アブドゥル・ガファル・カーン(Abdul Ghaffar Khan、1890~1988年)がガンディーと手を携えあって歩いている写真がある。並んで歩くと頭二つ分ほども突き抜けるような長身、その大木のようなごっつい体つきと彫りの深い顔立ちに顎ヒゲ。しかし、眼差しは穏やかに優しいというアンバランスに不思議な魅力がある。
彼はパシュトゥン人、敬虔なムスリムである。イギリス領インド植民地の北西辺境州(North Western Frontier Province、現在はパキスタン)でガンディーに呼応して非暴力運動を展開したことから“辺境のガンディー”として知られている。清貧な生活態度と誠実な人柄で多くの人々から慕われ、ガンディーが“マハトマ”(偉大なる魂)と呼ばれたように、カーンも“バドシャー・カーン”(Badshah Khan)と呼ばれた。「王の中の王」という意味らしい。さしずめ「無冠の帝王」といったところか。もっとも、カーン自身は“辺境のガンディー”とか“バドシャー”と呼ばれるのを嫌がっていたらしいが。
イスラムに対してある種の偏見を持たれてしまうこともある中、カーンのような人物がいたということが日本であまり知られていないのはちょっと残念な気がする。以下の記述は、Eknath Easwaran, Nonviolent Soldier of Islam: Badshah Khan, A Man to Match His Mountains(Nilgiri Press, 1999)を参照した。
カーンはペシャワール郊外のウトマンザイ(Utmanzai)で裕福な地主の家に生まれた。イギリス人の経営するミッション・スクールを卒業後、イギリスの部隊に入隊(The Guides→案内兵?)。尚武の民として知られたパシュトゥン人にとってはエリートであり、カーンはイギリス人と対等にやっていけると期待に胸をふくらませていたが、現実はたちまち幻滅を招く。彼はすぐにやめた。イギリス人恩師からイギリス留学をすすめられてその気になったが、母親の頑強な反対にあって断念。先に兄のカーン・サヒーブ(Khan Saheb)が医学の勉強でイギリスに留学しており、向こうでイギリス人女性を結婚していた。「彼はもはやムスリムではない、もう一人の息子まで失いたくない」というのが母親の言い分だったようだ。
若きカーンは懊悩の中でイスラムを学び始め、そして自分の民族のことを考えた。一方でイギリスから圧迫を受け、パシュトゥン人でも特権階層はそれに協力している。他方で、保守的なムラー(mullah)は民衆の貧困、無知、無気力、暴力、こういった状態を放置したままである。どうすればいいのか? まず教育から始めなければならない。カーンは自分で学校を始めたが、彼のリベラルな姿勢は植民地当局と保守的なムラーの双方から目の敵にされ、生徒も思うように集まらない。
カーンは山奥で断食して祈り続けた。ある日の早朝、強い確信を彼は感じた。具体的に何をなすべきなのかはっきりとした形をとるわけではないのだが、心の奥底から沸き起こってくる強烈な何かに体を揺さぶられた。宗教的な召命体験、とまとめてしまうと無味乾燥かもしれないが、いずれにせよ、我が身を神に捧げるという揺ぎない確信に駆り立てられて彼は再び人々の中へと分け入っていく。ガンディーが南アフリカからインドへ帰国したのはちょうどその頃である。ガンディーの噂を聞いて、彼のシンプルな生活態度と、何よりも非暴力の主張から、カーンは自身の奥底では確信がありつつもぼんやりとしていた何かに響き合うものを感じ取った。自分のなすべきことを悟った彼は村から村へと歩いて説き続け、その話に共感した人々は彼を“バドシャー・カーン”と呼び始めた。
彼の心情は宗教的なものだが、様々なくびきに縛られた人々を解き放つのが目的であり、そのためには近代的な改革が必要であった。教育、女性の地位向上、パシュトゥン人としてのプライドを取り戻すため自分たちの言語による新聞も発行した。
パシュトゥン人は尚武の民としてイギリス人からも恐れられていたが、他方で“血の復讐”に象徴される荒々しさは野蛮だとして軽蔑もされていた。そもそも、そんな風習が続くようでは仲間同士の殺し合いはいつまでたっても終わらない。カーンはそれを無知のせいだと考えたが、同時にそのエートスとして、自己犠牲、忍耐強さ、勇気をも見出した。これらの美徳に如何に洗練された意味づけをするのか。カーンの答えが、非暴力主義である。彼は若者たちを集めて軍隊式に組織した。武器を持たぬ義勇軍、非暴力の戦士たち──“クダイ・キドゥマトゥガル”(Khudai Khidmatgar)、すなわち“神の僕”である。
当時、インドでは塩の専売制が行なわれていた。自分たちの生活必需品を高い費用で買わなければならない不合理。いっそのこと、みんなでこの不当な法律を破ってやろう。1930年、ガンディーが始めた“塩の行進”にカーンとクダイ・キドゥマトゥガルも呼応した。イギリス軍の攻撃で多数の死傷者を出したが、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力主義を貫き通した。挑発すればのってくるだろうと高をくくっていたイギリス軍はこの“不気味さ”に驚き、インド中の人々は勇気を奮い起こした。カーンが逮捕されても、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力の方針から逸脱しなかった。そして、イギリスからの圧迫が強まれば強まるほど支持者は増えていった。
イギリスと国民会議派との妥協によって釈放された政治犯の中にカーンや兄のサヒーブ(医者として帰国後、弟の運動に参加していた)の姿もあった。しかし、彼らは故郷へ戻ることを禁じられたため、ガンディーの家に滞在する。共に起居してチャルカをまわし、語らいあった数年間は“二人のガンディー”にとって実り多い日々だった。1937年に地方選挙が実施され、政治の嫌いなカーンに代わって兄のサヒーブが出馬、故郷に戻ることはできなかったにもかかわらず当選して北西辺境州の首相に選ばれた。二人とも再び故郷の土を踏むことができた。
1947年、ようやく植民地支配の終わる日がやってきた。ただし、インドとパキスタンの分離独立という形で。ガンディーとカーンは二人とも分離には反対であった。やがてヒンドゥー教徒とムスリムとの対立感情が高まって暴動がおこり、二人は説得のため共に各地を回った。カーンの故郷でも緊張が高まっていたが、兄サヒーブの呼びかけでクダイ・キドゥマトゥガルが少数派であるヒンドゥー教徒とシーク教徒を保護したという。だが、分離独立は既定路線である。1948年にはガンディーが暗殺された。
カーンの故郷である北西辺境州はパキスタンとなった。パシュトゥン人はパキスタンだけでなくアフガニスタンにも広がっている。カーンはすべてのパシュトゥン人が同じ国にまとまること、そして民主的な自治を求めていたため、反逆罪に問われて逮捕された。クダイ・キドゥマトゥガルも弾圧され、関係者はすべて州のポストからはずされた。以後、カーンは入獄・出獄を繰り返し、一時はアフガニスタンで亡命生活を送りながら、90歳を過ぎても一貫して主張を曲げなかった。
1988年、カーンはペシャワールの病院で死去。当時、ソ連によるアフガニスタン侵攻をきっかけに内戦が始まっていたが、アフガニスタン領のジャララバードに埋葬して欲しいというカーンの遺志に従い、葬儀の日には休戦により国境が開放された。ただし、たった一日だけのことだったが。パキスタンの北西辺境州にあった難民キャンプにはすでにタリバンの種がまかれていたことは今さら言うまでもない。
ヒンドゥー教とイスラム教についてガンディーはこう語っていた。「宗教は同じ場所に到達する別々の道です。私たち両者が別の道をとっているからといって、どうだというのです。残念に思うことがあるというのですか?」(『真の独立への道』田中敏雄訳、岩波文庫、63ページ)。また、出典を思い出せないのだが、ガンディーは「どんな宗教であっても真理を語っている。だから、キリスト教徒なら聖書を読めばいいし、ムスリムならコーランを読めばいい。私はヒンドゥー教徒だからバガバット・ギーターを読む」という趣旨のことも語っていたように記憶している。自分たち自身の伝統としてのイスラムの信仰を掘り下げることによってある種の普遍性を目指した実例という点でアブドゥル・ガファル・カーンという人は興味深いと思う。
もう3,4年くらい前になるか、紀伊国屋セミナーのシンポジウムで中島岳志さんが「山の頂上は一つでも、そこに至る道はいくつもある。ナショナリティーを“多にして一”なるものと捉え返す視点としてガンディーや井筒俊彦に関心を持っている」という趣旨のことをアイデア程度ではあったが話しておられて感心したことがあった。中島さんならアブドゥル・ガファル・カーンについてどのように捉えるだろうかと興味を持ったのだが、最近はインド関係のことはあまりやってない様子ですね。
最近のコメント