーダーシップを確立できなかった蒋介石だが、国共内戦に敗北後、皮肉なことに撤退先の台湾で強固な独裁体制を確立する。松田康博『台湾における一党独裁体制の成立』(慶應義塾大学出版会、2006年)は、豊富な史料を活用しながら複雑に錯綜する政治力学を丹念に解きほぐし、国民党の権力機構が台湾で確立されていく過程を詳細に描き出している。国民党の中央集権化を阻んでいた最大の要因は軍事力を持って割拠する地方派閥の存在だったが、これらの軍隊は台湾に逃げ込んだ時点で縮小・解体され、地方派閥は完全に消滅した。“法統”にも危うい問題があったが、蒋介石はわずかなスキをついてギリギリの神経戦を勝ち残った。党の改造があらかた終わると、その大鉈を振るっていたC・C派の陳兄弟を実質的にパージ、蒋介石による“領袖独裁”が確立される。それは、中華民国総統と国民党総裁という二つの職務を兼任することで、総統として国軍と特務機関(中共との対立→スパイの不安→蒋経国が指揮する特務機関の活動→党や軍も見張る)を掌握、総裁として党を通じて中央・地方の行政にも指導を貫徹させる体制であった。他方で、①自律的・技術的に政策立案を追求するテクノクラートの存在、②アメリカの目を気にして“憲政”の建前、③“法統”維持という建前から立法院を存続(大陸で選挙できないから改選なし→不逮捕特権があるため蒋介石も手出しできなかった。民意の反映という点でたとえ不完全な方法であっても、いったん選出されたら体制内部でダイナミズムを引き起こす潜在力を秘める。かつては強硬派であったC・C派が、党中央との対立を契機に民主化を求める体制内野党に転じたという政治力学が興味深い)、④外省人支配の体制ではあったが地方議会選挙では台湾の地域派閥と妥協、以上のように国民党独裁体制ではあっても後の民主化につながる初発条件を内在していたとも指摘される。

 日本との関わりも含めて蒋介石の生涯をたどるには、保阪正康『蒋介石』(文春新書、1999年)が読みやすいだろう。

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2009年11月16日 (月)

「母なる証明」

「母なる証明」

 若干の知的障害を持つ青年トジュン(ウォンビン)は母親(キム・ヘジャ)と二人暮らし。母は貧しい生活をやりくりしながらせっせと息子の世話を焼いている。ある晩、町で女子高生が殺され、事件発生時に近くを歩いていたトジュンが逮捕された。母は息子の冤罪を晴らそうと自分で事件を調べ始める。

 ──と書くと、肝っ玉母さんの熱血探偵物語みたいな感じかもしれないが、実はそんなに単純なストーリーではない。金をゆすりに来たトジュンの悪友は、事件の真相調査に協力しながらも「俺を含めて誰も信用してはいけない」と言う。拘置所に入れられたトジュンは失われた記憶を少しずつ取り戻していた。母が二度と思い出したくなかった、幼少時のある出来事も…。疑心暗鬼とストーリーのどんでん返しに緊張感があって、サスペンス・ドラマとして見ごたえがあった。

 真相を突き止めたとき、母はどうするか。邦題「母なる証明」の意味合いがそこにある。そして、彼女は“真犯人”の青年が孤児であったことを知る。殺された女子高生の家庭環境も悲惨で、二人は心を通い合わせていたであろうこともほのめかされる。“真犯人”の青年に母はいない。そして、母である彼女自身はトジュンを思うあまり何をしたのか。寒々とした野山の中、母が一人歩いていく姿を遠くから捉えたシーン、哀しげな表情で狂ったように一人踊り狂うシーンが時折挿入され、これらの映像から漂ってくる彼女自身のやるせない孤独感が印象的だった。

【データ】
監督・原案:ポン・ジュノ
2009年/韓国/129分
(2009年11月14日、新宿バルト9にて)

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2009年11月13日 (金)

辺境のガンディー、イスラムの非暴力主義

 アブドゥル・ガファル・カーン(Abdul Ghaffar Khan、1890~1988年)がガンディーと手を携えあって歩いている写真がある。並んで歩くと頭二つ分ほども突き抜けるような長身、その大木のようなごっつい体つきと彫りの深い顔立ちに顎ヒゲ。しかし、眼差しは穏やかに優しいというアンバランスに不思議な魅力がある。

 彼はパシュトゥン人、敬虔なムスリムである。イギリス領インド植民地の北西辺境州(North Western Frontier Province、現在はパキスタン)でガンディーに呼応して非暴力運動を展開したことから“辺境のガンディー”として知られている。清貧な生活態度と誠実な人柄で多くの人々から慕われ、ガンディーが“マハトマ”(偉大なる魂)と呼ばれたように、カーンも“バドシャー・カーン”(Badshah Khan)と呼ばれた。「王の中の王」という意味らしい。さしずめ「無冠の帝王」といったところか。もっとも、カーン自身は“辺境のガンディー”とか“バドシャー”と呼ばれるのを嫌がっていたらしいが。

 イスラムに対してある種の偏見を持たれてしまうこともある中、カーンのような人物がいたということが日本であまり知られていないのはちょっと残念な気がする。以下の記述は、Eknath Easwaran, Nonviolent Soldier of Islam: Badshah Khan, A Man to Match His Mountains(Nilgiri Press, 1999)を参照した。

 カーンはペシャワール郊外のウトマンザイ(Utmanzai)で裕福な地主の家に生まれた。イギリス人の経営するミッション・スクールを卒業後、イギリスの部隊に入隊(The Guides→案内兵?)。尚武の民として知られたパシュトゥン人にとってはエリートであり、カーンはイギリス人と対等にやっていけると期待に胸をふくらませていたが、現実はたちまち幻滅を招く。彼はすぐにやめた。イギリス人恩師からイギリス留学をすすめられてその気になったが、母親の頑強な反対にあって断念。先に兄のカーン・サヒーブ(Khan Saheb)が医学の勉強でイギリスに留学しており、向こうでイギリス人女性を結婚していた。「彼はもはやムスリムではない、もう一人の息子まで失いたくない」というのが母親の言い分だったようだ。

 若きカーンは懊悩の中でイスラムを学び始め、そして自分の民族のことを考えた。一方でイギリスから圧迫を受け、パシュトゥン人でも特権階層はそれに協力している。他方で、保守的なムラー(mullah)は民衆の貧困、無知、無気力、暴力、こういった状態を放置したままである。どうすればいいのか? まず教育から始めなければならない。カーンは自分で学校を始めたが、彼のリベラルな姿勢は植民地当局と保守的なムラーの双方から目の敵にされ、生徒も思うように集まらない。

 カーンは山奥で断食して祈り続けた。ある日の早朝、強い確信を彼は感じた。具体的に何をなすべきなのかはっきりとした形をとるわけではないのだが、心の奥底から沸き起こってくる強烈な何かに体を揺さぶられた。宗教的な召命体験、とまとめてしまうと無味乾燥かもしれないが、いずれにせよ、我が身を神に捧げるという揺ぎない確信に駆り立てられて彼は再び人々の中へと分け入っていく。ガンディーが南アフリカからインドへ帰国したのはちょうどその頃である。ガンディーの噂を聞いて、彼のシンプルな生活態度と、何よりも非暴力の主張から、カーンは自身の奥底では確信がありつつもぼんやりとしていた何かに響き合うものを感じ取った。自分のなすべきことを悟った彼は村から村へと歩いて説き続け、その話に共感した人々は彼を“バドシャー・カーン”と呼び始めた。

 彼の心情は宗教的なものだが、様々なくびきに縛られた人々を解き放つのが目的であり、そのためには近代的な改革が必要であった。教育、女性の地位向上、パシュトゥン人としてのプライドを取り戻すため自分たちの言語による新聞も発行した。

 パシュトゥン人は尚武の民としてイギリス人からも恐れられていたが、他方で“血の復讐”に象徴される荒々しさは野蛮だとして軽蔑もされていた。そもそも、そんな風習が続くようでは仲間同士の殺し合いはいつまでたっても終わらない。カーンはそれを無知のせいだと考えたが、同時にそのエートスとして、自己犠牲、忍耐強さ、勇気をも見出した。これらの美徳に如何に洗練された意味づけをするのか。カーンの答えが、非暴力主義である。彼は若者たちを集めて軍隊式に組織した。武器を持たぬ義勇軍、非暴力の戦士たち──“クダイ・キドゥマトゥガル”(Khudai Khidmatgar)、すなわち“神の僕”である。

 当時、インドでは塩の専売制が行なわれていた。自分たちの生活必需品を高い費用で買わなければならない不合理。いっそのこと、みんなでこの不当な法律を破ってやろう。1930年、ガンディーが始めた“塩の行進”にカーンとクダイ・キドゥマトゥガルも呼応した。イギリス軍の攻撃で多数の死傷者を出したが、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力主義を貫き通した。挑発すればのってくるだろうと高をくくっていたイギリス軍はこの“不気味さ”に驚き、インド中の人々は勇気を奮い起こした。カーンが逮捕されても、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力の方針から逸脱しなかった。そして、イギリスからの圧迫が強まれば強まるほど支持者は増えていった。

 イギリスと国民会議派との妥協によって釈放された政治犯の中にカーンや兄のサヒーブ(医者として帰国後、弟の運動に参加していた)の姿もあった。しかし、彼らは故郷へ戻ることを禁じられたため、ガンディーの家に滞在する。共に起居してチャルカをまわし、語らいあった数年間は“二人のガンディー”にとって実り多い日々だった。1937年に地方選挙が実施され、政治の嫌いなカーンに代わって兄のサヒーブが出馬、故郷に戻ることはできなかったにもかかわらず当選して北西辺境州の首相に選ばれた。二人とも再び故郷の土を踏むことができた。

 1947年、ようやく植民地支配の終わる日がやってきた。ただし、インドとパキスタンの分離独立という形で。ガンディーとカーンは二人とも分離には反対であった。やがてヒンドゥー教徒とムスリムとの対立感情が高まって暴動がおこり、二人は説得のため共に各地を回った。カーンの故郷でも緊張が高まっていたが、兄サヒーブの呼びかけでクダイ・キドゥマトゥガルが少数派であるヒンドゥー教徒とシーク教徒を保護したという。だが、分離独立は既定路線である。1948年にはガンディーが暗殺された。

 カーンの故郷である北西辺境州はパキスタンとなった。パシュトゥン人はパキスタンだけでなくアフガニスタンにも広がっている。カーンはすべてのパシュトゥン人が同じ国にまとまること、そして民主的な自治を求めていたため、反逆罪に問われて逮捕された。クダイ・キドゥマトゥガルも弾圧され、関係者はすべて州のポストからはずされた。以後、カーンは入獄・出獄を繰り返し、一時はアフガニスタンで亡命生活を送りながら、90歳を過ぎても一貫して主張を曲げなかった。

 1988年、カーンはペシャワールの病院で死去。当時、ソ連によるアフガニスタン侵攻をきっかけに内戦が始まっていたが、アフガニスタン領のジャララバードに埋葬して欲しいというカーンの遺志に従い、葬儀の日には休戦により国境が開放された。ただし、たった一日だけのことだったが。パキスタンの北西辺境州にあった難民キャンプにはすでにタリバンの種がまかれていたことは今さら言うまでもない。

 ヒンドゥー教とイスラム教についてガンディーはこう語っていた。「宗教は同じ場所に到達する別々の道です。私たち両者が別の道をとっているからといって、どうだというのです。残念に思うことがあるというのですか?」(『真の独立への道』田中敏雄訳、岩波文庫、63ページ)。また、出典を思い出せないのだが、ガンディーは「どんな宗教であっても真理を語っている。だから、キリスト教徒なら聖書を読めばいいし、ムスリムならコーランを読めばいい。私はヒンドゥー教徒だからバガバット・ギーターを読む」という趣旨のことも語っていたように記憶している。自分たち自身の伝統としてのイスラムの信仰を掘り下げることによってある種の普遍性を目指した実例という点でアブドゥル・ガファル・カーンという人は興味深いと思う。

 もう3,4年くらい前になるか、紀伊国屋セミナーのシンポジウムで中島岳志さんが「山の頂上は一つでも、そこに至る道はいくつもある。ナショナリティーを“多にして一”なるものと捉え返す視点としてガンディーや井筒俊彦に関心を持っている」という趣旨のことをアイデア程度ではあったが話しておられて感心したことがあった。中島さんならアブドゥル・ガファル・カーンについてどのように捉えるだろうかと興味を持ったのだが、最近はインド関係のことはあまりやってない様子ですね。

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2009年11月 9日 (月)

アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』

Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006

 虚栄心の強烈なベルギー王・レオポルド2世。大国の君主として振舞いたい彼は、その証しとして植民地が欲しかった。しかし、ベルギー議会は経費がかさむとして消極的である。レオポルドは地理学協会を設立して名士をそろえたほか、アフリカにおけるアラブの奴隷商人を批判、人道的な博愛主義者としての名声を高めようと努める(つまり、文明の福音→植民地の正当性という論理)。時あたかも列強による植民地分割競争が終盤にさしかかっており、レオポルドは焦っていた。

 そうした中、アフリカ探検で名をあげたスタンレー(Henry Morton Stanley)の存在を知る。イギリスで孤児として生まれ、アメリカで育った彼もまた極めて強い上昇志向の持ち主である。行方不明になったリヴィングストンを見つけ出したエピソードは有名だが、ジャーナリストとして出発したスタンレーは探検というイベントをいかに自己アピールに利用するかに腐心する巧みな演出家であった。

 レオポルドはスタンレーに接触して彼にコンゴでの領土拡張をまかせ、権謀術数を駆使して1885年のベルリン会議で列強にも認知させた。こうして虚栄心の強い二人によってでっち上げられたのが「コンゴ自由国」(Congo Free State, État indépendant du Congo)である。コンゴ国際協会の管轄という建前だが、実質的にはレオポルドの私有地という特異な植民地であった。

 当初は象牙が、後にはゴムがレオポルドの懐に莫大な富をもたらした。ところで、ゴムの樹液集めに原住民を動員するのだが、なかなか効率的に進まない。そこで、chicotteというムチに象徴される強制労働が実施された。“文明”なる偽善の裏にあった実態は残虐である。ベルギーの公安軍(Force Publique)は原住民の女性、子供、古老を人質にして、男たちに樹液集めを強制した。それでも言うことを聞かない村は見せしめのため焼き討ち、皆殺しにしてしまう。白人は現地で徴発した黒人兵に対して武器弾薬を支給するにも、くすねるのではないか、と猜疑心を持っており、一発ごとに証拠を要求した。どんな証拠か? ──殺した相手の右手である。エスカレートして、報酬目当てに生きている人間から右手を切り取るなどということも横行した。個別の殺戮ばかりでなく、構造的な収奪システムからもたらされた飢餓や疫病による死者は数え切れないほど膨大な数にのぼる。

 コンゴの惨状を最初に告発したのはアメリカの黒人でジャーナリスト・法律家・牧師であったジョージ・ワシントン・ウィリアムズ(George Washington Williams)である。黒人の新天地を求めてコンゴを訪れた彼だが、そのあまりに非人道的なあり様を目撃して、レオポルドへの公開書簡を公表。しかし、黒人への偏見のゆえであろう、注目を浴びることはなかった。ウィリアムズは失意のうちに早死にする。

 レオポルド批判の国際世論を巻き起こすのに大きな役割を果たしたのは、イギリス人・フランス人のハーフであったエドマンド・モレル(Edmund Dene Morel)とアイルランド人のロジャー・ケースメント(Roger Casement)である。モレルはコンゴ自由国の特許会社に勤めていたが、コンゴの実態を知って驚愕し、以後この問題に生涯をかけることになる。ちょうど同じ頃、イギリスのコンゴ駐在領事だったケースメントも現地をじかに歩いて実態を調査、本国に向けて報告し続けていた。モレルはケースメントと連絡を取り合いながらジャーナリズムや政治家に働きかけて、イギリス下院でコンゴ問題の調査を要求する決議が通った。レオポルドもロビー活動やマスコミの買収などで反撃に出たが、アメリカ国務省のコンゴ問題担当官に賄賂が渡っていたことが暴露され、その担当官は辞任、ルート国務長官はベルギーに圧力をかける方針を表明した。ベルギー議会も自国の国際的評判が落ちてしまうことに気をとがらせており、1908年、レオポルドはコンゴをベルギー政府に売却することに同意する。翌1909年にレオポルドは死去。彼の浪費癖は知れ渡っており、ベルギー国内でも悲しむ人はほとんどいなかったという。

 モレルの目的が必ずしも達成されたわけではないが、レオポルド個人の恣意的な収奪に比べれば、政府管理の方がまだ改善は期待できると考えた。しかしながら、植民地の実際はほとんど変わらなかったようである。両大戦で資源が必要とされたため強制労働はなくならなかったし、戦後も独立後も、世界経済に組み込まれた中で資源が一方的に流出する構造は続いた。長年にわたって独裁者として君臨したモブツの所業はレオポルドとほとんど同じであったことが指摘される。“レオポルドの亡霊”による呪縛はなかなか消えなかった。

 戦後、コンゴ(ザイール)に駐在したベルギー人外交官が、現地紙に掲載されたベルギーの植民地支配を糾弾する記事に反論しようと考えたのをきっかけに歴史を調べ始めたところ、自分が植民地支配の実際を知らなかったことに気づき愕然としたという話が印象的だ。勤務先である外務省保管の文書にアクセスしようにも拒否されたという。このような歴史の忘却というのも本書のテーマである。アフリカの無名の人々を描きたくても資料が存在しないためできなかったというもどかしさも著者はもらしている。

 そもそも、なぜコンゴだったのか? モレルやケースメントたちが活躍した時代においてベルギーは小国であり、イギリス・アメリカなどの一般大衆にとって“ヒューマニズム”あふれる正義感をぶつけるのに恰好な標的だったからではないのか?という疑問も本書では呈する。イギリスもアメリカも苛酷な植民地支配に手を染めていたにもかかわらず。

 本書を読みながら、ケースメントという人物に興味がひかれた。大英帝国の外交官だが、アイルランド人であるため不遇であった。コンゴ駐在領事の時の活躍は本書のハイライトの一つだが(この時にジョゼフ・コンラッドと知り合った)、その後、ブラジルに赴任、今度はプトゥマヨ(Putumayo)川流域での原住民迫害について憤りを込めて本国へ打電する。コンゴ、プトゥマヨと惨状を目の当たりにしているうちに、他ならぬ彼自身の故国アイルランドもまたイギリスの植民地下に置かれていることへの自覚を改めて強めた。白人か黒人かを問わず、被圧迫者として同列に捉える考え方は人種主義観念が強かった当時としては極めて稀なことであったろう。コンゴ問題の活躍が認められてナイトに叙されたものの、1913年に職を辞してからはアイルランド独立運動に身を投じる。義勇軍を組織し、翌1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アイルランド独立の約束を期待してドイツへ行き、武器調達のうえアイルランドへ戻ったところを逮捕された(アイルランドで戦うのが無理ならばエジプトへ行って戦うべきだとも考えていたらしい)。叛逆罪に問われ、1916年に処刑される。同情の声もあがったが、政府は彼がホモセクシュアルであることを意図的に暴露、当時にあってその不名誉は致命的だったようである。

 ケースメントの盟友だったモレルは対照的である。モレルは戦時下にあって、「これは自衛の戦争ではなく、秘密外交がもたらした無用の戦争である」と主張して反戦運動を展開、政府から弾圧を受けて投獄された。ウィルソンの14か条からもわかるように彼の主張が正しかったことが証明されて戦後は一躍脚光を浴び、労働党から下院議員選挙に出馬、対立候補のウィンストン・チャーチルを破って当選した。マクドナルド内閣の外相になるのではないかとも言われたが、無理がたたって体をこわしており、1924年に51歳で世を去る。

 本書の初版は1999年。アフリカ問題や植民地問題でよく言及される割に日本語訳はない。人物群像などもきちんと描きこまれていて歴史ノンフィクションとして読み応え十分だと思うのだが、アフリカ問題の本は日本では売れないからだろう。

 ちなみに、著者の名前にどこかで見覚えがあるなあと思っていたら、感情社会学のアーリー・R・ホックシールドは夫人らしい。『管理される心―─感情が商品になるとき』(石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年)も実は本棚にあるのだが、まだ読んでいない。

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2009年11月 8日 (日)

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』

ジョゼフ・コンラッド(黒原敏行訳)『闇の奥』(光文社古典新訳文庫、2009年)

 アフリカの象牙を扱う貿易会社に飛び込んだ冒険心旺盛な船乗りのマーロウ。コンゴの奥地で会社随一の成績をあげていたクルツからの連絡が途絶えたため、会社は彼の救出をマーロウに命じた。コンゴ河をさかのぼり、現地民の襲撃をかいくぐってたどり着いた先に見えてきた闇──。クルツは病に衰弱しながらも、カリスマ的な威信で現地民を従えて自分の“王国”を築き上げていた。

 コンラッド『闇の奥』は文学史ばかりでなく、フランシス・コッポラ監督「地獄の黙示録」の原案となったことでも知られている。ヴェトナム戦争に舞台を移したこの映画の有名なシーン、ワーグナー「ワルキューレの騎行」を大音響でがなり立てながらナパーム弾をぶちこみ、「朝のナパーム弾のにおいは最高だぜ!」と言い放つ姿に、コンゴでの白人による現地民殺戮という過去が重ね合わされているのは言うまでもないだろう。『闇の奥』は植民地支配の非人道性を告発した、いや、『闇の奥』という作品自体にも西欧側の偏見が込められている──様々な見解からポストコロニアルの議論の対象となり、両義的な性質を帯びた作品だと言える。たとえば、藤永茂『『闇の奥』の奥──コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』(三交社、2006年)は、『闇の奥』をめぐる議論を踏まえながら、その背景にある植民地収奪の歴史をたどっている。

 こうした話題は別にして、やはり目を引くのはクルツ(「地獄の黙示録」のカーツ大佐)という人物の存在感だ。西欧の価値観の通用しない密林の奥地(そうであればこそ、白人による野蛮な暴力がむき出しになったわけだ)、さ迷いこんだ人間を倒錯した熱狂に駆り立てるような、“文明”という虚飾のひき剥がされた孤独。もちろん、物理的な意味で一人ということではなく、精神的に世界のまっただ中で一人宙吊りにされたような不安感。そうした感覚が体現された、不可解な凄みの恐ろしさと言ったらいいのか。

 なお、『闇の奥』の描写にはコンラッド自身がコンゴへ行った時の実体験や見聞が反映されており、クルツも複数の実在の人物がモデルとなっているらしい(Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006, pp.144-146)。

 中野好夫訳の岩波文庫版で読んだことはあったが、新訳が出たので購入。光文社古典新訳文庫のラインナップは結構好きなので頑張ってもらいたいところ。

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本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』

本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』(講談社選書メチエ、2001年)

・1855年以降、インド高等文官の公開競争学力試験→試験による選抜によって地位を与える近代的メリトクラシーの先駆と言われている。オクスブリッジ出身者を優先的に採用したいという思惑に合わせた試験科目→社会的・知的背景を共有するイギリス人青年が主流(インド人も試験にパスするにはオクスブリッジ出身であることが有利→「王よりも王党的な」インド人)。スコットランド人、アイルランド人、インド人などは高等文官では少数→他の職域でのパーセンテージが大きい。
・本国の内閣でインド担当相は蔵相・外相に次ぐ格付けで、インド高等文官にも高いステータス。
・本書は、インド高等文官となった人々の出身背景、本国のイギリス人政治家・インド高等文官・インド人政治家という三者間の対抗・同盟力学、高等文官の生活誌などを分析。
・インド植民地は本国から実質的に自立した政治的・経済的単位となった→高等文官たちは、インド植民地とイギリス帝国全体、双方への忠誠心でバランスをとる→両大戦間期における帝国の危機、インド・ナショナリズムの高まりなどの新しい動向に対しても、インド統治継続のため政策的調整、インド統治再編成への志向。政治家なのか、官僚なのか?
・イギリス植民地統治の基本は土着権力者を利用した間接統治だったが、インド(藩王国を除く)ではイギリス人植民地官僚の直接統治→リーダーシップを有するジェネラリスト的管理者→退職後は民間セクターへ。
・インド・パキスタンが独立しても高等文官はシステム的にも人的にも継続性あり。

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2009年11月 7日 (土)

正木恒夫『植民地幻想──イギリス文学と非ヨーロッパ』

正木恒夫『植民地幻想──イギリス文学と非ヨーロッパ』(みすず書房、1995年)

 ポカホンタス、コロンブス、シェイクスピア『テンペスト』、ロビンソン・クルーソー物語、キャプテン・クック、コンラッド『闇の奥』、シャーロック・ホームズ──。日本でもよく知られたエピソードや文学作品を読み直しながら、ヨーロッパが異世界と出会ったときにどのような眼差しを向けてきたのかを再検討する。

 意図的かどうかはともかく、“野蛮”イメージ(とりわけ“食人種”に注目される)を作り上げたことによる、相手文化に対して振るった暴力の後ろめたさへの正当化、さらにはキリスト教もしくは近代化の“偉大さ”の勝利。こうした発想によって欧米の植民地支配が“文明の福音”という名目で美化されていたことは周知の通りである。逆に、ルソーをはじめとしてよく見られる“高貴なる野蛮人”も、自分たち自身を批判するために作り出された他者イメージであった、その意味では相手文化の実際など閑却されていたという点ではやはりヨーロッパ中心的な視点がはらまれていた。いずれにしても、ヨーロッパからの一方的な他者規定が意識の奥底まで根深く巣食っていた様子が文学作品の些細な一節からも浮き彫りにされてくる。

 こうした眼差しは日本にとっても他人事ではない。本書の糸口となる竹山道雄『ビルマの竪琴』に現われた食人種の話や新井白石がシドッチを通して得た世界認識などは歴史上の一エピソードにとどまるかもしれない。だが、日本は近代化が不徹底だったから“侵略国家”になったのではなく、むしろ近代化=西欧化を進めてきたからこそ植民地主義的な眼差しをも内面化してしまったのではないかという問題提起はよく考えてみる必要があるだろう。

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2009年11月 6日 (金)

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』(有志舎、2008年)

・イギリス帝国を視点の基軸に置きつつ、「帝国主義」をめぐる諸論点を考察。
・19世紀後半以降、「帝国」による世界分割。日本の登場は、この帝国主義世界体制をむしろ完成させた。
・帝国意識:民族・人種差別意識と大国主義的ナショナリズムの結び付き→「文明の使命」感。階級意識にかかわらず日常生活に見られた潜在的帝国意識を検討する必要。ナショナル・アイデンティティの強化という機能(1960年代以降、スコットランドやウェールズなどの「ナショナリズム」→国民国家が自明視できず→「イギリス人」統合の表象として「帝国意識」)。
・支配者側に多民族支配を当然視する意識がある一方で、被支配者側にも支配・従属を不思議に思わない依存意識・植民地意識が培養された(とりわけ文化面で)→政治的には独立してもこの点での脱植民地化が未完の課題として残った。また、経済構造の問題。
・他方で、旧支配者側に残った「大国意識」からの脱却も課題。イギリスの場合、ヨーロッパ統合に消極的となった原因。

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2009年11月 5日 (木)

ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』

ミハイル・バフチン(望月哲男・鈴木淳一訳)『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫、1995年)

 昔から気になってはいても敬遠してなかなか手がのびなかった本が色々とあるが、そうしたうちの一冊。先日、ピーター・バーク(原聖訳)『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、2009年)を読んでいたらミハイル・バフチンに言及されていたので思い出し、勇を鼓して読み始めたのだが、これがまた実に素晴らしい。

 “ポリフォニー”と“カーニバル”、二つのキーワードをもとにドストエフスキーの作品世界を読み解いていくという内容である。ドストエフスキーが何を言っているか、ではなく、どのように語っているか、つまり彼の作品の叙述構成そのものに思想としての迫力があることを鮮やかに示した着眼点が非常に面白い。ドストエフスキー評価という以前に、そのテクストを読み込んでいくバフチンの眼差し自体に思想としての説得力があって、久々に興奮しながら読み進めた。

「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。」…「ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独自性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。」…「作品構造の中で主人公の言葉は極度の自立性を持っている。それはあたかも作者の言葉と肩を並べる言葉としての響きを持ち、作者の言葉および同じく自立した価値を持つ他の主人公たちの言葉と独特な形で組み合わされるのである。」(15~16ページ)

「ドストエフスキーの世界は根本から多元的な世界である。もしかりにその世界が全体として志向しているようなイメージを、あえてドストエフスキー自身の世界観にそった形で求めるならば、それは互いに融合し合うことのない魂同士の交流の場としての教会、罪人も義人もともに集う教会であろう。あるいはおそらくダンテ風の世界──多次元性がそのまま永遠性につながり、悔いることなき者たちと悔いた者たち、罪人と救われた者たちがともに集う世界──であろう。」(55ページ)

 ドストエフスキーの小説世界に登場する人々にはすべて自律的なイデーがある、つまり自分らしさを持っている。ストーリー進行上の登場頻度という点では主役・脇役という配列が確かにあるかもしれない。しかし、彼ら一人ひとりの発する言葉には、その人でなければ言えないという必然性がある。ストーリー構成上のコマとして作者によって操られているのではなく、自分自身の言葉を語り始める彼らは時には作者の思惑をも超えた存在感を示す。すべての登場人物が主体的な意識を持っており、そうした複数の意識のありようを同時に描き分けることができたところにドストエフスキーの作り上げた小説世界の画期的な重要性があるのだとバフチンは指摘する。

 従来型の小説では作者が自らの意図なり思想なりを表現するという姿勢が打ち出されている。つまり、結論はすでに決まっており、話題をその方向へと流し込むための道具として登場人物は造型されている。作者の思想に反対するキャラクターは、反対する者という負の役割を担ってストーリーにメリハリをつけるために登場する。「モノローグ的世界では《第三の立場は許されていない》、つまり思想は肯定されるか否定されるかのいずれかしかない」(164ページ)。「モノローグ原理においては、イデオロギーが描写の結論すなわち意味上の総括の役割を果たしているために、描写された世界は不可避的に、その結論に対するもの言わぬ客体と化してしまう」(169ページ)。モノローグ型の小説があたかも一神教的な視点に基づき一方向的に世界を作ろうとしているものとたとえるならば、ドストエフスキーの場合には、そのように俯瞰する一元的な視点は最初から存在せず、多様な声がそれぞれ自律的に響き、相互に矛盾しながらも絡まり合っていくカオティックなありのままを小説世界において再現し得ているところに特徴がある。

「意識をモノローグ的に捉える姿勢は、思想的創造行為の別の分野でも支配的である。意義や価値を持つものはすべて唯一の中心、すなわちその担い手の周囲に集められる。あらゆるイデオロギー的創作は、一つの意識、一つの精神のあり得べき表現と考えられ、受け取られている。ある集団や、多種多様な創造力が問題となっている場合でさえも、例えば国民精神、民族精神、歴史精神といったような一つの意識の内に集め、単一のアクセントで縛ることが可能である。そしてそのようなまとまりに従わないものは、偶然的で非本質的なものとされるのだ。近代においてモノローグ原理が強化され、それが思想活動のあらゆる領域に浸透してきたことに力を貸したのは、単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパの合理主義、とりわけ啓蒙主義時代の思潮である。この時代に、ヨーロッパ散文文学の基本的なジャンルの諸形式が形成されたのである。西欧的ユートピア思想もすべてこのモノローグ原理に基礎を置いている。信念の万能性を信じたユートピア社会主義も、またその仲間であった。そしていつの世でも意味の同一性の表象とされるのは、単一の意識、単一の視点なのである。」(167~168ページ)

 理性中心の合理主義や啓蒙主義に淵源する西欧“近代”を文学というジャンルで体現していたのがモノローグ的な言説空間である。これに対して、ドストエフスキーが“ポリフォニー”を可能にすべく用意した舞台が“カーニバル”であった。それは、日常のヒエラルキーが崩され、常軌を逸した矛盾そのままに、あらゆる言葉が対等な立場で響き合う、そうした開かれた対話の空間である。

「カーニバル化は常に様々なジャンル、様々な閉じられた思想体系、様々な文体といったもの相互間のあらゆる障壁の撤去に力を発揮し、あらゆる閉鎖性や相互的な無視を一掃し、遠いものを接近させ、ばらばらなものを統合してきたのであり、そこにこそ文学史におけるカーニバル化の偉大な機能は存するのである」(270ページ)

「カーニバル化──それは出来合いの内容の上にかぶせる表面的な不動の図ではなく、芸術的なものの見方の非常に弾力性に富んだ形式なのであり、それまで見たことのない新しいものの発見を可能にする、一種の発見の原理なのである。交替と更新のパトスを伴ったカーニバル化は、表面的に堅固な、完成された、出来合いのものをすべて相対化し、ドストエフスキーに人間および人間関係の最深層をのぞき込ませたのである。」(335ページ)

カーニバル的形象においては「両極端が互いに出会い、互いを互いの中に見出し合い、反映し合い、知り合い、理解し合っている」。ドストエフスキーの「創作世界に生息するものはすべて、自らの対立物との境界線上に立っているのである。愛は憎悪との境界線上に生息し、憎悪を知り、理解しているのであり、一方憎悪は愛との境界線上に生息し、同じように愛を理解しているのである」。…「また信仰は無神論との境界線上に生息して、無神論の中に映る自分の姿を見、無神論を理解するのであり、一方無神論は信仰との境界線上に生息し、信仰を理解するのである。崇高や高潔は、堕落や卑劣との境界線上に生息している(ドミートリー・カラマーゾフ)。生に対する愛は自己消滅の欲望に隣接している(キリーロフ)。純粋無垢と賢智は背徳と肉欲を理解しているのである(アリョーシャ・カラマーゾフ)。」…「カーニバル化は、大きな対話の開かれた構造を作り出すことを可能にした。すなわち従来は主として単一かつ唯一のモノローグ的意識が、つまり(例えばロマン主義のおけるように)単一不可分で自己増殖的な精神が支配していた精神と知の領域の中に、人間の社会的な相互関係を持ち込むことを可能にしたのであった。カーニバル的世界感覚の助けがあればこそ、ドストエフスキーは倫理的および認識論的な独我論を克服できるのである。自分自身とのみ取り残された人間は、自らの精神生活のもっとも深奥の内面的な領域においてさえ、ものごとに決着をつけるということができず、他人の意識なしにはにっちもさっちもいかないのだ。人間は、自分自身の内側だけでは、けっして完全な充足を見出すことができないのである。」(354~356ページ)

 あらゆる登場人物が脇役ではなく自律性を備えた主体である、と言っても、それぞれが自己完結した単位であるかのようにイメージしてしまうと間違ってしまう。“自分”なるものの内部にも“他者”の視線が入り込み、その入り組んだ自己内分裂の自覚から言葉がにじみ出てくる。たとえば、『地下室の手記』の語り手についてこう述べられる。

「自分に対する他者の意識の支配から逃れ、自分自身のための自分自身にどうにかしてたどり着こうとする最終的で絶望的な試みとして、他者の内にある自分のイメージを破壊し、他者の内なる自分のイメージを汚染すること──これこそ、《地下室の人間》の告白全体の狙いである。だからこそ彼は故意に、その自分自身についての言葉を醜悪なものにしようとする。そして彼は、他者の目に(かつ、自分自身の目に)英雄として映りたいという、自分の内なる欲望をすべて抹消しようとするのである。」(478ページ)

 カーニバル的な対話空間は、こうした自己内分裂をも白日の下にさらけ出してしまう。そもそも、自分が一体何者なのか? 一つ一つの言葉が呼びかけ、呼びかけられ、相互応答する中ではいずりまわる。作者自身も上から目線で彼らを操るなどということはできず、同じ地平に巻き込まれて対等な立場で登場人物たちとの結論なき対話に応じ、さらには読者もまた、作者をも含めた彼らの呼びかけに向かって真摯に呼応せざるを得なくなる。そのような応酬で切り結ばれた言葉にこそ、読み手の肺腑をえぐり、不安に陥れるリアリティーがあった。

「主人公の対話に介入せず、中立的に、客観的にその完結した形象を紡ぎ出す当事者不在の言葉というものを、ドストエフスキーは知らない。人間の個性を総括してしまうような《当事者不在》の言葉というものが、彼の構想に入り込むことはないのである。自らの最後の言葉をもはや言いきってしまった確固とした、生気のない、完結した、返答のないものは何一つ、ドストエフスキーの世界には存在しないのである。」(525~526ページ)

 話はかわるが、私自身の基本的な関心事は、東アジア世界における日本の近代思想史を自分なりの視点で捉えてみたいというところにある。右翼とか左翼とか、保守派とか進歩派とか、体制派とか反体制派とか、そうやって画然と分類して、一方を是として他方を論難するような議論というのが昔から大嫌い。と言うか、肌に合わない。真摯な言葉であれば、その人がどんな立場にあろうともそう語らざるを得なかった必然性というのがやはりあるわけで、それぞれに多様な思想が互いに矛盾しつつも絡まり合って、総体として、それこそポリフォニーとして響き合っている、そうしたあり様を描き出した思想史があれば是非とも読んでみたいし、なければ出来得るならば自分自身で書いてみたい(言うまでもないが、教科書的にこんな思想があった、あんな思想もあったと無味乾燥に列挙するのとは次元が根本的に異なる)。バフチンを読みながらそんな気持ちに駆られたという次第。

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2009年11月 4日 (水)

酒井駒子『BとIとRとD』

酒井駒子『BとIとRとD』(白泉社、2009年)

 大人にとっては当たり前な日常の出来事とか、他愛のない夢とかに、いちいち驚いたり、おびえたりした幼稚園の頃。そうした感じやすさを連作エピソードにした絵本。酒井さんの絵の、黒い色調をベースに輪郭のぼやけたタッチ、そこから漂う独特に淡い感傷が好きで手に取った。ボール紙の風合いが黒と相性が良いとのことで、ボール紙に直接描かれた作品が多い。この絵本もボール紙を意識した装丁になっている。私が初めて酒井さんの絵を見て一目惚れしたのはworld’s end girlfriend「The Lie Lay Land」というCDのジャケットだったが、これもボール紙の風合いを強調したつくりになっていた。

 先日、台北に行った折、誠品書店信義店5階の絵本売場をのぞいたら、酒井さんの絵本の小コーナーが設けられていた。中国語訳も出ており、台湾でもファンは結構いるようだ。

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2009年11月 3日 (火)

ベネデット・クローチェ『思考としての歴史と行動としての歴史』

ベネデット・クローチェ(上村忠男訳)『思考としての歴史と行動としての歴史』(未來社、1988年)

・「あらゆる歴史的判断の根底に存在する実践的欲求は、あらゆる歴史に「現代史」としての性格を与える。というのも、そこに含まれている諸事実がたとえ年代的にどれほど古く見えようとも、それはつねに現在の欲求と状況とに関わっている歴史なのであり、それらの諸事実がその鼓動を伝えるのは現在の状況のなかにおいてであるからである。」…「わたしはそれらの歴史を文章にしてあるいは頭の中で書くことによって、わたしが現在置かれている状況の歴史を書いていることになるのである。」

・アーノルド・トインビーが、大学でトゥキュディデス『戦史』の講義をしていた時に第一次世界大戦の勃発を目の当たりにして、はじめてトュキュディデスの受けたであろう衝撃に思い至ったというエピソードを思い起こす。この体験が彼の比較文明論のきっかけになったというのは有名な話。

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2009年11月 2日 (月)

なぜポスコロに関心を持ったかというと

 なぜポストコロニアリズムに関心を持ったかというと、きっかけは『民俗台湾』について調べ始めたこと。戦後になって“大東亜共栄圏”イデオロギーや優生学などを批判するという観点から『民俗台湾』も取り上げられた(→詳細はこちらを参照のこと)。

 しかしながら、戦時下という時代風潮の中で雑誌を継続して出し続けるためには当局に迎合する発言もしなければならないし、むしろ『民俗台湾』の同人は皇民化政策には反対していた。ところが、戦後の研究者は誌面に現れた文字面だけを読む。当局の検閲を意識せざるを得なかった表現をとらえて、いわば揚げ足取りをするような形で、『民俗台湾』も植民地批判という議論の中に組み込まれていった。

 誤解しないで欲しいのだが、“植民地批判”そのものに異議を唱えているわけではない。私が言いたいのはそういうことではなくて、“植民地批判”の議論の枠組みそのものが、戦前とは異なる形ではあるが、戦後という一時代においてもまた学知的に制度化されている。その構造的に生硬な視点で過去を振り返ると、必然的に断罪の口調を帯びる。見方を変えれば、戦後の思考枠組みで戦中の思考枠組みを批判する形式になっており、そうした議論を進めるコマとして『民俗台湾』は利用されているに過ぎない。通史的な議論としてはそれなりに意義のあることだとは思うが、抽象化された図式対図式の議論の中では具体的に生きた人間像は欠落しており、『民俗台湾』同人の抱えざるを得なかった葛藤は無視されてしまう。コマとして使われただけの当事者としてはたまったものではない。

 日本の植民地支配下に置かれ皇民化政策が推進された台湾のマージナルな位置は、政治的にだけではなく意識形態においてもアイデンティティ抹消の危機に直面した点でポストコロニアルの議論に適合的であろう。学知的あり方の非対称性が抑圧的な権力を帯びてしまう問題を検討するポストコロニアリズムの視点からは、日本人学者=知的権力者、植民地民衆=被抑圧者、という図式が導き出され、とりわけ民族学・民俗学などは標的にされやすい。

 ところで、『民俗台湾』編集同人は、日本人でありつつも、抑圧の対象であった台湾文化を理解したいと思っていた。支配‐被支配という関係において日本人と台湾人との間に大きな壁が立ちはだかっていたのは確かである。ただ、彼らの主観的な善意も社会的構造に絡め取られてしまっては無力であった、所詮は自己満足に過ぎない、そう言ってしまうのは簡単だが、このような矛盾に直面していることを自覚していた点では、彼らもまた同様にマージナルな存在だったとも言える。たとえば『民俗台湾』同人だけでなく、朝鮮半島にとっての柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟なども含め、日本人でありながらも被支配者側の文化に共感を寄せた人々の位置付けはどう考えればいいのか。抑圧‐被抑圧という二元論的構図では奥行きをもって考えることはできない。

 三尾裕子「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐる従来の議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかけ、「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘していた。こうした観点に私も共感している。

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カルスタとかポスコロとか

 カルスタとかポスコロとか、あまり関心を払ってこなかったのでちょっとお勉強。

上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)
・登場の背景:バーミンガム大学現代文化研究センター。1980年代、労働者階級にとって不利なのにもかかわらずサッチャリズムへの支持。旧来型左翼の啓蒙的議論が有効性を失っていた→サッチャリズムによる政治的再編成に期待。むしろ、社会的に疎外されていた若者たちの怒りはレゲエやパンクロックに代弁されているとして支持された。
・大学においてディシプリンの自明視→知的生産の権力性→これを疑う。しかし、「黒人研究」「フェミニズム」「クィア・スタディーズ」といった学部を創設しても、アカデミズム内のゲットー化にすぎない。「カルチュラル・スタディーズとは「汚い」世界の問題をアカデミズムという「清潔な」空間に持ち込むこと」(スチュアート・ホール)
・コード化‐脱コード化:コードを受け止める側の階級・性別等の属性に応じて異なり、一方通行ではない→「読み」の多様性→均質的に想定された「大衆」など存在しない。
・サブカルチャー:高級文化でも大衆文化でもない、しかしそうなることもあり得る曖昧な文化領域→この動的かつ不安定なあり方に注意を払う。本質主義的な定義はなじまない。
・人種主義:対抗言説化すると、裏返しの人種主義として共犯関係に陥る危険。例えば、ムスリムの伝統を守るための分離教育は極右からも支持されてしまう。
・ポストコロニアリズム:知的構造の非対称性→権力性という観点でカルチュラル・スタディーズと共通。抑圧への抵抗だけでなく、政治性に注目するあまりにその文化の中にある「喜び」「楽しみ」といった自発的・自律的な側面を過小評価しないよう留意すべき。
・カルチュラル・スタディーズの制度が進む→既存のディシプリンと同種の一領域になりさがってしまうのではないか? マイノリティ・差別・貧困・暴力といった、もともとアクチュアルな関心からアカデミズムの動向とは関係なく取り組まれていたテーマが、一見ラディカルに見えても、アカデミズム内部だけで流通する知的商品になりさがっていないか?
・カルチュラル・スタディーズは、「わかりやすく」説明することではなく、日常生活の中で直面する不条理の「わからなさ」のありかをはっきりさせること。

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)
・歴史(正史)や文学(正典)の見直し、その中でオミットされてきた記憶をどのように聞き取るかという問題意識。
・他所を一方的に野蛮化して否定する論理→その生成の具体例として「食人種」。
・フランツ・ファノン。
・エドワード・サイード。
・ガヤトリ・スピヴァク:戦略的本質主義(「弱者」という性質をいったん「本質」と認めることで抵抗の糸口とする。その「本質」を共有することで他者と連帯)。「知る」者自身の特権性を自覚→「学び捨てる」。(※G・C・スピヴァク[上村忠男訳]『サバルタンは語ることができるか』[みすず書房、1998年]は去年読んだのを思い出した→こちら

ロバート・J・C・ヤング(本橋哲也訳)『1冊でわかる ポストコロニアリズム』(岩波書店、2005年)
・様々な国や地域の様々な具体例やテーマをパッチワークしながら、ポストコロニアリズムの大枠としてのイメージを浮かび上がらせていく構成。
・「理論」を打ち出してしまうと、それによってまた別の問題が新たに排除・生成してしまう。多様な営みをいかにそれぞれに適切なやり方で把握していくかというところにポストコロニアリズムの問題意識があるわけで、そうした性格に合った叙述方法をとっている点でなかなか良い本だと思う。

※「理論」(=上から目線)で裁断される以前の、いまここで具体的に生きられている生身の問題を把握→解決につなげていこうという姿勢はまっとうなのに、これが日本のアカデミズムを通して提示されると「よそよそしい」のは一体どうしてだろう? そのあたりの違和感の一つは李建志『朝鮮近代文学とナショナリズム──「抵抗のナショナリズム」批判』(作品社、2007年)、『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房、2008年)で吐露されており、興味深く読んだ(→こちら)。

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2009年11月 1日 (日)

平野千果子『フランス植民地主義の歴史──奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』

平野千果子『フランス植民地主義の歴史──奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』(人文書院、2002年)

・フランス人権宣言→当初は植民地に適用されず。
・植民地の領有と奴隷制とは別物、悪いのは後者だと考えていた。
・フランス革命の最中、サン=ドマング(ハイチ)で奴隷の反乱→白人植民者はイギリスと同盟→革命政府は奴隷制廃止で植民地の確保を図る→しかし、ナポレオンが奴隷制復活→ハイチは独立→フランスには、奴隷制廃止=植民地崩壊という強迫観念。
・1848年の二月革命→奴隷制の廃止=“文明化”(自由・平等の共和主義が共和国フランスへの同化を意味するようになる)。シュルシェール「王政は奴隷にしたが、共和国は自由にする」→革命の理念と“文明化”言説が結び付く。他方で、アルジェリアには奴隷制があった→やめさせるのも“文明化”→アルジェリア征服を正当化。同化政策を明確に表明。限定条件付で植民地に参政権を与えたが、差別は残る。
・19世紀は“進歩”の時代→植民地拡張という形で「外の文明化」、貧困層も含めて公教育→「内の文明化」が同時進行。
・フランスは革命の国、人権の国である“にもかかわらず”植民地支配をしたのではなく、むしろ革命の理念こそが“文明化”という形で植民地支配を正当化した。

・混血児イスマイル・ユルバンのアイデンティティをめぐる葛藤。

・第三共和制のジュール・フェリー首相:脱カトリックの教育改革→共和主義的国民意識の形成。人種主義的な風潮の中、フランスが「野蛮で」「劣った」民族を「教化する」ことが“文明化”→植民地拡張を正当化。これは共和主義者が推進。
・保守派は経費負担の重さから植民地に反対し、むしろアルザス・ロレーヌ奪還を優先すべきと主張。しかし、1890年前後以降、劣勢にあったため保守派も共和政を受け入れてから、植民地拡張に賛成。
・“文明化”言説の重層性:共和主義者が掲げる革命の理念だけでなく、保守派のキリスト教化という理念も許容された。

・戦間期には植民地の領有は自明視。第一次世界大戦で植民地の有用性が確認された。
・ブルム・ヴィオレット法案:植民地の権利面での同化を認める法案だが、アルジェリア入植者階層の反対で廃案(権利の同化→支配関係が崩れてしまう)。この法案の背景として、アルジェリアの民族運動家は独立よりも政治的地位の向上を優先させていた。当初、アルジェリアではフランス市民権を得るにはイスラムの棄教が条件とされていたが、その条件なしの同化を目指す→フランス市民になりつつも、文化的拠り所は維持したいという思い。提案者ヴィオレットの発言「アルジェリア『原住民』には、まだ祖国がない。彼らは祖国を求めている。フランスという祖国を求めているのだ。速やかにそれを与えよ。さもないと、彼らは別の祖国を作るだろう」。
・アンドレ・ジイドは改良主義的→植民地の白人による過酷な支配形態を批判はしたが、植民地支配そのものを批判したわけではない。他方で、フェリシヤン・シャレは植民地の解放を主張(ただし、彼は第二次世界大戦で対独協力を容認した経緯があるため、戦後は忘却された)。
・フランスで自由と平等を学んだ留学生がこの矛盾に気付いた、つまり民族解放の理念を学んだのはフランスにおいてであったという言い方にはフランス中心の偏りがないか?と指摘。そうでないケースとして、ファン・ボイ・チャウを例示。
・セネガルのブレーズ・ディアニュは、兵役=「血の税金」こそが完全同化への道だと主張。ただし、アフリカは自前の国家を持つ前に植民地化された→従属から脱する方法としてまず支配者と対等の立場を目指したという側面が強い。

・第二次世界大戦で、ヴィシー政権とドゴール派のそれぞれが植民地に自分側につくよう働きかけ→カリブ海出身でチャド総督のフェリックス・エブエの主導でアフリカ植民地はドゴール派についた→コンゴのブラザヴィルが自由フランスの首都。対独抵抗運動の基盤としての植民地の存在。
・戦後の植民地は、フランスの外交方針としての“大国意識”に翻弄され、“文明化”言説とは関係ない。
・「フランス連合」から「共同体」への再編:植民地の自発的意志により、不参加は独立という建前だが、独立を選んだ場合には経済援助なし。
・フランスの植民地支配が日本のそれよりも批判を受けていないのはなぜか? 日本の場合にはスローガンに天皇制→フランスが(現実はともかく)掲げた理念の普遍性がなかった。ただし、フランスは、その掲げた普遍性が植民地主義の免罪符として作用、かえって植民地支配の問題点を自ら問い直す契機がなかったとも言える。
・被植民地側にも“オクシデンタリズム”の問題。ヨーロッパ文明への憧憬から、フランスを価値序列の上位に位置付け、社会的ステータス上昇のため自ら進んで“同化”を目指したという側面も指摘され得る。
・被植民地側の特徴として“クレオール”、つまり複数意識を肯定する考え方→これに対して、“ネグりチュード”の問題。“クレオール”的な複数意識の中から黒人としてのアイデンティティのみを抽出・単一化させて(それもまた虚構であっても)植民地主義へのアンチテーゼにしてしまう志向性。

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