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2009年10月27日 (火)

レオ・T・S・チン『“日本人”化:植民地期台湾とアイデンティティ形成の政治』

Leo T. S. Ching, Becoming “Japanese”: Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formation, University of California Press, 2001

・日本の帝国主義が西欧のそれとは異なる特徴:①資本なき帝国主義。つまり、資本主義の発展段階として捉えるマルクス主義理論はあてはまらず、むしろ西欧との競争に動機付けられた側面が強い。②同じ“アジア”としての近さ。ただし、西欧との相違をあまり強調しすぎると、帝国主義としての支配形態における共通の部分が見過ごされてしまう。

・脱植民地化過程における日本人の不在:日本は敗戦によって領土を喪失したため、英・仏のように植民地独立→脱植民地化の過程を自分たちの問題として考える機会がなかった。

・植民地期台湾における民族意識:中国(大陸における民族主義の動向)、日本(植民地当局の態度)、政治思潮(リベラリズム、マルクス主義等)、運動者自身の階級的意識(郷紳層か、労働者か、総督府に妥協的か抵抗的か)などといった所与の様々な構造・要因の組み合わせによって関係依存的→条件に応じて可変的な性格を持つ→本質主義に還元し得るものではない(中国民族主義も、台湾民族主義も、それぞれ態度は異なって見えるが、民族意識を本質主義的に捉える傾向が強く、両者を批判する視点)。

・蒋渭水の発言を引用→中国人意識を持つと同時に、それは日本の植民地社会における台湾という特殊性をも意味していることを指摘→こうした意識のあり方は、自民族・他民族の二元論では捉えられない。

・“同化”と“皇民化”との相違を本書は強調:建前では内地延長主義という名目で同じ日本国民であることを標榜しつつも、実際には台湾人は差別待遇を受けており、“同化”は、差別を残したまま“日本人”になることを強要するという矛盾を覆い隠すイデオロギーとして作用した。この段階では、台湾人を“日本人”にすることは植民地当局の政策上の責任であり、そうした施策に直面して台湾人の心中には葛藤。いいかれば、複数のアイデンティティを引きずり、それらが両立していることから葛藤があった。対して、“皇民化”は、こうした複数のアイデンティティの葛藤そのものを打ち消し、“日本人”意識への単一化。この内面化は、被植民者自身によって行なわれた。身体的儀礼を通した規律も指摘される。何よりも、戦争が激化するにつれて、「日本人として生きる」のではなく「日本人として死ぬ」ことが強調された。“日本人”になることで現実の差別は克服されるという意識(とりわけ、植民地ヒエラルキーにおいて最下層に位置付けられた原住民系にこうした思いが強かった)。植民地下において、日本人か台湾人か→“皇民”、こうした形でアイデンティティ形成におけるアンビヴァレンスそのものを打ち消し、単一化を図られたところに、“皇民化”イデオロギーの植民地的抑圧を指摘。

・霧社事件をきっかけに原住民の問題が注目を浴びる→彼らに同情的な見解にも“野蛮”‐“文明”の二元的言説が表われていることを指摘。
・「呉鳳の物語」と「サヨンの鐘」:「呉鳳の物語」は、原住民=“野蛮”→日本人と漢族系を読み手として想定。対して、「サヨンの鐘」では原住民少女の犠牲的精神→漢族か原住民かは問わず、等しく太平洋戦争へ動員されていく時代背景。

・最終章では、主体の内面における葛藤というだけでなく外的・時系列的な影響で左右される様をうかがうため、呉濁流『アジアの孤児』を取り上げ、台湾・日本・中国大陸と空間的に渡り歩くところから、民族主義・植民地主義の境界を越えていく生身の動きを読み取ろうとする。

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